立命館法学 一九九六年一号(二四五号) D・ヘルドのコスモポリタン民主主義論 田口 富久治 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1 ディヴィド・ヘルドは、現在イギリスでもっとも注目されている政治理論家の一人である。ケムブリッジ大学で政治理論と社会学を学んだが、そのさい、同大学の社会学教授、A・ギデンズの研究グループに属していたようである。もちろんケムブリッジには、政治理論の分野では、Q・スキナーとJ・ダンという二人のすぐれた政治思想史家・政治理論家(ともに教授)がおり、彼らとの学問的交渉があった(ある)こともほぼ確実である。ケムブリッジからオープン・ユニバーシティに移り、上級講師を経て、現に政治および社会学の教授のポストにある。 本稿の主要目的は、ヘルドの民主主義理論の集大成である最近の大著、『民主主義とグローバル秩序−近代国家からコスモポリタン・ガヴァナンスへ』(Democracy and the Global OrderーForm the Modern State to Cosmopolitan Governanceー, Polity Press, 1995)の紹介と理論的評価にあるので、そこに流れ込んできている先行の主要諸業績については、この大著との関連に注意を払いながら、手短かに紹介・コメントするに止める。 ヘルドの最初の単著は、『批判理論序説−ホルクハイマーからハーバーマスへ』(一九八〇年)であるが、筆者は未見である。ただ一九七〇年代には、英米学界においてハーバーマスがよく読まれ、その主要著作の英訳もはじめられ、ギデンズのサークルにおいても、彼の労作が真剣な検討の対象とされていたようなので、ヘルドが批判理論、とくにハーバーマスの研究から学問的経歴をはじめたのはある意味で自然なことであったろう。ヘルドのその後の民主主義論の研究においても、ギデンズと並んで、ハーバーマス(そして彼の弟子のオッフェ)、およびダールの影響が大きいようである。 ヘルドが民主主義に関する政治理論家としていちやく国際的に注目されるようになったのは、その二冊目の単著、『民主主義の諸モデル』(一九八七年)においてであった。この書物は、カナダの政治思想史家、故C・B・マクファーソンの『自由民主主義の生涯と時代』(邦訳は田口訳『自由民主主義は生き残れるか』岩波新書、一九七八年。原本一九七七年)における、近代民主主義の四つのモデル、すなわち、モデル1 防禦的民主主義(ベンサム、ジェームズ・ミル)、モデル2 発展的民主主義(J・S・ミル)、モデル3 均衡的民主主義(シュムペーター、ダール等)、モデル4 参加民主主義、にヒントを得、それを歴史的に拡大して、八つのモデルとして再定式化し(図1参照)、さらにこれらの批判的評価の上に、九番目のモデルとして彼自身の「民主的自律」というそれを提起してものである(表1参照)。
すべての市民にたいして「平等の自律性」の不可欠性を認める、この「自律の原理」とは、ヘルドの民主主義論の中核観念の一つであり、その後の諸著作、とくに『民主主義とグローバル秩序』において再説される。詳細は後に譲るが、ここであらかじめ一言しておけば、ヘルドが「民主的自律」のモデルを提起したのは、時代状況的には当時の東欧(ポーランド等)の民主化の問題状況に促迫されて、国家の民主化と市民社会の民主化とを分離せず、それらの密接な相互促進的関連を考えていく必要を痛感したからであり、さらに近代政治理論のより原理的な問題として、リベラリズムとデモクラシー、より詳しくは、リベラルな諸価値とルソー的な人民主権論(ラディカル・デモクラシー論)のジレンマないし矛盾の解決を指向したからなのである。 ヘルドの三冊目の単著、『政治理論と近代国家』(一九八九年)は、その副題、「国家、権力、民主主義に関するエッセイ集」に示されているように、近代国家の諸観念(第一論文)、現代国家諸理論(第二論文)、権力と正統性の諸問題(第三・第四論文)、民主主義的理念の新形態(第五・第六論文。すなわち「民主的自律」のモデル。これを彼は「自由社会主義」‘liveral socialism’ ともいっている)、市民権と社会運動(第七論文)、現代グローバル・システムにおける公共政策の方向と主権の命運(第八論文)などについて論じた論文集である。この書物の基本的問題意識は、前著ともちろん変っていないが、その序論において、ヘルドの政治観−すなわち、実践活動としての政治、ディシプリンとしての政治、そして政治理論の、それぞれの性質についての見方−が簡潔に示されていること、そして第八論文「主権、国家政治(National Politics)、グローバル・システム」において、主権観念が学説史的に跡られているだけではなく、それがグローバル・システムの性格と構造から数々の挑戦を受けていることに言及し、国民国家を引照枠組とする一国政治学の限界を強調している点に注目したい。とくにこの後者の指摘は、『民主主義とグローバル秩序』における「コスモポリタン・デモクラシー」の構想につながっていくことになる。 以上の業績によって、多分一九九〇年にオープン・ユニバーシティの教授となったヘルドは、一九九〇年代に入ってやつぎばやにいくつかの書物を編集し、それらに寄稿しているが、これらの諸論文は、『民主主義とグローバル秩序』(以下、九五年本と省略)に加筆修正の上で収録されている。 それらの照応関係は、以下の通りである。 ヘルド編『今日の政治理論』(一九九一年)所収のヘルド論文「民主主義、国民国家、グローバル・システム」は、九五年本の第五、第六章を構成。 S・ホール、B・ギーベン編『近代性の形成』(一九九二年)所収のヘルド論文「近代国家の発展」は、九五年本の第二、第三章を構成。 ヘルド編『民主主義の諸展望−北、南、東、西−』(一九九三年)の第一部序論1「民主主義−都市国家からコスモポリタンな秩序へ」(ヘルド)は、九五年本の第一、第四章を構成。 なお、以上の他に、ヘルドは、S・ホール、D・ヘルド、T・マクグリュー編『近代性とその将来』(一九九二年)の1「リベラルズム、マルクス主義、デモクラシー」を執筆しており、またD・アルチブギ(イタリア国立研究評議会)との共編著『コスモポリタン・デモクラシー』(一九九五年)に、4「民主主義と新国際秩序」(邦訳『レヴァィアサン』臨時増刊(一九九六冬)を寄稿している。 したがって九〇年代前半のヘルドの主要な論稿は、そのほとんどが、九五年本に組みこまれ、九五年本の前年(第一部、第二部、章別では、第一章−第六章)を構成しているといってよい。そして九五年本の後半部分、すなわち、第三部と第四部(章別では七章−一二章)が、この本のために新たに書き下された部分であるといってよかろう。次節以下における九五年本の紹介においては、その後半部に重点を置くことにしたい。 2 最初に『民主主義とグローバル秩序』の全体的構成を知るために、その目次を見ることにしよう。 第一部 序論 1 新旧民主主義の諸物語 第二部 分析。近代国家の形成と転置〔地位の移動〕 2 主権の出現と近代国家 3 国民国家の発展と民主主義の確立 4 国家間システム 5 民主主義、国民国家、グローバル秩序 I 6 同右 II 第三部 再構成。民主主義の諸基礎 7 民主主義再考 8 権力の諸々の場(サイト)、民主主義の問題 9 民主主義と民主的善 第四部 精緻化と提唱。コスモポリタン民主主義 10 政治的共同社会とコスモポリタン秩序 11 市場、私的所有とコスモポリタン的民主法 12 コスモポリタン民主主義と新国際秩序 右の目次からもうかがえるように、本書がねらいとしていることはつぎのようなことである。すなわち、グローバル化の進行とそれにともなう多様な社会的・経済的権力の場(サイト)の出現によって、近代主権国家、とくに近代国民国家とその国際システムが重大な挑戦を受け、変容を余儀なくされ、それとともに一国規模に限定された伝統的な民主政の理論と実践がその限界をあらわにしつつある現況において、グローバルな規模での民主主義の新構想−「民主主義のコスモポリタン・モデル」−を提起し、樹立することである。やや別様に表現すれば、『民主主義の諸モデル』で提示された「民主的自律」モデルの地球大の秩序モデルへの拡大が目指されているといってよい。このようなねらいをもってこの本は四部から構成されているが、第一部(第一章)では、伝統的な民主主義の諸理解が評価され、第二部(第二章−第六章)では、国家間システムと世界経済の文脈における近代国民国家の興隆と転置(地位の移動)が跡づけられる。第三部(第七章−第九章)では、民主政と民主制国家の理論的諸基礎と、それらが二一世紀においてその重要性を保持するために蒙らざるをえないであろう深甚な変化が解明される。そして最後の第四部(第十章−第十二章)では、新世界秩序のための民主主義の新しい概念として、民主主義のコスモポリタン・モデルが提唱されているのである。 以下、この順序で見ていくが、第一部、第二部については、さきに断ったように、注目すべき問題提起や論点についてのみ言及する。 第一部序論=第一章「新旧民主主義の物語」では、三つの問題が扱われている。すなわち1ー1では、民主主義の諸モデルとして、古典古代における直接ないし参加民主主義モデル、自由主義的ないし代表民主主義のモデル、マルクス主義的な一党民主主義のモデルがとりあげられる。そしてこれらの批判的吟味の上で、今日、民主主義の固有の意味の擁護可能な説明は、いくつかの自由主義的および自由民主主義的箇条の重要性を承認しなければならないとして、((1))公権力の「没人格的」構造、((2))諸権利の保護を助ける憲法、((3))国家の内部と外部における権力センターの多様性(それには代替的な政治的見解や綱領間の公開の討論・審議を促進するためのフォーラムが含まれる)、の中心性が指摘される。しかしながら今日では、民主主義の諸問題は、国家の境界を越えて拡がっている。すなわち、続く1ー2「民主主義、グローバル化、国際的ガヴァナンス」で論じられるように、地域的および地球大の相互連結性が飛躍的に発展した結果、政治的意思決定者とその受け手との「均斉的」で「一致した」関係はもはや想定しえず、したがって政府や国家システムを正統化する合意という観念も、それが国家の領域内の選挙や「多数決」原理を意味するかぎり、問題化せざるをえない。たとえば、国境を越える、エイズ、公害、稀少資源の使用等の問題の場合、ある決定に誰の合意が必要なのか、ある行動を誰がいかに正統化するのか、そのさいの「選挙区」の性格、代表の意味、政治参加の固有の形態と範囲などが問題となるであろう。ところでグローバルな相互連結性はいまにはじまったものではなく、世界経済の最初の拡大と近代国家の興起とともに古いという反論がありうる。これに対してヘルドは、たとえば一九世紀の状況と現在の状況には根本的相違があることを強調するが(一九ページ、以下)、この反論はやや隔靴掻痒の感がある(これは彼が、第二次大戦後の世界資本主義の特徴としての多国籍企業に代表される生産資本循環のトランスナショナライゼーションの意味を的確にはつかんでいないからであると思われる)。それはともかくとして、ヘルドは、「グローバル化」についてはギデンズの定義を採用し、その二つの独自の意味として、((1))政治・経済・社会活動の多くの連鎖がその範囲において世界大になること、((2))諸国家と諸社会の内部と相互間で相互作用とそのレベルが激化することを指摘する。そしてこのようなグローバル化の関連で民主主義を再考し、民主主義の理論と実践にとっての新しいアジェンダの創出を提案するのである。 それでは従来の民主主義政治理論と国際関係理論の伝統には、このような試みのための概念的諸資源は見出せるのか(1ー3)。残念ながら否である。すなわち、一九世紀、二〇世紀の民主主義政治理論は、ラスキ等の名誉ある例外はあるけれども、国家を越える世界を所与とみなし、国家「主権」の概念になんの疑問も抱かず、社会的変化の起源を社会の内的過程に求める一国政治学に止った。むしろグロティウスやカントのような、「国際社会」についての近代初期の理論家たちの方が、現代にとって有益な考察を残しているというのである。第二次大戦後アメリカ合衆国中心に成立する「国際関係理論」の方はどうか。支配的な学説としての「リアリズム」および「ネオリアリズム」は、結局のところ、諸国家の、より広範なグローバル秩序の諸国家へのインパクト、またこれらのことの現代民主国家にとっての政治含意について、十分な説明をもつているようには見えない。他方、国際関係における「自由主義的ー理想主義的」伝統ないし「変形学派」(transformationalism)は、「複雑な相互依存性」の世界が、国家の主権、自律性、責任にとって劇的含意をもつことを正しく強調してはいるが、近代国家それ自体について説得力のある首尾一貫した説明を提供しえてはいない。また第三の潮流である「ネオマルクス主義学派」の多くは、資本主義のグローバルな発展と相対的に区別されるべき諸国家システムの独自の力学を体系的に解明することに失敗している。以上を要約していえば、民主主義政治理論の伝統的文献も、国際関係理論の既存の諸枠組も、相互に補足し合うべき限界を有している。簡単にいえば、グローバル・システムの吟味なくして現代民主国家の説明はもはやありえず、逆に、民主国家の説明なくしてグローバル・システムの吟味はありえないというのである。こうして続く第二部の諸章では、このような視角から、近代国家の形成とその転置が分析される。 第二部には四つの章が含まれる。第二章「主権の出現と近代国家」は、ヨーロッパ中世における多元的に分割された権威構造から中央集権的近代国家の成立への歴史過程を概説し−そのさい近代国家の観念の理解については基本的にQ・スキナーに依拠している−、その上で、ボダン、ホッブスからロック、ついでルソーに至る主権論の展開が跡られるが、とくに独創的見解は示されていないので、詳しい紹介は省略する。 第三章「国民国家の発展と民主主義の確立」の章は、前章を承けて、近代国家がいかに国民国家として展開していったか、そしてこの展開過程において、国民国家内部で代表自由民主主義がいかに発展し、支配的になっていったかという問題を扱う。そのさい、近代国家の形成において戦争(それに伴う資源調達の必要→代表諸制度の発展という関連を含めて)が果した役割、諸国家と資本主義の発展との相互関係、さらに自由民主主義の発展と市民権(古典的自由権、政治的権利、社会権)との関連の三点を中心に論じているが、詳細な紹介は割愛する。 第四章「国家間システム(The inter-state system)」は、国民国家における一九世紀および二〇世紀のデモクラシーの発展が、諸国家と諸社会のあいだの民主的諸関係をなぜ伴わなかったのかという問題、換言すれば、諸国民国家の近代システムの「深層構造」が、国家の境界内部の責任および民主的正統性と、国境の外部での権力政治の追求とのあいだの、鋭い矛盾によって特徴づけられるにいたった次第を解明しようとする。この緊張の起源は、諸国家システムの最初期の段階、すなわち、自らの国家的(ナショナル)領域を固めようと努める西欧諸列強による領域主権の確立の時期にさかのぼりうるが、それが二〇世紀にいたるまで国家間関係の構造を設定した。そして第二次大戦後の、この構造への国連の継ぎ木も、その中核的特徴を変えるものではなかったのである(国連憲章はある面ではむしろ、「大国」の役割を高め、国際政治における大国の指導性への主張を正当化した)。しかしながら、とくに二〇世紀後半における諸国家の地域的、地球大のネットワークへの包入の拡大が、諸国家の権威の広がりと範囲を変えてきたのである。すなわち、地域的連結性(interconnectedness)の増大とグローバルな関係の拡大は、一方において超国家的諸力によっておしつけられた諸要求を実効的に処理する国家の能力と、他方においてそれら諸力によって深い影響を受ける多くの人々に対する国家の責任についての問題を提起する。かくしてこの章の第一節、第二節では国家間システムの性格と構造が解明され、第三節では、諸国家システムが経済的・社会的・文化的活動の複雑な網の目にまきこまれることによって生じる諸問題が吟味される。以下、若干敷衍しよう。 近代諸国家の形成とそれら諸国家の国際システムの形成は、共時的な出来事なのであるが、後者は、一六四八年のウエストファリア条約にちなんで、「ウエストファリア・モデル」と呼ばれる。その特徴はヘルドによって表2のように整理されているが、要するに、この国家間システムは、各国家にそれ自身の領域内での支配権源を賦与しながら、他方国家間関係においては、最終的には実効権力(支配)の原則に裏書きを与えているため、国家の「安全保障ジレンマ」が、一切の諸国家を相互間の現実的・潜在的紛争過程へと封じ込めてしまう性格をもつものであった。この矛盾を解決するため、たとえば、大国間のバランス・オブ・パワーに立脚する「協調(コンサート)システム」が作られもしたが、それは「階層制」と「不均等制」を伴う国家間システムの基本的構造を変えることはなかったのである。
それでは第二次大戦後の国際連合は、ウエストファリア秩序の論理と構造を根本的に変えたのであろうか。答は否である。ヘルドは、それが想定している秩序モデルを「国連憲章モデル」と呼んで表3のように整理しているが、このモデルでは、周知のように「五大国」への特殊権限の付与によってそれらの権威を高めた。しかし国連システムが、国連総会の一国一票・多数決制に加えて、表3の各項に示されるような、新しい組織原則の可能性を指し示す法的・政治的展開をその内部に含んでおり、そのかぎりで、それは伝統的な国家システム自体の形態および力学との著しい緊張関係に立っているものととらえられる。 それでは、グローバリゼーションの進行はどのような因果連関で主権的領域国家の権力とそれらによって構成されている国家間システムに新しい挑戦を投げかけているのか。この連関をヘルドは図2のように図式化している。そしてその詳細を、続く第五、第六章で展開している。 さて諸国民国家の主権的権威の現代的性格と範囲は、一方におけるそれらが自らのものだと主張する政治的権威の形式的範囲と、他方におけるナショナル・地域・グローバルの各レベルにおける国家と経済システムの実際の実践や構造との間の”内的”および”外的”分離ないし乖離(disjunctures)を見ることによって描き出すことができる。ヘルドは国際レベルにおけるこの”外的”乖離、すなわち、国家は原則的に自らの将来を決定しうるという観念と、個々の国民国家の選択を形成し拘束するように作動する世界経済、国際組織、地域的・地球大的制度、国際法と軍事同盟等との乖離を例示的に問題にする。第五章では、乖離1として国際法、乖離2として政治的決定作成の国際化、乖離3としてヘゲモニー的権力と国際的安全保障構造が、第六章では、乖離4として国民的アイデンティティと文化のグローバル化、乖離5として世界経済がとりあげられ、その上でそれらの新しい政治思想的意味が示唆されている。 それぞれについて簡単に言及すれば、乖離1、国際法、では、最近の国際法の発展が個人、政府、非政府組織を新しい法的規制のシステム下に置き、国際法が国民国家の主張を超える権力と制約、権利と義務を承認している実情を分析している。乖離2、政治的決定作成の国際化、では、トランスナショナルな活動の全領域(貿易、海洋、宇宙空間等)と集団的政策問題を管理するために確立された国際レジームや組織がとりあげられているが、これらの発展は世界政治の決定作成構造の重要な変化を導いているのである。具体的には、国連、ユネスコ、世銀、IMF、EC=EUなどが分析されているが、詳細は省略せざるをえない。 乖離3、ヘゲモニック・パワーと国際的安全保障構造、では、個々の国家がグローバルな権力ハイアラーキーに挿入されることによって、自律的な戦略的、軍事的アクターと觀念されていたはずの国家が、その追求する防衛・外交政策に重大な制限が課されるようになっている、第二次大戦後の歴史と実情(NATO、WTO等)が紹介・分析される。ここで注目しておきたいことは、ヘルドが、国家中心的安全保障の論理が、第一に国際的民主主義を否定し、他国人民にたいする最小限の責任しか受容せず、第二に階統制的で、秘密主義の上に繁茂し、一にぎりの人々に生殺与奪の権を与える諸制度を正統化することによって、国民〔国家〕的責任システム、より一般的には民主主義にとって深刻な帰結をもたらしていると論じていることである(一一九ページ)。これは後論のヘルドの新秩序構想につながる一論点である。 乖離4、ナショナル・アイディンティティと文化のグローバル化の問題。マイクロエレクトロニクス、情報技術、コンピューターの革命によって可能となった新グローバル・コミュニケーション・システムの発展は、一方では「国境」を越えるグローバル文化の浸透と、他方ではエスニック集団や文化集団の自意識の覚醒とによって、つまり、上からと下からの両方から、国民国家の文化的ヘゲモニーや、そのもとで強化されてきた国民的アイデンティティにイムパントを及ぼす。換言すれば、国際的およびトランスナショナルなメディア・ネットワークに直面して、人々がどの程度まで、いかに自らのアイディンティティ、文化、諸価値を決定しうるかということが、二〇世紀末の重大争点となっているのである。 最後に乖離5として、世界経済の問題があげられている。部分的に多国籍企業によって組織化された生産の国際化と金融取引の国際化とを中心とする世界経済の動向が、国民国家の政府の能力と実効性をいちじるしく制限するように機能していることはいうまでもない。 以上五つの主要な乖離を総体としてみれば、ますます複雑化する国際システムの中での諸国家の作動がそれらの自律性を制限し、それらの主権をますます侵害するようになっていることは否定できない。そのような状況の中で、主権は、いくつかの行為主体−一国的、地域的、国際的−のあいだですでに分割され、この複数性の性格それ自体によって制限されているものと認識されねばならない。 このような相互連結した複数の政治的権威と権力諸センターの世界において、民主主義はいかに理解されるべきなのか。このような世界は、「普遍的政治秩序の新中世的形態」(ブル)と見られうるものであろうが、それは秩序を維持し、寛容を保持する規制や手続の枠組を提供できるのか。さらにそれは伝統的な民主主義の諸モデル以上の責任のメカニズムを提供しうるのか。加えてそれは支配の正統性の基礎をもちうるものかどうか。主権的諸国家システムの存続と権力や権威の多元的構造の双方によって特徴づけられるこのような国際秩序が、近代政治思想の以上のような基本的関心事になんらかの解決策を提供しうるのかどうかは未決である。しかしヘルドは、もし権威の多元的システムが、彼が「政治行動の共通構造」(a common structure of political action)と呼ぶところの基本的な秩序づけの諸原則・諸規則によって結び合わされるならば、現存する、あるいは予測される困難を克服することは不可能ではなかろうと述べる。国際諸機関・諸組織、諸団体(企業)、諸国家は、もしそれらが民主的な政治的未来を選択するならば、「政治行動の共通構造」の一部になることを選ぶことが可能となる。この可能性を、ヘルドは「民主主義のコスモポリタン・モデル」ないし「民主的自律のコスモポリタン・モデル」と呼んでいる。この問題は、続く第三部、第四部において扱われているが、ここで便宜上節を改めることにしよう。 3 第三部は、「再建。民主主義の諸基礎」と題し、第七章 民主主義再考、第八章 権力の諸場、第九章 民主主義と民主的善、の三章によって構成されている。紙幅の都合で、これら三章をまとめて扱い、細部には立入らずに、議論の基本的筋道とエッセンスのみを追跡することにしよう。 ここで「再建」というのは、現代世界における民主的な政治共同社会の諸条件と可能性を明らかにするという目的で、近代政治の基本的諸観念や状況を再省察することを意味する。 ところで、われわれはすでに、ヘルドがその民主主義モデルとして、自律の原理ないし民主主義的自律というモデルを提示していることを知っている(表1、参照)。それは一言でいえば、人民の自律と民主的政府は制限政府でなければならないという二つの基礎観念への自由民主主義的コミットメントである(したがって単純な自由主義的考えとも、ルソー・マルクス的伝統の急進民主主義的プロジェクトとも区別される)。ヘルドは、自律の原理に埋めこまれている観念として、六点あげているが(一五三−一五六ページ)、この自律性が、公共事における個人的利益の無拘束の追求の承認を意味するものではなく、「政治行動の共通の構造」を前提とする、共同社会の制約の範囲内での自律への権限、つまり「民主的自律」であることを強調し、「民主的法治国家」とそれを支える民主的政治文化の重要性を示唆している(以上第七章)。 さて自律の原理は、規範的基礎と経済的基礎とをもっているが、このうちの前者は、自律が可能となる諸条件の省察から引き出されうる。そしてこの省察は「思考実験」に基礎を置く自律の理解(観念)の精密化の全てによって展開されうる。この「民主的思考実験」の節(8ー1)は、ロールズやハーバーマスの議論も引かれていて専門的には面白いが、その詳細な紹介は割愛して、ヘルドの権力論、権力の諸々の場の議論に入ろう。ここで問題はつぎのように立てられる。すなわち、生活(ライフ)チャンスや政治的機会の不均衡を系統的に生じさせるような権力システムは、自律の原則と両立可能かどうか、と。答はもちろん否である。ヘルドの権力理解は、基本的にギデンズのそれに負っているが(環境維持ないし変形能力としての広義の権力、狭義には関係現象としての権力、構造現象としての権力の区別と関連。一七〇−一七一ページ)、権力関係が生活(ライフ)チャンスの非対稱性を系統的に生じせしめるところでは、「非自律性」(‘nautomony’)という状況が創出されうる。「非自律性」とは、「政治参加の可能性を制限し、蝕食するライフ・チャンスの非対稱的生産と配分」をいう(一七一ページ)。非自律性が存在する度合いに応じて、政治行動の共通構造は不可能となり、民主主義は重要な資源をもつ人々のために作動する特権的領域となる。ここで「権力の諸場」(sites of power)という観念が導入される。「権力の諸場」とは、権力が人々の能力を形成(あるいは疎外)するように作用する相互作用の文脈ないし制度的環境である(それは権力の生産と配分を創出、保持ないし変形する「権力の資源」と区別される)が、それが人々のライフ・チャンスや実効的参加や公的意思決定への参与を形造り、あるいは制限するのである(図3、参照)。 これらの「権力の諸場」はそれぞれ独自性をもちながらも、相互に密接に連関しあうであろうが、自由主義者は伝統的に共同社会における鍵的な権力の場として国家を考えてきたのに対して、マルクス主義者は、経済的、生産的関係の中心性を強調してきた。ヘルドは、この二つのとらえ方はともに不十分であるとして、より広範な権力の場の理解を提起する。彼が提示する七つの権力の場とは、1身体、2福祉、3文化、4市民団体、5経済、6強制関係と組織暴力、7法的・政治的規制諸制度、であるが、それぞれについての説明は、次章における権利論とまとめておこなうことにする(以上、第八章)。 さて、自律の原則における人々の平等な利害関心が保護されうるためには、人々は上述の権力の諸場の各々を横断して政治行動の共通構造を享受しなければならない。換言すれば、民主主義の可能性にとっての鍵的条件となるのは、上述の七つの領域を横断して明確化され確立される一つの憲法的(立憲的)構造であり、かかる構造は、政治行動の共通構造を画する授権的〔人々に権能を与える〕法秩序を構成するであろう。このように権力の七つの領域において、また諸領域を横断して、市民たちを市民としての資格において承認する法的構造は、”民主的公法”(democratic public law)と見なされうるであろう。 七つの権力の場とそれに照応する権利のカテゴリー、権利の例、権利が人々の授権を助ける特殊な行動領域は、表4にまとめられている。その詳細な解説は割愛しておく。
さて、民主的公法は、民主主義の可能性にたいする基準を設定するものであるが、自律の原理は、それに基礎を置く諸権利のみならず、既存の環境のもとで自律性を十全に享受しえない人々が長期的にはそうすることができるように保証する義務−自己決定を育てる義務−をも設定する。また市民身分(citizenship)との関連で、自律性は、規制原理として働く「理想的自律性」、「達成可能な自律性」、「緊急の自律性」(放置すれば生死にかかわる「深刻な害」をもたらすような切迫した必要)の三つのレベルに分たれるが、この区別は、公共政策の優先序列の秩序を画することになる。すなわち、深刻な害悪を避けることは自律の発展の基礎条件であり、自律の「達成可能な」水準の追求は、理想と現実を結びつける政治行動の共通構造の創出に必要な第二のステップであるからである。そして自律の枠組の内部で導かれる日常的な民主政治の目指す目標は、「共通善」、「民主的善」、「共同社会の民主的善」であって、民主政治と個人的選好の単純集計とみなすことからは、はなはだ遠いのである(第九章)。 第四部では、いよいよコスモポリタン・デモクラシーの提唱がなされる。まず第十章 政治的共同社会とコスモポリタン秩序、では、自律性の原則が要約・精緻化され、コスモポリタン・デモクラシーの概念が提起され、「トランスナショナルな政治行動の共通構造」としてデモクラシーが再定義され、ガヴァナンスの新しい諸形態と諸レベルが提示される。 最初に、自律性の原則に必然的に伴う前述の権利の房(クラスター)が、市民権なのか、人権なのか、あるいはそれとはまたなにか違うものなのかが問題とされる。この問題の背景には、政治的共同社会の適切な形態および性格、すなわち、権利のもっとも適切で実行可能な政治的よりどころはなにかというさし迫った問題がある。ヘルドは、諸権利は民主主義それ自体の可能性に不可欠であるという理由で、これを「権能賦与権」(‘empowering rights’)ないし「権源賦与能力」(‘entitlement capacities’)と呼び、それらの権利を国民国家の枠組に厳密に限定されている市民権と呼稱することは、必ずしも適切ではないという。なぜなら、多くの型の市民権は国民国家の後を追って漸次的に普遍的になっているとしても、今日の国民国家がこれらの権利をけっして完全に保証しえないことは事実であるし、さらに個々の国民国家の主張を直接に越える諸権利が、条約、地域取り決め、国際法において定式化されているからである。しかし、これらの権利が実効的に普遍的権利ないし人権になっているかといえば、この移行過程は完成にはほど遠いといわねばならない。加えるに、「諸権利」が普遍的諸価値を促進するがゆえに本来的に万人に適用可能な人権であるという観念は、権利に関する民族間、地域間の文化的衝突を考えてみても、疑問が残るであろう。 ここでヘルドは、「コスモポリタンな民主主義法」および「コスモポリタンな民主的共同社会」という概念を提起する。「コスモポリタンな民主主義法」とは、権力の諸場が、ナショナル、トランスナショナル、インターナショナルでありうる状況(第五、第六章、参照)において、個々の政治共同社会の境界内部のみならず、それらの境界を超えて確立される民主的公法である。それは、諸国家の法(国法)や諸国家間の法(国際法)とは性質を異にする法の領域であり、カントによれば、既存の国法や国際法の不文律にとって「必要な補足」であって、この不文律を「人類の公法」に変形していく手段なのである。カントはこのコスモポリタン法〔世界公民法ないし世界市民法と訳されてきた〕の形態と範囲を、普遍的ホスピタリティの条件に限定したが(カント、高坂訳『永遠平和の為に』岩波文庫、第三確定条項。三八−四三ページ)、かかるホスピタリティの諸条件を適切に精緻化しているとはいえない。つまり、世界公民(コスモポリタン)法を世界公民(コスモポリタン)民主主義法として認知することなしには、各人および万人の自由と自律の保護の条件は十分には心に描くことができないからである。自律の原理へのコミットメントは、それら自身の国境の内部と国境を横断して、民主的公法の維持にコミットする民主的諸国家・諸社会の一つの国際的共同社会の確立に向けて活動する義務を含んでいるのであって、この国際的共同社会が「世界公民(コスモポリタン)的民主共同社会」なのである。カントの説明では、かかる世界公民的共同社会の確立は、戦争を永遠に防止するための「平和連盟」(foedus pacificum)の創出に依存している。カントは、「平和連盟」を連邦的(フェデラル)構造に基くものと国家連合(コンフェデラル)的構造に基くものとに区別しているが、彼は前者が非実際的で危険な目標であるという理由で、後者を支持していた。ヘルドもまたカントと同じような理由で、単一の統一化された国家構造(世界国家等)を斥けるが、民主的世界公民秩序がコンフェデラリズムの観念、つまり、全般的に自発的で、条約に基礎を置くユニオン(限定的含意を通じて不断に更新される)と単純に合致するものとは考えない。というのは、コスモポリタン民主主義の創設は人々や諸国民の積極的同意を必要とするが、それが一たん創立された後では、人々が直接にガヴァナンスの過程に従事せず、なんらかの代表機構の多数決制を採用するかぎりでは、この秩序の規制手続へのコミットメントは、その秩序が民主的法によって制約されているかぎり、非自発的に止り、法に服従する義務が生じるからである。 さて地域的・国際的相互連結性の文脈においては、人々の自律への平等な利害関心は、それらの行動、政策、法が相互に関連しからみ合っているすべての共同社会からのコミットメントによってのみ適切に保護されうる。したがって世界公民的(コスモポリタン)民主法の履行と世界公民的(コスモポリタン)共同社会(全ての民主諸社会からなる一共同社会 a community of all democratic communities)の確立は、民主主義者にとって、トランスナショナルな政治行動の共通構造(これのみが、究極的に、自己決定の政治を支えることができる)を建設すべき義務とならねばならない。 世界公民的(コスモポリタン)共同社会は、はじめはその必要を認める民主主義的諸国民や諸共同社会の連合体に限定されるであろうが、それは諸国家と諸社会の民主的規制の制度的枠組としてさらに拡大していく可能性をもっている。もしそうなっていけば、国民国家の市民としての人々の権利および責任と、コスモポリタン法の主体としての人々の権利および責任とは一致し、「民主的市民身分」は真に普遍的地位を獲得することができる。人々は複数の「市民身分」−自分が直接に属する政治共同社会、地域的・地球規模のネットワーク等の−を享受することになろう。この世界公民政治体制(the cosmopolitan polity)とは、国境の内部で、そして国境横断的に作動する、権力と権威のさまざまな形態を、その形成と実質において、反映し包含するものである。 この世界公民政治体制と対照的に、国民国家はやがては「死滅」していくであろうが、しかしこれは諸国家や国民的諸政体が余分なものになってしまうだろうということを意味するわけではない。この国家の「死滅」が意味するのは、国家がそれ自身の国境内で正統的権力の唯一のセンターではもはやなくなるであろうし、そうみなされなくなるであろうということである。国家は、アーチのようにその上にかかる地球規模の民主主義法の内部で「位置づけ直され」、またそれと連接されることになろう。 このことは領域国家と伝統的に結びつけられてきた主権概念の再定義を必要とするであろう。世界公民(コスモポリタン)共同体は、それを正統化する民主的基本法の確立と適用を育成するアーチのように上位に位する諸制度のセットを必要とするが、それは、それぞれの権限領域において自律的である意思決定諸中心の多様な範囲−国民諸国家、諸国家のネットワークとしての地域、サブナショナルな存在、トランスナショナルな共同社会・組織・行為主体など−によって構成されうるであろう。こうして、主権は、「基本的民主法の一属性であるが、それは諸国家から諸都市や諸団体にいたる、多様な自己規制的諸結社において確立され、身にまとわれうるものなのである。」(二三四ページ)世界公民法(コスモポリタン)は地域的、ナショナル、ローカルな「主権諸団体」(‘sovereignties’)をアーチ状におおう法的枠組への従属を要求するが、しかし、この枠組の内部では、諸結社(団体)は、多様なレベルで自己統治的でありうるのである。世界公民的(コスモポリタン)民主主義モデルは、「一つのグローバルでかつ分割された権威システム」、すなわち、「民主的法によって形成され制限された、多様で重複する権力諸センターのシステム」の法的基礎なのであり、この文脈において、脱退は、一方では政治の共通の枠組内部での旧い政治存在の解体(=伝統的な政治共同社会の再編成)、他方では民主的行動のトランスナショナルな構造枠組内部での新共同社会の可能性の確立、という新しい意味を帯びることになるのである。 さて、コスモポリタン・デモクラシーにおいて、それが今後前進していくためには、新しい組織的および結合的諸メカニズムが創出されていかなければならないが、政治的権威と意志決定能力が新しい境界横断的な民主的取り決めにおいて、上の方に”吸収”されていく危険(一九九二−三年のヨーロッパにおける「補完性」の討論に示されたように)を避けるためには、意志決定の適切なレベルを支配する原則が明確化され、堅持される必要がある。 ローカル、職場、都市レベルに正当に属する争点・政策問題は、人々自身の結社の諸条件の直接的決定に人々をまきこむような問題である。国民的レベルの統治に属するのは、限定された領域における人々がそれらの境界内の集合的問題や政策問題によって重要な影響を受けるような問題である。それとは対照的に、地域レベルのガヴァナンスに正当に属する問題は、ナショナルな決定や結果の相互連結性のゆえに、またこういう環境における国民(ネーションズ)が国境を越えた協力なしには目標を達成しえないがゆえに、トランスナショナルな調停を必要とする問題であり、したがって、意思決定と履行は、自己決定への共通の利害関心が地域的カヴァナンスを通してのみ実効的に達成されうるかぎりで、地域レベルに属することになる。グローバル・レベルに正当に属する問題とは、ローカル、ナショナル、リージョナルな諸権威が単独で行動することによっては解決できないような相互連結、相互依存を含む問題であり、トランスナショナルおよび国際的政策問題を、「より下の」意志決定レベルが十分に管理・処理しえないとき、国境を越えた意思決定センターの出番となる。 環境問題を例としてとりあげよう。さまざまな有害廃棄物を排出する工場は、ローカルに監視、説明要求を受け、ナショナルに規制・監督され、地域的にクロス・ナショナルな基準によってチェックされ、他者の健康・福祉・経済機会に対する影響に照らしてグローバルに評価される。政策問題をどのレベルのガヴァナンスに割り振るかについては、三つのテストが提起される。すなわち、((1))ひろがり=問題によって重大な影響を受ける国内外の人々の範囲、((2))強度=人々の集団に影響を与える度合い、((3))比較的効率の評価である。 このようにして、政治的相互作用と相互連結の異るレベルにおいて権力と権限の分割が認められるならば、民主主義は適切に確立されるであろう。このような秩序は垂直的にも水平的にも結びついた、権威の多様で独自の諸領域を包含することになろう。 民主主義のコスモポリタン・モデルの確立は、空間的に限定された場(ロカール)を横断する地域的・国際的機関や会議体のネットワークを通じて、「外側」から民主主義を精緻化し補強することによって、共同社会や市民団体の「内部」の民主主義の強化を追求する一つのやり方であり、さまざまなトランスナショナルな草の根運動の発展、国連とその諸機関から地域的な政治的ネットワークや組織の出現・増殖によって、より体系的な民主主義的未来を建設すべき政治的基礎は存在すると判断されている。(以上第十章) しかしなお考察すべき大問題が残されている。それは、コスモポリタン民主主義法が、市場や私有財産などの経済問題をどうあつかうかというそれである。第十一章では、この問題が論じられる。 この問題に接近する手がかり、かつ対論の対象として、ハイエクの所論がとりあげられる。ハイエクの議論は、政治・法・市場の関係を再吟味するさいの重要な諸要素を含んでいるが、ヘルドは、ハイエク思想の難点を三点にわたって批判する。すなわち、第一には、ハイエクのリベラルな自由市場モデルは、現代の法人資本主義システムの実態とまったくかけ離れていることである。そこでは、市場の失敗の重要な諸領域の存在、外部性の問題、市場経済の非市場諸力への一貫した依存、経済生活の「集中」と「集積」への傾向などすべて無視されている。第二に、ハイエクは市場関係それ自体が権力関係であり、それがもたらす不平等が政治的自由や民主政治に与える負の影響の度合いを無視している。第三に、資本主義下の政府は、私有財産と私的投資のシステムの制約を受け、法人企業や多国籍銀行が政治体制と政策選択について均整を逸した「構造的影響力」を有していることを見逃していることである。 上述の議論を一言で要約すれば、民主主義と資本主義の間には多くの緊張の源泉があるということであるが、この緊張を指令経済や自己管理経済によって解決しようとする企ては失敗におわっている。しかし資本主義とそのオルタナティヴの問題は依然重要であり、従来のやり方とは異る、注意深く、実験的で、かつ民主的自律とコスモポリタン民主主義を支持する議論によって提供される、より広範で体系的枠組との関連において考察される必要があろう。 まず経済への政治介入の理論的根拠であるが、それは全ての形態における権力の諸場の民主的規制と政治行動の共通構造、コスモポリタン民主主義法の確立の必要から正統化される。たとえば、健康を損う環境汚染のような外部性の規制、企業の内側と外部での自律性の基本的必要の確保などである。これは市場システム自体を廃棄する主張ではなく、市場の「再構成」を目指すものである。そのさい、公共政策の優先序列の決定にあたっては民主的善を念頭に置いた公的な慎重審議が必要なことはいうまでもなく、政治介入がどのレベルで試みられるかについては、さきに述べられた「ひろがり」、「強度」、「比較的効率」の三テストがガイドとして役立つであろう。 つぎは、経済生活における民主主義の確立である。ここで問題となるのは、単純な計画経済でもなく、単純な市場志向経済でもなく、それ自身の目標を追求する組織・結社・機構(経済企業を含む)に開かれていながら、自律性の原則および表4に示された七つの権利・義務のクラスターを遵守するような経済システム=民主的政治経済である。企業は自律性の要求へのコミットメントを法的にも事実上も保持しなければならない。たとえば、その被雇傭者や顧客を自由で平等な人格として取り扱うこと、健康・安全・学習・福祉・討論や批判に参加する能力等を支持する労働条件や慣行の追求、「最低賃金」や生産的金融的資源への接近通路(企業の意志決定への参加機会)の保証などである。これらは、企業内における民主的公法の確立といえようが、そのさい、管理参加の要求と経済的有効性、民主主義の原理と市場の原理のバランスが問われることになる。 経済組織内部での民主的権利・義務の確立は、市場における企業の背景条件を変更するために立法を利用するという確立された考え方の延張を表しているが、たとえば、マーストリヒト条約の社会憲章をめぐる議論でも明白なように、参加国が非参加国との関係で不利にならないようにするためには、民主的公法を世界公民法(コスモポリタン)として履行することが望ましいわけであり、自由市場と貿易システムへの新条項の導入、究極的には、経済組織と貿易の新しい民主的条項の明文化を必要とする。これは巨大な政治的・外交的・技術的困難を惹起し、その実行には相当な時間を要するであろうが、一国的および地域的文脈における集団的協定と福祉方策への補足・補完として、地球規模の経済システムを通して権限賦与と責任の新条項を導入することによってのみ、経済権力と民主主義との間の新たな取り決めが創出されうるのである。グローバル・レベルにおける民主主義の拡張は、コスモポリタン民主主義法の諸原則と諸目標を特定する、いわば「基本立法」(‘frame work legislation’)を必要とするであろうが、それは、投資、生産、通商を民主主義の諸条件と諸過程に結びつける新「ブレトン・ウッズ」協定となるであろう。この新協定は、一般条件のみならず、中・短期の経済的困難な害悪を軽減することを目指す政策(発展途上諸国の経済的窮状の軽減策、エネルギー使用に対する消費税、軍事支出の削減等)追求に必要な諸条件を確定することにつとめ、また「発展の諸地帯(‘zones of development’)」への援助・救援の戦略が立てられねばならないであろう。 第三の問題は、介入の形態とレベルの問題である。ここでは公共支出と公共投資の、公的審議・決定への従属、公共支出と公共投資の調整を行うための国際レベルの新協力機構の設立の必要、一国的、サブナショナル、地方的市場の文脈における市場諸力の力学に直接に作用する非市場的要因(サプライサイドの経済パーフォーマンスを高めるための協力、公共財の適切な供給を許容する政策への支持、人的資本への投資等による共同社会の経済能力の開発)が論じられている。 第四に、上述の議論が、所有形態と私有財産の役割についてもつ含意が検討される。自律の原則とコスモポリタン民主主義法の觀点からすれば、生産的・金融的資源への「接近通路」の確保が中心問題の一つになるが、経済と職場への民主主義の拡大という変化のための正確な制度モデルについては、民主的自律と民主的公法の枠組内での公的実験とテストに委ねられる。そのさい、モデル選択の基準となるのは、一方での民主的自律性と公的討議との両立可能性、しかし、他方での国際競争、分業やテクノロジーの変化に対する適応性であって、このしばしば矛盾する両基準のバランスをどう計るかが、問題となろう。要するに、((1))公的投資優先序列の審議と調整、((2))市場交換における公平な帰結を助けるための非市場政策の追求、((3))所有と資本の制御のさまざまな形態をともなう実験、これら三つのことがらを通じて、経済生活の諸行為主体や諸組織に、コスモポリタン民主主義法をいかに樹立していくかが問題となるのである。 最終の第十三章「コスモポリタン・デモクラシーと新国際秩序」では、国際的な民主主義的政治体制の創出に向けて、国連システム、国連憲章システムの拡大と改善の方向が示される。表5「民主主義のコスモポリタン・モデル」は、前出の表2「ウエストファリア・モデル」および表3「国連憲章モデル」との比較を念頭に置いて作成されたものである。
しかしながら、民主主義のコスモポリタン・モデルの実現のためには、現行国際秩序の抜本的改造が必要であり、それには多大の困難が予想される。ヘルドは、それらの困難を克服していくための前提として、コスモポリタン・モデルの短期・長期の諸目標を、政体/ガヴァナンスに係るものと、経済/市民社会に係るものに分け、それを表6として示している。これらの長期・短期の諸目標に関しては、そのすべてが十分に繰り上げられたものとはいえないし、またその内容が十分に理解しえないものも含まれているように思われる。しかしそれらは試論的な大局的な方向づけとして考えていいであろう。またヘルドはこのような構想の実施に近づいていくさいの諸困難を重々自覚しているが(たとえばグローバリゼーションの一帰結としての政治の ‘ethnicization’ ‘nationalization’)、しかし多様なアイデンティティーズや文化的多元主義と養育し、保護する基礎は、コスモポリタン民主法の履行にこそあると主張している。
最後に結論的考察として、ヘルドは民主主義のコスモポリタン・モデルが、現代における資源の生産と分配、規則創出と執行の力学を変える組織的資源(手続的、法的、制度的、軍事的)をもっているかどうかと設問し、すでにもっていると示唆するのは間違いだが、民主的責任のメカニズムの拡大と深化へのコミットメント、民主的権利の保護と強化および地球的・国際的裁判所制度のさらなる発展へのコミットメント、世界政治における重要な独立の発言権をもつ地域機関の確立、重要なトランスナショナルな争点についてのグローバルレベルでの新制度的中心、地域的地球的規則や手続の新セットの設立は、トランスナショナルな新民主主義秩序の創出の始まりとなるだろうと予測する。 また政治的言説にしばしば見られる、((1))グローバル化対文化的多様性、((2))立憲主義対政治、((3))諸国家の階層的秩序づけ対改革の継続性、((4))政治的野心対政治的実行可能性、((5))参加民主主義対代表民主主義、((6))上からのグローバル・カヴァナンス対下からの草の根諸結社の拡大、といった機械的二分法的対置を批判している。そしてその中心に自律の原則を置くコスモポリタン民主主義の理論こそが、われわれがいま現にある地点から、そして同時に望ましい政治的形態や原則の両方から出発する「埋め込まれたユートピア主義」(R・フォーク)の立場に立つものであることを示唆して、むすびとしている。 む す び 以上ヘルドの大著『民主主義とグローバル・オーダー』を詳細に−おそらくは長きに失するほど−紹介してきたが、それはこの書物の重要な意義を私が痛感したことによるものであり、そのうち本書の邦訳も公刊されるであろうが、それにはまだかなりの時間がかかるであろうと考えたからであった。以下では、この本についての私の評価を簡潔に述べる。 1のところで触れたように、ヘルドは、カナダの政治思想史家、故C・B・マクファーソンの民主主義論の影響を受けながら、その最初の労作『民主主義の諸モデル』(一九八七年)で、民主主義的自律という、現代世界においてもっとも望ましくまた状況適合性をもつ民主主義のモデルを提起した。この民主主義の自律モデルを、その後の近代国家論、政治理論の研究成果によって補強しつつ、グローバリゼーションの時代における「民主主義のコスモポリタン・モデル」へと集大成していったのが、本書なのである。換言すれば、民主主義的自律の原理を、主権的領域国家のボーダーを越えて、グローバルな秩序原理として拡大・貫徹していくことによって描き出された世界民主主義論がここに提示されたのである。 ヘルドの「コスモポリタン・デモクラシー」の理論は、この「コスモポリタン」という用語の使用にも見られるように、明らかにカントの『永遠平和のために』(一七九五年)における「世界公民法(市民法)」(ius cosmopoliticum)の構想の影響を受けており、そしてヘルドには、このカントの「世界公民法」の現代的条件における再生を目指す意図があったのではないかと推測される。 このことと関連して、第一次大戦後の「国際連盟」の創設期においては、カントの『永久平和のために』が非常にしばしば引照されたが、イギリス政治思想史の系譜においては政治的多元主義、とくにラスキの『グラマー』以降一九三〇年代の国際共同社会ないし世界共同社会論が注目されなければならない。ヘルドはこの点をある程度意識しており、ラスキへの言及もあるが(ラスキの著作としては、Studies in Law and Politics, 1932 が参考文献の中であげられている)、言及は簡単なもので体系的なものではない。両者の国際社会改造論の関係の研究は、われわれに残された一課題であろう。 それはさておき、ヘルドのコスモポリタン・デモクラシーのモデルが、カントの世界公民(市民)法体制の概念に示唆を受けたものであるとしても、その背景にある現実認識と理論構成は、この間の二百年という時間的経過もあって、当然のことながら、より広範かつ精緻になっている。ヘルドのこの本の理論的貢献として、私がとくに高く評価するのは、第二部第五章第六章の主権的国民国家の建前とグローバル秩序の現実との五点にあたる乖離(disjuneture)の指摘であり、また第三部第八章第九章の、七つの権力の場(サイト)論とそれに対応する民主的公法の七つの権利のカテゴリー論である。これらの議論のそれぞれのアイテムの指摘はヘルドの独創ではないとしても、それらを一つの体系的認識にまでまとめあげたのは、明らかにヘルドの理論的功績であって、彼の総合化の能力は卓越しているといってよい。なお、すでに1の部分において指摘しておいたように、ヘルドは本書における基本的カテゴリー、たとえば、近代性=グローバリゼーション、権力論、政治概念、国民国家論などにおいて、その師であるA・ギデンズおよびギデンズとの共同作業に負うところが大きいが、民主的自律の原理を出発点とするコスモポリタン民主主義(法)モデルの構築という点では、R・フォーク等との学問的交流に支えられつつ、独自の理論的境地を切り拓いたと評価していいだろう。 つぎに、二一世紀に向けてのグローバル・カヴァナンス*の構想の展開という点に関していえば、本書第四部、とくに第十一章、第十二章が注目されてよい。 *ここで、「ガヴァナンス」というのは、「統治」という意味よりも、「多数の主体(国家や非国家主体)の利害のあいだの折り合い、価値観のあいだの調整を通じて最適解を求めていくアプローチ」を指す。武者小路公秀『転換期の国際政治』岩波新書、一九九六年、二二七ページ。ちなみに武者小路氏のこの本は、後で触れる坂本義和・最上敏樹氏等の研究とともに、ヘルドとほぼ同じ問題を論じており、とくに武者小路氏の紹介する「新世界立憲秩序」(New Constitutional World Order)構造(同書、一一九−一二〇ページ)は、ヘルドの「民主主義のコスモポリタン秩序」と相同的であろう。 第十一章の経済生活における民主主義の確立の構想と改革計画は、広い意味で社会民主主義的性格のものであり、最近のイギリスのトニー・ブレアの労働党やイタリアの左翼民主党の経済改革プラン、さらに欧州社会民主主義運動のEC社会憲章推進の動きなどと一脈相通ずるものが感知されるが、現実化の困難という点でいえば、企業やローカルな単位における改革や公的介入に比して、地域的ないしグローバルレベルにおける国際レジームの民主化ないし民主的国際レジームの創設という課題がはるかに難かしいであろう。しかし現存の経済構造の民主化の方向性としては、この本で描かれているような方向性以外の途はないであろうと私は考える。そしてこのような民主化とローカル、ナショナル、地域、グローバルの諸レベルで、相互に連絡しながら推進していく主体や運動のネットワーク作りが、今後の課題として追求されねばならないであろう。 第十二章で論じられているのは、一言でいえば、国際的な民主主義政治体制確立の問題である。ヘルドのそれに向けての短期的、長期的改革構想についてはすでに前節で紹介したが、ヘルドの構想は、さきにも触れたように、武者小路氏の言及する「新世界立憲秩序」構想、坂本義和氏を中心とした「世界秩序モデル・プロジェクト」などと多分に共通性をもっているようである*。 *Sakamoto, Yoshikazu ed., Global Transformation, U. N Unirersity Press, 1994. なお、次の諸論文も参照。 最上敏樹「世界秩序論」(有賀他編『講座国際政治第一巻』東京大学出版会、一九八九年) 最上敏樹「国際機構と民主主義」(坂本義和編『世界政治の構造変動 第二巻』岩波書店、一九九五年) 最上敏樹『国連システムを超えて』(岩波書店、一九九五年) 鴨武彦「ポスト冷戦下の国際連合」(「国際法外交雑誌」九四巻五・六号、一九九六年二月) またヘルドは、デモクラシーのコスモポリタンモデルにおいて、さまざまのタイプの民主主義が、ローカルからグローバルにいたる一つの連続体を形成しつつ分業関係に立つと述べているが(第十章および二八〇ページ、注5)、これはわが国において松下圭一氏がつとに唱進してきた、政府レベルの三層構造論・政治イメージの五層構造論と一脈通じるものをもっているのである(たとえば、松下圭一『日本の自治・分権』岩波書店、一九九六年)。ヘルドの民主主義の「コスモポリタンモデル」を、このようなわが国その他の研究とつき合わせてさらに深めていく必要があるであろう。 |