立命館法学 一九九六年一号(二四五号) アジェンダ構築とメディア機能 −コブとエルダーの理論モデルを軸に− 立石 芳夫 |
は じ め に ここ近年、政治コミュニケーション研究は、「アジェンダ設定(agenda setting)」研究を中心に展開してきたといっても過言ではない。M・マコームズとD・ショウが、一九六八年の米大統領選挙における投票行動の分析をもとに、一九七二年に『パブリック・オピニオン・クウォータリー』誌に「マス・メディアのアジェンダ設定機能(1)」を発表して以来今日にいたるまで、アメリカを中心に、そしてわが国においても、マス・メディアのアジェンダ設定機能に関する多くの研究が蓄積されてきた。この研究が示唆するマス・メディアの主たる機能とは、「日々のニュース選択・提示活動を通じて、いま何が重要なトピックであるかというわれわれの知覚に影響を与え」ることだとされる(2)。換言すれば、マス・メディアは、人びとの考えや議論の柱となるアジェンダ(通常「議題」と訳される)を設定している、というものである。「マス・メディアは、態度の傾向や強度に対してはあまり影響を与えないかもしれないが、各々の政治キャンペーンにアジェンダを設定し、それによって政治争点に対する態度の顕出性(salience)に影響を与えていると仮定される(3)。」 アジェンダ設定機能仮説は、元来、マスコミ研究の概念として登場してきたが、この機能は「問題が政体の注意に値する政治争点として顕出的になる過程を指し」ていることから(4)、政治過程、とりわけ政策過程との関連で論じることができる。マス・メディアが設定したアジェンダは、人びとに認知されることによって注目と関心を集め、政策過程の重要な政治争点として浮上する可能性がある。反面、「少数の重要な争点や状況に注意を集中する代わりに、他の全ての争点や状況は無視するということが必然的に起こる(5)」。もちろん、マス・メディアのアジェンダ設定機能は、あくまでも認知効果レベルにおいて生じるものであるから、それが公衆の争点認知にどういう影響を及ぼすのかということと、政策過程におけるアジェンダにいかなる影響を及ぼすのかということとは、さしあたり別個の事象として区別される必要がある(6)。この点で、これまでのアジェンダ設定研究は、メディア機能を政策過程の動態に無媒介的に結びつけてきたきらいがある。 しかし、マス・メディアのアジェンダ設定機能と政策過程とを理論的に接合することは可能である。マコームズとショウが先の「マス・メディアのアジェンダ設定機能」を発表した同じ年に、奇しくも、R・コブとC・エルダーが政治学の立場から『アメリカ政治における参加』を公表し、「アジェンダ構築(agenda building)」モデルにもとづく、政策課題の形成過程を検討の中心にすえた政策過程論の新動向を提示した(7)。従来の政策過程論が政策立案過程や立法化過程を中心に論じてきたのに対し、コブとエルダーの議論の特徴は、ひとことでいえば、アジェンダ構築モデルにもとづいて立法過程以前の政策課題の認知・選択過程にまでさかのぼって検討し、この政策課題の形成過程におけるマス・メディアの世論喚起能力を重視している点にある。政策過程に浮上する政治争点は誰によって、また、どのようにして形成されるのかという課題を設定する、コブとエルダーの議論は、のちに本論で詳細に分析することになる。 アジェンダ設定研究は、主として、争点認知に関わるマス・メディアと公衆との二者関係を分析対象としてきたために、アジェンダ設定機能が政府の政策アジェンダにいかなる影響をもたらすのかという点については、十分な分析が行なわれてこなかった。それに対して、コブとエルダーのアジェンダ構築モデルは、マス・メディアのアジェンダではなく、政策のアジェンダを検討対象の正面にすえていることから、この議論を手がかりにアジェンダ設定研究の成果を包摂しつつ、政策過程におけるメディア機能を理論的に解明することが可能であると考えられる。ここに、政策過程の展開とマス・メディアの政治的機能との合流点を見出すことができよう。 アジェンダ設定機能仮説は、メディア・アジェンダを所与のものとして扱い、アジェンダが設定される過程についてはそれほど深く言及してこなかった。そこで、ニュースの制作メカニズムに関する研究の到達をふまえて、このメカニズムをルーティンや情報源との関連で分析することが、本論の第一の課題である。結論をやや先取りすれば、マス・メディアが合理的なニュース制作を追求し、情報源に著しく依存する傾向が、メディア・アジェンダの形成に大きく作用するのである。同時に、そのことが、アジェンダ構築におけるメディア機能を規定し、マス・メディアに政治争点の強力な拡大機能を賦与している。この点を明らかにすることが、第二の課題である。その際、アジェンダ構築におけるマス・メディアの役割をコブとエルダーのアジェンダ構築モデルを手がかりに論じていくが、彼らの議論が、政府の外部で起きる社会運動の争点拡大戦略(「外部主導モデル」)を中心にメディア機能を位置づけている反面、政府自体のマス・メディアを動員した争点拡大戦略については十分考察していないため、この点を補強することが本論の狙いでもある。 ところで、「アジェンダ設定」という用語と、しばしばそれと混同して用いられる「アジェンダ構築」という用語について、あらかじめ概念的区分を行なったほうがよいだろう。というのも、論者によっては、とりわけ政治学者のあいだでは、これらの用語が多義的に解釈されて用いられているため、本論で用いる用語の意味内容を説明しておいたほうが誤解を招かなくてもすむと思われるからである。まず、「アジェンダ設定」という用語は、先にも述べたように、マス・メディアが強調した争点はそれに対する公衆(受け手)の知覚を大きく左右するという、メディア論の理論的仮説として用いることにする。ちなみに、マス・メディアが争点を顕在化させる過程そのものについては、「アジェンダ設定過程」という用語が適切である。そして、「アジェンダ構築」という用語は、政府アジェンダないし政策アジェンダがすえられる政策過程の概念として用いることにする。このアジェンダ構築の使用法は、コブとエルダーのそれと同じである(8)。 第一章 ニュースの制作過程 1 政治コミュニケーションにおけるニュースの位置 ニュース研究はいまや、アジェンダ設定研究にかぎらず、政治コミュニケーション論の大部分の領域がおのずと検討対象としている分野である。現代の政治コミュニケーションの主たる特徴のひとつは、マス・メディアのメッセージ内容が、明確に認識できる一握りのエリートや支配階級などによって完全に管理・統制されてはいない、ということである。もっとも、厳密にいえば、個々のメディア機関そのものが私的資本によって所有・支配されている、ということはできるが、その場合でも、ジャーナリズム活動全般を支配していることはない。言論・表現の自由の原則が一応民主主義的制度として確立されているため、例えば、政府が赤裸々な暴力行使を背景に言論弾圧を行なったり、検閲などによるメディア機関に対する強力な管理・統制を行なうなどといった状況は、戦争などの非常時を除けば、現代の日常的な政治状況下では頻繁に生じることはない。このことは、現代のマス・メディアが、一面では、コミュニケーション過程において権力集団から一定の自律的地位を確保していることを意味する。 かつて、「大衆社会」論が、社会科学の有力な理論的視座として多くの研究者に注目されていた時期に、その影響力が反映して、社会集団から孤立した大衆はマス・メディアによる強力なエリートの遠隔操作を直接的に被る(9)、といったメディア効果論が喧伝されていた。こうした議論は、暗黙のうちに、送り手であるエリートないし政治的支配者のメッセージが無媒介的に受け手の態度や行動に影響をもたらすという、「刺激ー反応」モデルに立脚しており、今日的観点からみれば、一種の「メディア万能論」であったといえよう。あるアクターが自己のメッセージをできるかぎりストレートに伝達しようとする場合、広告がその最大の手段となるが、広告は政治コミュニケーションの手段としては、大きな弱点をもっている。有料であるという点を除いても、受け手からみれば、広告に掲載されるメッセージは、その内容に同意するしないにかかわりなく、広告主の関心・理念・価値を反映した、政治的に含みのあるものとして、したがって、一定のバイアスを伴う不公平なものとして認識されるからである(10)。また、従来の政治コミュニケーション論が選挙キャンペーン研究に著しく偏重していたのに対し、最近の研究対象の範囲は、選挙以外のより日常的な場面におけるメディア報道の政治的・社会的効果にも拡大されてきている(11)。 以上の政治コミュニケーション状況とその理論的動向を考慮すると、今日では、メディア機関の一定の自己裁量によって日常不断に人びとに提供されるニュースが、政治コミュニケーションが展開される最も一般的・包括的領域であることがあらためて確認できよう。日常の政治コミュニケーションがニュースを軸に展開されるということは、多くのメッセージがメディア機関の何らかの制作メカニズムを経由して、大なり小なり一定の修正を受けて報道されることから、報道の対象となっている当事者がメッセージ内容を完全に統制することは不可能に近いことを意味する。この意味で、大衆社会論にもとづくメディア論が主張するように、マス・メディアがエリートの政治支配の単なる道具であるとは、到底いえない。 それでは、ニュースはどのようにして制作されるのか。次に、ニュースの制作過程について論じていくことにしよう。 2 ニュース制作におけるバイアスとルーティン ここでは、まず、メディア機関内部ではいかなる基準や制約のもとで、ニュースが制作され報道されているのかという点に限定して、ニュース研究者のなかで大筋の一致をみていると思われる見解について考察してみよう。 M・マコームズとD・ウィーバーらは、マス・メディアのジャーナリズム活動(=ニュース制作)を次の三つの影響力の層からなるタマネギにみたてて、外側から順に、((1))ニュース機関の慣行と方針、((2))ジャーナリストが抱く価値観とジャーナリスト個々人の差異、((3))ジャーナリズムの伝統、にそれぞれ区分して検討している。 ((1))については、メディア機関は限られた予算内でニュース=商品を生産し、市場競争を克服しなければならないことから、効率的なニュース制作が重視され、その結果、テレビ、新聞ともに、比較的同質的な内容のニュースが報道されるのだという。((2))については、個々のジャーナリストは、一方では、専門的職業人として育成される「社会化」を経て同質的な専門家集団として再生産されていくが、他方では、個々人の特性や思想・信条の差異に由来する政治的バイアスがそのジャーナリズム活動に顕在化する可能性が指摘されている。しかし、後者の場合、個々のジャーナリストの政治的バイアスが問題になることがあるにしても、メディア機関活動全体においては、公正および機会均等の基準が日常のニュース報道の大枠を規定している。それゆえ、例えば、アメリカの過去三〇年間の選挙報道を概観しても、主要政党とその候補者はメディア報道において公正かつ均等な扱いを受けてきたとして、メディア報道の「中立性」は担保され、「党派的」という意味での政治的バイアスは概ね否定されているという。したがって、((3))については、たとえメディア報道にバイアスが生じたとしても、それは、ニュース報道の客観性基準を遵守してもカバーしきれない、「ジャーナリストが報道し、記事を書くという、まさにその本質から生じる構造的偏向」であると考えられている。そして、「ジャーナリスト個人の影響力、そして組織的な影響力が書くという形態を通じて表出される」点にこそ、ジャーナリズムの本質があるという(12)。 だが、個々のジャーナリストのニュース制作に対する影響力の評価、ないしはそれとも関連する、個々のジャーナリストとメディア機関との関係について、立ち入って理解するためには、以上の考察に加えて、現代のジャーナリズムがいかなる歴史的変遷をたどって形成されてきたのかを問う必要がある。塚本三夫は、ジャーナリズム活動を含めて「一般に知的・精神的労働といわれるものが、その本質上、『機械の論理』によって全面的に包摂され規定されにくい性質をもつ」としながらも、現代のマス・メディアが、その経済的実体からいって資本主義的企業であることを重視し、現代のジャーナリストを「マス・コミ」産業としてのジャーナリズムのなかで活動しているジャーナリストであると規定する。歴史的にみても、少なくとも西欧的文脈においては、言論性と思想性を本質的要素とする近代的ジャーナリズムは、産業革命を契機として本格化する資本主義の発展過程と、それとほぼ同時に進行するブルジョワ民主主義革命の過程においてはじめて成立する。やがて、この近代的ジャーナリズムは、株式会社化に伴って所有と労働(活動)が分離されて以降、「一人の、あるいは少数の個性による一貫した言論・思想の展開活動ではなく、最大限利潤追求の原理によって編成された機構に組みこまれたところの、『全面的』『機能的』な労働力を要求する一大商品生産活動」へと質的な転換をとげる。こうした近代的ジャーナリズムの現代的ジャーナリズムへの転換は、ジャーナリズムの価値の「意見」から「事件」への、さらには、ジャーナリストの「言論人」から「報道人」への転換をもたらし、これによって基本的に、「オピニオン・ジャーナリスト」の時代は終焉を迎えることになった(13)。 事実、ニュースとは、以上考察したような意味での現代的ジャーナリズムの必然的産物であるのだが、ニュース制作における個々のジャーナリストの役割は、平の記者であれ編集委員であれ、今日ではそれほど過大に評価されるようなものではない。著名なジャーナリストやテレビのニュース番組のキャスターなどが、一見ある種の強烈な個性を売り物にして視聴者の前に登場しているのも、あくまでもニュース制作の組織的活動の一環として彼らの活動が位置づけられている点に注意する必要がある。したがって、((3))のジャーナリズムの伝統についていえば、現代のメディア機関は、一面では利潤の最大限化を追求する資本主義的企業としての性格を有する以上、情報商品としてのニュースを指向せざるをえないため、かつての近代的ジャーナリズムの本質的要素であった高度な言論性や思想性は、完全に消失しないまでも、もはやかつての姿をとどめてはいない。 現代のジャーナリズムが「意見」の提示ではなく「事件」の報道に価値の重点をおいていることを前提にすると、ニュース報道においてあからさまな党派的バイアスが基本的に背後に退くことは当然の帰結である。だが、若干の検討を要する事例はある。今日の先進諸国におけるニュース・メディアの選挙報道を概観した場合、政治路線や政策をめぐる政党と新聞との提携・対立関係が比較的鮮明にあらわれている例として、まずイギリスの新聞をあげることができよう。R・ミリバンドは、おそらく自国イギリスの新聞を念頭におきながら、次のようにいう。「資本主義世界における新聞は、一つの重大な特徴を有しているのであって、すなわちそれは社会民主主義のより温和な諸形態よりちょっとでも左であるものに対して、そして全くしばしばこれらのより温和な諸形態に対してもまた、強い、しばしば熱烈な敵意をもつということである。このコミットメントは選挙時に最も明白に表現される(14)。」 ある調査によると、一九九二年の総選挙では、全国主要日刊紙の全発行部数のうち、親保守党系新聞は七〇・二%(七社)、親労働党系新聞は二六・六%(三社)、また、全国主要日曜週刊紙の全発行部数のうち、親保守党系新聞は六六・四・%(五社)、親労働党系新聞は三一・二%(三社)となっている。要するに、イギリスの主要新聞の総発行部数の約七割が、保守党支持を打ち出しているわけである。しかも、こうしたイギリスの新聞の親保守党傾向は、今日だけでなく、今世紀全般を通じてほぼ一貫した傾向であるという(15)。こうした点に着目すれば、イギリスの新聞の党派的バイアスは明瞭にみえるが、注目すべきことは、総発行部数のうち七割もの新聞が親保守党バイアスを掲げているにもかかわらず、同党の実際の得票率がおおよそ四〇%程度にすぎないという事実は、むしろ、党派的支持の影響力レベルにおける新聞の政治的インパクトの弱さを物語っているのではないか、ということである(16)。同様に、他の諸国にもまして「不偏不党」の原則を強調する日本の新聞についても、かつてある外国特派員が、「・・・日本の新聞は政府に対して・・・、例えば首相その他の閣僚の行為を賞賛することは”あまりやらない”ことにしている。一般に新聞が反政府であるのに国民は与党に多く投票している」と語ったことがある(17)。この発言では、日本の新聞の「反政府」的態度とこの国の戦後政治がほぼ一貫して保守政権によって担われてきた事実との間の大きなズレが指摘されているのである。 したがって、以上の二つの事例からいえることは、一定の党派的バイアスや反政府的立場を論調として明示しているとされる新聞は、実際の政治的インパクトという点では、必ずしも決定的な影響力を及ぼしていないということである。テレビやラジオなどの報道については、このことはなおさらである。多くの諸国では、放送には法制度の面から「公正」原則(その内容は必ずしも一律ではないが)の遵守を要求されているため、党派的バイアスそのものが少なくとも明白なかたちでは生じにくい仕組になっているからである。したがって、ニュースにおける政治的バイアスは、党派的なそれをもって論じることは困難である。 ところで、ニュースにおけるバイアスを強調する主張に対しては、ニュース報道は客観性を担保しているという反論がある。その論拠のひとつは、メディア=「鏡」説であり、もうひとつは、それとも密接に関連したジャーナリストとしてのプロフェッショナリズムの規範である。メディア=鏡説とは、メディアは「現実」に照らして、オーディエンスにとって重要な問題を客観的に報道しているというもので、いわば事件中心的アプローチともいえる。しかし、メディア=鏡説は、「社会的な出来事や事件があたかも客観的実体として外部に存在するかのように想定し」、「社会的現実の反映を反射的に考え、ニュース制作に関わる選択的メカニズムや組織的意志決定過程の戦略性を考慮せず無視している」という、「ふたつの虚構」のうえに成り立っている(18)。一方のプロフェッショナリズムは、メディア=鏡説の論理を補強するものとして位置づけられる。すなわち、それは、ジャーナリストは大学や専門学校での訓練を受けて専門能力を身につけているため、責任ある客観的な報道を手懸ける資格要件を充たしている、というものである。しかし、現代のニュース制作は、個々のジャーナリストの作業によってではなく、集団的作業によって遂行されていることから、「記者たちにとって、プロフェッショナリズムとは、組織のニーズと基準に沿った記事をつくるノーハウに他ならない(19)」。このように、ニュース報道におけるこれら二つの論理は、ジャーナリズムないしメディア機関がニュースの選択過程と報道姿勢の「客観性」を保持するために、意識するしないにかかわらず用いる、正当化の論理であるといえよう。 先ほどふれたように、マコームズとウィーバーらは、ニュース・バイアスとは「ジャーナリストが報道し、記事を書くという、まさにその本質から生じる構造的偏向」にほかならないと主張している。この指摘は、かつてW・リップマンが、ニュースとは「社会状況の全面を映す鏡ではなくて、ひとりでに突出してきたある一面についての報告である(20)」という認識にもとづいて、「ニュースの有限的性格と社会の無限の複雑さ(21)」の間に生じるズレを、ニュース・バイアスが生じる根本的要因として認識したものとほぼ重なるように思われる。G・タックマンが主張するように、「ニュース制作は出来事をニュースイベントにかえる」過程である(22)。この命題には、そもそもニュースというものが、一社会のなかで起きた無数の出来事を一定のフレームに照らして整理し、構成し、転換した産物であるという意味がこめられているが、現代のジャーナリズム活動の集団的工程をふまえるならば、出来事をニュースに転換する際に果たすルーティンの役割が重要な意義を帯びてくる。ニュース制作におけるルーティンとは、「メディア労働者がその仕事をする際に用いる、パターン化され、慣例化され、反復された実践形態(23)」であり、その目的は、余分な時間的・経済的コストを排除した、より合理的なニュース制作を実現し、メディア組織およびその労働者を報道に対する外部の批判から保護することにある。プロフェッショナリズムの規範が、この外部の批判・攻撃を遮断する役割を果たしていることはいうまでもない。 例えば、タックマンは、ジャーナリストが「客観性」を担保するためにルーティンにもとづく手続として、((1))対立する意見の論拠を提示すること、((2))「事実」の裏づけを提示すること、((3))他の人びとがいったことを引用したり、集団や事件の正当性が議論されるようにすること、((4))重要度順に情報を逆ピラミッド型に組み立てること、をあげている(24)。こうした手続は、記事の作成を合理的かつ円滑にすすめるための要件でもあるが、逆に、この手続が適用されることによって、複雑で多様な現実の「出来事」の諸側面が単純化・規格化・パッケージ化され、結果的に歪曲化される危険性がある点を見逃してはならない。また、オーディエンスの好評を期待して重視されるニュース価値としては、時宜性、近接性、重要性、衝撃性、社会的意義、利害性、抗争性ないし論争性、煽情性、卓立性、目新しさ、奇異性、異常性などを列挙することができる(25)。これらのいずれかの、あるいは複数の基準に該当する記事が、ニュース価値を有するものとして実際の報道に活用されるのである。 しかし、このような形式的な手続的要件だけでなく、マス・メディアの政治的・イデオロギー的機能に着目した、ニュース制作のメカニズムにも目を向ける必要がある。T・ギトリンは、ニュース制作におけるルーティンの役割について、「メディア・フレーム」という概念を用いて次のように説明している。「メディア・フレームとは、認知、解釈、例示、および選択、強調、排除に関する持続的なパターンであり、それによってシンボルの操作者は、言語的であれ視覚的であれ、ディスクールを日常的に組織する。フレームによって、ジャーナリストは膨大な量の情報を迅速かつ定型通りに加工処理することが可能になる。すなわち、この膨大な情報を情報として認識すること、経験的事実にもとづいたカテゴリーに割りふること、パッケージしてオーディエンスに有効に伝わるようにすること、である(26)。」そして、ギトリンは、マス・メディアが異議申し立て運動をどのように報道しているのかというテーマのもとに、メディア・フレームをA・グラムシのヘゲモニー概念と結びつけて、マス・メディアが、ニュース価値から逸脱した、既存の体制に挑戦的な集団やその意見を排除したり、異端として否定的に扱うそのイデオロギー機能を指摘している。したがって、何が重要なニュースとして報道されるのか、ニュース・バイアスはいかにして生じるのか、といった問題は、決してそのときどきの偶然性のみに委ねられるものではなく、社会全体の支配的なイデオロギー状況との関連において明らかにされるべき問題として位置づける必要がある。 そこでさらに、ニュース・バイアスの問題を解明するにあたって重要な位置を占めていると考えられる、ニュースとその情報源の関係について言及していきたい。 3 ニュースと情報源 マス・メディアは政治情報を入手する際、その情報源はどこに依拠しているのか。記事を書くための情報はどこから入手し、また、メディアの記者はどこで重点的に取材活動をしているのか。この点を明らかにすることによって、ニュース・バイアスの構造をよみとる重要な手がかりが得られよう。 C・シーモア=ウルは、イギリスの全国ニュース・メディアが政治報道の対象として注目している諸領域を、重要度順に次のようにランクしている。((1))首相、((2))内閣、((3))野党の党首、((4))「影の内閣」、少数政党の議会の指導者、選挙の重要人物、((5))下院、テレビが報道する社会的事件に関する番組、政党の定期大会、((6))政府の諸官庁、元老院、TUCの定期大会、((7))主要な圧力団体、全国紙、((8))主要政党の組織、主要な地方の官庁、欧州議会、((9))少数政党、((10))小規模の圧力団体、選挙区の政党組織、地方のニュース・メディア(27)。アメリカでは、同国の最有力紙である『ニューヨーク・タイムズ』と『ワシントン・ポスト』の記事の半数は、連邦政府を情報源としており(28)、首都ワシントンだけでも三〇〇〇以上のメディア機関、約一万人の記者が活動しているといわれている(29)。日本においても、『朝日新聞』東京本社に関する石川真澄の調査によると、政治部記者は政府の諸官庁や政党の、経済部記者は各産業界の、社会部記者は警察や都庁の、各記者クラブに重点的に配属されているという(30)。これらの事実から共通していえることは、ニュース・メディアの主たる情報源が、政府当局をはじめとするエスタブリッシュメントの政治諸集団の情報に偏重し、これに著しく依存しているということである。このため、ニュース・メディアがそのレトリックのうえで「客観報道」を堅持していても、情報内容そのものが既成の権力諸集団や有力な政治的アクター寄りのバイアスを内在しているのである。 しかし、だからといって、マス・メディアがこうしたエスタブリッシュメントの諸集団・機関によって一方的に操作される受動的な政治的立場にある、と考えるのは早計であろう。日本では、ニュース・バイアスについて論じる場合、その温床となっている「記者クラブ」の存在抜きには語れない。「日本異質」論でわが国でも名を馳せたK・ウォルフレンは、記者クラブを「ジャーナリストとその取材対象である〈システム〉側の各組織体とが共生するための制度化された機関」と定義し、歴史的にはこれを、戦前からの政府当局による情報統制とメディア自身による「自主検閲」の伝統の延長線上に位置づけている(31)。「共生するための制度化された機関」といわれるのは、当然、メディアと権力集団双方に、各々の利害関係にもとづく何らかのメリットがあるからである。それは、マス・メディアにとっては「重要な情報を見逃す心配がない」ことであり、権力集団にとっては「報道媒体の自主規制を円滑化する何よりの方法」だという点に求められる。また、後者の点から、「記者クラブを通じて情報を選択して流すのは、あからさまな政府の直接検閲よりはるかに体裁がよいし、ニュースと一般大衆の意識を当局の意向どおり標準化する手段として、より効果がある」という権力集団側の意図をつきとめることができる(32)。以上の日本のニュース・メディアに関するウォルフレンの指摘以外にも、メディアー政府関係について、両者の関係が支配ー被支配的関係でも、さらには、敵対的関係でもない、双方の利害の予定調和のうえに成り立つ一定の共生関係である、という指摘がなされている(33)。また、ニュース・メディアが、当局「筋」の情報に依存する傾向が強いことについては、その情報が信頼するに値する、権威のある情報であるという理由以外にも、そうした情報がメディアによって利便性に富み、アクセスが容易であるという組織的・経済的合理性の観点からも説明可能である(34)。この組織的・経済的合理性の観点が重視されるのは、多大な時間的・人材的・財源的コストを要する「調査報道」よりも、いわゆる「発表モノ」に依拠したニュース報道のほうが、日常のニュース報道全体に占める比重が圧倒的に大きいことからも明らかである。 ここで、これまでの考察をまとめてみよう。意見の提示ではなく、事件の報道に価値重点をおく現代のジャーナリズム活動にあって、党派的バイアスが日常のニュース報道において顕在化することは頻繁には生じない。また、党派的バイアスが明示的である場合も、その実質的な政治的効果との直接的関連は必ずしも明らかではない。しかし、ニュース報道が、真の意味で「中立」的であり、あらゆる種類のバイアスから免れているわけではない。むしろ、ニュース・バイアスは、集団的工程としてのニュース制作を合理化・規格化・迅速化するルーティンと、それとも関連する、ニュース記事の取捨・選択および解釈のパターンを定めるフレームとによって、構造的に生じる現象である。とくに、このニュース制作におけるフレームは、当該社会における支配的なイデオロギーを通して、政治的異端者の存在とその見解を排除する役割を果たす。また、メディア・ニュースが、情報を権力集団に著しく依存していることから、「体制」的バイアスの影響から完全に独立した地歩を築けないことはいうまでもない。したがって、マス・メディアのアジェンダ設定機能はさしあたり、ある争点に対する人びとの認知ー無認知効果に関わるものだが、これを政治過程と関連づけて論じる場合、これまで述べてきたようなニュース制作の基本的メカニズムを加味する必要がある。マス・メディアは、ある争点を顕在化させる点でアジェンダ設定機能を行使すると同時に、その他の争点を潜在化させる点でアジェンダ「非」設定機能を行使しているのである。P・バクラックとM・バラッツは、政策過程における権力の行使形態として、「政策決定者の価値や利害に対する潜在的ないし顕在的な挑戦を、結果的に抑圧したり妨害したりするような決定」を「非決定(nondecision)」と定義しているが(35)、この定式は、いくつかのアジェンダのなかから特定のアジェンダが設定されると同時に他のアジェンダが排除されるという、メディア・ニュースの選択過程にも適用することが可能である。この意味で、「メディアは、どのような集団、意見、政策に公衆の注意が注がれるのかを決める際に、検閲官としてふるまうようになってきている(36)」といっても過言ではない。 本章では、マス・メディアは何を重要な争点として提示するのかという、アジェンダ設定過程の前提にある基本的諸条件を、ニュースの制作過程の分析を通じて考察してきた。そこで次に、政策過程における政策課題設定過程に着目した、R・コブとC・エルダーのアジェンダ構築モデルについて、以上検討してきたニュース制作に示されるメディア機能とも関わらせながら論じていくことにする。 第二章 アジェンダ構築過程におけるマス・メディア 1 コブとエルダーのアジェンダ構築モデル 従来の政策過程論が主として、解決すべき問題や争点の存在を所与のものとみなし、すでに立法化された政策の決定過程を検討対象としてきたのに対して、アジェンダ・アプローチにもとづく政策過程論は、解決すべき問題や争点の取捨選択過程、つまり政策課題設定過程を分析対象の中心にすえている点に特徴がある(37)。この研究領域で大きな理論的貢献を果たしてきた議論として、R・コブとC・エルダーのアジェンダ構築モデルがある。彼らは、従来の多元主義理論に対する批判的認識にもとづいて、政策過程研究に関する次のような基本的視座を提示している。 第一に、いかなるシステムにおいても、影響力とアクセスの配分には固有のバイアスを伴う。したがって、システムはある人びとには有利に、それ以外の人びとには不利に機能する。第二に、政体が考慮する、争点の範囲と決定されるオルタナティブは制限される。それは、あらゆる人間組織には必ず処理能力と注意力に限界があるという事実と、「組織とは偏向を動員したものであるのだから、あらゆる形態の政治組織はある種の紛争を利用し、それ以外のものはおさえる、といった偏向をもっている。争点のなかには政治に組みこまれるものもあるが、排除されるものもある」という、E・シャットシュナイダーの「偏向の動員」の命題(38)とによって導かれる。第三に、政体が考慮しないだけでなく、その正当な関心事ともみなさない類の争点やオルタナティブが存在することからみて、既存の偏向を変更させることは、システムの惰性が働くためにきわめて困難である。第四に、以上の点から、前政治過程、あるいは少なくとも前政策決定過程は、いかなる争点やオルタナティブが政体によって考慮され、いかなる選択がなされるのかを決定するに際して、決定的な役割を果たすことがしばしばある(39)。 コブとエルダーのアジェンダ構築モデルの焦点は、政治システムのメインストリームから排除された社会運動が、自己の政治的要求をいかにして公的な政治決定の場に導入していくのかという点にある。以下、その過程においてマス・メディアがいかなる役割を果たすのかという点にも関心を払いつつ、この議論の概略を示しておこう。 争点とは、地位や資源の配分をめぐる諸集団間の紛争によって生じるものであるが(40)、その争点が、政体の注目に値する正当な関心の範囲内にある一連の漠然とした政治的論争となる場合、これをアジェンダという(41)。このアジェンダは方法論上、「公的(public)アジェンダ」と「公式(formal)アジェンダ」の二つに区分される(42)。前者の公的アジェンダは、「通常、政治社会の構成員によって、公衆の注目に値すると同時に既存政府の権威の正統な管轄権内でも重要である、と認識されるあらゆる争点からなる」。後者の公式アジェンダは、「権威的な政策決定者からみて、明らかに積極的かつ真剣な検討の対象となる一連の項目」と定義される。前者は「かなり抽象的で一般的な項目」であり、後者は「より特定化され具体的で、項目の数も限定されている(43)」。そして、公式アジェンダの優先順位は、必ずしも公的アジェンダのそれとは一致せず、その乖離が大きいほど政治システム内の紛争の規模と頻度は増大する(44)。このように、アジェンダ構築とは、紛争の当事者が、その利害と密接な関係がある何らかの争点を公的アジェンダ、さらには公式アジェンダに浮上させ、一定の政策効果を狙う政治戦略的行為にほかならない。 争点が公的アジェンダへのアクセスを獲得する三つの要件として、争点について、((1))広範囲にわたる公衆が注目していること、あるいは、少なくともそれを認知していること、((2))大多数の公衆のなかに、何らかの措置が必要だという共有された関心が存在すること、((3))問題が政府機関にとっても関心事でありその権限の範囲内に属する、という公衆の共有された認識が存在すること、があげられる。この「共有された関心」および「共有された認識」とは、社会の支配的な規範・価値・イデオロギーによって条件づけられる、意見の風潮をさす(45)。 争点が公式アジェンダの地位を獲得するには、少なくとも公式アジェンダの究極の監視者である重要な政策決定者の支持が一定数必要となる。政策決定者は公式アジェンダをかなり直接的にコントロールしうる地位にあるから、集団にとって彼へのアクセスは重要である。このアクセスの機会を多くもつ集団ほど、自己の要求をアジェンダに浮上させやすいことはいうまでもない。政策決定者がある特定の集団に恩恵を受けていること、あるいはその集団の構成員と結びついていること、ある集団が他の集団よりも多く、また巧妙に資源を動員できること、大企業や農業などのように社会・経済構造の戦略的地位にある集団の利害を無視できないこと、医者や法律家などのように社会的評価が高いこと、これらの要因が政策決定者とのアクセスの機会を左右する(46)。しかし、コブとエルダーの主要な理論的焦点は、エスタブリッシュメントの政治潮流から排除されている、とりわけマイノリティ集団が展開する争点拡大戦略にあるため、以上のような政策決定者との距離関係や紛争当事者の社会的・政治的地位の問題は、さしあたり問題とはされない。 争点がアジェンダの地位を獲得するためには、それが必ずしも公衆に拡大される必要はないが、紛争が拡大しそれに参加する公衆の規模が増大するほど、争点は公的アジェンダに、さらには公式アジェンダに到達する可能性が高まる(47)。紛争に参加するアクターは順番に、第一に、所属集団への関心が高く自己の利害と所属集団の利害を同一視し、紛争の最初に関与する「一体化集団(identification groups)」、第二に、一体化集団と同様に紛争に最初に関与するが、関心を特定の争点に限定する「注目集団(attention groups)」、第三に、比較的教育・所得水準が高く、情報・関心にも富む、オピニオン・リーダー的存在である「注意深い公衆(attentive public)」、第四に、活動的でなく、関心・情報に疎く、最後に紛争に関与してくる「一般公衆」、にそれぞれ分けられる(48)。要するに、後者のカテゴリーに属する人々が紛争に関与してくるほど、紛争の規模も拡大してくるというわけである。 また、紛争の拡大は、争点の特徴に規定される。争点が曖昧に定義されていること(「明確性」ないし「具体性」)、「社会的重要性」、争点が即時的な緊急性を越えて長期間意義を有すること(「時間的関連性」)、複雑で技術的な問題が簡潔に定義されていること(「複雑さ」)、争点が先例のないものであると定義されること(「カテゴリー上の先例」)、さらに、争点そのものの特徴とは別に、争点に対する公衆の注意を最大限引き出すまでに要する時間が短いこと(「時間の間隔」)も、紛争の拡大要因として指摘されている(49)。 コブとエルダーは、集団が争点を公的アジェンダ、さらには公式アジェンダに上昇させる際に、マス・メディアがきわめて重要な役割を果たしていると指摘しているが(50)、以上のような争点の特徴を定義づける場合に、シンボル操作とそのためのメディアの動員が不可欠であるとして、次の五つの戦術について言及している。 第一は、「喚起(arousal)」である。これは潜在的支持者を活性化させる戦術である。喚起戦術を左右するのはマス・メディアである。ある争点がひとたび多くのオーディエンスを獲得するやいなや、喚起は雪達磨式に増大する。メディアは、ひとたび紛争に関心をもつようになると、それに関する既存の定義づけを補強したり変更したりする際に重要な役割を果たすことがあるからである。ただし、マス・メディアは通常、喚起の起爆剤そのものとはなりえず、集団は、メディアの注目を集める前に、活動上の一定の成功をおさめておかなければならない。第二は、「挑発(provocation)」である。これは、例えば、公民権運動におけるデモ隊の警察への挑発にみられるように、反道徳的な言語やシンボルを活用して相手側の行動(この例では、警察による弾圧など)を誘発することによって、より大きなパブリシティと共感を得る、という戦術である。挑発戦術が用いられるのは通常、少なくともリーダーが喚起戦術が失敗したと判断した場合や、またそれとも関連して、敵対者が喚起に成功した場合である。挑発は、他の戦術以上にマス・メディアへの依存を要する。集団のリーダーはしばしば、挑発活動を利用して事件を拡大するようにメディアに働きかけ、実際、メディアも報道価値があるとしてそれに注目することがある。その場合、事件が、オーディエンスの期待する煽情性、過激性、ドラマ性を具備しているかどうかが重要となる。第三は、「諫止(dissuasion)」である。これは、シンボルを活用して、敵対者に積極的な反対者であるのを思い止まらせたり、味方に加わるように促したりする戦術である。第四は、「示威行為(demonstration)」である。これは、集団が国旗や徴兵カードを燃やすなど、しばしばその命運をかけて打って出る、いわば最終手段であり、その分メディアの注目度も高いが、失敗した場合の集団側のリスクも当然大きい。最後は、「断言(affirmation)」であり、支持者を勇気づけ、組織内の「統一と団結」を強調するためにシンボルを用いる戦術である。いずれの場合も、集団がシンボル闘争に勝利するためには、シンボリックな文脈のなかでアピールを行ない、支持者、潜在的支持者、敵対者、政策決定者に最大限のインパクトをもたらすことが鍵となる(51)。 ところで、紛争が拡大すればするほど、争点が公的アジェンダにすえられる可能性は増大するという命題は、その紛争がどの程度まで拡大するかによって当該集団の争点拡大戦術が決定される、という命題をも示唆する。紛争が一体化集団を越えて拡大せず、しかもその集団が政治システム内で有力な地位にない場合は、集団は自己の要求を認知させるために、暴力ないしその威嚇に訴えざるをえない。当然、この戦術は、違法性が問われるため失敗する公算が高い。紛争が注目集団にまで拡大した場合は、ある政党や候補者の当落を左右できるまでに影響力を有する集団であれば、選挙で投票しない、あるいはキャンペーン資金を納入しないなど、暴力以外のさまざまな威嚇ないしサンクションが主要な手段となる。紛争が注意深い集団にまで拡大した場合は、動員できる資源はさらに拡大する。公共住宅、公害、福祉、税政策などの争点は、すでに公的アジェンダの地位を獲得している場合が多いが、集団は、こうした争点をめぐって政策決定者と接触するチャンネルを獲得し、それを経由して争点を公式アジェンダに上昇させることが可能となる。最後に、一般公衆にまで紛争が拡大すると、争点はほとんど自動的に公式アジェンダに浮上する(52)。 争点がいったん公式アジェンダに浮上すると、問題が解決されるか否かに関わりなく長期間存続する。仮に、争点が「解決」されたとしても、その実施方法をめぐって議論は存続する。政治システムは常に多くの問題をかかえているため、新しい争点が公式アジェンダの地位を獲得することは、きわめて困難である。そのため、例えば、高齢者を対象とする医療制度(Medicare)といった新しい争点が、公式アジェンダの地位を獲得するためには、社会保障制度という既存のアジェンダ項目に照らして自己を定義づけることが必要な場合がある(53)。 以上のコブとエルダーの議論を簡単にまとめると、次のようになる。政治システムのメインストリームから排除された社会運動団体が、自己の要求を政治争点として最終的に公的決定の場にもちこむためには、第一に、マス・メディアの影響力を動員しつつ争点に関するシンボル操作を成功裏におさめ、それによって第二に、多くの人々の注目と関心を獲得し、政策決定者が無視できないまでに争点をめぐる紛争の規模を拡大する必要がある、ということである。以上のアジェンダ構築は、((1))集団が不満を組織化する「始動(initiation)」、((2))漠然とした不満が特定の要求に転換される「特定化(specification)」、((3))争点がアジェンダに到達するように、政策決定者の注目を引きつけるだけの圧力や関心を創出する「拡大(expansion)」、((4))公式アジェンダへの到達を意味する「参入(entrance)」の過程に分けられる(54)。こうしたアジェンダ構築モデルは、政策過程の課題設定過程における一般公衆の政治的能動性を理論的視座におさめている点で、大衆の政治参加とエリートによる政策決定との切断を強調しがちな従来の政治理論のギャップを可能なかぎり埋め合わせる作業として、重要な位置を占めているといえよう。 しかし、コブとエルダーのアジェンダ構築モデルには、以下のような問題点がある。 第一に、アジェンダ構築の議論の射程を、社会運動を中心とする政府外集団の争点拡大戦略に限定しているため、アジェンダ構築過程の総体が視野におさめられていない。それは、政府やエリートがアジェンダ構築において果たす役割を排除していることを意味する。もっとも、コブらはこの点を意識したのか、のちに、アジェンダの構築主体を軸にアジェンダ構築を、((1))争点が政府以外の集団によって提起され、最初は公的アジェンダに、最終的には公式アジェンダに拡大するパターンを「外部主導(outside initiative)モデル」、((2))争点が政府内で提起され、その結果ほとんど自動的に公式アジェンダの地位を獲得し、さらにそれが政策決定者によって公的アジェンダに拡大されるという、((1))とは正反対の過程を経る「動員(mobilization)モデル」、((3))争点が政府内で提起されるが、争点が公的アジェンダに拡大されることをエリートが望まない「内部アクセス(inside access)モデル」にそれぞれ区分している(55)。これまでの叙述からも明らかなように、社会運動の争点拡大戦略は、((1))の外部主導モデルに該当するが、このようなモデルの区分がされてもなお、((2))の動員モデルと((3))の内部アクセス・モデルについては、その意義が十分展開されているとはいいがたい(56)。ある争点が公式アジェンダに上昇するためには、紛争の拡大戦略が唯一の経路ではない。ごく一般的に考えても、アジェンダ構築において、動員モデルや内部アクセス・モデルが想定する、政府ないしエリートの影響力を無視することはできない。それゆえ、右記の三つのモデルを統合する理論を構成することが、アジェンダ構築モデルの理論的洗練度を高めるにあたって、必要な課題となる。 第二は、アジェンダ構築におけるマス・メディアの位置づけに関してである。人びとがある争点を認知する際に大きな影響力を及ぼしているという、前章で述べたマス・メディアのアジェンダ設定機能のテーゼを前提にすれば、コブとエルダーがアジェンダ構築におけるマス・メディアの役割を重視し、これを社会運動の戦略的資源として位置づけているのはもっともである。しかし、マス・メディアが社会運動の主張を社会的に流布する単なる「導管」ではないことに注意しなければならない。アジェンダ構築には、常にシステムのバイアスが介入してくるという彼らの主張はそのまま、マス・メディアのアジェンダ設定過程についてもあてはまる。したがって、集団の争点が、政策過程におけるアジェンダの地位を獲得するかどうかに先立って、マス・メディアのメディア・フレームに照らして注目に値するものであるかどうかが、集団がおそらく初期の段階で直面する関門のひとつになると考えられる。そのうえ、仮に、マス・メディアが紛争に大きな関心を払ったとしても、集団側からみて好意的なシンボルが創出されるとは限らない。マス・メディアから注目を受けることと、集団側がその行動や事件について自らの定義を有効に表明できることとは、明らかに別問題だからである。むしろ、「ニュース・メディアは、従属的な集団の活動を陳腐化し単純化し、説明や議論を台無しにして、壮観なデモンストレーションに焦点を当てる傾向がある(57)」。集団の活動がメディアの注目を集めて実際に報道される場合、最終的にはあくまでもメディアのフレームにもとづいて解釈されるという点を無視してはならないが、当然、集団側も自己の戦略が有利に展開するようにシンボル操作を試みる。このようにみると、メディアのアジェンダ設定過程への争点浮上とシンボル操作をめぐって、集団側とメディア側との間でどちらが主導権を掌握するのかという、一種の「イデオロギー闘争」が展開されているといえよう。 いずれにせよ、集団が、マス・メディアの好意的な注目を集めるためには、マス・メディアのアジェンダ設定、および、それとも関連するシンボルの定義づけの問題という二つの関門を通過しなければならない。メディア・ニュースの制作メカニズムをブラックボックス化して、争点の拡大過程のみをとらえる立場は、マス・メディアを単なるメッセージの伝達手段とみなす「道具主義」的なメディア観(58)に陥る危険性がある。もっとも、コブとエルダーが以上のような問題意識をまったく欠いていたわけではない。彼らは、ある集団の争点がアジェンダに浮上するのを阻止しようと試みる敵対者が、「共産主義者が支配している」などといった集団の存在自体に焦点を当てた攻撃と、集団がかかげる主張・要求に対してそれが非現実的であるなどと、直接・間接に攻撃を加える場合があることに言及している(59)。問題は、ここでいう敵対者が誰なのか、その攻撃が争点の拡大戦略にどのように作用するのかということである。いま述べたマス・メディアの役割について、もう少し議論を深めていく必要があったと思われるのである。このように、コブとエルダーの議論の弱点として、社会運動の紛争拡大戦略以外のルートによるアジェンダ構築にほとんど言及されておらず、とりわけ、アジェンダ構築における政府ないしエリートの役割が検討対象から除外されている点、さらに、マス・メディアのアジェンダ設定機能およびシンボル操作のメカニズムが十分に考慮されていない点、があげられる。 コブとエルダーの議論からとり残されたこうした論点を、本論で全面的に補うことはできないが、社会運動の紛争拡大戦略以外のルートを経由して進展するアジェンダ構築について考察することが必要である。コブとエルダーは、アジェンダ構築におけるマス・メディアの役割を重視しているが、それはあくまでも、外部主導モデルが想定する社会運動による争点の拡大過程がまず前提にあって、そこにメディアが関与してくるという、ある意味でその「脇役」的な側面に着目したにすぎない。そこで次に、マス・メディアをアジェンダ構築の主体として位置づけた場合、いかなる政治的意義を見出せるのかを考察していきたい。具体的には、マス・メディアの「調査報道」が、争点(=社会的不正事件)を政策アジェンダの地位に上昇させた事例を検討対象にすえる。あらかじめいっておくと、そこでは、前章で言及したニュースの情報源をめぐって、ジャーナリストと政策決定者の利害の予定調和のうえに成り立つ相互関係が、重要なファクターとして作用する。 2 メディアの調査報道とアジェンダ構築過程 種々の不正事件を追求したジャーナリストの調査報道が、世論を喚起して政治過程に一定のインパクトをもたらすことがあるが、この現象をアジェンダ構築モデルに照らして分析した場合、いかなる特徴点が見出されるであろうか。この問題を、アメリカのマスコミ研究者D・プロテスらの研究にそくして検討してみる(60)。 通常のニュース報道と区別される調査報道の特徴は、ニュース機関のルーティンに埋め込まれた取材活動とは異なって、多大な時間と資金を投資して独自の情報収集活動を展開する点にあるが、それと同時に重要なものとして、不正事件に対する公衆の怒りをバネに世論を喚起することをジャーナリズムの最大の活動目的にすえていることにある(61)。六〇年代末から七〇年代前半にかけて、ベトナム反戦運動やウォーターゲート事件などの報道が、アメリカでも世界的にも華々しい脚光を浴びていたことを想起すれば、不正をはたらく政府と真正面から対決して社会的正義を体現するという、理念的なジャーナリズムの姿をイメージすることができよう。 調査報道がアジェンダ構築に及ぼすインパクトをとらえるモデルとして、公表されたメディア調査→世論の変化→公共政策の改革、という直線的な過程を想定する「動員モデル」がある。この動員モデルという用語は、政治学者が「大衆動員」モデルないしは「大衆支持」モデルと呼称するものであるが(62)、先にコブとエルダーが用いたそれとは、意味内容がまったく異なる概念なので注意されたい。ともあれ動員モデルは、「一般公衆はひとたび動員されると、変革の触媒」となり、「メディアの暴露記事は、最初に世論を変えることによって、公共政策の改革につながる」という発想にもとづいている。さらに、動員モデルの理念的・規範的前提にあるのが、「責任ある政府に対してその意志を行使する情報に通じた市民」という古典的市民概念であり、いわゆる「プレスの社会的責任」論に通ずる論理が内包されている(63)。プロテスらが設定した課題は、事例研究にもとづいて、調査報道の政治的インパクトをアジェンダ構築モデルにそくして検証するとともに、この動員モデルの適否を問うことにある。 しかし、プロテスらの事例研究の多くは、こうした動員モデルのテーゼを支持していない。調査報道自体は事件に対する人びとの認知に大きな影響を及ぼしたにせよ、事件が報道される以前から、実際には政策アジェンダが設定されていたからである。また、アジェンダ構築に後続する実際の政策的措置についても、公衆の圧力に対する反応によってではなく、政策決定者のイニシアティブによって行なわれたものであったという(64)。利益集団も多くの場合、すでに着手されている改革をうながしたにすぎず、アジェンダ構築に影響力を及ぼしていない(65)。このように、プロテスらの研究では、公表されたメディア調査→世論の変化→公共政策の改革、という直線的過程を想定する動員モデルのテーゼは検証されなかったのである。コブらの外部主導モデルでは、公衆の紛争への参加が前提条件とされているが、ここで扱われた事例では、公衆不在のままアジェンダ構築が進展したのである。 さらに重要なことは、報道によって争点が公衆に広まる以前に政策アジェンダが設定されていただけでなく、それがジャーナリストと政策決定者との積極的な協力体制のもとにおしすすめられていたことである。前章で、今日のジャーナリストと権力集団との関係について、敵対的な関係ではなくむしろ、両者の利害の調和のうえに成り立つ共生的な関係であることを指摘したが、ここでは、少なくともルーティン活動に位置づけられた情報収集活動だけでなく、ニュース・メディアの独自取材にもとづくとされる調査報道においても、両者の間にそうした関係が形成されていることが確認できる。プロテスらは、調査報道におけるジャーナリストと政策決定者のこのような関係に着目して、動員モデルにかわる調査報道の「提携(coalition)モデル」を提唱する。このモデルによると、ジャーナリストは、調査報道を行なうために必要な時間や財源などのリソースが不足すると、政策決定者との協力関係を深めていく。当然、政策決定者の地位を危うくするような情報は表面化しないし、あるいはそうした情報が記者に漏らされたとしても、「オフレコ」として実際の調査報道では削除される可能性が高い。そして、この「調査報道の制度化」によって、一方の政策決定者は、不正事件の問題解決のために彼らの活動に対するマス・メディアの注目を引き出すことができ、円滑にアジェンダ構築戦略をおしすすめる絶好の機会を得る。提携モデルにおいては、公共政策のアジェンダ構築におけるマス・メディアの役割は増大するものの、政策決定者優位のもとにアジェンダ構築が行なわれるために、政策に対する調査報道のインパクトは結果的に減少する。この意味で、両者の関係は必ずしも対等ではない。さらに、一般公衆は、政策課題に対する支持を得るための単なる客体としてみなされる。争点の創出とその解決の主導権は終始、政策決定者とジャーナリストによって掌握され、公衆をバイパスして重要な公的争点が決定される(66)。したがって、提携モデルは、公衆がある争点をめぐる紛争に参加する規模が大きくなるほど、その争点は公的アジェンダや公式アジェンダに上昇するという、コブとエルダーのアジェンダ構築モデルとは大きく性格を異にする、いまひとつのアジェンダ構築のパターンを示しているといえる。 このような提携モデルは、コブらが提示した三つのアジェンダ構築モデルにあえて照らしていえば、動員モデルと内部アクセス・モデル両方のパターンを兼ね備えたものに相当すると考えられる。調査報道によって争点が明らかにされる以前に政策決定者が内密にアジェンダを構築するという点で、内部アクセス・モデルと類似している。それゆえ、政策決定者が、この提携関係を利用してジャーナリストに情報を「リーク」し、世論操作の手段として活用しうることが十分に考えられる。他方、事後的ではあれ公衆の支持を獲得するために、メディア報道の協力のもとに争点を公表するという点では、動員モデルの性格を帯びている。いずれにせよ、このようなジャーナリストと政策決定者との提携関係は、アジェンダの構築を制御するための、いわば「争点管理システム」として強力な政治的機能を果たしているといえる。ただ、ひとことだけつけ加えるならば、こうした提携関係によって、コブとエルダーが指摘した公的アジェンダと公式アジェンダの著しい乖離が生じた場合、いかなる事態が生じるのかについては、検討に値する重要な論点となってこよう。 3 メディア機能に関するキングダンの見解 前章で述べたように、通常のニュース報道では、調査報道よりも、しばしば「発表モノ」と呼ばれる、半恒久的な取材源を軸に制作されるニュース報道のほうが、量的には圧倒的な比重を占めている。そのため、プロテスらが提示した提携モデルに示されるようなかたちで、アジェンダ構築においてマス・メディアが能動的な役割を果たすケースは、決して多いとはいえない。そこで次に、コブとエルダーと同様に、政策過程における課題設定過程に着目するものの、マス・メディアの役割について限定的な立場をとっている、J・キングダンの見解を考察してみよう(67)。 キングダンは、マス・メディアは明らかに世論のアジェンダに影響を及ぼしているとしながらも、ある争点に関するニュース報道がしばしば短時間で終了するため、政策アジェンダに対する影響力という点では、必ずしも強力ではないという見解を示している。しかも、ニュース報道は、重要な争点を扱う場合でも、争点がすでに政策過程の入口の段階ではなく出口の段階にさしかかっていることが多いため、後追い報道となる可能性が高い。つまり、メディア報道より前に、あるいは、メディアによってほとんど影響を受けない過程を経て、政策アジェンダが構築されているため、アジェンダ構築におけるマス・メディアのインパクトはいっそう弱まるという。 こうしてキングダンは、マス・メディアの政治的影響力を次のように限定的にとらえている。第一に、マス・メディアは、政策コミュニティ内で伝達者としての役割を果たす。政府内のアクター間においても通常は十分なコミュニケーションをとることが困難であり、その場合、新聞などのメディアが彼らの情報提供の場を設ける。第二に、メディアがアジェンダに影響を及ぼすのはあくまでも、官僚や議会などが提起した争点を拡大することによってであり、メディア自体が争点を創出することはできない。第三に、マス・メディアは世論を媒介に、一定のアクター、例えば議員などに影響を及ぼす。議員からみればメディア報道に接触した自己の選挙区の有権者の声(=世論)を無視できないという意味で、マス・メディアは直接的にではなく世論を介して間接的に政治的アクターに影響を及ぼしている。第四に、マス・メディアの重要性は、アジェンダ構築の参加者によって異なってくる。つまり、政府外のアクターは、政府内のアクターよりも、アジェンダ構築に影響力を及ぼす点で不利な立場におかれているため、メディアの動員が必要不可決になると考えられる(68)。 以上のキングダンの議論は、アジェンダの構築主体としての主導権は基本的に議会を含む広い意味での政府が掌握しているという点で、コブらのアジェンダ構築モデルでいう動員モデルに近いようにみえる。しかし、動員モデルには、政府ないしエリートが構築したアジェンダに対する公衆ないし世論の支持が、不可欠な要素として組み込まれているのに対して、キングダンの理論構成においてはそれが重視されていないため、動員モデルとはかなりの開きがある。キングダンは、やや仮説的ではあるが、世論ないし「国内の雰囲気(national mood)」がアジェンダ構築に一定のインパクトをもたらしうると主張している。しかし、エリートが世論を察知するチャンネルとして、利益団体のリーダーや政党の活動家との接触、あるいは新聞の社説、政治家への嘆願などが設定されている反面、世論の形成主体として一般公衆が排除されていることから(69)、アジェンダ構築におけるメディアを介した大衆的動員という視点は、そもそもキングダンの議論にはみられない。このように、彼の議論は、動員モデルとも異なると同時に、マス・メディアの役割をかなり過小に評価している。さらに、コブらの外部主導モデルについてはなおのこと、キングダンの議論といっそうの隔たりがあることはいうまでもない。アジェンダ構築に関するコブとエルダーの見解とキングダンのそれとの相違点は、端的にいって、アジェンダ構築の主体として、コブとエルダーが一般公衆の政治参加の要素を強調しているのに対し、キングダンは政府内のアクターのイニシアチブを重視している点にあるといえる。 お わ り に 以上、政策過程の争点形成過程ないしは政策課題設定過程におけるマス・メディアの役割を、コブとエルダーのアジェンダ構築モデルを手がかりに検討してきた。当初、社会運動の争点拡大戦略のみに限定されていたコブとエルダーの提示したアジェンダ構築モデル(外部主導モデル)に、その後コブらによって、動員モデルや内部アクセス・モデルが新たに加えられたが、この二つのモデルの理論的意義が十分検討されていないのではないかという疑問が筆者の念頭にあった。こうした問題意識にもとづいて、プロテスらの提携モデルやキングダンの議論を中心に、この隙間を埋める作業を行なってきた。 ところで、辻村明は、政治の「総過程」を「政治権力と大衆との間で、政治の上昇過程(input process)と下降過程(output process)とがサイクルを描く過程」と規定し、マス・メディアを「このサイクルの中央にあって、政治の循環を促進ないし阻害する媒介者」と位置づけている(70)。メディアは単なる「媒介者」ではない、という疑問はさておき、このテーゼで重要なのは、マス・メディアの位置がここでいう政治権力と大衆の間のどこに位置しているのかという点である。歴史的にいえば、政治的実践活動と密接に関連した意見の提示が、その活動の中心におかれていた近代のジャーナリズムでは、マス・メディアは政治権力よりも大衆寄りのスタンスに位置していたと考えられよう。事件の報道を主目的とする現代のジャーナリズムでは権力機関への情報依存が増大するため、逆に、マス・メディアは権力寄りのスタンスに位置していると考えられる。仮に、「メディアの権力」の固有性をアジェンダ設定機能に求めるにしても、その現実的機能はこのような政治過程におけるマス・メディアの位相的関係によって大きく左右される。その意味で、メディアの権力は、政治的諸環境との相互関係的な文脈のなかで検討されなければならない。 このような視角は、本論で言及してきた、マス・メディアがアジェンダ構築に及ぼす政治的インパクトについて考察する場合にも、きわめて重要な意義を帯びてくる。例えば、マス・メディアがアジェンダ構築において能動的な役割を果たす可能性を示した、プロテスらの提携モデルは明らかに、大衆よりも権力寄りのスタンスに位置するマス・メディアの機能に焦点が当てられていると解釈できる。マス・メディアと大衆との距離が離れているために、大衆をバイパスしてアジェンダ構築が展開するのである。 キングダンがマス・メディアをアジェンダ構築の主要な主体とみなしていないように、多くの場合、アジェンダ構築におけるマス・メディアの主たる機能は、争点の「創出」機能よりも争点の「拡大」機能にあるといってよい。このことは、コブらの外部主導モデル、動員モデルともにあてはまる。この二つのモデルは、対極的な関係にあり、先の辻村の政治過程モデルに照らしていえば、外部主導モデルは「上昇過程」におけるアジェンダ構築に、動員モデルは「下降過程」におけるアジェンダ構築に、それぞれ相当する。しかし、この二つのモデルが想定するアジェンダ構築は、共通の土俵で論じることはできない。政治システム固有のバイアスも加わって、通常、政治過程においては、上昇過程に対する下降過程の優位の状況が示されるからである。マス・メディアは多くの場合、争点の創出者にはなりえない。しかし、新井直之が、「((1))ある事件にすべてのマス・メディアが動員され、((2))その事件に紙面・番組をできるだけ割き、((3))その報道の姿勢がすべて同じ」という三条件を兼ね備えたメディアの報道状況を、「総ジャーナリズム」と定義づけているように(71)、とりわけ政府が創出した争点の拡大過程にこの「総ジャーナリズム」状況が生じた場合、全国民的規模におよぶ争点管理システムが確立される。この傾向は、メディアが政府「筋」の情報に著しく依存していることによって、いっそう助長される。しかも、総ジャーナリズム状況は概して、外部主導モデルよりも動員モデルのアジェンダ構築において生じる頻度が高いことから、マス・メディアが政府の争点を拡大する機能は、コブらの外部主導モデルが想定するメディア機能と同様に、あるいはそれ以上に重要な意義をもつ場合がある。このようにみると、現代のマス・メディアは、政策過程に浮上する争点の拡大にきわめて大きな影響力を及ぼしている、といえよう。 以上、本論では、合理的なニュース制作の追求と政府情報への過度の依存傾向に示される、マス・メディアのニュース制作のメカニズムが、メディア・アジェンダの形成に重要な作用をもたらしていることに着目することによって、コブらのいう動員モデル(内部アクセス・モデルも含めて)の理論的意義について検討を加えてきた。本論は、政策過程における政策課題設定過程に議論を限定したため、それに後続する政策立案過程や、政策決定過程、政策執行過程においてマス・メディアが及ぼす影響力については、さしあたり考察の射程外にある。例えば、ある争点が政策アジェンダに浮上したとしても、法案として議会の審議にかけられ、いよいよ採択の段階にさしかかったときに否決される、ということがしばしばある。こうした政策過程の局面でマス・メディアはどのような影響力を及ぼすのか、といった興味深い問題が想起されよう。しかし、いずれにせよ、アジェンダ構築は、後続する政策過程の展開の基本条件を準備するため、こうした問題は、アジェンダ構築との関連で問われるべき課題となることはいうまでもない。 (1) McCombs, M., and Shaw, D.,”The Agenda-Setting Function of the Mass Media, Public Opinion Quarterly (36), 1972, pp. 176-187. (2) Weaver, D., Graber, D., McCombs, and M., Eyal, D., Media Agenda-Setting in A Presidential Election: Issues, Images, and Interest, Praeger, 1981.(竹下俊郎訳『マスコミが世論を決める−大統領選挙とメディアの議題設定機能』勁草書房、一九八八年、四頁。) (3) McCombs, M., and Shaw, D., op. cit., p. 177. (4) Cook, F., Tyler, T., Goetz, E., Gordon, M., Protess, D., and Molotch, H.,”Media and Agenda-Setting: Effects on the Public, Interest Group Leaders, Policy Makers and Policy, Public Opinion Quarterly (47), 1983, p. 17. (5) Weaver, D., Graber, D., McCombs, and M., Eyal, C., op. cit.(前掲訳書、四頁。) (6) Pritchard, D.,”The News Media and Public Policy Agendas, Kennamer, D. (ed.), Public Opinion, the Press, and Public Policy, Praeger, 1992, p. 108. (7) Cobb, R., and Elder, C., Participation in American Politics: Dynamics of Agenda-Building, 2nd ed., Baltimore: Johns Hopkins Univ. Press, 1983. (8) 例えば、マスコミ研究者の佐藤毅は、マス・メディアがある争点をアジェンダにすえる過程やメカニズムをいい表わす場合、「設定」ではなく「構築」という用語を用いるべきだと主張している。佐藤毅『日本のメディアと社会心理』新曜社、一九九五年、二〇三ー二〇四頁。しかし、この使用法だと、コブとエルダーが用いているように、政策過程におけるアジェンダ「構築」と区別がつきにくくなる。そこで本論では、「構築」という用語を、マスコミ概念としてではなく、あくまでも政策過程論の概念としてのみ用いることにする。「アジェンダ設定」、「アジェンダ構築」ともに、政治学とマスコミ論との間でも、また各々のディスプリン内でも、その意味がクロスされたかたちで用いられる傾向が非常に多い。例えば、政治学者のあいだでも、政策過程に関連するアジェンダについて、コブとエルダーは「構築」という用語を、そしてこのあと本論でもふれるキングダンは「設定」という用語を使用している。「アジェンダ」という用語が政治学でもマスコミ論でも使用される以上、概念上の統一性を保つために、交通整理が必要だと思われる。 (9) Blumler, J., and Gurevitch, M.,”The Political Effects of Mass Communication, Gurevitch, M., Bennett, T., Curran, J., and Woollacott, J. (eds.), Culture, Society and the Media, Routledge, 1982, pp. 242-243. Nimmo, D., and Swanson, D.,”The Field of Political Communication: Beyond the Voter Persuasion Paradigm, Nimmo, D., and Swanson, D. (eds.), New Directions in Political Communication: A Resource Book, Sage, 1990, pp. 8-9. (10) McNair, B., An Introduction Political Communication, Routledge, 1995, p. 110. (11) Blumler, J., and Gurevitch, M., op. cit., p. 241. (12) McCombs, M., Einsiedel, E., and Weaver, D., Contemporary Public Opinion: Issues and the News, Lawrence Erlbaum Associates Publishers, 1991.(大石裕訳『ニュース・メディアと世論』関西大学出版部、一九九四年、四〇ー五〇頁。) (13) 塚本三夫『現代のコミュニケーション』青木書店、一九七六年、一〇四〜一三四頁参照。 (14) Miliband, R., The State in Capitalist Society, Weidenfeld and Nicolson, 1969.(田口富久治訳『現代資本主義国家』未来社、一九七〇年、二五一ー二五二頁。) (15) McNair, M., op cit., pp. 54-55. (16) Ibid, p. 56. (17) 日本新聞協会『新聞協会報』、一九六〇年三月二八日号所収のIPI(International Press Institute)第九回東京総会でのDPA(Deutsche Press Agentur)日本駐在員W・ラング氏の発言。松下圭一「マスコミ民主主義の政治と論理」井汲卓一ほか編『講座・現代のイデオロギー五巻・現代日本の思想と運動その一』三一書房、一九六二年、一八一頁からの引用。 (18) 岡田直之『マスコミ研究の視座と課題』東京大学出版会、一九九二年、一五八頁。 (19) Tnchman, G., Making News: A Study in the Construction of Reality, The Free Press, 1978.(鶴木眞・櫻内篤子訳『ニュース社会学』三嶺書房、一九九一年、八九頁。) (20) Lippman, W., Public Opinion, Transaction Publishers, 1922.(掛川トミ子訳『世論』(下)岩波書店、一九三頁。) (21) Ibid.(同右訳書、二一八頁。) (22) Tuchman, G., op. cit.(前掲訳書、一八頁。) (23) Shoemaker, P., and Reese, S., Mediating the Message: The Theories of Inuence on Mass Media Content, Longman, 1991, p. 85. (24) Tuchman, G.,”Objectivity as Strategic Ritual: An Examination of Newsmen’s Notions of Objectivity, American Journal of Sociology (77), pp. 660-679. (25) Shoemaker, P., Gatekeeping, Sage, 1991, p. 21. (26) Gitlin, T., The Whole World Is Watching: Mass Media in the Making and Unmaking of the New left, Univ. of California Press, 1980, p. 7. (27) Seymour-Ure, C.,”Press and Broadcasting in Politics: Leaders, Seaton, J., and Pimlott, B. (eds.), The Media in British Politics, Avebury, 1987, pp. 8-9. (28) Sigal, L., Reporters and Oficials: The Organization and Politics of Newsmaking, Lexington, MA: D. C. Heath, 1973, p. 120. (29) Linsky, M., Impact: How the Press Affects Federal Policymaking, Norton, 1986, p. 3. (30) 石川真澄「メディア−権力への影響力と権力からの影響力」『レヴァイアサン』七号、木鐸社、一九九〇年、四四頁。 (31) Wolferen, K., The Enigma of Japanese Power: People and Politics in a Stateless Nation, Macmillan Press, 1989.(篠原勝訳『日本/権力構造の謎』(文庫新版・上)早川書房、一九九四年、二一五ー二一六頁。) (32) Ibid.(同右訳書(下)、二八四頁。) (33) Borquez, J.,”Newsmaking and Policymaking, Spitzer, R. (ed.), Media and Public Policy, Praeger, 1993, p. 37. (34) McNair, M., op cit., p. 66. (35) Bachrach, P., and Baratz, M., Power and Poverty, Oxford Univ. Press, p. 44. (36) Berkman, R. and Kitch, L., Political in the Media Age, McGraw-Hill Book Company, 1986, p. 325. (37) 笠京子「政策決定過程における『前決定』概念(一)」『京都大学法学論叢』一二三巻四号、一九八八年、四九頁。 (38) Schattschneider, E. E., The Semisovereign People: A Realist’s View of Democracy in America, Holt, Rinehart and Winston, 1960.(内山秀夫訳『半主権人民』而立書房、一九七二年、一〇〇頁。) (39) Cobb, R., and Elder, C., Participation in American Politics, op cit., pp. 10-12. (40) Ibid., p. 82. (41) Ibid., p. 14. (42) Ibid., p. (43) Ibid., pp. 85-87. (44) Ibid., p. 14. (45) Ibid., p. 86. (46) Ibid., pp. 89-90. (47) Ibid., p. 110. (48) Ibid., pp. 104-108. (49) Ibid., pp. 112-124. (50) Ibid., p. 91. (51) Ibid., pp. 142-150. (52) Ibid., pp. 152-157. (53) Ibid., p. 158. (54) Cobb, R., Ross, J., and Ross, M.,”Agenda-building as a Comparative Political Process, American Political Science Review (70), 1976, pp. 127-129. (55) Ibid., pp. 127-128. (56) これら三つのモデルに示されるアジェンダ構築のパターンはそれぞれ、どの政治社会にも混在して見出すことができると同時に、比較政治学的観点から種々の政治体制の基本的性格に応じた適用モデルとしても位置づけられている。後者の点でいえば、外部主導モデルは、諸集団が政府ないしは政策決定者に政治的圧力を行使しうるという意味で、相対的に平等主義的な社会に、動員モデルは、教育、言語、生活様式、世界観の違いなど、指導者と被指導者との社会的格差が著しい階層社会の国々に適用されることが多い。Ibid., p. 132. また、内部アクセス・モデルは、発展途上国にみられるように、富と社会的地位が一握りの官僚に過度に集中する社会にしばしばみられるパターンである。Ibid., pp. 135-136. (57) McNair, M., op cit., p. 143. (58) 「道具主義」的メディア観については、立石芳夫「マス・メディアの政治的機能と民主主義」福井英雄編『現代政治と民主主義』法律文化社、一九九五年、二七〇ー二七二頁参照。 (59) Cobb, R., and Elder, C., op cit., pp. 124-129. (60) Protess, D., Cook, F., Doppelt, J., Ettema, J., Gordon, M., Leff, D., and Miller, P., The Journalism of Outrage: Investigative Reporting and Agenda Building in America, The Guilford Press, 1991. 調査報道の対象となった、((1))米連邦政府基金による在宅介護サービスの運用で発覚した、被介護者に対する詐欺行為や虐待行為、((2))多発するレイプ事件、((3))警官の暴力事件、((4))大学の実験施設の付近に埋蔵されていた危険な化学・放射性廃棄物の除去を当局が怠っていた事件、((5))アメリカ人男性が離婚したノルウェー人妻のもとにいる子供との面会をノルウェー政府に拒絶された事件、((6))腎臓疾患の透析治療でボロ儲けをする医療機関に対する患者の非難、のそれぞれが事例研究として検討されている。 (61) Ibid, pp. 4-5. (62) Ibid, p. 45. (63) Ibid, pp. 15-16. (64) Ibid, pp. 244-245. (65) Ibid, pp. 247-248. (66) Ibid, pp. 250-253. (67) Kingdon, J., Agenda, Altenatives, and Public Policies, Harper Collins Publishers, 1984. キングダンのアジェンダ・アプローチによる政策過程論の真骨頂は、簡単にいうと、Cohen, M., March, J., Olsen, J.,”A Garbage Can Model of Organizational Choice, Administrative Science Quarterly, 1972. で展開されている、いわゆる「ゴミ缶モデル」を修正して、政策過程における問題、政策、政治のそれぞれ独立した「流れ」が合流したときにはじめて、「決定(decision)アジェンダ」(コブとエルダーのいう公式アジェンダに相当する)として政府の政策決定の機会が生じるという、彼独特の「前決定」モデルにあるが、本論ではこの点については立ち入らない。 なお、注(10)でも述べたように、キングダンはその著書では「アジェンダ設定」という用語を使用しているが、本論では用語を統一するために、この用語を、コブとエルダーの使用法と同様に、あえて「アジェンダ構築」という用語に置き換えて使用することにする。 (68) Ibid, pp. 61-66. (69) Ibid, pp. 153-157. (70) 辻村明「マス・コミュニケーションの政治的機能」篠原一・永井陽之助編『現代政治学入門』(第二版)有斐閣、一九八四年、一六〇頁。 (71) 新井直之『ジャーナリズム−いま何が問われているか−』東洋経済新報社、一九七九年、三頁。 |