立命館法学 一九九六年一号(二四五号) 東ドイツの崩壊とハーシュマン理論 山川 雄巳 |
ベルリンの壁崩壊後1年経った1990年10月3日、東西両ドイツの統一が実現した。東ドイツ、すなわちドイツ民主共和国(Deutsche Demokratishe Republik)は国家としては消滅し、その5つのラントはドイツ連邦共和国に編入されて、西ドイツの正式名称ドイツ連邦共和国(Bundesrepublik Deutschland)が統一ドイツの国名となったのである。 東ドイツが西ドイツに吸収合併された過程は、国家の死滅の1つのケースとして興味深いものであるが、アメリカの政治経済学者A・O・ハーシュマンはその退出・抗議(exit-voice)理論を用いて、この過程を研究している(1)。 本稿は、ハーシュマンのこの研究を紹介するとともに、システム入出力論の角度から、かれの退出・抗議理論の意義を検討しようとするものである。 (1) Albert O. Hirschman,”Exit, Voice, and the Fate of the German Democratic Republic, in Hirschman, A Propensity to Self-Subversion, Cambridge: Mass.: Harvard University Press, 1995, pp. 9-44. (First published in World Politics, Vol. 45, 1993, pp. 173-202.) 以下、引用ページ付けは、A Propensity to Self-Subversion による。 一 なぜハーシュマンは東ドイツに関心をもったか ハーシュマンはこれまで開発途上国の経済分析で知られた研究者である。かれはなぜ東ドイツとドイツ統一に関心をもったのであろうか。これを理解するためには、かれの経歴にふれておく必要があるであろう。 最近刊行されたかれの論文集 A Propensity to Self-Subversion, 1995 は、ハーシュマンの経歴やパーソナリティを理解するうえで役立つ。 この論文集の題は、直訳すれば『自己転覆の傾向性』ということになるであろうが、特異なタイトルである。全体の序論で、かれが言っているところによれば、最近かれは自分自身の仕事を批判的に再検討しようとしている。だから論文集の題も《self-criticisim(「自己批判」》というのにしようかと思ったが、この言葉は、すでにスポイルされているので、《self-subversion》という言葉を選んだのだという(Hirschman, A Propensity to Self-Subversion, 1995, p. 1)。 内容は学術論文とエッセイの混合である。三部から成っていて、第一部は「自己転覆」という題がつけられ、われわれがここでとくに関心をもつ論文”Exit, Voice, and the Fate of the German Democratic Republic は、その第一章に位置する。第二部は、青年時代を回顧した八篇のエッセイを収める。たとえば”Four Reencounter と題された章は、ハーシュマンがベルリンの壁崩壊の前年1988年にヨーロッパとドイツを訪問して、43年ないし56年ぶりに再会した4人の知人(経済学者ユルゲン・クチンスキーを含む)のことを記したものである。第三部「新しい進出」には、ここ10年ほどのあいだに書いた学術論文が収められている。 ハーシュマンは、名前から分かるように、ユダヤ系の人である。第二部の各章では、敵対的な怪物と化した国家の眼と手をかいくぐって逃亡した青年時代の一幕一幕が描かれている。かれが体験した抵抗と逃亡の心理は、おそらく普通の日本人の想像を絶するであろう。 かれは1915年4月7日、ベルリンに生まれた。父は有名な外科医であった。Hirschman という姓の本来の綴りは”Hirschmann で、名前のうち”O. は”Otto の略である。生まれた時の姓名は”Otto-Albert Hirschmann であった(Hirschman, 1995, p. 109)。アメリカに渡ってから、Albert O. Hirschman という名前に変えたのである。多分、ドイツ的な名前として目立つ”Otto という名前を隠そうとする心理と、アイデンティティを保持したいという心理の葛藤の妥協の産物であろう。フランスで亡命生活をしていたころは、Albert Hermant という仮名を使っていた(pp. 97-99)。 こういう経歴から示唆されるように、かれは、アメリカに落ち着いてからもドイツ問題には強い関心をもちつづけてきたし、ナイジェリアでの経済コンサルタントとしての経験から生まれたとされる、かれの退出・抗議理論にしても、そのより深い根は、かれ自身の国家からの逃亡という体験にあったわけである(2)。東ドイツ分析について言えば、ハーシュマンは、東ドイツからの逃亡者たちを、かつてヒトラー・ドイツの手から逃れようとした自分の姿とのダブルメージにおいて捉えていたのである。 ハーシュマンが正面から東ドイツ分析を試みるにいたった具体的な事情については、ハーシュマン自身が、論文”Exit, Voice, and the Fate of the German Democratic Republic の序論において次のように説明している(pp. 10-12)。 かれは言う。東ドイツの崩壊について論じたものは多いが、この巨大な政治的社会的変化を理論的に説明した例は案外にとぼしい。しかるに、最近、自分の退出・抗議理論は、ドイツでそうした理論的説明のための概念用具として迎えられようとしている。もともと自分の退出・抗議理論はアメリカで1970年に発表されたもので、ドイツ語訳は1974年に出たのであるが(3)、1989年10月のベルリンの壁崩壊のあと、ヘニング・リッターが、ドイツの権威ある新聞 Frankfurter Allgemeine Zeitung に掲載された”Abwandern, Widersprechen: Zur aktuellen Bedeutung einer Theorie von A. O. Hirschman という論説において、最近の東ドイツの崩壊は、ハーシュマンの1970年に発表された理論の正しさを、大規模な形で実証したものであると論じたことを契機として、かなり多くの社会科学者が自分の理論を1989年の転換の分析のために適用する傾向が目だつようになった。また、Deutsche Forschunggemeinschaft も、それが支給する研究補助金の対象となる研究の分類項目として「退出・抗議アプローチ」(exit-voice approach)を設定するようになっている(p. 11)。 ハーシュマン自身は、こうしたドイツにおける研究動向のことを、1990年から1991年にかけてベルリン自由大学に滞在する機会に恵まれたことによって熟知するようになったのであるが、そのことをとおして、東ドイツの崩壊過程の分析において退出・抗議理論がどれほど有効であるかを自分自身で検証してみたい、と考えるようになったのであった。 (2) ここで、ハーシュマンの主要な業績を列挙しておこう(すでにあげたものを除く)。 A. O. Hirschman, The Strategy of Development, 1960.『経済学発展の戦略』、小島清監修・麻田四郎訳、巖松堂出版、一九六一。 −, ed., Latin American Issues, New York: Twentieth Century Fund, 1961. −, Journeys Toward Progress: Studies of Economic Policy Making in Latin America, New York: Twentieth Century Fund, 1963. −, Development Projects Observed, Washington, D. C.: Brookings Institution, 1967.『開発計画の診断』、麻田四郎・所哲也訳、巖松堂出版、 1973。 −, Exit, Voice, and Loyalty: Responses to Decline in Firms, Organizations, and States, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1970. 『組織社会の論理構造』、三浦隆之訳、ミネルヴァ書房、1975。 −, A Bias for Hope: Essays on Development and Latin America, New Haven: Yale University Press, 1971.サ −, The Passions and the Interests: Political Arguments for Capitalism before Its Triamph, Princeton: Primceton University Press, 1977. 『情 念の政治経済学』、佐々木毅・旦祐介訳、法政大学出版局、1985。 −, Essays in Trepassing, 1981. −, Rival Views of Market Society and Other Recent Essays, New York: Viking, 1986. (3) A. O. Hirschman, Abwanderung und Widerspruch, tr. by Leonard Walenck, Tu¨bingen: J. C. B. Mohr, 1974. 二 退出・抗議理論について さて、東ドイツ分析に適用された退出・抗議理論のことであるが、これについては当然、かれの Exit, Voice, and Loyalty: Responses to Decline in Firms, Organizations, and States, 1970 を参照すべきであるが、そのエッセンスは、ハーシュマン自身によって、前記の論文”Exit, Voice, and the Fate of the German Democratic Republic の冒頭において要約されている(pp. 12-14)。 この理論は、もともと組織の成長・衰退に関する理論として構成されたものであって、組織とその顧客との関係を問題にするものである。そのさいハーシュマンは、とくに組織が顧客に提供する産出物(出力)の質の低下についての顧客の反応を問題にする。 《Exit》とは、単純に去る行為のことを意味する。ある人がこれまである企業の製品を買っていたとして、もしその企業が、以前ほど質のよい製品をその人に提供しなくなったとすれば、かれの反応は二つに分かれるであろう。一つの反応はその企業の製品を買わなくなることである。おそらくかれは別の企業の製品を買うようになるであろう。つまり前の企業の顧客集団から離脱して、新しい企業の顧客集団に入るのである。これが退出である。 《Voice》は、問題点を指摘し文句をつける行為である。企業の提供する製品の質が落ちてきたとき、これまでの顧客は不満をもつが、場合によると、たんに買わないという行為によってその企業から離れるのではなく、離れる離れないは別として、不満な製品を売りつけた企業に抗議し、ハッキリ文句をつける行為に出ることがある。ハーシュマンの言う《Voice》は、このような抗議行為のことである。 退出と抗議が、企業経営にとってきわめて重要な、たえず注意をはらっておかなければならない基本情報であることは常識的な事柄であろう。たとえば退出者が続出するような企業はいずれ倒産という破局に見舞われるであろう。しかし、ハーシュマンは、この常識的な事柄が案外に軽視される傾向があることに警告を発するのである。こうした軽視がとくに起こりやすいのは公企業や政府においてである。1970年の著書でハーシュマンは、こうした軽視によって生じた危機についていくつかのケースを例示し、退出と抗議がどのような関係にあり、どのような条件のもとにそれぞれが現われるのかを問題にした。 退出も抗議も、顧客の不満と関係するが、これまで経済学は、抗議についてはあまり関心を払わなかった。顧客は商品の価格が不当に高いと判断したときにはその商品を買わなくなるであろう。そういう消費者行動のモデルを仮定して済ませてきたのである。企業にしても、消費者運動が高まるまでは、主として退出情報に反応してきた。 しかし、たとえば公企業の場合、退出情報は業績低下を防ぐための基本情報としてはあまり役に立たない。組織としての性質上、顧客の退出が問題にならないことが多いからである。そこで、こうした組織の場合、抗議が注目されることになる。政治学が、退出より抗議のほうに関心をもってきたのは、このためである。しかし、抗議のチャネルでの不満の表出はエネルギーと時間を要し、費用の点で高くつくことが多い。さらに他者の協力を求める必要があることもしばしばである。 これに対して、退出は簡単でイージイである。「不満なら買わなければよい」というわけである。かりに「不満だから抗議したい」と思ったとしても、抗議行為は人の注意をひく目立つ行為であるために、避けられることになりやすい。もし不満エネルギーの圧力が、退出チャネルを通って発散されることになるとすれば、抗議のために利用されるエネルギーはあまり残されていないということになる。このようにして「退出オプションの存在は、抗議技術の開発を麻痺させる」結果になるであろう。 ハーシュマンは、1970年当時、このように、退出と抗議の関係について、不満エネルギーの存在を前提として、両者のあいだにシーソー的関係または「相互背反的」な関係があると想定していた。この想定のことをハーシュマンは「水力学的モデル」とも呼んでいるが、このモデルが、東ドイツの崩壊過程の分析をとおして修正され、リファインされることになる。 その内容については次節以下で詳しく見ることとして、ここで注意しておいてよいことは、第一に、これまで退出行為を分析の中心にしてきた経済学と、抗議行為を分析の中心にしてきた政治学が歩み寄って、退出と抗議という二つの分析カテゴリーをもった政治経済学を発展させるべきだとハーシュマンが提案していることである。第二に、かれは、経済体系と政治体系とを理論的に統合するといったことを提案しているのではなくて、むしろシステムの入出力カテゴリーを見直すことによって統合しようと提案しているのだということである。ただし、そのさい、かれはメンバーシップ・システムを重視する立場に立っている。この点については、あとでふれることになるであろう。 三 1949年から1988年にいたる時期の東ドイツ さて、東ドイツの分析である。この国は、戦後世界において、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーなどとともに、ソ連圏衛星国家の一つであった。ソ連はワルシャワ条約機構などの政治経済的支配体制の枠のなかにこれらの国家を位置づけ締め付けていた。しかし、この社会主義的・帝国主義的体制も動揺をまぬがれなかった。 ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーでは共産党政権に対する闘争が顕在化したことがある。1956年のハンガリー動乱、1968年のプラーグの春、1980年のポーランドにおける連帯の活動などがそれである。東ドイツの場合、1953年の6月にベルリンで労働者の暴動があったが、それ以後、東ドイツはソ連圏衛星諸国家のうちの優等生であり続けるように見えた。しかし、事態はそう簡単なものではなかった。 ハーシュマンがみるところによれば、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーは抗議活動によって特徴づけられる国家であって、退出現象があまり顕著ではない。その大きな要因としては、ソ連と東ドイツに囲まれた地理的位置、近世以降の抵抗活動の伝統があげられよう。これらの諸国と対照的に、東ドイツでは、顕在的な抗議活動はあまり見られず、退出現象が顕著であった。 表1は、西ドイツおよび東ドイツが建国された1949年から1989年までの亡命者、当局の許可を得た移住者、身代金との交換で許可された移住者などの移住者統計を示す(cf. pp. 16-17)。 この表が示すように、東ドイツが建国された1949年から1961年まで、亡命者は毎年10万人を越え、とくにベルリン暴動の1953年には33万人に達した。これは総人口1679万人(1976年年央)クラスで、労働力不足に悩まされていた国家にとっては、重大な出血というべきである。かくして、ついに東ドイツは、1961年8月、東西ベルリンの境界に鉄筋コンクリート製の壁を築きはじめた。これがいわゆるベルリンの壁である。その総延長は160q以上に達した。 表1によると、1962年の亡命者の数は1万6741人で、前年の約21万人から激減している。壁の効果が現われたのである。もっとも亡命者の数はゼロになったわけではない。1966年以降1988年にいたるまで亡命者の数は1万人レベルを切っているが、厳重な監視のもと生命の危険をともなう脱出をはかり、成功した人々が毎年3千人を超えていたのである(4)。 こうした逃亡統計は東ドイツの人々の西側世界へのあこがれがいかに強烈であったかを示している。西ベルリン自体が「西側の飾り窓」といわれた時期があったが、脱出を動機づける要因として重要な働きをしたのが無線放送とくにテレビであったことはよく知られている。 表1は、1962年以降、東ドイツ当局が合法的な移住者を認めるようになったこと、身代金との交換(4万マルクに達したこともあったといわれる)による移住者も1963年以降認められ、その数も次第に増えてきたことを示している。 これはもちろん東ドイツの意識的な政策によるものであった。東ドイツ当局は年1万人ないし2万人程度の移住は仕方ないと認めていたふしがある。身代金は貴重な外貨を稼ぐ一つの方便でもあった。 移住は、場合によると、東ドイツ政府によって、体制の安全弁として有効だと理解された。「悪質な」反体制的分子が西ドイツに移動すれば、かれらの「社会的悪影響」がなくなるからである。このため政府は、1976年の詩人ヴォルフ・ビールマンをめぐる事件が例示するように、反体制的人物が西ドイツに旅行に出たとき、東ドイツへの帰国を認めないというような行為に出たことさえある。 ハーシュマン理論によれば、退出オプションが作用する場合、抗議活動は不活発になるはずであるが、たしかに東ドイツでは、1949年から1988年にいたる時期における抗議活動は活発でなかった。東ドイツではポーランドの「連帯」のような活動の展開はみられなかったのである。 しかし、東ドイツで抗議行為が活発になりえなかった直接的理由としては、次の三つの要因があげられるとハーシュマンは言う。 第一に、東ドイツでは政府や共産党の力からの避難所を提供するような比較的独立した自律的な社会組織がなかった(これには東ドイツがナチの「グライヒシャルトゥング」を経ていることが大きく影響しているであろう)。ポーランド、チェコ、ハンガリーでは、まだましであった。たとえばポーランドでは中世からの伝統をもったカトリック教会があった。 第二に、東ドイツの体制イデオロギーの問題がある。ドイツにとってナチズムは悪夢であったが、これにとって代わったマルクス・レーニン主義はナチズムのイデオロギーを忘れさせる効能をもっていて、人々はこれを信じようとする傾向があったという。 第三に、東ドイツはソ連圏の最前線を形成していて、ソ連の強力な軍事的支配のもとにおかれていたということである。ソ連は東ドイツに重装備の精鋭部隊を駐屯させ、多数の核ミサイルを配備していた。東ドイツ政府にしても、ソ連とのきわめて密接な協力関係のもとに支配体制を厳重に固めていた。抗議活動やその組織化は抑圧の強大なプレッシャーのもとにおかれ、危険性も大きかったのである。 このようにして、東ドイツでは、抗議行動の成功可能性はきわめて低い、どうしてもいやなら脱出するよりない、そう信じられたのであった。そして、脱出先は比較的近いところに位置していたのである。 ハーシュマンの表にもとづいて計算すると、1949年10月から1961年末にいたる期間における東ドイツからの退出者の累計は273万8572人で、年平均22万5082人。1962年から1988年にいたる27年間の退出者の累計は、56万4436人で、年平均2万905人である。1989年だけで34万人以上の人が脱出しているが、これを入れて積算すると、東ドイツからの退出者は、累計364万6862人に達する。1976年央の人口統計の人口1679万人の21・7%が主として西ドイツへと消えたことになる。 このような脱出は、東ドイツにとって経済的に非常な痛手であったはずだが、政治的にはどのような影響があったであろうか。 これは、ポーランドなどの非脱出的・抗議的な諸国と東ドイツとの対比によってよく理解されるであろう。ポーランドなどでは反体制的エリートが脱出せず国にとどまったために、政治的なイデオロギーの多彩なスペクトルが存在することになった。政治的言論活動が比較的活発であり、社会主義の枠のなかで、実質的に多元主義的な表出構造が形成されることになった。このため、共産党体制が崩壊したあとも、それに取って代わるリーダーシップに欠けることがなかったのである。 東ドイツはその反対である。東ドイツでは、体制崩壊後、語られたのはせいぜいのところ「真正マルクス主義の再生」といったことにすぎなかった。そして、政治的に有能な人材が西ドイツに亡命してしまっていたため、リーダーシップをとる人材が枯渇していた。このことが、東ドイツが西ドイツに吸収されざるをえなかった一つの大きな原因となっている。 表1は、1989年の東ドイツからの脱出者が実に34万人以上に達し、ベルリンの壁以前の最高記録である1953年の数字を越えたことを示している。これは、脱出者たちが、大きく迂回してハンガリー、ポーランド、チェコからオーストリアを経由して西側に移動するという経路の大きな変化が起こったためである。東ドイツ政府は、これを効果的に取締まることができなかった。 ここでは1989年の月別の統計を示す表は省略するが、脱出者の数は1989年5月には1万人台をこえ、冬が本格化する前の11月には13万人を越えた。5月から急激に増えたのは、ハンガリー政府が5月2日にオーストリアとの国境線に設置された鉄条網を撤去したためである。東ドイツ政府は国民にハンガリーなどのソ連圏友好諸国に自由に旅行することを認めていたため、ハンガリーへの旅行に出かけた人々はハンガリーからオーストリアへ出、さらに西ドイツに入ることが容易になったのである。 ハンガリー政府はさらに9月、ハンガリーからオーストリアに出国しようとする東ドイツ人にこれを公式に認めることとした。退出に拍車がかかったことはいうまでもない。こうしたハンガリー政府の措置の背景には、米ソ協調による対東ドイツ・対ドイツ政策の転換(東ドイツの自然死とドイツ統一の容認)があったことは確かであるが、ハーシュマンは、そうしたグローバル・ポリティクスにはふれていない。 1989年10月7日、東ドイツはゴルバチョフを迎えて建国40周年を祝ったが、その直前の10月1、4、5日に、ポーランド、チェコからオーストリアへと向かう東ドイツの”Ausreiser(出国者)1万4000人を乗せた封印列車が東ドイツを通過していった。東ドイツ政府は、こうした屈辱的な出来事を阻止することができなかったのである。 (4) ハーシュマンは、脱出に失敗した人々のことにふれていないが、この点、不十分である。かれらは場合によると射殺され、多くは投獄された。亡命に失敗した人の数は年によって異なるが、一説によると、年5000人程度であったといわれる。■山芳郎編『最新世界現勢』、平凡社、1979年、191ページ。 私は1988年にポイント・チャーリーの検問所を経て東ベルリンを訪れたことがあるが、検問は非常に厳しく、大きな鏡を使ってバスの下部を検視していた。脱出者のなかには、バスの下部を利用した者までいたのかもしれない。 四 1989年における退出の公然化と抗議活動の噴出 1988年までのところ退出と抗議は相互背反的な形で作用したように思われるのであるが、共産党政権が崩壊した1989年には、東ドイツで抗議活動が顕在化し、退出と抗議が協同して体制の墓掘り作業をした。ハーシュマンは次にこれを検討する(pp. 24-33)。 かれは抗議活動の噴出に関するいくつかの重要な事例を紹介している。 まず、ライプチッヒでの出来事について。ライプチッヒのニコライ教会は、1980年代の初めから毎週月曜日午後に「平和祈願者」の集会がもたれるようになっていたが、1988年には、そこが《Ausreiser(出国者)》ないし《Ausreisewillige(出国希望者)》の集まる場所になっていた。1989年1月15日−この日はカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルグの暗殺70周年の日に当たっていたが−、この教会から自然発生的にデモが始まり、ライプチッヒの街を行進した。警察は150人を逮捕した。 以後、この教会の広場は反体制派のセンターとなる。”Ausreiser” や”Ausreisewillige” は、”Wir wollen raus!"(「この国から出ていくぞ!」)と叫ぶのを常とするようになったが、89年9月4日、”Wir wollen raus!” と叫ぶ多くの人々に対して、初めて、ある者が”Ich bleibe hier!”(「この国に留まるぞ!」)と叫ぶ声が聞こえた。そして、一週間後の11日には、複数の人々が”Wir bleiben hier!” と叫ぶようになった。ハーシュマンは、かれらは体制から逃げるのではなくて、体制に対して抗議し対決する道を選んだ人々であったと解釈する。 当初、これら二つのグループは対立的で敵対的であったが、やがてかれらは”Wir sind das Volk.”(「われわれは人民だ」)というスローガンのもとに連帯感を表明するようになったとされる。 次にドレスデンの場合である。ドレスデンは東欧への列車交通の要衝であるが、ここで、89年の10月にきわめて注目すべき出来事が起こった。 1989年9月から10月にかけて、ドレスデン駅は”Ausreiser” で一杯になっていたが、10月3日に、東ドイツ政府は、それまでは自由に行き来できたのを改めて、チェコとの国境を封鎖し、パスポートとビザを持たない者は出国できないことにすると伝えられた。駅で足止めをくって、出国希望者の数はますます膨れあがることになったが、10月4日、さきに述べた封印列車がドレスデンを通過するという噂が広がり、人々は必死になってこれに乗せてもらおうと殺到した。警察は警告を発し、”Ausreiser” を駅から強引に排除しようとした。これに対する抵抗は暴動的になり、駅はかなり破壊された。この間、”Wir wollen raus!” と”Wir bleiben hier!” の応酬があったが、警察の立ち退き要求に対して、本来、”Wir wollen raus!” と叫ぶはずの”Ausreiser” たちが、抵抗の意思の表明として”Wir bleiben hier!” という言葉を発した。本来はひそやかな退出を願う”Ausreiser” たちが、ついに公然と、座りこみによって事態を変えるぞという決意を表明したわけである。その後、ドレスデンでは、毎日のように一万規模の抗議デモが続き、駅近くの広場で座りこみが行なわれた。そして、ある牧師の調停により、20人の代表が選ばれ、かれらと市当局との交渉が行なわれることになったのである。 ベルリンの場合、最初は抗議活動はささやかなものであった。10月7日、公式の建国祝賀行事のあと、アレクサンダー広場で、200人から300人の若者が集まって、初めて”Wir wollen raus! ”と”Wir bleiben hier!” の応酬をし、当時ベルリンを訪問していたゴルバチョフに呼びかける「ゴルビー! ゴルビー!」の連呼があった程度であった。しかし、事態は急激に展開し、11月4日には、50万人規模の大デモがベルリンで行なわれるに至った。そして、9日のベルリンの壁崩壊がこれに続いたのである。 こうした転換が起こるうえで決定的な影響を及ぼしたのは10月9日のライプチッヒでの7万人規模のデモであったとされる。このデモのまえ、押し詰められた当局は中国の天安門事件にならって、流血を辞さずデモを弾圧しようと決意している、という噂が流れていたが、これがかえって一般市民をも刺激して巨大なデモになった。このデモは”Wir sind das Volk.” と”Keine Gewalt.” を連呼して整然と行なわれ、結局、流血はなかったのであった。そして、このデモのあと、東ドイツ当局は心理的に圧倒されて急激に無気力になったとされる。10月18日、ホーネッカーはドイツ社会主義統一党(Sozialistische Einheitspartei Deutschland: SED)指導者の地位を辞任した。 ベルリンの壁崩壊は、東ドイツ国家の崩壊にとって決定的であった。かくして、翌年の10月3日、東ドイツは西ドイツに吸収合併された。国家は死滅するというマルクス主義の思想が皮肉な形で実証されたのである。 五 ハーシュマン理論の修正 1949年から1989年にいたる40年間をふりかえってみると、39年間は退出が抗議に優越していて、抗議は目立たなかった。しかし、1989年になると両者は排他的というよりむしろ協同的な関係において作用したように思われる。退出か抗議のいずれかが重くなれば、他方は軽くなるというのがハーシュマンの考えであった。してみれば、もともとの理論を修正することが必要であるように思われる。かくしてハーシュマンは、退出・抗議の概念について再検討しようとする。 退出は、本来的には、私的なものであり、典型的には沈黙の決定と行為である。退出は、不同意を表現するための最も手間のかからない、いわば最小主義的な方法なのである(”a minimalist way of expressing dissent.” p. 34)。 これに対して、抗議は典型的には公的な活動である。抗議はかならずしも組織的活動や他者の行動との協調や委任といった集合的行動を必要とするものではないが、これらと密接な関係をもつ。こうしたことからすれば、退出と抗議は非常に違った性質をもっていて、協同するといったことは考えられないように思われるのだが、1989年の東ドイツにおける抗議はむしろ退出から生じたように見える。どうしてこのようなことが起こったのであろうか。 東ドイツからの亡命者は、その多くが比較的若い人々であったが、かれらについて、その特徴は”heimlich, still und leise” であることだと言われた(p. 35)。つまりかれらは「人目を避け、黙々として、足音をしのばせ」ていたのである。これはまさに退出者一般の特徴である。 多くの人々が黙々として東ドイツを去っていった。祖国を見捨てようとするかれらは幸せではなかったであろうが、しかし、残された人々にしても、自分たちが崩壊しつつある国のなかに見捨てられ、置き去りにされていることを意識し、国が引き裂かれつつあることを感じて異様な精神的苦痛を味わっていた。そして、東ドイツ政府の中枢や共産党幹部にしても、この苦痛と悩みを共通にしていたのである。おそらくこのためにこそ、政府は亡命者に対して強権的制裁を発動することを差し控えたのであった。 ハーシュマン理論からすれば、退出は組織への警告であり、能力あるマネージャーがいたとすれば、組織は出力を改善するための努力をするはずである。しかし、東ドイツ政府はそうではなかった。そこで、いわば、最終段階において、東ドイツ政府の中枢や党に忠誠な人々のなかからも強い不満と抗議の声が起こるようになった。ホーネッカーを批判したSEDの回状がその一例である(p. 37)。 しかし、かれらの声はあまりにも遅すぎた。体制に強い忠誠心をもつ人々は、国家の出力の質が低下しても、将来の改善に希望を託し、退出しようとはしないであろう。さらに忠誠は抗議の時期を遅らせる効果がある。忠誠心が強ければ強いほど抗議の声をあげることが遅くなるのである。 1989年の出来事で注目すべき点は、多数の退出者のバラバラな、ひそやかな行動が、いつのまにか公然たる大規模な抗議活動に転化したことである。これはどのようにして起こったのか。 簡単にいえば、それは、個々の退出者がひそやかに行動しようとしていたとしても、1989年には、退出者の数はあまりにも多数にのぼり、その行動がどうしても人目に付くほどの規模になったからである。たとえばライプチッヒやドレスデンの駅に集まった人々は何万という数に達した。かれらは相互に視認しあい、もはや孤独ではないことを知ったのである。かれらは、”Wir wollen raus!” というスローガンと行動綱領を共通にする者として、同じような悩みと希望をもつ人々として互いに連帯するようになった。いわば新しいコミュニティが生まれてきたのである。かくして、ドレスデン駅の出来事が示すように、自然発生的な抗議運動も展開されることになった。さらに代表を立てての公的機関との交渉も行なわれるようになったのである。 そのうえ、かれらは報道機関によって撮影され、映像は国際的に放送された。これによって、かれらは全国的に周知の存在、国際的な話題の対象となったのである。このようにして、本来は私的な退出者が、いわば開き直って公的な退出者に変貌し、さらに公的な抗議を申し立てることになったのである。 こうした変貌をよく示すのは、退出者たちが”Wir wollen raus!” と叫び始めたことである。これはすでに体制に対する抗議の声である。物言わないはずの退出者は、ここですでに抗議者に転化しているのである。さらに、この叫びは”Wir bleiben hier!” という言い返しを呼び起こした。これにしても、最初は反射的な感情的反発の表示であったであろう。しかし、そうであったとしても、そこには体制が変革されなければならないことを容認する響きをもっている。スローガンとして何度も使用されているうちに、やがてそれは、「この国にとどまって、この国を改善するぞ」という政治的態度の表明としての意味をもつようになったのである。そして、こうした言葉の応酬のなかで、”Wir sind das Volk!” という叫びも生まれたのであるが、この言葉は次第に”Wir sind ein Volk!” という叫びによって置き換えられるようになっていった。この”ein Volk” という言葉は、最初は、去る者も残る者も、東ドイツの人民として一つだという連帯感情を表現していたが、やがて、「東ドイツも西ドイツもない、ドイツ人は一つなのだ、東西ドイツは一つになるべきだ」というドイツ統一を求める標語へと変質していったとされる。 ハーシュマンはこれまで、退出の概念について、私的な性質のものと見ていたのであるが、このような経過の観察から、公然たる退出もありうることや、退出行為と抗議行為はかならずしも相互排反的なものではなく、両者が同時的に作用し、互いに刺激しあって強烈化する場合もあることを認めざるをえなくなったのである。退出・抗議理論のもともとの水力学的なモデルは、1988年までの時期については、よく当てはまると言えるが、1989年の経過については不十分にしか説明できない。また、ハーシュマンがその理論で期待したのが、組織が、退出と抗議に反応することによって、一時的な失敗と退落から回復するであろうということであったということからすれば、東ドイツのケースは失望的な結果に終わったということになる。結局、東ドイツ国家は組織としては破産し解体されてしまったからである。しかし、そうであったとしても、ハーシュマンは、その理論において、退出と抗議に敏感でないような組織はいずれ破局を迎えるであろうと警告していたわけであるから、東ドイツが解体されたとしても、それは、かならずしもハーシュマン理論が正しくないということを意味するものではない。ハーシュマンは、東ドイツの崩壊は、退出・抗議に対する長期にわたる軽視に対する最終的な罰であったと述べる。 以上の検討によれば、1989年に東ドイツで起こったさまざまな出来事は、退出と抗議が、かれが1970年当時に想定していたよりももっとこみいった関係をもつことを明らかにしたといってよい。東ドイツの崩壊を分析することをとおして、ハーシュマン理論は修正を余儀なくされた。しかし、退出・抗議、そして忠誠のカテゴリーは、こうした巨大な歴史的変化の説明に十分役立つことが実証されたとはいえるのである。 そして、ハーシュマンは、とくに1989年の東ドイツ崩壊のさいに現われた抗議の声のことを高く評価する。これまでドイツ人は、しばしば決定的な歴史的状況において、公的な領域から私的な領域または内面性(Innerlichkeit)の世界に引きこもってしまい、現実的なものを肯定する保守的な態度を特徴としてきた。しかし、一九八九年のベルリンの壁の崩壊に前後する東ドイツでの多くの出来事は、ドイツ人が政治的な抗議の声を堂々と発するようになったことを示すものとして、重要な歴史的・政治的意義をもつと考えるのである。 六 システム入出力論からみた退出と抗議 以上われわれは、ハーシュマンによる東ドイツの崩壊についての分析を検討してきたが、ハーシュマンの退出・抗議・忠誠などの理論的カテゴリーの有効性は、このケース・スタディによってよく実証されたといってよいであろう。 もともとハーシュマンの理論は発展途上国の政府機関のコンサルタントとしての観察から引き出されたものであるが、前にも述べたように、その実質的内容はごく常識的なもので、たとえば商店の経営にタッチしたことのある人であれば、よく心得ているような事柄にすぎない。だが、常識的なものだからといってこれを軽視するとすれば、その人は、経営にとって大切な警戒信号に関心をはらわない商店主の二の舞におちいることになるであろう。 ハーシュマンによれば、これまでのところ経済学は、どちらかといえば退出に関心をはらう傾向があった。これにたいして政治学は、たとえば国家と国民の関係が典型的であるように、顧客は退出が困難であるという認識から、組織出力の質的低下の問題に関しては、抗議反応のほうに関心をもってきた。ハーシュマンにいわせれば、どちらも片手落ちだったのである。 ハーシュマンがワンセットで扱うべきだという退出と抗議は、組織にとっての警戒信号としてみれば組織への入力のカテゴリーであるが、政治学でよく知られたイーストンの理論の場合、政治入力のカテゴリーは要求と支持だとされている。これとハーシュマンの二つのカテゴリーとを対比するとき、これらがかなり違っていることは明らかである。 イーストンのいう支持は、ハーシュマンの言う忠誠につながるものといえよう。ただし正確にはこれに対応するものとは言えない。ハーシュマンの忠誠はイーストンの正当性信念に対応すると見るべきであろう。しかし、ハーシュマンの忠誠を入力とみたとき、これとイーストンの支持とを対応させることができよう。 イーストン理論でハーシュマンの抗議カテゴリーに対応するのは要求カテゴリーであろう。人は不満な点があることに抗議し、改善を要求するのである。しかし、ハーシュマンの場合、警戒信号としては退出というもう一種類のカテゴリーが用意されていて、これが特異な役割をはたす。イーストン理論には退出というカテゴリーは存在しない。これは、かれが理論的に、メンバーシップ・システムを重視することに批判的であることからきている。 退出は、他に選択対象があって、既存の選択対象から離れることであるが、イーストンの場合、マクロな政治体系を全体として問題にしているためもあって、理論的にそうした代替選択肢の存在は仮定されていない。 これに対してハーシュマンの場合、競争的な二つの政治体系を前提して、政治体系全体レベルの問題に退出・抗議理論を適用し、退出カテゴリーが体系全体レベルにおいて有効に適用できることを実証している。 図1は両者のカテゴリーの対応関係を示すものである。図において、□はシステムを表わす。 退出・抗議カテゴリーは、政治体系のサブシステム・レベルの分析、たとえば政党システムの分析にも有効に適用できる。複数政党システムは有権者がこれまでの政党支持者集団から退出して別の政党支持者集団に移動するチャンスを提供するメカニズムである。ハーシュマンは、1970年当時すでに、アメリカの二大政党制を退出・抗議理論の角度から分析している(5)。 複数政党制を備えることは、一つの政治体系にとって、政治変動をマネージするための重要な工夫である。おそらく東ドイツにしても、なんらかの形で複数政党制的なメカニズムをもっていたとすれば、体制への不満エネルギーをもっとうまくマネージできたであろう。その意味で、一枚岩的な体制こそ退出による崩壊の究極的原因があったといえるのではないか。 これまでわれわれは、退出を警戒信号の一種として、政治体系への入力とみなしてきた。しかし、一定のシステムからの退出という出来事は、そのシステムへの入力とは、みなしがたいであろう。入力と言うならば、それは他のシステムへの入力なのである。 企業の場合、「私的な退出」はどのようにしてキャッチするのかといえば、一般的には売上げが落ちていることを知ることによってである。消費者はいちいち自分はもうオタクの商品を買わないことにしたと通告するわけではない。それだけに企業は売上の低下に注意深くなければならないのである。 政府の場合、これに相当するのは、支持の絶対数または支持率が落ちていることを知ることであろう。してみれば、退出を「支持の低下」をもたらす「支持の撤去」として定義することも許されるであろう。この場合、おそらく政治的退出にはもっといろいろな形がありうると考えてよいであろう。たとえば「支持政党なし層」にしても一種の体制内退出者とみなしうるのではないか。 東ドイツの場合、この「支持の撤去」が国外への退去という極端な形をとりがちであったのだと解釈される。そして、ハーシュマンの理論は、こうした、深刻ではあっても現象形態としては単純な入出力関係の分析を基本的枠組としている。それは、明示的ではないが、おそらくハーシュマンがパーソナルな経験から、システムの分析において、イーストンとは対照的に、メンバーシップ・システムのことを重視しているためではないかと思われる。そして、メンバーシップ・システム論からすれば、退出は、それ自体としては、当然、システムから出ていくものとして出力の一種(エントロピー的出力)とみなされるべきであろう。 (5) Hirschman, Exit, Voice and Loyalty, 1970 第六章を参照。 これに近いタイプの分析としては、たとえば、山川雄巳「政党支持者集団のダイナミック・モデル」、『関西大学法学論集』第三一巻第二・三・四合併号、1981年12月、を参照。ただし、私のモデルはハーシュマン理論とは独立に構成されたものである。 (関西大学法学部教授) 付記 故福井英雄君は、私と京都大学大学院で同期であった。学部時代はお互いにまったく知らなかったが、大学院修士課程のころ、よく議論したものである。きびしく批判されたこともある。 かれの方が先だったと思うが、就職してからは会う機会が次第に減り、一九九四年の秋、私の勤務する関西大学で日本政治学会の大会が開催されたとき、受付の近くで立ち話をしたのが最後になってしまった。そのとき、あまり元気がないように思われ、気にかかった。 東ドイツの崩壊を含むソ連社会主義圏解体の問題は、かれといつか議論してみたいと思っていた問題である。せめてこの論考をかれの霊前にささげ、早逝を悼み、冥福を祈りたい。 |