立命館法学  一九九六年三号(二四七号)




F・カニンガム
カナダ/ケベックの難問(1)
---三民族型パースペクティブ---


中谷 義和
        訳
柳原 克行








  合衆国とヨーロッパの新聞報道に目を通すと、進行中のカナダ連邦主義者とケベック・ナショナリストとの綱引きは、国外からすると、平和と理性の例外的パラダイムであるとみなされていることが窺われる。ボスニアと対照してみると、確かに、こうした見方に当てはまるものがある。だが、カナダの人々は、別に、自国の政体危機を自慢してきたわけではない。その原因は、部分的であれ、疲労に求められる。つまり、こうした危機に対処するために、法的には巧妙であっても、政治的には雑然とした施策が繰り返されてきたが、危機は起こり、なお継続しているということである。これは、また、部分的であれ、将来への不安に負うものでもある。最近の試み(一九九五年一〇月)において、分離派のケベック党(P・Q)はレファレンダムに僅差で敗れた。このレファレンダムは、主権問題について、ケベック党が連邦政府と交渉に入ることを認めるべきかいなかを問うものであった。結果は、有権者の九三%が投票し、五一%対四九%であった(2)
  大勢からみて、英語系カナダ(または、政治学者の正確で中立的集団分類に従えば、”残りのカナダ”ないし”ケベックを除くカナダ”と称される)は、フランス系ケベック人の六〇%が主権派の主張に賛成票を投じたことを知るに及んだ。ケベック党の敗北宣言がモントリオールから報じられると、ホールは、若者たちや、はやる気持ちの人々で満杯になった。ジャン・クレティエン首相は、今回のレファレンダムが否決されたことで、今後、主権を求める圧力は起こらないと断言した。だが、これを信じたものは、事実上、皆無に等しかった。
  では、主権確立派が、レファレンダムに勝利していたとすれば、どうなったであろうか。憲法には、連邦離脱の規定は存在しない。先住民諸集団は、ケベック領の大部分が自分たちの土地であると主張している。だが、一〇月三〇日の投票日の直前に、主権確立派が勝利することがあっても、カナダ連邦を離脱する意志にはないことを満場一致で宣言していた。ケベック党は警察力に訴えたであろうか(ケベック州警察が、結局、先頃に、オカでモホーク族と戦闘に入ったことがある)。連邦政府は原住民の軍事援助の要請に応じたであろうか(一九七〇年に、ケベックは連邦の軍政下におかれたことがあるが、当時、ピエール・エリオット・トルドー首相は、「暴動の恐れ」があると判断し、非常事態法を発動した)。今回は、幸運にも、こうしたシナリオに直面するに至らなかったとはいえ、その可能性は、なお、残されている。ケベックにも、英語を話す人々や、「アロフォンズ」、つまり英語とフランス語のいずれをも母語としない人々(ケベック総人口と、大都市に、主としてモントリオールに集中している人口の、それぞれ約一〇%)が存在している。彼らは、主権確立に強く反対し、これに反対票を投じた。従って、ケベックの主権が確立されたとしても、大きな不満をもった少数派がかなり多く残ることになったであろう。
  議会は、ケベックを「独特の社会」であると規定するとともに、今後の憲法改正については、オンタリオ、ブリティッシュ・コロンビア、大西洋岸諸州、大平原諸州(いずれも、単独の拒否権行使単位とされている)とならんで、ケベックにも拒否権を認める立法を導入することで対応した。だが、フランス系ケベック人は、独特の社会という呼称を得たことで満足したわけではなく、これを実体のない措置とみなしている。地域や州ごとの拒否権は、一部の権限委譲論者から歓迎を受けたにしても、この国のバルカン化の危険な一歩であるのみならず、全国型計画化と中央行政・財政型社会サービスを危機にさらす経済政策であるとみなす人々もいる。
  さらに、こうした立法を制定したことで、国の痛手は和らげられるのではないかと期待されながらも、議会はまとまりのつかない状況にある。議会はクレティエンの自由党指導下にある。だが、この議会内多数党の表面下には、根深い地域対立や社会・経済哲学の分裂が潜んでいる。奇妙なことに、公式の反対勢力はケベック連合である。この連合は、近年、結成され、もっぱらケベックの有権者によって選出された議員からなる。この政党を軸とし、ケベック党と民主主義行動派(ケベック自由党の青年層が離党して結成した政党)との連携によって、主権確立レファレンダムが実現したのである。議席数の点で、これに次ぐ勢力は、別の新興勢力たる右翼ポピュリスト型の改革党である。この党は、アルバータで結成されたとはいえ、他の地域でも、少なからぬ支持を得ている。
  社会民主主義的な新民主党とトーリーの流れを汲む進歩保守党は、自由党とならんで、先の連邦選挙までカナダの主要政党の位置にあったが、現在では、かなり僅かの議席(全議席数二六五のうち、それぞれ、九議席と二議席)しか保持していない。ケベックにおいて、ケベック党は、現在、ルシアン・ブシャール(ケベック連合のかつての党首)に率いられ、経済問題への傾斜を強くしている。また、社会民主主義的政策を(重点的に)採用することで、他の大部分の州に認められる新保守主義の傾向に歯止めをかけようとしているだけでなく、主権確立をめざして、別の流れを再編しようとしている。
  以下、本論では、全般的見地から現在の政治情勢をスケッチしたうえで、自らの理論的活動が現実の政治生活に何らかの影響を与え得ることを期待している政治理論家の視点から、現に直面している難問のあり様を検討するための概念的・政治的枠組の諸局面を提示することにしたい。以下の提起のいずれかが、カナダに関するメリットは別としても、ナショナリズム論争の別の舞台にあっても有意義なものとなり得るかどうか、あるいは、どの程度に有意義なものであるかとなると、判断し得る立場にはないと思っている。


情    勢


  当面の論点にかかわるカナダ政治の現状は、一方では、行動主体と、他方では、行動の対象となり得るものからなると想定してよかろう。想定可能な行動主体と「行動対象(アクティーズ)」をそれぞれ特定するとなると、これは問題提起的な作業となるだけでなく、その特徴づけと意義をめぐる論争は政治過程そのものと密接にかかわってもいる。この点は、ケベックの主権確立論者のほぼ全員が最も重要な行動対象は民族であると主張していることに鑑みると、極めて明白である。一九六〇年代以来、トルドーをはじめ、その後の全ての連邦指導者は、こうした主張に異議を唱えてきたにとどまらず、ケベックが一つの民族ではないとも主張してきた。こうした態度は、民族的存在を認めることが、少なくとも、国家としての存在の前提条件を与えることになるという恐れに発していたと思われる。また、彼らは、ケベックが同質的なフランス系社会ではないとも指摘している。さらには、民族中心型政治に理があり得るような別の民族型行動対象が存在し得るかどうかという関心も認められる。理由は、やがて、明らかにするが、カナダと称される国は、フランス系民族、アングロ系民族、総体としての先住民族という三つの民族集団からなるとする考えに同意しているからである。ただ、いずれの呼称にも問題がないわけではない。
  ケベックは、人種的・言語的に異質な構成にある。また、フランス語系の人々は、カナダ各地で生活しており(公式の二言語政策において確認された事実)、その全てがケベックを民族的故郷とみなしているわけではない。英語系カナダ人の多くは、ケベックがカナダのアイデンティティーにとって不可欠の位置にあると考えているからこそ、ケベックの分離独立に反対しているのである(だから、フランス系ケベックの経済ないし政治エリートの多くが、トルドーやクレティエンのように、強固な連邦主義者であるという事実ともあいまって、チェコスロヴァキアのように、民族的分裂をめぐって紛争している諸国よりも、この国の事情を一層複雑なものとしているのである)。
  英語系カナダ自体も、多くの言語共同体から構成されている。なかには、例えば、オランダ系やドイツ系カナダ社会のように、コンフェデレーション以前に遡るものもあるが、多くは、今世紀の転換期に発している。だから、ケベックを除くカナダとか残りのカナダという表現にはぎこちないものが残るのである。また、合衆国ないしケベックには強力な民族主義的感情が認められるが、これに類するものは英語系カナダには存在しない。先住民はヨーロッパの入植者とその子孫から過酷な扱いを受けたという経験を共通にしているが故に、(ロベルト・ミヘルスの表現を使えば)「運命共同体」を構成している。だからといって、先住民が単一の民族を構成しているわけではない。
  州と地域は、カナダの政治的情勢にあって、別の二つの行動対象(アクティーズ)の位置にある。カナダ政治史の大部分は、連邦主義型集権主義と地域・州中心型分権主義との緊張関係にあるとみなすこともできる。だが、州の境界と地域の境界とは厳密に一致していないことから、地域と州の間にも緊張関係が認められる(また、北西部准州とユーコンは州の地位にはない)。州と地域は、いずれも、南北のラインで分断されており、さらには、総じて、都市と農村の区分もこのラインに沿っている。
  民族と州や地域のほかに、少数民族諸集団も存在しており、その数も極めて膨大である。だが、少なくとも一九七〇年代以降、多数派文化に吸収するという合衆国のるつぼ型方向にむかうことを求められているわけではない。最後に、個人の問題がある。少数民族集団の重視は、カナダの多文化主義政策に反映されている。これは、一九八二年(この年に、憲法改正権限がイギリスから移管された)に、公式の政策として憲法に明記されることになった。カナダ人気質は、合衆国の政治文化ほど戦闘的個人主義型のものではないといえ、個人権重視型の展開をみせ、一九八五年に「権利と自由の憲章」が、既に、憲法に補足され、合衆国の権利章典と同様に実施されるに及んでいる。だが、この憲章の諸規定は、一定の状況下において、州ないし議会によって無効とされ得るものとなっていることを留意しておくべきであろう。
  以上の情勢にあって、主要な政治的行動主体は、連邦と州の政治家、すなわち、連邦首相と州首相であった。こうした被選出リーダー層は、自らが選任した一連の委員会勧告に従って、一方的行動に訴えるか、あるいは、相互に交渉を重ねて、連邦と州の議会にかけるか、ないしは人民投票に直接かけるべき提議を引き出すという方法をとってきた。こうした努力の成果が、一九八七年の「ミーチレーク協定」と一九九二年の「シャーロットタウン協定」である(政治家が交渉に臨んだ地名に由来する)。前者は、マニトバとニューファンドランドが批准しなかったことで、必要とされた各州議会の承認を得ることができなかった。マニトバ州議会は、唯一の先住民メンバーたるエライヤ・ハーパーの反対だけで、この協定の承認を阻まれたが、この事実の意義については後に再論することにする。シャーロットタウン協定は全国的レファレンダムにおいて否決された。
  別の行動主体は、実業界と労働者の組織や政党のみならず、社会諸運動や先住民社会のリーダーおよび一般市民からなる。他の現代型民主制の多くに認められるように、一般市民は、州および連邦政府を選挙するという間接的影響力しか行使し得ない。また、レファレンダムの投票のインプットとなると、さらに制限された立場にしかない。しかも、その時機や表現についての発言権を欠いている。実際、ケベックの主権確立に関するレファレンダムで「賛成」票を投じようというキャンペーンは、この問題が公式に浮上する数週間前に開始されたにすぎない。一〇月のレファレンダムの前日に、カナダ全土から一万の人々がモントリオールに集結し、激しいデモを展開した。これは、主権確立に反対する強力な民衆感情を反映するものであったことは明かである。だが、市民感情の自然発生的発露という様相にあるとはいえ、連邦自由党によって組織され、財政的援助も与えられたという事実から推して、その外観には疑わしいものが残る。
  立憲過程において、被選出代表者とその体制派の支持者たちが弱い立場にしかなかったという具体例は、一九九二年のシャーロットタウン協定の末路に認められる。(当時、自由党政権下にあったケベックも含めて)各州首相と当時の連邦首相=ブライアン・マルルーニは一つの提起をレファレンダムにかけた。この提起には、当時の連邦の諸政策と同様に、連邦の権限を全州に委譲することによって、ケベックと他の諸州とを同時に懐柔するという狙いがこめられていた。三つの伝統的政党や「最初の諸民族会議」(先住諸部族を代表する包括的集団)の代表のみならず、実業・労働・報道界も首相たちを支持した。だが、アナーキストの幻想にちがいないとされたことから、こうしたエリート間協調型(コンソーシィァム)の活発なキャンペーンは投票で大敗を喫した。
  シャーロットタウン協定が世論の支持を得られなかったのはどうしてだろうか。この点について簡単に述べておくことは、以下の提言につなげるうえで有益であろう。この協定は、既に、フランス系ケベックの人々の不評をかっていた。というのも、この協定が彼らの民族的存在を承認しないで、既述のように、既に否決されていたにもかかわらず、ケベックを「独特の社会」とするミーチレーク協定の表現を繰り返しているにすぎないと憤慨していたからである。イギリス系カナダ人、とりわけ、ニューファンドランドや西部諸州のイギリス系カナダ人からも広く不評をかっていた。というのも、彼らは、この方策がケベックを他の諸州よりも優遇するものであると憤慨していたからである。さらに激しい反対が保守的な改革党から起こった。この政党は、至当にも、密室型の首相たちがこれほど決定的な役割を担うような手続には、民主主義の観点から問題があると告発したのである。だが、改革党は、民主主義の外被をまとうことに成功したとはいえ、いくつかの社会諸運動(環境運動、貧困撲滅運動、とりわけ、強力かつ広範な支持を得た女性運動の連合体である「女性の地位に関する国民行動委員会」)が、レファレンダムに「反対」の立場を表明したことから、その成功も短期間に終わってしまった。社会諸運動の関心は、権限委譲によって社会サービスが低下するのではないかという点にあり、この点で、改革党の関心とは真向から対立する位置にあったのである。
  この協定を葬り去る最後の釘が原住部族評議会によって打ち込まれることになった。というのも、この評議会の集会のリーダーをもって協定を承認するという方法が拒否されたからである。原住民に「固有の自治権」を認めるものであるという点で、この協定には、従来のいかなる創案よりも大きな前進が認められる。それでも、部族リーダー層は、そのメンバーに反対投票を呼びかけたのである。その理由は、原住民リーダー層が、先住民の権利という点で、この協定の実質的内容に異議を唱えたことに求められるべきではなかろう。彼らが嫌ったのは、その手続であって、この協定のみならず、彼らの諸権利の範囲を具体化し検討するための諸規定が固定化されることにあった。こうした歴史的問題を十分な公開の討論に付さないままに個人投票に委ねることは、同意に至るまで議論をつみ重ねるという先住民の民主主義観とは相容れないものであった。さらに、先住民の女性たちは、女性の諸権利が、新しいとり決めにおいて確実に守られることを望んでいた。ヨーロッパ系の人々が先住民に二者択一の提案を突き付けたのは、これが最初のことではない。投票によって協定を破棄するには、原住民だけでは足りなかったにせよ、彼らが消極的態度をとったことで、賛成票を投じ得る多くの人々が先住民の要求を支持する立場からはなれてしまったのである。


方法論の諸問題


  私自身はこの協定に賛成票を投じた。というのも、原住民の自治権が確保されることはかなりの前進であるし、この点がなければ、協定文書とその手続も欠陥だらけのものとなるであろうと考えたからである。だが、私は、左翼の学者仲間から多くの非難を浴びることになってしまった。私の動機と協定に反対票を投じた同僚の動機の両方を検討してみて、今や、明らかと思えることは、教室や研究会の場で使われたレトリックにもかかわらず、政治理論家一般に、とりわけ政治哲学者に特有の演繹的方法に訴えなかったということである。つまり、我々は、(功利主義、義務論、契約主義などの)一般的道徳理論を当面の事態に適用しなかったということである。また、民族自決権の一般的問題について立場を明確にし得なかったし、ケベックがこの種の権利を有しているかどうかを、さらには、協定において、この権利が充分に認識されているか、あるいは拒否されているにしても、それには至当なものがあるかいなかを問題としなかったということである。
  私の印象では、理論家たちは、当初、ある種の好みを規準として協定に賛成票を投じることの功罪を思案したという感にある。例えば、社会サービスの維持、ケベックの民族的利益の向上、エリート型決定作成に対する抵抗、原住民の支援などが挙げられる。こうした「規準」には、規範的直感、事実の評価、将来選択の予見が混在している。確かに、結果として生ずる態度の規範的次元自体は、それまで、政治哲学者が基礎理論をどのように注目したかによって形成される部分もあるが、この点は、(一部の新ロールズ主義者の表現を使うなら)「広範な内省的均衡」様式における直感と経験的考察の影響を受けた理論的確信にも妥当する(3)
  大多数の人々が、この協定によって、それぞれ影響を受け、個別の関心をもつに至ったわけであるから、また、政治哲学の批判的次元に従えば、少なくとも、政治哲学の訓育を受けた人々であれば、最も信奉する価値や優先順位でさえ疑問視して然るべきものとされるわけであるから、この種の規準自体が審問と弁証に付される必要があることになる。もっと伝統的な政治哲学には、確かに、この種の営為の手がかりとなり得るものがあろう。だが、そうした抽象理論に訴えるだけでは不十分であると思われる。いずれにせよ、抽象理論がどれほど有益なものとなり得るかは、どのような脈絡に訴えられるかによるところがある。先に素描した情勢こそ、この種の脈絡なのである。しかし、ある脈絡を記述したからといって、直ちに、政策ないし行動の妥当な処方箋が得られるわけではない。必要とされるのは、最も積極的な解決策が模索され、妥当な調停様式が展望され得るような方向設定である。


民族型方向設定を弁護して


  近年の論争において、その積極的調停役を担ってきた二人のカナダ哲学者として、チャールズ・テイラーとウィル・キムリカが挙げられる(4)。キムリカは個人主義的パースペクティブに立ち、テイラーは自由民主主義的コミュニタリアンであるとはいえ、いずれも、集団の、とりわけ、民族の権利を何らかの形で支持する立場にある。キムリカとテイラーの議論は、総じて、個人主義ないしコミュニタリアニズムの立場のものであるが、私が焦点を据えたいと思っているのは、理論的寄与という点で、彼らが議論のより所としている方向設定にはどのようなものが認められるかという点にある。キムリカには、見落とされがちではあるが、個人中心型の方向設定からカナダのコンフェデレーションにまつわる政治的諸問題にアプローチするという強みが認められる。これに対し、テイラーの焦点は民族にある。この視点は、政治哲学者がナショナリズムをめぐる論争に有益な一石を投じ得る一例の位置にある。とりわけ、キムリカとテイラーを好例として持ち出すのは、いずれにあっても、共同体型方向設定と個人型方向設定とは真向から対立するはずであるとする仮説が疑問視されているからである。
  彼らの理論を、対立せざるを得ない二つの処方箋としてではなく、パースペクティブを明確にしたものとみなすなら、二つのパースペクティブ相互の利点を評価し得ることになり、それぞれの適用効果を敵視したり、あるいは退けるという態度をとる必要がなくなろう。このように考えてみると、また、カナダ/ケベックの現況を鑑みるに、個別市民中心型方向設定、ないし既述の(少数民族集団、州あるいは地域といった)別の行動対象を起点とした方向設定よりも、民族型方向設定を推進するのが望ましいと考えられる。
  キムリカの議論には、民族主義者でなくとも、諸個人は、それぞれに、できるだけ広く自らの幸福を追求し得る存在たるべきであるとする自由主義的多元主義観にある限り、共通の民族的課題に参加することを幸福としている人々の願望が、少なくとも暫定的には、どうすれば尊重され得るかが窺われる。だが、この議論の弱点は、民族的帰属感という極めて強靭な観念の存在を認めたうえで、この点を、民族主義者にとって最も重要な諸領域と結びつけて検討するに及び得ていないことにある。民族主義者の関心は、民族集団の構成員たる至福を個人的に享受し得ることにあるだけでなく、自らの民族が幾世代も存続することを期待していることにも求められる。だからこそ、フランス系ケベックの人々は、ケベックのフランス語を守るべく、あれほど激しい手段に訴え、一時は、別の言語による公示を違法とすらしたのである。確かに、先住民は、当然ながら、存命中の原住民の生活を改善する措置を強く求めているし、また、先住民の女性たちは、性差別という点で、先住民の慣行の一部そのものを告発してきた。だが、先住民は、また、男女を問わず、自らの文化が吸収されることを回避したい、あるいは、自らの生活様式を後世に伝える手段を失うことを回避したい意向にあることを明らかにしている。
  テイラーの民族中心型アプローチは、必要とされる実践性に欠けているわけではないとしても、課題という点では−テイラーが自覚し、取り組んだように−どうしてナショナリズムが多元主義的なものともなり得るのか、この点を明らかにする必要がある。ナショナリズムの実例には、寛容に欠け熱狂的なものがあまりにも多いため、民族主義的感情にも、個人の権利と相互の差異を尊重し得る形態もあり得るとは誰も主張し得まい。とはいっても、テイラーの議論がナショナリズムの一般的擁護を求めているわけではない。彼の課題は、フランス系ケベックのナショナリズムには自由主義的原理と民主主義的原理も認められ、なかには、残りのカナダに認められると同一の原理も含まれていることを明示するにとどまるものである。その他の原理については別の解釈が必要とされるにしても、これとても、同様に、望ましい作用を起し得る場合もあり得よう。残念ながら、誤りであろうが、テイラーは、ケベックのナショナリズムが不寛容なものとは思われないと述べているが、そこまで主張する必要はない。彼に求められていることは、ケベックの政治文化には、寛容な形態のナショナリズムを育む基盤があることを明らかにすることである(5)
  カナダの脈絡においては、個人中心型方向設定よりも民族中心型方向設定が妥当と考えられる。その根拠は、個人主義の場合にも類似の潜在力が認められるとはいえ、民族中心型方向設定には−ケベックにとどまらず、英語系カナダ人や先住民においても−文化的政治を含めて、積極政治によって自由主義的・民主主義的民族感情が育まれるだけの余地という点で、個人中心型方向設定にまさるものが認められることにある。というのも、「民族性」とは柔軟なものであって、ひとつの概念としては多様な解釈に、また、現実生活にあっては別の解釈に服するものであるからである。民族を構成するための諸条件には次が含まれるものと想定している。すなわち、(a)民族の担い手たる人々が、自らのアイデンティティーのより所たる民族にまつわる要素(ケベックを例とするなら、主としてということであって、これだけではないが、自らのフランス語)を保持・促進するために、大規模な超世代的課題を遂行しようとする意志と能力をもっていること、および(b)必ずしも意志までも含むわけではないとしても、独立国家となるだけの現実的能力をもっていること、これである(6)
  カトリック教会と連合教会(カナダの長老派とメソジスト派の連合)は、第一の条件については、何らかの手段を保持しているとしても、第二の条件については、その術を欠いている。オンタリオ州や大西洋カナダ地域は、国家となる潜在力を有している(ただし、いくつかの少数集団の発言は別として、国家となる意志にはない)。だが、いずれの州ないし地域も、他の諸州や諸地域と同様に、何らかの固有の文化的特質を歴史的に継承しているにしても、何らかの固有の特質ないし一団の特質を備えていて、大多数の人々がこれにアイデンティティーをおぼえていたり、あるいは、その保持を主要な集団的優先課題とするだけの強いアイデンティティーにある州や地域となると、これは見当たらない。
  先に指摘したように、ケベックの文化的異質性が所与とされ、また、フランス系ケベックの人々がフランス以外の出自と文化をもった人々をケベックの民族性にあわないとみなしているとすれば、寛容なナショナリスムが生まれる見込みはあり得ないことになろう。フランス系ケベックの人々のなかには、これを当然視している人々も認められる。だから、ケベック党の前党首=ジャック・パリゾーが、レファレンダムの敗北は、部分的であれ、ケベックのアロフォン社会によるものであると述べたことで、多くの人々の非難を浴びたのである。だが、問題は、一部のリーダーに認められる寛容の欠如にとどまらない。敵対の淵に瀕したフランス語系住民とアロフォンズとの緊張関係は積年の精神状況によって悪化しているが、こうした感情こそが、部分的であれ、フランス系ケベック住民の民族的アイデンティティーを構成しているように思われる。
  発端は、一七五九年に、イギリスがケベックのフランス勢力を軍事制圧したことに遡る。これが一九六〇年代に至っても尾を引くことになったのである。当時、ケベックの産業や商社の多くが英語系の人々によって所有され、職場では英語が非公然の言語として使用されていた。かくして、フランス系ケベックの人々は英語系カナダ人の支配下にあると考え、自らの言語が、さらには文化が危機に瀕していると感じたのである。この状況に抵抗すべく、一九七〇年代に「静かなる革命」が開始され、次第に激しさを増していった(一九七六年のケベック党の最初の選挙に連なる)。こうした動向は、浸食状況に対する抵抗の代表例であった。だが、この時期のケベックへの移民のなかには南欧出身者も含まれており、彼らの言語は、フランス語と英語のいずれでもなかった。また、彼らの期待は、英語圏大陸における選択肢を最大化するために、自らの子供たちが英語を駆使し得ることにあった。かくして、ケベックの多くの人々は、こうしたアロフォンズを「敵」たる英語系の同盟者とみなすことになったのである。
  だが、ケベックは、今や、イギリス系資本だけに支配されているわけではないし、ケベック党や州自由党の精力的な努力によって、フランス系に対する浸食も抑えられている。だからといって、積年の精神状況や、その随伴現象としてのアロフォンズに対する疑念がケベックのナショナリズムから消えさったわけではない。民族的アイデンティティーは、フロイトが論じた潜在意識現象のごとく、固有の時間枠で作動しているように思われる。しかし、ケベックの民族的願望を共有している人々が、全て、アロフォンの存在に脅威を感じているわけではない。パリゾーがケベック党首の座を辞したのは、レファレンダムに敗北したという理由のみならず、彼の発言が、とりわけ、自党内のフランス系分離論者の憤慨をまねいたという理由にもよる。
  後者のグループには、民族主義的知識人という重要な階層のみならず、多くの教会、労働者、社会活動家も含まれており、彼らは、フランス語の保持のみならず、議会制民主主義やナポレオン法といったケベックの主要な政治的・法的諸制度を維持することを願って、他のあらゆるケベック民族主義者との連帯関係を期している。また、彼らは、誰かの生得的文化が過去のものとされてしまったり、多様な文化的要素が、時とともに、フランス系ケベックの伝統に吸収されてしまうことを求めているわけでもない。こうしてみると、ケベックの民族主義者の間でも、いわゆる多元主義者と反多元主義者との論争が交わされていることになる(7)
  既述の歴史から、私が人種的多様性を軸とした方向設定に同意し得ないわけが理解していただけよう。これは、カナダの脈絡においては、多文化主義を意味している。トルドーは、形態のいかんを問わず、ケベックのナショナリズムに断固反対の姿勢をとった。彼は、また、個人の権利と自由の憲章を憲法に盛り込むことを発案し、遂には、これを達成した。さらには、二言語主義と多文化主義をカナダの公式政策にしたという点で、その原動力の役割を担った。こうしたイニシアティブは、ケベック民族主義者から、理由のないわけではないが、彼らの構想を広める努力にほかならないとみなされた。フランス語は、全国的言語の一つとなり、かくして、ケベック文化のなかに占める特別の地位という点では、そのトーンを弱めることになった。諸個人は、集団型介入から保護されるべきものとされた。フランス系ケベック文化は、カナダの多文化型モザイク状況にあって、多数の(実際、何百もの)文化の一つであった。もちろん、多文化主義を進めようとする別の動機も認められ得るが、先に触れたケベックの「多元主義的」民族主義者に同意する立場からすれば、こうした事情が対立せざるを得なったことは極めて残念なことと言わざるを得ない。
  とはいえ、カナダ情勢から人種的多様性だけを抜きだし、多文化主義が当面の諸問題を論ずるための指導的パースペクティヴであるとすると、英語系カナダや先住民諸集団と同様に、フランス系ケベックも大規模な人種集団にすぎないとする見解をとらざるを得ないことになろう。これは、指摘したばかりの歴史の故に、ケベックにおいて対立を引き起こすことになるだけでなく、不正確でもある。先の民族性の特徴づけに従えば、例えば、ヴァンクーヴァーの東アジア人コミュニティーやトロントのイタリア人ないし西インド人コミュニティー、あるいは、ウィニペグやエドモントンのウクライナ人コミュニティーとは違って、ケベックは一つの民族の位置にあるとの主張が成立し得ることになる。
  事実、先住民の居住は地勢学的に分散しており、居留地に住んでいる人々もあれば、居留地とは別の地域に住んでいる人々もいる。また、彼らは、多様な自己規定をもった多数の民族から構成されていることも事実であって、例えば、デネ族、ミクマク族、オジブワ族、クリー族、モホーク族、セネカ族、ンスカ族などがあげられる。また、「国家性」の特徴は、完全な自治権を認められた先住民からすれば、ヨーロッパの政治的伝統を有する人々とは異なるものとなろうし、これには、例えば、イロクォイやアルゴンキンといった原初的言語集団に近いものへの連合も含まれることになろう。とはいえ、妥当な先住民自治型プランもいくつか先住民自身によって提起されてきたわけであるから、自治の意欲と実現可能性が提示されていることにもなる。また、こうした苦境に立たされた人々の帰属意識や存続願望には、実に、顕著なものがある。
  ケベックを除くカナダが、果たして、一民族を構成しているのであろうか。この点で私見を要約しておくことは、ここで採用される民族性の観念を明確にし、主たる結論へと導くうえで有効であろう。少なくとも、一九六〇年代に至るまで、ケベックを除くカナダにあって民族的忠誠の位置にあったのは、全てではないにしろ、主要には、イギリスの言語的遺産や「平和・秩序・正しい統治」という政治文化であった。これは、イギリスから受け継ぎ、私の前の数世代にあっては、英国君主に対する儀礼的愛着心と結びついていたといっても差し支えあるまい。こうした発想がフロンティア精神と渾然化していたとはいえ、それは、荒削りの個人主義型のものではなくて、美しい自然や広大な領土に対する特別の愛着心という意味でのフロンティア精神であり、また、比較の次元では、盲目的愛国主義に陥いらず、暴力的傾向も小さく、より平等主義的であるという点では合衆国と区別されるカナダに固有の精神でもあった。
  君主制への愛着心は別として、少なくとも、こうしたこだわりが、なお、強力に残存していると考えられる。新保守主義政治と合衆国の大衆娯楽メディアの圧力をうけて、誘導価値と考えられる諸要素(例えば、平等主義と非暴力)のなかには危機に瀕しているものがあることは残念である。共有価値と民族的帰属感とが符号しないものである限り、多様な諸価値や決定的アイデンティティーと矛盾する諸価値が存在する状況にあっても、民族的帰属感が存続することは可能である。だから、民族的神話が生まれ得るのである。とはいえ、価値と帰属感とが影響しあう関係にある限り、カナダの民族的帰属感が脅威に対して反発を誘発するのか、それとも、脅威に屈して、カナダと合衆国との民族的帰属感が、総じて、区別のつかない状況(カナダを訪れる外国人は、多くの場合、こうした状況が既に一般化していると主張しているが、これは誤りと考えられる)に陥るのかという点では意見を異にするものと思われる。
  非イギリス系に起源を発するコミュニティーについては、別の、概念的には、より複雑な問題がある。この点で、次の二つの問題設定が妥当であろう。つまり、この種のコミュニティーに対する姿勢とカナダの民族的アイデンティティーとは、どのような関連にあるのか、また、こうしたコミュニティー自体が、カナダ人としての帰属感を宿しているとすると、それはどのようなものなのか、これである。こうした疑問に完全に答えようとすると、かなりの紙幅が必要とされるが、いずれにしても、乏しい社会学的知識にしかない私には手に余るところである。ただ、人種差別主義や反ユダヤ主義も含めて、イギリス系の、実際には、イギリス系プロテスタントの盲目的愛国主義の夢想には強烈なものがあったし、現に強烈なものがあるから、彼らの多くが、久しくこの国に住んでいながも、真のカナダ人とはみなされていないと結論づけようとすると、歴史書を調べるか、あるいは、殆ど全ての非イギリス系カナダ人の話を聞く必要が起ろう。
  こうした不幸な姿勢は、容認型態度から、多様な言語的・地域的・文化的背景にある人々を包括的に適応させようとする態度にまで及ぶが、容認であれ、包括であれ、こうした態度そのものが、カナダのアイデンティティーの決定的特徴をなしている(こうした態度は、多文化主義を支持して、文化の多様性の保護を唱導している人々や、多文化主義にはゲットー化の傾向があると理解し、これを危惧する批判者のいずれにも認められる)。こうした態度の一つの極みたる包括型態度にアプローチしてみると、イギリス文化と歴史的に結びついた政治制度や諸価値のなかには保持されているものもあるとはいえ、イギリス文化がすぐれて優位にあるとは言えないし、また、英語は、一つの共通語として道具的に理解されているにすぎないことがわかる。盲目的愛国主義とは違って、イギリス文化は、カナダの民族的アイデンティティーを共有している非イギリス系の人々とも両立可能な位置にある。
  ケベックとイギリス系カナダの民族的アイデンティティーとの関係は、別の点でも、問題を孕んでいる。ケベック党の一九九四年選挙後に登場し始めたバンパー・ステッカーには、共通して、「我がカナダにはケベックも含まれる」と書かれている。いくつかの事例に即してみると、このスローガンはさもしい脅しにすぎず、意図はどうあれ、既述のように、ケベックの抜き難い精神状況を煽ったにすぎない。実際、ケベックのナショナリズムに対する敵意は、反ケベック感情が英語系カナダの民族的アイデンティティーをなしている限り、英語系カナダ人の多くにあっても、同様に抜き難い精神状況にあることになる。だが、こうした感情はヘゲモニー的なものではない。多くのカナダ人は、この国が分裂すると、国家のみならず民族の崩壊にも連なると考えていることは、バンパー・スローガンの一般的感情の表現にも明らかである。つまり、英語系カナダ民族にとって、ケベックとの共存こそが重要なシンボルなのである。
  フランス系ケベックの連邦主義者のなかには、互恵的感情をもっている人々もいるように思われる。とはいっても、こうした互恵的態度が大多数のフランス系ケベック人に共有されていないという印象にある(これは、数年前の一学期、ケベックで教壇に立ったとき、フランス系ケベック人の同僚や学生との交流から得た印象である。また、レファレンダムにおける「賛成」側の強さからも、この念を強くした)。ケベックの民族性感情を僅かでも損なうことなく、残りのカナダから分離独立することは可能であろう。だが、これは、カナダ人としての民族的アイデンティティーが、部分的であれ、強制的結合を求めるという不幸な事態に手を貸すことになる。さらに、別の有力な態度、とりわけ、改革党の支持者の間で優勢なものとして、「連中の好きにさせろ」という態度が認められる。だが、これは、事態を悪化させ、事実上、多くのケベック人が恐れている剥き出しの敵意をもろに表面化させることになる。


「三」民族主義(ナショナリズム)


  方向設定の一機能に従えば、法・政治的に制度的な解決がはかられる基準を提示することが求められる。本論では民族型方向設定を提唱するが、それは、ケベックとそれ以外のカナダの民族的構想のいずれもが同時に追求され得る解決策の模索につらなるからである。その意図は、ケベックが、文化問題のみならず、言語や文化の保持に大きく関わる経済的・対外的政策についても高度の自律性を要求し得るにしても、だからといって、残りのカナダが自らの民族的アイデンティティーを維持し得ないまでに、各州ないし地域がバルカン化するという代償を求めてもよいということにはならないという考えに発する。主権確立論者の主張によれば、その条件が満たされるのは、分離独立によるしかないとされる。カナダ人やカナダ情勢の研究者であれば、これに代わるものとして、憲法論議の時期に提案された諸構想のなかでも、「非対称型連邦主義(エイシンメトリカル・フェデラリズム)」の構想を思いおこすことであろう。この構想に従えば、単一国家は民族的諸単位から構成されるとともに、そうした諸単位自体においては、期待どおりの凝集性が保たれながらも、示差型の政治権力と法的権能が賦与されることになる(8)
  いくつかの選択肢のなかでも、非対称型連邦主義には次の二点で優れたものが認められる。つまり、この種の連邦主義であれば、各民族のアイデンティティーは維持されつつも、これには、他の民族との国家的連携も内包されることになる(既述のように、これは、ケベックよりもイギリス系カナダにおいて強力である)。また、大陸的およびグローバルな経済的脅威のなかで、協力関係を促進し得ることにもなる。だからといって、非対称型連邦主義が分離独立型の選択肢と全面的に対立するわけではない。この種の連邦主義がうまく機能するためには、加入を求められる必要があるだけでなく、自発的に維持される必要もあろう。従って、離脱権を含んだものとならざるを得まい。また、最近のレファレンダムに認められる分離独立派の選択肢が、必ずしも完全な分離独立を求めるものではなかったという点で、おそらく現実的であったといえよう。むしろ、この構想に従えば、主権あるケベックの州政府が、ヨーロッパ連合構想をモデルとした何らかの方法で、残りのカナダとの新しい提携関係を模索する権限を得ることになろう(非対称型連邦主義と若干の修正を経た主権とは、確かに、異なる選択肢ではあるが、全くの対立関係にあるわけではない。この点は、いずれにも、かつて、ケベック党がはじめて提出した創案との類似性が認められることにも明らかである。というのも、「主権連合」案は、可逆図形と同様に、二方向のいずれからも理解され得るものであるからである)。
  シャーロットタウン協定を起草した首相たちが知るに至ったように、制度改革構想を練ることは容易であっても、これに対する世論の支持を確保するとなると、より困難なものとならざるを得ない。この点は、確かに、非対称型連邦主義ないし条件つきの分離構想にも妥当する。この種の改革構想には、一般世論の承認が前提条件とされる。本論では民族型方向設定を提唱したが、この立場からすれば、イギリス系カナダ人とフランス系ケベック人の民族的アイデンティティーの二つの側面が克服される必要があることになる。つまり、いずれの民族的アイデンティティーにも、部分的であれ、相手を敵とみなすという次元が認められるし、また、アロフォン社会がケベックないしイギリス系カナダの民族的生活に充分に参加することを拒んでいる局面も認められるから、これを克服することが求められるということである。こうした態度は、妥当な民族的社会が確立されれば、少なくとも周辺化され得るものなのであろうか。
  もちろん、価値転換を期そうとする努力の場合と同様に、この疑問に答えることは容易ではない。総じて、著述家、教師、ジャーナリスト、宗教指導者など、文化的生産手段に何らかの接近手段をもっている人々は、既に、自らの社会に寛大の精神が認められるのであれば、これを育成する必要がある(9)。だが、単なる二民族型アプローチではなく、「三」民族型アプローチの必要を強調することが解決の一端となるのみならず、不可欠の要素でもあると主張したい(これには、先住諸住民の多民族的性格の承認を明示すべしとする警告の規定が含まれる)。なかには、これがシャーロットタウン協定よりも重要であると主張する研究者もいた(10)。また、この協定では民族に触れることが拒否されたとはいえ、既述のように、新しい積極的方法で先住民問題に対応すべきことが強調されてもいた。こうしたイニシアティヴを想定することは可能なことであるし、求められて然るべきでもある。
  反先住民的諸価値やこれにまつわる行動が先住民以外のいずれの民族にも認められるということ、これは明らかである。だが、こうした否定的価値が存在しているにしても、例えば、カナダ/ケベックに認められる以上に声高に、かつ公然と先住民の大量虐殺政策を追求してきた社会に認められるような形で、個別の民族的アイデンティティーが形成されているわけではないし、あるいは、少なくとも、その状況にはない。さらに、歴史的にみて、先住民の要求を却下してきたのは、連邦政府というよりも州政府であって、連邦政府は、少なくとも時に応じて、また、何らかの方法で、彼らの要求を擁護してきた。これが、カナダの民族問題を論ずるにあたって、州中心型方向設定をとらない別の理由でもある。だから、カナダ人が先住民に好意的態度を採り得るのは、州市民としてというよりも、むしろカナダ市民としての立場に発するということになる(11)
  先住民は、過去の不正に対する補償のみならず、土地所有権と人道的処遇を求めている。この問題は、彼らが全人口の約三%しか占めていないという事実にもかかわらず、カナダのいたるところで、なお、現実の政治的議題とされている。その理由は、主として、先住民が、この問題を解決すべきだと考えるだけの充分な道徳的支持を幅広い市民から得ていることに求められる。こうした支援が強まったのは、先住民問題に対する国際的意識が高まったことや、先住民が国際司法裁判所といった国際機関に訴え、これに成功する場合も起こったことにもよる。
  「先住民固有の自治権」を認めたシャーロットタウン協定は別として、先住民に対する姿勢という点で、これまでのところ、憲法論争には、それほど建設的なものが窺えない。ケベックにおいて、この州の原住民の権利に関し、それなりに寛大な立法措置がとられたにもかかわらず、原住民が連邦を離脱することを明確に拒否したことによって分離派の敵意を招くことになった。他方、連邦主義派の政治指導者層は、シニカルに、また、意地悪くも「インディアン・カード」をちらつかせて、ケベックを牽制した。本論で構想したように、三民族型パースペクティブに立てば、原住民に対する民衆の同調心を引き出し得ることになろうし、大きく裏切られた民族的願望であるにしても、先住民が正当な願望をもっていることが明確にされることによって、この感情を強くすることにもなろう。また、ケベック人とそれ以外の地域出身のカナダ人の統一を期し、共通に直面している道徳的・領域的諸問題を先住民と共に考えようとすることにもなろう。
  こうした共同の努力をもってカナダの諸民族間に認められる敵対的態度が打破され得るとの主張は、共通目標に向かって協力し合い、何らかの価値が共有されるなかで、人々の連帯が生まれるという仮説を基礎としている。我々が入り込んでいる歴史的・精神力学的領域には、私の個人的体験にまさるものがあるにしても、ヨーロッパ出身の祖先が両アメリカ大陸の原住民に与えた底知れない処遇こそが、有害な気質を煽ることになり、これが人種差別主義と不寛容一般の源泉として、根強く残存しているように思われる−これは、おそらく、執拗さと根深さの点では、性差別主義に比肩し得る位置にある。提起した構想に従えば、この種の不寛容の源泉とまともに対峙しなければならないことになろうし、その根絶をめざす闘争においては、望ましい文化的作用を生み出し、英仏両系カナダ人およびケベック人の先住民に対する姿勢や相互の姿勢のみならず、他の人種的起源を有する人々に対しても、より寛容な態度を育むことになろう。
  先住民問題を考えるということは、英語系とフランス語系の人々の問題であるにとどまらず、この国の少数民族諸集団に属する全ての人々に関わる問題でもあり、彼らもまた、イギリス系とフランス系の人々と同様に、この構想と深い関わりをもっているはずである。この点で、止目して然るべきことは、民族、人種、少数民族諸集団が相互に異なっているということは重要ではあるが、民族的排外主義、人種差別主義、少数民族排外主義が、起源と特質を同じくするものではないとしても、類似の現象であるということである。だから、カナダの右翼が、先住民の諸権利、多文化主義、ケベックの自決に等しく反対したことに気付いても、驚くにあたらないことになる−実際、彼らの経済政策をもって、カナダの自決に対しても反対した。
  利他主義のみに頼らず、先住民の状況に共通のアプローチをとるためには、さらに二つの動機が想定される。一つは、先住民が高度に組織され、戦闘的であると想定したうえで、この問題に対処しなければならないということである。さらに、この問題には、先住民自身が承認し得る方法で対処しなければならないことにもなる。承認し難い方法に訴えると、より過酷で、また(ここ数年数ヶ月のような)武力対立を引き起こすだけでなく、比較的小さな地域に対する国際的非難を正統化することになろう。今日の世界にあって、こうした地域は、この種の非難に耐え得るだけの余裕にはない。とりわけ、コンフェデレーションに関わる諸問題を想起してみるに、先住民の二度にわたる干渉が大きなインパクトとなって、白人政治家の構想を挫折させたことを忘れてはならない。最初は、エライア・ハーパーがミーチレーク協定の成立を阻んだ時であり、次は、先住民がシャーロットタウン協定を支持する意志にはないと表明した時である。
  別の動機は土地所有権と関わっている。一見したところ、先住民以外の人々からすれば、こうした要求に決着をつけることは、彼らの居住地域と規模に鑑みるに不可能であると思われる。だが、この問題の解決は、おそらく、ヨーロッパ型パースペクティブよりも、先住民型パースペクティブに容易なものがあるとみるべきであろう。というのも、ヨーロッパ型伝統にあって主権は排他的行使の観念と結びついているのに対し、先住民の伝統にあっては、主権は別様に解釈され、その保持と共有の方法もあり得るとされているからである。土地の所有権問題にかかわる争点を解決しようとすれば、ヨーロッパ型とは別の主権概念に依拠せざるを得ないであろうが、この種の解決は、おそらく、現存の二民族間の主権問題への対処にも転用されれば、有効なものとなろう。


行動主体


  さて、カナダ情勢の行動主体に返ることで、本論の結びとしたい。イギリス系カナダとケベックのなかで、だれが協力し、また、先住民と共同して、この国の民族諸集団間の和解を模索すべきであろうか。シャーロットタウン協定の否決に明らかなように、市民には、強力な民主主義の息吹が認められる。当時の投票結果をみる限り、この協定に対する反感は、主として、この協定の調整と提起がトップダウン方式で行なわれたことに、また、連邦と州の政治指導者層一般が民主主義的応答を欠いたことに対する憤慨に発した。民主主義を自称している世界中の極めて多くの地域と同様に、カナダにおいても、人民は、民主主義を高めることを盛り込んだ諸制度においてすら、自らの命運を決定する権限を欠いていることに不満を感じている。だから、民衆の民主主義的反応は、典型的には、非応答的な政治家や政府を罰するという消極的投票の形態をとらざるを得ないのである。
  この種の民主主義的行動をとらないとすると−これは本論で検討した課題にそわないことは明らかである−それに代わる方法として二つのカテゴリーが挙げられる。つまり、非民主主義的解決策を模索するか、あるいは民主主義的解決策の深化を期すか、これである。主要な行動主体の位置がカナダの政治家にあった頃、彼らは、州利益の代表者として行動することもあれば(また、連邦レベルの政治家についていえば、州利益の権力ブローカーの役にあった)、あるいは、シャーロットタウンの会議に認められるように、この種の政治に超然として一種の裁判官に扮し、この国の最良の利益について判定しようと試みることもあった。だが、いずれの役割においても、民主主義的解決策が模索されたわけではない。
  諸州が、あたかも利益集団であるかのごとくふるまい、利己的で、排他的な経済利益の視点から権力政治型協議に参加するのを常とすると、一種の政治市場が生まれることになる。すると、経済市場の場合と同様に、参加者の個人的な判断に基づく利己的利益についてすら、予測のつかないなものとなる場合が多く、また最良の結果が得られることも滅多になくなる。この点は、より大きな政体については言うまでもない。シャーロットタウンの試みが州型政治市場を制止し得なかったのは、この市場に過度の権力が譲渡されていたからである。より重要なことに、民衆がこの協定を拒否したことに鑑みるに、この種のアプローチがうまく機能し得るのは、実効的な民主主義的インプットと結びついているか(そうなれば、このアプローチの必要性は失する)、あるいは独裁に訴えられるかのいずれかによる場合であることは明らかである。
  こうしてみると、民主主義的選択肢は市民自身に委ねられていることになる。とはいえ、こうした民族的和解にまつわる諸問題の対処を市民に求めるだけでは、成功の望めない戦略にすぎないものとなる。事実、この種の戦略は、既に、カナダで試みられ、失敗に帰している。ミーチレークのエピソードが起こってまもなく、連邦政府は、キース・スパイサーを議長とする委員会をおき、この国中の生活圏や職場において地方レベルの議論をおこし、その結論を委員会に報告するという方策に訴えた。こうして、カナダの多様な価値について、いくつかの興味深い社会学的知見が得られたとはいえ、コンフェデレーションをめぐる諸問題の解決という点で、意見が集約されたわけではない。しかも、州政府と連邦政府のいずれのリーダー層も、強いコンセンサスを得ていた関心の一つに、つまり、全国的社会サービスが損なわれるべきではないという関心に配慮したとは思われない。
  レファレンダムと同様に、多数投票、直接参加、あるいは、その他の民主主義の実践方法が、こうした目的に有効な場合もあれば、そうならない場合もあるのであって、状況に負うところがあるように、地方レベルでの同意形成の試みも同様の位置にある。だから、市民のインプットに直接訴えるという方法が実効的なものとなり得ないのは、民族的和解の諸問題には多面的なものがあるばかりか、広範すぎるものがあるからでもある。市民参加の望ましい方法としては、憲法会議の代表者の選出と委任が挙げられると思われる。だが、この方法が真に民主主義的に実践されるには、その前提として、議員団の選任やこの種の憲法会議に付託され得る選択肢といった諸問題について、広範で詳細な議論があってのことであろう。こうした議論のひとつの場として、非政府組織における、また、これを媒介とした市民活動が挙げられる。この種の活動がとりわけ顕著であったのは、先に触れたように、民衆を基盤として多数の諸集団が動員されたという点で、ほぼシャーロットタウン協定の時期にあたる(諸集団は、個別にこの目的にとり組んだけでなく、オタワを拠点としたカナダ活動ネットワークという調整組織を通じて、その運動を統合してもいた)。
  私見では、こうした諸集団を媒介とすることによってこそ、本論で指摘した市民型参加が、当初は、最も効果的に追求され得るものと考えられる。ケベックを除くカナダには、労働運動、女性運動、環境運動、自治運動、貧困撲滅運動をはじめ、その他の諸集団が認められる。これに類する諸集団はケベックにも認められるし、既に、そうした諸集団とは、ある程度、関心の共有が認められる。ほかに、教育ないし宗教機関も挙げられよう。これは、明らかに争点志向型団体ではないとしても、市民参加の重要な組織的舞台の位置にある。イギリス系カナダとケベックのいずれにおいても、こうした諸組織は、個別的にも連合体としても、他方の民族における対応組織とうまく連帯しつつ、一致し得る諸問題を出発点として、モデルの企画化や戦略の立案をめざすことができるといえよう。こうした集団は、全て、組織型構造にあり、政府から自立してもいるから、一方的に行動を起こし、こうした交流に乗り出すこともできる立場にあるといえよう。
  イギリス系およびフランス系カナダには、原住民に加えた歴史的不正を必ずや正すべき義務があるということ、これが、こうした諸集団の共通の関心のひとつとなることが期待されている。そうだとしたら、とりわけ、原住民自身をふくめて、わけても先住民の尊厳と平等なパートナーシップを修復するという観点から、カナダ/ケベック問題に取り組むべきとする共同発案型のイニシアティブが発揮されるなら、いくつかの強みも得られることになろう。どんなに少なく見積もっても、こうしたイニシアティブは、自己教化のフォーラムとなろう。また、非政府型諸集団にとっては、政治的選好を明確にし、政治家や政党に圧力をかける能力を強化する機会ともなろう。こうしたイニシアティブは、さらに、憲法会議について考える誘因となり、極めて重要な前進を期し得ることになるかもしれない。ただ、急いで付言しておきたいのは、その日時を設定し得ることがあるにしても、かなり先のことであって、カナダの人々が民族論争に疲れた現状から立ち直る余裕を持てるに至ってのことであるということになる。

(1)  本論は、一九九五年一二月二七ー二九日に、ニューヨークで開催された「アメリカ哲学会」の”ナショナリズムをめぐるIPPNO部会”のために準備されたものである。この部会のコメンテーター、および有益な示唆と批判を寄せてくださったメル・ワトキンスに謝意を表明する。
(2)  レファレンダムの統計と分析については次が有益である。
Canada Watch(ヨーク大学ロバーツ・カナダ研究センター刊、vol. 4, No. 3, November/December, 1995).
(3)  「広範な内省的均衡」という用語は次の意味で使われている。Norman Daniels,”Reflective Equilibrium and Archimedean Points, Canadian Journal of Philosophy, Vol. 10, No. 1 (March 1980), 81-103.  この概念は、道徳的公理および一般に受容された歴史学的・社会科学的知見をロールズの規定した方法論へと導き入れるものである。
(4)  テイラーは、幾度か、公開調停に乗り出しているが、その理論的見解は次の著作の第七−九章に収録されているので、参照のこと。Reconciling the Solitudes (Montreal:Queen’s-McGill Universities Press, 1993).  そのなかの「価値の共有と分岐」という章は、註6で引用するワッツとブラウンの論集にも再録されている。キムリカは、次の書において、憲法論争にまつわる個別の論点についても、いくつかの評論を公刊している。Network Analysis.  本書は、オタワを拠点に発刊され、このテーマに取り組んだものである。彼の自由主義的個人主義型ナショナリズム弁護論は次に認められる。Liberalism, Community, and Culture (Oxford:Clarendon Press, 1989), chap. 8.
  自由主義者による連邦離脱の正統化論という点で、キムリカの議論を若干発展させた論文としては次がある。Guy Laforest,”Le Quebec et l’ethique liberale de la secession, Philosophiques, Numero Special:Une nation peut-elle se donne la constitution de son choix?, Michel Seymour, dir., vol. 19, No. 2 (Automme 1992),199-214.
(5)  一例として、テイラーが自らの理解に従って、ケベックの少数民族社会に対するパリゾーの姿勢の代案を提起していることが挙げられる。Les ethnies dans une societe ‘normale’, La Presse, 21/22, novembre, 1995.
(6)  これは部分的定義にすぎず、次のウェイン・ノーマンの指摘に沿うものである。彼にあって民族性とは、価値の共有というよりも人々のアイデンティティーの問題であるとされる。The Ideology of Shared Values:A Myopic Vision of Unity in the Multi-nation State, in Joseph H. Carens, ed., Is Quebec Nationalism Just?:Perspectives from Anglophone Canada (Montreal:McGill-Queen’s Universities Press, 1995), 137-159.  ただし、民族的アイデンティティーを宿している人々は、おそらく、何らかの価値を共有しているに違いないし、また、明らかに、彼らのアイデンティティーの対象とされている同胞が一定の価値を共有していると仮定しているとの留保を付してのことである。
  デーヴィド・コップは、かつて、大いに両立可能な調停において、こうした帰属意識の指標として、人々が、自らの民族にとって中心的なものとみなされる行動ないし事象を(別の民族の行動を対象としたときに、単に是認ないし否認の態度をとる場合と対照的に)誇りと、あるいは恥辱と感ずることを引き合いに出しているが、これには有益なものがある。次を参照のこと。Do Nations Have the Right of Self-determination?, in Stanley French, ed., Philosophers Look at Canadian Confederation (Montreal:The Canadian Philosophical Association, 1979), 71-96.  彼の複雑な定義は、ノーマンの定義と同様に、総じて、後ろ向きの姿勢にあり、同胞の歴史と伝統への帰属感に訴えている側面も認められる。私の特徴付けは、これに符合するとはいえ、他に民族的課題を将来に伝えようとする意志という前向きの次元も入る。
  デーヴィド・ミラーは、『民族性について(On Nationality)』(Oxford:Clarendon Pvess, 1995)において、価値の共有という点で、ノーマンが至当にも反対した手法をもって論じつつも、他に、民族がその構成員によって活動的とみなされる一方法は民族的代表者を媒介としてのことであるという有効な着想を挙げている。コップは、民族の担い手たる人々には、国家としての存在を熱望することが求められるとしているのに対し、ミラーは、自己決定たる志向を挙げているにすぎない。この指適は、民族自決と個別の国家的存在との区別という点では妥当であると判断される。私は、民族たるべきためには、高度の自己決定の志向が必要とされると理解しているが、それは、国家となるためには、その(客観的)能力と(主観的)意志が備わっていなければならないのと同様である。ただし、これには、民族について重要と理解されるものの保護と維持の志望の充足が求められる限りにおいてのことである。
  総じて、かなりの理論家たちが、長い時間をかけて、民族性の観念について考察してきたわけであるから、妥当で成熟した定義を得るのも指呼の間にあると考えられる。
(7)  一九九四年に、社会諸運動、コミュニティー、労働者集団からなる連合が一つの憲章を公表した。これは、全州におよぶ聞き取りに数年間をかけ、宗教的・非宗教的とを問わず、三〇〇以上の組織(その多くは、大規模かつ主流派に属する組織)によって確認されている。憲章の第一九節は、ケベックの「多人種・多文化的」特質の承認と保持を求めている。これは、「フランス語・民主的諸価値・独特の社会的・政治的諸制度」を特徴とする共通の民族的アイデンティティーの確認と両立可能なものとみなされている。La Charte d’un Quebec Populaire, published by Solidarite populaire Quebec, 1600 ave De Lorimier, Montreal, Quebec (H2K 3W5), 1994.  類似の意向は、「主権確立を求める知識人」を自称する集団によって、一九九五年一〇月のレファレンダムの直前に公表された宣言文書にも認められる。La Press, December 15, 1995
(8)  一例として次がある。Alan C. Cairns,”Constitutional Change and the Three Equalities, in Ronald L. Watts and Douglas M. Brown, eds., Options for a New Canada (Toronto:University of Toronto Press, 1991), 77-102.
(9)  私は、次の著作において、この種の精神的「育成」の実効的可能性を弁護している。The Real World of Democracy Revisited, Atlantic Highlands, N. J.:Humanities Press:1994〔中谷訳『現代世界の民主主義ー回顧と展望』、法律文化社、一九九四年〕.
(10)  こうした調整の一つとして、「微妙な国家における三民族」が挙げられる。これは、トロントを拠点とする政治理論家グループの声明文であり、わけても、『トロント・スター』(一九九二年二月四日)に公表されたことを指摘しておきたい。また、このグループのメンバーは、次において、シャーロットタウン投票を事後的に分析しているので、これも参照のこと。これには、私もメンバーの一人として寄稿している。Canadian Forum, Vol. 71, No. 815 (December 1992).
(11)  このテーマについては次を参照のこと。Tony Hall,”Aboriginal Issues and the New Political Map of Canada, in J. L. Granatstein and Kenneth McNaught, eds., English CanadaSpeaks Out (Toronto:Doubleday Canada, 1991), 122-140.

〈付記〉  本稿は、次の論稿の訳出である。Frank Cunningham,”The Canada/Quebec Conundrum:A Trinational Perspective.
  本稿は、一九九五年一二月の「アメリカ哲学会」(於ニューヨーク)の報告として準備され、訳者のひとりたる中谷に郵送されたものである。訳者は、本論が、昨秋のレファレンダムともかかわって、カナダの「民族」問題をめぐる現状を整理し、その方向を「三民族型パースペクティブ」において展望しているという点で示唆的論述にあると判断し、著者の許可を得て訳出した。本誌への訳出転載を認められたカニンガム教授の好意に感謝の意を表する。
  著者は、トロント大学哲学部の教授であり、その研究は、主として、民主主義理論にあり、『民主主義理論と社会主義』(一九九二年、日本経済評論社)、『現代世界の民主主義−回顧と展望』(一九九四年、法律文化社)の訳書がある。なお、「カナダ王立協会(Royal Society of Canada)」の会員、および「カナダ哲学会」の会長に選ばれている。