立命館法学  一九九六年三号(二四七号)




自己危殆化への関与と
合意による他者危殆化について
(二)


塩谷 毅






目    次


  • はじめに  --問題の所在
  • 第一章  ドイツにおける事例状況の整理
      第一節  総    説
      第二節  メーメル河事件とエイズ感染事件
      第三節  道路交通における違法態度事例
      第四節  麻薬事例         (以上二四六号)
  • 第二章  「被害者の承諾論」によるアプローチ
      第一節  ウルリッヒ・ウェーバーの見解
      第二節  ディーター・デリングの見解
      第三節  個人の自己決定の尊重と被害者の承諾による犯罪阻却
      第四節  承諾の対象と心理的内容
      第五節  生命・身体法益に対する被害者の承諾(以上本号)
  • 第三章  「客観的帰属論」によるアプローチ
      第一節  クラウス・ロクシンの見解  --「規範の保護目的
            の理論」
      第二節  ハロー・オットーの見解  --「因果経過制御理論」
      第三節  小    括
  • 第四章  「被害者学的原則」によるアプローチ
      第一節  ラルフ・ペーター・フィートラーの見解
      第二節  小    括
  • 第五章  「被害者の自己答責性原則」によるアプローチ
      第一節  ライナー・ツァツィクの見解
      第二節  ズザンナ・ヴァルターの見解
      第三節  「被害者の自己答責」思想と内容
  • おわりに  --私見の整理と今後の課題




第二章  「被害者の承諾論」によるアプローチ


第一節  ウルリッヒ・ウェーバーの見解
    ウルリッヒ・ウェーバーはバウマン記念論文集において、「危険を伴う行為を他人が実行することによって自己の法益に生じる危険を認識し、しかしその危険は現実化しないことを期待して、法益主体がその行為の実行に合意する多数の問題の様相」について包括的な考察を行った(1)
  彼はまず危険の意識的な引き受けの法的効果に関して、本稿での問題状況においては実際に生じた結果に対する同意は存在しないということが一般的に承認されていることを指摘し、もし法益主体の不注意な態度を傷害(結果)に対する同意と解釈しようとすれば、それは擬制に帰することになるであろうと述べている(2)。しかし、彼は危険惹起者の危険創出態度(のみ)への同意が傷害結果及び殺害結果を正当化できる場合があることを認める(3)。そして、論文の中でハンス・シュトールを引用し(4)、「量刑の算定の際に考慮されうるだけの自己危険に基づく行為の不真正事例と、違法性を阻却する自己危険に基づく行為の真正事例の区別」を指摘している(5)
    次に、本稿で扱われる問題状況において、刑法二二六条a(同意傷害)と刑法二一六条(嘱託殺人)の両規定が持つ限界づけ効果に関して、以下のような見解を述べている。
  まず、両規定、特に刑法二二六条aが合憲であるか否かには争いがあるが、彼は合憲であるとする。「人格の発展の自由は、すでに基本法二条一項の人倫則(Sittengesetz)のために、憲法的な限界が見い出される。刑法二二六条aの十分な明確性(基本法一〇三条二項)への疑念には、善良な風俗への違反は、合理的で明白なあらゆる場合に妥当する価値基準によって一義的な良俗違反判断に導かれる事例に限定されるべきである、ということでもって対処すべきである(6)」。
  さらに、両規定が「過失」の法益侵害にも同様に妥当するのかに関して、以下のように述べている。
  まず、刑法二二六条aの同意傷害規定に関して、過失の法益侵害の場合にも妥当するとしている。「なぜなら、良俗違反性は生じた結果の特徴ではないし、それは行為者が結果を望んだか否かということによって根本的に規定されるものでもないからである。・・・良俗違反性は人間の態度についての判断である。・・・引き起こされた結果が危険惹起者によって望まれたものだったのか(故意)、そうではなかったのか(過失)を考慮することなく、危険創出態度はそれ自体良俗違反であり得る、ということがここで扱われている問題にとって重要である(7)」。そして、良俗違反性が態度そのものに伴うものであることから、刑法二二六条aは健康を損なうおそれのある行為においてのみ同意の有効性を限界づけるのではなく、生命を損なうおそれのある行為においても同意の有効性を限界づけるとする。
  しかし、刑法二一六条の嘱託殺人規定に対しては、この規定は死の結果の故意的な惹起に対する有効な同意にのみ妨げになっているとする。その理由を「生命を危殆化する危険に対する正当化的同意の可能性が厳格に拒絶されるならば、医者を免責する、生命を危殆化する手術への同意がなくなる(8)」ことに求めている。
    以上のことをふまえて、彼は各類型ごとに検討を加えている。
  まず、「正当に(高く)評価される目的追求のための危険引き受け」に関して、行為者の免責は明白であるとする。治療目的での医師による手術や臓器移植目的での臓器摘出などがその例である(9)
  そして、正当化のための要件としては、法益主体だけでなく常に危険惹起者も正当な動機から行為することが必要であるとする。「ナチの強制収容所において拘留されていたマクシミリアン・コルフェ神父は、自らを犠牲にして父親を助けるという倫理的に高く評価される目的を追求した。いうまでもなく、このことは人を人とも思わない動機から行為した強制収容所の看守を正当化できなかった。たとえ、彼らが殺害の故意で行為していたのではなかった、従って刑法二一六条がすでに彼らの刑罰免除と対立しているのではなかったとしてもである(10)」。
  次に、メーメル河事件を念頭においた「目的中立的な危険の引き受け」に関して、刑法二二六条aの適用領域を明確な良俗違反性判断に値する事例に限定するならば、ここでも危険引き受けに刑罰免除の効果を認めることができるとする。「なぜなら、制定法的には禁止されていない危険創出態度でもって、積極的には評価されるべきでない目的が追求されるということからは、明確な良俗違反性は根拠づけられないからである(11)」。
  道路交通法上の危殆化禁止、たとえば刑法三一五条c項のもとでは、「特別な法的禁止」が重要であるとする。「その特別な法的禁止は、危険惹起者を注意義務から免除する法益主体の危険への同意と必然的に矛盾する(12)」。従って、同乗者事例において、多くの論者は過失致死等による処罰に賛成している。
  しかし、同意は考慮されないという判例の見解では危険惹起者の可罰性はなお最終的には決定されないとして、以下のことを指摘している。「危険惹起者の結果犯的答責性に対しては、彼の危険態度の単なる違法性では十分ではなく、その限りで、刑法二二六条aに従って良俗違反性が加えて必要とされるのであり、道路交通事件においては、これはなお一義的に確定することができないのである(13)」。
  一方、麻薬の自己使用による過失致死の事例においては、麻薬摂取者(被害者)の同意は明らかに考慮されないとする。なぜなら、「危険惹起者(麻薬の供給者)は、自己の行為でもって麻薬剤法二九条一項一号または六号bの可罰的な禁止に違反しているだけでなく、彼の態度は善良な風俗にも違反しているから(14)」である。
  ウェーバーによれば、麻薬剤法における保護法益は「国民の健康」という超個人的な法益であり、被害者はここでこの法益の代表者として機能するので、危険惹起者(麻薬密売人)を免責する危険の引き受けは彼から奪われている。そして、この法益への侵害が、麻薬剤法三〇条一項三号の結果的加重犯に捕捉されるのではなく、刑法二三〇条、二二二条に捕捉される場合でも、同様に被害者の手には有効な危険引き受けはない。なぜならば、「麻薬剤法二九条において捕捉される国民の健康という法益への故意の攻撃の禁止と、そこから帰結する個人的法益である生命と健康への過失的侵害の禁止は、同程度のことである」からである(15)
  また、この事例において、被害者の自己答責的な自己危殆化の観点から出発する諸説に対しては、ヘルツベルクを引用して以下のように述べている(16)。「(麻薬事例において)被害者は通常錯誤に陥っている。彼は自己の予期に反して死に至る麻薬使用の危険を過小評価しているのである。仮に彼が危険を正確に評価していたとすれば、彼は疑いを持って麻薬の使用をやめていたであろう(17)」。それ故、そもそも被害者の完全答責的な危険引き受けから出発することが既に誤っているのである、と。
  最後に、HIV感染者の無防備な性交の際に、そのパートナーが感染の危険に自由答責的に同意する場合を検討している。「パートナー、たとえば誠実な妻によって感染のこれ以上の蔓延が排除されているような事例を度外視すれば、確かにここでもまた麻薬乱用におけると同じように公共の利益すなわち国民の健康が危険にさらされているのであり、そのことからも態度の良俗違反性は容易にうなづけるだろう(18)」。しかし現在の時点においてはなお、HIV感染者の無防備な性交に対する明白な非難を出発点とすることはできないと言う。「民主主義的に正当と認められる立法者が、この態度の禁止をこれまで行わなかったという事情が、刑法二二六条aによって有効な危険の同意を阻却する良俗違反性に決定的に反対しているのである(19)」と。
    以上、ウェーバーの見解を概観してきたが、これに対して、以下の点を指摘できよう。
  まず、「承諾の対象」について言えば、後述するように「被害者の承諾」が行為に向けられるもので足りるか、結果に向けられるものでなければならないかについては議論があるが、彼は危険行為(のみ)への承諾が正当化力を持つことを明言しているので、「行為説」の論者であると言えよう。
  もちろん、彼は全ての場合に行為のみへの被害者の承諾が行為者の犯罪阻却を導くとはしていない。彼にとっては、むしろ、承諾の「良俗違反性」の判断が承諾の有効性ひいては行為者の犯罪阻却の可否を決定するにあたって最も重要な鍵となっている。そして、「合理的で明白な、あらゆる場合に妥当する価値基準によって一義的な良俗違反判断に導かれる事例」に良俗違反による承諾の無効は限定されるとし、道路交通における違法態度事例やエイズ感染事例における彼の見解を見る限りは、慎重な判断を下していると一応は言えるであろう。しかし、それでもなお「良俗違反性」概念とそれによる承諾の有効性判断は、不明確で安定性を欠き、罪刑法定主義違反の疑いを完全に拭い去ることはできないとの指摘がなされており、それに対する説得的な反論は未だなされていないのではないだろうか。まして、彼のような見解を、ドイツ刑法二二六条aの良俗条項規定を持たない我が国において展開することは一層大きな問題性をはらむものであると思われる。
  また、彼はドイツにおける通説とは異なり、麻薬事例において一義的に良俗違反性と法益処分の不可能性を認定し、行為者の処罰に賛成している。麻薬剤法の刑罰規定から導かれる処分の不可能性が、麻薬剤法三〇条一項三号のみならず、刑法二二二条(過失致死)、二三〇条(過失傷害)においてもそのまま妥当するというのである。しかし、これは論理に飛躍があると言うべきであろう。なるほど彼が言うように、麻薬剤法における刑罰規定の保護法益は「国民の健康」という公共の法益であり、その構成要件該当性が問題になる限りでは、個人の自由な法益処分は問題にならないかもしれないが、過失致死罪や過失傷害罪といった個人的法益に対する罪の構成要件該当性が問題になる場合にまで、個人の法益処分可能性が当然に奪われているとは言えないのである。

(1)  Ulrich Weber, Objective Grenzen der strafbefreienden Einwilligung in Lebens - und Gesundheitsgefa¨hrdungen, in Festschrift fu¨r Ju¨rgen Baumann zum 70. Geburtstag, 1992, S. 43ff.  なお、本論文は以前紹介を行った。拙稿「ウルリッヒ・ウェーバー『生命と健康の危殆化における不処罰的同意の客観的限界』ユルゲン・バウマン記念論文集の紹介(四)」甲南法学三六巻一・四号一六七頁以下。
(2)  Weber, a. a. O. (1), S. 45.
(3)  Weber, a. a. O. (1), S. 45.
(4)  Vgl. Hans Stoll, Das Handeln auf eigene Gefahr, 1961, S. 296ff.
(5)  Weber, a. a. O. (1), S. 45f.
(6)  Weber, a. a. O. (1), S. 47.
(7)  Weber, a. a. O. (1), S. 47f.
(8)  Weber, a. a. O. (1), S. 48.
(9)  Weber, a. a. O. (1), S. 50.
(10)  Weber, a. a. O. (1), S. 51.
(11)  Weber, a. a. O. (1), S. 51.
(12)  Weber, a. a. O. (1), S. 51f.
(13)  Weber, a. a. O. (1), S. 52.
(14)  Weber, a. a. O. (1), S. 52f.
(15)  Ulrich Weber, Einwa¨nde gegen die Lehre von der Beteiligung an eigenverantwortlicher Selbstgefa¨hrdung im Beta¨ubungsmittelstrafrecht, in Festschrift fu¨r Gu¨nter Spendel zum 70. Geburtstag, 1992, S. 378f.  この論文に関して、拙稿「ウルリッヒ・ウェーバー『麻薬剤刑法における自己答責的な自己危殆化への関与説に対する異議』ギュンター・シュペンデル祝賀論文集の紹介(八)」立命館法学一九九五年四号一〇三頁以下。
(16)  Rolf Dietrich Herzberg, Beteiligung an einer Selbstto¨tung oder to¨dlichen Selbstgefa¨hrdung als To¨tungsdelict (Teil III), JA 1985, S. 270.
(17)  Weber, a. a. O. (15), S. 376.
(18)  Weber, a. a. O. (1), S. 54.
(19)  Weber, a. a. O. (1), S. 54.


第二節  ディーター・デリングの見解
    デリングは、「被害者の自己危殆化に基づいて過失致死の処罰が否定されるか否か」という問題においては、ロクシンが行った区別、すなわち「他人の自己危殆化への関与と合意による他者危殆化を区別すること」が有益であるとする(1)。彼は、その区別のもとで以下のように解決すべきであると言う。「自由答責的な自己危殆化への関与は不可罰であるが、一方、合意による他者危殆化においては、刑法二二二条(過失致死)の可罰性は適格な同意が存在する場合にのみ否定される。それは、同意によって実行された被害者の自律の価値及びその行為でもって追求された諸目的の価値が、生命の危殆化に存在する無価値に優越する場合に認められるのである(2)」。
    彼は、まず「他人の自己危殆化への関与」について、以下のように述べている。
  「故意に自殺に対する前提条件を作った者は、他殺の正犯ではなく、自殺の教唆ないし幇助であり、構成要件該当性が欠如しているが故に不可罰である。間接正犯の要件が存在する場合、とりわけ自殺決意が自由答責的に為されなかった場合はこれとは異なる(3)」。
  また、過失行為の無価値の内容が故意行為のそれと比べてよりわずかであることを理由に、自殺への故意的関与の不可罰性から自殺への過失的共働の不処罰が導かれるとする(4)
  そして、自殺関与に対して妥当する諸原則は他人の自己危殆化への関与にも適用されなければならないとし、自殺への関与が不可罰であるならば、自殺意図はないが危険を明らかに認識して為された危険な行為への関与も不可罰であるとする。「その危険を認識して為された危険な行為は、目標の方向によれば、及び客観的な危険状況によれば、自殺意図のある場合に比べて生命をより少なくしか脅かさない(5)」からである。しかし、この帰結はもちろん自明のものであるわけではない。「自殺関与の不可罰性は倫理的に尊重すべき決意というものが類型的に自由死(自殺)の基礎にあることに帰することができる。他方、例えば、向こう見ずなオートバイ競争への関与のような自己危殆化においては、そのような決定(内心)の特殊状況ではなく、途方もない軽率さが問題になっている」という考え方があり得ることを示唆する。しかしこの考え方に対しては、「自殺がその決意の道徳的側面を何ら顧慮することなく処罰されないこと、その他、たとえば新薬開発の自己実験のように、自己危殆化も倫理的に尊重に値する動機に基づきうる点を誤認して」いるとして退けている。結局、「自殺においてと同様に、意識的な自己危殆化においても被害者が唯一事象に対する行為支配を行うので、両者の平等化に賛成すべきである(6)」と。
  なお、彼のこの論証連鎖は自己危殆化が「自由答責的」に為されたならば肯定されるものである(7)。彼の「被害者の自由答責性」の基準は刑法二〇条の責任能力基準である。その他には、刑法二一六条(嘱託殺人)の意味における「真摯」であったような場合にのみ被害者の自由答責性を肯定する見解があり得る。しかし彼はこの見解については「この基準でもってしては(合意による)他者危殆化と自己危殆化への関与との相違が平準化されてしまう」として退けている(8)。彼によれば、「他者危殆化においては、行為者が結果についての客観的支配を行っているが故に、被害者側に有効な同意の主観的要件が存在した場合にのみ行為者を不処罰とするのが適当であり、一方、自己危殆化への関与においては、被害者が客観的な事象においても支配的な役割を果たしているので、自己危殆化が責任無能力の状態で為された場合にはじめて第三者に正犯として侵害の共同惹起の責任を負わせるべき(9)」ということになる。
  特にこれを麻薬の自己使用事例に当てはめれば、以下のようになる。「購入者(買い手)がヘロインの使用と結びついた生命の危険を認識し、そしてこの認識により行為し得たのか、又は、(刑法二〇条の意味での病的な精神障害を意味しうる)麻薬中毒のために、その購入者は薬物の注射と結びついた生命の危険を適切に評価する能力がなかったか、もしくは、この弁別に従って行為する能力がなかったかが重要である。後者が問題となる場合にのみ、売人の過失致死の責任が考慮されるのである(10)」。
    次に、「合意による他者危殆化」に関して、彼は規範の保護目的、社会的相当性、および注意義務の軽減などの諸説では問題を正しくとらえられないとし、「被害者の承諾」によって解決を図る。被害者の承諾が過失致死をも正当化しうるかについては、特に次の二つが問題になるとする(11)
  (一)  同意は行為にだけではなく結果にも関連しなければならず、合意による他者危殆化においては、被害者はなるほど意識的に生命の危険に身をさらすが、自己の死を意欲しているのではなく、無事にその状況を切り抜けることを期待しているので、同意はすでに排除されていないのであろうか。
  (二)  刑法二一六条における要求による殺人の可罰性から、生命は全く処分できない法益であり、それゆえ過失致死に対する同意も正当化力をもたないということにならないだろうか。
  まず、(一)の同意(承諾)対象の問題は、「同意の構造及び基本思想」から答えられるとする。「同意の可能な法益においては、行為客体の保持者に他人に原則的に禁じられた侵害行為の実行を許容する権限が与えられている。それ故、同意の権限は、法益の保護のためにおかれた法規範からの免除権限を意味する。従って、同意は個々の事例において行為の禁止を止揚し、それによって、行為によって脅かされる客体は法的保護の必要がないものとなる。そうであるならば、同意にとっては、個々の事例において法益主体が法的保護を放棄し、その客体を危険な行為にさらそうとしたかどうかが重要なのであって、彼がその際に客体の侵害を意図し、認容し、あるいは侵害の起こらないことを信頼したかどうかは取るに足りないことなのである(12)」。
  このことから、以下のことが帰結されるとする。「法益主体が彼の自己決定権を実現する目的でその客体を毀損意思をもって他人によって破壊させることが許されるならば、彼は毀損意思がなくても他人の危険な行為にその客体をさらすことも許されるのである。・・・従って、生命に危険な行為に対する同意は、被害者が自己の死を望んでいることを要件としない。被害者が生命の危険を認識し、その危険が意識的に受け入れられれば十分である(13)」。
  (二)の問題に対しては以下のように述べている。「なぜ法益主体にとって、その処分権限が刑法二一六条において取り上げられているのであろうか」という問いに対して、シュトラーテンヴェルトを引用し(14)、「生命は、たとえ被害者が具体的状況のもとで自己の生命の毀損に合意していたとしても、その存在や発展に対する人の長期的利益(langfristig Interesse)において、他人の侵害から保護されるのである」とパターナリズムによる説明を行っている(15)。その基本思想からは、「たとえ法益への過失的攻撃が故意によるよりもたいていはより少なくしか影響を与えないということを考慮したとしても、被害者はその長期的利益において、過失により為された殺害行為からも保護されねばならない(16)」ことになる。つまり、彼によれば「被害者の長期的利益」のために、生命危殆化への承諾にも、従って過失致死に対する承諾にも、原則として正当化の効力が認められないのである。
  しかし、彼は合意による他者危殆化の一連の判決において、「処罰に値しないように思われることがある」とする。彼によれば「被害者の承諾」の正当化力は、前述したように、「法益侵害の無価値と行為によって追求された利益との利益衡量」から基礎づけられ、従って「行為によって追求された価値が高ければ高いほど正当化が可能となる(17)」。たとえば、麻薬事例において麻薬中毒者に彼の承諾を得て注射した者や生命に危険な喧嘩闘争の場合には、これによっていかなる積極的な価値も追求されていないので、行為者は可罰的である。一方、承諾に基づく薬品の人体実験や生命に危険な臓器移植は、それによる積極的な価値の追求が評価されて承諾が正当化力を持ちうるのである。メーメル河事件においては、「危篤状態の父親との対面のために危険な渡河が唯一の手段であったような場合」には渡し守は正当化されるとしている(18)
    彼の見解については、以下の点が指摘できよう。
  彼は「行為支配」が被害者にあるか否かによって、「自己危殆化への関与」と「合意による他者危殆化」を区別し、特に後者に対しては「被害者の承諾」でもって問題を解決しようとする。そして、「被害者の承諾」による正当化根拠としては、利益欠缺原理や社会的相当性説、目的説などが有力であるが、彼は行為によって追求された価値と法益侵害の無価値を価値衡量(利益衡量)する「利益衡量説」によってそれを説明しようとしている。ここで重要な点は、「法益侵害の無価値」と衡量されるものとして、「実現された被害者の自律の価値」だけでなく、「その行為でもって追求された目的の価値」が含まれ、むしろこの点が非常に重視されていることである。これは、メーメル河事件の可罰性判断について、渡河の「目的」を重視することなどにも示されている。結局、こうすることによって彼の見解は「目的説」の論者が言う結論とほとんどかわりがないものとなっている。パターナリズム的な観点から過失的な法益侵害においても原則として生命処分は是認されないとされているが、具体的事例において行為者態度が可罰的であるか否かという肝心な点については、被害者が追求しようとした目的が「客観的に」価値を認められるものであるか否かにかからされているのである。
  私見によれば、法益処分を被害者自身が「主観的に」望んでさえいれば、それに従った(行為者の)法益侵害行為に、被害者の自己決定が実現されたという「自律の価値」を認めることができるのであり、そしてその自律の価値が法益侵害の無価値に優越する場合に行為者の犯罪成立が妨げられるといえば十分である。被害者の承諾の有効性を考えるにあたって、法益処分によって追求される目的の「客観的」価値を重視する必要はないであろう。「侵害原理」からいえば、(処分の)自由はそれが他人に害を与えるものではない限り保障されるべきなのであり、それによって追求される目的が「客観的に」価値を認められる場合に初めて保障されるというものではないからである。この問題に関しては、次節で検討する。

(1)  Dieter Do¨lling, Fahrla¨ssige To¨tung bei Selbstgefa¨hrdung des Opfers, GA 1984, S. 71, 75.  本論文に対する紹介として、荒川雅行「ディーター・デェーリング『被害者が自己危殆化におもむいた場合の行為者の過失責任』」法と政治第三五巻三号一八九頁以下がある。
(2)  Do¨lling, a. a. O. (1)., S. 71.
(3)  Do¨lling, a. a. O. (1)., S. 76f.  なお、自殺がいかなる犯罪構成要件にも該当しないことの論拠として、「もし立法者が自殺も違法ととらえたならば、自殺者の責任を阻却し、自由死への関与者に特典を与えたような自殺の特別の規定が期待されるべきであろう(S. 76.)」としている。
(4)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 76.
(5)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 76.  また、「自己危殆化への過失的関与の場合に可罰性が否定されなければならない」ことの理由として、「過失行為者は、故意行為者が不処罰に留まるときには処罰され得ない。両者は不可罰である。なぜなら、行為支配と法益保護の放棄は、被害者の人格において同時に起こるものだからである。これは、行為は唯一被害者の答責領域にはいるだけで、(故意ないし過失で行為した)関与者への遡及は排除される、という事態を引き起こすのである(S. 77.)」ということも指摘している。
(6)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 77.
(7)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 76.
(8)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 77.
(9)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 79.
(10)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 79.
(11)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 83.
(12)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 84.
(13)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 84.
(14)  Gu¨nter Stratenwert, Strafrecht AT, 3. Aufl., 1981, Rdnr. 375.
(15)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 86.
(16)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 87.
(17)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 92.
(18)  Do¨llling, a. a. O. (1)., S. 93.


第三節  個人の自己決定の尊重と被害者の承諾による犯罪阻却
    本稿での問題状況を、ウェーバーやデリングのように「被害者の承諾」でもって解決しようとする試みはいくつかの問題点を抱えているように思われる。それを以下の点について検討する。
  まず第一に、そもそも「被害者の承諾」はどのような基本思想に支えられて犯罪成立を妨げるという刑法上の意義を持つのであろうか。この問題は、従来「被害者の承諾の正当化根拠」という論点のもとで論じられてきた課題にも関連する。
  次に、その承諾は、すなわち法益処分の意思は、「行為」を対象とするのかあるいは「結果」を対象とするのか、またその「意欲的要素」としては「認容」で足りるのかそれとも「意欲」する事まで要求されるべきなのであろうか。
  さらに、特に処分の対象となる法益が「生命」「身体」である場合は「財産」や「(一時的な)身体の自由」の処分の場合と異なった考慮が必要とされるのではないだろうか。
    まず、本節では「被害者の承諾を支える基本思想」の問題を検討する。
  刑法において、被害者の法益処分の意思に従った加害者の行為が処罰されないこと、すなわち「被害者の承諾」が犯罪阻却効果を持つことは、今日広く承認されている。しかし、被害者の承諾という全く個人的な意思が、公法的性格を有する刑法において、行為者の犯罪の成否に影響を及ぼしうるということは決して自明なことではない(1)。現に、被害者の承諾は公法である刑法においては考慮されない、とした見解もあったことが指摘されている(2)。木村亀二博士は、一九三〇年代ドイツにおいて、ある一派の学説は、全体主義の見地にたって被害者の承諾の刑法上の重要性を否定しようとした傾向があったことを指摘し、そのような立場に立つ者として、エリク・ヴォルフを挙げている(3)。わが国においても、たとえば小野清一郎博士は次のように述べられている。「個人の意思を重要視するのはストアの倫理思想であり、ローマ法はその影響のもとに個人的意思に効力を認める意思主義的法制を発展させた。近世の自然法論はこれを継ぐものである。これは世界観的に個人主義であり、人格主義である。『承諾は不法を阻却する』という考え方がそれである。しかし、この個人主義的考え方は、私法においてはともかく、公法的刑法においては認められない。刑法においては、むしろ、承諾が不法を阻却しないのが原則である(4)」。
  木村亀二博士も指摘するように(5)、「被害者の承諾」の問題が、背景となる世界観と密接に関係していることは確かであろう。彼は、個人主義、国体主義、全体主義の三つの世界観において、個人主義はいうまでもなく国体主義も個人の価値を是認する立場であり、これらの世界観においては被害者の承諾は原則として価値が認められるが、全体主義は個人の価値を否定する立場であり、この世界観からは被害者の承諾は刑法上意味を持ち得ないものとしている(6)。そして彼自身は、今日の文化は個人の意思を否定すべき程度に至っていないし、将来においても個人の意思の否定は文化の枯渇を意味するとして全体主義の立場を拒否し、「国体主義の見地」から原則として被害者の承諾の価値を認めるとしている(7)
  彼が「国体主義」という世界観を妥当なものとしたのは、論文の書かれた年代(一九三六年)を考えれば自然なことであったといえるかもしれない。しかしながら、わが国では戦後、大きな世界観の転換が行われた。戦前の、国家が個人を越えた自己目的の存在とされ、なによりもそれを最重要視する世界観から、「全て国民は、個人として尊重される」(日本国憲法一三条)とする「個人主義的世界観」への転換である(8)。ここでいわれる個人とは「人間一般とか、人間性とかいう抽象的な人間ではなくて、具体的な生きた一人一人の人間(9)」である。個人を尊重するということは一人一人の個人性=個性が尊重されるということをも意味している。「個人の自己決定」は、憲法上保護を与えられるべき一つの「人権」として、今日様々な場面で主張されるようになってきている。個人主義的世界観のもとで、個人の自己決定は個性の主張として、それ自体に重要な価値が認められるべきなのであり、そのことから、刑法において「被害者の承諾」という個人の意思(自己決定)が犯罪を阻却する効果を持つことが導かれるというべきなのである。
    また、いずれにせよ、刑法の「公法としての独自性」を強調し、刑法における「被害者の承諾」の価値を否定したり、あるいは軽視したりする見解は妥当ではないであろう。先に挙げた小野清一郎博士の見解(10)や、被害者の承諾に基づく「行為自体」が「社会倫理的な観点」(社会的相当性や善良な風俗など)から是認されるものであるか否か、が重要であるとする見解(11)がそれである。刑法の「公法としての独自性」という思想は、刑法は市民の法益の保護のためにあるのではなく、特定の社会倫理を実現するためにあるとする思想と深く結びついている。しかし、刑法は国家刑罰権という物理的強制力、つまり個人の生命・自由・財産に対する抑圧でもってその目的を達成しようとするのであり、「濫用の危険」という視点は絶えず念頭に置かれなければならない。そこから刑法の「謙抑性」と「最終手段性」ということが言われる。国家の任務は国民各人の生活利益を保障し、その生活利益を保護するための前提条件の確保にあり、かつそれをもって限度とする。価値多元主義的な社会にあって、ある一つの価値観を国家刑罰権でもって市民に強制しようとすることは、正当性をもち得ない。ここでは、特に、刑法の「担保法としての性格」の指摘(12)が重要であると思われる。
    「被害者の承諾」の刑法体系論における問題とその犯罪阻却の実質的な根拠の問題は、ここでは詳しく検討することはできない。ただ、以下のことだけは確認しておきたい。「利益」という概念を、財の保持者が財に対して抱く心理的関係というように「主観的利益概念」を採用(13)するのであれば、被害者の承諾が「利益を失わせる」とは言えるであろう。しかしこの主観的利益概念は支持しうるものであろうか。嘱託殺処罰のように、刑法による利益の保護が、場合によっては個人の意思に反しても行われるものである以上、「個人(財保持者)の意思に反した、刑法による保護を必要とする利益」も存在すると考えざるを得ない。曽根教授も、「利益=心理関係と解する利益論は心理主義に堕し、規範科学としての法律学にとっては誤りを犯すものであ」り、「法律的保護ということは原則として、個々の個人が利害を感ずるという事実とか、その者の意思とかに対しては独立のものであって、それは個人意思に反してもなされるものである(14)」と述べている。
  結局、客観的・普遍的性格を有するがゆえに、利益は国家による法の保護に値するとの評価を得ることができるのである、という「客観的利益概念」によれば、被害者の承諾によっても「利益」自体は放棄しえないのではないだろうか。また、この被害者の承諾を「利益欠缺原理」から理解しようとする論者(15)に対して、イェシェックは、「おそらく非常に反倫理的なきっかけからの主観的な放棄が、なぜゆえに国家を客観的利益保護の任務から解放しうるのかをこの説は答えることができない(16)」として批判している。
  そこで、被害者の承諾によって財に対する主観的関係は放棄し得ても、「客観的意味に理解された利益」自体は放棄し得ない、しかし「利益」は放棄し得なくても「法的保護の必要性」は放棄しうる、とする見解(17)が出てくる。この説に対しても、イェシェックは、「なぜゆえに私的な放棄が、原則的に公的な国家の法的保護義務に反して、断固たる処置を執ることができるのか、を説明できない(18)」として批判している。そこで、この法的保護放棄説は、法的保護が放棄されうることの根拠を、行為が「善良な風俗」に合致するものであるとしたり(19)、「社会的に相当(20)」な行為であるとしたり、「正当な目的の相当な行為(21)」であるとする。しかし、「善良な風俗」や「社会的相当性」を強調することは「一般条項への逃避」という批判を免れない。また本説では、軽微な法益侵害であっても、行為の「反良俗性」や「社会的不相当性」を根拠に容易に処罰に走る傾向があり、個人の自己決定(権)尊重の思想とは相容れないものであると言えよう。
    私は、被害者の承諾が犯罪を阻却する根拠を「利益衡量説(22)」から理解するのが正当であると考えている。
  被害者の承諾が犯罪阻却効果をもつことの実質的な根本思想は「個人の自己決定尊重の思想」である。日本国憲法はその一三条において、個人は「個人として尊重」されるとしているが、この個人としての「個人の尊重」の理念から「個性の尊重」の理念が派生する。「個人の自己決定」は、個人が自己の個性を主張することを意味しており、個人主義的世界観のもとでは、それ自体に重要性が認められるものである。他人に危害を加えない限り、私的な事柄については自分に決定権があるのであり、人は自分にしか害が及ばないのであれば、自分の責任で物事を決定し行為できる。言い換えるならば、人は他人の干渉を排除した、一定の自由領域、すなわち私的領域をもっているのである。判断能力を備えた成人の間においては、お互いの私的領域は最大限尊重しあうべきである。ある人が自分にのみ属する法益について他人に処分を許した場合、行為者がその法益を侵害したとしても、それは法益主体の意思にかなう行為なのである。法益を侵害したという「無価値」は、それが法益主体の意思にかなうものであったという「自己決定実現の価値」によって補完され、正当化されうる(23)。被害者の承諾に基づく(法益侵害)行為はこうして犯罪性を阻却されるのである。
  また、被害者の承諾は外部に表明され、行為者は承諾の存在することを認識して行為しなければ犯罪阻却の効果を持ち得ないのかといういわゆる「意思方向説」と「意思表示説」の争いについては、「意思方向説」が支持されるべきである。被害者が内心において法益処分の意思を抱いたのであれば、法益侵害の無価値発生という事態は既に彼の自己決定に合致するものであると言いうるからである。行為者における被害者が承諾していることの認識は、それ故、「主観的正当化要素」として要求されるわけではないのである。

(1)  たとえば、ゲーベルは以下のように述べている。「自己の財への侵襲に対する個人の同意意思が一般的に干渉の可罰性に対して関連性を持つと言うことは、今日確かに自明のこととして前提されているが、しかしこのことはなんら論理的必然性を持つものではないのである。」(Alfred A. Go¨bel, Die Einwilligung im Strafrecht als Auspra¨gung des Selbstbestimmungsrechts, 1992, S. 17.)
(2)  たとえば須之内教授は次のように述べている。「バイエルン及びオルデンブルグの刑法、さらにはポルトガル・ブラジル及びメキシコの諸刑法によっては、同意は原則的に無効とされる。ドイツの学説上及び裁判上の原理においても、最初は、侵害に同意する者は精神上健全な状態にないとか、公法的な刑罰の威嚇は個人的な被害者の意思に影響されないとかを根拠に、同意は原則的に無効とされてきた。そして、ただ、『意に反せる攻撃』ということが構成要件に属する犯罪に関してのみ、もしくは、同意が行為者の犯意を止揚した場合にのみ、同意は有効となるにすぎないとされていた。同様に、歴史法学派の見解によれば、刑法はただ社会にのみ奉仕すべきであるから、有効な同意の許容性は、原則として否定されなければならなかった」(須之内克彦「刑法における被害者の同意(一)−その序論的一考察−」法学論叢九三巻一号(一九七三)六七頁)。なお、宮内裕「被害者の同意(一)−その問題史的展望−」法と経済一〇四号(一九四八)四七頁以下も参照。
(3)  木村亀二「被害者の承諾と違法性」『刑法解釈の諸問題第一巻』(一九三九)三〇九頁。
(4)  小野清一郎「安楽死の問題」『刑罰の本質について・その他』(一九五五)二〇九頁以下。
(5)  木村亀二・前掲論文(3)三一一頁。
(6)  木村亀二・前掲論文(3)三一〇頁以下。
(7)  木村亀二・前掲論文(3)三二一頁。
(8)  平野竜一「現代における刑法の機能」『刑法の基礎』(一九六六)九五頁参照。彼は以下のように述べている。「わが国では、戦後、大規模な『価値の転換』が遂行された。それは一口で言えば、天皇が絶対的な神聖さを持ち、国家が個人を越えた自己目的の存在とされる価値観から、個人の生存と幸福を最高のものとする価値観への転換である。国家主義から個人主義への転換といっても良い」。
(9)  宮沢俊義(芦部信喜補訂)『コンメンタール日本国憲法』(一九七八)一九七頁。
(10)  小野清一郎・前掲論文(4)二〇九頁。
(11)  団藤重光『刑法綱要総論(第三版)』(一九九一)二二二頁、大塚仁『刑法概説(総論)』(改訂増補版)(一九九二)三六三頁、福田平『刑法総論(全訂版)』(一九八四)一六六頁など。
(12)  生田勝義「『被害者の承諾』についての一考察」立命館法学二二八号(一九九三)一七〇頁以下。
(13)  曽根威彦「『被害者の承諾』と正当化の原理」『刑法における正当化の理論』(一九八〇)一〇七頁以下によると、ケスラーの利益概念は「利益主体と客体との心理的関係」と捉えるものであったようである。原文のKeβler, Die Einwilligung des Verletzten in ihrer strafrechtlichen Bedeutung, 1884, は入手できなかった。なお、伊東研祐『法益概念史研究』九三頁以下も合わせて参照。
(14)  曽根威彦・前掲注(13)一一二頁。
(15)  Edmund Mezger, ein Lehrbuch, 3. Aufl., 1949, S. 206.  わが国においては中山研一『刑法総論』(一九八二)三〇六頁、平野竜一『刑法総論U』(一九七五)二一三頁、佐伯千仭
『四訂刑法講義(総論)』(一九八一)二一六頁以下など。
(16)  Hans Heinrich Jescheck, Lehrbuch des Strafrechts, Allgemeiner Teil, 4. Aufl., 1988, S. 339.
(17)  Friedrich Geerds, Einwilligung und Einversta¨ndnis des Verletzten im Strafrecht, GA, 1954, S. 262ff.  わが国においては木村亀二『刑法総論』(一九五九)二八七頁、福田平「正当行為」(団藤編)注釈刑法(2)のT(一九六八)一一三頁、西原春夫『刑法総論』(一九七八)二三五頁。
(18)  Jescheck, a. a. O. (16), S. 339.
(19)  牧野英一『刑法総論(上)』(一九五八)四八九頁。
(20)  福田平・前掲書(11)一六六頁、なお団藤博士は違法性はより規範的なものであり、法の理念によって判断されるべきであること、承諾や推定的承諾は被害者の主観の問題ではなく、法の理念そのものであるとする。団藤重光・前掲書(11)二二二頁。
(21)  木村亀二・前掲書(17)二八七頁。
(22)  Peter Noll, U¨bergesetzliche Rechtfertigungsgru¨nde im besondern die Einwilligung des Verletzten, 1955, S. 74ff., Jeschck, a. a. O. (16), S. 339., Klaus Geppert, Rechtfertigende Einwilligung des verletzten Mitfahrers bei Fahrla¨ssigkeitsstraftaten im Straβenverkehr? ZStW 83, 1971, S. 952f.,  わが国では曽根威彦・前掲書(13)一四九頁。なお、佐久間教授はこの説を「被害者の承諾は、法益の処分についての自己決定という積極的価値を実現するものであって、いわば、個人の処分自由に伴う別個の客観的価値が、法益侵害という結果無価値を相殺しうる」と説明する説であるとしている。佐久間修「医療行為における『被害者の承諾』−特に生命の処分について−」阪大法学四四巻二・三号(下)(一九九四)三五五頁。
(23)  たとえば、イェシェックは、人格的自由の妨げられない使用は、それ自体、自由主義的な法国家においては社会的な価値と認められるものであり、法益保持の共同体利益と利益衡量されうるものであるとしている。Jescheck, a. a. O. (16), S. 339.

第四節  承諾の対象と心理的内容
    「被害者の承諾」による犯罪阻却の根拠を第三節で論じたように「利益衡量説」に求める場合、本稿での問題状況を「被害者の承諾」でもって解決することが適切か否かという問いに応えるために、さらに以下の二つの問題を検討しなければならない。一つには、「被害者の承諾」という個人の意思が犯罪阻却効果を持ち得るためには、承諾の「対象」は何が必要とされるのであろうかという問題である。それは「行為」で十分なのか、それとも「結果」でなければならないのか。特に、本稿での問題状況において、「結果」に対する承諾は存在すると言えるのであろうか。もう一つは、承諾の心理的内容は「認容」で足りるのか、「意欲」である必要があるのかという問題である。
    承諾の対象が「行為」で足りるとする見解は「行為説」と呼ばれる。古くは、メツガーがこの説にたっていた。すなわち、結果は場合によっては行為者が「行為」してのち、長時間たってから発生することがありうる。しかし、「行為の適法・不法は、行為の時に確定されなければならず、事後になってはじめて確定されうるのではない」というのは、正当化理論の基礎におかれているテーゼである。それ故、不法阻却事由としての同意は、常に「行為」それ自体にのみ関係することができるのであり、後に続く「結果」と関連する行為に関係するのではない(1)。このようにして彼は承諾の対象は「行為」で足りるとしたのである。
  また、前述したように、最近ではウェーバーやデリングも同様に承諾の対象は「行為」で足りるとする。デリングは、同意権限は法益保護のためにおかれた法規範からの免除権限を意味しており、同意は行為の禁止を止揚し、それによって客体が法的保護の必要性がないものとなるとし、そのことから、同意にとって法益主体がその客体を危険な行為にさらしたかどうかが重要でなのであって、彼が侵害の起こらないことを信頼していたことは「取るに足りないこと」であるとしている(2)
  しかし、このような「行為説」には疑問がある。被害者にとって、結果の発生・不発生は重要な関心事であり、決して「取るに足りないこと」であるとはいえない。また、「被害者の承諾」による犯罪阻却の根拠を「利益衡量説」に求め、法益侵害の「無価値」と利益衡量されるものとして被害者の「自己決定実現の価値」を想定するならば、被害者が結果発生を望んでおらず、むしろ結果の不発生を期待していたという点は重要である。このような被害者態度と現実の侵害結果の発生からは、決して彼の「自己決定」が実現されたという「(積極的な)価値」を語ることはできないと思われるからである。また、「行為説」がその違法観において多く「行為無価値論」と結びつく見解であることを考えれば、単なる行為の反倫理性ではなく、「法益の侵害及びその危険」を違法とみる結果無価値論の立場から、「行為説」はとりえないといえるであろう。
    次に「行為ー結果説」と呼ばれる立場がある。山中教授によると(3)、この説は、(危険)行為に対する承諾を侵害(結果)に対する承諾の微表であると考える。「もしうまくいかないことがあり得るということを認識してあえてことを行う者は、必然的にこの侵害の可能性をも認容しなければならない」というように、危険の認識から「必然的に」結果に対する承諾を「推定」する。結局、結果に対する承諾が「実際に」存在したかどうかは問題ではなく、(危険)行為に対する承諾は結果に対する承諾であると「評価されるべき」であるとするのである。しかし、侵害結果の発生可能性を認識することは、それを「承諾」することを意味しない。また、そもそもこの説は侵害結果への承諾の「実際の」存在を重視せず、行為への承諾をもって足りるとする点では、「行為説」と何ら変わるところがないのであり、失当である。
    結局、承諾の対象は「結果」でなければならない。ゲーベルは以下のような指摘を行っている(4)。「(個人の自己決定権という)同意の実質的根本思想を引き合いに出すならば、同意対象の問題に対する解答が示される。・・・処分権限者が他人に財の破壊(例、木の伐採)もしくは財の侵害(例、入れ墨)を頼むことによって、彼は自己決定権を行使しているのである。その限りで、処分権限者にとって結果の発生が決定的な意義を持つのである。それ故、結果への内心的同意が同意にとって特徴的である。それに反して、いわゆる危険の同意の事例においては、全く他のことが問題となる。構成要件該当結果の発生は、財の維持という重大な利益を持つ財保持者の意思をまさしくかなえないのである。結果は社会的接触の望まれない結果として現れる。・・・被害者の同意に独立の適用領域を維持したいのであれば、同意の対象は、処分権限者にとってその惹起が問題となる構成要件該当結果であるということが堅持されるべきである」。また、次の点も指摘できよう。結果犯において、「結果」もまた重要な構成要件要素であり、被害者にとって危険な行為そのものではなく、結果発生の有無は最大の関心事であるから承諾の対象は「結果」でなければならないのである。なお、いうまでもなく、本稿での問題状況において、被害者の不注意な態度を「結果」に対する同意であると推論するのは、明らかに不正な「擬制」である。
    それでは、承諾の「心理的内容」としては、何が必要であろうか。
  まず、ゲッペルトは次のように言う(5)。彼はまず被害者の同意(承諾)を「知的要素」と「意欲的要素」に分ける。同意の知的要素は、故意における「認識(Wissen)要件」に対応し、同意にとっても、構成要件的行為のあり得る結果への被害者の適切な表象で十分である。これに反し、意欲的要素については、「意識的な内面的承認」としての被害者の同意は、「単なる成り行き任せや異議のない我慢」とは明確に限界づけられる。未必の故意におけると同様に、「認容的な甘受(Billigend-in-Kauf-Nehmen)」があれば十分である、と。
  また、山中教授も、未必の故意の場合とパラレルに考えて原則的に「認容的甘受」で十分であるとし、以下のように述べている。「同意者が現実に侵害に対して意識的に『認容的甘受』となしていることを要し、あるいは、同意に対する『微表行為』が原則的に不同意の推定を指標としつつ、厳密かつ合理的に認定されるのでなければ、過失犯における結果に対する同意の存在という理論構成をもって正当化事由が存在すると為し得ないであろう(6)」。
    しかし、被害者の承諾の心理的内容としては「認容的甘受」で足りるというべきであろうか。被害者の承諾を「利益衡量説」で説明し、法益侵害という無価値と対置されるものとして、その行為の実行及び結果発生が法益主体である被害者の意思にかなうものであったという「自己決定実現の価値」を想定するとすれば、承諾は単に結果発生を「認容的に甘受」するだけでは足りず、結果発生を「意欲」する事が必要であると言わなければならない。被害者である法益主体が、認容的に甘受しただけで、むしろ結果の不発生を信じ期待していたのであれば、その行為の実行による結果の発生は、彼の意思に「かなう」ものとして一つの価値であると考えることはできないからである。
  以上のことから、被害者の承諾による犯罪阻却を語るために、承諾の対象として「結果」が求められ、その心理的内容として「意欲」する事が求められるので、本稿での問題状況を「被害者の承諾」で解決することは適当ではないというべきである。

(1)  Edmund Mezger, Die subjektiven Unrechtselemente, in GS 89, S. 279.
(2)  Dieter Do¨lling, Fahrla¨ssige To¨tung bei Sellbstgefa¨hrdung des Opfers, GA 1984, S. 84.
(3)  山中敬一「過失犯における被害者の同意  ーその序論的考察」『平場安治博士還暦祝賀・現代の刑事法学(上)』一九七六年三四一頁。
(4)  Alfred A. Go¨bel, Die Einwilligung in Strafrecht als Ausprag¨ung des Selbstbestimmungsrechts, 1992, S. 25ff.
(5)  Klaus Geppert, Rechtfertigende Einwilligung des verletzten Mitfahrers bei Fahrla¨ssigkeitsstraftaten im Straβenverkehr?, ZStW 83 (1971) S. 976ff.
(6)  山中敬一・前掲論文(3)三四四頁。


第五節  生命・身体法益に対する被害者の承諾
    さらに、以下の問題を検討しなければならない。「被害者の承諾」を以上のように理解した場合、処分の対象となる法益の差異はどのように考慮されることになるだろうか。法益主体の意思は、あるいは、法益主体の自己決定が実現されたという「価値」は、いかなる法益の侵害という「無価値」にも優越するのであろうか。法益の性質、重要性、法益侵害の程度によっては、法益侵害の無価値を補完しきれない場合もあるのではないか。言い換えれば、自己にのみ属する法益を、法益主体が自由に処分する「権利」というものが考えられるとしても、対象となる法益によっては「権利濫用」に該当する場合があるのではないだろうか。特に、本稿で問題にしている「生命」及び「身体」法益の場合、どのようなことが言えるだろうか。
    まず、「被害者の承諾」が刑法において意義を認められることを基礎づけているのは、あくまでも「個人としての」被害者の自己決定尊重の思想であるから、いわゆる国家的法益、社会的法益に対して「被害者の承諾」が重要性をもち得ないことはいうまでもないことである。それは、単に国家的法益、社会的法益においては国家、社会という「主体」が、法益の侵害を承諾することが「事実上」あり得ないからということだけではなく、個人主義を背景にした「被害者の承諾」を支える根本思想からもこのことは説明できるのである。
  では、個人主義的世界観から、「個人的法益」については「被害者の承諾」が意義を持ちうるとして、それはあらゆる個人的法益について妥当するのであろうか。
  まず、財産犯において「被害者の承諾」が犯罪阻却効果をもつということについては争いがない。人間の自己決定の尊重に基づいて、自己の意思に従って法律関係を形成する自由、という意味での「私的自治」の原則(1)は、財産の使用や処分が問題となるこの領域において最もよく貫徹される。構成要件的にも、窃盗罪(刑法二三五条)の実行行為は「窃取」であるが、これは通常「占有者の意思に反して財物を自己又は第三者の占有下に移す行為(2)」とされているので、「被害者の承諾」があれば窃盗罪の構成要件該当性が否定されるのである。器物損壊罪(刑法二六一条)においては、「被害者の承諾」が存在すれば「損壊」にあたらないということにはならない。しかし、所有権とは「自由に使用、収益、処分」する権利という定義(民法二〇六条)が示すように、所有権絶対の原則は財物に対する所有者の完全な「処分権」を承認している(3)。生命などの「一身専属的な」財とは異なって、財産権のような「譲渡可能な」財を侵害の客体にする場合には、「自己損壊と承諾に基づく他者損壊の差異」について考慮する必要はない。なぜならば、「(財産の)自己損壊は完全に所有者の自由であるが、承諾に基づく他者損壊は自由ではない」というテーゼは、その財産が破壊を望む第三者にいったん譲渡(贈与)され、その後「自己損壊」が実行されたと評価することが可能であるので、挫折するからである(4)。従って承諾に基づく器物損壊も例外無く違法性が阻却されると考えて良い。
  次に、自由に対する罪も、これらの罪がおよそ被害者の意思に反してなされる罪であることを前提にするならば、「被害者の承諾」があれば犯罪が阻却されるのは当然であろう。もっとも、強姦目的を秘して自動車に同乗させた場合の監禁罪の成否や、強盗目的を秘して住居に立ち入る場合の住居侵入罪の成否のように、「瑕疵ある承諾」の評価をめぐって問題が生じることはある。しかし、これらの場合も承諾自体が「有効か否か」が争われるのであって、「自由に対する罪においては、(有効な)承諾に犯罪阻却効果がない」と疑われるわけではない。
    しかし、生命・身体法益を対象とする 「被害者の承諾」 に犯罪阻却効果があるかについては、大いに争われている。
  まず、生命法益の場合はどうであろうか。ここでは、個人の処分の自由の制限と、被害者の承諾に基づく他者侵害の不許容は、現行法上明白であるように見える。ドイツにおいては刑法二一六条で「要求による殺人」が可罰的とされており、わが国では刑法二〇二条で、嘱託殺人のみならず自殺関与行為も可罰的である、とされているからである。
  しかし、個人に生命処分の自由がないのであれば、自殺が処罰されないのはどうしてであろうか。特に、わが国の場合、自殺関与行為も可罰的とされているが、正犯である自殺が処罰されないのにその共犯が処罰されるのはどうしてであろうか。
  また、法律の体系性の問題だけではなく、以下のような実質的な疑問も避けて通ることはできない。それは、個人に生命処分の自由は一切存在しないのであろうか、嘱託殺人・自殺関与行為の全ては処罰に値するのであろうか、という疑問である。この疑問はとりわけ臨死介助(安楽死・尊厳死)問題に関連して提起される。これらの問題においては、嘱託殺人・自殺関与の構成要件の問題としても、また実質的な違法論においても特別な考慮を必要とするように思われる。
  この問題に関して、最も合理主義的な立場は生命に対する処分権を無制限に認め、自殺は適法であると明言する。この見解からは、臨死介助などの「特殊状況」に限らず「一般的に」生命処分が自由であるとされるので、自殺関与や嘱託殺人の構成要件の存在をどのように正当化するかが注目されることになる。ある見解は、これらの構成要件は「自殺意思が不自由」であることを前提とする一種の「嫌疑刑」なのだと説明する(5)。また、これらの「非犯罪化」が主張されることもある。しかし、前者の説明に対しては、現行法の規定の文言が自殺意思の「不自由」な場合のみを捕捉する趣旨であるとは読めないという点、及び現代法において「嫌疑刑」による処罰を正当であるとは言えないという点が指摘できよう。また、後者の非犯罪化の主張に対しては、生命処分を自由であると見なすことに関しての理論的な疑問の他に、以下のような政策的な疑念も指摘できる。それは、「偽装心中」などの生命処分意思に瑕疵がある事例において、死ぬ動機についての錯誤があっても死ぬこと自体に関しては錯誤がない場合に現行法のもとでなお「嘱託殺人」と判断されていたような事例が、この構成要件の非犯罪化によって「殺人罪」に取り込まれるようになりかねないという懸念である。
  また、近年、嘱託殺人罪や自殺関与罪の説明として「パターナリズム」による説明が有力になりつつある。この見解によれば、「個人の尊厳の保障を究極目標とする国家は、将来における本人自身の自律的生存の可能性を保護するために、個人に万が一にも誤った判断に基づいて自らに不利益を課すことに無関心でいるわけにはいか」ず、「刑法二〇二条は、まさに本人自身のために国家によって加えられるパターナリスティックな干渉」であることになる(6)。そして、臨死介助などの「将来における自律的生存の不可能性と死の意思の真実性が合理的に担保されるような場合」には、国家はパターナリスティックな干渉を排除し、刑法二〇二条の違法性が排除されるという。しかし、「パターナリズム」は「最終手段」としての刑罰権を発動する合理的な根拠たりうるのであろうか。
  思うに、生命は、個人主義的世界観のもとでもっとも尊重されるべき個人の「存立基盤」であり、個人の存立が確保されたうえで自分なりの生き方を保障されるための身体の自由や財産などの個人的法益とは異なった考慮が必要である。「被害者の承諾」を支える実質的な根本思想は、個人の「個性」が尊重されること、つまり「個人の自己決定」の尊重の思想であるが、それは日本国憲法一三条の「個人の尊重」に由来するものである。生命の処分という「個人の毀滅」が「個人の尊重」を意味しているとは言えない。それゆえ、生命処分の自由の否定は、個人の自己決定尊重の思想の内在的制約なのである。
  また、以下の点も指摘できよう。近代法においては、人身売買は公序良俗違反として否定され、奴隷契約も無効である。個人の自由の尊重は「自由でなくなる自由」の尊重を導き得ない(自由の自己矛盾説)のであり、そのことからも法秩序は人間の生命の放棄を正当とは認めないのである。生命法益の「譲渡不可能性」は、特に「一身専属的」法益という言葉のなかにも明確に示されており、それが生命処分の自由の制約を根拠づけるのである。
    身体法益に対する承諾の場合には、その有効性の範囲はより深刻な対立がある。
  ドイツでは、刑法二二六条aに「同意傷害」についての規定がある。そこでは、被害者の承諾に基づく傷害は原則として適法であるが、行為が「善良な風俗に反する場合」には違法であるとしている。
  日本には本条に相当する規定がないので、同意傷害についての解決は解釈に委ねられている。身体利益に関する個人の自由処分を無制限に認めて、あらゆる同意傷害を無罪とする見解や、その反対に、同意傷害罪という特別な傷害罪の減軽規定がない以上、傷害において被害者の承諾は一切考慮されないという見解は、可能性としてあり得ないわけではないが、今日ほとんどその支持者を見いださない。わが国においても、ドイツ同様「善良な風俗(公序良俗)概念」または「社会的相当性」を適法違法の判断基準に設定しようとする見解(7)が有力なのである。
  一方で、同意傷害の許容限界を「侵襲の重大さ」に設定する見解(8)も有力である。この見解は、身体利益の処分は原則として個人の自由であるが、侵襲の程度が重大である場合、もしくは生命に危険のある場合には個人の処分の自由が制限されるのであり、被害者の承諾に基づく傷害であっても可罰的となる、としている。
  両説の異同がもっとも明確になるのは「やくざの入れ墨や指詰め」や「保険金詐取目的の同意傷害(9)」の事例であろう。適法違法の限界基準として「善良な風俗概念」を設定する見解は、これらの事例を可罰的とし、「侵襲の重大さ」を設定する見解は、これらを不可罰とするのである。
  身体法益に対する承諾の可能性については、以下のように考えるべきであろう。この場合は、生命に対する処分の場合とは異なり、原則として法益の処分は可能であるといってよい。重大な身体法益に対する毀損であっても、生命に危険を及ぼすものでない限り、それは「法益主体の毀滅」ではなく、「自分の生き方の選択」である。生命に危険を及ぼす程度の重大な身体傷害の場合は、もしこれをも処分可能な場合に含めてしまうと前述した「個人の尊重とその存立基盤としての生命尊重の必要性」という理念が脅かされることになるから、処分の自由が制限されるのである。
  以上により、本稿での問題状況においては、「生命」への侵害ないし「生命に危険を及ぼす程度の重大な身体」への侵害が問題になるので、「被害者の承諾」による正当化を語ることはそもそも妥当ではないのである。行為者の犯罪阻却のためには、それ故、「被害者の承諾」以外の理論構成が検討されるべきなのである。

(1)  石田喜久夫「私的自治と法律行為論」『民法秩序と自己決定』(一九八九)三四頁。
(2)  大判大正四年三月一六日刑録二一巻三〇九頁を参照。
(3)  もちろん、「自己の物」であっても、「差し押さえを受け、物権を負担し、又は賃貸した物」であれば、「処分権」は制限される(刑法二六二条)。
(4)  Alfred Go¨bel, Die Einwilligung im Strafrecht als Auspra¨gung des Selbstbestimmungsrechts, 1992, S. 65.
(5)  秋葉悦子「自殺関与罪に関する考察」上智法学三二巻二、三号(一九九一)一九一頁。
(6)  福田雅章「大阪地裁安楽死事件解題」阪大法学一〇八号(一九七八)二二〇頁。なお、同「刑事法における強制の根拠としてのパターナリズムーJ・S・ミルの『自由原理』に内在するパターナリズム」一橋論叢一〇三巻一号(一九九〇)一五頁以下も併せて参照。
(7)  大塚仁『刑法総論(改訂版)』(一九八六)三六四頁の注三を参照。ここで教授は、「国家・社会的倫理規範に照らして相当と見られる傷害行為のみが適法とされるべき」であるとしている。
(8)  平野竜一『刑法総論U』(一九七五)二五四頁、内藤謙『刑法講義総論(中)』(一九八六)六〇一頁、中山研一『刑法総論』(一九八二)三一三頁、植松正『刑法概論U』(一九七五)二五二頁、大谷実『刑法講義総論(第四版)』(一九九四)二九五頁以下、など。
(9)  最判昭和五五年一一月一三日決定;刑集三四巻六号三九六頁、なお生田勝義「超法規的違法性阻却事由」司法試験シリーズ刑法T総論(第三版)(一九九三)五七頁以下、浅田和茂「被害者の同意」刑法判例百選T総論(第三版)(一九九一)四八頁なども合わせて参照。