立命館法学 一九九六年四号(二四八号)




転換期韓国における利益集団政治 (二・完)
−一九九三年薬事法の改正に見る医薬分業政策を事例として−


嚴 敞俊






目    次




第三章 一九九三年薬事法改正の分析

第一節 一次分析:リソース分析
 (1) 薬剤師会・漢方医会

表 3 - 1 会員数および財政力の比較
(単位:人,十万ウォン,%) 
 薬剤師会漢方医会
免 許 登 録  (A)39,5646,839
会 員 登 録  (B)26,0745,167
組 織 率 (B/A)65.975.5
93年度予算  (C)14,96010,531
事 業 費  (D)7,4405,480
事業費比重 (D/C)49.752.0
A・B は92年12月31日現在。
出所:A=保健社会部『保健社会白書1993』。
   B=大韓薬師会『92年事業報告書』1993。
    大韓韓医師協会『第38回定期代議員総
    会』1993。
   C・D=大韓薬師会『第39回定期代議員
    総会会議録』1993。
    大韓韓医師協会『第38回定期代議員総
    会』1993。


 これから両団体のリソースについて、組織的リソース・経済的リソース・政治的リソースの三つに分けて順次検討してみよう。
 まず、組織的リソースについてである。会員数は、表3ー1から見られるように、薬剤師会は漢方医会の約五倍に
のぼる。会員数をもって直ちに政治的影響力と考えることはもちろんできないが、他の条件が同じとするならば、会員数の多いほうが政治的影響力の優ることは言うまでもないであろう。しかも、薬局は世間話しを含め、地域での政治的コミュニケーションの場としての性格も合わせもっていることに留意すべきであろう。
 財政力においても、薬剤師会のほうが優位に立っている。一九九三年度薬剤師会の当初予算は約一五億ウォン (約二億円)で、漢方医会の約一・五倍である。ただしうち事業費の割合は、薬剤師会が四九・七%、漢方医会が五二・〇%であり、事業費比重の低い韓国の利益団体の一般的な状況から見ると、両団体ともに活動性が比較的に高いのがわかる。
 そのため、漢方医会は、紛争途中の九三年に年会費を二三万ウォンから四六万ウォンへと一〇〇%の引き上げを決め実行するとともに滞納金の納入を受け、実際には当初予算の二・三倍にものぼる約二三億ウォンを決算している。うち執行されたのは七八・六%にあたる約一八億ウォンである。そのうち、決算上著しい増加を示したものは事業費である。執行レベルで前年度約五億ウォンから一気に約一一億ウォンへアップした。事業費の項目で見ると、「学術振興」が約二億三千万ウォンと前年度比二九九%増、「啓蒙広報」が約五億二千万ウォンの同二三七%増と最も高い伸び率を記録した(1)。
 リーダーシップや結束力においては漢方医会のほうが優位に立っているのではないかと思われる。漢方医会は、紛争発生の初期段階でいち早く臨戦体制づくりに成功した。会長団を五〇代の正規六年制学部一期生を中心に無理なく改編し若返りをはかったうえ、会長団の下に主に三〇代の若手で構成された「非常対策委員会 (のちに「国民健康と韓薬守護小委員会」へ改編)」を置くのである。
 漢方医会事務局のパク・スンギ課長は、九三年の薬事法改正過程を振り返ってこれを組織力の闘いであったと評価した(2)。そしてこの紛争を漢方医会の暫定的勝利としながら、その勝因についてブレーンの優秀さと全国的な組織の結束力、そして国民の支持を勝ち得たことを挙げている。ここでブレーンとは先の「非常対策委員会」のことである。漢方医会の多様な戦術は、言うまでもなく、この三〇名前後の若い頭脳によって案出された。その結束力は、彼の説明によると、低い社会的地位に対する漢方界の不満の集積を背景に、((1))ここで漢方薬を薬剤師に手渡すことになると、自らの立場がなくなるという危機意識が広がったこと、((2))新しいリーダーシップの早期確立、((3))パソコン通信体制の整備による情報の共有と双方向的コミュニケーションの確保、((4))またそれによる決定・執行とその変更における迅速性・柔軟性の確保にあったと言う。別の見方をすれば、漢方医会の高い結束力は、会費の引き上げに積極的に応じられたことに端的に現われていると考えていいであろう。
 ところで、薬剤師会は、漢方医会側が戦列を整えていく間、執行部の不信任をめぐって内部分裂を露呈していた。二月の定期代議員総会では派閥対立が度を極めていた。漢方薬調剤権問題が提起されて開催した三月の臨時総会でも、反執行部派は執行部がこの問題を現体制の維持に悪用していると非難したため、紛争に対応できるような組織力の結集には至らなかった。薬剤師会事務局のシン・ヒョンチャン企画室長によると、内部分裂は、五月まで続き、紛争初期における薬剤師会の立ち遅れの大きな要因になったと言う(3)。
 内部の紛糾は、改正過程が拡散期に進み、やがって捜査当局の手が及ぶ段階になると一時静まり返るかに見えたが、
後述するように経実連の調停案の受け入れをめぐって再度表面に現われることになる。
表 3 - 2 医療機関の民間依存度
(単位:個,%) 
 全体民間所有依存度
第三次機関272070.4
第二次機関59753789.9
第一次機関45,27040,63689,8
91年12月31日現在。
出所:健康社会のための保険医療人連帯会議
   『健康社会のための保険医療』(ソウ
   ル、実践文学社1992)31〜32頁より
   筆者が再作成。
    ここで第一・第二・第三次機関とは
   医療利用体系上の利用順序による分類
   である。規模面では第三次医療機関が
   一番大きい。
 つぎに市場支配力である。まず韓国の医療市場の現状について考えてみる必要がある。表3ー2からも明らかなように、その特徴は医療機関の極端に高い民間依存である。さらにこれを病床数で見ると、二・三次医療機関では合計一〇八、五七一のなか七二・八%を、一次医療機関では合計三六、一〇五のなか九八・八%を、それぞれ民間医療機関が保有している(4)。財政不足のなか、民間まかせで医療市場が形成・展開してきたと指摘できるであろう。
 民間依存度が高いことの帰結としては、さしあたって、二つのことが考えられる。一つは医療の商品化による医療サービスのさまざまな歪曲が起こるということである。まず利潤発生の低い分野、たとえば予防やリハビリテーションなどに対する民間の投資は避けられやすい反面、過剰な治療・検査・薬物投与などに対する投資は行われやすい。また医療資源の分布を見ても、都市部に集中している。すなわち、一九九一年、全医療のマンパワーの九〇%が都市部で働いており、医療機関の九〇%と病床の八六%が都市部に集中している(5)。これらは、いずれも一九九〇年現在韓国の都市化率七九・六%(6)を上回り、農村部における医療問題の深刻さを物語っている。
 いま一つは、利益団体の高い市場支配力と直結する。これは後述する保健部の対利益団体関係における政策的自律性とも関連する。これほど民間依存度が高い現状では保健部の可能な政策的介入は、せいぜい市場秩序を保つ規制政策ぐらいで、それさえも利益団体の協力なしには執行に移すことはなかなか難しいのである。
 したがって、両団体の市場支配力は共に高いと言わざるをえない。さらに、ここで重要なのは両団体の市場支配力を比較してみることである。なによりも医療機関利用率 (一九九二年)で薬局は四〇・一%を占めるに比べ、漢方医院は四・三%にすぎない(7)。すなわち単純計算では、薬剤師会の市場支配力は漢方医会の一〇倍に近いということである。しかも薬局は生活に密着している反面、漢方医療は治療というよりも健康管理の側面が強く、市場からの集団的撤退のもつ意味合いはまったく違う。
 つぎに保健部や国会への接近可能性について検討してみよう。それらへの接近において、両団体共に基本的な障害はない。しかし、行政や国会の内部に団体の構成員をもっているかどうかは、その接近の有効性を高めるうえで極めて重要である。この点では、薬剤師会の優位ははっきりしている。
 薬剤師会は、現職国会議員二名を含め、四名の議員経験者をもっている。うち二人は薬剤師会会長出身である。会長出身のうち一人は議長を務めたこともある。また保健部に対しては官僚の推薦権をもっており、薬剤師出身を特別採用の形で送り込んでいる。保健部には九二年末現在四〇名の薬剤師が配置されている(8)。彼らの多くは薬政局に務める。また元保健部長官一人をはじめ、多くの次官・薬政局長経験者をもっている。九三年にも前・現次官、前・現薬政局長が薬剤師出身であった。
 これに比べ、漢方医会は、国会・保健部共に漢方医出身者を一人ももっていない。
 以上のことから、両団体は組織規模・市場支配力・保健部や国会への接近通路の面で著しい差異がある。この違いは両団体の取った戦術に歴然と現われた。詳しいことは後述するが、薬剤師会の場合は、優越なリソースへの信頼が惰性になって保健部への「直接的接近」や一斉休業などの「強硬な接近」という単純な戦術で終始し、事態の流れに守勢的に対応することに汲々した。反面、漢方医会は、紛争の発生と同時に会長団を交替したりいち早く「非常対策委員会」なるタスクフォースを稼働してリーダーシップを固める一方、「役割分担」や「連合」、強・穏戦術の柔軟な駆使など、多様な戦術を採択することによって不足なリソースを補おうとしたのである。
 (2) 保健部
 第一に、医薬政策の主務官庁としての保健部の政府内における地位についてである。その地位が高ければ高いほど、政策の立案および執行における自律性や能力が保障されるということは、言うまでもない。
 さて、広く社会福祉に関連する保健部の諸政策は政策の優先順位においてつねに後回しにされ、その地位は相対的に劣位におかれている。特に、本格的な産業化政策が始まる一九六〇年代以降は、いわゆる発展主義的発展途上国の一般的歴史経験からみても容易に推測できるように(9)、医薬政策を含む広い意味の社会福祉政策は、独立した政策群として自前の政策発展の展望をもつものであったというよりも、産業化政策を補助する性格が強く、産業化のひずみから派生してくる当面の政治的危機を免れることに主眼があった。したがって、福祉政策・医療政策などの保健部の諸政策は体系性を著しく欠いていると指摘されている(10)。このことについて、保健部の経済企画院・大統領府・国会との政策的関連を軸として考えることにしたい。
 保健部の政策が体系性に欠けるということは、第一には予算上の裏付けが得られないことと大きく関連する。予算措置の必要な事柄については主務官庁である経済企画院と予算折衝をしなければならない。ところが、経済企画院は予算編成だけでなく経済開発計画の策定においても主務官庁であるため、保健部の政策的コミットメントは経済企画院の経済論理によって修正されやすい脆弱な立場しか与えられない。成長主義の立場に立つ経済企画院から見れば、保健部はしばしば非生産的部署にしか見えないのである。経済企画院に予算編成機能と計画策定機能が合体されていることは、たしかに効率性のうえでは良かろうが、保健部にとっては自前の政策の実現を阻ませるものになる。必要な予算を認めてもらわない限り、その政策が体系性を欠き、ますます場当たり的なものになっていくということは、むしろ当り前のことである。
 それだけではない。保健部の政策立案の自律性はそもそも経済開発政策の大枠を決める経済開発五ヶ年計画(11)の策定過程に参画させられることによってすでに大きく制限されるのである。経済開発五ヶ年計画を策定するうえで、主導権を握るのは言うまでもなく、経済企画院であるからである(12)。またより日常的なレベルでは、保健部の政策提案が週一回の経済関係部処の長官会議と次官会議にかけられ審議されるということが重要である。それぞれの会議の議長をつとめる者は、もちろん経済企画院の長官と次官である(13)。
 第二に、保健部の所管する政策領域は、政治性が高く、時の政治的必要に影響されやすい。このことについて大統領と国会との関連から見てみよう。
 まず大統領の公約のもつ問題点である。軍人出身の歴代大統領は正当性を高める手段として経済成長とともに社会福祉の向上を掲げてきた。特に、一九八〇年代には「福祉社会建設」は国政指標の一つとなった(14)。大統領の公約は安定多数の政権与党によっていずれ国会を通過し法律となるが、問題はそうした公約が予算によって裏付けされ実行できるようなものではなかっただけでなく、そもそも保健部の関知しないところで決められ、保健部の政策的選択性を狭めたことにある。
 大統領の公約は、十分な検討をへて提示されたというよりも政治的思惑が強く、急造した場合が多い。実行は延期されがちで、既存の政策体系と整合しないことも稀ではない。特に、保健部関係の法令にプログラム的規定と経過規定が多いのはこのためである(15)。
 より日常的に保健社会部は、大統領府の関連首席秘書官によって政策面の干渉を受けている。だいたい大統領府秘書室には秘書室長のもとに、国会・一般行政・経済行政・儀典・広報などを担当する各首席秘書官がおかれている。これらの職制に公式な権限が与えられているわけではない。しかし首席秘書官は、大統領に対して国政全般にわたる諮問と報告や政策アイデアの提供をし、関係各省庁と大統領とをつなぐコミュニケーターとして機能している。大統領と至近距離にいるということが彼らのリソースである。
 首席秘書官は事実上関係各省庁・機関の政策に関与できる立場にある。これを制度的に支えているものが、各省庁が政策を立案する際、大統領府の事前承認を求める内諾制度である。これは大統領を頂点に各省庁を統制するため、軍事政権時代から行なったもので、重要政策や認許可・法的効果を発生する事柄について事前承認する制度である(16)。民主化の影響を受け、省庁の抵抗力が向上しているのではないかと期待される一方で、二つ以上の省にわたる事案が増える現状にあって、秘書室が政策調整における影響力を増しているとも考えられる(17)。
 さらに保健部の自律的政策推進を妨げるものとして、国会と政党をあげることができる。韓国の国会は一般的に、最近著しく活性化してきているにもかかわらず、強力な大統領制の下で、対行政府関係において劣位を免れていないと考えられてきた(18)。しかし、このことをもって保健部の対国会地位が高いというのはおそらく性急すぎることになろう。
 まず、保健社会部提案の法案は、国会提出の前段階として政府与党間の協議を受けなければならない。国会に提出された後は、保健社会委員会の審議が待っている(19)。特に、利益団体の営業権がかかわる場合、利益団体は与野党議員への働きかけを強める。こうした過程で、保健部の原案はしばしば相当な折衝がはかられたりする。委員会は、原案に近い形で審議を終えた場合にも、議長に提出する審査報告書に少数意見を挿入したり、対政府建議や付帯決議をはかったりする。保健部としては、政策意志を通させてもらうためには修正を受け入れたり、国会の建議や付帯決議などを尊重して、執行においてそれを反映せざるをえない。当該の薬事法はその典型例であって、薬事法の不明確な諸規定は利益団体の働きかけを受けた保健社会委員会と保健部との妥協の産物と見ることができる。
 このように保健部の政策提案は、経済企画院をはじめとする経済関係官庁と大統領や大統領府との調整過程において、また国会の審議過程においてしばしば大きく修正され、後退させられる。
 つぎに予算面から見てみよう。九四年度保健部の一般会計予算は、前年度比七・一%増の一兆七、七二五億ウォン (当時のレートでは、約二、二一六億円)で、政府予算の実に四・一%を占めるにすぎない。日本の場合は二〇%弱台を推移しており、その差には甚だしいものがある。しかも韓国と経済水準の近い中進途上国平均が一〇%程度と知られていることを考えれば(20)、韓国の社会福祉・医療保障・保健医療事業などの関連予算が異常に低いことがよくわかる。
 この極端に少ない予算は、途上国的特徴だけから説明することはできない。韓国の福祉予算が経済成長に見合う水準から遠く離れていることは、防衛費の比重の高さから考えなければならない。硬直的性格をもつ防衛費は、常に政府予算の二五〜三〇%を占め、福祉に回すべき予算をぶんどっている。脱冷戦の国際情勢と文民政権の成立を受けて防衛費の削減を要求する声が社会的に高まっているにもかかわらず、防衛予算の伸び率は止まっていないのが現状である。九四年度国防部 (日本の防衛庁にあたる)予算の前年度対比伸び率は九・四%で(21)、同年度の保健部予算の伸び率七・一%を大きく上回っている。
 政府内における保健部の地位の低さは、保健部官僚の意識調査からもかいま見ることができる。「あなたは、社会開発と関連した政府の政策方向に対して、保健部の政策提案がどれぐらい反映していると思いますか」という問いに対して、「八〇%以上」と答えたのは一〇・二%であり、「五〇%以下」と答えたのは三五・七%であった。また「あなたは、保健部の予算要求が予算編成過程において、どれぐらい反映すると思いますか」に対して、「八〇%以上」は九・二%で、「五〇%以下」が二九・六%を占めた。要するに、保健部の地位について高い評価を示すものは一〇%程度にすぎず、約三〇%の官僚は相対的に低いと見ていることがわかる。ちなみに彼らは、「現在、政府責任の社会的サービスの水準と範囲について、どのように考えていますか」という問いに対しては、「過剰だ」が六・一%、「適切だ」が一二・二%、「不足だ」が八一・七%と答えている(22)。
 第二に、保健部の対利益集団関係における自律性について見てみよう。一般に韓国の政府ー利益団体の関係は国家コーポラティズム的統制に特徴があるとされる。また保健部の主観的認識から言えば、所管利益団体との関係は、韓国の政府ー利益団体関係の一般的認識と同じく、国家コーポラティズム的上下関係と映るかも知れない。だからこそ、保健部は時々、本事例で見られるような「一方的決定」を下したりする。しかし、果たしてそう見ていいのであろうか。
図 3 - 1 (韓国)利益団体の四類型
 成長過程
従属的自律的



協力的従属的協力型
(全経連など、主に経済団体)
自律的協力型
(大韓医学協会・大韓薬師会)
葛藤的従属的葛藤型
(韓国労働組合総連盟)
自律的葛藤型
(大韓弁護士協会・韓国記者協会)
 キム・ヨンレは国家コーポラティズム論の観点から韓国の利益集団政治を説明する。彼は、成長過程と活動形態を基準にして利益団体の対政府関係における性格を四つの類型に分類し、韓国の主要な利益団体をそれにそれぞれ当てはめている。すなわち、利益団体は、成長過程において自発的結社か政府による設立・成長かによって自律型と従属型に、また活動形態において政府の政策目標との関連で、協力型と葛藤型に分けられる。それによって利益団体を四類型に分けるのである (図3ー1(23))。
 彼によると、薬剤師会や漢方医会など、主に専門職団体は自律的協力型に分類される(24)。薬剤師会と漢方医会はそれぞれ薬事法と医療法に定められた法定団体ではある。しかし、そもそも法的体系とは無関係に設立され成長してきた。法定団体化は、政府によりそれぞれの職域を代表する無二の権威を与えられたことを意味するが、それが直ちに政府の統制下に置かれたと見る根拠にはならないのである。薬剤師会は、その前身が一九二八年設立の「高麗薬剤師会」である(25)。漢方医会は一九〇八年に「大韓医師会」から始まり、五二年「大韓漢医師会」、五九年「大韓漢医師協会」をへて現在に至っている(26)。両団体は、いずれも財政基盤が安定的で、収入の九〇%以上が会員の会費による。政府補助は一切受けていない。また他の団体ではよく見られる、リーダーシップに対する政府の統制もない。
 さらに、より構造的要因として注目したいのは、すでに言及したように、政府内における保健部の低い地位と医療市場の高い民間依存から派生する利益団体の市場支配力である。要するに、重要なことは、関連利益団体の政策的反対が起きたり、利益団体間の利益が相異なり紛争にまで発展する危機時には、保健部の無能ぶりがあらわになるのは避けられないのである。官僚制の意識には権威主義的行政文化が根付いている反面、自律性や能力は確保されていない現状では主観的意識と客観的実行力の間の落差は大きい。「一方的決定」から決定遅延などの「非決定」へ、甚だしくは一旦下した決定を何の論理的説得性もないまま何度も変更するなど、組織の精神分裂とも言うべき事態がけっしてめずらしくない。本事例はまさにその典型であると言えるのである。
第二節 一次分析:戦術分析
 ここでは紛争の各段階に応じて保健部と利益団体の戦術の様相とその変化を中心に検討する。詳細な経過については本稿末尾の経過表を参照してもらいたい。
 (1) 紛争の再発期
 九三年一月三〇日保健部は、薬事法施行規則第一一条「薬局は、在来式漢方薬蔵以外のそれを置き、これを清潔に管理しなければならない」という規定を削除した「薬事法施行規則改正案」の立法を予告した(27)。前述したように、この条項は漢方薬の調剤権をめぐる紛争を潜在化するうえで、薬剤師と漢方医の間でつりあいを保つ機能をもっていた。
 同条項の削除に反対する漢方医会は、保健部への「直接的接近」を試みた。まず意見書を保健部に提出した(28)。また会長は保健部長官と薬政局長に各二回会って削除反対を表明している(29)。しかし保健部は、金泳三新政権の内閣発足二日前の二月二五日退任間際の長官決裁で改正案を決定し、三月五日にはこれを通知した(30)。
 漢方医会の戦術はこの改正決定により「間接的接近」と「強硬な接近」に変わり、その目標は削除撤回から薬事法それ自体の改正に変わった。まず「薬事法改正非常対策委員会」を構成して臨戦体制を組み、会長団を改編して組織を固めた。そして新戦術を実行に移した。全国的に支部別籠城を行い、保健部の「一方的決定」を非難する意見広告を全国紙に掲載した。保健部の庁舎前で、漢方医と「全国韓医科大学学生会連合 (以下、全漢連と略)」の学生らによる抗議集会を行った。また公聴会を開催して保健部の「一方的決定」と薬剤師の漢方薬調剤の不当性を訴えた(31)。全漢連は、新学期が始まったばかりにもかかわらず、全国的な授業拒否の方針を決めた(32)。
 漢方界のこうした攻勢の背景には保健部の洋・漢方統合政策がある。保健部は、金泳三政権の当面の景気対策の一環として各省がまとめた「行政簡素化を通じた経済活性化方案」のなかで、所管事項として洋・漢方協同診察体制づくりを制度化することを打ち出したのである(33)。漢方医会など漢方界は、これを阻止する目的で施行規則改正を問題化したと言えよう。施行規則の改正は漢方分業のみならず、洋・漢方の統合につながりかねないという二つの意味合いをもっている。漢方薬を薬剤師が担当することになると、それは薬における洋・漢方の統合を意味し、当然医の統合のための通過点と位置づけられるからである。以上の漢方界の危惧によって、彼らは新聞広告などを通じて漢方医学を民族伝統の医学と規定し(34)、民族伝統医学が西洋医学によって圧殺されようとしていると主張した(35)。
 薬剤師会も漢方界の攻勢に対抗して、新聞広告を通じて漢方薬調剤の法的正当性・調剤能力があることを広報しはじめた。薬剤師たちは漢方医の暴利を非難しながら、医薬分業によって薬価の引き下げが可能であると主張した(36)。
 保健部は、同条項はすでに死文化していて法令整備の目的で削除したとし、それによって始めて薬剤師の漢方薬調剤権が認められたかのような漢方医会の主張は間違いであるとし、同条項の回復はできないと反論した(37)。他方で保健部は、漢方医学の育成意志を表明したり、薬剤師の診断行為を取り締まるように指示したりして収拾に乗り出してみたが(38)、効果を得ることはできなかった。
 以上のとおり、再発期に薬事法改正の政策過程は、施行規則改正の撤回を要求する漢方医会の保健部に対する反発から始まり、漢方薬の調剤権をめぐる集団間の紛争へと拡大する様相をはらむものであったのである。
 (2) 拡散期
 四月三〇日には漢方医会が(39)、五月八日には薬剤師会が(40)それぞれ薬事法改正に関する請願を国会に提出した。国会保健社会委員会は、両団体の代表と保健医療の研究者を呼んで公聴会を開く(41)など審議を重ねた。しかし両団体の対立から結論を得ることはできず、漢方医会の請願を基に、((1))保健部の組織に漢方担当がいない現実を踏まえて医政局と薬政局に漢方医学・漢方薬担当の事務官を各一人置くこと、((2))漢方医学研究所の設置、((3))漢方医学発展委員会の設置、((4))漢方医療への医療保険の拡大適用の検討などを内容とする建議を採択した(42)。
 従来であれば、政策過程はここで終わるのが通例であった(43)。しかし紛争は、しだいに社会問題化していった。漢方医学部学生の授業拒否が長期化するにつれ、集団留年の可能性が高まったからである。何らかの決定にせまられた保健部は、政府・与党会議を開いて薬事法の改正はできないとしながら、国会の建議を受け入れる形で漢方医学育成策を発表した(44)。教育部 (日本の文部省にあたる)も月末まで授業が正常化されると、集団留年は回避できると発表した(45)。しかし全漢連は、こうした懐柔策にもかかわらず、薬事法の改正を掲げて授業拒否を継続した。ついに五月三一日、保健・教育の両省による「授業正常化のための対策会議」が開かれ、ここで初めて薬事法改正方針が発表された(46)。
 こうした政府の取り込み戦術にもかかわらず、薬事法改正の方針が伝わると、両団体の利益表出活動は静まるどころか、さらに激しくなった。本格的に力比べが始まった。漢方医会は六月八日、時限付休業を決定したが、すぐに撤回した。その代わり、無料診療を実施した(47)。漢方医側の「強硬な接近」は、「役割分担」によって全漢連に任された。全漢連は、法定授業日数を一六週から一四週へと短縮した教育部の特例措置にもかかわらず、留年を覚悟で授業拒否を続けると決定した(48)。漢方医会は「役割分担」や「連合」の輪を積極的に広げていった。新入生募集が停止されることを心配しだした予備校生やその父母にも働きかけを行って、保健部への非難を組織したり、薬剤師の漢方薬調剤禁止を要求するように向けた(49)。同一視集団では、留年問題をてこに新たに「全国韓医科大学教授協議会(50)」、「全国韓医科大学父母協議会(51)」、「大韓韓薬協会(52)」などが利益表出に加わった。六月一四日に一部学生の留年が確定すると(53)、留年決定の再考を求めて修練医の辞職書提出・漢方医国家資格試験の拒否・一部漢方医の免許返納が続いた(54)。漢方医会は経実連にも働きかけを行い、経実連は一六日、留年問題で公聴会を開催し、紛争解決の出発点として留年決定の撤回と施行規則の回復を提案した(55)。
 集団留年が社会問題化すると、マスコミの関心も高まった。各紙は社説で、留年問題のきっかけを作ったとして保健部を批判する一方、学生に対しては授業正常化を訴えた。一部の新聞は、紛争解決に国会と大統領が介入するよう主張した(56)。
 教育部長官は二一日の国会答弁で、七月第二週目まで授業に復帰すればいいとして、留年決定を撤回した(57)。保健部長官も問題条項の回復を検討したいと表明した(58)。
 教育部の特例措置によって留年問題が一旦沈静化すると、漢方医会は今度は、「保健部疑惑説」を提起して打って出た。漢方医会は、薬剤師出身で占められている薬政局の実態、しかも薬政局長が薬剤師会の代議員となっていること(59)を指摘し、保健部と薬剤師会の癒着を問題視した。また疑惑説の根拠として((1))施行規則改正案の立法予告に問題条項の削除をわざと書き漏らしたこと、((2))予告期間中に関連団体に意見を聞くという行政手続きから漢方医会だけを除外したこと、((3))新政権発足を前にあわてて確定したこと、((4))半年前に強化したばかりの無免許調剤行為に対する規制を緩和したことなどをあげた(60)。漢方医会は二一日、保健部高位当局者が巨額の賄賂を受け取ったという「うわさ」の真相を明らかにするよう、大統領に陳情した(61)。漢方医会は、政権発足初期という腐敗問題に敏感な政治状況を利用し、大統領に「直接的接近」をはかることによって保健部を無力化しようとした。
 保健部は、そもそも立法予告は行政の判断によるもので、かつ重要でない部分まで含めなければならないという法的根拠はなく、また薬事法は薬政局所管であって、薬政局所管ではない漢方医会の意見を聞く理由はないと答えた。このような無責任な答弁は、マスコミの厳しい批判を呼んでしまう。しかも省内調査から、問題条項の削除については局長会議に報告されなかったこと、当時の次官や企画室長も知らなかったことがわかった。マスコミは、保健部の態度を密室行政・権威主義的行政の残滓と決めつけて、何が重要かも知らない無能行政の典型と論評した(62)。
 検察は、保健部の捜査に着手した。検察の介入は、政治的解決をねらって、大統領府からの指示にしたがったものと見られる。実際、二四日には大統領府の教育首席秘書官が全漢連代表と会っていた(63)。保健部は、問題条項の回復検討を取り消す長官発言と、薬事法改正はしないという次官発言で検察の捜査に対抗する姿勢を見せた(64)。しかし与党政策筋は、問題条項の回復は政府・与党の共通認識であるとした(65)。
 薬剤師会は、「間接的接近」よりも保健部の官僚や国会議員をたずねて協議を重ねるという「直接的接近」を試みてきたが、ここに来て「強硬な接近」に出た。二四日薬剤師会は、二五日から三日間、全国的休業に入ることを決めた。マスコミは、休業決定について集団エゴであるとし、薬剤師会を集中非難した(66)。保健部も二六日、薬事法改正方針を再確認しながら、漢方薬剤師の新設や集団行動を中止させる緊急命令権の立法を検討するとして薬剤師会に圧力をかけた(67)。国務総理は、「薬事法改正推進委員会 (以下、薬改推と略)」の早期発足を指示した。薬剤師会は二六日、休業を中止した(68)。
 拡散期には留年問題をてこにして、漢方薬調剤権の紛争が国政上の議題と化した。さらに保健部の疑惑問題と薬剤師の休業をへて政府の議題に上昇した。争点も具体化して、薬剤師の漢方薬調剤をめぐる法的論議や調剤能力の是非論から医薬体系全般にわたる制度的整備へと転換した。
 以上をまとめておきたい。政府の政策的対応は、利益集団の攻勢に直面すると、漢方医学育成策の発表・施行規則再検討の表明・留年時限の引き伸ばしなど「非決定」の様相を強めていった。そして疑惑問題を契機に、大統領府・検察・国務総理など保健部を超える権力の介入があった。
 漢方医会と薬剤師会は、いずれも「強硬な接近」と「穏健な接近」を共に駆使した。しかし、漢方医会は「役割分担」によって自ら「強硬な接近」に出ることはなかった。時限付休業を決定したにもかかわらずすぐに撤回し、その代わり無料診療を実施したことは、市場支配力が弱いことの反映でもあるが、戦術の巧みさを物語る。一方薬剤師会は、保健部への「直接的接近」という戦術が漢方医側の「強硬な接近」の壁にぶつかると、自ら「強硬な接近」に出た。しかしこのことは世論の反感を買ったのみである。
 (3) 政府議題化期
 保健部は六月三〇日、薬改推を発足し、「仲裁」の形を整えた。薬改推の目的は、紛争の解決と薬事法の改正である。メンバーは、保健部次官を委員長として保健部と教育部の官僚、医師会・漢方医会・薬剤師会など利益団体の代表、消費者代表、保健問題の専門家によって構成された(69)。七月五日の第一回会議から九月三日の第六回会議まで、約二か月間活動した。会議は公開を原則として出発したが、第四回会議からは非公開で運営された(70)。
 まず第一回会議では、委員会の日程・論議の範囲・会議の運営についての基本的な論議があった。漢方医会側の委員は、薬剤師出身の薬政局長の参加を問題視して参加をボイコットした。そのため、漢方医会の参加を得るために、薬政局長は次回の会議から委員から除外された(71)。
 第二回会議では、現行薬事法の問題点と課題、検討の方向などに関する利益団体側の意見が表明された。また薬事法の改正方向として漢方の分業に限らず、医薬分業全般に対して議論すべきであることが確認された。
 第三回会議では、消費者団体による基本的立場の意見表明があった。その内容は、医療一元化と、洋方・漢方に関係なく薬剤師を医師・漢方医のパートナーとする医薬分業を認めるものであった。但し医療一元化においては、漢方医学の未成熟を考慮して、中短期的に医師・漢方医・混合医へと三元化した医療人の養成が提示された。また漢方の医薬分業に関しては、薬剤師の調剤能力が争点となっていることを考慮して、調剤能力の検証が条件とされた。一方、保健部からは、小委員会の構成と会議の非公開が提案された。前者は、洋方分業小委員会・漢方分業小委員会へと争点の分割を狙った提案であったが、分業論議の具体化を嫌う医師会と漢方医会の反対にあって受け入れられなかった。しかし後者は、漢方医会が反対したが、次回から非公開にすることが決められた。
 第四回会議では、委員の質疑書に対する利益団体側の答弁があった。焦点は、漢方薬の範囲、現行薬事法における薬剤師の漢方薬調剤権などである。消費者団体の代表は、医薬分業の実施、薬剤師による任意調剤の禁止、漢方医学の発展のための制度導入を主張した。この会議から争点は、漢方の分業に事実上縮小された。洋方の分業は、その原則が確認されただけで、具体化の論議がまったくされなくなる。
 第五回会議は、前回の消費者団体の主張に対する漢方医会・薬剤師会の意見表明がなされた。いずれの意見も、従来からの主張の繰り返しに終わり、立場の接近ははかられなかった。
 公聴会が八月二〇日に開かれた。公聴会では、委員のなかから漢方医会・薬剤師会・消費者・保健専門家を代表して各一人が意見発表を行った(72)。
 保健部は九月三日、薬改推の最終会議となる第六回会議で、独自の薬事法改正試案を提出した。その主な内容は、((1))専門医薬品について医師・漢方医らと薬剤師による医薬分業の実施 (洋方は法施行二年後から実施、漢方は時期を明言しなかった)、((2))実施までの間は現行どおりに医師らの調剤と薬剤師の任意調剤を認めること、但し、((3))薬剤師による漢方薬の任意調剤は五〇〜一〇〇種 (これについては、別途の委員会を設け確定する)の標準漢方薬に限ること、また((4))漢方薬の調剤はすでにそれを取り扱っている薬剤師に限ることとなっている。これは薬剤師の漢方薬調剤権を原則的に認める代わりに、漢方医の現収入を事実上保証することによって折衝をはかろうとするものである。また医師・歯科医の直接調剤は、無薬局地域においてや、災害時の場合や、応急患者の発生の場合など大統領令によって定めるとした。この他に、試案は獣医師の動物薬品販売の認定、薬局などに対する業務再開命令権、漢方医学の育成推進などを盛り込んでいる(73)。
 この間の両利益団体の利益表出活動を見ると、薬剤師会は、薬改推に積極的に参加したと言える。薬剤師会としては、薬改推の委員長を薬剤師出身の保健部次官が務めるだけではなく、医療一元化の問題で漢方医と対立関係にある医師会の支援を得られること、また消費者団体や保健専門家が医薬分業を支持していて、分業のパートナーとして薬剤師を想定していることから、薬改推における「直接的接近」に集中したのである。
 一方漢方医会は、保健部に対する不信感から薬改推の場よりも「間接的接近」を重要視した。すなわち、薬剤師の漢方薬調剤の禁止、独立した漢方医薬法の制定、散薬の医療保険実施、薬学部の定員縮小などを主張し、世論調査の実施や意見広告の掲載をやめなかった(74)。授業拒否も、薬改推の発足と薬政局長の委員除外を受け、一旦は撤回したものの(75)、七月二七日には再開する(76)。これは薬改推における議論の動向に不満を表明し、それに圧力をかけるためと考えられる。また漢方医会は、「連合」の対象を広げる努力を重ね、保健部を包囲していった。すなわち、スーパーマーケット連合会や獣医師会に働きをかけ、薬剤師を攻撃するようにした。スーパーマーケット連合会は、衛生用品などの一般薬品の販売許可を求め、署名運動に入った(77)。獣医師会も動物薬品の販売権を認めるよう要求した(78)。また漢方医会は、医師や医療事故被害者にも働きをかけ、千名の医師と医療事故家族協議会の名義で、それぞれ意見広告を出すようにした(79)。
 (4) 経実連による調停期
 保健部の試案提示という「一方的決定」は、利益集団の利益表出活動をさらに激化させてしまった。まず薬剤師会は、「間接的接近」と「強硬な接近」を強化した。洋・漢方医薬分業の同時実施と時期の明文化、薬剤師の漢方薬調剤に差別化阻止を訴え、試案反対の声明を発表する一方、意見広告を通じ、漢方医の散薬暴利に対する非難と漢方薬処方の公開の必要性を主張した(80)。九月四日には臨時代議員総会で、政府の試案撤回がなければ集団的に廃業することを決意し(81)、八日には免許返納を強行した(82)。一三日には全国でおよそ七〇%の薬局が休業を実施した(83)。
 漢方医会も保健部を抗議に訪問したり、関連団体と漢方医学守護決起大会を開催したり、国民運動本部(84)を設置したりして、「間接的接近」を強化していった(85)。また一一の漢方医学部の学部長は、留年時限延期と試案撤回をかかげ、全国三〇〇余教授の辞職も辞さないと決定した(86)。
 医師会も試案で洋方分業の実施時期が明示されると、利益表出活動を強化した。医師・歯科医の直接調剤の範囲を広げるよう要求をエスカレートするのである(87)。
 このような状況のなかで、大統領は集団行動を自制するよう厳重に警告した(88)。また紛争悪化の責任を問って保健部次官を更迭した(89)。さらに、国務総理が関係長官会議を召集し、試案に対する集団的反発には強固な態度で対応することと、試案の立法化を強行することの二つを確認した(90)。保健部も漢方医と薬剤師の免許返納に対してはすべて受理し、薬局休業時にはスーパーマーケットなどで必須薬品販売を許可する方針を発表した(91)。同時に保健部は、立法予告以後であっても関係団体が合意案を作る場合にはその受け入れを約束しながら、試案の立法予告を発表した。それには新たに衛生用品の販売自由化が加えられた(92)。教育部は一七日、漢方医学部の学生三、一五三名に対して春セメスターでの留年を確定した(93)。以上のように、政府も一致して強硬な措置に出て、紛争の抑制にあたったが、かえって緊張を高める結果になった。
 ところで、世論は、両団体の妥協しない態度に対して強い不満を明らかにした。マスコミによる両団体や保健部に対する批判もエスカレートしていった(94)。こうしたなかで、経実連は「経実連の代案」を発表し、紛争仲裁の用意があることを明らかにした。
 それは漢方薬剤師の新設が核心であった。これは、漢方医に対しては医療二元化を認める代わりに分業の受け入れを、薬剤師に対しては漢方薬剤師国家資格試験への受験資格を与えながらもその調剤能力の検証を要求するものであった。そのうえで、漢方分業の三年内実施、漢方医療保険の拡大、一般漢方薬の販売自由化を提示した(95)。また経実連は、漢方医会・薬剤師会・市民団体の代表各三人で「漢方薬調剤権紛争の解決のための調停委員会 (以下、調停委と略)」を設置した。
 調停委の第一回会議では、両団体から代案に対する意見書が提出された。翌日の第二回会議では、散薬の保険適用の早期実施、漢方医薬担当部局・漢方薬公社の設置、漢方医の公衆保健医への任用など、紛争とは直接な関係のない周辺問題の合意が得られた。一八日には両団体の会長と経実連事務総長が保健部長官と面談し、保健部による合意案の受け入れの意志が再確認された。そしてその日夜の第三回会議をへて、翌日の第四回会議で、保健部による全面的受け入れを前提に経実連の代案が合意された(96)。合意案は、漢方医会の最終受諾を待って、二〇日に発表された。これはマスコミに大きく歓迎された(97)。
 しかし、こうした代表だけの合意に対して下部からの反発は激しかった。漢方医会では、一部支部の要求で全国支部長会議が開催され、会長不信任投票があった。不信任議案は否決され、やっと合意案の受け入れが決まった(98)。これに対して薬剤師会では、支部長および常任理事連席会議で強硬論が大勢を占め、会長が辞職する事態があった。そして、非常対策実行委員会を設置し、そこでは合意案の無効が宣言され、二四日から無期限休業に入ることが決められた(99)。
 大統領は、二一日国会演説のなかで再度集団エゴの自制を要請していたが(100)、薬剤師会が合意案破棄と集団休業を決めると、これに対して強硬措置を指示した(101)。政府は、関係長官対策会議を開いて、薬剤師会を公正取引法・消費者保護法違反として告発することを決定した。そのために薬局の集団的休業を、公正取引法上の「事業者団体の禁止行為」と消費者保護法上の「事業者の不当行為」にあたると指定・告示し、即日施行することを決めた(102)。検察は、これを受理して、薬剤師会会長職務代行・事務総長・ソウル市支部長を公正取引法違反、消費者保護法違反、業務妨害などの疑いで拘束した(103)。保健部は、前述どおりにスーパーマーケットや農協での必須薬品の販売を許可し、休業に対応した。マスコミも政府の措置に対して支持を表明した(104)。その結果、薬剤師会はその日のうちに休業を中止せざるをえなくなった(105)。
 しかし、こうした政府の強固な姿勢に反発して、一〇月六日からは薬学部学生による全国的な授業拒否が始まった(106)。このなかで、政府は一〇月八日、合意案で示された漢方薬剤師の新設を受け入れて保健部の確定案を発表した。これは、二一日国務会議の議決をえて、二六日政府提出法案として国会に上程された(107)。
 (5) 立法期
 確定案の内容(108)は、まず第一に、洋方の分業は法施行二年後から実施すると時期を明文化した。第二に、医師・歯科医の直接調剤の範囲は、大統領令によって定める場合とあったものを、無薬局地域・災害時・応急患者・入院患者・注射剤・予防接種と明確にし、争いの余地をなくした。
 第三に、漢方については、条件の未成熟を理由に分業の原則を明らかにしただけで、実施時期の明文化は避けられた。そして漢方薬の調剤は、漢方薬剤師の免許をもつ者に限られた。薬剤師は法施行後二年以内に、また薬学部学生は卒業後二年以内に、漢方薬調剤試験に合格しなければ調剤をできなくした。すでに漢方薬を調剤してきた薬剤師には法施行後二年まで調剤を認めた。漢方薬剤師は、漢方医の処方がない場合は、分業が実施されるまでは保健部長官が定める漢方薬調剤指針書によって調剤ができるとしたが、指針書は五〇〜一〇〇種の処方に限るとした。保健部の説明によると、漢方分業の実施は、漢方薬学部の卒業生が出る五〜七年後と予想されている。
 第四に、確定案は獣医師の動物薬品の販売を認めた。また衛生用品販売の登録制を廃止し、スーパーマーケットなどでの販売を可能にした。薬局などの休業・廃業に対しては、事後申告を事前申告に改め、また業務再開命令を可能にし、不応時は処罰できるとした。
 保健部の確定案について漢方医会は、受け入れの意志を表明した。全漢連も講義に復帰した(109)。経実連やマスコミは、確定案を積極的に支持した(110)。しかし薬剤師会は反対を強く表明した(111)。
 まず確定案が出された一〇月八日を「薬剤師政策滅殺の日」と宣布して政府と闘う意志をはっきりした。薬剤師会は、新たに非常対策委員会を設置してリーダーシップを固めた。そして署名運動など「間接的接近」を強化しはじめた。しかし自ら休業などの「強硬な接近」を行うことはなかった。「強硬な接近」は、薬学部学生との「役割分担」で行われた。すでに六日から授業拒否に入っていた薬学部学生たちは、授業拒否を続ける一方、薬剤師資格試験の拒否を決めた(112)。
 医師会は医療二元化反対の立場から漢方薬剤師の新設について反対意見を表明した。また洋・漢方の同時分業を主張した。すなわち、漢方薬剤師の新設は医療二元化を決定づけるものとして、また二年後という洋方分業の実施に対しては時期尚早論を展開したのである。しかしその方法は、至って「穏健な接近」であった。
 医師会と薬剤師会は、全国紙に共同で意見広告を出し、漢方薬剤師の新設と医薬分業の早期実施に反対する意志を表明した。医師会と薬剤師会は、分業をめぐって対立関係にあるため、これまで「連合」による共同行動はあまりなかったが、漢方薬剤師の新設という局面に来て、医療一元化の立場から分業問題を棚上げして「連合」を強めることになったのである。
 医師会と薬剤師会は、法案が国会に上程されると、国会議員を相手に激しいロビーを展開した。薬剤師会と韓国薬学部協議会はそれぞれ政府案の否決を要請する請願を提出した。医師会も政府案の廃棄を要求する声明を発表した。医師会と薬剤師会のロビーによって、薬事法の会期内通過はだんだんと難しくなった(113)。
 しかし大統領の発言は、会期内通過を決定づけた。すなわち、与党幹部懇談会の席上、会期内処理を強く指示したのである(114)。
 ロビー活動は、大統領指示後も根強く続いた。薬剤師会は、署名簿と陳情書を国会に提出した。また保健部長官に対して政策変更の根拠を問う公開質疑書を出した。医師会も臨時代議員総会で改正反対を決議した。
 結局、政府案は、洋方分業の実施についてのみ法施行後三〜五年内の実施へと修正が行われた以外は原案どおりに与野党満場一致で保健社会委員会を、また一二月一七日には本会議を通過し成立した(115)。
第三節 二次分析:多元主義の可能性と限界性
 それでは、以上の分析結果をもって、あらかじめ設定しておいた論点に従って、検討を深めていくことにする。
 【論点1=利益集団の自律化・有効な戦術】 本事例の利益集団は、その利益表出活動において、対政府の従属性を強調する従来の利益集団観とは異なって、相当な自律性を見せていたと考えられる。利益集団の自律化は、結果は別にしても、その戦術を主体的に選択し、実行できたことから明らかである。このことは漢方医会の場合により明確となっている。
 漢方医会の目標は医療一元化と漢方分業の阻止にある。目標達成のポイントは、一つは絶えざる「危機感づくり」による世論の喚起・動員であった。世論調査や意見広告など「間接的接近」の重視、「連合」の活発な展開を行った。いま一つは保健部はずしにあった。薬剤師会と保健部は癒着していると見たためである。そのため、「保健部疑惑説」の流布、薬改推への参加のボイコット、大統領への「直接的接近」という戦術を展開した。世論の非難を怖れ「強硬な接近」は主に漢方医学部学生に「役割分担」させつつ、漢方医会自身は、「穏健な接近」を維持した。漢方医会の巧みさは、集団留年問題をてこに、危機の拡大・深化をはかり、同時にその責任を保健部の無能行政に転嫁するところから明らかである。また、経実連を調停役にした交渉では、漢方薬剤師の導入や漢方医療保険の拡大を受け入れるという柔軟さを見せている(116)。
 薬剤師会は漢方医会ほどの戦術の多様さや機敏さを見せてはいない。保健部への「直接的接近」に終始重きを置いていたためである。初期段階では内紛もあって、組織動員が円滑ではなかったという点もあるが、これは薬剤師会の自律性が相対的に弱いからではなく、むしろ静かな「直接的接近」のほうが薬剤師会にとって合理的であるという判断が幹部に働いたためであろう。戦術のポイントは、「危機の縮小」による世論の介入可能性の遮断、すなわち保健部レベルでの政策決定構造の維持にある。したがって大統領の権力的介入に対しては激しく抵抗したということは薬剤師会の強い自律性を物語っている。
 ここで注目したい点は、利益集団の行動、特に「強硬な接近」である。一般的には、これは直接には集団的要求の吸収装置が十分に行政機関内部に形成していないことの産物と見なければならないであろう。特に、専門職の利益集団がこのような大衆運動的行動方式を選択したということは、それ自体驚くべき発展ではないかと考える。
 そもそも「強硬な接近」は、組織成員に積極性がなければ実行できない。争点の明確性や損得のゼロサーム的性格、しかもそれが成員に万遍なく影響するであろうということが結束を高め、フリーライダーの発生を防ぐことに助けになったことは明らかであろう。さらに、それ以上にいわゆる「組織の二重構造(117)」の解消に成功していたことを重視したい。漢方医会の高い結束力は、組織の底辺からの突き上げによるところが大きい。それは、リーダーシップの交替、会費引き上げ、組織動員への積極的参加などから見て取れる。パソコン通信などによる双方向的コミュニケーションの確保も役に立ったであろう。薬剤師会も、初期はともかくとして、今回の過程で会長の責任を問うことができた点では評価をしていいであろう。換言すれば、「組織の二重構造」の解消は、「組織の民主化」への端緒を意味し、利益集団の自律化への一つの現われと見ることができよう。
 いま一つ注目したい利益集団の行動は、「役割分担」と「連合」である。政治的リソースに劣る漢方医会は、これらの戦術をフールに活用した。薬剤師会も形勢不利となる後期段階ではにわかに活発化する。しかし、ここでは漢方医会の戦術的巧みさよりも、「役割分担」や「連合」のそのパートナーになる社会集団の存在を指摘したい。
 たとえば、全漢連は、漢方医学部学生の単なる利益団体というよりも伝統ある学生運動団体としての性格が強い。運動の論理づけや組織動員には長けていると見ていいであろう。韓国学生運動の中枢とも密接な組織関係を保っている。全漢連のこうした性格こそが、自らの利益表出活動を学生運動の一環として位置づけ「美化」することによって、一般に学生運動の応援を得ただけでなく、漢方医学部学生たちに留年を覚悟させるまでの全面的な参加を引き出しえたのである。全漢連は、漢方医学を民族医学と規定し、西洋医学と対立させることによって、民族自主を掲げる学生運動の本流と合流するのである(118)。
 韓国においては、いわゆる市民運動の成長も目覚ましい。本事例では経実連に代表されるが、このことについては後述する。これまで学生団体や市民団体が利益集団の紛争に介入する例はあまりなかったと見ていいであろう。また今回の過程では、少なくとも二〇以上の団体・集団の合従連衡が見られるが、従来にはそうした例もあまりなかった。利益の多元化・利益集団の政治化が認められよう。そして「役割分担」や「連合」の活発化は、利益集団の自律化の一つの証拠である。
 以上から利益集団の自律化は認められ、またこれは多元主義的認識の可能性を提起するものとして受け入れられよう。しかし、リソース分析で見たように、本事例の利益集団はもともと構造的に自律性が強く、保健部と対等な関係をなしていることを考えると、自律化の積極性に対する評価は半減せざるをえない。
 つぎに、有効な利益表出の戦術を結果と関連づけて考えてみよう。漢方薬剤師の新設という結果は、漢方分業を認めたという点で、漢方医側の望むものではない。しかし、医師と漢方医の併存に加えて、薬剤師においてもそれを洋方薬剤師と漢方薬剤師に二元化することによって保健部の洋・漢方一元化政策の推進を阻止し、二元化を完全に制度化したという点では漢方医側の勝利と言えるであろう。また医師会の反対のため、実施が阻まれていた漢方医学育成の諸政策の実現をみた。なお、漢方医側としては漢方薬剤師の数と調剤の範囲に制限を設けたいところであるが、それは当面の課題ではない(119)。
 一方、薬剤師側は、勝ち取ったものは何もない。医療一元化はおろか、従来事実として行ってきた漢方薬の調剤も禁止された。調剤のためには、漢方薬調剤試験に改めて合格しなければならなくなった。漢方薬の科学化という主張は国民にはまったく理解してもらえなかった。そのうえに、「集団エゴ」の非難、薬剤師会幹部の拘束など、薬剤師側はその名誉に大きな打撃を被った。
 こう見てくると、少なくとも結果的には漢方医会の取った戦術のほうが有効であると判断できよう。したがって、ここでは危機の程度によって紛争過程の各段階を改めて見直し、それぞれの段階において漢方医会と薬剤師会の取った戦術の推移を詳しく検討してみよう。なお、危機とは政府が何らかの決定策定を迫られる事態を言うが、その程度は相対的なものである。
 《紛争の再発期》 保健部は、施行規則の原状回復を拒否し、漢方分業と医療統合の方針を替えなかった。漢方医会の要求に対してせいぜい漢方医学の育成意志を言述的に表明するだけで、具体化への努力はなかった。したがって、「低度の危機」と見ていいであろう。
 漢方医会の戦術は、最初の「直接的接近」から「間接的接近」へと変わった。一方、全漢連との「役割分担」によって「強硬な接近」が試みられた。薬剤師会は、保健部への「直接的接近」に重きを置いた。
 この段階での決定策定権限は保健部にあった。薬剤師会の「直接的接近」が優位に立っていた。
 《拡散期》 保健部によって漢方医学育成政策の具体化と教育部によって留年決定の撤回が提示された。しかし、このような懐柔策では留年問題や保健部の疑惑問題をてこにますますエスカレートする危機の進行を止めることはできなかった。政府は、保健部に対する捜査と薬事法の改正検討の表明をするに至る。その意味で、この時期は「中度の危機」と考えられる。
 漢方医会の戦術は、再発期と同様に、「危機感づくり」に重点が置かれ、「間接的接近」と、「役割分担」による「強硬な接近」を一層強く続けた。特に、「役割分担」と「連合」の積極的推進によって漢方医側の支援の輪が著しく拡大した。と同時に、大統領への「直接的接近」も見られた。薬剤師会は、保健部への「直接的接近」を続けたが、捜査が始まると、集団休業の「強硬な接近」に自ら乗り出した。
 決定策定権限は、保健部の抵抗にもかかわらず、大統領や与党首脳に移っていた。この段階では、危機の増幅と問題の政治化を受けて漢方医会の戦術が功を奏するに至った。
 《政府議題化期》 薬改推における審議・議論の時期で、保健部は、「仲裁」を試みたが、自らの政策を表明したりすることはなかった。「低度の危機」と看做していいであろう。
 漢方医会は、「間接的接近」をより重要視する戦術を替えることはなかったが、薬改推の期間中は「穏健な接近」に務めようとした。一時ではあれ、全漢連の授業拒否も撤回された。薬剤師会は、薬改推に積極参加し、保健部への「直接的接近」を強めた。
 《経実連による調停期》 この時期は「高度の危機」にあたる。政府は、保健部試案の「一方的」発表によって両利益団体の尖鋭な対立が再演すると、大統領の全面介入によって経実連からの合意案の骨格を受け入れて、確定案を発表した。
 漢方医会は、「強硬な接近」と「間接的接近」を強化した。しかし、最終的には経実連の調停を受け入れる妥協を選んだ。その反面、薬剤師会は、一旦受け入れた合意案を取り消し、すでに拡散期に休業による世論の非難を受けていたにもかかわらず、またもや休業を決定することによって最悪の「強硬な戦術」に打って出た。
 決定権限の行使は、大統領によって行われたと見るべきであろう。再度の急進的な選択をした薬剤師会にとっては厳しい結果になった。
 《立法期》 国会による新しい決定はなく、政府の確定案がほぼ原案どおりに成立した。したがって、「低度の危機」と考えられる。
 漢方医側には特に目立った活動は見られない。薬剤師会は、政策過程の最後の段階になってようやく「間接的接近」・「役割分担」・「連合」などの戦術を駆使しはじめる。
 以上から、漢方医会と薬剤師会は、その戦術の運用・展開においてまったく逆の順序を辿っていることがわかる。総じて言えば、危機の程度が高まっていく間、漢方医会は「間接的接近」と「強硬な接近」を選好した。それは保健部はずしに向けていた。しかし、「強硬な接近」の先鋒は「役割分担」によって全漢連にまかせ、漢方医会自身は「穏健な」スタンスを維持しようとした。保健部はずしが成功して構造的権力が前面に登場すると、漢方医会は妥協策にでた。それとは正反対に薬剤師会は危機が高まってくると、これまでの「直接的接近」と「穏健な接近」から変わり、「間接的接近」と「強硬な接近」を試みて大統領に真っ向から対立する。最後の立法期には薬学部学生を動員するといった「役割分担」や医師会との「連合」に乗り出すなど、戦術の多様化を見せてくれるが、国会は政策決定の場ではなかった。
 要するに、有効な戦術は、「間接的接近」でも「直接的接近」でもない。それらの巧みな使い分けが肝心である。その基準は危機の程度にある。もし漢方医会の戦術が成功したと言えるのであれば、その要因は、危機の程度がまだ低い時は「間接的接近」や「強硬な接近」によって危機の度合を高め、またその程度が高い時、すなわち構造的権力が介入する時は「直接的接近」や「穏健な接近」に切り替えられたところにある。したがって、漢方医会の「間接的接近」による危機感づくりの成功のみを見て多元主義の可能性を過大に認めるわけにはいかない。そして、戦術の使い分けのためには、前提としてそれなりのリソースがあらかじめ要ることは言うまでもない。
 【論点2=市民団体の役割】 八〇年代後半以降、市民運動の噴出とその影響力の増大には目を見張るべきものがある。経実連はいまや韓国市民運動の代表的な存在になっている。経実連運動は、土地・住宅問題、税制・財政問題、財閥問題など、主に経済問題への政策代案の提示を課題とし成長した。そして、漢方薬紛争の調停を契機に、組織の全国化をほぼ完了し、課題設定においても経済分野を超えて民族統一問題、地球環境問題、マイノリティ問題、国際協力などにも広がり、さらには労働運動との連帯・学生運動への進出、一部元リーダーたちによる政党運動など、そのカバーする範囲には果てしがない。
 特に、九三年は経実連にとってその知名度を一躍全国的なものにした年になった。一つは発足後絶えず主張し続けてきた金融実名制が実施に移されたこと (これについては本稿の範囲を超えるので触れない)、もう一つは漢方薬紛争の調停に乗り出したことのためである。要するに、国会や保健部ができない紛争の調停を一市民団体がやり遂げたということである。調停の後、ある時事雑誌の世論調査では、経実連が財界総本山の全国経済人連合会、マスコミ、与党の民主自由党 (当時。現在は新韓国党に党名変更)などをぬいて「韓国で最も影響力のある団体」の第一位に選ばれている(120)。
 しかし、経実連の調停による合意案がほぼそのままの形で立法化したということは必ずしも市民社会の成長を意味しない。むしろ立法過程の劣悪性・紛争調停システムの欠如を単純に反映しているだけである。その意味で、調停は、政党・国会のあり方や政府の失政の隠蔽に利用されている。経実連の主観的意図がどうであれ、政府は、「集団エゴ」論の流布と経実連を利用することによって、危機の引き伸ばしに成功している。
 しかもここで強調しなければならない点は、調停が失敗したという事実である。「集団エゴ」の非難が極度に達していた時点で、そしてこのままなら政府案が通ってしまうという不安をもつ薬剤師会会長の独断による「合意」が薬剤師会の多数の反対に会い、拒否されたことを正当に認めなければなるまい。しかし、マスコミは、それを「調停の失敗」とは見ず、「合意の違反」と看做し、薬剤師側に対して容赦のない攻撃を行った。政府は、合法であるはずの集団休業の決定を受けて、公正取引法・消費者保護法の施行令を即座に改正し、当日施行させることによって、薬剤師会の幹部を逮捕している。経実連は、法治主義の根本が破壊されているにもかかわらず、政府に対して抗議する姿勢を示していない。むしろこうした攻撃に同調していた。
 第二の点は、合意案の立法化によって果たして問題は解決したであろうか。紛争再発の素地をなくし、国民健康の確保に前進の効果があったであろうか。現在紛争は、漢方薬学部の設置、漢方薬剤師の調剤の範囲、漢方薬剤師の人員調整、漢方薬調剤試験問題の出題、薬事法の再改正などをめぐって九三年当時よりもさらに拡大・深化した形で、再発している(121)。問題は職種の新設によってさらに複雑になっただけである。
 また薬改推における消費者団体・保健医療専門家たちの見解は、薬剤師による漢方分業であった。薬改推公聴会で経実連の事務総長自身も、消費者団体の代表としての報告を通じて、調剤権問題に対して一時的な妥協・利益調整によってではなく、国民保健に寄与する方向で解決しなければならないと指摘しながら、そのためには薬剤師を漢方分業のパートナーとして認めるべきであるとしている(122)。前述したように、医療の二元化は問題が指摘されて久しい。改正薬事法は、医療の統合を制度的に妨げるものと言わざるをえない。調停は、経実連の自己評価で言うように「集団紛争解決の典型の創造(123)」ではなく、原則を投げ捨てた一時的妥協に他ならない。
 市民団体の役割は、医療消費者の利益を政策にどれほど投入できたかという点で評価されなければならない。その面で、多元主義の可能性に対する経実連の肯定的役割は非常に制限されている。むしろ政府に利用された側面が強い(124)。
 【論点3=行政の政策失敗の要因】 保健部の政策失敗をもって多元主義的アプローチの導入の必要を言う論者がいるということは前述したとおりである。しかし、それが表面的な観察にすぎないことはすでにリソース分析から明らかになったと考えられる。要するに、保健部の低い自律性が政策失敗の構造要因になっているのである。保健医療や社会福祉の発展のためには、むしろ保健部の行政内部での地位を向上しなければなるまい。
 政府機関に捜査のメスを入れることはめったにないことである。政権交替期によくある政権の基盤強化の策と軽く見ることはできない。保健部の存在が徹底的に無視されているのである。長官と次官の抵抗にもかかわらず、検察は一考もしなかった。経実連による合意案は、保健部の方針に正面から対立するものである。それを論理づけもできずに、受け入れざるをえなかったということは、保健部の自己否定を意味している。
 市民団体の提案を受け入れたことをもって保健部の脱権威主義化を言うのは、あまりにも皮相的すぎる。「一方的決定」から「非決定」へ、また「一方的決定」へ、この二転三転は、保健部の非力を物語るものであると同時に、「一方的決定」の繰り返しという意味での「硬さ」も証明している。合意案の受け入れ自体が、薬剤師会から見ると、「一方的決定」以外の何物でもない。「仲裁」の二か月間、保健部は実は何もしていない。もし経済企画院との予算折衝で勝ち抜く自信があったなら、保健部は漢方医の診療報酬の引き上げなどの誘因策を練り上げられたであろう。しかし、その二か月間、保健部はどの分野からも支持を得られなかったためであろう。その結果、保健部の取りうる態度は、権威主義的行政スタイルしか残らなくなる。
 すなわち、保健部は、閉鎖的政策決定をせざるをえないのである。保健部が何を考えているのかをだれにも知られないことが重要になる。「仲裁」がジェスチュアにすぎなかったことは、その良い例であろう。保健部に対して公正で中立的であれというのは最初から不可能である。マスコミは保健行政を叱咤するが、それでその無能ぶりがどれぐらい改善されるか、甚だ疑問である。
 したがって、保健部の政策失敗が利益集団の挑戦によるものと見るのは大きな間違いである。保健官僚にはそもそも増分的・限界的政策決定しかできない。それで良いからではなく、そうするしかできないからである。そして、こうした条件は、恐るべき惰性=権威主義的行政スタイル、規律の弛緩、責任回避となって現象する。
 最後に、【論点4=権力の所有状況・所在】について明らかにしなければならない。本事例では、平時あるいは「低度の危機時」にはそれがあたかも分散しているように見えるかも知れない。たとえば漢方医会を見ると、リソース面で相対的に劣っていても、組織内では結束力のリソースを高め、組織外では世論の支持の獲得に成功すれば、権力ゲームに容易に参加できると考えられる側面がある。本稿では割愛したが、七〇年代や八〇年代における漢方医会の脆弱な活動と比較すると、確かに雲泥の差がある。したがって、状況のレベルに限って言えば、入り口における参加や異議申し立ての機会が飛躍的に増えたことは認めなければならない。
 しかし、構造面ではどうであろうか。構造的権力が表面に登場するのは、危機時であると見ていいであろう。本事例では、「中度の危機時」および「高度の危機時」である。大統領の登場である。彼の権力は、((1))利益集団に対する脅迫・幹部の拘束、((2))保健部に対する政策変更の指示・次官の更迭、そして何よりも重要なことに、((3))法治主義の破壊=集団留年決定の根拠のない撤回と再確定・薬剤師会幹部の不法逮捕などをいとも簡単に実行し、しかもその行使においてマスコミや市民団体の支持が得られるくらいに、絶大で、かつ一元的に集中・所有されているのである。
 一方、保健部・国会・市民団体・利益団体などはどうであろうか。後は前述しているため、ここでは国会に対してのみ、簡単にふれておこう。国会は、紛争当事者による法改正の請願を受けて、保健社会委員会で審議をし公聴会を開催した。公聴会を開いたということは、それがほとんど開催されてこなかった点(125)を考え合わせると、それ自体国会の代表性の向上には寄与するであろう。しかし国会の役割は、漢方医学の育成対策を立てるよう対政府建議を採択することに留まる。そして国会の手を離れた法案が政府案になって返ってくるまで、国会の関与はなかった。法案上程を前後した医師会などのロビーも、大統領の会期内通過の指示に埋もれてしまった。
 以上の分析からまとめてみると、多元主義の可能性を支持する要因はせいぜい論点1の利益集団の自律化ぐらいである。その反面、その限界性を指摘しうる要因は、たくさんある。しかも、それがほとんど構造的要因であるということに留意しなければならない。

(1) 大韓韓医師協会『第四〇回定期代議員総会』(ソウル、一九九五)。
(2) 筆者による漢方医会パク・スンギ (朴順基)課長へのインタビューより。(一九九五・九・二六)。
(3) シン・ヒョンチャン (申鉉昌)「韓薬紛争の歴史的照明と教訓」『大韓薬師会誌』四巻四号 (ソウル、一九九三)一二一頁。
(4) 健康社会のための保健医療人連帯会議『健康社会のための保健医療』(ソウル、実践文学社、一九九二)三一〜三二頁。
(5) ビョン・ヒョンユン他八九人『国民はこんな変化、こんな政府を願う:六共の評価とこれからの政策課題』(ソウル、チョンアム文化社、一九九二)三三三頁。
(6) 韓国の都市化率 (人口二万以上)の推移を見れば、本格的な経済成長政策が実施される直前の一九六〇年に三九・一%であったものが、一九七〇年には五〇・一%、一九八〇年には六八・七%、一九九〇年には七九・六%と急速に都市化が進行してきたことがわかる。韓国内務部『韓国都市年鑑』(ソウル、一九九一)。
(7) 韓国保健社会研究院『国民健康および保健意識行態調査』(ソウル、一九九三)。大韓韓医師協会「言論人に棒げる文章」(ソウル、一九九三・八)一項から再引用。なお、他の医療機関の利用度を見れば、病医院四八・五%、歯科医二・一%、保健所等四・四%、その他〇・六%となっている。
(8) 大韓薬師会『公職薬師職域便覧・一九九三』(ソウル、一九九三)参照。
(9) Frederic C. Deyo (ed.), The Political Economy of the New Asian Inderstrialism (Ithaca : Cornell University Press, 1987) 所収の各論文を参照。
(10) ビョン・ヒョンユン他八九人、前掲書三一五〜三六九頁を参照。
(11) 一九六二年に第一次五ヶ年計画が策定されて以来、五年ごとに改定され、第七次五ヶ年計画 (一九九二〜一九九六)まで続いた。第六次五ヶ年計画 (一九八七〜一九九一)から名称を経済社会発展五ヶ年計画に替えたが、金泳三政権の発足とともに、第七次五ヶ年計画は、実行一年で打ち切られ、現在は、新たに新経済五ヶ年計画 (一九九三〜一九九七)が策定してある。
(12) 朴一『韓国NIES化の苦悩:経済開発と民主化のジレンマ』(東京、同文舘、一九九二)一六七項には、第六次五ヶ年計画の策定過程が図表になっていて、一目瞭然である。
(13) チョン・チョンギル (鄭正佶)「大統領の政策決定:経済政策を中心に」ソウル大学行政大学院『行政論叢』二九巻二号 (ソウル、一九九一)七三頁。
(14) キム・マンギ (金晩基)「韓国の行政理念の変化」アン・ヘギュン (安海均)他『韓国官僚制と政策過程』(ソウル、茶山出版社、一九九四)六〇頁。
(15) たとえば、韓国の医療保険法は、早くも一九六三年に制定されたが、執行は長らく留保され、一九七七年になってはじめて、執行された。しかし、当時の適用対象は、五〇〇人以上が働く事業場等に限られ、全国民のわずか八・八%にすぎなかった。国民皆保険になるのは、一九八九年で、民主化過程に入ってからである。チェ・ソンモ (崔成模)、ソン・ビョンジュ (宋炳周)「政策執行の政治的性格と特徴:医薬分業政策を中心に」韓国行政学会『韓国行政学報』二六巻三号 (ソウル、一九九二)七七六〜七七七頁。
(16) チョ・ソクジュン(趙錫俊)「青瓦臺秘書室の組織に関する研究」ソウル大学行政大学院『行政論叢』二九巻二号 (ソウル、一九九一)参照。
(17) チョン・チョンギル「望ましい大統領の政策管理:経済政策を中心に」韓国行政学会『韓国行政学報』二七巻一号 (ソウル、一九九三)参照。
(18) パク・チャクウッ (朴贊郁)「選挙過程と議会政治」アン・チョンシ (安清市)、ジン・トクキュ (陳徳奎)編『転換期の韓国民主主義:一九八七〜一九九二』(ソウル、法文社、一九九四)一八八〜二一三頁参照。
(19) 韓国国会の審議は、委員会中心主義を取っているため、所管委員会における審議が重要である。委員会を通過した法案は、本会議では、ほとんど異議を提起されない。韓国法制研究院『立法過程の理論と実際 (研究報告九四ー五)』(ソウル、一九九四)二一五〜二一六頁。
(20) 右の諸数値は、保健社会部長官の国会における所管業務報告による。大韓民国国会事務処『第一六五回国会 (閉会中)保健社会委員会会議録第一三号』(ソウル、一九九四・一・二五)。また、国内総生産に占める社会保障費支出の比重を先進国のそれと比較した他の資料を見ると、一九九三年度現在、韓国の場合が、一・八%にすぎない反面、一九八九年度現在、日本は一一・〇%、米国一〇・八%、英国一二・〇%、西ドイツ一五・七%、スウェーデン一九・五%、フランス二一・二%等とあり、OECD (経済協力開発機構)二二ヶ国の平均は一三・三%である。これをまた、約七、〇〇〇ドルという現在の韓国の一人当り国民総生産に近い一九六〇年度のOECD各国における社会保障費支出比重と比べてみると、韓国の社会保障費の抑制傾向は、さらに明らかである。一九六〇年度現在、日本は三・八%、米国五・〇%、英国六・八%、スウェー
デン八・〇%、西ドイツ一二・〇%、フランス一三・〇%等を占め、平均は七・〇%であった。民主化のための全国教授協議会『金泳三政権一年政策評価書』(ソウル、一九九四・二・一八)六〇頁。
(21) 民主化のための全国教授協議会、前掲書五八頁。
(22) キム・ソンハン(金成漢)「保健社会部官僚の福祉理念に関する研究」ソウル大学修士論文 (ソウル、一九九〇)六三頁、七〇〜七一頁。この調査は、一九八九年一〇月、社会局・医療保険局・国民年金局・家庭福祉局の四局を対象に、全数調査 (一三八名、うち応答者は九八名)を行ったものである。
(23) キム・ヨンレ (金永来)『韓国利益集団と民主政治発展』(ソウル、大旺社、一九九〇)五七〜一一六頁参照。まず、従属的協力型は、政府の支援や強制により設立され、政府の政策目標の遂行のため、政府によって動員される。大韓商工会議所、全国経済人聯合会、中小企業協同組合、大韓教育聯合会、韓国貿易協会など、主に経済団体が挙げられる。従属的葛藤型は、政府のイニシアチブによって設立され成長してきたが、実際の活動においては政府政策とよく衝突するため葛藤状況が続く。韓国労働組合総聯盟が代表例である。自律的葛藤型は、団体の自律的設立・運営が認められるほか、団体活動において政府の政策目標としばしば乖離し、政府との関係が葛藤的である。大韓弁護士協会、韓国記者協会などが代表的なものである。自律的協力型には大韓医学協会、大韓薬師会、大韓出版文化協会などの専門職団体がこれに属する。キムによると、韓国の利益団体に最も多いのは従属的協力型で、たとえこれに分類されないにしても、政府の干渉は、多かれ少なかれ、避けられないという。その活動が葛藤型である場合は、政府の厳しい統制の対象となるという。
(24) キム・ヨンレ、前掲書、一〇六頁。
(25) パク・スンギ「政策執行における利益集団の役割に関する研究」慶煕大学修士論文 (ソウル、一九九四)六九頁。
(26) 圓光大学校韓医科大学学生会『九三年薬事法闘争資料集:韓医、勝利の火花』(イリ、一九九四)五三〜五四頁。
(27) 大韓韓医師協会「韓薬紛争の政策執行過程の要約」(ソウル、一九九五・八)三頁。
(28) 大韓韓医師協会「薬師の韓薬調剤および韓・洋方協診体制に関する公聴会抄録」(ソウル、一九九三・四・二)所収四六頁の「経過報告」参照。
(29) 保健部による国会報告から。大韓民国国会事務処「第一六〇回三次国会保健社会委員会会議録」(ソウル、一九九三・四・一八)六頁。
(30) 大韓韓医師協会、前掲注(27)、三頁。
(31) 以上については、大韓韓医師協会、前掲注(28)参照。
(32) 全国韓医科大学学生会連合「授業拒否闘争に突入するにあたって (声明書)」(ソウル、一九九三・三・二三)。
(33) 大韓薬師会「薬事法改正反対大韓薬師会請願書」(ソウル、一九九三・一一・三)参照。
(34) たとえば、大韓韓医師協会「国民のなかで生まれ変わる民族韓医学 (新聞広告)」(ハンギョレ新聞、一九九三・六・一二)。
(35) たとえば、以下のような文章から明らかである。"五千年の民族史とともに歩んできた半万年の韓医学史において、その最も惨憺たる、また暗鬱な民族医学抹殺政策が、日本帝国主義の時代についで、新韓国の文民政府によってほしいままに行われているという事実を前にして、驚愕と憤怒を禁じ得ない。"大韓韓医師協会『当然の選択! 正しい国民の意志 (II)』(ソウル、一九九三・一〇・四)はしがき。また"近代西洋医学の受け入れは、日本の強要と西洋の宣教師によるもので、われわれの主体的・自律的選択によるものではなかった。したがって、伝統民族医学は、非合理的・非科学的と蔑視されるようになった。"ノ・ヨンテク「民族医学の昨日と今日」同書、七頁。
(36) たとえば、大韓薬師会・全国薬学大学協議会「韓薬は医薬品である。薬師の韓薬調剤は当然である (新聞広告)」(各新聞、一九九三・三・九)、大韓薬師会「薬師は韓薬科学化の主役である。薬局の韓薬調剤は法律によって保障された基本権である (新聞広告)」(各新聞、一九九三・三・三一)。これらの広告で薬剤師会は、漢方薬の科学化・大衆化を訴えている。
(37) 大韓民国国会事務処、前掲注(29)参照。
(38) 大韓民国国会事務処、前掲注(29)、七頁。保健部は、漢方医学の育成政策として、漢方医学研究所の設立・漢方医の公務員特別採用などを検討していた。
(39) 東亜日報 (一九九三・四・三〇)。
(40) 大韓薬師会「韓医師協会の請願に対する反対請願」(ソウル、一九九三・五・八)。
(41) 国会保健社会委員会「薬師の韓薬調剤・販売に関する公聴会」(ソウル、一九九三・五・一三)。
(42) 大韓韓医師協会、前掲注(27)、二五〜二六頁。
(43) 本稿 (一)の第二章第一節から、漢方の医薬分業の前史を見ること。
(44) 育成策として保健部は、漢方課新設、漢方医の軍医・公衆保健医への任用検討、漢方医療保険の拡大検討、漢方医学研究所・漢方医学発展委員会の設置を発表した。「漢方医療発展方案 (報道資料)」(ソウル、一九九三・五・二一)。
(45) 東亜日報 (ソウル、一九九三・五・二五)。
(46) 保健社会部「韓医大授業正常化のための対策会議開催 (報道資料)」(ソウル、一九九三・五・三一)。
(47) 東亜日報 (一九九三・六・一〇)。
(48) 全漢連は、常任委員会で薬剤師の漢方薬調剤禁止を条件とし、これが受け入れられない限り、授業拒否を続けると決議した。東亜日報 (一九九三・六・一三)。
(49) 有名予備校の大成学院に通う漢方医学部志望生一七一名は、嘆願書を政府に提出して、志望学科の選択は受験生の基本的権利と主張し、留年確定の場合にも次年度の募集定員を削減しないことを要求した。キム・ファンテ『飯茶碗を争った甘草とマイシン』(ソウル、図書出版ゼンギ、一九九四)五一頁。
(50) 同協議会の要求は、((1))漢方医薬法の制定、((2))漢方医学育成政策の策定であった。全国韓医科大学教授協議会「学生たちの早期復帰のために政府当局に訴える (新聞広告)」(京郷新聞、一九九三・七・三)。
(51) 同協議会は、事態の責任を保健部の無責任な行政に求め、学生たちの留年闘争を激励している。全国韓医科大学学父母協議会「全国韓医科大学生の留年決意に対する支持声明書」(ソウル、一九九三・六・一〇)。
(52) 同協会は、漢方薬販売業者、すなわち漢方薬業士の組織である。その要求は漢方薬業士を漢方薬剤師と認めることである。大韓韓薬協会「われわれ韓薬業士は四千万の国民に切に訴える (新聞広告)」(朝鮮日報、一九九三・六・三〇)。
(53) 東国大学の一五三名の留年がまず最初に確定した。東亜日報 (一九九三・六・一五)。
(54) 東亜日報 (一九九三・六・一六)。
(55) 経済正義実践市民連合「最近の韓薬紛争に対する経実連の立場」(ソウル、一九九三・六・一七)。この公聴会では両利益団体の会長と保健専門家、漢方医学部と薬学部の学生が意見を述べた。
(56) 中央日報「韓医大留年の事態、見ているだけでいいのか」(一九九三・五・二五)、東亜日報「医薬分業の契機になる」(一九九三・六・九)、中央日報「もう講義室へもどれ」(一九九三・六・一三)、東亜日報「もう引き伸ばせない韓医大事態」(一九九三・六・一八)各社説。
(57) 国民日報 (一九九三・六・二二)。
(58) 東亜日報 (一九九三・六・二二)。
(59) 薬剤師会の「役員および代議員の選出に関する規定」によると、その当然職代議員として薬政局長・国立保健院院長・国立保健安全研究院院長・国立環境研究院院長が入っており、薬事行政の主な担当者が含まれている。時事ジャーナル (週刊)、一九三号 (一九九三・七・八)。
(60) 東亜日報・中央日報・国民日報・ソウル新聞 (一九九三・六・二三)。
(61) ソウル新聞 (一九九三・六・二三)。
(62) 京郷新聞「密室行政、とがめるべきだ」、朝鮮日報「薬事法改正に非理が?」、韓国日報「司正対象になった韓医・薬紛争」(一九九三・六・二四)各社説。
(63) 週刊ニュースメーカー (一九九三・七・一八)。
(64) 東亜日報 (一九九三・六・二三)。
(65) ソウル新聞 (一九九三・六・二四)。
(66) 東亜日報「自制すべき集団利己主義」(一九九三・六・二四)、同「薬局まで門を閉めるとは」(一九九三・六・二六)、中央日報「薬局休業、直ちに止めよ」(一九九三・六・二五)、ソウル新聞「薬剤師様、開店して下さい」(一九九三・六・二六)各社説。
(67) 朝鮮日報 (一九九三・六・二六)、東亜日報 (一九九三・六・二七)。
(68) 東亜日報 (一九九三・六・二七)。
(69) 保健社会部「薬事法改正推進委員会および韓医学発展委員会の発足」(一九九三・六・三〇)。
(70) 以下主に、キム・ジュファン「利益集団の葛藤に対する葛藤仲裁比較研究:漢薬分業葛藤における政府と経実連の葛藤仲裁を中心として」高麗大学修士論文 (ソウル、一九九四)四四〜五〇頁参照。
(71) 保健社会部「薬事法改正推進委員会第一次会議会議録」(一九九三・七・五)参照。
(72) 保健社会部「薬事法改正方案に関する公聴会」(一九九三・八・二〇)参照。
(73) 保健社会部「薬事法改正方案」、同「薬事法改正法律案」、同「薬事法改正関連問答資料」(一九九三・九)参照。
(74) たとえば、漢方医会の委託による韓国ギャラップ調査研究所の世論調査 (八月実施)がある。それによると、対象者の八四・二%が"漢方医と漢方薬業士だけが漢方薬を調剤できる"と答えたという。大韓韓医師協会「支持に感謝を申し上げます (新聞広告)」(朝鮮日報、一九九三・九・四)。
(75) 全国韓医科大学学生会連合「声明書」(一九九三・七・八)。
(76) これは、全漢連によるものではなく、慶煕大学の学生会が単独で決定したものである。全漢連は、慶煕大学の授業拒否に対して、現時点における国民感情を無視するものと批判した。全国韓医科大学学生会連合「力強い団結で勝利のその日まで (声明書)」(一九九三・八・一)。しかし、圓光大学が慶煕大学についで授業拒否の再開を決めると、全漢連の授業参加の決定は事実上有名無実になった。圓光大学韓医科大学学生会
「再投票の結果に対する学生会の立場 (声明書)」(一九九三・八・六)。
(77) キム・ボンジン「韓薬調剤権紛争過程に現われた利益集団の利益表出活動分析:保健政策決定過程を中心として」ソウル大学修士論文 (ソウル、一九九四)四七頁。
(78) 東亜日報 (一九九三・七・二三)。
(79) 同協議会は、薬剤師の漢方薬調剤による薬害事故を指摘しつつ、医療消費者団体の育成を主張した。医療事故家族協議会「一つあるだけの生命のために (新聞広告)」(一九九三・九・三)。
(80) たとえば、大韓薬師会「韓薬紛争、解決できます (新聞広告)」(東亜日報、一九九三・九・七)、全国二〇万薬師家族一同「なぜ? (新聞広告)」(東亜日報、一九九三・九・一三)。
(81) 東亜日報 (一九九三・九・五)。
(82) 東亜日報 (一九九三・九・九)。
(83) これは薬剤師会主催の決起大会に約二万名が参加したためである。東亜日報 (一九九三・九・一四)。
(84) これは、この間「独自」に活動してきた漢方医学部教授・学父母・漢方薬業士・漢方病院などの団体と結成したものである。キム・ボンジン、前掲五一頁。その主な活動は、新聞広告を出すことであった。たとえば、漢方医学を救う国民運動本部「金泳三大統領も薬剤師の漢方薬調剤に反対した」(各新聞、一九九三・九・一一)、同「保健部は薬剤師会の出張所である」東亜日報 (一九九三・九・一四)。
(85) キム・ボンジン、前掲五一頁。
(86) 東亜日報 (一九九三・九・五)。すでに八月二七日には慶煕大学の総長が辞任し、三一日には慶煕大学・東国大学の教授六六名が辞職願いを提出していた。東亜日報 (一九九三・八・二八、九・三)。
(87) キム・ボンジン、前掲五二頁。
(88) 東亜日報 (一九九三・九・五)によると、金大統領は"自分の取り分だけを主張する集団や個人を受け入れることは決してない。文民政府は国民に向けて要求すべきことは断固と要求する"と発言したという。
(89) 薬剤師会は、この更迭に対して、同次官が拡散期において大統領府による薬事法改正の指示に反対したためと見ている。筆者による薬剤師会シン・ヒョンチャン (申鉉昌)政策企画室長へのインタビューより。(一九九六・九・一八)。
(90) キム・ボンジン、前掲五四頁。
(91) 東亜日報 (一九九三・九・一六)。
(92) 保健社会部「薬事法中改正法律 (案)立法予告 (報道資料)」(一九九三・九・一四)。
(93) これは一一の漢方医学部在学生三、九二二名の八〇・四%にあたる。東亜日報 (一九九三・九・一八)。
(94) 東亜日報「韓・薬紛争があやしい」(一九九三・九・三)、同「医薬行政、理想と現実」(一九九三・九・四)、同「国民は眼中にないのか」(一九九三・九・六)、同「保社部には責任がないのか」(一九九三・九・七)、同「永遠に門を閉める覚悟なのか」(一九九三・九・一五)、国民日報「韓・薬紛争、国民は疲れた」(一九九三・九・一五)の各社説。
(95) 経実連「韓薬調剤権紛争の解決のための経実連の代案」(一九九三・九・一四)参照。
(96) 漢方薬調剤権紛争の解決のための調停委員会「活動経過」(一九九三・九・二〇)。
(97) 東亜日報「市民団体と民主社会」(一九九三・九・一九)、同「韓・薬紛争の民主的妥結」(一九九三・九・二一)、韓国日報「政府ができなかったことを市民団体が」(一九九三・九・二一)、中央日報「政府より勝る市民団体」(一九九三・九・一七)の各社説。
(98) 東亜日報 (一九九三・九・二二)。
(99) 東亜日報 (一九九三・九・二三)。ただし、全羅北道と済州道の薬剤師会は二七日まで休業の開始を留保した。保健部による休業地域の集計によると、開店していたのはわずか七九四店で、全体の五%にすぎないという。東亜日報 (一九九三・九・二五)。
(100) 東亜日報 (一九九三・九・二四)。
(101) 金大統領は、薬局休業の決定について「集団エゴ」の標本・韓国病と規定し、国務総理に対して法律で許されるすべての措置を講じるよう指示している。東亜日報 (一九九三・九・二五)。
(102) 保健社会部「薬局の集団閉門に対する対策 (報道資料)」(一九九三・九・二五)。
(103) 東亜日報 (一九九三・九・二六)。
(104) 東亜日報「集団利己主義、嘆いてばかりいていいのだろうか」(一九九三・九・二四)、中央日報「薬局休業騒動の教訓」(一九九三・九・二五)の各社説。
(105) 東亜日報 (一九九三・九・二六)。
(106) 全国二〇の薬学部学生会でつくる全国薬大学生会協議会は、保健部の改正案に対して薬剤師の調剤権を侵害するものとし、授業拒否を決議した。東亜日報 (一九九三・一〇・七)。
(107) キム・ボンジン、前掲五六頁。
(108) 保健社会部「薬事法改正案確定」(一九九三・一〇・八)参照。
(109) 漢方医会と全漢連は、漢方薬剤師の導入に満足を表明しつつ、その具体化を促した。大韓韓医師協会「保健社会部の薬事法改正確定案の発表に対する声明書」(ソウル、一九九三・一〇・八)、全国韓医科大学学生会連合「韓医大、授業復帰の声明:国民の皆様に棒げる文章」(一九九三・一〇・一九)。
(110) 経実連は、確定案が((1))漢方医療保険の適用対象の段階的拡大、((2))漢方薬剤師の導入による漢方分業の実施、((3))漢方薬調剤試験を置いて薬剤師の漢方薬調剤に道を開いたことなどを規定しているとし、肯定的に評価した。経済正義実践市民連合「薬事法確定案に対する経実連の立場」(一九九三・一〇・一三)。
(111) 大韓薬師会「薬事法改正案の確定に対する大韓薬師会の声明書」(ソウル、一九九三・一〇・八)。薬剤師会は、((1))医療一元化政策の放棄、((2))洋方分業における適用除外範囲の拡大、((3))漢方薬剤師の新設に反対し、保健部長官の辞職を要求した。
(112) キム・ボンジン、前掲五七〜五八頁参照。
(113) 以上は、キム・ボンジン、前掲五八〜六〇頁参照。
(114) 漢方医会のパク・スンギ課長によると、文民政府の改革政治の立場から会期内に処理せよという金大統領の指示が薬剤師会と医師会による巻き返しを防ぐのに決定的であったとされる。筆者によるインタビューより。(一九九五・九・二六)。
(115) 以上は、キム・ボンジン、前掲五八〜六〇頁参照。
(116) 漢方薬剤師の輩出は少数に留まるであろうということ、保険適用対象の拡大は財政上難しいことを見抜いてのことで、ぎりぎりのところで妥協の姿勢を見せることによって薬剤師会を孤立化し、その譲歩を引き出そうとしたものである。漢方医会パク・スンギ課長へのインタビューより。(一九九五・九・二六)。
(117) 田口富久治『社会集団の政治機能』(東京、未来社、一九六九)一五二〜一五三頁。
(118) 韓国大学総学生会連合「民衆の健康権と民族医学を死守するための韓総連の支持声明 (声明書)」(ソウル、一九九三・五・二八)。
(119) 現に九五年から漢方薬剤師の数をめぐって紛争が再発しているが、それは本稿の範囲を超える。
(120) 各界専門家一千人による調査。経実連は、行政官僚・学者・経済人・言論人・政治家・社会運動家の六分野の専門家集団のすべてから影響力第一位に選ばれた。『時事ジャーナル』(ソウル、九三年一〇月二一日付号)。
(121) パク・インファ (朴仁和)「韓・薬紛争の争点と政策方向」(ソウル、国会図書館立法調査分析室、一九九六)、国会事務処法制予算室「予算政策 Issue Brief :韓・薬紛争」(ソウル、一九九六)、大韓薬師会「韓医薬の発展方向を模索するための提言:懸案の問題を中心に」(ソウル、一九九六)などを参照。
(122) ソ・キョンソク (徐京錫)「薬事法改正のための提案」保健社会部、前掲注(72)、四九〜五五頁。
(123) 経済正義実践市民連合『経実連出帆四周年記念資料集』(ソウル、図書出版経実連、一九九四)四〇頁。
(124) たとえば、保健部次官は、薬改推の副委員長に経実連の事務総長を推薦している。保健社会部、前掲注(71)、六頁。また、経実連の仲裁意志の表明は、政府による一連の強硬な措置とは裏腹に両団体の妥協を促す保健部長官・国務総理の発言があったという状況の下で、なされたのである。
(125) 歴代国会の公聴会の開催実績は、貧弱そのものである。一一代国会が五件、一二代が二件、一三代が八件にすぎない。パク・チャンウク「選挙過程と議会政治」アン・チョンシ他『転換期の韓国民主主義:一九八七〜一九九二』(ソウル、法文社、一九九四)一九五頁。

む す び に
 本事例の設定は、すでに述べたように政策過程の多元主義的姿が最も顕著であろうと考えられる分野にしぼって行った。その意図は、言うまでもなく、それが転換期韓国の政策過程の特質、すなわち政治体制の断絶と連続を最も克明に見せてくれるであろうと期待したことにある。
 このような研究戦略のもと、以上において、民主化の開始以降、特にいわゆる文民政権の発足という状況的前提のなかで、医薬分業や医療統合のあり方を軸に、利益集団と行政機関がそれぞれいかなる戦術をとり、どのような政策過程がそこで織りなされているかについて分析を進めてきた。
 その結果、まず政策過程の入り口における参加・異議申し立ての機会が増えていることが確認された。また利益集団の多様な戦術の駆使を前に、従来のような権威主義的行政スタイルでは政策問題への効果的な対応は困難であった。さらに市民団体やマスコミの影響力が増大し、数多くの利益団体の関与が見られた。これらの変化は転換期韓国における政策過程の転換の積極面を映し出していると見ていいであろう。
 しかし、このような積極的評価は、つぎの二つの理由で、大きく限定されざるをえない。第一に、保健医療分野の周辺性である。周辺的であるがために、保健医療分野の利益集団と行政機関は少なくとも対等な関係にあり、さらには利益集団の自律性・行政機関の無能力が維持されてきた。
 第二に、平時と危機時の区別である。危機の度合が高まると、構造的連続面が目立つようになる。大統領や検察による法治主義の破壊が依然として横行している。国会は、何ら積極的役割ができず、大統領の指示に追従している。市民団体は、市民社会のヘゲモニーを発揮するよりも、権力による新しい統合化政策の補完物として機能している。マスコミも、問題の究明よりも、権力の「集団エゴ」論に組みしているのにすぎない。
 危機の程度は利益集団の戦術にも影響する。漢方医側の「暫定的勝利」(紛争は現在も続いている)は、漢方医側が危機の程度による構造的権力の出方を見極めて適切な戦術のチェンジアップを行ったからこそ、もたされたものである。
 韓国政治は、転換期の最中で漂流している。旧秩序は揺れているにもかかかかわらず、新しい秩序はなかなか見えてこない。その落差の両端の間を左右移動しているのではないか。当然、民主主義の一歩前進と一歩後退が膠着する。
 暗中模索のなか、ここで確認したいことは、構造の強固な連続である。文民政権と言われながらも、「ゆるやかなファシズム体制(126)」は依然として健在である。確かに以前のような法律さえも無視する露骨な権力の行使は、ずいぶんと減ったように考えられる。しかし、本事例からもわかるように、法治主義は確立していない。構造的権力の暴力性は、特に危機時にあらわになる。こうした状況では、たとえ法律が積極的に改正されても、法治主義が守られない限り、それは何ら意味をもたない。また市民社会の多元化が言われながらも、基本的権利さえも保障されていない人々があまりにも多い。たとえば、産業社会の中枢をなす労働階級が自前の政党さえももっていないことは、その代表例であろう。本事例においても、利益集団に対する「集団エゴ」論などによるマスコミと権力の攻撃が見られた。ともすれば、それは権力の論理にかすめとられやすい。

(126) 拙稿「韓国における民主化の現状と課題」福井英雄編『現代政治と民主主義』(京都、法律文化社、一九九五)参照。
  *韓国の人名・書名などについては、筆者の責任で日本語に訳したことを付記しておく。
薬事法改正に至るまでの経過









九三・一・三〇 保健部、薬事法施行規則改正案を立法予告
   二・一八 漢方医会、反対意見書を提出
     二五 施行規則改正案が確定 (旧規則一一条の削除)
     二七 金泳三政権発足
   三・ 三 漢方医会、支部別籠城を始める
     一二 漢方医会、保健部庁舎前で抗議集会
     一七 漢方医会、会長団を一新
     二三 全漢連、授業拒否を始める
   四・ 四 保健部、改正施行規則を施行






      三〇 漢方医会、国会に薬事法改正を請願
    五・ 八 薬剤師会、国会に薬事法改正を請願
      一三 国会保健社会委員会、公聴会を開催
     二一 政府与党会議、漢方医学育成策を発表
     二四 保健部次官、全漢連代表と面談
     三一 保健・教育部「授業正常化のための対策会議」、薬事法改正計画を発表
   六・ 八 漢方医会、時限付休業を決定、後に撤回、無料診療を実施
        薬剤師会、短縮営業を決定
     一四 一部学生の留年が確定
     一六 経実連、留年問題で公聴会を開催
     一七 一部漢方医、免許返納を決議
        漢方修練医、辞職願いを提出
        漢方医学部四年生、漢方医国家資格試験拒否を決議
     二一 教育部、学則改正を許可、留年時限を延期
        漢方医会、前保健部長官の収賄説を提起、大統領に陳情
     二三 検察、施行規則の改正経緯の捜査に着手
     二四 大統領府教育秘書官、全漢連代表と面談
        薬剤師会、時限付休業を決議、抗議集会
        保健部次官、薬事法改正計画を否定
     二六 国務総理、休業を非難、保健部も薬事法改正計画を再確認
        薬剤師会、休業を中止









     三〇 保健部、薬事法改正推進委員会 (薬改推)発足
   七・ 五 薬改推第一回会議 (以後九・三まで運営される)
     一二 スーパーマーケット連合会、OTC薬品販売自由化を要求
     一五 獣医師会、動物薬品販売許可を要求
   八・二〇 薬改推、公聴会を開催
   九・ 三 保健部、薬事法改正試案を発表






調





       四 薬剤師会・漢方医会、保健部庁舎前で抗議集会
         薬剤師会、廃業と免許返納を決議
         全国漢方医学部教授、辞職願い提出を決議
         大統領、「集団エゴ」を警告
       六 大統領、保健部次官を更迭
         関係長官会議、試案の立法推進を決定
       八 薬剤師会、免許返納を強行
         漢方医会、決起大会
      一三 薬剤師会、決起大会
      一四 保健部、試案を立法予告
         経実連、「経実連の代案」を発表
      一六 経実連・薬剤師会・漢方医会による紛争調停委員会が発足
      一七 教育部、留年を確定
      二〇 調停委員会、合意案を発表
         薬剤師会会長、会長を辞退
      二一 大統領、国会演説で集団エゴの自制を要請
      二二 薬剤師会、合意案を破棄、無期限休業を決議
      二四 全国薬局、無期限休業に突入
      二五 関係長官会議、薬剤師会を告発
         薬剤師会、休業を中止
      二六 検察、薬剤師会幹部を拘束






   一〇・ 六 全国の薬学部学生が授業拒否に突入
       八 保健部、調停委員会の合意案を反映した確定案を発表
         薬剤師会、確定案に反対を表明
      一〇 漢方医会、確定案の受容を表明
      一一 医師会、確定案に反対を表明
      一九 全漢連、授業復帰を決定
      二六 確定案が国会に上程される
      二八 薬学部学生が授業に復帰
   一一・ 二 医師会・薬剤師会が政府提出案に反対して共同声明を発表
       三 薬剤師会、国会に否決を請願
      一一 医師会、政府案の廃棄を要求する声明を発表
      一五 大統領、会期内可決通過を指示
   一二・ 三 医師会、代議員臨時総会で政府案反対を決議
      一三 政府案、国会保健社会委員会を通過
      一七 政府案、本会議を通過、成立