立命館法学 一九九六年四号(二四八号)




◇ 紹 介 ◇
フランクフルト大学犯罪科学研究所編

『刑法の驚くべき状態について』の紹介 (一)
Vom unmo¨glichen Zustand des Strafrechts / Institut fu¨r Kriminal-
wissenschaften Frankfurt a. M. (Hrsg). -Frankfurt am Main ; Bern ;
Ner York ; Paris ; Wien ; Peter Lang, 1995


刑 法 読 書 会
生田 勝義・本田 稔  編







   
〈連載を始めるにあたって〉
 刑法読書会では、毎月の例会、夏期および年末の集中研究会を開催して、諸外国の刑事法に関する最新の文献を紹介・検討し、また経済犯罪、生命倫理、政治腐敗などの現代刑法の諸問題に関する共同研究を行ってきた。それらの成果は、機関誌『犯罪と刑罰』をはじめ、会員の所属する大学の学会誌の紙面
をお借りしてその都度公表してきたところである。今回は、フランクフルト大学犯罪科学研究所編『刑法の驚くべき状態について』(一九九五年)の紹介を「立命館法学」に連載させて頂くことになった。紙面を提供して頂いた立命館大学法学会の御厚意に対して深く感謝する次第である。
 本書は、同研究所の研究活動に従事している二八名のスタッフによって執筆されたもので、刑法、刑事訴訟法、刑事政策および法哲学に関する二七本の論稿が収められている。本書の特徴とモティーフは、その「序文」からも明らかなように、「組織犯罪」や右翼急進主義による「暴力犯罪」などに対処するためのドイツの刑事政策の「現代化」が法治国家の刑法諸原則を侵食し、可罰性の早期化、警察の捜査権限の拡大、刑事手続の加速化と刑罰の強化などの路線に沿って促進されている事態ーー刑法の驚くべき状態ーーを批判しながら、激動する現代の刑法の今後のあるべき姿を探ろうとする点にある。対象とされる問題領域は非常に幅広く、いずれも意欲的な労作ばかりであり、現代ドイツにおける犯罪と刑罰の諸現象を批判的に考察するうえで、またわが国に共通する問題を考えるうえで重要な手掛かりを提供してくれるものと思われる。
 なお、本書の紹介については、執筆者の一人であるヴォルフガング・ナウケ教授を通じて同研究所および各執筆者の承諾を得ることができた。ナウケ教授をはじめ執筆者の諸先生方に対して、厚く御礼を申し上げる次第である。
(生田勝義・本田 稔 一九九六年九月三〇日記) 
 ラインハルト・メルケル
  「招かれざる客?
刑法学における哲学的議論の軽視 (及び刑法三四条一文に関する広く行き渡った若干の誤解)について」
REINHARD MERKEL, Zaunga¨ste ? U¨ber die Vernachla¨ssigung philosophischer Argumente in der Strafrechtswissenschaft (und einige verbreitete Mi■versta¨ndnisse zu § 34 S. 1 StGB), in : Vom unmo¨glichen Zustand des Strafrechts, 1995, S. 171-196
〔紹介者はしがき〕
 本論文は、副題に示された通り、刑法上の正当化緊急避難を哲学的な観点から論じた意欲作で、Vまでがロールズの正義論に依拠した緊急避難の正当化の根拠付けの試み、VIがその具体的な適用、という構成になっている。筆者は大学教授資格取得希望者 (Habilitand)で、本文の内容から見ると、むしろ哲学に造詣が深いように思われる。(なお、論文の表題は、VIIでの説明によると、筆者を始めとする哲学者が刑法の議論に介入することを自ら揶揄的に表現したもののようである。)
 以下で、内容を要約して紹介する。章題等[ ]で括った部分は紹介者が補ったものである。
      *      *      *
I [はじめに]
 本稿における私の関心は、解釈論上の個別的な問題について、刑法が哲学を参照することの重要性を示す点にある。以下では、三四条一文の利益衡量公式を例に、両者の対話の可能性を探りたい。
II [三四条における法と道徳の交錯]
 財、請求権、自由を法、の、形、式、に、従、っ、て、 (rechtsfo¨rmig)配分すべしという法秩序の形式的基本原理の結晶である主観的法は、正確に限定された範囲の内部で、その担い手を、生命と同胞への道、徳、的、に、不当な相互的要求から解放する。この構造と対立するのが、それ自体可罰的な行為を被害者以外の者にとって著しい有用性 (Nutzen)をもたらすが故に正当化する刑法三四条であり、今日の学説は一致してその適用範囲の制限に努めている。
 その手懸りになる要件は、「著しく優越した利益」である。これを計算可能な評価項目の抽象的最大化ーー或いは「現実の社会的侵害の最小化」ーーのための指針として捉えるなら、利益衡量と「相当性条項」とを二分すべきことになる。前者は綜合的衡量の中の大いに欠損のある単なる一、つ、の、段階に過ぎず、社会の財状態を最大化する、法の引いた個人領域の保護の限界を越えた、全く非規範的な得喪計算のための道具となる。通説、特にヤコブスが、三四条一文の利益衡量を「手放しで行われる (freiha¨ndig)有用性の最大化」と捉えるのはこの意味である。この利益衡量と規、範、的、諸基準 (正義、法的平和、自律性、人間の尊厳)は相容れず、後者にとっては「相当性」がより相応しい管轄ということになる。これに対して「利益」概念とその衡量方法を広く捉え、そこで個別事例の事実的、規範的全事情を包括的に考慮するなら、相当性条項は殆ど無用となる。そう考えるロクシンは、衡量が「他の場面でも妥当する法秩序の価値基準に従って」行われるべしと主張するが、通説の立場からは、三四条が (憲法の範囲内で)独自の評価基準、評価手、続、を採用し得るとの反論が可能であり、その綜、合、衡量の第二の検討段階 (相当性)は第一 (手放しで行われる有用性の最大化)の規範的修正のために必要とされる。
 三四条の規定は、道徳的強要を免除するものとして構想されている法的権原を強要の側に押しやり、法と道徳を交錯させる。斯様な社会的正義の問題は、ジョン・ロールズの「正義論」以来、特に功利主義論争の地平で、個々人の利益と権利の間での「交換」(「トレード・オフ」)の許容性を巡って論じられている。以下では、ロールズ以降の学説と三四条の問題との架橋に努めたい。
III [緊急避難の社会的根拠付け]
 前述した三四条の二段階検討説[通説]は、(著しく価値の高い)保全財を侵害財の犠牲の上に救うという利益衡量公式の根拠を、緊急状態において「法、共、同、体、」がより高い価値の維持について「強い利益」を有することに求める。しかし民法九〇三条[物の所有権者の処分権限を定めた規定]によれば、少なくとも個人の物、的、財状態の保全について、「法共同体」は関心を持たない。もし、自らの十万独マルクのポルシェを守るために緊急避難によってボロ車を犠牲にした者が、後にそのポルシェを廃車にする決心をしたとしても、それは法共同体にとっては関心の外にある。自己の一身専属的法益の自由かつ自己答責的な侵害についても同様である。斯様な無関心が緊急状況下に限って正反対に転ずるのは奇妙であろう。加えて、自由主義的社会秩序においては、法共同体にとって有害で「反社会」的な個人的利益のためにも緊急避難が可能である。例、大富豪MMは、モンテカルロに遊興しに行くのに使う二百万独マルクの自家用機に切迫した損壊の危険を防ぐため、飛行場脇に駐輪中の、アルベルト・アインシュタインの自転車を犠牲にした。そのため、アインシュタインは研究所への到着が遅れ、その間に頭の中の着想が霧散してしまった。何の社会的有用性をも持たないMMの行為が正当化されることは疑い得ない。
 他方で三四条は、被害者に社会連帯 (Solidarita¨t)を強制している。これが法、共、同、体、自、ら、の財状態にとって利益をもたらすという説明に対しても種々の反、論、がなされている。法共同体の全財状態において当該「保全財」の占める割合が (生命の場合を除けば)通常は極く僅少であること、緊急避難という現象に関して殆どの同胞が通常は知識、関心を有しないこと、斯様に教義学的で経験の裏付けのない集合的「利益」は三四条の合憲性の根拠とはならないという明らかな感覚、最後に、社会連帯義務の明白な基礎として提示されるのは、具体的に危険に陥った者の財状態であるという観念、がそれである。
 しかし正しくこの最後の観念は (恐らくカントの影響下に)多くの者が斥けている。例えばマイスナーは言う。
 何人も自らに切迫した損害は自ら引き受けるべきものと考えられており、これを無関係の第三者に転嫁することは許されない。人は自らの「現世の苦しみ」を独りで担うべきである (グリュンフート)。この義務は自由な人間像の裏面である。この転嫁禁止から、個、人、間、の関係において、正当化緊急避難が根拠付けられないことが帰結される。
 利益衡量条項を社会的に有用な行為に対して報奨を与える「損害最小化原理」の表れとして捉えるためには、単に全法秩序を援用するだけではなく、斯かる実践哲学的な付、随、的、考慮が必強であろう。
IV [緊急避難の個人的、契約主義的根拠付け]
 右の如き社会的有用性の観点の根底には、次の三つの命題があると思われる。即ち、
 一、利益衡量公式は (専ら)功利主義的基礎を持つ。
 二、それ故これを「個人間」の道徳原理として正、当、化、す、る、こ、と、は、で、き、な、い、。
 三、よって、社会的有用性に着目した損害の最小化という解釈のみが残る。
 しかし、これらは誤解である。著しい優越的利益のためにする他人の権利への侵害を許容する三四条一文の法命題は結、果、主、義、的、 (konsequentialistisch)原理に基くが、これを功利主義的と解する必要はない。ロールズの「正義論」以来功利主義の強力な反対説である、契、約、主、義、的、 (kontraktualistisch)な考え方に立つものと理解することもできるのである。
 ロールズ以降の「新契約主義 (New Contractarianism)」は、行為の個々の原理と社会的基本構造としての制度の正当化のために、契約という形象を援用する。原理と制度は、自由、平等かつ合理的な人々が、一定の公正な手続条件の下で合意するであろう原則として分析的に再構築され得る場合、正当化されるのである。ところでロールズによると、正当な秩序は、主として「基本財 (Grundgu¨ter)」、即ち、単に何等かの具体的な人生計画の実現のための手段としてのみならず、社会内で考えられる凡、て、の、合理的な人生計画の基礎として必要な、自己尊重のための社会的条件となる財 (権利、自由、機会、所得、財産等)を配分する。さて、基本財を何人にとっても根本的なものとして位置付けることから、少なくともこれと密接に関連する利益を他人の社会連帯的保護に委ねるとの考え方が導かれよう。またこのように見れば、社会連帯それ自体が一種の社会的な基本財となろう。もっとも、純個人主義的構想に立つロールズは、「原初状態 (Urzustand)」における仮説的契約当事者が合理的利己主義者 (rationaler Egoisten)であり、「相互的無関心 (gegenseitige Desinteressiertheit)」の状況にあるが故に、社会連帯を基本財から除外するのであるが、これには与し得ない。合理的利己主義者は自らの将来の社会的状態についての「無知の垂絹 (Schleier des Nichtwissens)」の背後におり、公、正、な、立場を強いられるので、社会連帯の合意は専ら合理的に動機付けられた相互的「社会保障政策」と解釈され、基本財に含まれるのである。
 以上のような三四条の解釈には、社会的有用性の観点は含まれていない。保全財の「著しい」優越は、それが法共同体や保全財の主体の財状態の有用性機能を最大化するから正当化をもたらすのではない。(マイスナーに反して)著しい優越が正に自由、平等で、相互に結び付いた国民の「個人間の」交渉 (Umgang)のための道、徳、的、原理を規定上表現したものであり、以下のことを (法的に)強調しているからである。即ち、甲は (相対的に)大きな危険の回避のために、乙の (相対的に)小なる犠牲を、国民を最小限度に拘束する倫理として、要求することができる。その根拠は、斯様に相互的に保障された最小限の社会連帯を乙も享受していることである。このことはまた、「原初状態」という仮説的な契約の場面において、「無知の垂絹」の背後で、合理的な利己主義者乙もーー他の凡ての「契約」当事者の如くーーこの社会連帯を十分な (合理的な)理由を以て拒否し得なかったであろうことからも示される。このように、契約を手懸りにして衡量公式を専ら個人間の道徳原理と見る私見は、三四条一文の任務を社会的有用性の最大化以外のところに求める一つの可、能、性、を示すものである。
V [功利主義と社会的有用性]
 功利主義と雖も「社会的有用性」の観点を必然的に導く訳ではない。現代の功利主義によると、主体を欠く「全体にとっての有用性」は無意味であり、「最大多数の最大幸福」という公式は斥けられる。最大化されるべき「綜合的有用性」は、或る行為による個人の満足と失望の総和と捉えられているのである。指一本の喪失は何人にとっても望ましくないが、有名な若いピアノ演奏家にとってこれは人生計画の崩壊を意味し、そのことは三四条の衡量の中でも独自の意味を有するのである。
 加えて、功利主義は利益交換 (「トレード・オフ」)を個人間の「人格の相、違、」を考慮せずに行っており、異った人格間での有用性配分を、理性的な個、人、が自らの利益について行う保全、移転、処分と同列に論じている、とのロールズによる原理的批判がある。私にとって、明日の更なる苦痛を避けるために今日歯の治療の痛みを引き受けることが賢明 (私の有用性の最大化)であるとしても、そのためにX氏がその痛みを引き受けるべきことにはならない。功利主義は、私とXの間での最善の有用性配分のために、Xの犠牲を道徳的に要求すべきことになってしまう。
 原理的に私はこのロールズの批判が正しいと考える。三四条一文の有用性配分が人格の境界を越えることは、一文の包括的利益衡量や二文の相当性条項からではなく、一文の「著、し、い、」という加重された配分原則からしか説明できない。ところが功利主義の立場なら「単なる」優越で足りる筈なのである。
 従って、三四条一文が行為の「社会的有用性」に報奨を与え、法共同体自らの財状態の保全に資し、「社会的損害最小化原理」を規定しているというのは、結論においても基本にある考え方についても説得力を欠く。むしろ個人間の道徳原理であって、仮説的社会的財経済に基かない、道徳的 (それ故法的)な包括的規範的綜合衡量でなければならず、「相当性」をも包含するのである。
 それでは次に、この規定の具体的な適用について見ておこう。
VI [緊急避難によって複数の利益が侵害される場合の処理]
 バイエルン上級地裁の「屎尿事件」(NJW 1978, 2046)では、緊急避難によって複数の利益が侵害される場合に、衡量されるべき「侵害財」が、別々に侵害される個々の利益の総和から成るのか否かという問題が扱われた。そこでは、価格六万独マルクの屎尿運搬トラックが、運転手の過失によって転倒、損壊の危険を生じたので、運転手は[積荷を減らすために]農民Xの畑に屎尿を散布した。畑の損害 (三〇三条)は僅少で、恐らくは告訴が欠けたため起訴されず、運転手は廃棄物処理法違反 (秩序違反)でのみ有罪とされた。
 デンカーは、この秩序違反が緊急避難によって正当化されるかを問うに際しては、畑の所有権侵害を考慮すべきではないと言う。これに対しては、保、全、の側面で「構成要件関連性」が不要とされ、さらに犯罪構成要件で保護されていない利益も考慮できるのは、侵害の側面でも同様である、との反論が強い。問題は、複数の利益を合算する方法と、その根拠である。
 第一にその方法について、次の例で考えて見よう。機械から有毒な蒸気が噴出した際、そばにいたAが蒸気の中を通って梯子で逃げるなら、Aは十から十二時間の重い頭痛を患う。これを嫌ったAは通気孔を開いて蒸気を排出し、別室の二百人に十分間の軽い頭痛を与えた。もし被害者が一人なら、行為は正当化されよう[十から十二時間の重い頭痛は十分間の軽い頭痛に著しく優越。]。二百人の時は如何。これに関連してC・S・ルイスは言う。
 私と君がそれぞれ強さXの歯痛を患っているとしても、2Xの痛みを感じる者はいない。痛みの総計というものは存在しないのである。
 これを先の例について言えば、侵害を「単純に」合算して一、人、の三十三・三時間[十分×二百]の軽い頭痛を問題にするのではなく、これを二百人に配分して時間を十分間に縮めることになろう。
 これに対してデレク・パーフィットは、ルイスが痛みの担い手を特定するなら、時間も特定すべきことになりはしまいか、と問うて、次の例を挙げる。
 二、つ、の、地、獄、あり。第、一、地、獄、では十人の罪なき者がそれぞれ五十年間耐え難い苦しみを味わう。第、二、地、獄、には一千万人の罪なき者がおり、それぞれが第一地獄と同じ苦しみを味わうが、その期間は一、日、短、い、。
 ルイスに従うならば、第、二、地、獄、での苦痛は第、一、地、獄、におけるより本の少し緩やかであることになるが、これは奇妙な結論である。一、人、の、複数の利益侵害では、「合算」の必要性が明らかであって、例えば被害者に頭痛の他皮膚の爛れ、吐き気等を起こさせる緊急避難行為は、頭痛のみを招くものよりも重大である。そして、一定の状況下では、複数人の一身専属的法益の侵害についても何等かの形で合算を行うのが合理的であろう。他方、緊急状況を新たにするが同一の相手方に対して連続して行われる緊急避難行為が、少なくとも同じ行為者か、先の侵害を知る後行行為者によってなされた場合に、後続する侵害を加重的に評価すべきか。個人間の道徳原理としての緊急避難という考え方は、侵害の側面における斯様な「累積効果 (Ru¨ckfalleffekt)」に親しむと思われる。国民の社会連帯への最小限の義務は、繰返し要求されることによって徐々に縮小されるからである。
 第二に、被害者が複数の場合、何、故、利益侵害を合算すべきなのか。イェルデンは、有用性を最大化するという正当化攻撃的緊急避難の基本思想は、逆もまた真であろう、との理由を提示する。しかしこれが基本思想ではあり得ず、個、人、的、財の救助によって最大化されるべき「綜合的有用性」というものは無意味であることを、私は示そうと努めてきた。複数人の、正確に算術化可能な物的、財産的損害についてすら、綜、合、的、損害は何人も、「法共同体」でさえ、蒙っていないのである。
 従って、単なる合算以、外、の方法が用いられるべきであり、それには五四条が所為複数の場合の併合罪の形成について規定する「加重単一刑主義 (Asperationsprinzip)」が分り易いと思われる。しかし、同条と本稿の問題との間に事、実、的、関連はなく、計算の方式が転用可能というのみである。ここでは問題提起に止めておく。
VII [結  語] (略)
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 緊急避難は、危険の転嫁により権利領域の限界を破る (換言すれば他人の自律性を侵害する)ものであるが、利益衡量によって正当化される。その背景には社会連帯の思想があり、これは差引きすれば法共同体にとってより大なる利益が守られるという社会的有用性から説明されるのが一般であるが、本稿は、原初状態においては合理的利己主義者たる被害者が社会連帯に合意したであろうとの仮説に立って、「社会」連帯を専ら「個人」間の関係において根拠付けようとしたところに特色がある。もっとも、筆者の説くように法共同体が個人の財の維持について無関心と言えるかという疑問は残る。また、筆者は三四条一文の利益衡量条項を非規範的なものと見る通説に反して、相当性をも含む道徳的な包括的衡量と捉えるのであるが、この対立は規範的要素を一文と二文のいずれで処理するかという体系的な位置付けの問題に止まり、緊急避難の根拠付け如何とは直接関連を有しないであろう。さらに、複数の侵害利益を「合算」するとの結論と、緊急避難を個人間の関係から考えることとの結び付きも明らかではないように思われる。
 ともあれ、緊急避難が社会的な観点に基く正当化事由であることは我国においても認められているが、社会連帯の考え方については十分に議論されていない。「著しい」優越という要件の意義にも注意を払いながら、本論文を一つの手懸りとして、議論の進展が望まれる。
(橋田 久) 
 ミュラー・トゥックフェルト
  「環境犯罪の廃止のための論議」
Jens Christian Mu¨ller-Tuckfeld, Traktat fu¨r die Abschaffung des Umweltstrafrecht, in : Vom unmo¨glichen Zustand des Strafrechts, 1995, S. 461-482
〔紹介者はしがき〕
 本論文の著者は、フランクフルト大学の刑法講座の共同研究者とされているのみで、特別な肩書は知られていない。しかし、本文で著者が述べているように、環境刑法をめぐる問題については、この論文以前にもすでに批判的な見解を公表しており、生態学的資本主義や象徴法などに関する論文は本論文の注にも引用されている。
 周知のように、ドイツでは一九八〇年に環境刑法に関連する犯罪類型が一括して刑法典の独立の章に編入され、その後も改正され充実強化される方向が定着している。そして学説も一般にこの立法化を歓迎し、それが環境の刑法的保護に一定の積極的な役割を果たしていると評価されている。本論文でも引用されているが、ティーデマンなどの評価がその代表的なものである (クラウス・ティーデマン・西原 = 宮沢監訳・経済犯罪と経済刑法、一九九〇年成文堂、一九〇頁以下参照)。
 しかし、本論文はドイツにおいても環境刑法のこのような発展方向には批判的な見解も存在することを紹介し、さらにこれらの批判をより徹底した形で展開しようとした点で、注目すべき内容のものとなっている。批判的刑法学は、環境刑法の強力な矛盾のない解釈を追求するのではなく、それが環境保護政策にかえって有害で危険なものであることを批判しなければならないというのである。
 内容的には、法益論の混迷、危険の抽象化、不明確な法概念、行政的従属性、象徴法としての性格などの点が指摘されており、それらはわが国でもある程度指摘されて来た点にかかわるものであるが、より具体的に、環境犯罪が「累積的犯罪」とされることによって日常的な生活環境の汚染と大規模な企業による汚染とが同一視されること、むしろ本命の開発による大規模な汚染が行政による許可の範囲内で刑事責任から免れ、実際に摘発されるのは軽微な違反にとどまること、象徴法としての性格から環境刑法が規範覚醒の手段として利用されることによって、刑法の謙抑性や最終手段性の原理が崩されるおそれがあること、などの指摘には鋭い説得的な指摘が含まれている。
 では環境保護を具体的にどうすべきかという積極的な提言の面ではなお乏しい点に問題を残してはいるが、わが国の環境刑法の立法と解釈を考える際に、一つの批判的な視点として十分に参照されるべき内容をもっているものと思われる。以下は、本論文の要約である。
I 危機的傾向
 環境刑法は機能しているか。一見したところ、それは機能していない。ほとんど誰も、刑法三二四条以下の環境刑法が理論的にも実際的にも危機的状況にあることを真面目に争わないであろう。むしろ、現行の環境刑法の無効性の確認は刑法理論における一つの標語に属する。刑法典二八章の理論的な構成も、その実際的な効果もいずれもが問題である。以下では、くわしい批判はすでにほかでなされているので、中心的で標語的な批判にとどめるが、それは環境刑法の批判のための序章というべきものである。環境刑法が機能していないことではなく、それがいかに機能しているかがわれわれの関心事である。
 最初は、事態は全く違っていた。一九八〇年に刑法典に二八章が導入された頃は、大きな期待があり、立法者は七〇年代始めからの環境保護運動に対応するために正面から処罰の合法化に取り組んだ。立法者は、それまで存在していた特別刑法領域の規定を刑法典に取り込むことによって、これを古典的な法益保護と同一のランキングに高めた。それによって、環境に対する違反の犯罪的性格についての意識を強化し、これまでよりも有効で包括的な制裁を目指したのである。改正案は下院で反対一票、上院では満場一致で可決された。刑法学説も、刑法典に導入された環境犯罪が責任ある立法化の試みであるとして讃歌を送り、それはむしろ遅すぎたとも言われたのである。その後はこの情熱はいくらか冷めつつあるが、しかし立法者はさらにその後も、一九九四年一一月一日に発効した環境犯罪との闘争に関する法律 (2. UKG)で、規制強化の方向を進めている。
A 規範的な問題
 (a) 環境犯罪の法益
 環境犯罪の理論において争われる問題の一つは、法益の問題である。基本的には、種類と色合いで異なる三つの立場が区別される。第一は生態学的 (o¨kozentrisch)な立場であり、それは環境をそれ自体として保護しようとし、それを人間生活の保護の前提としてでなく、かえって人間が自然自体の保護に奉仕すべきものと把握する。これは、社会関係の素朴な自然化を意味するが、この立場はさしあたり刑法理論学の領域には大きな影響を与えていない。現行法は自然の固有権を認めておらず、権利能力ある主体のみが当事者として認められ、利益は個別化されているので、環境といった概念には対応できない。
 これに対立する立場は、人格一元的法理論 (monistisch-personal)であって、これは環境刑法が人間の生活と健康の保護にのみ奉仕するという考え方である。しかし、この立場を徹底すれば環境刑法は固有の刑法として基礎づけられ、たとえば古典的な傷害罪 (二二三条)によって包摂される行為態様に還元されてしまうことになる。そこで Hohmann も、環境の有効な保護を法システムの領域に機能するものとして調和させようとする。しかし、人格一元的な法益規定の枠内で環境刑法がいかなる機能を果たしうるのかは必ずしも明らかではない。環境刑法を古典的な犯罪類型とは別のものとして基礎づけるためには、公共 (Allgemeinheit)の法益と個人的法益との間の媒介関係から出発しなければならない。したがって、人格的法益論も結果的には、支配的な生態学的=人間中心的法益保護論に帰一することになる。通説は、環境法益が独自の公共法益であるとともに、個人的法益の保護をも包含するというのである。
 生態学的な法益規定も人間中心的法益規定も、刑法理論として徹底できないとすると、環境刑法の法益概念をめぐる争いは実際には重要なものとは思われない。環境刑法の機能の法社会学的な考察からは、事実上保護されている法益が人類のための機能を有する環境媒体であることを検討すべきである。
 (b) 抽象的危殆犯 (abstrakte Gefa¨hrdungsdelikte)
 Kuhlen は、危険に満ちた世界では抽象的危険犯の存在は無視しえないとし、刑法学説も無批判的に、何人も侵害せず何人にも具体的な危険をもたらさない行為の処罰を認めることによって、行為と法益侵害との必要な関連を次第に回避するようになってきている。環境刑法は、その他の「新しい」刑法や特別刑法と同様に、具体的な侵害行為ではなく、抽象的な危険行為と社会的な潜在的危険との間の危険関連を問題とする。Kuhlen は、抽象的危険犯に伴う「現実的な危険」をいうが、それは環境刑法の領域では、たとえば小量の水の汚濁と大規模な汚染との間の危険関連のような「累積犯罪」(Kumulationsdelikte)を念頭においたものである。Kuhlen は、社会を「合理的なエゴイスト」の集まりとして構成し、一般予防によって、小さな環境汚染の集積が全環境の汚染につながることを防止しようとするのである。
 支配的な理論に反して、三二四ー三二九条においてはすべてが抽象的危険犯または累積犯罪であり、三三〇条はこれらの犯罪に関連し、三三〇条aのみが具体的危険犯である。
 (c) 水の汚染または不特定多数人への将来の可能な影響の
   累積的な未遂:行為概念の解消例としての三二四条
 三二四条は一見現代の環境刑法の海の中の古典的な島のように思われる。支配的な理論によれば、三二四条は侵害犯罪とされ、Lackner は結果犯が結果の種類において潜在的な危険犯と解される場合だとしている。この混乱は三二四条の法益が生態学的に方向づけられて解釈された結果であって、それによれば全く無意味とはいえない汚染や不利な変更がすべて三二四条の構成要件を満たすことになる。Kuhlen によれば、三二四条は人間中心的な関係を考慮せず水自身を法益主体とする限りでは、抽象的危険犯というよりは単純行為犯であり、事実上の「水違反」(Gewasserfrevel)の禁止を意味する。法益規定が残るとすれば、その蓄積が法益侵害に導きうるさらなる行為のモザイク石としての抽象的な危険行為であるという意味においてである。法益が多少とも明示的に社会的機能の働きを保護する場合として、三三一条以下が公務員の不可買収性に対する信頼の保護を法益とするということがいわれる。しかし、累積犯罪が一回きりでない抽象的に危険な行為寄与をも包含すべきであるとすれば、それは責任原則を侵害し刑法の枠から外れる。Kuhlen が、累積犯罪においても固有の不法があるとして責任原則に反しないとするのは、手品のトリックのように思われる。刑法において必要とされる行為と法益侵害との関係が、三二四条の水違反の構成要件には欠けており、実定法といえどもその欠陥を除去することはできない。新しい理論の探究は現状を合法化しようとする技術にほかならない。
 (d) 不明確な法概念
 環境刑法において、不明確な法概念や白地構成要件が多いという批判が一致してなされている。とくに明らかなのは、三二五条一項一号の「大気の自然な組成」(naturlichen Zusammensetzung der Luft)あるいは三三〇条二項二号の「重要な意味のある地勢の構成部分」(Bestandteil des Naturhaushalts von erheblicher Bedeutung)という文言である。連邦憲法裁判所は、指導的な判旨において、三二七条二項一号の白地構成要件 (連邦インミッション保護法の規定)を不明確とはいえないとしたが、それは従来の判決からしても驚くべきことではない。しかし、問題はほとんど解決されておらず、刑法的な環境保護に固執するならば、不明確な法概念でも行政法的規定への厳格な従属性でも受け入れることになるであろう。
 (e) 因果関係基準の破壊
 行政法との関連によってのみ可罰的不法の正確な記述が可能になるという形で、環境刑法の抽象的危険では個々の具体的な侵害結果が可視的である必要はなく、またたとえば交通犯罪 (三一六条)のような経験的に把握可能な行為と危険性との間の関連も証明可能である必要はない。ここでは行為は保護法益の抽象的危険からさえ隔絶され、この関連は行政法的な因果主張として、経験的に補足できない累積的な共同効果という形でのみあらわされる。このことは、環境犯罪を古典的な結果犯罪 (二二三条)に包摂しようとする場合に明らかとなる。環境刑法の領域でも、問題になる行為と結果との間の因果関係が、日常的経験に関連させて主張されることがあるが、その場合には刑法的手段が表面的には結果志向的なものとして加工され、累積犯罪として構成されることによって、刑法的な因果関係の確定を回避する方向に導かれるのである。
 (f) 行政的従属性
 行政法的に許された行為は刑法的な責任を問われないということが、環境刑法の理論における争いのない共通の立場である。行政的従属性の原則の下では、刑法は必然的に、行政法の準則、技術的な規定等と結合する。すでに問題である行政「法」従属性は、行政「規定」従属性によってさらに深化する。中核刑法の適用領域は、地方の立法者、専門部局および行政裁判所に委ねられる。三二四条においても、一般の行政法規が重要であり、その結果として、行政当局の厳格さの程度、監督官庁や政治的責任者と業者との間の摩擦と癒着、生産や労働現場での非公式な配慮などによって、そのときどきの刑罰構成要件の枠が行政的裁量に依存してしまうことになる。
 B 大きな数と小さい魚:環境犯罪の経験
 警察に登録された環境犯罪の数は、一九七〇年代以来劇的に増加した。それは一九七五年と比較して、一九九〇年には五二一パーセントまで増えた。この増加は警察の姿勢と告発の高まりによって説明される。しかし、有罪判決者の数はそれほど増えていない。経験的な調査によれば、裁判所による手続の打ち切りまたは無罪判決だけでなく、公訴の不提起 (刑訴一七〇II)または軽微性からの打ち切り (一五三、一五三a)が被疑者の増加の抑制をもたらしている。しかも、最終的な制裁を見ても、環境犯罪では軽微犯罪 (Bagatelldelikt)が一般であり、有罪判決の半数が三〇日数罰金以下、全体の三パーセントが自由刑であるが大部分は執行猶予がつき、実刑は〇・七パーセントにとどまる。重い環境危険罪 (三三〇条)の有罪判決においても、六〇パーセントが九〇日数罰金までの刑にとどまっている。
 三二四条以下の環境犯罪の軽微性は、これまでの調査から明らかであり、Meinberg/Link も生態学的に重要でない事例として、家庭のあふれたゴミ穴、すき間のある貯蔵庫、小さな船の水漏れなどをあげている。環境保護のスローガンに犬の糞の放置が例示されるのも決して笑い事ではない。Du¨sseldolf の地区裁判所が三二六条一項一号の例として犬の糞の放置を認めた点からすれば、刑法の ultima-ratio 性や断片性はほとんど考慮されていないのである。
 一方、Tiedemann/Kindha¨user は、あまり説得力のない独特の説明でこれらの事実を環境刑法の失敗ではなく成功だとする。環境刑法は規範意識を高め一般予防の機能として潜在的な可罰行為の威嚇に役立っているというのである。彼らによれば、中および大企業は環境犯罪による訴追をとくに恐れており、統計上の刑事訴追が相対的に稀なのも威嚇が有効に作用しているからだという。しかし、むしろそれらの訴追が稀なのは、第一に、環境汚染の大部分が行政法的に認められ構成要件に該当しないからであり、許可実務が企業の協定に依存し、環境違反に対する検察庁の通知も怠られがちであるという事情による。また第二に、生産の領域における違法な環境汚染は個人の違反よりも確定がより困難であり、有害な原料はしばしば複雑な技術と専門家によってのみ発見可能である。そして、例外的にそれが発見されても、中および大企業の環境汚染における有罪判決の可能性は被告人の社会的地位が高いほど低下し、低い職業グループに責任が及ぼされる傾向にある。
II 反応一:同じまたはそれ以上に
 環境刑法が有効でなく、執行上の欠陥を有することは広く認められている。そこで関係者は可罰性の間隙や執行上の欠陥の除去を目指すことになったが、それは法律の強化と執行の改善に向けられた。
 一九九〇年はじめ以来の改正の動きでは、CDU/CSU/FDP と SPD が一致して、問題のある三二四条をそのまま前提にした上で、さらに大気と地面を汚染から保護する三二四条aの構成要件を新設した。また、三三〇条の法定刑が二倍の一〇年以下となり、過失による水の汚染が三年の刑に、環境汚染の危険のあるゴミ投棄が五年の刑まで引き上げられた。Kinkel によれば、この改正によってドイツは世界で最も重い環境刑法をもつことになった。
 他方、警察は人員も設備も権限も大きくなった。環境保護がその正当化の手段となった。警察の関係部隊、秘密捜査の投入、情報収集、申告システム、予防監視体制などによって、警察は従来の「環境切符」の促進と並んで、環境保護に無関心で否定的な青少年や左翼層に対して、イメージを改善する可能性を追求する。環境保護は、警察の自己演出の新しい有効な手段となっている。
III 反応二:環境刑法の疎開 (Entkernung)
 一方では環境刑法の欠陥に対して、構成要件の拡大や現行法の執行の改善ではなく、刑法の抑制を通じて対応しようとする意見もあらわれた。Hohman の提案は、環境刑法を個人的な法益規定の観点から新しく定義づけようとするものであったが、これは最初に述べたように、困難である。個人的な法益規定を真面目に考慮すれば真正の環境刑法は存在しえず、生命、身体および健康に対する古典的な犯罪の特別な形態が問題になるか、あるいは普遍的な法益と個人的な法益の侵害の間の媒介的関連を受け入れるかのいずれかになるが、それは結局現存の環境刑法に対する原則的な批判の可能性を大きく減殺することになるであろう。
 Frisch の試みも不満足なものである。彼は正当にも環境刑法の無限定性を批判するが、そこで予定されている実質的な犯罪概念の正確な輪郭を明示的に示していない。彼は正当にも、軽率な行為態様といった主観的な構成要件要素によって環境犯罪を分類しようとする改正提案に反対し、同様に一般的な最小条項 (三二六条五項のような)にも反対する。しかし、このような改正提案は、基本的な問題を解決しない。立法者は構成要件の明確な定式化を行うべきだとするのは正当であるが、Frisch の提案もあいまいである。環境刑法を保護法益に結合させ、ultima-ratio 原則に方向づけるという彼の要請も、その命題のもつ不定性の故に、対立する正反対の解決提案に導かれうるのであって、政府提案さえも新しい犯罪化を刑法の ultima-ratio 機能と関連づけているのである。
IV 環境刑法の機能:体系的問題の個人主義化
 Michael Foucault は、「監視と刑罰」の中で、刑務所 (Gefa¨ngnis)の制度に対する批判をその歴史的な成立にさかのぼって行い、刑務所が当局者の大いなる期待にもかかわらず、実際にはそれが刑事司法の敗北の結果であり、正常な発展の歴史というよりは、むしろ失敗と改革の歴史であったことを明らかにした。レトリックを廃して問題に直面するならば、Foucault が刑務所制度についてしたように、失敗が何のために許されるのかという点を問わなければならない。
 この点は、環境刑法の機能に関してもあてはまる。環境刑法の失敗は何のために許されるのか、環境刑法の機能が象徴的な法にあるとする場合にも、それは失敗といえるのかというのが問題の出発点である。
 A 環境刑法の真の法益についての余論
 環境刑法の法益についての上述の論争に今一度立ち帰ると、環境刑法が生態学的な財の絶対的で包括的な保護を目的とするという主張は、規範プログラムとしても二八章の実務においても貫徹することのできないものである。三二四条以下の罪の真の法益は、環境媒体とその保護ではなく、許可の下に環境媒体を汚染することの必要性にある。自然的な生活基盤の再生産を危険ならしめるものは、環境刑法によって可罰的とされている小さな犯罪ではなく、完全に合法的な許可を得た環境汚染である。そこでは行政違反の可罰化、つまり古典的な秩序違反構成要件が問題となっているのに、これを刑法で処理しようとしているのである。Kuhlen は、このような批判に対して、環境汚染への事実上の寄与ではなく、大と小に対する刑法上の異った取扱が必要であるとし、立法者は環境汚染の許容範囲の逸脱を真面目にかつ象徴的なものとしてでなく処罰することを目的とすべきであるとする。しかし、環境汚染への事実上の寄与という形での規範の抽象化は、規範の宛名人に合意を要求するのみで実質的な正義を担うことができない。それは、現状の叙述以上の積極的な正当化根拠を提示しえず、なぜ犬の糞の放置や浄化漕の水もれが可罰的とされ、何千トンもの有害物質の放出が一キロメートルならば合法とされるのかを説明することができないのである。
 B 象徴的法としての環境刑法
 象徴的法 (symbolisches Recht)という概念は、しばしば環境刑法を例として用いられるが、その際、象徴的と象徴的でない法との区別が念頭におかれている。象徴的法は一方では効果のない法、他方では政策の演出としての法を意味し、具体的な手段や作用よりも行為の準備および決意を重視する。積極的一般予防の論者は、さらにあらゆる法の基本的な象徴性を強調する。法は規範違反者の犠牲において侵害された規範の妥当性を獲得する。Hassemer がいうように、法に忠実な生活の象徴的な調和が制度的な刑法適用の背後に存在する。その限りで、批判の基準は明確な機能に対する潜在的な機能の過剰に求められることになる。
 象徴的法としての環境刑法に対する一見批判的なアプローチとして、新しい犯罪化を促進しようとする議論がある。象徴的な刑法の代わりにより多くの刑法をというスローガンがそれである。第二の無批判的なアプローチとして、刑法の正当化をその象徴的な機能に見ようとする議論がある。刑法は自己価値を有し、教育の手段たりうるというのである。そして、この方法において立法者は、環境刑法の刑法典への導入を基礎づけ、それが行為の危険性の評価をより明瞭にするものであるとした。同時に、規範が民衆の意識を強化し実務を促進することになるといわれ、具体的な効果は法による道徳的な喚起機能による法意識の強化によって達成されるべきであるとした。このような教育効果は、刑法適用を背後か前面に押し出すことになる。
 C 環境刑法の隠れたメッセージ
 環境刑法が象徴的であるという点が批判されるべきなのではなく、むしろ問題はそれがいかなるメッセージを伝えるものかという点にある。第一に問題なのは、環境刑法が環境汚染の防止に効果がないということではなく、それが理性的な環境政策を有効に妨げているという点にある。
 ((1)) 環境刑法は環境破壊が個々の行為者の違法な行為によってもたらされることを前提としている。そこでは生産方法の社会的問題が視野の外におかれ、典型的な環境犯罪人たる化学工業の不法なたれ流しも、農民の糞尿処理と全く同様に責任があるとされる。危険社会ではすべての猫が灰色となり、環境保護のための刑法の強化が指向される。第一の誤ったメッセージは、環境のあらゆる不法な汚染に環境の大きな破壊と同様の責任があるとした点にある。第二の誤ったメッセージは、許可された汚染ではなく不法な汚染のみが自然的な生活基盤の再生産過程の崩壊をもたらすとした点にある。そして見せ掛けの環境刑法批判は、この論理を強化し、環境刑法の効果の不足の原因を不十分な規範化、捜査および訴追機関の物的・人的不足に求めた。社会的および政治的な矛盾は個人化され、反道徳的に行為する主体の意識の強化が目指されたのである。
 ((2)) 環境刑法の意味を、SPD の Bachmeier は自然的な生活基盤の保護にあると真面目に考えた。刑法による憤激を具体化するために法の強化と国家の決断が期待された。しかし実際には、化学工場のもっとも危険な生産方法を禁止する代わりに、個々の事故 (Sandoz)に憤激が向けられた。継続的な環境悪化の防止の代わりに、「組織犯罪」と「環境マフィア」との結合がいわれ、新しい捜査方法と刑罰法規の強化が促進された。それによって環境刑法の目的が満たされることになる。したがって、批判的な刑法学の中心的問題は、環境刑法の分野での執行の欠陥ではなく、体系的問題を個人的問題に還元するという手法に向けられるべきである。
V 環境刑法に代わる環境保護 (Umweltschutz)
 法はすべての紛争を無条件に解決するものではなく、自ら設定し得た問題のみを解決し得る。環境刑法の隠れたメッセージが妥当するところでは、環境刑法が多くなればなるほど、環境政策は減少するということになる。
 ここで、環境刑法の廃止または少なくともそのドラスティックな非犯罪化という問題における奇妙な議論の一致が見られる。一方では、非典型的な道徳的企業家が、他方では非典型的な廃止論者 (Abolitionisten)が存在する。教育と力と資金を具えた者は刑事司法の典型的な犠牲者になることは少ない。資本主義的生産関係の批判をあまりしたことのない「Zeit」誌も、木材防腐剤訴訟 (Holzschutzmittelprozess)に関連して、この訴訟の三人の主役はフランクフルト大学で法学を教え、そこの刑法学者の間では産業に友好的なフランクフルト学派が支配していると報じた。しかし、環境犯罪の経験から明らかなように、このような評価は馬鹿げており、その表面的な急進性にもかかわらず問題の重大さが軽視されている。
 環境政策にとって必要な方向づけは、上述した象徴的に有効な環境刑法から急進的に生産過程を把握した一貫した環境政策へと移行しなければならないが、それは支配的な権力状況の消極的な対応によって挫折する。現存の生態学的脅威に当面して「産業友好的」な何かがあるとすれば、それは社会的なコントロール装置としての環境刑法に対する期待であろう。
VI 誤った水車の上の水?
 環境刑法の廃止要請に対する批判について 環境刑法の廃止を要請する主張は、すでに一九八八年の一二回弁護士大会での Albrecht の開会の辞や決議にも示されており、Lackner はこれを小コンメンタールで紹介している。彼は、Floskel に賛成しつつ、有効な環境保護の焦眉の問題が刑法では解決できないとし、それが累積または共働的効果に依拠する限り重い環境汚染を把握するための法治国的な可能性がないためだとした。Horn も環境保護における刑法の役割を過大評価することははできないとし、せいぜい現状 (status quo)を維持するにとどまるとした。しかし、Hohmann も含めて、全体としてこれらの著者は、例示的な論議にとどまり、刑法による環境の保護が、法治国的原則を維持しつつ、いかなる機能を果たすことができるのかという決定的な問題には答えていない。現状の維持は、無内容な正当化にとどまらざるをえない。
 一方、刑法が環境保護の分野で副次的な役割を果たすべきであるとする主張もなされているが、刑法的規制の ultima-ratio 的性格については積極的一般予防論がこれに水を差し、教育的機能の強調が環境刑法の規範的な前面化をもたらすことによって、それは表面上リベラルな隠喩以上のものではなくなるであろう。
 環境刑法に対する批判的刑法家の立場からは、最終的に次のような主張が妥当する。第一に、環境刑法の意識および価値形成的な性格は否定されるべきである。環境刑法の否定は、環境政策的な後退を、つまり反対方向を向いた水車に水を注ぐことを意味しない。Ruther は上記の弁護士大会において、労働グループのかなりの部分が環境刑法に象徴的性格と意味を与えるべきだと考えているとし、捜査手続が企業に一般予防効果をもっているとしてその威嚇的な効果を否定すべきでないとした。しかし、経験的な平面では、立証責任は刑法の存在価値を主張する側にある。現状の意味における意識形成の機能を認めるのであれば、いかなる意識が形成されるのかが問われなければならない。環境刑法による威嚇と規範覚醒は、干渉的で幻想に満ちた環境政策と結びつく刑法中心的な発想にもとづいている。
 したがって、批判的刑法学の課題は、Kuhlen とともに、新しい、より強力な、かつ矛盾のない解釈を追い求めるのではなく、このような解釈を犯罪的で環境政策的に危険なものとして浮き彫りにすることである。
(中山 研一)