立命館法学 一九九六年四号(二四八号)




自己危殆化への関与と
合意による他者危殆化について(三)



塩谷 毅






目    次


  • はじめに ---問題の所在
  • 第一章 ドイツにおける事例状況の整理
     第一節 総  説
     第二節 メーメル河事件とエイズ感染事件
     第三節 道路交通における違法態度事例
     第四節 麻薬事例           (以上二四六号)
  • 第二章 「被害者の承諾論」によるアプローチ
     第一節 ウルリッヒ・ウェーバーの見解
     第二節 ディーター・デリングの見解
     第三節 個人の自己決定の尊重と被害者の承諾による
        犯罪阻却
     第四節 承諾の対象と心理的内容
     第五節 生命・身体法益に対する被害者の承諾
                        (以上二四七号)
  • 第三章 「客観的帰属論」によるアプローチ
     第一節 クラウス・ロクシンの見解 ---「規範の保護目的
        の理論」
     第二節 ハロー・オットーの見解 ---「因果経過制御理論」
     第三節 小  括(以上本号)

  • 第四章 「被害者学的原則」によるアプローチ
     第一節 ラルフ・ペーター・フィートラーの見解
     第二節 小  括
  • 第五章 「被害者の自己答責性原則」によるアプローチ
     第一節 ライナー・ツァツィクの見解
     第二節 ズザンナ・ヴァルターの見解
     第三節 「被害者の自己答責」思想と内容
  • おわりに ---私見の整理と今後の課題


第三章 「客観的帰属論」によるアプローチ

 さて、前章では、「被害者の承諾論」によるアプローチが本稿での問題状況の解決に適していないことを確認した。ドイツにおいては、最近ではむしろ「客観的帰属論」によるアプローチが有力となっている。たとえば、アルフレッド・ゲーベルは、「結果を同意の対象と考えるならば、危険の同意という事例は同意という法制度によって満足に解決され得ないということが確認される」のであり、このような事例群は「一般的帰属論にふさわしいことが確立している」という(1)。また、ズザンナ・ヴァルターも、法益主体の自己答責性に基づく過失的可罰性の阻却の問題に対する学説の展開は、(被害者の承諾などの)「行為不法の問題」から「客観的な結果帰属の問題」へと徐々に移行しているとする(2)。
 本章では、客観的帰属論によって本稿での問題状況の解決を図る代表的な論者として、「規範の保護目的論」ないしは「構成要件の射程論」のクラウス・ロクシンと「因果経過制御 (操縦)論」のハロー・オットーの見解を取り上げる。そして、筆者が重視する「被害者の自己答責性」の観点は、彼らの客観的帰属論においても重要な意味を持つのであるが、それについてのより詳細な考察は、第五章において別に行うことにする。

第一節 クラウス・ロクシンの見解
   ---「規範の保護目的の理論」

 一 ロクシンは本稿での問題状況を「客観的帰属論」の枠内で解決しようとしている。
 彼の帰属論は、次の二つの基本原理によって構成される(3)。
 (a) 行為者態度が行為客体に対して、許された危険に覆われない危険を創出し、この危険が具体的な結果にも実現したという場合にのみ、行為者によって惹起された結果が客観的構成要件に帰属されるのである。
 (b) 結果が行為者によって創出された危険の実現であるならば、通常は帰属可能であり、客観的構成要件は充足される。しかし、例外的に、構成要件の射程がその種類の危険とその作用の阻止をカバーしていない場合には、その帰属は欠落しうる。
 このうち、(a)の原理は、「許されない危険の創出」と「許されない危険の実現」に大別され、それぞれの要件(4)に従って帰属判断が行われる。
 そして、「危険創出」の欠如は不可罰を導くが、「危険実現」の欠如は、構成要件該当的な法益侵害において既遂の欠落のみを意味し、場合によっては未遂処罰があり得るとする(5)。
 二 しかし、彼によれば、本稿での問題状況は、以上のような「危険創出」及び「危険実現」の枠内で解決されるのではない。それは、(b)の原理、つまり「構成要件の射程」、「規範の保護目的」の観点のもとで、結果の帰属が制限されるべきものなのである。
 では、彼にとって「規範の保護目的」による帰属限定はどのような意味を持つのであろうか。
 彼は、ガラスの記念論文集における「過失犯における規範の保護目的について」と題する論稿において、以下のように述べている(6)。
 過失犯において、責任の限定が刑事政策上望ましいが、それを「訴訟上の手段」や「刑の免除」などによって実現しようとするのは望ましくなく、それは「不法の領域で」実現されるべきである(7)。
 そして、彼は「危険創出が問題となる事例」と「行為者によって惹起された危険が法益侵害の中に実現したが、なお過失処罰は行われないその他の事例」を区別し、「規範の保護目的」の観点が責任を限定するのは後者であるとして以下のような例を挙げる。
 「規則適合的に自動車を操縦していた運転手が事故を起こしたのだが、彼は運転免許を持たずに運転していた場合に運転手を過失致死または過失致傷によって処罰することは、その際に違反された (構成要件)規範の保護目的にはふさわしくなく、それゆえ処罰は排除されなければならない」とも言うことができる。しかし、この場合に責任が阻却されることの根拠は、「因果経過の危険が行為者に責任を負わせるべき禁止違反性によって高められなかったということ」及び「規範違反に内在する危険が実現しなかったということ」の中に存在するのであり、もしこの問題を「規範の保護目的」の観点のもとで扱うならば、思想の正確な表現を一般的な定式化によって代替するにすぎないのである、と(8)。
 つまり、そもそも危険創出が問題になるような事例に「規範の保護目的」の観点を働かせるのではなく、あくまで「規範の保護目的」は「許されない危険創出」行為が「結果に実現」したことが認定された上で、「なおその帰属を制限するため」に働く原理なのである。
 そして、本稿での問題状況は「自己危殆化」及び「合意による他者危殆化」に区別され、この「規範の保護目的」の観点の中で論じられているのである。
 三 まず、「自己危殆化」の問題に関するロクシンの見解を概観しよう。
 かつて、彼は、自殺 (意識的自己侵害)への過失的関与が問題となった「警官ピストル事件(9)」にふれ、以下のように述べた。本件において、被告人がピストルの放置によって被害者の自殺の危険を本質的に高めたこと、この結果が彼にとって予見可能であったのは疑いがない。従って彼は過失致死として処罰される可能性があったが、BGHは無罪を言い渡し、それを自殺に対する幇助の不可罰性から根拠づけた。すなわち、判例は「幇助の故意でもって自殺者の死を共同惹起した者は、自殺は犯罪ではないので処罰されない。それ故、単に過失によって自殺者の死にたいする原因を設定した者を処罰することは、正義 (Gerechtigkeit)の根拠から禁止される(10)」としたのである。
 このことから、以下のことが導かれるとする。
 「故意による自殺の実現が不可罰であるならば故意による自己危殆化への関与も不可罰でなければならない」。その理由は、「法益侵害の故意による惹起が、殺人の罪の規範の保護目的に包摂されないなら、結果に関して、通例、過失を根拠づけるにすぎない自己危殆化への関与にあっては、なお一層そうであり得るから(11)」である。
 そして、「オートバイ競争事件(12)」においてBGHがこの理を認めなかったことを批判している。
 彼は、以上のことをまとめて、自己危殆化および自傷の諸事例において「規範の保護目的」思想によって責任が限定される二つの根拠を指摘している。その一つは、自殺共犯の不可罰性から生ずべき論証連鎖であり、もう一つは、たとえば制定法的に要求される救助行為や訴追行為のように、人が損害惹起行為に反対してはならない場合には、結果は誰にも帰属されてはならないという思想である、と(13)。
 四 ロクシンは、以上述べた「自己危殆化」と「合意による他者危殆化」を区別する。「合意による他者危殆化」とは、「自ら危険な行為を行うのではなく、あるいはすでに存在する危険に自ら入り込むのではなく、他人によって迫りくる危険に、その危険を完全に認識して自らをさらすという事案(14)」であるという。
 続けて彼は以下のような例を挙げる。
 他人と軽率なオートバイ競争をなし、自らの不注意で事故を起こした場合と無謀な運転手の荷台に乗って身を任せることは同じではない。前者の場合は被害者の自己危殆化であり、オートバイ競争の相手は不可罰である。しかし、後者の場合には運転手は直ちに不可罰とされるわけではない(15)。
 では、不可罰的な自傷、自己危殆化と被害者の承諾を伴う侵害とを区別すべき理由は何なのだろうか。彼は以下のように述べる。「自らの行為によって危険に陥る者は、どの程度自らの行為によって危険にさらすかを自らの支配下においているのに対し、他人によって危険ならしめられた者は、その危険の展開を自ら制御したり中止したりし得ない(16)」からである。
 では、その「合意による他者危殆化」を彼はどのように扱うべきと考えているのであろうか。彼はこの場合は自己危殆化の場合と異なり、直ちに不可罰とされるわけではないとする。むしろある一定の条件を満たした場合のみが不可罰とされ、原則的に可罰的であると考えているように思われる。
 彼は、「過失犯における被害者の承諾」による犯罪阻却の可能性に対して以下のように述べている。「同意は、過失行為に対しても可能であろうが、ひょっとすれば発生するかもしれないという結果に対して、現実の合意が存在したことの証明は実際上困難である(17)」。ここで、彼が同意の対象は単に「行為」で足りるのではなく、「結果」であることが必要としていることに注意すべきであろう。彼は、その理由を「結果」は構成要件の本質的な構成部分であることに求めている(18)。
 そして、彼は「合意による他者危殆化」が不可罰とされる場合を「自己危殆化との同置テーゼ」によって判断しようとする。「過失責任は、合意による他者危殆化が全ての重要な側面で自己危殆化に同視される場合には否定されるべきである。その際、方針付けを可能ならしめる若干の観点は、危険にさらされた者が、危険ならしめる者と同程度に危険を予測し、損害が引き受けられた危険の結果であり、付加された他の過誤ではなく、危険ならしめられた者が、共同の行為に対して危険ならしめた者と同じ責任を負う場合には、合意による他者危殆化を自己危殆化と同視しうるということである(19)」。
 これを事例に当てはめると次のように言える。「同乗者がスピード違反を迫った場合には、運転手は速度超過から生じた結果に対し責任を負わない。同乗者がスピード違反を甘受しただけの場合には、運転手は結果に対して責任を負う(20)」。つまり、結果を発生させる行為を行ったのが運転手である場合、被害者である同乗者が結果発生及びその前提となる危険の発生に対してどれだけ積極的な役割を演じたといえるのかが、可罰的であるか否かを決するのである。
 なお、ロクシンは「エイズ感染事件(21)」について以下のように述べている。
 本判決は、パートナーの自己危殆化にエイズ感染者は関与しただけなのだという観点のもとでしばしば語られているが、「合意による他者危殆化」が問題となる事案なのである。なぜならば、危殆化はもっぱら感染者によってなされたのであり、パートナーは単にこの危険に身をさらしただけだからである、と。そして、両者が感染の危険を認識し、その行為が共同答責的であるならば、そのような性交は (たとえそれが避妊具を装着しない無防備な性交である場合でも)不可罰である。これに反して、無防備な性交において、感染者がパートナーに自己の感染を隠し通していた場合などは、結果はエイズ感染者に帰属されるべきなのである、と(22)。
 最後に、ロクシンは、「合意による他者危殆化」の事例を「構成要件の射程」の観点で扱うことは以下の利点を持つとする。すなわち、これまでもっぱら過失論において論じられてきた事例が、客観的構成要件への帰属の一般論において整序され、故意の事例に対しても実り多いものとなりうるのである、と(23)。
 五 以上のようなロクシンの見解について、以下の点が指摘できよう。
 まず、「自己危殆化」の問題についていえば、それが不可罰とされる理由を彼は((1))自殺関与の不可罰から導かれる論証連鎖と((2))人がその損害惹起行為に反対してはならない場合には、(その行為の)結果は誰にも帰属されてはならないという思想に求めている。しかし、((1))については、前述したように我が国では自殺関与も可罰的とされているために (刑法二〇二条)、用いることはできない。また、((2))についても、既に見たような「自己危殆化」の諸事例のすべてが、制定法的に要求される救助行為や訴追行為のように「人がその損害惹起行為に反対してはならない場合」であるとは必ずしもいえない。
 また、「合意による他者危殆化」については、「被害者による行為者と同程度の危険の予測」と「損害が引き受けられた危険の結果であって、付加的な他の過誤でないこと」および「被害者が、共働の行為に対して行為者と同じ責任を負うこと」によって他者危殆化を自己危殆化と同視し、その場合にも不可罰という結論を得ることができるとしているが、この点にも疑問がある。自損行為にも比すべき自己危殆化の場合と異なり、他者危殆化においては直接結果発生に導く危険行為を行為者が行うのであるから、その場合における行為者の結果帰属の阻却は単なる危険予測の程度などではなく、より厳格な要件によって不可罰の「他者危殆化の範囲」が語られるべきではないだろうか。

(1) Alfred A. Gebel, Die Einwilligung im Strafrecht als Auspra¨gung des Selbstbestimmungsrechts, 1992, S. 26ff.
(2) Susanne Walther, Eigenverantwortlichkeit und strafrechtliche Zurechnung, 1991, S. 20.
(3) Claus Roxin, Strafrecht, Allgemeiner Teil, Band 1, 2. Au■., S. 299f.
(4) 「許されない危険の創出」の要件としては、「危険減少」や「許された危険」などが、「許されない危険の実現」の要件としては、「適法行為の代置と危険増加論」や「危険実現の欠如」などが挙げられている。Roxin, a. a. O. (3), S. 301ff. なお、山中敬一「『客観的帰属論』へのアプローチ」法学教室一八五号二九頁以下も参照。
(5) Roxin, a. a. O. (3), S. 299.
(6) Claus Roxin, Zum Schutzzweck der Norm bei fahrla¨ssigen Delikten, in Festschrift fu¨r Wilhelm Gallas, 1973, S. 241ff.
(7) Roxin, a. a. O. (6), S. 241.
(8) Roxin, a. a. O. (6), S. 242f.
(9) BGHSt 24, 342ff. 本件は、およそ以下のような事案である。ある警官が彼と親密な関係にある婦人と居酒屋を訪れた。彼女がよく飲酒後気分が憂鬱になり自殺したいなどと言い出すことを知っていたにもかかわらず、その警官は、居酒屋を出た後自動車の運転を始める際に、彼はいつもの習慣に従って自動車のダッシュボードの上に装填された拳銃を置いた。同乗していた婦人は彼が目を離した隙にピストルを手にとって、自殺した。陪審裁判所は、被告人を過失致死と判断していたが、BGHは、自殺者の死を過失的に共働惹起した者は、可罰的ではないとした。
(10) BGHSt 24, 344.
(11) Roxin, a. a. O. (6), S. 246.
(12) BGHSt 7, 112ff. 本決定については、第一章第三節「道路交通における違法態度事例」を参照。
(13) Roxin, a. a. O. (6), S. 249. なお、自己危殆化に関連して、以下のようにも述べている。「被害者が可能な救助を拒んだ場合」にも、過失処罰は考慮されない。ある者が不注意から被害者を負傷させたが、被害者が輸血を宗教上の理由から拒んだ場合、被害者の死を行為者に帰属させてはならない。なぜならば「行為者は被害者が治療を承諾するように彼を強制することはできないし、また、してはならないのであるから、拒否された同意の結果をも行為者が負担する必要はない」からであると。Roxin, a. a. O. (6), S. 248.
(14) Roxin, a. a. O. (6), S. 249ff.
(15) Roxin, a. a. O. (6), S. 250.
(16) Roxin, a. a. O. (6), S. 250.
(17) Roxin, a. a. O. (6), S. 251.
(18) Roxin, a. a. O. (3), S. 461.
(19) Roxin, a. a. O. (6), S. 252.
(20) Roxin, a. a. O. (6), S. 253.
(21) 本判決については、第一章第二節を参照。
(22) Roxin, a. a. O. (3), S. 330.
(23) Roxin, a. a. O. (3), S. 332.
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第二節 ハロー・オットーの見解
   ---「因果経過制御理論」

 一 オットーは、条件関係の確定はなるほど結果帰属の必要条件であるが、それだけでは帰属は十分に論じ尽くされていないという。そして、以下のように続ける。条件関係に加えて、結果回避可能性と結果予見可能性でもってしても、なお主体と結果の間の連関は根拠づけられない。なぜならば、(結果の帰属にとっては)正犯としてのある人の答責領域を他人の答責領域から限界づけることが重要だからである。それ故、事実的な連関 (条件関係)と並んで、規範的な連関が、結果をある人に彼の仕業として帰属するために必要である。この規範的な連関は、彼によれば、「正犯による事象の制御 (操縦)可能性」によって創出される。自己の制御可能性の支配下にある事象に対して (のみ)、彼は答責的なのだ、と(1)。
 彼の帰属論は、この「事象 (もしくは因果経過)の制御可能性」概念を中心にして展開する。彼は「事象の制御可能性」を以下のように説明する。
 制御可能性とは、事象の主体である人格に遡及可能ということである。もっとも、制御が可能な対象は、結果発生に至る事象経過ではありえない。なぜなら、事象経過に対する絶対的な支配というものは存在しないからである。それ故、刑法的な態度規範の対象も、結果の惹起ではなく、結果発生の中で現実化しうる危険の創出または増加なのである(2)。
 もっとも、制御主体の決定基準は、これだけではまだ見つけられていない。さらに、ある一定の危険を創出又は増加させた者が、結果に対して「答責的」であったかが調べられなければならない。答責原則によれば、各人は原則的に自分自身の態度に対してのみ答責的なのであって、他人の態度について答責的であるとはされない。それ故、この原則によって、自己答責的な自己危殆化と第三者による他者危殆化が区別されるべきなのである、と(3)。
 二 そして、「ヘロイン注射判決(4)」に関連して、以下のように述べている。
 事象の制御は、因果経過に他の制御主体、すなわち、他人が介入してきた場合に限界が見いだされる。第二の制御主体が状況を完全に把握し、自由な意思決定に基づいて事象に因果的に介入してきた場合には、たとえそれが第一の原因設定者にとって予見可能であり、あらかじめ計画に入れられていたとしても、第一原因設定者の事象制御、すなわち事象に対する支配はもはや存在しないのである。帰属連関は以下の二つの場合に中断される。一つは、危険を完全に認識して自由答責的に行為した者によって、行為者から事象に対する支配が排除された場合である。もう一つは、危殆化された者が、「行為者によって制御された危険な因果経過の被害者」なのではなく、「自己の自由な決定から、認識していた危険に我が身をさらした者」であったとされる場合である、と(5)。
 三 また、彼は、トレンドレの祝賀論文集において、「自己答責的な自己侵害及び自己危殆化並びに合意による他者侵害及び他者危殆化(6)」と題する論稿を発表し、この「事象の制御可能性」を中心とする彼独自の客観的帰属論でもって、本稿での問題状況を解決しようとしている。
 彼は、まず、侵害状況 (Verletzungssituation)と危殆化状況 (Gefa¨hrdungssituation)は十分明確に区別されていないことを指摘する(7)。「保護されている法益の侵害に向けられた態度として、危険の実現が客観的にも主観的にも常に行為者に帰属されるならば、単に危殆化状況のみが存在するのではなく侵害状況が存在するのである(8)」。
 そして、「この (侵害)状況においては、直接に法益を侵害した行為は法益に対する処分の性格を持つ」のであり、この処分行為についての支配が、「他者侵害だったのかそれとも自己侵害だったのか」を決定する(9)とする。
 四 しかし、危殆化状況においては侵害状況の決定基準と異なって、「侵害が行われる前の時間的に最終の行為」を自己危殆化及び他者危殆化の決定基準 (区別基準)に用いるべきではないという。なぜならば、「もしこの行為に照準を合わせるならば、ただ時間的な結論のみが決定的なものとされ、これに反して事象の不法内容がおろそかにされてしまうことになる」からである(10)。そして、以下の点を指摘する。「関与者は、侵害は発生しないということから出発するので、この区別 (時間的最終行為による自己危殆化と他者危殆化の区別)は偶然なものにとどまるのである。なぜなら、行為者の視点からいえば、後に脅かされる法益に対する信号作用 (Signalwirkung)も処分の性格も、危険実現の前の時間的最終行為にはふさわしくないからである(11)」。軽率なオートバイ競争の場合において、独立したオートバイ運転手としての関与者を自己危殆化への不可罰な関与であると判断し、これに反して、被害者が後部座席へ同乗した場合における運転手を合意による他者危殆化であると判断するならば、「事象の偶然性から (可罰性が)根拠づけられることになる(12)」。そして、「危殆化の視点のもとで、なぜ危険状況を認識して後部座席に乗り込むことを運転より法益侵害に関して意義の少ないものとしなければならないのであろうか?」という疑問を提出し、以下のように結論する。「危殆化自体に関しては、この区別は適切ではない。オートバイ運転手が同乗者の生命に対する支配をもっているとするのは納得できない。両者 (運転手も同乗者も)が事象に対する支配をもっているのである」と(13)。
 では、彼にとって自己危殆化及び他者危殆化は何によって区別されるのか。前述したように、彼は「答責原理」がそれにあたるという。すなわち、当事者が危険状況において、自由答責的であり、危険と自己の決定の射程を完全に認識していたならば、それは常に「自己危殆化」である。エイズ感染事件(14)において、被害者は恋人がエイズに感染していることを知っていたにも関わらず避妊具を装着しない性交を行ったが、たとえ被害者が感染したとしても、そのエイズ感染者である恋人は傷害の責任を負わない。なぜなら、被害者はこの危険を認識しており、自由答責的であったからである。被害者自身にこの結果は帰属されるべきである、と(15)。
 また、彼は「メーメル河事件(16)」に関し、以下のように述べている。「既にメーメル河事件において渡し守の可罰性を判断しなければならなかったときに、ライヒスゲリヒトは、適切にも、自由答責的にかつ意識的に危険の中に入りこんだという問題は自己危殆化とされるべきであると判断した(17)」。彼によれば、ライヒスゲリヒトはこの事件において、自己答責的な意識的自己危殆化の問題性を「帰属の問題」として考え、以下のような自己答責的な自己危殆化の基準を強調したという(18)。
 (一) 完全な危険状況の認識 (他の関与者の優越的な事物知識の不存在)。
 (二) 侵害は犯された危険の現実化であり、付加的な注意義務侵害は存在しないこと。
 (三) 被害者は、自らを危殆化状況の中におくことを法の意味において自由答責的に決断したこと。
 そして、ライヒスゲリヒトは「自律の原則」を首尾一貫させて危険状況に転用したという。「危険状況の成立において、偶然に最初のもしくは最後の行為がここでは決定的な基準となりうるのではなく、むしろ本質的な帰属の基準は、危険を完全に認識して自由答責的に危険を冒したということである。自由答責的に自己が認識した危険を冒した者 (被害者)は、他人がその被害者に対する危険の創出または増加を妨げるべきであるという特別な監督義務をもっていない限り、他人を結果に対する刑法的な非難から免責するのである(19)」と。
 第一節で検討したロクシンが「メーメル河事件」「エイズ感染事件」の双方を「合意による他者危殆化」と位置づけたうえで、「自己危殆化との同置テーゼ」によってそれらを不可罰としたのに対し、オットーはそれを端的に「自己危殆化への関与」事例であるとし、不可罰としたのである。
 五 オットーは、ドイツの判例の状況を分析して、次のように言う。「BGHは、ライヒスゲリヒトによって指し示された、危険を認識して自由答責的に自身に引き受けた者に危険が帰属するという論理を継承しなかった。BGHは、自己答責的な意識的自己危殆化の思想を被害者の同意の範囲においてのみ意義を認め、生命が危険な状況における同意の正当化の効力を刑法二一六条のもとに従属させたのであった。そのことでもって、自律の原則は生命危殆化の領域から排除され、危険の現実化の事例においては、被殺者 (被害者)の寄与を省みることなく、行為者の刑法的責任が根拠づけられたのである(20)」と。
 しかし、一九八四年のヘロイン注射判決(21)によって、この判例の態度に変化が現れたとする。その判決では「意識的に冒された危険が実現した場合には、自己答責的に意欲され実現された自己危殆化は傷害の罪及び殺人の罪の構成要件に該当しない。単にそのような自己危殆化を誘致し、可能にし、あるいは促進した者は、傷害罪もしくは殺人罪で可罰的ではない」とされ、確かにこの指導原理の第二定理の表現は、他者危殆化と自己危殆化の区別を個々の危殆化行為の時間的な順序に従って判断しているという(22)。しかし、「この指導原理は、危険の現実化において、被害者自身によって創出された危険が実現したのかそれとも他人によって創出された危険が実現したのかという思考様式の可能性も開いたのだ(23)」とする。そして、それでもって、ライヒスゲリヒト (がメーメル河事件判決において行った)自律の原則に従った「答責割り当て (の思想)」へ直接に結びつく可能性も同時に開かれたのだとしている(24)。
 六 結局、オットーは以下のように結論する。「被害者が法の意味において自由答責的に、自己の決定の射程を認識して、つまり、危険並びに自己の態度のあり得る結果を認識して行為した場合にのみ、自己答責的な (自己)危殆化を語ることができる。危険状況を創出した他の関与者とは異なって、被害者が結果を不正確に評価しもしくは危険を不正確に評価していたならば、(他人の)優越的な事物知識がその他人の寄与を他者危殆化となし、その結果、危険が実現した場合は、優越的な事物知識を持っているその他人が傷害罪もしくは殺人罪の正犯となるのだ(25)」。
 そして、「自殺者の意思決定に関する自由答責性の確定に対して作り出されてきた原則、すなわち、法的拘束力のある同意に法的な効力を授けるという原則と同様の原則が、ここでは妥当するのである(26)」としている。
 七 さて、以上のようなオットーの見解に対して、ウルリッヒ・ウェーバーは「法益主体 (被害者)が、そもそも法的に責任を免除する効果でもって、危険惹起者 (行為者)に対して、法益の危殆化を許容することができるのかどうかを、オットーは全く考慮していない(27)」と批判している。彼自身は、「被害者による危険の完全に答責的な同意が存在するにもかかわらず、結果に対する管轄を行為者に委ねる法的又は人倫則上の規範が存在しないかを問わなければならない(28)」としている。
 しかし、この点に関しては、被害者は自己の私的領域において、自己決定ないし自律の自由を有していることが出発点とされるべきではないだろうか。むしろ、ウェーバーの見解がこの点の「法的」のみならず「倫理的」な規範との整合性を重視するあまり、「被害者の承諾」の「目的の客観的価値」を重視する傾向を示したことを考えれば、この批判はオットー説に対する致命的な欠点を指摘するものであるとはいえないであろう。
 それよりも、オットー説の問題点は以下の点にあるといえるのではないか。彼は、自己危殆化と他者危殆化との区別基準を「被害者の危険認識の正確さ」に設定している。それは彼にとって、そのまま可罰性の限界も意味している。すなわち、被害者が行為者と同程度正確に危険を認識して自己を危険にさらしたのであれば、他人から因果経過の制御 (操縦)可能性を被害者自身が取り戻したことになり、「自己危殆化」であって不可罰である。一方で、被害者の不正確な危険の認識は、行為者に「優越的な事物知識」すなわち「因果経過の制御可能性」を発生させ、正犯的な可罰性をもたらすのである。しかし、「因果経過の制御可能性」は「被害者の危険認識の正確さ」という主観的な要素によってのみ決定づけるべきなのであろうか。「因果経過の制御可能性」は因果経過に影響を及ぼす客観的な要因も考慮して考えられるべきではないか。この点についての議論の精密化がなお必要であるように思われる。

(1) Harro Otto, Grundkurs Strafrecht Allgemeine Strafrechtslehre, 4 Au■., 1992, S. 60.
(2) Otto, a. a. O. (1), S. 60. なお、オットーは、シュペンデル祝賀論集において、「過失の正犯と共犯」についての考察をおこない、そこでも「過失正犯」に関してほぼ同様のことを述べている。この論文では、ほかに「過失の共同正犯」と「過失の間接正犯」に関しても述べられてお
り、オットーの過失共犯構想が整理されている。Harro Otto, Ta¨terschaft und Teilnahme im Fahrla¨ssigkeitsbereich, in Festschrift fu¨r Gu¨nter Spendel zum 70. Geburtstag, 1992, S. 271ff. 本論文に対する紹介として、松宮孝明「ハロー・オットー『過失の正犯と共犯』」立命館法学一九九四年五号 (二三七号)二〇六頁以下。
(3) Otto, a. a. O. (1), S. 61.
(4) BGHSt 32, 262ff. 本件については、第一章第四節を参照。
(5) Harro Otto, Selbstgefa¨hrdung und Fremdgefa¨hrdung-BGH NJW 1984, 1469-, Jura 1984, S. 536ff, 540., Vgl. Ulrich Weber, Objective Grenzen der Strafbefreienden Einwilligung in Lebens- und Gesundheitsgefa¨hrdungen, in Festschrift fu¨r Ju¨rgen Baumann zum 70. Geburtstag, 1992, S. 49.
(6) Harro Otto, Eigenverantwortliche Selbstscha¨digung und -gefa¨hrdung sowie einversta¨ndliche Fremdscha¨digung und -gefa¨hrdung, in Festschrift fu¨r Herbert Tro¨ndle zum 70. Geburtstag, 1989.
(7) Otto, a. a. O. (6), S. 169.
(8) Otto, a. a. O. (6), S. 169.
(9) Otto, a. a. O. (6), S. 169.
(10) Otto, a. a. O. (6), S. 170.
(11) Otto, a. a. O. (6), S. 170.
(12) Otto, a. a. O. (6), S. 170.
(13) Otto, a. a. O. (6), S. 170.
(14) BayObLG NJW 1990, 131ff. 本件については、第一章第二節を参照。
(15) Otto, a. a. O. (1), S. 61.
(16) RGSt 57, 172ff. 本件については、第一章第二節を参照。
(17) Otto, a. a. O. (6), S. 171.
(18) Otto, a. a. O. (6), S. 171.
(19) Otto, a. a. O. (6), S. 171f.
(20) Otto, a. a. O. (6), S. 173.
(21) BGHSt 32, 262ff. 本件については、第一章第四節を参照。
(22) Otto, a. a. O. (6), S. 174.
(23) Otto, a. a. O. (6), S. 174.
(24) Otto, a. a. O. (6), S. 174.
(25) Otto, a. a. O. (6), S. 174.
(26) Otto, a. a. O. (6), S. 174.
(27) Weber, a. a. O. (5), S. 49.
(28) Weber, a. a. O. (5), S. 49.


第三節 小  括
 一 そもそも「客観的帰属論」とはどのような理論であろうか。それは、本稿で扱う問題状況の解決に適しているのか。
 ドイツにおいて、「客観的帰属論」は、ラレンツの問題提起を受けて、ホーニッヒが一九三〇年にこの理論の基本思想を展開した(1)ところから、この理論の歴史が始まったといわれている(2)。その後、ロクシンがホーニッヒの基礎の上に具体的な判断基準を示し、この理論を発展させた(3)。山中教授は、「このロクシンの客観的帰属論が、現代のドイツにおける客観的帰属論の出発点であり、画期的な意味を持つ」としている(4)。
 客観的帰属論は「ある行為とある結果との間に因果関係があるとわかったとしても、それだけではまだ、その結果をその行為の行為者に帰属させてもよいということにはならず、さらに、その行為によって結果を生じさせる法的に認められない危険が作り出され、この危険が実際に具体的に結果を引き起こすプロセスで実現されたときにはじめて、その結果をその行為の行為者に帰属させてもよいという考え」であるといわれる(5)。しかし、この理論がいかなる諸基準によって構成されるか、どのような問題を帰属の問題とするかなどについては論者によって様々なヴァリエーションがある(6)。すでに見たように(7)、ロクシンは((1))許されない危険の創出((2))許されない危険の実現((3))構成要件の射程によって帰属判断を行い、本稿での問題状況は((3))構成要件の射程の問題であるとする。また、ハフトは、その教科書の中で、以下のような場合に、結果は客観的に帰属可能であるとしている(8)。
 第一に、行為が、結果に対して (条件関係公式の意味において)因果的であり、
 第二に、行為が、当該法益を保護する諸々の構成要件の基礎にある態度規範に違反し、その結果、保護された行為客体に対する法的に許されない危険が生じ、
 第三に、(他のものではない)まさにこの危険が構成要件該当結果として実現した場合。
 そして、ハフトは本稿での問題状況を((3))危険の実現において扱い、「答責原則」に言及する(9)。
 二 しかし、多くの客観的帰属論者がいう「(許されない)危険の創出」と「(許されない)危険の実現」というメルクマールは「客観的帰属論」に固有のものとは必ずしもいえず、それは「相当因果関係説」の考え方の流れを汲むものである(10)。前者は「広義の相当性」あるいは「行為の危険性」にほぼ対応し、後者は「狭義の相当性」あるいは「因果経過の相当性」にほぼ対応する。そして、現実には、「広義の相当性」は「行為時に被害者に特殊事情が存在する場合」の問題として、「狭義の相当性」は「行為後に被害者の行為、第三者の行為又は第二の行為者行為が介在する場合」などの問題として論じられてきた(11)。
 それでは、「相当因果関係説」などの「因果関係論」と「客観的帰属論」との相違点は、どこに求められるのであろうか。たとえば、ハフトはそれを以下のように説明している。
 因果関係論の考察方法による場合は、行為 (原因)から結果 (効果)へと考察が行われる。一方、客観的帰属論の考察方法による場合は、まずは因果関係論と同様に、行為から結果へと考察されるが、その後に、反対に結果から行為へと遡及させて考察する。前者は自然科学的な性質を持っており、後者は規範的な性質を持っている、と(12)。
 しかし、「因果関係論」による場合も、結果発生に影響を与えた条件をすべて等価と見る条件説 (等価説)に依るならばともかく、原因説 (不平等条件説)や相当因果関係説による場合は、いくつかの条件のうちどの条件を「刑法上重要な原因」あるいは「刑法上相当な原因」とするのかの判断自体は規範的な性質を持っている(13)。
 山中教授は、「相当説」が予見可能性概念を中心とする「日常経験上」の形式的・画一的判断という側面のほかに、「客観的可能性」ないし「蓋然性」と「危険」の増加の観点を帰属判断に持ち込むことによって、現在の「一般的生活危険」の思想にまでつながる「危険」概念による帰属論の説明の側面を持っていること、この危険概念をエンギッシュが分析したのだが、その分析が「危険概念が秘める原動力を封じ込めるには適さない形式的な相当説の殻を破る準備をなした」と指摘している(14)。現在の相当因果関係説の危機がいわれる(15)状況の中で、相当説をなお維持するためにさまざまな実質的判断基準が提案されてきているが、それらが「相当説」という名で呼ばれるのがふさわしいかどうかの問題は別として、そのことによって「客観的帰属論」と「相当因果関係説」の限界はわかりにくいものとなっているのも確かであろう。
 三 さて、我が国において、従来「客観的帰属論」はどのような理論であると考えられてきたのであろうか。
 すでに下村教授は、一九七二年にシュミットホイザーの見解(16)を中心にこの理論を考察し、以下のように述べている。この理論の特色は、単なる結果ではなく、行為の危険性を高めた結果、すなわち法益侵害性を基礎に考察される結果のみを重要視する点にある(17)。たとえばシュミットホイザーの客観的帰属論は、一種の危険関係的因果関係論と評しうるものである。彼の客観的帰属論の背景には、彼の目的的行為論的立場から、法益侵害を結果と結びつく無価値判断ではなく、本質的に行為に結びつけられるものであり、侵害結果の発生は常に何か付加的な事柄にすぎず、「当罰性」の見地でのみ意味を持つにすぎないとする行為無価値論的思想がある(18)。また、客観的帰属論が行為の危険性を持ち出して因果関係を論ずることは、結局違法論の先取りであって、行為の理論を違法の理論と別個に構成しようとする限り是認されないものとなるが、そこにいわゆる客観的帰属論の限界があると思う、と(19)。
 また、斉藤教授は、この理論は(西)ドイツではひと頃いわゆる目的的行為論などの登場によって、刑法における行為論ないしは行為概念についていろいろと議論されたが、それはすでに一九五〇年代に一応のピリオドが打たれ、一九六〇年代からは行為論ないしは行為概念について一種の「あきらめ」がでてきて、この行為論の不毛性に対する反動として、特に一九六〇年代の末から七〇年代にかけて注目されているものであるとしている(20)。
 最近では、前田教授が、斉藤教授の論文をふまえて、その教科書の中で、現在主張されている客観的帰属論とは、((1))行為者がたとえ注意義務を守っていたとしても結果が確実に生じた場合には、結果は帰責されないとする違法 (義務違反)連関と呼ばれる理論と((2))注意義務違反行為から結果が生じたとしても、その結果が行為の犯した規範の保護範囲の外にある場合には、帰責を認めないとする保護範囲 (目的)論などの集合体であるとしている(21)。そして、この理論は、相当因果関係説が少数なので過失結果の帰責範囲を他の手段で限定する必要性が存在するドイツで生まれた理論であり、また、行為無価値的な犯罪論、特に新過失論の圧倒的なドイツにおいて有力な議論だという点に注意しなければならないとしている(22)。
 また、曽根教授は以下のようにこの理論の性格を表現した。相当因果関係説は事実的・存在論的性格を維持しているが、客観的帰属論は規範的・価値論的色彩の濃い理論である。また、それは条件関係を前提とした帰責限定理論として、因果関係論の「外部で」問題の解決を図ろうとするところに特色がある(23)、と。
 最後に、山口教授は以下のように述べている。客観的帰属論の基準として用いられているのは、有力な見解によれば「許されない危険の創出」と「構成要件の射程範囲」であり、そのような枠組み自体は十分採用可能である。そして、客観的帰属論の拒絶ではなく、帰属基準自体の実質的検討が要請されているとする(24)。
 「許されない危険の創出と実現」については、「許されない危険」という概念の理解にはかなり問題があるとしながらも、それは「相当因果関係論」の立場から承認されてきたものに他ならないとし、また、「構成要件の射程範囲」については、その内容の詳細は必ずしも確立していないとしながらも、「因果関係の内容も最終的には構成要件解釈の問題であるから」十分な解釈論上の根拠がある限り採用することは可能であるとしている(25)。
 ドイツにおいては既に通説化しているといわれている(26)が、我が国においては「相当因果関係説」が未だ有力であり、現在において用語の上でも「客観的帰属論」を正面から採用している論者は少数にとどまるといってよい。
 四 我が国において客観的帰属論を積極的に採用されるのは山中教授である。教授は客観的帰属の諸基準を「危険創出連関」と「危険実現連関」に二分する。まず「危険創出連関」に関しては以下のように述べている(27)。
 危険創出行為とは「事前的にみて当該行為のある程度抽象的な法益侵害結果に対する危険性を持つ」行為であり、危険創出連関の判断は事前判断であって、これは実行行為性の問題ではない。また、過失犯において、従来「客観的注意義務違反」の問題として論じられた問題は、「危険創出連関の問題」に属する。ここでの帰属の前提としては、((1))認識可能な直接的危険の創出、((2))一般的生活危険の増加、((3))行動規範に違反した許されざる危険創出の三つがある。
 ここでは、特に教授が((3))「行動規範に違反した許されざる危険創出」の特殊な場合として挙げる「危険状況創出行為」の位置づけとその判断が、本稿での問題状況の検討にあたってまず重要性を持つ。教授によれば(28)、「危険状況創出行為」とは、「それ自体が直接の危険を持つわけではないがそれが別の介在事情を誘発し危険な状況を作り出す行為」であり、「ここでは被害者は、この危険の作用領域に入らず、後に介入してくる」。具体的には、いわゆる「管理監督過失」がここで問題になる(29)ほかに、「故意犯への過失的関与」及び「過失行為に対する過失的関与」が問題になる。そしてそれらは「第一の行為者が一定の危険状況を創出した後、第三者又は被害者の故意又は過失が介在して結果の発生に至る(30)」ような事例群である。その中でも特に「過失行為に対する過失的関与」に関して、教授は以下のように述べている。「第一の行為が結果発生に対する直接的危険を持たない限り、理論的にはまず第一の行為の危険創出の有無が問われなければならないであろう。この場合、危険創出の有無の判断は容易ではないことがあり得る。その場合、実際には、危険実現判断によって解決されることになるであろう(31)」。従って、本稿の問題状況の解決においては特に「危険実現連関」の方に着目すべきであることになる。
 五 では「危険実現連関」とは何であろうか。教授は以下のように述べている(32)。
 「創出された危険は、結果に実現されなければならない。この判断は事後的判断であって、判明したすべての事情を基礎にして行われるが、判断基準は因果作用の事実的連関のみならず、規範の保護目的をも考慮した規範的なものである」。そして、従来、過失犯において注意義務を守っていたとしても同じく結果が生じていたであろうという場合に、「過失の因果関係」が否定されるという問題類型は、「危険増加論」という基準を用いて解決されるべきであり、それも危険実現連関の一つの判断基準であるとしている。
 教授は、「行為客体と構成要件的結果に対する危険創出行為から具体的な結果に至る過程のうちの段階としてとらえると、以下の四つに区別されうる」とし、「被害者の意識的自己危殆化行為の介在の場合」を第三類型の「状況的危険類型」に分類する(33)。
 ((1))「直接的危険類型」行為の危険が具体的な結果に対する直接の因果力を持つ場合。
 ((2))「間接的危険類型」行為の危険そのものから派生し、転化した具体的結果の発生に至る未だ十分な因果力を持つ場合。
 ((3))「状況的危険類型」創出された行為の危険は、もはやそれ自体では十分な因果力を持たないが、それに誘発された別の介在事情により具体的結果に導く場合。
 ((4))「残存的危険類型」当初の行為の危険性が未だかすかに残っている段階。
 第三類型の「状況的危険類型」における介入については、何らかの結果促進的事情が外部から加わらなければ創出された当初の行為の危険は結果には至らないので、特に「人の行動の介入」をどう評価するかが重要であるとする。そして、介入行為の「故意・過失」「任意性」「義務性」「被害者の意識的自己危殆化行為」の有無などが規範的評価として帰属連関を中断する意義を含むものかどうかが考慮されるとしている(34)。
 六 「被害者の意識的自己危殆化行為」を行為者の危険創出行為に対して時間的に後の行為として「事象の経過に介入」してくるものとのみ位置づけるのは正確ではない。たとえば、「麻薬の自己使用による過失致死」が問題となった事例などは確かに事象経過への介入であろう。もはや自分の意思では麻薬の自己使用を思いとどまることができないような重度の麻薬常用者に、麻薬を不法に譲渡する行為は、譲り受けた麻薬常用者がそれを服用して彼に健康障害ないしは死亡という結果が発生する危険性の高い行為である。しかし、その被害者に健康障害ないし死亡という結果が生じるためには、彼の手による「麻薬の服用」が不可欠である。麻薬を譲渡することそれ自体からは被害者の死などの結果は生じ得ないが、その行為は「麻薬の服用」「死などの結果発生」を「誘発」するものである。
 しかし、「危険なオートバイ競争による過失致死」が問題となった事案では、被害者の自己危殆化行為と関与者の関与行為は時間的に同時である。それ故、本稿での問題状況は、「行為者行為後の特殊事情の介入事例」としてのみとらえられるようなものではない。
 思うに、ある一定の結果の発生が行為者と被害者による共同惹起であると見なされる場合には、以下のことを考慮すべきであろう。両者が過失的に共同して危険を創出し、あるいは危険を増加させて、刑法規範において否定的評価を加えられる結果を発生させた場合、そのどちらが当該結果の不発生のために行為を思いとどまるべき第一責任者であったのかを問い、被害者において完全な危険の認識とその危険及び結果の意味を理解する能力などを備えていた場合には、結果はまず被害者自身の答責領域に帰属することによって、行為者の可罰性は制限されるべきではないのかということである。人は「答責的」な人格として、事象に関与しうるのであって、これは「被害者」でも同様である。そして、被害者もまた行為者と同様に自己の「法益の維持」のために一定の「注意義務」に従って行動すべきなのであり、むしろ、その法益の「法益主体」であるが故に、当該法益の維持についての第一責任者はまず被害者自身であるべきではないか。被害者が危険を認識していながら危険行為に出るならば、万が一のリスクもまた彼が負担すべきものではないか。しかし、結果が行為者と被害者の過失的な共同惹起であることによって、その「危険の分配」がどのように評価されるべきかは、「刑罰目的」をも勘案して目的合理主義的に決定されなければならない。そのための試みとして、「被害者学」的な思考から問題解決を図る方法と、法的意味における「被害者の自己答責性」という規範的な観点を重視する見解に着目すべきであろう。次章以下において、これらの見解を検討することにする。

(1) Richard Honig, Kausalita¨t und objective Zurechnung, in Festgabe fu¨r Reinhard von Frank, 1930, S. 174ff. この論文の中でホーニッヒは、因果関係としては条件関係が確定されればそれで足りるのであり、その因果判断にその他の独立の判断として客観的帰属に関する判断が加わるのであって、それは法秩序にとっての因果関係の重要性を法秩序自身によって与えられた基準に従って判断するのであるとしている (S. 179ff.)。
(2) 林陽一「刑法における相当因果関係(三)」法学協会雑誌一〇三巻一一号二三頁。
(3) Claus Roxin, Gedanken zur Problematik der Zurechnung im Strafrecht, in Festschrift fu¨r Richard Honig, 1970, S. 133ff. この論文において、ロクシンは客観的帰属の基準を以下の四つに整序した。それは((1))危険減少((2))法的に重要な危険((3))許された危険の超過((4))規範の保護範囲である。
(4) 山中敬一「客観的帰属論の理論史的考察(二)完」関西大学法学論集第四五巻第一号三八頁。
(5) 斉藤誠二「いわゆる客観的な帰属の理論をめぐってーー危険を高める法理と規範の保護目的の理論をも含めてーー」警察研究第四九巻第八号 (一九七八)四頁。
(6) 斉藤誠二・前掲論文(5)六頁。
(7) 第三章第一節「クラウス・ロクシンの見解ーー規範の保護目的の理論」参照。
(8) Fritiof Haft, Strafrecht Allgemeiner Teil, 6 Au■., 1994, S. 63. ハフトは、((1))「因果性」の判断においては、択一的競合、重畳的因果関係、非典型的因果経過、仮定的因果関係、現存する因果経過への介入では条件関係が肯定されるべきであり、因果関係の断絶の場合にはそれが否定されるべきであるとする (S. 63.)。また、((2))の「構成要件上重大な危険 (の創出)では、特に「現存する因果経過への介入」の場合について、ここでは「危険減少」ということがいわれるが、危険を「減少」させることが重要なのではなくて、危険を「増加」させないこと、あるいは新たに危険を「創出」しないことが「危険創出」の欠如を基礎づけるのであるとする (S. 64.)。さらに、((3))の「危険実現」において、「構成要件の基礎に存在する行為規範の保護目的」が考慮される (S. 64.)。
(9) Haft, a. a. O. (8), S. 65. 特に「非典型的因果経過」(行為を受け継いだ他の原因によってはじめて結果が生じるような場合)の事例に関連して、ここでは「答責原則」が考慮され、それは帰属の限界付けに作用するとする。他人の自由かつ完全に答責的な行為においては、結果はその他人にのみ帰属されるべきであって、その背後にいる者に帰属されるべきではない。この「答責原則」による結果帰属の例外は、((1))背後者が保証人的地位にある場合((2))背後者に優越的な事物知識がある場合であって、この場合には例外的に背後者が結果惹起の責任を負わなければならないのであるという (S. 65ff.)。
(10) 山口厚「相当因果関係と客観的帰属」法学教室一七六号 (一九九五)六七頁。
(11) 必ずしもそれらが正確に一致するものではないことを指摘するものとして、山中敬一「刑法における相当因果関係説の批判的考察---相当説から客観的帰属論へ---」関西大学法学論集第四三巻四号八三頁以下。
(12) Haft, a. a. O. (8), S. 59.
(13) たとえば、相当因果関係説を例に取れば、ある先行事実からある後行事実が発生する確率は何パーセントであるという判断は事実的・存在論的な判断であるかもしれないが、何パーセント以下を「刑法上不相当な」因果連関であり、何パーセント以上を「刑法上相当な」因果連関であるとするのかは、刑罰目的をも勘案した規範的な判断といえるだろう。
(14) 山中敬一・前掲論文(4)七二頁。
(15) 井田良「因果関係の『相当性』に関する一試論」『犯罪論の現在と目的的行為論』(一九九五)七九頁参照。
(16) Eberhard Schmidha¨user, Strafrecht Allgemeiner Teil, 1970, S. 182ff.
(17) 下村康正「ドイツ刑法学に於けるいわゆる客観的帰属の理論ーーシュミットホイザーの所説を中心としてーー」法学新報第七九巻第九号四頁。そのことの理由は、行為の結果に対する関係もやはり、単なる関係ではなく、刑罰との関連において考察されなければならないのであって、これこそ目的論的な体型における必然的結果であるからであるとする。
(18) 下村康正・前掲論文(17)五頁。
(19) 下村康正・前掲論文(17)二二頁。
(20) 斉藤誠二・前掲論文(5)四頁以下。
(21) 前田雅英『刑法総論講義 (第二版)』(一九九四)二三六頁。教授は、((1))の違法 (義務違反)連関については、「実行行為としての危険行為を行わなくても同じ結果が生じた場合をどう扱うのかという議論であって、因果関係判断の一部である」とし、ただ現実に問題とされるのは「実行行為を取り去ってもその場合には別個の事情が間違いなく発生するので、当該具体的結果が生ずる」という仮定的因果関係であるとしている。また、((2))の保護範囲論については、そこで問題とされる具体的事例は、そのほとんどが我が国では介在事情が存在するために相当因果関係が欠けるとされる場合であって、介在事情の異常性の吟味、すなわち実行行為と無関係に生じた介在事情の扱いの問題として処理すれば足りるとする。
(22) 前田雅英・前掲書(21)二三六頁。
(23) 曽根威彦「因果関係論の展開」法学教室一八五号 (一九九六)一〇頁。
(24) 山口厚・前掲論文(10)六七頁。
(25) 山口厚・前掲論文(10)六七頁。ここで、教授は「構成要件の射程範囲」の問題に関連して以下のような例を挙げる。救命可能な傷害の被害者が、死に至る危険性を十分に知りつつ、治療を拒絶し、その結果死亡したときは、死の結果の帰属が否定され、傷害行為者は死の結果について刑事責任を負わないとすることができる。なぜなら、現行刑法上、被害者の自由な意思決定に基づく自己加害行為を生じさせることは、自殺関与罪としてのみ可罰的であり、それ以外は不可罰だからである。この意味で、被害者の自由な、十分な認識に基づく意思決定の介入により結果の帰属は否定され、被害者の死亡は傷害致死罪の「構成要件の射程範囲」に含まれていないとすることができる、と。また、教授は、他人の故意行為の介入の事例に関して、「共犯規定の射程との関係で」相当因果関係ないし客観的帰属が限定されるとする余地はあり得るものと思われる、としている (六七頁)。
(26) 井田良・前掲論文(15)七九頁。
(27) 山中敬一「因果関係」浅田和茂ほか『刑法総論』(一九九三)七五頁。
(28) 山中敬一「『危険創出連関』の構想について---客観的帰属論の展開---」関西大学法学論集第四三巻一・二合併号四五九頁。
(29) 山中敬一・前掲論文(28)四六四頁。教授はこれを「狭義の危険状況創出行為」と呼んでいる。
(30) 山中敬一・前掲論文(28)四六五頁。
(31) 山中敬一・前掲論文(28)四六六頁。ここで、教授は以下のような例を挙げる。猟師Aが酒場の隅に立てかけた猟銃に客Bがつまずいて、弾丸が暴発し、他の客Cが死亡した場合、Bの過失行為の介入の通常性、偶然性を考慮して、危険実現の有無を問うことによって、客観的帰属が決定されることになるであろう、と。
(32) 山中敬一・前掲書(27)七六頁。ここでは、危険実現を否定する類型として、以下のものが挙げられている。
 ((1))一般的生活危険ないし偶然的危険の介在する場合。
 ((2))創出された危険の平常化の後に、一般的生活危険ないし偶然的危険が介在する場合。
 ((3))危険創出行為はあったが、行為時に存在する認識不能な危険源が介在した場合。
 ((4))第二次的損害の発生の場合。
 ((5))第三者の責任領域に属する危険が誘発された場合。これには、故意の犯罪ないし他人の重大な過失行為が介在する場合、あるいは他人の職務行為が介在する場合。
 ((6))被害者の意識的自己危殆化行為の介在する場合。
 ((7))行為者の自己の先行行為を否定するような行為の介在する場合。
  そして、教授の挙げる第六類型の「被害者の意識的自己危殆化行為」の例としては、「被害者の輸血の拒否」「御神水を塗った場合」「被害者が自殺した場合」が挙げられている。
(33) 山中敬一「危険実現連関論の理論的基礎---客観的帰属論の展開---」関西大学法学論集第四五巻二・三合併号 (一九九五)三六八頁以下。
(34) 山中敬一・「『客観的帰属論』のアプローチ」法学教室一八五号 (一九九六)三三頁。