立命館法学 一九九六年四号(二四八号)




法的概念としての「損害」の意義 (一)
−ドイツにおける判例の検討を中心に−


若林三奈






目    次




は じ め に

 「損害」とは何か。伝統的な通説によれば「損害とは、法益について被った不利益をいう。これは、もし加害原因がなかったとしたならばあるべき利益状態と、加害がなされた現在の利益状態との差である」。いわゆる差額説であり、「金銭賠償原則をとるわが国においては、財産的損害については差額説によるほかない」とされてきた(1)。つまり、損害とは具体的な損失ではなく、抽象的な差額として存在すると理解されてきたのである。しかしながら、差額説はこのように「損害」の性質を表すのと同時に、「加害前後の利益状態の差」という表現によって賠償すべき損害 (額)を表し得るものと観念されてきた側面がある。とりわけわが国では、差額説はそこに含まれる利益概念が明らかにされないまま、損害賠償法の原則としての実損害の填補 (補償原則)、賠償方法としての金銭賠償原則、算定方式としての個別項目積上方式、因果関係論における相当性判断などと密接に結びつきつつ、賠償すべき損害 (額)をも規定するものとして働いてきた。このような損害賠償構造は、金銭的価値ある (換算可能な)市場経済的利益のみを「相当な」範囲で賠償すべき損害として項目的に積み上げることとなり、とりわけ人身損害賠償の場合においては、被害者の実収入を基礎にした逸失利益を中心とする賠償構造をもたらした。このような賠償構造の下では、慰謝料により若干の調整がなされるものの、被害者が事故当時に得ていた現実の収入 (実収入)の格差がそのまま賠償額に反映され、結果的に被害者の間で「人間の価値」に著しい格差を生じることとなった。このような民事賠償における個人間の不平等という問題は、とりわけ交通事故などの大量損害や公害や災害などの大規模損害において顕在化し、これらの問題を背景に「そもそも人が死傷した場合に生じる損害とは何か」という意味での損害論が人身損害賠償の領域において活発になされるようになったのである。とりわけ一九六〇年代半ば、西原教授によるいわゆる「死傷損害説」の提唱以降(2)、差額説はこの意味において人身損害の局面において度重なる批判にさらされてきた(3)。
 しかしながら、これら人身損害賠償論において展開されてきた「新しい損害論」は、差額説そのものの批判というよりは、むしろ差額説を頂点として構築されてきた前述のような損害賠償構造、とりわけ損害賠償額算定構造への批判であり、それゆえ本質的には実務において差額説と一体のものとして観念されてきた個別損害項目積上方式という損害算定方式の批判、ひいてはその前提にある「実損害の填補」という考え方、つまり補償原則の画一的支配を批判するものであった(4)。すなわちこれらの新しい損害論は、実際には財産的損失 (いわゆる実損)が生じていなくとも、権利や法益への侵害があり法的な不利益が存在する場合には、何らかの形でそれを損害として捉え賠償する余地を認めようと試みるものであり、経済性、経済的価値に傾倒しすぎた損害論およびそれを助長するような算定方式を批判し、人間尊重という規範によって従来の損害論を是正し、被害者を救済、保護していこうとするものであった。しかし、このような算定方法に傾斜した差額説批判とは異なる局面においても、損害とは何かとの問題があらためて問われている。
 例えば欧米諸国では、早くから医師の不妊手術や中絶手術の失敗により子の出生に至った場合 (wrongful birth)、もしくは (子どもに障害があれば中絶することを目的として)医師の出生前診断を受けたが誤診により出生児に障害があった場合 (wrongful life)に生じる、いわゆる「望まれない子による損害」の問題が論じられてきた(5)。これらのケースでは両親 (特に母親)に生ずる財産的・精神的負担が賠償されるべきかどうかが問題となる。例えば、子どもの出生により両親に生じる扶養義務による経済的負担は、差額説によれば子どもが出生に至らなかった場合の利益状態と比較するのであるからこれは当然に「損害」となる。しかしこれを当然の帰結とはせず、さらに一歩進めて、法的な判断、評価を介入させ、例えば人間の尊厳や個人の生の尊重との法理念に照らして、このような両親にとっての不利益は法的に保護されるべきであるのか、つまり「損害」として賠償されるべきか、ということが損害論において検討されている。またドイツでは旅先で身障者のグループとホテルを同じくした夫婦が、これにより不快感を被ったとして旅行代理店を訴え、精神的損害が認容された判決があるが、他方、このような不利益を法的に「損害」と認めることは、ドイツ基本法が第一に掲げる「人間の尊厳」理念と抵触するのではないか、との疑問が呈されている(6)。これらのケースでは、各々の当事者に生じた一般的な「不利益」は、一見すれば損害賠償請求権を発生させるすべての要件を満たしている。にもかかわらず、その上で人間の尊厳といった法的な観点から、「損害」と認めることが妥当か否かとの検討がなされている。つまりここではこれらの不利益の法的な要保護性が、損害論のもとで問われているのである。またこれとは逆に、因果関係のない金銭的損失や不利益が一般的な賠償要件を欠くにもかかわらず損害と認められる場合もある。このような現象はドイツにおいても見られるが、とりわけわが国でも、医療過誤訴訟において医師の行為と患者の生命・健康侵害との因果関係の証明が困難な場合に、延命利益・自己決定権などを保護法益とする特別な「損害」の賠償が慰謝料によって認められる傾向にあることが指摘されている(7)。ここでも損害論は算定論とは異なる次元において問題となっている。
 以上のような事例は、潮見教授の指摘する「社会的事実として生じている (社会学的意味での)『損害』を要件事実 (法律事実)の次元に取り込み、責任規範の評価対象として捉え、具体的賠償額を算定していくというプロセスの中で、評価主体としてどのような観点から社会的事実に意味を付与し、評価を行うのが適切かということを確認するための基礎理論(8)」として「損害」概念を検討する必要性があることを示している。このような視点から損害論を検討することが本稿における第一の課題である。
 このような点からすれば、人身侵害において展開されてきた新しい損害論は、そもそも損害とは何か、という点を問題としつつも、いかんせんそれが損害算定論として展開されてきたことに伴う限界がある。たしかに金銭賠償原則のもとでは、認定された損害がいくらになるのかということが紛争当事者にとって最大の関心事となることは否定できない。またそれゆえに学説・実務の関心が、そこに集中することは当然ではあろう。しかし、まさに社会に生じる様々な不利益の中で、法秩序や法の目的に照らして、どの不利益を法的に賠償対象として「損害」と認定するのか (根拠づけるのか)という問題が、まず最初に存在するはずである (その上で金銭賠償原則にしたがって、その不利益をいかに金銭的に評価するのか、という問題がはじめて生じる(9))。すなわち「損害の発生」は賠償効果を導く上での一要件であり、またそれゆえに法的効果をも左右するがゆえに、損害概念は我々がどのような損害賠償制度を維持、創造すべきか、という法秩序のあり方と深く関連する問題であり、このような問題の解明は、今後の損害賠償のあり方を考える上で重要となる。以上のことからも、損害論を単に効果論・算定論に終始させるのではなく、要件論として明らかにする必要があることを強調したい。
 第二の問題は、このような意味において損害論を検討する場合、不利益を「損害」と判断する規準ないし規範は何かということである。この点についても人身賠償をめぐる新しい損害論によって一定の手がかりが与えられている。例えばこれら新しい損害論が台頭するきっかけとなった「死傷損害説」は、生命身体侵害を一つの非財産的損害とみなし、これに対する適切な損害賠償額を一体として算定しようとするものである。この説において基調となるのは、人間の尊厳や尊重、平等という「人」そのものの保護を原則とする考え方を損害賠償に反映することである。それゆえ人身への侵害行為 (権利侵害)は、同時に損害の発生を意味することとなる(10)。またこれとは異なる「稼働能力喪失説」も、通説的損害賠償構造の中核となる逸失利益たる損害 (項目)を実損害たる所得によってではなく、稼働能力・労働能力によって規範的に把握することによって従来の損害賠償構造のもたらす個人の不平等を是正することを試みるものである(11)。ここでも人間の価値の平等という考え方が前面に出されている。
 この「人間の尊厳」との考え方は、人身損害における損害を考える上で、学説においても実務においても肯定的に受け止められ、さらにここから損害とは何かを考える上で重要となるいくつかの規範が導き出されている。とりわけ、まさにこのような人間の尊厳を侵し、深刻かつ広範な損害をもたらした公害訴訟を背景に主張された包括請求方式においては、損害概念が包括的に把握されるがゆえに必然的に、人身損害を把握する上で指針となるいくつかの規範がより活発に論じられることとなった(12)。とくにここでは損害賠償の目的として、被害者の完全救済や原状回復の理念が強調されてきた(13)。さらに注目すべきは、近時、請求方式として包括請求をとらない学説にあっても「人間の尊厳」との理念を尊重し、その理念を反映しつつ、「原状回復」や「完全賠償」の原則を主張することである。例えば四宮教授は、原状回復ならびにそれと根本を同じくする完全賠償原則を損害賠償法の解釈の指針とし(14)絶対権またはこれに準ずる権利が侵害された場合に、最少限度の損害として客観的損害 (規範的損害)を認める(15)。また潮見教授も、基本的に四宮説を支持しつつ、原状回復理念に立ち生活利益総体の回復を志向している(16)。さらに原状回復理念を承認した上で、その復すべき「原状」をいかに評価するかという点において、「生活保障」というより具体化させた規範を強調する学説もある(17)。
 以上のような議論が生じたのは、そもそも現代社会においては人の価値は市場価格に直接換算できないこと、さらにはわが国の (損害賠償制度を含む)人身損害に対する救済制度が貧困であることを考慮すれば半ば必然であったとも思われる。しかしながら、以上のような規範的な損害の把握の必要性は、人身損害に限ったことではないであろう。すなわち物損や純粋な財産損害においても、様々な不利益の中から賠償対象としての「損害」の枠を決定するための、法的規範は不可欠ではなかろうか。結局、従来の差額説的損害把握も、その問題に、実損害の填補=補償原則、つまり市場経済的価値の賠償という規範によって解答を与える考え方であったといえよう。そしてこのような規範が、人身損害においては耐え難い個人の価値の不平等をもたらしたのであり、その結果右のような規範が主張されるに至ったといえるのではなかろうか。それゆえ本稿の第二の課題は、「損害」概念を根拠づける様々な規範を明らかにすることである。その際、一定の社会的不利益を「損害」として法的に位置づけることからもたらされる法秩序への影響、法的効果をも視野に取り込む必要があり、それゆえ損害賠償の目的や機能をも検討課題におくことが重要となろう。
 ところで近時の損害論の諸論稿においては、損害概念と他の損害賠償法の諸概念との関係が不明確であることが度々指摘され、損害賠償法における一つの課題と認識されている(18)。例えば、損害概念と権利侵害や違法性、因果関係との関係、さらには損害と (被侵害)利益の関係などはなお解明されておらず、このような事態が損害論を一層複雑なものにしていることが指摘されている。このことからもまず損害賠償の要件の一つとして「損害」概念を整理し、この体系の中に整序する必要があろう。
 従来の通説的損害賠償論の枠組みにおいては、実損の賠償という補償原則を第一におきつつも、それを越えて賠償を認める場合に、ある不利益が賠償すべき損害か否かという判断は、例えば、相当因果関係の「相当性」概念において、もしくは「違法性」概念に肩代わりされてきたように思われる。すなわち「相当性」や「違法性」のもとで、賠償規範の目的や政策的判断などの法的規準や被侵害利益の重大性 (時として加害者の態様)に依拠し、賠償対象が決定されてきたように思われるのである。しかし、いかなる不利益を当法秩序において「損害」として賠償対象となすか否か、という問題は、まず賠償要件としての損害概念において語る必要があるのではなかろうか。因果関係と損害概念が歴史的に区別されてきたことや、また因果関係や違法性が問題となるケースを考えても、わが国の損害賠償法における損害概念の法的意義を明らかにすることが必要となろう。
 以上のように損害論の意味を整理し、その分析を行う場合、ドイツ法における学説・判例の展開が示唆に富む。たしかに、損害賠償法の構造の相違や損害論の発展してきた局面(19)などの相違に鑑みれば、ドイツの議論と日本のそれをを単純に比較し、日本法に直接書き写すことに問題が多いのは当然である。しかし、以下の諸点においてドイツ法の検討を行うことには意義があるといえよう。まず第一に、損害論にかかわらず損害賠償法の全体を通して、わが国の解釈理論の発展においてドイツ法理論が多大な影響を及ぼしていること、さらにそもそも「差額説」がドイツ法に由来することである。たしかにわが国のとりわけ新たな損害論において展開される差額説批判とドイツにおけるそれとは、そもそもその前提となる差額説の理解からして異なることが指摘される。しかし、その修正理論の展開の方向性、いわゆる損害賠償を実損害の填補に限らず法的規範を介在させて損害を把握することにより賠償の適正化をはかる、という側面では共通する点がある。第二に重要であるのは、先ほど述べた意味での要件論・基礎理論としての損害論がドイツにおいては早くから議論されてきたということである。したがって、ドイツ法理論の整理を行い、その研究を行うことは、わが国の問題を考える場合にも何らかの示唆を与えてくれるものと思われる。さらに第三に、実際に損害賠償法が現実の社会に果たしている機能という側面においては、日本とドイツの間には賠償構造の相違を越えて共通に論じ得る基盤が一定存在すると思われる。
 本稿では、まずドイツにおける差額説批判の理論的動向を概観し、いわゆる規範的損害論とまとめられる批判論において、差額説がいかなる意味において批判されてきたのかということを明らかにする。その上で、なお差額説が通説的地位を占め、また自然的・事実的損害概念が主張されている点に鑑みて、損害概念における「規範性」とはいかなる意味をもつのか、ということを明らかにしたい (一章)。次に、とりわけ実務において、どのような場合に差額説が損害概念として積極的意義を果たし得ないかということ、つまり差額説によって賠償対象としての「損害」を根拠づけることができないかということを明らかにしたい。ここではとくにドイツ連邦通常裁判所 (BGH)の具体的な判決を通して、そのような場合にいかなる法的規範によって「損害」が根拠づけられ、正当化されているのかということを明らかにする (二章)。最後に以上の判例の動向を整理した上で、いかなる規範が損害概念を根拠づける上で働いているのかということをまとめ、とりわけ損害賠償法の目的や機能との関連から損害を捉えるべきであるとの近時の動向を踏まえ、どのような賠償効果を前提に「損害論」が論じられているのか、ということについて一定の検討を加えたい (三章)。

(1) 於保不二雄『債権総論[新版]』(一九七二年)一三五頁以下。
(2) 西原道雄「生命侵害・傷害における損害賠償額」私法二七号 (一九六五年)一〇七頁以下、を代表とする一連の論稿がある。
(3) 最近の教科書・体系書においては、損害の定義につき、単純に差額説ではなく具体的損失説との対立に言及した上で、一般的には損害とは、「権利侵害や債務不履行によってある人に生じた『不利益』」とし、この「不利益」の内容について差額説的定義を行うか否か検討するものが増えてきている。詳細は、高橋真「損害論」『民法講座別巻1』(一九九〇年)二七一頁以下を参照されたい。
(4) いわゆる死傷損害説にはじまる包括的・抽象的損害概念の主張は、差額説批判として展開してきたが、これらの損害論においては、損害概念と損害算定原理が交錯していることが指摘されている。すなわち、ドイツ法では差額説はその統一的・抽象的損害把握が批判され、より個別的・具体的損害把握が対置されるのに対し、わが国の人身損害賠償論においては、差額説が実務において個別項目算定方式と結びつけられたことにより、より包括的な損害把握がこれに対置されているのであり「ねじれ現象」が生じていることが指摘されている (詳細は、潮見佳男「財産的損害概念についての一考察ーー差額説的損害観の再検討ーー」判タ六八七号 (一九八九年)六頁、高橋・前掲二六三頁以下)。しかし結局は、損害を具体的に把握するのかそれとも包括的に把握するのかという方法の問題ではなく、それによって把握された損害が結果的に損害賠償法の原則や法秩序に鑑みて適切であるか否か、ということが重要であろう。
(5) この点についての詳細は、本稿二章六節において検討をする。なお不妊手術上の過失による場合、アメリカでは従来、出生児の成年までの養育費用につき賠償を認めないのが一般的であったが、最近、医師の損害賠償責任に当該子の養育費も含まれるとした判決が出されている (Burke v. Rivo, 406 Mass. 764, 551 N. E. 2d 1, 1990[丸山英二]アメリカ法 (一九九三年)一四九頁以下参照)。
(6) 「障害者の生きる権利に疑念をさしはさむ者はーーリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー独大統領の演説」関口宏通翻訳「月刊金曜日」(一九九三年)九月二四日号三五頁。一九九二年フレンスブルク裁判所判決。
(7) 松浦以津子「損害論の『新たな』展開」『森島昭夫教授還暦記念論集・不法行為法の現代的課題と展開』(一九九五年)九一頁以下。
(8) 潮見佳男「人身侵害における損害概念と算定原理」民商一〇三巻四・五号 (一九九一年)五一一頁。
(9) 平井教授は、わが国の判例および学説の多くが損害額と損害を同視していることを指摘した上で、評価の対象となる不利益な事実、それに対する保護範囲の評価による賠償相当な損害の画定、さらに金銭賠償原則によって導かれるその金銭的評価という損害評価の過程を明らかにし、とくに損害概念を(a)損害の事実と(b)その金銭的評価、という二つの概念に区分することの必要性を指摘している (平井宣雄『損害賠償法の理論』(一九七一年)一四〇頁、同「『損害』概念の再構成」法協九〇巻一二号 (一九七三年)一五一六頁以下も参照)。
(10) それゆえ、死傷損害説においては、権利侵害と損害の不法行為法における二つの要件は区別されていない。
(11) 稼働能力喪失説は、算定方式としては死傷損害説を唱える西原理論が、従来の個別項目損害方式を批判し、定額化論を主張したのに対し、個別項目損害方式を維持する点で西原理論とは異なる。しかし従来の損害賠償構造では、損害項目の中心となる逸失利益が実収入 (所得喪失説)に依拠していた点を批判し、逸失利益の算定基準を「稼働能力」の喪失に (その意味において規範的に)求めることによって、無職者・主婦・幼児・学生などの無所得者の逸失利益をも抵抗なく認めることを可能とする一方、極端な高額所得者の逸失利益賠償を抑制することによって全体を (結果的に)平均値に近づけるべきことを主張した (例えば楠本安雄『人身損害賠償論』(一九八四年))。
(12) 清水教授は、損害賠償法が基本的には資本制経済の論理の中で生み出され、機能していることに根本的反省を加えつつ、公害問題を契機として、人間の生命と健康の尊重を基本的観点とした損害賠償を築くべきことを示唆する (清水誠「公害問題における損害論の意義」法時一九七二年四月号臨時増刊二頁以下、同「損害論」法時一九七三年二月号臨時増刊二二頁以下)。同様に牛山教授によれば、公害裁判における包括請求において深化された「環境ぐるみの人間破壊の総体」との損害把握が「社会意識の、ひいては裁判官の意識の形成に最も有効である」(牛山積『公害裁判における展開と法理論』(一九七六年)一二七頁以下)。このように公害問題を通して、人間の尊厳の尊重の重要性が再確認され、さらにこれは、例えば「人間としての失われた生活の回復」(澤井裕「新潟水俣病判決の研究(3)」法時四四巻九号七四頁)、「真の権利回復」(清水・前掲「損害論の意義」六頁)、「人身被害者の全人間的復権」(國井和郎「損害論の新しい動向とスモン三判決」判タ三七六号 (一九七九年)四五頁)、「生活権の回復」(牛山積ほか座談会「水俣病問題と裁判」法時一九七三年二月臨増号五四頁[舟場氏発言])などといった規範に具体化されている。
(13) 吉村良一『人身損害賠償の研究』(一九九〇年)一六八頁。
(14) 四宮教授は「第一次の『権利』侵害=侵害損害から派生する後続損害 (後続侵害・総体財産的後続損害)が行為者の故意・過失によって直接カバーされないにもかかわらず、一定の要件の下においてではあるが、行為者に帰責されるのは、わが民法にも、緩和された完全賠償原則ないし完全賠償の精神が働いていることによる」と指摘している (四宮・前掲四七六頁以下)。
(15) 四宮・前掲四四五頁。
(16) 潮見・前掲「損害概念と算定原理(二)」七二六頁。太田教授も包括請求を批判しつつ、原状回復の理念を重視する (太田・前掲二二三頁以下)。
(17) 澤井教授は、公害被害を機軸に「被害者の原状回復をはかる不法行為法の基本的視点から、被害者をして、『健康で文化的な最低限度の生活』を送るに足りる金額・・・を利息として保障する元本相当額を支給すべき」であるとし、この考え方を「あるべき生活状態にもどす」ということを基本とした規範的損害論であるという (澤井・前掲四四巻六号一一八頁)。他方、淡路教授は、死傷損害説を出発点として、同じく原状回復理念から生活保障機能を導き、損害評価を行うべきことを主張する (淡路剛久『不法行為法における権利保障と損害評価』(一九八四年)一一三頁)。
(18) 高橋・前掲二八二頁以下、松浦・前掲一一三頁以下。
(19) 例えば、日本の近時の損害論は、主として人身損害賠償を中心に展開してきたのに対し、ドイツでは物損が中心である。とりわけ、損害賠償法の構造の相違として、完全賠償原則と制限賠償原則の相違も重要である。また日本では、慰謝料が多様な働きをしているのに対し、非財産的損害がドイツにおいてはかなり制限されている (ドイツ民法典二五三条)ことからドイツ特有の議論も多い。




第一章 ドイツにおける「差額説」批判の本質

第一節 BGB立法者の損害概念と伝統的損害論
 ドイツ民法典 (以下BGB)は、一七七四年のプロイセン一般ラント法 (ALR)や一八八一年のオーストリア一般民法典 (ABGB)とは異なり(1)、損害概念について明文上の規定を有していない。BGBには、損害算定につき若干の規定がおかれているだけであり(2)、これが損害概念を探知する上での手がかりとなるにすぎないのである。しかしながら、BGBの起草者の念頭には、一定の明確な損害概念があったとされる。すなわち、ドイツ損害賠償法は、普通法 (Gemeinesrecht)時代の学説にその基礎をおいており、損害概念についても、これに基づく一定の理解が存在していたのである(3)。
 普通法において、賠償すべき損害とは「自然的・事実的損害 (natu¨rlicher-faktischer Schaden)」である。例えば、フィッシャー (Fischer)は次のように損害を定義している。「損害とは権利主体が法益侵害によって被る損失(4)」である。他方、普通法においては、完全賠償原則の帰結として、損害と「利益」は同じ意味におかれている(5)。そして、このような利益概念は、一八五五年に公刊されたモムゼン (Mommsen)の「利益論 (Zur Lehre von dem Interesse)」によって確立されたと一般的に評価されている。モムゼンによれば、「利益」=「損害」とは、「賠償義務ある加害事件後のある者の現在の財産状態と、その事実がなければ存在したであろうその者の財産の額との差額」であり、それゆえモムゼンによって定立されたこの考え方は、「差額説 (Differenztheorie)」と呼ばれる(6)。このようなモムゼンの利益論は、中世ローマ法から一九世紀初頭において展開した分別的利益論を統一的に把握することに積極的意義を有するものであり、これにより主観的利益、とりわけ得べかりし利益をも賠償の対象とし、損害賠償によって保護される範囲の拡大に寄与するものであった(7)。
 しかしながらすでに述べたように、結局BGBにおいては、損害概念の積極的な定義は立法者により意図的に断念され(8)、その解釈は学説に委ねられることとなった。通説は、BGB二四九条一文、すなわち「損害賠償につき義務を負う者は賠償を義務づける事情が生じていなかったならば存在するであろう状態を回復しなければならない」との部分を、モムゼンの「利益論」における差額説を表したものであると理解し、その結果、損害とは「全財産への損害の関連づけであり、損害の発生する個々の法益への関連づけではない。加害事件がなければ被害者がもっていたであろう財産と被害者の現存の財産との比較により生じる差額 (Saldo(9))」であると理解されることとなった。さらにここに差額説と、本来ならば必然的に結びつくものではないが、長い間、不可分なものとしてともに用いられてきた、もう一つの普通法概念であるところの「自然的・事実的損害概念」が現れる。「自然的・事実的損害」とは、自然な考察方法によって、財産的損失と思われる損失であり、通常、経済流通から引き出される評価を担うものとされる(10)。以上のような通説的な理解を簡単にまとめるとするならば、損害とは、((1))自然的・事実的損害であること、そして差額説=モムゼンの利益論との理解から、((2))利益=主体関連的損害の賠償、また算定論に際しての具体的損害算定、((3))全財産損害の賠償=統一的損害概念であり、さらに、これらは完全賠償原則や損害賠償原則における実損害の填補=補償原則と不可分かつ密接に有機的に結合するものといえよう(11)。
 しかしながら、そもそもBGB二四九条は単なる損害の算定方法として差額説的方法を呈示しているにすぎない。それゆえこの差額説的方法における比較の対象、すなわちどのような不利益が賠償対象となるか、ということまでも明らかにするものではない(12)。モムゼンによればこの比較の対象は全財産であり、そのように理解されるのが一般的であるが、このような理解そのものが正しいのか、という疑問を呈する学説もある。すなわち、モムゼンの差額説とは「賠償可能な損害の範囲の探知」と「その損害額の算定」という二種類のことを短い定理として表そうとする (少なくともそのような誤解を伴う)定義であるとされるが、他方、差額説は損害探知のための過程における最終的な結果だけを、直接的に差額としての損害額を呈示することによってそのような二重の意味が含まされたにすぎないとして、そもそもこのようなモムゼンの定義そのものに問題があることが指摘されている(13)。すなわち、差額説は、あたかも損害額を全財産の比較から明らかにするかのような外観をもつが、現実には、この全財産は「潜在的な」比較対象として考慮されるにすぎない。つまり、実際は法的に問題となる (すべき)一定の個別項目のみを抽出し、損害額を算出しているにすぎず、それゆえ全体として見れば損害は個別項目化されているのである。ここにおいてはまさに個人に具体化した様々なマイナス項目 (不利益)のうち、どの項目に法的保護を与えるか、すなわち「損害」として賠償するかという問題が必然的に生じるのであり、このような問題については差額説の定義そのものは積極的な意味をもたないのである。もちろんドイツ法は完全賠償原則を前提としているためこのような問題は生じる余地がないようにも見えるが、これはその前提の問題、すなわち完全に「復すべき原状」とは何か、という問題である。その意味で従来、差額説のもとで損害の範囲を規定してきたのは、自然的損害概念であり、主体関連的損害概念であった。これはすなわち経済的実損害の填補を意味する。
 このことからも明らかなように、差額説自身その定義以上の意味をもって解釈されてきたのであり、またそれゆえに差額説の理解それ自体が論者によって微妙に異なり、必ずしも同一の理解のもとに論じられているのではない。例えば、物の価値 (Sachwert)と利益の関係(14)、また損害算定の基準時などその解釈は論者によって異なる。さらに、モムゼン自身、全財産賠償をたてることにより意図したことは、実は逸失利益の賠償を確保すること、すなわち救済範囲の適性化をめざしていたにすぎないとの指摘があり(15)、その意味においては差額説は現代においては、その積極的な役割を終えた、ともいえる。またモムゼンの利益論に見られるよう「利益=損害」との理解が前提となっているが、この点についての議論も必ずしも一致を見ておらず(16)、この「利益」概念そのものも非常に多義的に用いられており(17)、一層の混乱を生じる原因を担っている。したがって差額説的定義を前提するにしろしないにしろ、「賠償すべき損害」を明らかにするためには、さらなる規範や規準、価値などの解明が必要である。とりわけ従来の差額説的損害概念のもとで実質的に「損害」を規定してきたのが、いわゆる実損の填補を目的とした損害賠償法の「補償」原則にあると推察されることから、そのような差額説が維持し得ない場合の新たな損害概念を考察する上では、損害賠償の目的や機能の考察が不可欠なものとなろう。
 以上のことを整理すれば、BGBの起草者が念頭におき、かつ一般的に理解されてきた伝統的差額説に基づく (財産的)損害概念とは、((1))自然的・事実的損害、((2))主体関連的損害、((3))統一的損害である。またこれに加えて、差額説はモムゼンの利益論を基礎におくことに鑑みても、もっぱら財産的損害のみを念頭においた損害概念であったということにも留意すべきである。しかしながら、このような損害概念は、明文化されるには至らなかったことから、その後も差額説は通説的地位を保ちつつも、様々な角度から批判にさらされることとなった。とりわけ多大な影響を与えたのは、ノイナー (Neuner)による最少損害論を含む客観的損害論である。これは、直接的には、((2))に対抗する考え方である。さらに、このような客観的損害論をベースに個別的損害論が展開される。ここにおいては、いわゆる差額説的な統一的・総体的な損害概念は否定されることになる。これらの批判論は、ランゲ (Lange)のモノグラフィーやホーロッホ (Holoch)による鑑定意見書において、いわゆる「規範的損害論」としてまとめられている(18)。以下においては、これらの学説を((1))客観的損害論 (最少損害論・抽象的損害計算)および((2))個別的損害論の二つの視点から概観した上で (本章二節)、いわゆる「規範的損害論」を検討するにあたって、近時の学説における損害概念の「規範性」および「自然性」に関する見解およびその動向をまとめ (本章三節)、以上を通して、とりわけ損害賠償法全体において、損害賠償要件の一つとして「損害」概念がどのような位置を占め、かつどのような役割を果たしているのかということ、換言すれば損害概念を論じる意義がどこにあるのかということを再確認することとしたい。

(1) ALRおよびABGBにおいては、「損害」概念は統一的な上位概念とみなされ、損害概念に関する明文規定がおかれた。ALRの「損害」の定義は以下の通りである。「損害とは、人の身体、自由、名誉または財産におけるあらゆる悪化である」(6. Tit. § 1)。またABGBの定義は以下の通りである。「損害とは、財産、権利または身体 (Person)において加えられたあらゆる不利益である。それは、事物の通常の経過によっ
て期待しうる逸失利益とは区別される」(一二九三条)。
(2) 損害算定の内容に関する規定 (二四九条)、逸失利益に関する規定 (二五二条)、非財産的損害に関する規定 (二五三条)および人身侵害における賠償範囲に関する規定 (八四二、八四三条)等である。
(3) BGB制定に至るまでの損害論および利益論の背景につき、以下の文献を参照した。北川善太郎「損害賠償論の史的変遷」法学論叢七三巻四号一頁、平井宣雄『損害賠償法の理論』(一九七一年)二四頁以下・三一頁以下、樫見由美子「ドイツにおける損害概念の歴史的展開ーードイツ民法典前史ーー」金沢法学三八巻一・二合併号 (一九九六年)、H. Lange, Schadensersatzung, 2. Au■. (1991) S. 27ff., U. Magnus, Schaden und Ersatz, (1987) S. 9ff., J. Esser/E. Schmidt, Schuldrecht, 7. Au■. (1993) S. 167ff.
(4) H. A. Fischer, Der Schaden nach dem BGB fu¨r das deutsche Recht(1903), S. 1.
(5) 「利益」とは、「物の価値」や「通常の価値」とは区別された意味における主観的な利益である。利益を損害と同列におくことは、次のような二重の意味で近代的な法技術の成立を物語ることが指摘されている。すなわち((1))債権者の主観的な利益もが法的保護を受けることにより、より高次の社会経済生活の進展と対応すること、および((2))現実に被った損害の填補 (いわゆる補償原則)を意味し、損害賠償制度が懲罰的色彩を持った時代よりも進んだ制度として理解される (平井・前掲二六頁)。
(6) モムゼンは、「利益」と客体が取引上与える「物の価値 (Sachwert)」とを区別した上で、「利益」は常に「物の価値」を上回り、そのうち賠償対象となるのは、債権者の財産に対する特別な価値、すなわち利益である、という (F. Mommsen, Zur Lehre von dem Interesse (1855) S. 17)。しかし、この損害はあくまで財産損害であり、不可量的な感情利益は損害から排除されている (北川・前掲「史的変遷」三一頁以下、樫見・前掲二二二頁参照)。
(7) とりわけモムゼンの利益論の主張の眼目は、債権者が現実に被った「積極的損害」のみならず、債務不履行および加害行為がなければ得たであろう「得べかりし利益」をも含む完全な利益を認めることであったことが指摘されている (樫見・前掲二二二頁以下、二三八頁以下)。
(8) つまり、BGBの起草者は、損害概念を確定しなかったことにより、一定の不利益を甘受することにはなったが、「財貨への評価に対する社会的変化を取り入れ、その結果、財貨に対する縮減 (Schma¨lerung)を柔軟に損害と格付けすることを可能」にしたのである (Esser/Schmidt, a. a. O., S. 167.)。
(9) Lange, a. a. O., S. 29.
(10) Magnus, a. a. O., S. 10.
(11) 潮見教授は、差額説と結びつけられた算定原理を((1))損害の事実的把握 (自然的損害)、((2))統一的損害把握 (個々の損害項目の後退)、((3))財産状態の差を金額で表現、((4))原状回復原則ーー完全賠償原則、((5))具体的損害計算 (損害の主体関連性)、((6))債権者利益の原則の六点にまとめている。
(12) BGBは加害行為がなければ存在したであろう仮定的状態と現在の状況を比較すると規定しているにすぎず、その比較の実質的な基盤までをも明らかにしているわけではない。それゆえ、この比較は個別の侵害客体に適用されることもあれば、全財産において適用される場合もあることが指摘されている (B. Keuk, Vermo¨gensschaden und Interesse (1972) S. 16)。さらに、BGB二四九条そのものは、財産的損害と非財産的損害の両方の賠償を含むものとして、一般的に理解されているが、利益論は非財産的利益ーー感情利益ーーについては、そもそも対象とはしておらず、差額説の射程距離の問題もある。
(13) K. Roussos, Schaden und Folgeschaden (1992) S. 170f.
(14) D. Medicus, Der Begriff des Vermo¨gens im bu¨rgerlichen Recht (1976) S. 18ff.
(15) コイク (Keuk)は、モムゼンは価値を定義するに際して、全財産の比較ではなく、とりわけ逸失利益を捉え得る完全な利益賠償を念頭におき、それを現実化することに重点があったにすぎないことを示唆している (Keuk, a. a. O., S. 9ff, 15ff.)。また樫見助教授は、モムゼンが「利益論」によって克服すべきと考えた課題として次の三点を指摘している。((1))損害賠償範囲の画定における裁判官の恣意的判断を排して明確な基準を確立すること、((2))複雑な分別的利益概念に代わる新たな利益概念の創造、((3))得べかりし利益の賠償を一般化させること (樫見・前掲二一七頁)。
(16) モムゼン自身、利益賠償を原則としつつも、例外的に「物の価値」等の賠償を認めており、損害と利益の完全な一致には至っていない、との指摘もある (樫見・前掲二二二頁以下)。
(17) 普通法において賠償すべき損害とは「利益」であるとされるが、この概念は多義的であることが指摘されている。ノイヴァルト (Neuwald)によれば、「利益」は、被侵害客体と財産主体との関係を表す場合と、差額説によって算定された財産の全損害に対する関係として示される場合があり、この両者は同一のものではない (J. Neuwald, Der zivilrechtliche Schadensbegriff und seine Weiterentwicklung in der Rechtsprechung, 1968, S. 10f.)。またランゲも、利益概念とは、一つは、賠償されるのは被侵害法益の客観的価値ではなく賠償権利者にとっての特別な価値が決定的であることの象徴として、二つめに、差額説との関係で財貨状態の比較によって生じる全財産損害として、さらに三つめに、個別の財産財との関係において (まだ)侵害されていない債権者を保護しうる法的に保護された期待としても用いられることを指摘している (Lange, a. a. O., S. 30)。
(18) Lange, a. a. O., S. 36ff., G. Hohloch, Allgemeines Schuldrecht, ■Gutachten und Vorschla¨ge zur des Schuldrecht“, Band I (1981) S. 395ff.



第二節 規範的損害論の台頭

 第一項 客観的損害論---権利追求思想
一 差額説とは、完全賠償原理や損害賠償法における補償原則 (=実損填補)、モムゼンの「利益」論、さらに自然的・事実的損害概念に基づいて損害を把握するものであるから、「賠償すべき損害」とは、個別事件の被害者において実際に生じた具体的損失、すなわち主体関連的な損失となる (主体関連的損害概念)。それゆえ、個別の法主体に実際に生じた具体的損失に関係なく、客観的状況や侵害客体によって客観的・規範的に損害を捉えようとする場合 (客観的損害概念)、差額説は貫徹し得ない。このような二つの対立する損害概念に対応した形で、損害の算定方法も、当該被害者の具体的事情を顧慮し実際に発生した個別の損害項目を調査する方法 (具体的損害計算)と、被害者の具体的事情を捨象して客観的な方法で調査・確定する方法 (抽象的損害計算)とに大別される(1)。むろん、主体関連的損害概念を基礎におく差額説は、具体的損害算定論に馴染むものである。
 通説の差額説に反し、BGB制定以後においても賠償すべき損害を客観的規準によって把握し、抽象的損害計算によって損害を算定することが主張された (客観的損害論)。このような客観的損害論は、歴史的には、差額説とは反する伝統的な「物の価値」に接続する考え方である。ここでは損害は抽象的に算定され、このような抽象的損害計算は、実務上、市場価値を基準として認められてきたように、保護法益の客観的価値という考え方が決定的となる(2)。とりわけ、実損やいわゆる具体的損害が生じていない場合にも、客観的価値=共通価値 (gemeiner Wert)を「最少損害」として認めるべきであるとの主張が展開されることとなった。この場合には、まさに (実損を離れた)損害の把握・算定が正当化されるのであり、この場合には、可視的な自然的損害概念を逸脱することとなる。すなわち、このような客観的価値を最少損害として賠償しうることを正当化する根拠=規範が必要となるのであり、そのような意味からこの考え方は「規範的損害論」と称される。
 このような損害論は、当然、通説から批判されることとなる。そもそも損害の主体関連的把握を前提とする具体的損害計算は、損害賠償法における「不当な利得の禁止」という原則や「補償」原則とも密接に関連するものである。すなわち、賠償対象となる損害は、当事者に実際に惹起された損失を上回ることも、下回ることも許されない。それゆえ、個別事件における当該主体における損失とは無関係に、客観的・抽象的損害算定によって「損害」を導くことは、これらの損害賠償法の基本原則と矛盾した結果を引き起こすこととなり、このような算定論および損害論とは相いれるものではない、と批判されるのである。
二 「客観的損害論」を明確に主張し、かつこれに多大な影響力を与えたのが、ノイナーである(3)。ノイナーによれば、損害とは第一義的には以下のような「財産利益の侵害」にある。すなわち財産利益とは、社会生活において対価をもって取得、処分され得る財であり、また客観的に評価し得る利益である(4)。権利者は、客観的価値よりも主観的価値が高い場合には、それを証明することによって損害の賠償を主張することができる。つまり、客観的損害は、あらゆる場合に賠償されるべき最少損害であるという。ノイナーは、これによって第三者損害の問題、無体財産権侵害の問題、仮定的因果関係の問題を解決することを意図していた。ノイナーは、彼の「客観的損害論」を多くの論拠によって根拠付けているが、とりわけ英米法の名目的損害賠償制度を援用し、損害賠償法における権利追求機能を主張している点が注目される。彼のいう権利追求とは、損害賠償によって、被害者に請求根拠規範において保護される諸権利の価値を保証することであり、そのような機能を損害賠償法において積極的に承認すべきことを主張している(5)。
 むろん、以上のような最少損害論によれば、被害者は、権利侵害があれば、常に、侵害もしくは剥奪された財貨の客観的価値、もしくは最少損害としての客観的価値減少を請求しうることになるのであり(6)、差額説とは全く矛盾するものであるから、このようなノイナーの見解は、多くの批判にさらされることになった。特に損害賠償の権利追求機能に依拠した損害概念の規定は、損害賠償法の構造やそれを基盤とする伝統的な補償原則と矛盾すると批判された。つまり、彼の理論をつきつめれば、BGBは損害賠償請求権の成立要件として、権利侵害に加えて損害の発生をも付加しているにもかかわらず、この両要件を区別する意義が失われることになると、批判されたのである(7)。
 しかしながら、損害賠償請求の権利追求機能は、ヴィルブルク (Wirburg(8))、また後にビドリンスキー (Bydlinski)によっても取り上げられ、双方ともこの考えに基づき客観的損害論に到達している。とりわけビドリンスキーは、保護すべき被侵害権利の範囲によって包括される全ての法益において客観的損害算定が認められるべきであることを主張している(9)。他方、ラレンツ (Larenz)は、損害賠償における権利追求機能については、そのような側面を承認しつつも、権利追求はそもそも損害賠償法における第一義的な目的であるところの補償原則に包摂される概念であるとし、損害賠償法の機能を、主として「補償」におきつつ、差額計算による損害把握の限界を指摘し、最少損害論、客観的損害論を展開している(10)。このように被害者が常に侵害された法益の客観的価値を最少損害として要求し得るという「最少損害」の賠償という考え方は、厳密にいえば差額説に反するにもかかわらず、若干の相違はあるものの、多くの論者の支持を得ることとなった(11)。
 以上のような客観的損害論とは異なる形ではあるが、シュタインドルフ (Steindorff)も、権利追求思想から、以下のような損害論を展開している。シュタインドルフは、無体財産権の保護など、抽象的損害算定を行う判例を引用し、これらの領域では実際に、補償思考や差額説による場合に比して、被害者はより高額な損害賠償を享受していることを指摘した上で、このような法的判断を法益の容易な侵害可能性によって正当化し、権利追求思考との関連から特殊な損害概念を展開している(12)。しかしこのようなシュタインドルフの保護法益の特殊性に鑑みた考え方によっても、彼自身認めているように、最終的な損害賠償請求権の決定については、当該客体の利益の確定のみならず、常により広範な判断が必要となる(13)。
 シュタインドルフは、法益の侵害容易性に基づく特殊な損害であることを根拠とするが、このような特殊な保護法益に限定すべきかどうかはともかく、客観的損害論・最少損害論は、実体化していない (財産的)不利益を、客観的な規準 (=法的判断)によって、客観的・規範的に「損害」として賠償対象と格づけしようとする考え方である。いずれにしても、侵害された権利・法益の客観的価値を最少損害として認めるにあたって権利追求という法規範によって正当化されていることに注目したい(14)。

 第二項 個別的損害論
一 前項のようなノイナーに端を発した客観的損害論は、若干の変容が加えられつつも、統一的損害概念を分別し、例えば、直接損害や間接損害などの下位概念としての損害の適用領域をより詳細に決定しようとの試みと結びつきさらに展開することとなった。このような損害概念の個別化によっても、分別的な利益概念を統一した概念としての差額説的「損害」概念は批判されている。ここでは、このような個別的損害論の展開について検討を行いたい。
二 伝統的損害概念においては、モムゼンの利益論において展開されたように統一的な上位概念としての損害把握が意義をもつ(15)。したがって、賠償対象となるのは、「権利主体に帰属する全財産」である。それゆえに、損害概念を分割し、獲得された下位概念の妥当範囲に対するルールを立てようとする試みは、いわゆる損害の自然的把握やそれに関連づけられた差額説をも原則的に修正することを意味する(16)。しかしながら、そもそもBGB二四九条は差額説を意味すると理解されているが、「差」を求める場合の比較の対象までをも明らかにするものではない。例えば、比較の対象は、賠償権利者の全財産状態であるのか、それとも当該加害事件から把握される具体的な個別の項目であるのか、このことも条文からは不明確なままである。モムゼンの利益論によれば、これは「全財産」であるが、他方で、損害の把握において、個別の損害項目を重視することも可能であり、このような視点から学説が展開されることとなった。以下、このような個別的損害論を概観してみよう(17)。
三 徹底した個別的損害論を展開するのがコイク (Keuk)である。コイクによれば、損害は「財産保有者が現存財産の剥奪および侵害、または将来的な財産構成要素を取得できなかったことによって被る損失」である(18)。コイクは、損害として「価値と評価される財産構成要素の関係」に対応して、「現実の損害」と「算定上の損害」を捉えており(19)、算定上の損害は「個別の現実の損害に基づく計算上の損害の総計」によって明らかになるのであり(20)、まさにこの点を捉えて、コイクの考え方は徹底して分別化された損害論であるとの評価がなされている(21)。
 コイクに先立ち、早くから、メエラー (Mo¨ller)によっても、保険法の体系から、個別的損害論は主張されていた(22)。しかし、メエラーによれば個別損害とは、当該請求から把握される全損害に対する算定方法にすぎなかったのに対し、コイクによれば、個別損害は特別な請求権の基礎となる。このように、とりわけ当該損害を危険全体 (Gesamtrisiko)の算定に関してのみ個別的に分析するのではなく、その都度独自の特別請求権に相応する個別損害に分割する点において、コイクの損害論は通説とは全く本質的に異なることが指摘される。このようなコイクの個別的損害論に対して、ランゲは、とくに大規模な損害事故の場合に、結果的に生じる様々な時効期間を伴った著しい数の特別請求権に対する実用性や、損益相殺におけるその役割を評価するが、「全差額において生じた損失の全てが、一定の財産構成要素における損害として証明され得るとは限らないこと、財産が直接関係する損害もあり、その場合損害は抽象的算定額である(23)」ことを批判的に指摘する。
四 伝統的な差額説によれば、財産的損害は、加害事件の発生前後の二つの財産状態から求められる一つの抽象的な算定上の (差し引き)額であり、その場合には、個別の損害項目はもはや現れる余地はなく、個別的損害項目の具体的な把握は必要のないものと観念されている。しかしラレンツはまさにこの点において差額説は挫折している、という(24)。なぜなら、現在の状態と仮定的なあるべき状態との比較によるだけでは、把握し得ない損害項目があり得るからであり、このような指摘はとりわけ損益相殺の局面において取り上げられてきた(25)。加害事件前後の被害者の財産額の差額によって単純に損害額を決定する場合、当事者に生じた利得はすべて考慮に入れられることとなる。しかし加害事件後にそれと関連して被害者が得た便益には、当該加害事件と「相互に緊密な関係にある (利益)項目」もあれば、それ自体当該事件とは「独立した (利益)項目」もある。ここでは付加的な考慮、法的な判断が不可欠である(26)。一連の「損益相殺」の問題において、この場合に生じる帰責の問題および (相殺するか否かという)評価の問題 (Zu- und Anrechnungsproblem)が取り組まれてきたのであり、これによって差額説の枠組みは修正されてきたとされる。すなわち、モムゼンの利益論においては、利益が差額に限定される以上、損害賠償額を生じせしめる事実から利得が生じた場合にこれを債権者に保持させる理由がないがゆえに、損益相殺の必要性も利益概念の一帰結となる(27)。しかし、損益を相殺する場合に、加害事件後に生じた被害者の財産の変化は、まさに加害事実と関連して生じたものか否かという判断が不可欠となり、場合によっては、被害者において生じた便益 (Vorteil)は、利益とは評価されず、損害と相殺されない場合がある。この場合には、その限りにおいて差額説は修正されることになる。ここではまず第一に、その都度個々の利益に注目し、賠償義務者の財産において当該価値 (利益)がどのような位置を占めているのかを探知することになる(28)。このような個別的損害論の台頭によって、前述した抽象的計算の本来の領域である「物の価値」が、損害概念の中において重要な位置を占めることとなる(29)。
 通説は差額説に立って統一的・抽象的損害把握を原則としつつも、被害者に存在するあらゆる便益を考慮して実際の財産のマイナス差額だけを損害とするのではなく、一定の便益については被害者の利得として賠償額から差し引くことを法的判断の介入によって否定してきた。しかしこの考え方は、モムゼンのあらゆる便益を考慮するという考え方を修正するものであるが、否定するものではないともいわれる。例えば、ホンゼル (Honsell)も、「利益概念を正しく理解すれば、個別的に被害者の主体的な損害に目が向けられる(30)」と説いており、またそれゆえに損害概念自体が「分類」される傾向があるという(31)。これらの被害者における便益・利得をいかに評価するか、すなわち損益相殺の対象について、起草者は未解決のままにしており、その法的処理に関する観点を立てておらず、実定法上解決されていない。シーマン (Schiemann)によればこのような損益相殺における「便益の評価は、次のような入り口の問題に立ち返るだけである。すなわち賠償することがBGBのコンセプトに適合するものであるのか、少なくとも衡平判断による枠組み修正によって担保し得るものであるのか否か、それともそのような賠償はBGB損害法のコンセプトに何らかの補完をして初めて正当化することができるのか、という問題である(32)」。このような考え方によれば、因果関係を満たさない加害事故以前の予備的な投資による財産的損失は損益相殺の対象とはならないとの結論を導くこととなるが、判例ではこのような結論を当然のものとせず、損益相殺するか否かについて「損害賠償の目的」に照らして判断していることは示唆的である(33)。
五 モムゼンの利益論においては、非財産的利益はそもそも念頭におかれておらず、その意味で差額説は財産的損害のみを対象とするものである。しかし、BGB二四九条そのものは、その比較の対象をいわゆる財産的損害に制限しておらず、むしろBGB二四九条は非財産的損害をも対象としていると解するのが通説である。
 シュトル (Stoll)によれば、原則的に、当該損害の発生によって惹起される結果は、その結果の総体において、損害法上把握しなければならない (総体的・包括的評価の原則(34))。この総体的評価の原則にしたがって、当該加害によって当事者は、どの程度負担を被っているのか、ということを判断し、とりわけそのような加害によるマイナスの作用 (不利益)と並んで、プラスの作用 (利益)も考慮しなければならない、との一般原則が述べられる。しかし、これらの損益に財産的性質と非財産的性質が混在している場合、「損害」はいかにして明らかにしうるのであろうか。ここでは法的な評価が不可欠となるが (それゆえ差額説は貫徹し得ない)、それはまた可量的損害ではないがゆえに困難をも伴うものである。このような問題は、例えば、本稿の冒頭において述べた「望まなかった子どもの出生による扶養負担」の事例において先鋭化する。近代法秩序は、自己決定、家族計画などの人格的利益を保護し、さらに避妊・不妊の処置、ならびに一定の制限のもとに中絶をも適法な処置として許容する。他方、子は出生とともに法秩序の完全な保護を享受し、その生命の価値の有無についてはもはや問題とはならない (すべきではない)。それゆえ子どもを望んでいなかった両親においては、法的な強制ゆえに (この子どもの存在は当法秩序により完全に承認されるにもかかわらず)子どもの出生 (存在)は負担に感じられかつ甘受しなければならない、という事態が生じるのである。このようないわば異質な下位概念としての損害要素が相互不可分に結合するという意味においての「複合的損害」は、この事例にとどまるものではない(35)。
 いずれにしても、このようなケースに際しての責任法上の問題の核心は帰責問題にあるのではなく、内的矛盾を包含する当該損害事実の損害法における把握と評価にあることをシュトルは強調している(36)。それゆえに、このような事例においては、個別的損害要素として、当該両親の扶養負担が財産的損害として補償されることによって当該損害算定の困難を回避し得ることになる。しかし、この扶養経費の出費による財産的損害要因だけが着目されるだけではない。最終的には、あらゆる状況 (当事者の家族計画、資産、侵害の持続性、家族構成など)が考慮され、(したがって衡量不可能な損害構成の要素をも含めて)損害は総体的な観点から評価されることになる(37)。

 第三項 まとめ---規範的損害論
 損害概念を分割し、それによって得られた下位概念の妥当領域に関するルールを立てる試みは、自然的損害把握およびそれと関連づけられてきた差額説をも原則的に修正することになる。このような修正によって「『自然的損害把握』とそれと同時に現れた差額説に対して、より一層『規範的損害概念』が対置されることとなり、規範的損害概念ついていえば、かつて損害論を支配してきた差額説は、いずれにせよ、損害計算の複数の可能性の一つに過ぎない(38)」こととなる。とりわけ、コイクの体系においては、もはや差額説や自然的損害概念の入り込む余地は全くといってよいほどない。しかし、ホーロッホは、以上のような、とりわけノイナーの客観的損害論以降展開された一連の規範的損害論と評される展開を、以下のようにまとめている(39)。「学説はコイクのような変革を目指してきたわけではなく」、これら規範的損害論による学説は、とりわけ「損害概念を区分し、そして下位概念ならびに下位類型の妥当領域に関するルールを立てること」を試みていたにすぎない。規範的損害論者のいうところの「規範的」とは、「損害概念とは法的な影響を受け、または形成されるものである。それゆえに『規範的損害』とは、第一義的には様々に取り扱い得る内容空虚な定式である」。
 たしかに、このような「規範的損害論」は、判例においても直接この言葉を用いて展開されることがあるが、この言葉に含まれる意味は必ずしも一律のものではない。またブロックス (Brox)によれば、規範的損害とは、「(加害前後の)双方の財産状態の比較において算定上、不利益が生じていないにもかかわらず、判断された考慮に基づいて財産損害が承認される」ことであると説明され、人身損害における継続的賃金支払い事例が例示されている(40)。他方、例えばノイナーの客観的損害論における「規範性」は、「損益相殺問題を『当然のこと』としてではなく、意識的判断として、つまり規範的に決定する」という点において規範的損害論であるにすぎず、コイクによって展開された個別的損害論ともかなり異なるものであることが指摘されている(41)。このように、差額説は以上のような一連の批判を浴びつつもなお、通説としての地位を退いていない。つまり「『自然的損害把握』および損害の発生を常とする差額説は今後も中核に位置し、例外的な状況を除けば、この領域を支配する」ものなのである(42)。
 しかしながら、近時なお損害概念を語るにおいて、自然的損害か規範的損害か、という問題が立てられることがある。次節においては、近時の学説における損害概念の「自然性」と「規範性」とは、どのような意味において論じられているのかということを整理してみたい。

(1) 北川善太郎『注釈民法(10)』四一六条、五七一頁。
(2) 北川・前掲『注民』五七七頁。
(3) R. Neuner, Interesse und Vermo¨gensschaden, AcP 133 (1931) S. 277ff. ノイナーの客観的損害論以前に、ヴァルスマン (Walsmann)とエルトマン (Oertmann)が、損益相殺の場合に、抽象的損害算定が支配的であることを指摘し、原状回復原則に依拠しつつ、財産的損害を「権利主体の財産における財産項目の剥奪もしくは侵害、もしくは彼の人格侵害において生じた損失そのもの」であると定義していた。しかし、彼らのいう損害とは全財産であるのか、それとも個別的損害であるのか、また損害は客観的に算定されるのか、それとも主体関連的 (個別・具体的)になされるのか、ということは明らかではない (Lange, a. a. o., S. 31)。
(4) Neuner, a. a. O., S. 290.
(5) Neuner, a. a. O., S. 290ff.
(6) K. Larenz, Schuldrecht, 12 Au■. (1979) S. 396.
(7) Lange, a. a. O., S. 31. またランゲは、この一般的な商品価値としての客観的価値把握は、我々の経済システムにおける段階の多様性によってすでに挫折したものと見ており (Lange, a. a. O., S. 41)、さらにノイナーの「客観的価値」論によれば、身体損害は主体関連的に決定されるがゆえに、結果的に人身損害よりも物的損害を優遇することになると懸念している (Lange, a. a. O., S. 250)。
(8) ヴィルブルクの視点は、被害者が被侵害法益の客観的価値のみを主張する場合排除すべき損益相殺の問題にある (W. Wirburg, Zur Lehre von der Vorteilungsausgleich, JhJB. 82 (1932) S. 51ff.)。
(9) Lange, a. a. O., S. 32.
(10) Larenz, a. a. O., S. 349ff.
(11) 例えば、H. Niederla¨nder, Schadensersatz bei Aufwendungen des Gescha¨digten vor dem Schdensereignis, JZ 1960, S. 617, A. Zeuner, Schadensbegriff und Ersatz des Vermo¨gensschadens, AcP 163 (1964) S. 380ff. など。
(12) E. Steindorff, Abstrakte und konkrete Schadensberechnung, AcP 158 (1959/60) S. 431ff.
(13) Steindorff, a. a. O., S. 453.
(14) ノイナーにおける権利追求が、権利者のあらゆる物権的地位および債権的請求権の法による保障にあり、被害者に視点があるのに対し、シュタインドルフの権利追求は、法的地位を侵害した加害者への責任追及を目的とし、加害者に視点があるとの指摘がある (H. Meretens, Begriff des Vermo¨gensschadens im bu¨rgerlichen Recht (1967) S. 79)。
(15) 北川・前掲「史的変遷」三四頁。
(16) Lange, a. a. O., S. 36.
(17) 以上のような問題は、単に実際の損害算定において生じる差額説の単純化とは区別される。すなわち差額説は全財産の差としつつも、実際には、加害によって侵害された法益と影響を受けた財産だけを比較するのが一般的であり、常に全財産を比較の対象とするわけではない。このような意味での損害計算のための差額説の単純化は、モムゼンのさす統一的損害概念と矛盾するものとは考えられていない。
(18) Keuk, a. a. O., S. 35. コイクは、損害を抽象的算定額として把握することについては原則的に否定している。
(19) Keuk, a. a. O., S. 22f.
(20) Keuk, a. a. O., S. 24.
(21) 吉村良一「ドイツ法における財産的損害概念」立命館法学一五〇ー一五四合併号 (一九八〇年)八三〇頁。
(22) ホーロッホは、このメエラーの個別損害論について次のように述べる (Hohloch, a. a. O., S. 397f.)。保険契約の場合、当該契約の想定する危険とその対価を決定する必要があり、それゆえに、損害を正確に算定することが重要となる。あらゆる利益を保険契約の対象とすることは、算定上不可能であるから、保険契約における対象は、すべての利益ではなくその都度の個別の利益だけであり、またより個別的に損害算定が設定されればされるほど好ましい。このような保険法の体系から、メエラーは損害を「個別利益」に分割するのである。この個別利益は、侵害された法益の客観的価値によってではなく、侵害された権利主体と当該法益との主観的な価値関係によって把握されている。しかし、保険法では、この価値関係の厳密な個別的算定ができない場合には、その合理的かつ大量取引的性格ゆえに、BGBと比べてより類型化・客観化する傾向にあり、そのような保険法の独自性がここにおいてその真価を発揮することになる。
(23) Lange, a. a. O., S. 36.
(24) Larenz, a. a. O., S. 354.
(25) H. Honsell/F. Harrer, Schaden und Schdensberechnung, JuS (1991) S. 442.
(26) Esser/Schmidt, a. a. O. S. 172f. なお、このような問題については立法者にも一定認識されていたようである (Esser/Schmidt, a. a. O.,)。
(27) 平井宣雄「『損害』概念の再構成(1)」法協九〇巻一二号 (一九七三年)一三頁。
(28) Esser/Schmidt, a. a. O., S. 172.
(29) 北川・前掲『注民』五七七頁。
(30) Honsell/Harrer, a. a. O., S. 443.
(31) Hohloch, a. a. O., S. 400.
(32) G. Schiemann, Argumente und Prinzipien bei der Fortbildung des Schadensrecht (1981) S. 221f.
(33) 例えば、BGHZ 55, 329 (本判決については第二章第二節において検討を行う)。
(34) H. Stoll, Haftungsfolgen im bu¨rgerlichen Recht (1993) S. 260f.
(35) Stoll, a. a. O., S. 261ff.
(36) Stoll, a. a. O., S. 244.
(37) この問題については第二章および第三章において検討を行う。
(38) Hohloch, a. a. O., S 398.
(39) Hohloch, a. a. O., S. 398.
(40) H. Brox, Allgemeines Schuldrecht, 19. Au■. (1991) S. 185.
(41) Hohloch, a. a. O., S. 398.
(42) Hohloch, a. a. O., S. 398.



第三節 損害概念の「規範性」と「自然性」

 第一項 規範的損害概念
 ノイナー以降、学説において主張されてきた規範的損害論は、かなり弱められた形に変容してくる。ラレンツは、まずドイツ法においては、損害は、自然に把握するのが原則であり、それは答責範囲の制限と補償目的に鑑みて規定されるものである、という。しかし「今日、裁判は法的評価の介入する規範的損害概念によって行われており、この概念は一定の領域においては、裁判官に著しい判断の余地を認める『開かれた』概念として理解し得るものである(1)」。それゆえに、何が損害たるかは、まず自然的な見方に従って決定し、その上でさらに法秩序によって形づけられるのであり、その意味において規範的損害たる「法的に賠償に値する損害 (rechtlich ersatzsfa¨higer Schaden)」が決定される。ラレンツが、自然的損害概念では、対処しきれない場合として挙げているのは、例えば「加害行為がなくとも所有者が利用することのない財への侵害」や「別の加害によって間もなく同様に侵害されるであろうような財の侵害」といういわゆる仮定的因果関係の問題、さらに共働過失などによって損害を軽減させる場合など(2)であり、その意味では、制限的・例外的な場面での規範的損害概念の適用を考えているといえよう。このようなラレンツの見解は、「穏健な規範的損害概念」と評されている(3)。

 第二項 自然的損害概念
  (1) メルテンスの考え方
 メルテンス (Mertens)は、ノイナー以降展開されてきた、補償思想を越える権利追求思想に基づく主張は、解釈論的にはその理由付けがなお不十分であり、法政策的な域を出るものではないとして、規範的損害論および客観的損害論を批判し、同時に換算可能な財貨の減少がなくとも賠償相当性や賠償可能性があるという評価をも、損害概念に吸収することを否定している(4)。
 しかし、メルテンスの場合、財産的損害の概念を考える前提として、その基礎となる「財産」概念の理解が特異である。すなわち彼は、主体的・機能的な財産概念を展開し、このような財産に対しては、物損の結果による利用侵害や排他的権利への侵害があれば、その場合にすでに (自然的)損害が存在しているのであり、このような加害によって経済的目的が侵害されたのかということや、その損失が金銭手段の投入によって賠償されるものなのか、ということは問題にはしていない(5)。このようにメルテンスは財貨の主体関連的な利用から出発するため、それによる財産的損害の際限のない主観化、すなわち (自然的)損害概念の際限のない拡大のおそれが生ずるが、これに対してはその制限として「社会性による制限 (Soziabilita¨tsschranken)」を認めている(6)。これによってメルテンスは、「社会性」による判断に依拠した損害概念を展開するのであり、それゆえに、結局メルテンスは、規範的損害概念を否定し自然的損害概念をとりつつも、実際には自然的損害という考え方を捨て去っている、と評価し得るのである(7)。実際、メルテンスは損害論を展開する上で、損害賠償の目的との関係を重視し、主要には、補償原則の支配の擁護、とりわけ権利追求や予防などの補償原則と競合する責任目的を否定することに重点をおいて損害論を展開している(8)。このように見るならば、彼の考え方においても、様々な衡量やそれに伴う法的評価や判断は避け得ないことは明らかであろう(9)。
  (2) ランゲの考え方
 ランゲは、自然的損害概念と差額説の両者は、様々な修正を受けつつもなお損害算定の原則であることを認めている。すなわちこの二つの考え方に、損害算定においてはなお中心的意義を与えるべきであり、少なくとも、批判論よりも相対的に重要な地位を与えるべきであるという。とくに自然的損害把握と規範的損害論の対立については次のように考えている。すなわち、自然的損害把握を否定することに積極的意義はなく、いわゆる規範的損害概念によって克服し得る、もしくはしなければならないと考えられている事実状況や法的状況は、特別な場合 (損害法にとってはまさに「異質な状況」)にすぎず、そこから一般化し得るような原則を導き出すことはできない(10)、という。ランゲによれば、損害の発生は「人の思考の所産」として確定されるのであり「人に所与のもの」ではない。しかしながら、なお法秩序が「損害」概念を考える上で、法以前に所与のものとして (vorrectlich)存在する理解を引き出してくることは、正しいことである、という。なぜなら、いずれにしても法律学的な判断は、法的な諸原則のみならず、ある一定の状況が不利益と感じられるであろうか、というような事実的な判断をも含むものであるからである。しかしながらまた、このような判断は初めから法的要素を含むものでもある。たしかに、自己の財産は侵害されているのか、またそもそもその権利主体の財産には一体何が含まれるのか、ということが確定されなければならないのであるが、これはまた「権利」によっても決定されるものである。何が損害となるのか、という問題に関わる社会生活上の見解 (Verkehrsanschauung)は、法規範によって影響され、またそれによって変化しやすいものである。加えて、とりわけ損害は民事法上の規定の目的に従って確定され、またこのような規定目的に従って整理する必要があるがゆえに、損害概念に「規範的」内容が帰属するという(11)。
 ランゲによれば、近時、ますます「より自然な」損害概念が維持される傾向にあるというが、しかしながら法的判断を全く排除することは、規範的損害論から出された批判となる諸問題に対し、ほとんどもしくは全く何の回答をも与えることはできず、そのような概念を前提とすることは危険であるという。それゆえランゲは、例えば抽象的利用利益などのいくつかのケースでは、当該不利益を法的に保護するのか、またその場合にはどの程度それを考慮するのかという問題については「自然的損害から純粋に論理的・概念的な衡量によって導き出すのではなく、評価された決定によって明らかになる(12)」として、自然的損害概念の例外を広範に認めている。
 以上のことを考え合わせるならば、ランゲはなお自然的損害概念および差額説を、損害概念および損害算定の中核において不可欠であると考えてはいるが、同時に、この場合にも法的判断が必然的に伴うものと考えており、その意味で損害概念には「規範性」が内包されたものとして認めている。またそれゆえにいわゆる差額説的損害概念を柔軟に解釈しているといえ(13)、純粋な伝統的自然的損害論に立つ考え方ではないといえよう。したがって、次に紹介するロウソス (Roussos)は、以上のようなランゲの考え方と先のメルテンスの考え方を、折衷的損害概念をとるドイチュ (Deutsch)らと同様、「事実的・規範的」損害概念と評価している(14)。
  (3) ロウソスの考え方
 ロウソスは、損害が規範化されるのは、損益相殺や仮定的損害原因によって被害者の損害がより低く評価されるような状況において一定の考慮が必要な場合に限定され、それゆえ規範的損害概念とは「自然的損害たる核の上に存在する例外的現象(15)」にすぎないとし、自然的損害概念を原則とする。しかし、このような規範的損害の問題には、彼のいうような問題のみならず、抽象的利用利益などの個別問題も含まれる。このような状況に直面し、彼は「問題となる個別事例の結果の合意可能性 (Konsensfa¨higen)を考慮する」ことによって解決をはかろうとする。すなわち「これらの事例においては、自然的損害概念はこの意味において『合意概念』とみなされるべきであろう。そしてこのような合意概念としての自然的損害概念は、一定の社会生活上の見解から明らかになると考えられる合意のもとに留保され、適用される」。それゆえ、損害が規範化されるのは、このような合意を得ることができない若干の事例に限定され得るにすぎず、まさに「例外的現象」なのである。つまり彼は、社会的合意による判断を損害概念の「自然性」概念と同等におき、このような社会的な合意が得られない場合に「規範的」損害に対し一定の余地を認めている。しかしながら、このような損害概念の理解は、損害概念が常にカズイスティッシュに把握される危険がある。このことをロウソス自身認めてはいるが、この点について「損害の意味は、各々の個別事例において、少なくとも純理論的に、合意可能な決定を適切に把握すべきである」と述べるにすぎない。
 ロウソスによれば、さらに困難な問題である賠償すべき損害の範囲 (Schadensumfang)の決定にかかわる問題においてもこのような合意形成が対処しているという。現実の世界に存在するあらゆる財貨が区別なく (潜在的な)損害対象として考慮されれば、いわゆる「オール・オア・ナッシングの原則」からも、賠償に値する損害の輪郭が失われてしまうことになる。この場合に、損害を限定的・具体的に把握することは困難であるが、ロウソスによれば、この問題は財産概念に立ち戻ることによって解決され、それゆえに「損害の関連客体は、財産的利益 (Vermo¨gensgu¨ter)に限定」している。しかしながら、この財産概念や財産的損害概念の内容そのものがなお定まったものではなく争点となっていることから「この意味においても、自然的損害概念は、一つの合意可能な概念として問題に立てられるのである」という(16)。
 他方、ロウソスは以上のことを踏まえ、そもそも損害概念を規範化することは、正統性の問題 (Legitimationsproblem)にもかかわるとして、以下のように批判している。すなわち、損害概念を規範的に修正することは「確かに法理論上、立法者がこの損害問題を未解決のままにしてきたということに依拠している」。むろん関連する (考慮可能な)損害を軽減する状況を確定したり、より詳細に財産的損害概念を具体化することは、損害法から見れば、「現存の財産の保護 (Bestandschutz)の制約」となることを注視すべきである。BGBに損害概念の規定がおかれなかったという事実から単純に、「損害法上の現財産の保護」の形成が、損害問題の規範化という間接的な方法によって、判例や学説にその課題として委ねられるということにはならないのである(17)。
 このように、ロウソスは一定の例外的状況において、制限的に規範的損害を容認するが、原則的には、自然的損害概念が支配すべきことを主張する。しかし、彼のいう「自然的」損害概念は、それ自身すでに社会的合意に基づく「法的判断」を内包しており、それが合意する限りで「自然」と評され、合意ができなければ「規範的」と評価される。したがって、社会的変遷による損害概念の修正が「自然」に可能であるのと同時に、とりわけ社会的見解が合意に至るまでの過渡期においては規範的判断は不可避である。それゆえ、自然的損害概念が主張されるが、それが伝統的な自然的損害論と軌を一にするものではないことは明らかである。
  (4) シュミットの考え方
 エッサー (Esser)・シュミット (Schmidt)の教科書では、財産的損害の説明につき、まず「自然的損害概念対規範的損害概念」というテーマのもとで論じられる新たな損害論は、その用語に誤解がある、との指摘から始まる。すなわち双方の損害論とも、「多かれ少なかれ、経験則上証明し得る不利益である、との社会的評価と損害を関連づけているだけ」であり、このこと自体は本質的な争点ではないことを指摘している(18)。「広い意味で、『自然的』損害把握を支持する者においても、所与の不利益な意味そのままの引き受けは問題とならないし、純粋に『事実的』考慮も全く問題とならない。特に財産的損害の輪郭を与えるには、市場社会において『金銭』という媒体に方向づけられる評価の要素が必要である。このような評価の要素において自ずと浮かんでくる関係だけが、『自然的』という評価を一般的に把握し得るだけで、『自然主義者』の主要な関心事は財産的損失として原則的に市場への反射において計算上具体的に把握される損失を認めることにある(19)」。
 以上のことから、ここで本質的に問題となるのは、((1))BGB二四九条一文に基づく差額の算定を、当事者の財産から具体的に確定可能な金銭支出の意味に求めるのか、それとも「純粋な差額説から方向転換」し包括的・抽象的算定方法を優遇すべきであるのか、((2))財産構成要素として明確に金銭で算定可能な項目だけを認めるのか、それとも需要・喜び・チャンスといった場合によっては正確に算定し得ない項目をも認めるのかという二点である(20)。
 このようにシュミットは、損害概念の把握において、規範的損害論を論じる意味を希薄化し、その上で自然的損害論を展開する。しかしそれは「市場」を媒介にしており、それゆえにシュミットの損害論は、「損害および財産損害の『自然的』考察には従来馴染まなかった経済的な衡量を取り入れたことによって、『最も規範的な』研究成果を引き継いだ」と評価されている(21)。

 第三項 折衷説的損害概念
  (1) ドイチュの考え方
 ドイチュは、「何が損害の範囲として適当であるかは、今日では、事実的・規範的損害概念によって捉えられている」として、いわゆる「事実的・規範的損害」という従来相反すると考えられてきた二つの概念を併置する(22)。ドイチュの損害を把握する上での出発点は、自然的な、社会生活における見方に向けられた損害にあるが、これに「規範的性質の制限」をおく。そして、損害の存在は、当該考慮の中心に立つ社会生活上の見解への依拠によって判断され、そして限界領域においてのみ規範的修正がなされるべきことを説く。「自然的損害、つまり社会生活における見方によって認識された不利益は、『損害』概念の構成の前提である。しかしこの前提に、何が損害の範囲に適切であるかを当該責任の目的および賠償の機能に基づいて生じる規範的性質による制限が画する」というのである(23)。
  (2) シュトルの考え方
 シュトルも、自然的・事実的把握を中核に、賠償の目的・機能によって規範的に損害を把握する。すなわち、「賠償に値する損害の概念は、とりわけ損害賠償の機能によって、それに加えて特に被侵害権利もしくは法益の保護内容によって規範的に形成される。金銭賠償原則によれば、法秩序において承認されてきた見解にしたがって財産的等価物 (materielles A¨quivarent)と決定され得るあらゆる不利益が賠償されるべきである。原状回復原則にふさわしい損害概念とは、被害者が被侵害権利や被侵害法益によって阻止または予防すべき状態の惹起をその基礎とするような損害概念である(24)」。すなわち、原状回復原則においては、その賠償対象の財産性は問題にはならないため、その保護は拡大するというのである。
 さらに「賠償相当性の拡張は、新たな権利や法益が認められることにより、もしくは認められた法益の保護領域が拡充されることにより生じる。法的に保護された財貨の範囲ならびに保護領域の拡大は、これらの法益の侵害の場合に該当する『不法特殊な (unrechtspezi■schen)』損害に対する損害賠償の付与と同義である(25)」。そしてその例として、シュトルは非財産的損害に対する損害賠償の拡張と人格的財貨の認識の高まりとの関係を挙げる。すなわち、「非財産的損害に対する賠償拡大は、人格的財貨の認識の向上、およびその認識によって保護される保護領域の拡充による人格保護の改善と一致する(26)」のである。

 第四項 まとめ
 以上検討してきたことをここで簡単にまとめてみよう。ノイナーの客観的損害論の登場によって、普通法の伝統であるところの自然的損害把握に対立する概念として、規範的損害把握が対置されてきた。しかしながら、近時のドイツにおいては、両概念の歩み寄りが見られる。つまり、規範的損害論者の一人とされるラレンツにおいては、「規範的把握」とは、賠償相当な損害を決定する上で法的評価の介入を意味するにすぎず、さらにこの賠償相当な損害を判断する前提として、自然的損害把握がおかれることが明言されている。他方、自然的損害論者においても、そこにおける損害把握は、全く可視的かつ明白に存在する損害を指すのではなく、存在する事実に対して、何らかの形で法的な判断や評価を介入させることによって損害概念を根拠づけている。それらの判断や評価の規準とは、メルテンスにおいては「社会性による制限」、ロウソスにおいては「社会生活における合意」であり、シュミットによれば財産的損害における経済的「市場」である。また、ランゲも損害を把握する上で法的判断は不可避であると考えている。
 したがってシュミットも指摘するように、両者の考え方は、ともに、社会的・法的に不利益であると評価し得る事柄を損害と認めるという点においては一致しているのである。このような考え方を端的に表すのが、例えばドイチュの「事実的・規範的損害」という言葉であった。そして両概念を混合させた形で展開されるドイチュやシュトルの考え方においては、「損害」と格付けするための根拠となるものは、損害賠償の目的や機能にあることが明言されている。このように見てくるならば、規範的損害論に立とうと立つまいとにかかわりなく、「損害」概念は損害賠償による法的な効果とともに、損害賠償法の目的および機能とあわせて、包括的な視野から捉えていく必要があるのではないか。すなわちどのような不利益を賠償対象として「法的損害」と意味づけするかは、結局のところ損害賠償法全体の課題となり、それゆえにそのような機能的概念として「損害」を捉え、意味づけしていくことが必要なのではなかろうか。

(1) Larenz, a. a. O., S. 354.
(2) Larenz, a. a. O., S. 354.
(3) Magnus, a. a. O., S. 14ff.
(4) Mertens, a. a. O., S. 87ff. 規範的損害概念の方法論的な正統性という問題における示唆は、その積極的な効力の可能性をむろん排除するものではないという。すなわち、このような示唆は、法秩序が損害のカテゴリーを利用する場合には、通常、自然的損害概念が想定されうるのであり、また規範的損害概念の適用は例外的なものであることを意味するにすぎないという。それゆえ、補償目的を基本的に越える権利追求思想が内在することが確認された場合には、規範的損害概念は、自然的損害概念よりも優先して認められるべきことを指摘している。しかし、あくまで補償原則に基づき、損害概念も自然的損害概念をとることを強調している。
(5) Mertens, a. a. O., S. 228.
(6) Mertens, a. a. O., S. 174.
(7) この点を指摘するものとして、H. Stoll, Haftungsfolgen im bu¨rgerlichen Recht (1993) S. 241.
(8) Stoll, a. a. O., S. 241.
(9) Magnus, a. a. O., S. 14.
(10) Lange, a. a. O., S. 36f.
(11) Lange, a. a. O., S. 39f.
(12) Lange, a. a. O., S. 40.
(13) Magnus, a. a. O., S. 11.
(14) Roussos, a. a. O., S. 104.
(15) Roussos, a. a. O., S. 104.
(16) Roussos, a. a. O., S. 107ff.
(17) Roussos, a. a. O., S. 108.
(18) Esser/Schmidt, a. a. O., S. 171.
(19) Esser/Schmidt, a. a. O., S. 174.
(20) Esser/Schmidt, a. a. O., S. 171.
(21) Magnus, a. a. O., S. 13. 同様の評価をするものとして、Lange, a. a. O., S. 34。
(22) E. Deutsch, Haftungsrecht, Erster Band, Allgemeine Lehren (1976) S. 419ff. ヴォルフ (Wolf)は方法論の観点から、自然的概念とは、自然に存在しうるものではなく、まさに法的概念であり得るのであり「事実的・規範的損害」概念という表現はその意味において適切でないことを指摘している (E. Wolf, Grundfragen des Schadensbegriffs und der Methode der Schadenserkenntnis, FS Schiedermair, (1976) S. 551)。
(23) Deutsch, a. a. O., S. 423ff.
(24) Stoll, a. a. O., S. 241.
(25) Stoll, a. a. O., S. 242.
(26) Stoll, a. a. O., S. 242.

 第四節 小  括
 以上見てきたように、BGBに損害概念が明文化されなかったがゆえに、通説は、もっぱら普通法からの伝統であるところの自然的損害把握ならびにモムゼンの利益論をもって損害を理解してきた。ここにおいては、二つの利益状態 (とりわけ財産状態)を比較することによって賠償対象としての損害が自ら明らかになるとのある種の錯覚があった。しかし、賠償対象としての法的な損害を根拠づけしていく上で、法的判断や評価による規範的要素は不可欠であることが、ドイツの学説の展開の中で明らかになってきている。伝統的な差額説的損害概念もまた、とりわけ完全賠償原則や実損害の填補という損害賠償における補償原則と不可分に結びつき展開してきたのである。さらに、実損害の填補のみならず、損害賠償法における権利追求的側面との関係から、最少損害としての客観的損害論が主張され、加えてこのような損害論を背景に、個別的損害論が主張され、差額説批判が展開されるに至った。このような差額説批判論は規範的損害論としてまとめられるが、損害概念が事実的・自然的に把握しうるか、規範的に把握しうるか、という議論はもはやあまり積極的な意味をもたず、むしろどのような規範が損害概念を支配しているのか、またすべきかという議論が重要となってくることが明らかとなった。
 差額説批判論者の主張は、個別の事例において妥当な結論を導くために、一定の法的判断を損害把握において介入させる点で共通しているが、自然的損害論者もまた必ずしも、実損に限った損害論を志向しているわけではない。もちろん実際に生じた損害、すなわち可視的かつ単純計測の可能な損害を越える一定の不利益を「損害」とすることは、それを根拠づける規範を明確にしなければ、場合によっては、法的安定性を欠き、耐え難い不合理を生じることになるであろう。評価の介入によって無制限な責任範囲の拡張とならぬよう、ここにおける規範を明らかにする必要がある。この意味で近時の自然的・事実的損害把握を基調としつつも法秩序との関係を重視し、「損害」概念を明らかにするためには法的判断は不可避であるとする説が、損害の判断規準を、損害賠償の目的およびそれが実際に果たす機能に求めている点が注目される。これらの説にしたがって、損害賠償法の目的や機能から損害概念を再検討することが有用なのではないであろうか。
 このような学説状況を背景に、ドイツの近時の損害論においては、そもそも損害概念とは差額説のような演繹的上位概念であるのか、という疑問も呈されている。このような疑問、すなわち損害法の問題は損害の理論的把握から広範に独立するものであり、損害概念の分析によっては解決しえないのではないかという学説からの疑問は最近のことではなく伝統的に存在したということも指摘されているが(1)、最近の学説において特に、損害概念を最上位の演繹可能な概念として扱うことに反対する見解が顕著になってきているように思われる(2)。例えばケッツ (Ko¨tz)は、損害概念を定義することを全く放棄し、類型的に考察するにとどまっている(3)。このような傾向に大きく影響を与えたのは、グリュンスキー (Grunsky)の業績であるといわれる(4)。グリュンスキーは、損害の確定は、一連の事例において規範的な価値決定を通じて修正されるものであり、どのような侵害が損害と見なされるかは、法 (Recht)がその規準を与えるべきであるとする(5)。またドイチュも、前節において検討したように、損害概念は規範目的および責任機能に遡ることとなるとしている(6)。さらに比較法的視点から、マグヌス (Magnus)は損害概念の決定は、損害やそれに応じた賠償を探知すべき場合に、常にそのプロセスの簡略化された標識たるだけであることを強調し、損害概念とは「規則の集合体」であり(7)、そして結論的に、「当事者の権利領域および財貨領域におけるあらゆる不利益な変更」はすべて損害である、と定義している(8)。同様の観点から、シーマンはBGBの損害法における補償原則を補完する原則を探究することにより損害概念を規定する規範を明確化しようと試みている(9)。
 これらの学説はいずれも損害法上の問題の解決は損害概念からは取り出し得ないという認識を出発点としているといえる。したがって、ここでは法的意味における損害は、「法秩序によって損害と評価され、そして責任法上の禁止に応じて一定の形態において賠償されるべきあらゆる不利益」であるということになり、「損害概念が法秩序の判断に依存するがゆえに統一的損害概念は存在し得ない。法的意味における損害概念は、それは法的意味を基礎におく価値判断であるのと同じくらい形態が多様」となる(10)。
 さらにシュミットも法的概念としての損害について、そこにおいて問題となる事例については「その都度、補足的判断が必要」であり「所与の事実的損害概念、すなわちその『貫徹は自然的損害把握によってのみ可能』であるという損害概念が存在するという観念は少なくとも誤解を招きやすい」とする。そして損害とは「抽象的な現象でもなく、直接に可視的な事実でもなく、結果的に (事実の)前後関係 (Kontext)においてのみ、その時々の適用が理解され得る一種の機能概念である」としている(11)。
 「自然的損害概念および差額説批判としての規範的損害論」という近時のドイツの損害論における構図は、結局は、規範的損害論、自然的損害論を問わず、「賠償に値する損害」を決定するに際して、法的判断の介入は不可欠であることを再認識せしめたといえよう。そしてこの法的判断、評価においては、とりわけ損害賠償の目的や機能が重視される傾向を看取しえよう。特に近時のドイツにおいては、差額説のような統一的な損害概念論を追究することに懐疑が深まり、「損害」概念を機能的概念として捉える傾向が強い。このような学説における損害論の展開は、実のところBGHにおける判例実務と密接に結びついたものである。次章においては、BGHにおいて、どのような損害論が展開され、問題となっているのかを概観し、そこにおいていかなるケースにおいていかなる規範的考慮が働いているのかを明らかにし、その上でさらに、近時のドイツの学説においてとりわけ損害論との関係で重要となる損害賠償の目的や機能の検討を試みたい。

(1) Stoll, a. a. O., S. 238f.
(2) Hohloch, a. a. O., S. 400, Stoll, a. a. O., S. 239.
(3) H. Ko¨tz, Deliktsrecht, 5. Au■. S. 77ff.
(4) Stoll, a. a. O., S. 239.
(5) Mu¨nchKomm (W. Grunsky), Band 2, Vor § 249, Rdnr. 6.
(6) Deutsch, a. a. O., S. 420.
(7) Magnus, a. a. O., S. 21.
(8) Magnus, a. a. O., S. 296.
(9) Schiemann, a. a. O., S. 193ff.
(10) Stoll, a. a. O., S. 239.
(11) Esser/Schmidt, a. a. O., S. 168ff.