立命館法学  一九九六年五号(二四九号)




私法の解釈方法をめぐって


大河 純夫






は  じ  め  に

  かつて、鳩山秀夫・増訂改版日本民法総論(一九三二年=昭和八年  岩波書店)は法の解釈について次のように指摘していた。
    「解釈ノ目的ハ立法者ノ意思ヲ明ニスルニ在リヤ或ハ法律ソノモノノ意義ヲ明ニスルニ在リヤ、議論アリト雖モ近世ノ学者ハ概ネ後ノ見解ヲ採ル。前ノ見解ヲ採レバ法律ノ草案、理由書、起草委員ノ記録、議案ノ説明、議会ノ速記録ノ如キ所謂立法資料ハ解釈家ヲ拘束スベク、之ニ反シテ後ノ見解ヲ採レバ所謂立法資料ハ参考材料ノ一ニ過ギズ、法律ノ意義ハ唯法律トシテ発表セラレタルモノニ付キ学理的ニ之ヲ確定スベキモノトス。惟フニ立法者ノ隠レタル意思ハ法律ニアラズ、又今日ノ如ク立法ニ参與スル者多数ナル立法手続ニ於テ、立法者ノ意思ハ事実上之レヲ確定シ難シ、加之生キタル社会則トシテノ法律ノ意義ヲ定ムルニ當リ立法者ガ如何ナル意思ヲ有シタルカノ歴史的事実ニ膠着スルハ社会ヲシテ法律ノ犠牲タラシムルモノナリ。解釈ノ範囲ヲ広クシ社会ノ需要ニ適応シタル解釈ヲ認ムルコトニヨリテ初メテ成文法主義ノ缺点ヲ補フコトヲ得ベシ」(一五−一六頁)
  鳩山が客観説(法律意思説)の立場をとっていることは明らかであり、このような立場は日本において圧倒的支配を誇っている。
  しかし、最近ドイツ等の研究史を踏まえて、狭義の解釈について歴史的解釈 die historische Auslegungstheorie を展開するものが増加しつつある(1)。この陣営においてもなおその細部にいたるとかなり厳しい見解の相違がみられるのであるが、私法の解釈方法をめぐる議論は新しい局面に移行しつつあるとみて差し支えない。本稿は、これらの議論をどのように受け止めるべきかを意識しながら、この解釈方法(2)の可能性を吟味するものである。

(1)  磯村哲「利益法学をめぐって」法政研究四〇巻二−四合併号(一九七四年)一頁以下、同・社会法学の展開と構造(日本評論社  一九七五年)、同「法解釈方法の諸問題」同編・現代法学講義(有斐閣  一九七八年)八五頁以下、広中俊雄・民法綱要第一巻総論上(創文社  一九八九年)五九頁以下、同「判例で学ぶ民法解釈方法の基礎知識(一)−(一〇・完)」法学教室一六三・一六五・一六七・一六九・一七一・一七三・一七五・一七七・一七九・一八一号(一九九四−一九九五年)等。本稿は、後者の刺激を受け、筆者なりの受け止め方で整理しはじめたものの一環である。
  Hideo Aoi, Die sogenannten verdeckten Lu¨cken:Typenjurisprudenz contra Begriffsjurisprudenz?  Festschrift fu¨r Arthur Kaufmann zum 70. Geburtstag., 1993. S. 23f.  青井秀夫「ヘックと類型法学−いわゆる「隠れた欠缺」をてがかりに−」法社会学四六号(一九九四年)一七六頁以下、Hideo Aoi, Richterliche Rechtsfindung und neuere Wissenschaftsphilosophie, Archiv fu¨r Rechts-und Sozialphilosophie 79 (1993), S. 360f.  青井秀夫「法における類型の問題への一試論−法律学的思考とパタン−(一)・(二)・(三)・(四)」法学四九巻四号(一八八五年)一頁、五号一頁、五〇巻(一九八六年)三号四七頁、五四巻四号(一九九〇年)四六頁、同「現代類型論の一側面」広中教授還暦記念論文集・法と法過程(創文社  一九八六年)三〇九頁以下もこの傾向を示している。
(2)  日本における民法解釈の方法を整理した最近の文献としては、瀬川信久「民法の解釈」星野他編・民法講座別巻一(一九九〇年)三頁以下、同「梅・富井の民法解釈方法論と法思想」北大法学論集四一巻五=六号(一九九一年)三九三頁以下。


一、私法の解釈における客観説(法律意思説)について


    民法解釈方法の伝統的方法論では、法解釈は、広義の包摂、したがって法適用にとって、不可欠の前提である。ここでは、まず第一次的には、制定法に方向づけられ、制定法の解釈、それを出発点とする法の発展的形成を行うことによって、実際の生活に対応しようとする(1)。そして、伝統的方法では、狭義の解釈と法の発展的形成(欠缺補充)が区分されている。
  狭義の解釈の方法について、一九世紀においては主観説 die subjektive Auslegungstheorie ないし立法者意思説が支配的であった。これは、解釈の目標を立法者の経験的意思 empirischer Wille の探究・確定におくものであり、たとえばウィントシャイト Windscheid が「立法者によって用いられた言葉に立法者が付与した意味の確定」(Pandekten § 21)というのが、その代表である。この説は、立法者は生ずることのあるべき一切の事態を規律しようとするのであるから、解釈によって確定された制定法には欠缺は存在しないと主張する(制定法規の無欠缺性)。しかし、多くの場合、生ずることのあるべき一切の事態を立法者は規律するとの前提は成り立たないのであるから、「構成」を媒介として、いっそう一般的な概念の体系を構築し、この法体系には欠缺がないとする。
  これに対して、一九世紀末以降客観説 die objektive Auslegungstheorie ないし法律意思説が通説的地位を占めるようになり、日本においても、客観説(法律意思説)が通説的地位を占めている。客観説(法律意思説)は、法律は制定と同時に立法者から分離した客観的存在になるとする。社会現象の変動によって立法者が予見しなかった事態が発生することが示しているように、立法者が法律に賦与しようとした意味は現在を拘束しないし、また拘束できるものでもない。したがって、立法者が当該法規に賦与しようとした意味ではなくして、法律内在的な客観的合理的意味が探究されるべきであり、その意味こそが拘束力を持つ。しかし、この説によれば、語義上可能な解釈の中から現在においてもっとも合理的なものを選択することが解釈者の課題なのであるから、客観説が目的論的解釈と結合する論理構造を持つのである。純粋に客観説の論理を貫徹するなら、法適用者が考えまた願望する「合理的」結果がまず獲得され、その後にこの結果を制定法によって基礎づける、という結果を招きやすい。制定法(法規)への意味の読み込みないし挿入の承認はこのようにして可能になる。「・・・妥当な解決は、その事件の具体的事実の中からみいだしていかなければならない。その場合に、その結論は、法規から演繹的にではなく、裁判官の自由な創造的作用ないし全人格的判断を通じて、その具体的事実の中から引き出される。そして、それを理由づけ、ひとを納得させるために、解釈を通じて操作された法規その他の法源が根拠として引かれてくることになる(2)」、といった表現はその極端なものである。
    客観説の論拠は様々であり、それぞれの論者によってその重点の置き方もことなっているが、根拠づけの基本は次のようである(3)
  客観説ないし法律意思説の前提には近代社会における立法作業の構造把握がある。つまり、現代において、とくに議会制民主主義をとる社会においては、判断・決断能力・資格を有する単一の立法者はいないのであるから、心理学的意味での立法者の意思の探究は不可能であり、法律の解釈の基準とはならないとするものである(多くの場合、しかし一つの素材とすることはありうる、とする)。しかし、法律が、神の啓示でも盟神探湯のような神判なのではなく、ある特定の問題を解決しようとする人間の営為−その営みが複数の個人、集団、機関を経由する総合的なプロセスであるとしても−の所産である以上、法規に賦与しようとした意味を可能な限り認識しようとする行為を否定することはできない。いっさいの規定についてこのような作業が可能であるとはいえないとしても。
  第二に、客観説では、法律の形式になった語句のみが法律としての力を有すると強調されることが多い。たとえば、「立法者はもっぱら言葉の中でのみ、即ち法律の公布によってのみ、語ることができる。その法律から取り出すことができないことは、法律上の法ではない」とするライヒスゲリヒトの一判決(4)がそれである。「裁判所の解釈の真の機能は、議会が意図したことを確定することではなく、議会によって使用されたことばの意味が何であるかを確定することにある」とするサイモン卿 Lord Simon of Glaisdale の見解(5)もその代表例であり、鳩山・前掲書が「立法者ノ隠レタル意思ハ法律ニアラズ」というのはこの趣旨からである。たしかに、公布は立法行為を完了させるのであるから、その限りでは公布は立法意思の表現である。しかし、名宛人に対する指示のあらゆる要素が公布によって表現されなければならないというものではない。ヘックは、裁判所の解釈行為は、一定の形式での法規の公布を命じた規定(=法律の「公布に関する規定 die Publikationsvorschrift」)によって、制限されているのか?、という問題設定を行っている。日本国憲法七六条三項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」に関連する問題である。この論拠は、突き詰めるならば、裁判官が法律解釈のために利用することができるのは、法律のテキストだけであって、法律の原因、目的、従来の取扱の状況などに関する情報はそれが法律の条文に明記されないかぎり、その利用は禁止されるというものでなければならないであろう。しかし、客観説といえども、このような極論を展開する者はいない。
  あるいは、規範の名宛人=法律に従う者は言葉それ自体に対して信頼を寄せることができる(あるいは法的安定性の視点)として、客観説を根拠づけようとするものもある。しかし、この議論も結局は、その名宛人を法曹に帰着させるものに過ぎないのであって、国民との関連で理論化に成功するものでもない。
  そして、客観的解釈のみが法の補充・形成の意義を正当に評価することができるとする主張が客観説の根拠づけとして使用される。鳩山・前掲書にあってもこの論拠に重要な位置が与えられている。法律の解釈にあっては、立法者が予想しえなかった新しい生活上の問題に対する解決がせまられるのであって、立法者が賦与した意味に拘束されるべきではないとする。しかしながら、すでに指摘したように、この論拠は、法律内在的な合理的・客観的意味を主張し、裁判官は文言上可能な意味のなかから裁判官がもっとも合目的的な意味を選択することを認めるのであるから、意味の「読み込み」・「挿入」を公然と承認するものなのであり、法規にしたがった解釈、裁判官に対する法律の拘束、という制定法主義の一つの原則を方法論上排除することに帰着するのである。
    議会制民主主義と制定法主義を基本とする社会における法規の生成過程の基本構造を考慮しかつこれを肯定的に評価するならば、ある特定の法規(法規範)は諸々の利害・政策・価値判断の対立・調整を経由しながらその「中間的」帰結として、特定の要件・効果を内容としかつ特定の言語記号を伴って成立するという事実が前提とされなければならない。言語記号が特定の指示対象を持つものであり(言語が特定の指示対象を持たない、という不可知論的立場は採用しえない)、かつ、恣意による裁判を拒絶し、裁判官に「法律への思慮ある服従」(ヘック)を要求する限り、法律はその歴史的意味内容において把握されなければならない。この意味で、法規の歴史的意味内容の確定が第一の課題となる。この法規の歴史的意味内容の把握においては、狭い意味での立法者の経験的意思のみが問題となるのではないし、当該法規の成立時点においてある用語がどのような意味で用いられていたのか、その他の規定との関係で当該規定・用語がどのような関係にあるのか、といったサヴィニーの解釈の諸手段ないし視点(文法的・論理的・歴史的・体系的)が動員されるのは当然必要不可欠なことである(6)
  法規の歴史的意味内容は、かつてのような立法者の経験的意思にとどまりえないのであるから、あるいは当該立法において主導的地位にある者(起草者、起案機関、議会での法案提出者等)の意思を起点に置きながらも、諸々の利害・政策・価値判断の対立・調整の結果、妥協されたり表現が変形されたりすることを把握しなければならない。あるいは、その対立状況を克服しきれない妥協的立場で(=決着しきれないままに)法規が確定し施行されることもある。この意味で、なおいくつかの「問題」を残したまま後の判例・立法に委ねることがあることも事実である。立法者によって直接かつ明確に排除または包含が示されていない限り、その「明確な語義」に反しない限り−民法七一八条の「動物」概念を拡張しここに「人」を組み込む「拡張」解釈は許されない−、「拡張解釈」または「縮小解釈」が許される。この場合、歴史的解釈によって確定された当該規定の根拠が必要な情報を提供することになる。
  上記の作業によって当該規範が想定している定型的社会関係が類型的に把握される。それ以外の社会関係については当該規範は適用されない。その社会関係に関する法的紛争を解決する必要があるにもかかわらず適用すべき規範が存在しないことを「法の欠缺」という。民事事件に関するかぎり、適用すべき法規の不存在・不明瞭を理由に民事裁判を拒絶することができないのであるから(7)、適用すべき法規範が創造されなければならない。欠缺を補充する方法、規範創造の方法が課題となる。これはもはや「(狭義の)解釈」ではなくして、「法の創造・継続的形成」の問題である。そして、規範創造のルール(準則)、あるいはその規範創造の合理性を担保するためのルール(準則)が問題となる。
  ここでは、慣習(法)、社会自主法、条理ないし「事物の本性」(これらは、通常「法源論」として検討される)、あるいは類推、理論構成、判例などが問題となる。
    よく解釈の諸手段・視点の間に優先順位がないとか、優劣がないといわれる。また教科書・論文などにおいてそれぞれの法規の歴史的意味を説明することは省略されていることがある。たしかに、個々の判決や論文はそれが対象としている具体的な紛争の解決にとっての必要性と時代的制約を免れえないのであるから、場合によってはその作業対象が特定され、それとの関連である特定の視点に集中することがある。しかし、現在未解決となっている問題に重心をおくために(限界問題  ハード・ケース)このような事態が生ずるのであり、どの国をとっても永い歴史を有するそれぞれの規範・法規についての研究の積み重ねが存在し、法学的世界においてはその到達点が前提に置かれているのである。
  また、特定の解釈手段・視点にのみ依存することによる危険を回避することが通常なされているのであり、総合的作業をおこなっているのである。このように、当該法規に関する解釈作業の歴史をみるなら、学者・裁判官・弁護士といった法曹、裁判に対する国民の参加を通じて、一つの歴史的で且つ総体的な解釈作業(そこでの内的矛盾や見解の相違は否定できないとしても)がなされているのであるから、国民の総体的かつ歴史的営為としてみるならば、先にのべたような作業を行っているのである。よく、歴史的解釈を裁判官に要請するのは技術的にも経費的にも不可能であるといった主張がなさるのであるが、これは具体的問題に直面して歴史的営為として到達した法的沈殿物との関係を考慮しながら判断を下そうとしている裁判官の(あるべき)作業を正当に評価しない立場に帰着するのである。
  裁判官をはじめとする法曹が個別問題の法的解決を考察する場合、先行する判例・学説、法規範と当該事件との関連の検討を行う。その際、当該法規の規範的意味内容は先行する学説・判例によってある範囲と水準において明らかにされているが、「新たな問題」に直面した場合に、改めて先行する判例・学説及び法規の意味内容についての研究を行うのである。ここには、先行する学説・判例、法規の研究が直面する具体的問題に解決を与えるものかどうかという新たな問題意識と視角からなされることはいうまでもない。そこでは、現在の問題意識から過去・歴史が改めて解釈しなおされるのである。したがって、法規の歴史的意味内容の確定にあっては、特定の法規に立法者が賦与しようとした意味の確定を機軸におき、その確定のために諸手段が動員されるのである。このようにして、当該法規が規律しようとした対象が社会関係として再把握され、その規律手法・効果も把握される。

(1)  この項は、基本的には、磯村・前掲「法解釈方法の諸問題」九〇頁以下によっている。
(2)  伊藤正己=加藤一郎編・現代法学入門〔第三版〕(有斐閣  一九九二年)七一頁(加藤一郎)。しかし、加藤教授がこのような立場で具体的な解釈や立法作業に携わっているものでないことも事実なのであり、注意する必要がある。
(3)  Heck, Gesetzesauslegung und Interessenjurisprudenz, AcP. Bd. 112., 1914. S. 67ff.  法学理論研究会訳「ヘック・法解釈と利益法学(二)」法政研究四三巻二号(一九七六年)八九頁以下、津田利治訳・ヘック利益法学(慶応書房  一九八五年)一四四頁以下、Engisch, Einfu¨hrung in das juristische Denken, 8. Aufl. 1983., S. 91. und Anm. 98. が参考になる。
(4)  RGZ. Bd. 27, S. 410 (411) [1891.3.25].  この判決については、Heck, a. a. O., SS. 73.  法学理論研究会訳・法政研究四三巻二号九四頁以下が検討している。
(5)  Black-Clawson v. Papierwerke, [1975] AC 591., [1975] 1 All E. R. 810(842).
(6)  法律の解釈という行為の性格を「法律に内在する思想の再現」とするサヴィニーの『現代ローマ法体系』は、解釈の手段ないし視点として、文法的要素・論理的要素・歴史的要素・体系的要素を挙げていた(Friedrich Carl von Savigny, System des heutigen ro¨mischen Rechts, Erster Band. 1840., S. 212.  小橋一郎訳・現代ローマ法体系第一巻(成文堂  一九九三年)一九九頁)。現在、たとえば、碧海純一・新版法哲学概論〔全訂第一版〕(弘文堂  一九七三年)一三九頁以下によれば、文理解釈・論理解釈・体系的解釈(ここには、拡張解釈・縮小解釈・変更解釈が含まれる)・社会学的解釈などに整理されている。しかし、論者によって、これらを解釈の手段ないし視点としたり方法としたり、またその意味内容、相互の関連および序列は異なっているといってよい。たとえば、ドイツ連邦裁判所の一判決は、「規範の用語に基づく解釈、その関連性に基づく解釈、また法律資料及び成立史にもとづく解釈という相互に許容しあい相互補完的な解釈諸方法が、法律に客観化された立法者意思を把握するという目的に貢献する」(BGHZ 46, 74 (76))としているし、Martin Kriele, Theorie der Rechtsgewinnung, 2. Aufl. 1976. S. 81ff., Sattelmacher/Sirp, Bericht, Gutachten und Urteil., 30 Aufl. 1986. S. 35f. も解釈方法(手段)の階悌という構想が成り立たないとする。英米法を例にとっても、文理律 literal rule、黄金律 golden rule、弊害律 mischief rule といった解釈の一般的準則の意味にしても、また優先順位・位置も歴史的に変遷をたどっている。この点については、望月礼二郎・英米法〔改訂第二版〕(青林書院  一九九〇年)一二二頁以下参照。
  しかし、すでにサヴィニーの一八〇九年の『法学方法論』が解釈を論理的・文法的・歴史的・体系的の四つの要素からなるものとし、かつ「四つの解釈ではなくて、つねにこの四つの要素より成る一つの解釈があるのみ。だが、個々の場合に一つの要素が支配的であることがあり、とくに難しく重要であることがある」(fol. 3)と明言していることに留意しなければならない。この点は、石部雅亮「法律の解釈について−サヴィニーの解釈理論の理解のために−」原島重義編・近代私法学の形成と現代法理論(九州大学出版会  一九八八年)一〇〇頁注(18)がすでに指摘していることである。たしかに、クリーレのように四つの視点ないし手段を四つの解釈方法と把握しその優先順位はないとする議論もあるが、それらは四つの視点ないし手段にとどまるのであって、狭義の法律解釈における歴史的(かつ規範的)意味内容の把握のために動員される補助手段(ヘック)なのであるが、基本的には「立法者の歴史的かつ規範的意思」の把握が基礎に据えられる。決定的な優先順位はないとしても、解釈視点の多様性はある単一の視点に依存する場合よりも解釈者の主観・恣意への依存を回避し豊富な論証可能性を与える、との指摘は正当のように思われるのである。この点については、Engisch, a. a. O. Anm. 106b (S. 249), Larenz, Methodenlehre der Rechtswissenschaft., 6. Aufl. S. 343ff.  および青井秀夫「現代西ドイツ法律学的方法論の一断面(続)」法学三九巻三=四合併号(一九七六年)三五四−三五六頁を参照のこと。
(7)  フランス民法四条は「法律の沈黙、不明瞭又は不十分の口実の下に裁判を拒絶する裁判官に対しては、裁判拒絶につき有罪として訴追することができる」と、民事裁判拒絶禁止の原則を明記している。この点について、末弘嚴太郎「法律解釈に於ける理論と政策」同・民法雑考(日本評論社  一九三二年)一頁以下参照。初出は春木先生還暦祝賀論文集(一九三一年)。



二、法規の歴史的意味内容の確定と広義の欠缺補充(1)
    最初に、民法一七七条の「第三者」の範囲を例にとろう。一七六条および一七七条の規定については、フランスの一八五五年三月二三日法(2)を継受した明治一〇年以降の登記実務・裁判実務の前史(3)があり、かつ先行する制定法規−明治一九年の登記法第六条「登記簿ニ登記ヲ為ササル地所建物船舶ノ売買譲与質入書入ハ第三者ニ対シ法律上其効ナキモノトス」−、および旧民法財産編三四五条以下、とくに三五〇条が存在した。つまり、問題の解決について明治民法施行前にすでに制定法規が存在した領域なのである。
  旧登記法の解釈について、富井政章・契約法講義(時習社  一八八八年=明治二一年)一六九頁は、次のように述べていた。
    「千八百五十五年即チ現行登記法ニ於テハ登記ナキ旨ヲ申立ルノ権利ヲ有スル者ヲ狭クセリ。登記セサル権利ハ同一ノ不動産上ニ権利ヲ得テ先ニ登記シタル第三者ニ対シテ其効ナシトス(第三条)。我現行登記法ニハ唯『第三者ニ対シテ効ナシ』トアリ(第六条)。其文少シク簡ニ過クト雖モ、仏国登記法ニ云フ第三者ト全ク同一義ナルコト疑ヲ容レス。第三者トアル以上ハ、取引者雙方ノ間ニ於テハ合意ノミヲ以テ所有権移転スルモノト云ハサル可カラス(然レトモ実際ニ於テハ登記ヲ以テ売買書入ノ要素ト解スル人少ナカラスト云フ)。故ニ又尋常一般ノ債主ノ如キ特定財産上ニ権利ヲ有セサル者ハ第三者ノ部内ニ入ラサルナリ(後第二百四十三頁参看)」(句読点・引用者)
  彼にとって、当該不動産について「特定財産上ニ権利ヲ有セサル者」(たとえば、不法行為者、不法占拠者、一般債権者)が「第三者」に該当しないことは当然のことなのであった。一八九〇年=明治二三年公布の旧民法財産編三五〇条は、「名義上ノ所有者ト此物権ニ付キ約束シタル者又ハ其所有者ヨリ此物権ト相容レサル権利ヲ取得シタル者 ceux qui ont traite´, au sujet des me^mes droits, avec le proprie´taire titulaire, ou qui ont acquis de lui des droits incompatibles avec les premiers」と明確に表現していた。また、明治民法の起草過程においては、所有権侵害に基づく物権的請求権や損害賠償請求権の要件論で登記が不要であることは当然視されているのである。こうみてくると、法典調査会における穂積陳重の発言「本条ノ主トシテ居ル所ト(ハ)前ニ譲渡ガアツテ夫レカラ又後ニ譲渡ノ行為ヲ為ス前後二者ノ譲渡ノ行為ガ抵触スル時ニ重モニ此箇條ガ実際上必要ニナルノデアラウト思ヒマス」(日本近代立法資料叢書1  民法議事速記録一  五八四頁下段)は決して偶然のものではないのである。富井政章・民法原論第一巻総論が一七七条の「第三者」の用語法について「利益相反スル者トノ間ニ権利ノ争」(一九二二年=大正一一年版では一〇五頁)と表現したのはこのような背景をもっているのである。明治民法に先行する判例(とくに旧登記法のもとでの)がこの意味での制限説であり、かつ意思主義・対抗要件主義との論理的関連を意識していたことを考慮するなら、このように理解することができるのである。
  このようにして、われわれは民法一七七条の「第三者」の範囲に関する歴史的意味内容として次のようにいうことができるのである。「立法者が認識した構成要件の表象」は、「特定財産上ノ権利ヲ有セザル者」(たとえば、不法行為者、不法占拠者、一般債権者)を除外する趣旨であったが、それを一七七条の「表現・文言 Wortlaut」に正確に定着させることに成功していないケースであった。「同一前主から同一不動産に関する(物権的)権利を取得した者」と表現すべきところを「第三者」と表現したのであり(「隠れた欠缺」)、ヘックの言葉を借用するなら「立法者は正当に考えたが不当に表現した Der Gesetzesgeber hat richtig gedacht aber unrichtig gesprochen(4)」のであり、「表現誤謬」の問題と把握することができるのである。ここでは、ヘックの「用語訂正 die Berichtigung des Wortlauts」の問題が生ずる。このようにして、一七七条の「第三者」の範囲については、立法者の表象を一つの根拠にして「対抗問題説的制限説」を根拠づけることができるのである。明治四一年一二月一五日のいわゆる「第三者制限連合部判決」(民録一四輯一二七六頁)が「第三者」の範囲に関する制限説を定式化したのはこのような認識を基礎としたものであった(5)。しかも、「第三者」の範囲が制限されるのは立法者の認識のみが根拠なのではなく、明治民法および先行する法制が採用した物権変動に関する意思主義と登記に関する対抗要件主義にあることもよく知られたことなのである(6)
    明治民法の小作権に対する態度をもっともよく表現している賃借権の譲渡転貸に関する六一二条の規定をとりあげる(7)。賃貸人の承諾を得ない賃借権の譲渡を例にとるなら、賃貸人の承諾なくして譲受人が目的物の引渡しを受けこれを使用収益したことを解除事由とすることが規定されているのである。この規定はどのような「根拠 Grund」をもっているのであろうか。
  六一二条は、旧民法財産編一三四条一項「賃借人ハ賃貸借ノ期間ヲ越エサルニ於テハ其賃借権ヲ無償若クハ有償ニテ譲渡シ又ハ其賃借物ヲ転貸スルコトヲ得  但反対ノ慣習又ハ合意アルトキハ此限ニ在ラス」(但書は、ボアソナード草案にはなかったもので、法律取調委員会で挿入されたものである)の修正として成立した。梅・民法要義巻之三債権篇〔初版〕(一九〇四年=明治三七年)六四四頁は次のように述べている。
    「旧民法ニ於テハ外国ノ多数ノ例ニ倣ヒ譲渡及ヒ転貸ヲ許スヲ本則トセリト雖モ、新民法ニ於テハ我邦ノ多数ノ慣例ニ倣ヒ原則トシテ之ヲ許ササルコトトセリ。蓋シ物ノ使用、収益ヲ為スニハ自ラ巧拙アリ、又注意ニ精粗ノ別アルヲ以テ、甲ヲシテ使用、収益ヲ為サシムル為メ物ヲ賃貸シタル場合ニ於テ、其権利ヲ乙ニ譲與シ又ハ乙ヲシテ其物ノ使用、収益ヲ為サシムルハ我邦ノ慣習ニ於テ当事者ノ意思ニ反スルコト多シト認メタルナリ。殊ニ田畑ニ至リテハ往往収穫ノ一部ヲ以テ借賃ニ供スルカ故ニ、小作人ノ勉不勉、才不才ニ因リテ収穫ノ額ヲ同シウセサルカ故ニ、此場合ニ於テハ外国ニテモ譲渡又ハ転貸ヲ許ササル例多シ」(六四四−六四五頁。句読点・引用者)
  梅は、第一に、この規定について「我邦ノ多数ノ慣例ニ倣ヒ原則トシテ之ヲ許ササルコトトセリ」としているのであって、この規定がなければ債権譲渡の自由が貫徹することが前提とされている。第二に、「物ノ使用、収益ヲ為スニハ自ラ巧拙アリ、又注意ニ精粗ノ別アルヲ以テ」賃借人の変更は「我邦ノ慣習ニ於テ当事者ノ意思ニ反スルコト多シ」としている。当事者の意思の推定にもとづく規定とされている。そして、第三に農地賃貸借での賃料債権の確保がその理由とされている。梅のように「我邦ノ慣例(8)」を根拠とすることができるかどうかについてはここでは立ち入らない。梅の説明から、六一二条の規定の「特殊的根拠 ein specieller Grund(サヴィニー)」が、賃貸目的物の管理能力、賃貸目的物の使用による収益水準に着眼したものであり、究極的には賃貸人の賃料債権の確保がこの規定の根拠なのであった。後者は賃貸人の賃料債権の確保であり、その限りにおいて賃借権譲受人または転借人の「勉不勉、才不才」が問題とされているのである(9)。未定稿本民法修正案理由書自第一編至第三編・完五二七頁が「賃貸人ヲ保護スルニ如カスト信シタリ」としたのはこのような意味においてであった。
  六一二条の問題は、現在の視点からすれば「賃借人たる地位の譲渡」の問題である。賃貸借契約における賃借人の権利(賃借物を使用収益する権能、すなわち賃借権)のみならず、賃借物保管義務、返還義務、賃料支払義務などを含む賃借人たる地位の包括的地位の譲渡・引受である。債権関係は、個々の主たる債務とそれに付随する権利義務が派生する法的特別結合関係のことであり、個々の権利義務の単なる総和ではなく、それを派生させる源泉としての統一体であるとするなら、この債権関係の統一的帰属点としての地位が譲渡されるのである。契約上の地位の譲渡、とくに免責的なそれの場合、「責任財産の転換」が発生する。だから、その限りにおいて契約者の承諾ないし意思的関与が問題になるのであり、六一二条二項が「前項ノ規定ニ反シ」と表現したのはこのような構造を意識していたからである。民法の起草者は、当時の理論状況を反映して(債務引受は承認されなかった)、「賃借権の譲渡」と債権譲渡の形で表現をせざるを得なかったのであるが、意識されていたのは将来における賃料債務契約の履行問題、それに伴う賃貸人の利害関係の問題であり、六一二条の「特殊的根拠」(サヴィニー)はこの意味での賃貸人の保護にあった。
  こうみてくるなら、債務者(=賃貸人)の同意を得ない賃借人たる地位の譲渡はそれが賃貸人の賃料債権に具体的危険を与えるが故に、したがってその限りにおいて解除権を特別に発生せしめたのである(しかも、賃貸人は新賃借人の債務不履行にたいしては解除権による保護手段が当然あるのである)。したがって、六一二条二項の解釈はこのような当該規律の「特殊的根拠」にもとづいて「縮減」されるべきものであり−この意味で「目的論的縮減(9)」を語ることができる−、たとえ無断譲渡であっても賃貸人に具体的現実的危険をもたらさないものには六一二条二項の適用はないのである。このように「当該規定の内的つながり」(サヴィニー)に則して「目的論的縮減」がなされるのである。「信頼関係破壊の法理」として判例・学説が定着させたものは、このような営みとみるべきものである(10)
    明治民法の施行前には存在しなかったとされた(11)取得時効をとりあげる。
  民法は短期の取得時効について、「十年間所有ノ意思ヲ以テ平穏且公然ニ他人ノ不動産ヲ占有シタル者カ其占有ノ始善意ニシテ且過失ナカリシトキハ其不動産ノ所有権ヲ取得ス」(民法一六二条二項)、と規定している。この規定は、旧民法証拠編一三八条一項「不動産ノ取得時効ニ付テハ所有者ノ名義ニテ占有シ其占有ハ継続シテ中断ナク且平穏公然ニシテ下ニ定メタル継続期間アルコトヲ要ス」、同一四〇条一項「占有カ上ニ定メタル條件ノ外財産編第百八十一條ニ記載シタル如キ正権原ニ起因シ(est fondee sur un just titre)且財産編第百八十二條ニ従ヒテ善意ナルトキハ占有者ハ不動産ノ所在地ト時効ノ為メ害ヲ受クル者ノ住所又ハ居所トノ間ノ距離ヲ区別セズ十五个年ヲ以テ時効ヲ取得ス」の修正として成立したものであり、旧民法での「正権原かつその登記」が「善意無過失」に変更されたことがもっとも重要な修正点である。
  梅の時効法講義(12)から旧民法の規定に対してどのような取得時効制度を考えていたかをみることにする。梅は、無権原の代表的な例として、a.前主所有者でない場合(一四一頁)、b.処分者に代理権がない場合(同)、c.処分者精神錯乱の場合(同.意思無能力者の場合か?)を挙げている。第二に、売買契約が全く「不成立ノ場合ニハ全ク権原ナ(シ)」(一四二頁後から三行目)としているが、遺贈にあたって公証人の前で遺言証書を作成しなかった場合(同)、行為時に精神錯乱した場合(同)には、一四二条は正権原にあたらないとしているのであるが、もしこれを正権原ということができるならば、善意の場合には一五年となろうとしている。また、第三に、無能力(ここでは行為無能力の意)または承諾の瑕疵に基づいて取消された場合には証拠編一四二条の規定がある以上正権原ではないが、取消されない間は正権原であるとする。そして最後に、旧民法で無効とされている他人の者の売買について、正権原の典型は他人の物の売買であるとする(一四三頁)。
  このような梅の認識から、起草者(梅が中心)が「正権原かつその登記」↓「善意無過失」と修正した意味をみるならば、梅にとって、瑕疵ある法律行為による占有取得(詐欺・脅迫の例)、無効な取引行為による占有取得(明治民法では錯誤の例)、処分権限のない者(無権利者・無権代理人)からの占有取得(他人の物の売買を含む)を短期取得時効制度の適用対象と考えていたことが明らかになる。この意味で、民法の規定は、有効な債権関係がありながらただ前主が無権利者だったために物権を取得しえなかった譲受人を保護する制度と捉える系譜(13)に位置づけられるのであるが、それに限定されるものではなく、契約不存在の場合は別として、契約に瑕疵がある場合(無効・取消事由の存在する場合)をも対象としている点で、その領域は拡大されているのである。
  このような立場からすれば、いわば完全に有効な取引行為は存在するが登記を得ていない場合(いわゆる有効未登記型)についてどのように捉えられているのか。すでにみたように、民法の規定は登記との関連を切断したのであるから、一七七条とは全く無関係な存在となったことを明確にしなければならない。対抗問題で救済されない者を取得時効で救済してもよいのかといった、回答をあらかじめ予定した設問はもともとなりたたないのである(ちなみに、或る規定では救済されないが、他の規定では救済されるといった現象はいたるところにある)。あるいは、仮に、立法者は完全に有効な取引行為によって占有を取得したケースに取得時効を適用することを全く予想していなかったと仮定した場合、正権原・登記要件削除が持つあるいは持ちうる意味についての認識(直観 Anschauung)に不完全さがあるということになる。「立法者が認識した構成要件の表象」での誤りまたは不完全性の問題である。このような場合、勿論解釈というよりも、むしろ類推適用によることになろう(14)
    利息制限法一条四条各二項の規定にもかかわらず、最高裁判所が任意に支払われた制限超過利息等の元本充当計算・取戻の法理を確立したことは余りにも著名なことである(最大判昭和三九年一一月一八日民集一八巻九号一八六八頁、最大判昭和四三年一一月一三日民集二二巻一二号二五二六頁、最(三)昭和四四年一一月二五日民集二三巻一一号二一三七頁等)。そして、その基本的性格が業法である「貸金業の規制等に関する法律」(昭和五八年法律三二号)の四三条が、貸金業者からの貸付で一定の要件を備えた場合に、制限超過利息等の任意の弁済を「有効な利息の債務の弁済とみなす」と規定することによって、判例理論の骨抜きを図ろうとしたこともよく知られたことである(15)
  ところで、立法者が既払いの制限超過利息等の返還請求を明文(利息制限法一条四条各二項)で否定した理論的根拠は必ずしも明確ではない。たしかに、議会では制限地超過利息等の元本充当を前提とする説明もなされており、法務省の説明にもこれを認める趣旨の文言がある。「超過部分の利息の約定自体は、あくまでも無効である。従って、利息の限度をこえる金額を支払った場合には、その超過部分は、元本債権の存在する限り、元本の支払いに充てたとみるべきである。また同項(利息制限法一条二項のこと・引用者)は、第一項の規定による無効を理由としては、既に支払ったものの返還を請求できないことを規定したにすぎない」(昭和二九年六月一日民甲一一三七号民事局長通達「利息制限法の施行について」)。しかし、これも、制限超過利息等の見做し元本充当が返還請求否定の根拠の一つたりうることを示唆したにすぎないのであって、無効を理由とする返還請求を否定する根拠そのものを明らかにしたものではない。
  他方で、利息制限法と同時に成立した「出資の受入、預り金及び金利等の取締等に関する法律」(昭和二九年  法律一九五号)五条が加罰金利を定めたのであるが、加罰金利を越えない制限超過利息契約およびその誅求についての刑事的行政的制裁を否定したのであるから、制限超過利息等の契約とその誅求が事実上放任されたのである。大蔵省・法務省の「緊密な連絡のもとに立案された(16)」利息制限法および出資法は、庶民金融業法構想を含めた金融業法構想の挫折形態として成立した国民金融公庫法・中小金融公庫法・貸金業等の取締に関する法律に直結するものではなく、高金利等の取締に関する法律案(昭和二七年五月六日  内閣提出)の廃案を経由したものであり、かつ金融業を法的規制の対象外とする構想の産物であった。利息制限法・出資法は結果的には、高利貸資本とその背後の金融資本が国家機関・制度(裁判・公正証書・抵当権設定等)を通じて公然と生産・生活に浸食することを否定したに止まるのであった。貸金業者には出資法の制限を上回らないかぎり制限超過利息等の誅求が事実上許されたのである(出資法は、昭和二四年貸金業法を廃止したにとどまらず、かつ貸金業者に対する行政的規制を事実上放棄している)。利息制限法一条四条二項は私法上もこれを事実上許容することを意図したものであった(17)
  利息制限法は、私人の間の消費貸借に関する法律であり、それは民法と同じレベルの規定である。利息制限法一条四条各二項が定める返還請求権否定の「特殊な根拠」は明示されなかったのであり、またこのような民法と同じレベルの立法で、しかも「特殊な根拠」のない(民)法理論不適合的規定については、結局のところ、債務不存在を知りながら行った弁済(非債弁済)あるいは不法原因給付にもとめなければならなかった。利息制限法一条四条各二項の規定は、特別の根拠なく私法の一般的ルール・原理を明確に逸脱した立法であった。このような立法が解釈によって否定されることは許されることなのである(18)

(1)  本項での検討対象は限定される。法の解釈方法の基礎的な枠組みとその包括的検討については、磯村・前掲「法解釈方法の諸問題」、広中・前掲「判例で学ぶ民法解釈方法の基礎知識」参照。
(2)  フランスの一八五五年法については、星野英一「フランスにおける不動産物権公示制度の沿革の概観」同・民法論集第二巻(有斐閣  一九
七〇年)一頁以下、とくに四一頁以下参照(初出は、江川英文編・フランス民法の一五〇年・上  一九五七年)。
(3)  この点については、福島正夫「旧登記法の制定とその意義(一)」法学協会雑誌五七巻八号(一九三九年)八一頁注(11)、同「日本における不動産登記法の歴史」法律時報二四巻三号(一九五二年)一〇頁及び注(11)参照。明治一〇年七月七日司法省丁四九号達(法令全書九一五頁)、明治一〇年八月二九日の建物売買譲渡規則第二条の改正(法令全書六一頁)、明治一〇年一〇月一七日司法省指令(民事要録丁四七頁)に関連する問題であるが、法務図書館所蔵の立法資料によって一八五五年三月二三日法との関連は立証できる。不動産登記法六条に関連する判例については別の機会にその構造を明らかにする。
(4)  Heck, a. a. O., S. 208.  津田訳二七八頁。
(5)  この点について、拙稿「第三者制限連合部判決における『正当ノ利益』概念について」立命館法学一三三−一三六合併号(一九七七年)一一八頁、法律時報五二巻三号(一九八〇年)一三〇頁以下、法律時報五四巻四号(一九八二年)九六頁以下(いずれも「民法学のあゆみ」での書評)参照。紙幅の制約上、いわゆる「背信的悪意者」に触れることはできないが、さらに「わら人形の法理」、禁反言の法理、不誠実な権利取得の抗弁、公序良俗違反のルールが加重的に縮減する構造である。
(6)  川島武宜・所有権法の理論(岩波書店  一九四九年)二六六頁、原島重義「『対抗問題』の位置づけ−『第三者の範囲』と『変動原因の範囲』との関連の側面から−」法政研究三三巻三−六合併号(一九六七年)四三頁以下参照。
(7)  小作関係についての明治民法の本質的性格を譲渡・転貸に関する規定に求めることについては、たとえば潮見俊隆他・日本の農村(岩波書店  一九五七年)三四八注(1)〔渡辺洋三〕、小柳春一郎「穂積陳重と舊民法」法制史研究三一号(一九八一年)一二九−一三三頁参照。筆者も「小作権の『当然承継論』をめぐる明治二〇年代の大審院判例について」土地法の理論的展開(法律文化社  一九九〇年)二七六頁以下、三一五頁以下で簡単に触れたことがある。
(8)  梅は「我邦ノ多数ノ慣例」・「我邦ノ慣習」の二つの用語を用いている。前者は恐らくは「裁判慣例」を指していると思われるが、この点は検討課題である。サ
  なお、穂積陳重が、旧民法の規定は「社会上ノ関係ニ於テモ」問題があるとし、日本における賃貸借関係を「独リ利益上ノ関係ノミナラズ、人事上、社会上ノ関係ヲモ含ム」ものであり、さらには「徳義上ノ関係ヲモ含ム」ものであるととらえ、賃借権の処分の原則的禁止を主張していたことも考慮しなければならない。この点は、小柳春一郎「穂積陳重と旧民法−『民法原理』講義を中心に−」法制史研究三一号(一九八一年)一〇五頁以下、とくに一二九頁以下を参照のこと。これにくらべるなら、梅の表現はザッハリッヒである。
(9)  隠れた欠缺 verdeckte Lu¨cken についての目的論的縮減 teleologische Reduktion 論は、ラーレンツ=カナリスのラインで確立した概念である。Vgl. Larenz, a. a. O. S. 391f.  広中論文は「目的論的縮小」と表現しているが、ここでは青井論文での目的論的縮減の用語を用いることにする。ここでの最大の問題は、「隠れた欠缺」の認識方法と「目的論的縮減」の方法とくに「目的」の把握である。この点について、青井秀夫「ヘックと類型法学−いわゆる『隠れた欠缺』をてがかりとして−」法社会学四六号(一九九四年)一七六頁、Hideo Aoi, Die sogenannten verdeckten Lu¨cken:Typenjurisprudenz contra Begriffsjurisprudenz?S. 23f, und Anm. 5. 参照。
(10)  目的論的縮減については、サヴィニーの「不当な表現 unrichtiger Ausdruck」の解釈に立ち返ることが必要である。この項は、個々の法律の解釈(全体としての法源の解釈、とは異なる)のなかの「欠陥のある法律の解釈」において、展開されているものである。なお、サヴィニーは、矛盾 Widerspruch・欠缺 Lucken を「全体としての法源の解釈」で展開する。サヴィニーは、表現の誤りあるいは不当な間違った表現にあっては「法律の本当の思想 Gedanke」≠「法律の表現」であり、「表現は単なる手段であって、思想が目的であるから、思想が優先されなければならず、したがって表現は思想に従って修正されなければならないことは、疑いない」(小橋訳二一四頁、原文では S. 230−31.)とする。「不当な表現」での特徴は、(i)はっきりした思想が不完全な表現とむすびついて存在すること、(ii)修正されないで表現でも、理解でき適用できる思想を示していること、にあり、とくに(i)は「歴史的な方法によってのみ認識すること nur auf historischem Wege erkennen ができる」(訳二一五頁)とされる。サヴィニーは、「不当な表現」を是正する三つの方法(当該法律の内的つながり、法律とその根拠とのつながり、解釈の結果内容の内的価値)のそれぞれについて、「誤り除去の手段としては最も危険がない」、「もっとも重要であるがもっとも危険」、「全く不可」と評価を与えている。
  なお、広中論文は、「目的論的縮小」論を隠れた欠缺のある規定について解釈論的に「適用除外ルールの附加」を行うこととする。一般的すぎる用語それ自体を当該規定の特殊な根拠に基づいて縮小・縮減することとしないのは、一七七条や六一二条での証明責任の分配に関する教授の解釈論との整合性が背景にあるものと思われる。
(11)  この要因はなお検討されるべき課題がある。
(12)  立命館大学が所蔵している梅謙次郎・時効法講義(発行所・発行年月日不詳全一四八頁)を使用する。その一頁に「梅謙次郎先生口述  本校校友筆記」とあり、その肩書が「本校講師  法科大学教授」とあるから、和仏法律学校の講義録と考えてよい。本書は、岡孝=江戸恵子「梅謙次郎著書及び論文目録−その書誌学的研究−」法学志林八二巻三=四合併号(一九八五年)一五四頁及び一五七頁注(7)・(8)が明治二五年の著作と推定している『民法証拠編時効法  和仏法律学校蔵版〔第二期講義録・講述〕』と同一であるか、ほぼ同じ時期のものと考えてよい。
(13)  来栖三郎「民法における財産法と身分法(三)」法学協会雑誌六一巻三号(一九四三年)一頁以下、三藤邦彦「一九世紀ドイツ普通法学における取得時効制度」学習院大学政経学部研究年報七号(一九六一年)一〇七頁以下参照。
(14)  現在、「他人ノ不動産」の要件は解釈論上修正されている。最判昭和四四年一二月一八日民集二三巻二四六七頁は有効な売買契約当事者間においての(買主)の取得時効の主張を認容している(この判決については、四宮・民法総則〔第四版〕(弘文堂  一九八六年)三〇〇頁注(2)の(a)参照)。また、判例は、二重譲渡型の事件においても、取得時効の主張を認めている。大判大正九年七月一六日民録二六輯一一〇八頁、最(二小)判昭和四二年七月二一日民集二一巻六号一六四三頁、最(二小)判昭和四六年一一月五日民集二五巻八号一〇八七頁参照。昭和四六年判決は、占有を取得した第一買主(=登記を得ていない所有者)は第二買主との関係では所有権を取得するものではないと構成する(技巧的すぎる感がするが)。四宮・前掲書三〇一頁注(2)の(b)、三〇五頁注(5)の(a)参照。有効な契約に基づいて所有権を取得した者の占有には、「第三者」との関係においては、なお「『他人ノ物』的要素」が含まれるとしている。
  起草者でこの問題に直接言及しているものに、富井政章「売主ノ登記義務ト時効」法学新報二一巻六号(明治四四年)九五頁がある。この点については、大河純夫=村井祐子「『取得時効と登記』に関する大正期判例理論の一断面」立命館法学二三五号一九九四年)五〇頁参照。
(15)  文献は多いが、森泉章・判例利息制限法〔増補第二版〕(一粒社  一九八二年)参照。ごく最近のものとしては、広中俊雄「我妻民法学と反制定法的解釈(一)・(二)・(三・完)ジュリスト一〇九三号八八頁、一〇九四号一〇二頁、一〇九六号七四頁が興味深い。
(16)  第一九回国会衆議院法務委員会議録二八号八頁。拙稿「サラリーマン金融と利息制限法」立命館大学人文科学研究所紀要三〇号(一九七九年)七四頁以下、とくに七七−八九頁、「サラリーマン金融の法的規制」渋谷隆一編・サラリーマン金融の実証的研究(日本経済評論社  一九八〇年)一五九頁以下、とくに一六四−一八三頁以下を参照のこと。
(17)  以上の推移とその評価については、さしあたり前掲・拙稿「サラリーマン金融の法的規制」を参照。
(18)  磯村哲・前掲「法解釈方法の諸問題」一〇四頁は、「(立法的対応が望ましいことはいうまでもない)、法規の形式的適用が現在の事態に対して耐えがたい結果をもたらす場合は、取引の不可避的要求・事物の本性・法的諸原理を基準として理由を明示したうえであえて反法律的規範創造をなすこともやむをえないであろう」と基準を示している。広中俊雄・前掲「判例で学ぶ民法解釈方法の基礎知識(10)」は、利息制限法一条四条各二項の問題は「社会経済的」=歴史的なものであるとし、基本的には「高利貸資本の機能に対する社会の評価を支える条件」との関連で反制定法的解釈を問題としている。筆者には、広中論文での「社会」の意味が理解し難いのであるが、特定の構成を採用した昭和二九年の利息制限法それ自体に歴史的規定性を賦与することが先決課題であるように思われるのである。「立法者が法理念にもとづく法的原理や事物の本性を誤認ないし無視して規定」(磯村・同前)した側面を無視し、「社会」状態の基本的変更に法規訂正の正当性を帰着させるにはなお疑問が残るからである。


まとめにかえて


  以上、本稿は、私法の解釈をめぐる最近の新たな動向を刺激されて、目的論的縮減、類推適用、反制定法的法規範創造の前提である、歴史的解釈の可能性についてささやかなデッサンを描いたにとどまる。残された課題は別の機会に譲らざるをえない。客観説(法律意思説・目的論的解釈)の優位についての日本に特有の背景を補足して、本稿を閉じることにしたい。
  日本の法律学はヨーロッパの法律学を継受したのであるが、継受の対象は一九世紀末のヨーロッパの法(律学)であった。それは、フランスの注釈学派が衰退の兆しをみせドイツ民法典が成立する前夜の法律学なのであって、近代的私法典での欠缺の存在が白日のもとにさらされ、解釈方法論的にも客観説(法律意思説)が優位にたつ時代であった。日本の法学方法論の誕生はこのようなヨーロッパ法学の中にあった。
  のみならず、明治民法・商法施行に先行する明治前期法曹法の特有の構造があった。この国において(おそらくは)最初に解釈(方法)の問題を取り扱った一八七五年=明治八年の井上毅「法律申明」(ここでの「申明」は「解釈」の意味である)は、次のように述べている。
    「凡ソ法律ノ最要ハ文理明白ナルニ在リ。法ヲ布クノ日人々其ノ令スル所禁スル所防ク所定ムル所ヲ知ルコトヲ得。是レ其ノ貴フ所ナリ。然ルニ人智未タ完カラサル人言ノ未タ備ハラサルニ於テ、法律ノ條章暗澁抵觸踈漏ノ病ヲ現セサルコト勢ノ能ハサル所ナリ。其暗澁ヲ解キ其ノ抵觸ヲ擇ヒ其踈漏ヲ補フ、是ヲ法律申明ノ任トス」(井上毅傳史料篇第一六九頁。句読点・引用者)
  日本は、明治維新以降、とくに一八七五年=明治八年以降の司法組織の整備にもかかわらず、法体系の整備には四半世紀を要した(正確には、条約改正がらみで驚異的なスピードで整えた、というべきであろうが)。この期間の法律の欠缺のもとで、明治前期の実務法曹は外国の法典・法理論、慣習、あるいは裁判慣例に依拠して判断をしなければならなかった。井上毅の「法律申明」はこの状況を見通したものであった(民法編纂に消極的であった井上からすれば当然のことというべきであるが)。このような、制定法に依拠することが少なく、制定法外の基準によって解決せざるをえなかった明治前期実務法曹の伝統と体質を考慮しなければ、日本における客観説(目的論的解釈)地位は説明しえないであろう。
  しかも、日本の場合、旧民法の制定作業はほとんど秘密裡になされたし、明治民法・商法の制定でも、司法省等による慣行調査、意見聴取、法典調査会への商工会関係者の参加等、ある程度の改善はなされたものの、その議事録はながい間秘密にされていた。日本の学説は民法制定の基礎資料への接近を行うことが出来なかったのである(1)。日本の法律学は、法規の生成過程を学問的に分析する手段に乏しいために、立法学・法政策学と解釈法学との架橋の手段を十分にもつことはできなかったのである。
  しかし、さいきんは、ボアソナード関連文献、法律取調委員会議事筆記・法典調査会議事速記録や起草者の著書などの再発掘・復刻がなされ、民法の解釈をめぐる環境は大きく変わろうとしている。このような状況を意識し、最近の論考が分析方法を深化させているのは、この国の法解釈方法に新たな基礎づけを与えるものといえよう(2)。明治民法はその公布(一八九六年四月二七日及び一八九八年六月二一日)から満百歳を迎えようとしている。法律の解釈は現実の問題から、そして現実の法の批判的認識にはじまる。明治民法施行にいたる時期における内容豊かな日本私法史との対話(3)という作業を付け加えることによって現代日本における私法の解釈に寄与する作業がなされなけばならない。

(1)  立法過程の非公開性は、現在においても克服されていない。根抵当立法・仮登記担保法・製造物責任法、あるいは最近の刑法改正ををあげるまでもなく、要綱試案の公表・意見の聴取などにとどまるのであって、いまにいたるも法制審議会の議事録すら公表されない。
(2)  外国法の継受としての性格を持つ明治民法の歴史的意味内容の確定にとっては、サヴィニーの文法的解釈はなお意味をもっているように思われる。Savigny, a. a. O. s. 212.  小橋訳・現代ローマ法体系代一巻一九九頁。サヴィニーの文法的要素・解釈 die grammatische Auslegung は「立法者によって適用された言語法則の説明」なのであり、われわれが文理解釈といっているものとは異なる。ローマの法文の解釈を意識したものであり、聖書解釈におけるヘブライ語等の文法の重視と同一の意義をもっている。たとえば、スピノザ・神学・政治論(畠中尚志訳  岩波文庫)上二三二頁以下参照。
(3)  井ケ田良治・法をみるクリオの目(法律文化社  一九八七年)二三頁参照。