立命館法学  一九九六年五号(二四九号)1043頁(157頁)




高齢者の遺言能力



鹿野 菜穂子




一  は じ め に
二  日本民法の規定とその沿革
三  遺言能力をめぐる現在の学説と裁判例
四  若干の検討
五  む  す  び




一  は  じ  め  に


  日本において、高齢者の割合が急激に増加してきていることは周知の通りである。総務庁統計局の国勢調査によると、日本の人口に占める高齢者(六五歳以上の男女)の割合は、一九九〇年で一二パーセントであり、一九九五年では一四・八パーセントとされている。この数値は、二〇年前の約二倍に当たるが、さらに今後もこの割合は上昇を続け、一五年後には二〇パーセントを上回ると予想されている(1)
  高齢者の紛争事件と言えば、かつては扶養をめぐる事件がその多数を占めていた。しかし、扶養をめぐる事件、とりわけ老親から子どもに対する金銭扶養請求事件は、家庭裁判所の統計の上でもかなり減ってきており、逆に、高齢者の所有する財産をめぐる事件が増加している。
  高齢者の財産をめぐる紛争の第一の類型は、高齢者の取引(財産の生前処分)をめぐるものである。その中でも、近時、特に問題になったのは、いわゆる悪徳業者が、高齢者が正確な判断能力を欠くことにつけこみ、あるいは話し相手を欲しがっている孤独な独居老人にうまく取り入って、土地や商品を高額で売りつけ、あるいは相続税対策と称して危険度の高い商品を売りつけたという事件である(2)。また、老人ホーム契約において、現実の設備やサービスが、入居説明会における説明内容と異なっていたというトラブルも、次第に多くなってきている(3)。このような取引上の問題については、最近、現行民法の行為無能力制度との関わりでも活発な議論が戦わされるようになり(4)、法制審議会でも、現在の行為無能力制度を改正し新たな成年後見制度を設けるための検討作業が開始されるに至った(5)
  一方、日本では近時、公正証書遺言・自筆証書遺言ともに、遺言作成件数が急増しており(6)、それに伴って、遺言の効力をめぐる紛争も急増している。その多くは、高齢者の遺言に関するものであり、とりわけ、遺言により財産上不利益を受ける相続人が、高齢者(遺言者)には遺言をなすのに必要な能力がなかったと主張して遺言の効力を争う事例が多く見られる。このような遺言の効力に関する紛争を、高齢者の財産をめぐる紛争の第二の類型として整理することができよう。遺言は、遺言者が死亡して初めてその効力を生ずる(死因処分)という点では特殊であるが、自己の財産処分に向けられた高齢者の意思が問題になるという点では、取引の場合と共通性を有する。しかし、取引に関する議論が盛んであるのに比べて、遺言の効力に関する議論は十分ではなく、立法的な動きも見られない。
  そこで、本稿では、第二類型の遺言の効力をめぐる問題を、特に遺言能力に焦点を当てて検討したいと思う。

二  日本民法の規定とその沿革


1  遺言能力に関する民法の規定
  日本民法は、九六一条で、満一五歳に達した者は遺言することができると定め、九六二条では、第四条、第九条および第一二条の規定は遺言には適用しないと定めている。さらに、禁治産者については九七三条が、禁治産者も本心に復しているときには医師の立合いの下に遺言をすることができると定めている。これらの規定からは、遺言には総則の行為能力制限に関する規定の適用はないこと、しかし、少なくとも「本心に復している」ような状態でなければ遺言はなしえないことは明らかであるが、より具体的に、遺言をする際にどの程度の精神能力が必要なのかは明らかではない。
  一方、九六三条は、遺言者は「遺言をする時においてその能力を有しなければならない」と規定しているが、ここでも、本条の「その能力」が具体的に何を意味しているのかは、条文上明記されていない。
  しかし、高齢者による遺言の効力が争われる事例の多くでは、遺言の際に必要とされる精神能力が遺言のときに遺言者に備わっていたかが争点となっているのであり、また、自己の死後における財産処分に向けられた高齢者の意思がどこまで認められうるのかという点からも、これを明らかにすることが必要である。ここではまず、遺言能力に関する上記諸規定の沿革を概観しよう。
2  遺言能力規定の沿革
  周知の通り、日本民法の相続編は、戦後の大改正を経験したのであるが、遺言能力に関連する現行法の規定(九六一−九六三条、九七三条)は、ほぼ同じ形で明治民法(明治三一年施行)にも存在していた(一〇六一−一〇六三条、一〇七三条)。この明治民法の諸規定は、他の民法規定と同様、「旧民法の修正」という形をとって起草され審議されたものであったが、旧民法から明治民法に移行する過程で、重要な変更が施されている。
  (1)  旧  民  法
  明治二三年に公布された旧民法は、遺言能力に関する一般的な規定を有していなかった。そこには、遺言によって養子縁組(人事編一二二条)、後見人の指定(人事編一六五条)、遺贈(財産取得編三五二条)等をなしうる旨の規定は存するのであるが、これらに共通する能力規定は存在せず、ただ、本稿のテーマである遺言による財産処分の場合については、財産取得編第一四章一節「贈与又は遺贈を為し又は収受する能力」の中に、特別の規定が設けられていたのである。
  すなわち、まず、財産取得編三五四条は、「法律上特に無能力者と定めたる者を除く外何人に限らず贈与及び遺贈を為し又は収受する能力を有す」と定め、さらに同編三五七条は、より具体的に、遺贈をなす能力を有しない者として、「一  遺贈を為す時に於て喪心したる者、二  民事上の禁治産者、三  瘋癲の為め病院又は監置に在る者、四  未成年者。但し自治産者は此限に在らず」と規定している。ここで遺贈無能力者として列挙された者は、同編三三五条において規定された贈与無能力者と、四号但書を除けば同じである(7)。ここからは、同じく遺言において行う法律行為といえども、その内容によって身分行為的なものと財産行為的なものとを区別し、後者については、その能力の点でも財産法上の規律に近い取り扱いをするという考え方が窮われる。財産取得編後半の相続に関する部分は、日本人委員の手によって起草されたものではあるが、ここには、フランス民法(九〇一条以下)の影響をみることができよう(8)
  (2)  明治民法における修正とその理由
  旧民法におけると異なり、明治民法においては、遺言一般の能力に関する規定が置かれ、しかもその内容は、旧民法の遺贈能力に関する規定とは大きく異なるものであった。ここでは、明治民法の起草委員が法典調査会で行った説明から、その修正理由を見てみよう。
  明治民法一〇六一条(調査会原案一〇六二条)は、現行民法九六一条に対応する規定であり、満一五際に達した者は遺言をなしうる旨定める。起草者(穂積陳重)によれば、同規定は、遺言に関する成年を定めたものとされる。先に見たように、旧民法は、未成年者は原則として遺贈をなすことができないと定めていたのであるが(財産取得編三五七条)、この規定は改めるべきだと考えられた。その理由は、未成年者は限定能力者であり大体の法律行為をなしうること、未成年者が婚姻し財産を得ても遺言ができないのは不都合であること等にあるとされている。そして、具体的に一五歳を遺言成年にしたのは、婚姻年齢が男一七歳、女一五歳であることや、一五歳になれば大人であるという伝統的な考え方を考慮したからだとされている(9)
  明治民法一〇六二条(調査会原案一〇六三条)は、現行民法九六二条に対応し、民法総則の未成年者・禁治産者・準禁治産者の行為能力制限に関する規定を遺言には適用しない旨定める。これも、先に見た旧民法財産取得編三五七条を改め、行為能力と遺言能力を切り離そうとするものである。この修正理由につき、起草者は、遺言は本人が独立して自由に決定すべき行為であること、禁治産者であっても本心に復しているときに自己の財産の死後の処分をつけておくことを許すべきであること、諸外国の規定の多くは準禁治産者に遺言能力を認めていること、にあると説明している(10)
  明治民法一〇六三条(調査会原案一〇六四条)は、現行民法九六三条に対応する規定であって、遺言者は遺言をする時にその能力を有しなければならない旨定めるものである。しかし、この規定の意味について、穂積委員は、遺言が効力を生ずるのは死亡のときであるけれども、遺言能力は遺言作成時にあれば足りるという趣旨を明らかにしたものだと説明するにすぎない(11)。一方、現行民法九七三条一項に相当する明治民法一〇七三条(調査会原案一〇七五条)は、禁治産者が本心に復した時において遺言をするには医師二人以上の立会が必要である旨定めるが、これにつき、穂積委員は、禁治産者も本心に復しているときには遺言が許されるべきであり、ただ後に問題が生じないように、遺言時に心神喪失でなかったことを医者に証明させる趣旨であると説明している(12)
  以上の説明を要するに、明治民法そして現行民法は、遺言者の最終意思をできるだけ尊重しようとする配慮から、未成年者・禁治産者・準禁治産者にも独立して遺言をなすことが認められるべきだと考え、旧民法と異なって、総則の行為能力に関する規定の遺言への適用を排除すると同時に、遺言独自の成年規定を設けたのであり、ただ、禁治産者の遺言については「本心」に基づいて作成されたか否かについて疑いの生ずるおそれがあるから、無用な紛争を回避するために未然の手当を講じたのである。そして、このような修正とそれについての起草委員の説明は、後の学説に少なからぬ影響を及ぼすことになる。

三  遺言能力をめぐる現在の学説と裁判例


1  学    説
  現在の相続法の代表的な教科書・注釈書によれば、遺言に必要な能力は、取引行為の場合に必要とされる行為能力ではなく、身分行為における原則通り、意思能力で足りるとされている(13)
  すなわち、九六二条、九六一条は、遺言には行為能力を必要とせず、ただ事物に対する一応の判断力、すなわち意思能力さえあればよいとし、その意味を年齢の上で明示し、満一五歳といったのである。故に、一五歳未満の者は、意思能力がないとされ、従って遺言能力も認められないが、一五歳以上でも意思能力のない者、例えば精神錯乱中の者は、有効な遺言ができない(14)。九七三条も、禁治産者でも意思能力のあるときには有効な遺言ができることを明らかにしたものであり、ただその証明困難を回避するために、医師の立会を要求したのである。九六三条は、遺言の場合、行為の成立時期と効力発生時期(死亡時)との間に時間的隔たりのあることが多いため、遺言に必要な意思能力は行為の時に必要だという当然のことを注意的に規定したにすぎない(15)
  そして、遺言の場合に意思能力で足りるとされる理由は、@  人の最終意思をできるだけ尊重すべきであり、遺言による財産処分の場合は、死者の遺志を実現させてやった方が、遺族や近親にとって満足に思えることが多いこと、A  最終意思には、欺罔、策謀・貪欲などの忌まわしいものが少ないこと、B  行為能力なき者の最終意思を尊重しても弊害は少ないこと、C  遺言はもともと財産処分ではなく相続人指定のためのものであって、財産行為ではなく身分行為と観念されてきたこと、などに求められている(16)
  ところで、「意思能力」は、財産法の領域において、有効な法律行為をなすのに最低限必要な能力を示す概念として一般的に用いられてきたし(17)、その内容は、「自己の行為の結果を弁識しうる精神能力」と抽象的に定義づけられ、これは七歳の子供程度の知能を意味し、これを欠く「意思無能力者」の行為は無効だと説明されてきた(18)。財産法の領域で展開されてきた「意思能力」についてのこのような一般的定義と、遺言に必要な能力(遺言能力)とが合体すると、遺言については、客観的年齢要件(一五歳以上)を満たす限り、かなり低い精神能力つまり七歳程度の知能があれば、有効にこれを作成しうるという結論が導き出されそうである。しかし、このような基準によって、遺言能力をめぐる紛争を適切に解決することができるのであろうか。そこで次に、若干の裁判例を挙げて、そこにおける遺言能力の判断について見てみよう。
2  遺言能力に関する裁判例
  ここでは、遺言能力の有無が争われた昭和五〇年代以降の事件の中から、積極例(能力肯定)と消極例(能力否定)とをそれぞれ若干数紹介したい。
  (1)  積  極  例
  @  大阪高裁昭和五七年三月三一日判決(家月三三巻六号六六頁、判時一〇五六号一八八頁)高齢者の公正証書遺言の効力が争われた事件。遺言者の言語が不明瞭で公証人に分かり難かったため、遺言者の発音を日頃から聞き慣れその意味を了解できる介助看護婦=証人の一人に通訳してもらい、公正証書遺言が作成された。判決は、遺言者は遺言当時脳軟化症による運動機能の障害や失調症の言語障害があったけれども、意識は確かで判断力もあり、「自己の行為の結果を認識しうる精神的能力である意思能力を有していた」として遺言能力を認め、遺言を有効とした。
  A  浦和地裁昭和五八年八月二九日判決(判タ五一〇号一三九頁)配偶者も子供もいない高齢者(当時九三歳)が姪の一人に土地建物を遺贈するとした自筆証書遺言の効力が争われた事件。本件遺言は、遺言者が高血圧性脳症により意識不明となって入院し、一〇日後の退院の三日後に作成されたものであり、約九ヵ月後に遺言者は死亡している。判決は、当時の担当医師は、本人は入院期間中「指南力見当識(自分の置かれている場所とか相手を認識する能力)は全く不良」との診断を下しているが、見舞いに訪れた親族らの顔を識別できたこと、退院後に往診した医師は本人の話の内容を了解できたこと等から、遺言者は遺言当時「事理弁識能力」を有していたとして、遺言を有効とした。
  B  東京地裁昭和六三年四月二五日判決(家月四〇巻九号七七頁、判時一二七四号三〇頁)高齢者(九四歳)の公正証書遺言の効力が争われた事件。白系ロシア人が、東京麻布台にある一等地をソ連大使館に遺贈する旨の自筆証書遺言を作成していたが、その後、九四歳の時に、前の遺言を取り消して知人のロシア人医師に遺贈する旨の公正証書遺言を作成し、同年に死亡した。判決は、遺言者は、入院中に粗暴な振舞にでたこともあったが、それは一時的な現象にすぎず、本件遺言当時は「全般的に平静な精神状態を維持し、通常人としての正常な判断力・理解力・表現力を有していた」として、遺言能力を認めた。
  C  東京地裁平成五年八月二五日判決(判時一五〇三号一一四頁)高齢者(七八歳)の公正証書遺言の効力が争われた事件。遺言者は、遺言の七ヶ月余り前から脳梗塞により入院し、約二ヶ月半後に退院している。判決は、遺言者は、本件遺言当時、「財産の全部を妻に相続させることを内容とする遺言をする程度の理解力、判断力は十分有していた」として、遺言を有効とした。
  (2)  消  極  例
  @  東京高判昭和五二年一〇月一三日判決(判時八七七号五八頁)高齢者(当時七五歳)の公正証書遺言の効力が争われた事例。遺言者は、六四歳の時に脳9570血で倒れ、その一一年後の七五歳の時に遺言を作成し、その一年二ヶ月後に死亡している。本件遺言書は、弁護士が、遺言者の発する不明確な言葉から、その意思を忖度して遺言の原稿をまとめ、公証人も遺言者の簡単な言動からその意思が原稿通りだと認めることによって作成されたものである。判決は、本件遺言当時、遺言者には是非善悪の判断能力並びに事理弁別の能力に著しい障害があったと認められ、「有効に遺言をなしうるために必要な行為の結果を弁識・判断するに足るだけの精神能力を欠いていた」として、遺言を無効とした。
  A  大阪地裁昭和六一年四月二四日判決(判時一二五〇号八一頁、判タ六四五号二二一頁)高齢者(八一歳)の公正証書遺言の効力が争われた事件。判決は、遺言者は、当時八一歳で、肝障害(肝硬変状態)と肝癌の合併による肝不全症状や貧血等が原因となって、本件公正証書作成の二日前から、昏睡度三(ほとんど眠っており外的刺激で開眼しうる状態)と四(痛み・刺激には反応する状態)の間を行き来する状態で推移し、遺言証書作成の翌日には昏睡度五(痛み・刺激にも全く反応しなくなる状態)に陥って死亡するに至ったこと、本件遺言作成当時にも思考力判断力を著しく阻害された状態にあったこと等を認定し、「このような意識状態に、遺言内容がかなり詳細で多岐にわたることを合わせ考えれば」、本件公正証書作成当時においては、遺言者がその意味・内容を理解するに足るだけの意識状態を有していたとは到底考え難いとして、本件遺言を無効とした。
  B  東京高裁平成三年一一月二〇日決定(家月四四巻五号四九頁)高齢者(当時九六歳)の、知人Aに三八〇〇万円余りの預金債権を遺贈する旨の死亡危急時遺言について、遺言確認をなした審判に対して即時抗告がなされた事件。事案は、Aによる電話の依頼で弁護士Bが病室を訪れ、Aが遺言者は本件預金通帳三通をAにあげると言っていたと主張し、弁護士Bがその趣旨を遺言者に確認しようとしたところ、遺言者は「アー」「ウー」に近い声を発しながら頷いたため、預金債権をAに遺贈する旨の遺言書が作成されたというものである。判決は、高額の預金債権を、親戚をさしおいてそれほど親しくもないAに遺贈するのは甚だ不自然であること、遺言者は当時九六歳の高齢で、老衰による心臓機能低下のためにかなりの重傷で入院していたこと等から、「本件遺言の内容が果たして全面的に遺言者の真意に出たものであると認め得るかについては多大の疑問が生じるのを禁じ得ない」として、事件を原審に差し戻した。
  C  名古屋高裁平成五年六月二九日判決(判時一四七三号六二頁、判タ八四〇号一八六頁)高齢者(七八歳)が、その全財産を、親族でもなく中学卒業以来ほとんど交流もない弁護士Yに遺贈する旨の公正証書遺言の効力が争われた事件。なお、遺言者は遺言書作成の約半年後に死亡している。判決は、遺言者は、本件遺言当時は正常な判断力・理解力・表現力を欠き、老人特有の中等程度ないし高度の痴呆状態にあったものと推認されること、遺言者には簡単な日常会話は一応可能であったが、それは表面的な受け答えの域を出ないものであること、遺言者がYに全財産を包括遺贈する動機に乏しいこと等の事情を総合し、遺言者は「本件遺言当時、遺言行為の重大な結果を弁識するに足るだけの精神能力を有しておらず」意思能力を欠いていたとして、遺言を無効とした。
3  遺言紛争の特徴と問題点
  以上は、遺言能力をめぐる紛争の一部を簡単に紹介したにすぎないが(19)、これらの裁判例の概観から既に、次の点を指摘することができよう。
  まず、遺言能力が争われた事件のほとんどは、遺言者が相続人のうちの一部の者または第三者に財産を遺贈する旨の遺言が存在する場合において、この遺言によって不利益を受ける相続人が、遺言者が遺言当時能力を欠いていたことを理由に遺言の効力を争ったものであり、しかも多くの事件では、能力欠缺とともに、方式違反(特に公正証書遺言における「口授」の要件を欠くこと)の主張も提出されている。つまり、遺言能力に関する訴訟は、相続人による相続財産争いの場としての様相を呈しているのである。
  次に、紛争の事案を詳しく見てみると、「他人主導型」の遺言が多いことにあらためて驚かされる。すなわち、高齢者本人が自発的に自らの意思に基づいて遺言を作成したのではなく、周囲の者が、高齢者の精神能力の減退に乗じて、自分に有利な内容での遺言を作成させたと認められるような事件がかなり存在するのである。公正証書遺言については、公証人を介して作成され、しかも公証人には、遺言の有効性に配慮すべき義務があるとされていることから(20)、そのような危険はないようにも思われがちだが、現実はその逆である。すなわち、日本における公正証書遺言作成手続きは、「公正証書遺言を作成する公証人が、遺言者と接する前に『誰か別の依頼人』から聴取した遺言内容を予め文書にしておき、遺言者との世間話程度のやりとりで遺言能力を判断し、遺言内容を『読み聞かせ』ることで済ませ」られる場合が多いことは、既に公証人や学者によって指摘されているところである(21)。しかも、「別の依頼人」とは、多くの場合、当該高齢者の推定相続人の一人または知人であって、高齢者がその財産を自分に遺贈するつもりであることを、あらかじめ公証人に告げておくのであり、また、「読み聞かせ」による内容確認は実質的に機能しておらず、消極例Bにおけるように、本人が「アー、ウー」と声を発して頷いただけで、本人の「口授」および「意思確認」があったとして済ませられる場合さえある。
  要するに、日本では、遺言によって高齢者の財産の侵奪が行われているという事態が存している。そして、このような事例が増加した原因の一つは、遺言能力は低くても足りるという、先に指摘した一般的観念にあるのではないかと思われるのである。
  もっとも、裁判所の遺言能力に関する判断においては、近時若干の変化も見られる。すなわち、まず、裁判例における遺言能力に関する判断基準に着目すると、確かに比較的早い時期には、「自己の行為の結果を弁識しうる精神的能力」、「事理弁識能力」という、意思能力一般で用いられてきた抽象的な定義を持ち出して容易に遺言能力を肯定するものが見られたが、最近の裁判例の中には、「通常の思考作用」「通常人としての正常な判断力・理解力・表現力」という表現も見られる。このことから直ちに、判例が、遺言能力の程度についてかつての観念を修正したと言い切ることはできないが、この表現の変化には注目すべきだと思われる。
  さらに、裁判例の中には、遺言能力を判断する際、遺言内容の複雑さを一つの重要な要素として考慮しているものがあり、特に比較的最近の裁判例にこの傾向が顕著だという点は注目されるべきであろう。すなわち、遺言能力を肯定した裁判例は、遺言内容が「概括的」ないし「単純」であることを考慮して、その程度の内容については遺言者は理解していたとして遺言能力を認めている。逆に、否定例は、「遺言内容がかなり詳細で多岐にわたる」こと、内容が「単純でない」こと、遺言内容が「重大な結果」をもたらすものであることを考慮して、遺言者がそれを理解していたとは認められず遺言は無効だとしているのである。このように、最近の裁判例の中には、公証実務における安易な遺言能力の認定に反省を迫るようなものが見られるのであるが、裁判所によってその判断には差があるし、しかも裁判にまで持ち込まれるのは遺言能力に関する事件のうちほんの一部にすぎないことを考えると、これで問題が解決されたわけではない。

四  若干の検討


  ここであらためて、遺言能力に関する従来の解釈につき、若干の検討を試みたい。
1  「意思能力」概念の問題性
  日本では、遺言能力=意思能力という理解が一般的であり、それ故、遺言能力を低くしかも抽象的に捉える傾向が存在することは、先に紹介した通りであるが、そもそも「意思能力」の捉え方に、問題があるように思われる。
  意思表示は、表意者が表示の意味を理解した上でこれをなしたものでなければ、表意者の意思に基づくものとはいえない。このこと自体は、一般に承認されており、錯誤(特に表示内容の錯誤)により、当該意思表示の効力が否定されうるのも、それが「表意者の意思に基づくとはいえない」という理由に基づく。
  意思能力の問題は、従来、意思欠缺とは切り離して論じられてきたが、実は意思欠缺と共通の基礎を有すると考えられる。すなわち、意思能力を欠く状態で行った表示が無効とされるのは、その者の意思に基づくとはいえないから、つまり自己決定に基づくものといえないからだといえよう(22)。そうであれば、意思能力の判断は、当該「人」についての抽象的な判断=本人の属性なのではなく、その時点で、その者が当該表示の意味を理解していたといい得るかという具体的な問題として捉えられるべきであり、したがって、その判断においては、表示ないしそこに示された処分行為の内容が問題になるはずである。
  日本でも、近時、意思能力は個々の行為類型によって個別具体的に判断されるべきであるとする見解があらためて主張されているが(23)、これは、「意思能力」に関する従来の誤った観念を修正するものとして、注目されよう。
2  遺言に必要な能力
  ここで再び、遺言に焦点を当てると、遺言も一つの法律行為であり、したがって、それが自己決定に基づくといえる場合にのみその効力が認められるべきことは当然である。したがって、ここでも、およそ遺言能力がどの程度かというように抽象的に論じられるべきではなく、個々の遺言内容に即して判断されるべきである。しかも、裁判で争われている事例の多くにおいて、遺言に記載されている内容は、遺言者の重要な財産(土地・建物や、預金債権、証券等)を一定の者に遺贈するというものである。これを有効と認めるためには、遺言者が遺言の当時、このような財産処分行為の意味(重大性も含めて)および内容を十分に理解していたことが必要ということになろう。
  日本では、遺言能力は財産取引に必要な能力より低くても足りるという考え方が伝統的に強かった。それは、明治民法により行為能力と遺言能力が切り離されたこと、及び、一五歳になれば遺言をなしうるとした規定(明治民法一〇六一条、現行民法九六一条)に関する起草者の説明の影響によるものと思われる。しかし、九六一条について挙げられてきた根拠自体、今日においては必ずしも妥当しないのではないだろうか。
  すなわち、遺言能力が低くてもよい根拠としては、第一に、最終意思には、欺罔、策謀・貪欲などの忌まわしいものが少ないことが挙げられているが、裁判例をみると、最終意思にからんでまさに、欺罔、策謀、貪欲が渦巻いているという実態を見出すことができる。第二に、人の最終意思をできるだけ尊重すべきことが根拠として挙げられており、確かにそのこと自体には異論はないが、実際には、遺言能力を低く捉えることによってもたらされるものは、本人の自己決定権の尊重とは逆に、周囲の一部の者の欲望の満足にすぎない場合が多い。第三に、遺言はもともと、財産行為ではなく身分行為と観念されてきたことが根拠として挙げられているが、今日の裁判例において問題になるほとんどの事例は、財産処分に関するものである。もちろん、現行民法の下でも、遺言によって、財産処分とともに身分行為をなすこともできる(認知等)のであるが、だからといって、遺言能力が一律に低くてよいということにはならない。むしろ、先に「意思能力」に関して述べたように、遺言においても、それが「自己の意思に基づく表示」「自己決定に基づく表示」といえるかが問題だとすれば、遺言一般について必要な精神能力が抽象的に論じられるべきではなく、遺言の個々具体的な内容に即して遺言能力の有無が判断されるべきであり、身分行為を内容とする遺言の場合と、財産処分を内容とする遺言の場合とでは判断が異なることもあってしかるべきである。つまり、「遺言に必要な能力は財産取引に必要な能力より低くて足りる」とされることの根拠は、今日では妥当しないのであり、したがって、この命題自体修正されるべきだと考える。
  上記のように、近時の一部の裁判例では、遺言能力を判断する際、遺言内容の複雑さを一つの重要な要素として考慮していると見受けられるが、これは、遺言能力を抽象的に捉えることなく、個々具体的な行為内容との関係で捉えていることを示しているといえよう。また、裁判例が、他人の主導による遺言作成の可能性が窺われる場合に遺言能力を否定しているのも、当該遺言が本人の真意の表明と認められないからだと理解できよう。
  要するに、遺言能力の判断においては、遺言者がその意味を理解して自らの意思に基づいて遺言をしたといえるのか、という点こそが重要なのであり、裁判例の一部は、既にこれらの点が視野に入れられている点で評価できよう。しかし、裁判例についても未だ楽観を許すような状況にまでは至っておらず、また、公証人を介した遺言作成の場面においては、公証人による遺言者の能力確認はほとんど機能していない。遺言能力は低くてもかまわないという一般的観念は修正されるべきであり、そのことによって、遺言を介して高齢者の財産の侵奪が行われているという事態が、多少は改善されるのではないかと思われる。

五  む    す    び


  本稿では、遺言能力に関する規定の沿革および裁判例を概観し、その若干の検討を行ってきた。そして、遺言は高齢者の財産侵奪の具としてしばしば利用されており、それは遺言能力に関する従来の観念によって助長されてきたと考えられること、それ故、今あらためて、遺言能力の具体的基準を見直すべきであることを述べてきた。
  ところで、冒頭でも触れたように、行為能力については、現在の民法規定を改正し、高齢社会に対応した新たな成年後見制度をめぐる法改正の動きが存するが、遺言能力については、このような動きは見られない。しかし、財産の生前処分に関る通常の法律行為の場面におけると同様、死因処分に関る遺言の場面においても、一方で高齢者の自己決定権を最大限尊重するとともに、他方で、「自己決定」の外形の下に、高齢者が他者の「餌食」にならないよう十分に配慮し保護すべきことが要請されるのである。先に指摘したような、日本の遺言をめぐる問題性と、今後さらに予想される遺言件数の増加に鑑みれば、遺言についても、「遺言能力」に関する解釈を修正するという解釈論だけではなく、制度的にも、高齢遺言者の自己決定権を尊重しつつ、真意の確保を可能ならしめ、他者による財産侵奪を排除しうるような手当が必要だと考えられる。遺言における問題性は、従来、遺言件数が多くなかったことにも起因して、十分には意識されてこなかったのであり、それだけに一層、今後検討されるべき課題として注目されるべきであろう。

(1)  厚生省人口問題研究所「日本の将来推計人口(平成四年九月推計)」
(2)  高齢者をねらった悪質商法の具体例については、鈴木茂子「高齢消費者の受難−問題続出の『シルバーマーケット』−」賃金と社会保障一一五一号四五頁以下(一九九五年)、升田純「判例からみた高齢者問題」金融法務事情一三五二号一五頁(一九九三年)参照。近時問題になった変額保険における保険加入者の大多数も高齢者である。
(3)  この問題については、濱田俊郎「老人ホーム契約の展望―ドイツの『ホーム法』改正を契機として」ジュリ九七二号四四頁(一九九一年)、後藤清「有料老人ホームに関する若干の考察」民商一〇四巻四号四四頁(一九九一年)を参照。
(4)  現行の無能力者制度の問題点を指摘する文献は数多いが、特に、須永醇一「成年無能力制度の再検討」法と精神医学五号三七頁、新井誠「成年後見法の課題」石川他編『家族法改正への課題』四三七頁以下(一九九三年)、米倉明「成年後見制度模索の第一歩」ジュリ九七二号一二頁(一九九一年)、同「日本法への示唆(特集・成年後見制度の検討)」ジュリ九七二号五〇頁(一九九一年)、野田愛子他「座談会  成年後見制度の必要性」ジュリ一〇三八号七八頁(一九九四年)、同「成年後見制度の展望」ジュリ一〇五九号一六三頁(一九九五年)、新井誠『高齢社会の成年後見』(有斐閣・一九九四年)、須永醇編『被保護成年者制度の研究』(一九九六年)、深見玲子「わが国における成年後見制度の現状と若干の提言」家月四八巻七号一頁(一九九六年)を参照。立法提言としては、額田洋一「成年後見法制定要綱『私案』」ジュリ一〇五五号一〇一頁(一九九四年)、道垣内弘人「成年後見制度私案(一)−(七・完)」ジュリ一〇七四号−一〇八〇号(一九九五−六年)、高齢者の身上監護に焦点を当てるものとしてさらに、小賀野晶一「成年身上監護制度論(一)−(四・完)」ジュリ一〇九〇号−一〇九四号(一九九六年)がある。なお、九五年の日本家族〈社会と法〉学会でも成年後見がシンポジウムのテーマとして取り上げられた。
(5)  法務大臣の諮問機関である法制審議会・財産法小委員会が九五年六月二〇日に開かれ、痴呆症の高齢者や知的障害者の権利を保護するため、現行民法の禁治産制度の見直しなど、必要な法整備に取り組んでいくことが決められた。これにつき、丸山健(法務省民事局付検事)「新しい成年後見制度の創設に向けて」NBL五九〇号一五頁(一九九六年)参照。
(6)  『平成五年司法統計年報・家事編』によると、公正証書の遺言件数は、一九七五年が二万三千四二七件であったのに対し、九三年では四万六千九七四件と約二倍になっており、遺言書の検認件数は、七五年の一千八七〇件に対し九三年は七千四三四件と約四倍になっている。
(7)  遺贈能力に関して、三五七条四号が「未成年者。但し自治産者は此限に在らず」と定めるのに対し、贈与能力について定める三五五条の四号では、「未成年者。但し夫婦財産契約の為め法律の特に許す場合は例外とす」とされている。
(8)  人事編・財産取得編(後半)の起草経緯とそれに対するボアソナードの影響については、向井健「民法典の編纂」福島正夫編『日本近代法体制の形成(下巻)』三一三頁以下、三七六頁(一九九二年)参照。
(9)  日本近代立法資料叢書七法典調査会民法議事速記録七(商事法務研究会)六二四−六二五頁。
(10)  前掲注(9)法典調査会民法議事速記録七・六二六頁。
(11)  前掲注(9)法典調査会民法議事速記録七・六二九−六三〇頁。
(12)  前掲注(9)法典調査会民法議事速記録七・六八二頁。
(13)  中川善之助=泉久雄『相続法』[第三版]四五一頁以下(一九八八年)、中川善之助=加藤永一編『新版注釈民法(28)』五一頁以下(一九八八年)、泉久雄他編『民法講義八』二七九頁以下[泉久雄](一九七八年)、高木多喜男『口述相続法』四三二頁(一九八八年)、瀬戸正二「遺言能力」判タ六八八号三三八頁(一九八九年)。
(14)  中川=泉・前掲四五二頁、瀬戸・前掲三三八頁。
(15)  中川=泉・前掲四五三頁、『新版注釈民法(28)』五七頁[中川善之助=加藤永一]。これに対し、大島俊之「遺言能力」『現代社会と家族法』四八〇頁(一九八七年)は、民法九六三条は遺言能力の存在すべき時期を明らかにする規定とのみ解すべきではなく、遺言者には遺言能力がなければならないという重要な根本原則を定めたものだとする。
(16)  中川=泉・前掲四五二頁、『注釈民法(26)』四三頁[中川善之助](一九七三年)、瀬戸・前掲三三八頁、前田幸男「被相続人の法律行為と精神能力について」税理三〇巻八号一六二頁(一九八七年)。
(17)  判例(大判明三八・五・一一民録七〇六頁、最判昭和二九・六・一一民集一〇五五頁)、通説(例えば、我妻栄『新訂民法総則』六一頁)である。
(18)  於保不二雄『民法総則講義』四七頁(一九五一年)、『注釈民法(1)』一七七頁[高梨公之](一九八三年)。さらに、鈴木禄弥『民法総則講義』一四頁(一九八四年)、川島武宜『民法総則』(法律学全集)一七一頁(一九六五年)も参照。
(19)  遺言に関する裁判例の詳細については、倉田卓次『解説・遺言判例一四〇』判例タイムズ社(一九八四年)、同「公証と遺言判例」ケース研究二三五号七九頁以下(一九九三年)、加藤永一『遺言の判例と法理』(一九九〇年)、同『遺言・民法総合判例研究(57)』(一九七八年)、五十部=上原=春日「近時の公正証書に関する裁判例」民訴雑誌三一号一八五頁(一九八五年)、右近健男「公正証書遺言判例研究(下)」判時一五一八号一六五頁以下(一九九五年)、蕪山巌「公正証書遺言に関する一報告」判タ七一六号一八頁以下(一九九〇年)を参照。
(20)  加藤永一「遺言作成過程と証人・立会人の役割」法学五〇巻五号六八四頁(一九八七年)、蕪山前掲二三頁以下。
(21)  伊藤昌司・法律時報六七巻七号一〇一頁(一九九五年)、瀬戸正二「原稿の事前作成と遺言者の口授」『遺産分割・遺言二一五題』判タ六八八号三一五頁(一九八九年)、大島前掲四八八頁、蕪村前掲一七頁。
(22)  我妻栄『新訂民法総則』六〇頁(一九六五年)。星野英一『民法概論T』一七一頁(一九八四年)も参照。
(23)  四宮和夫『民法総則(第四版)』四四頁(一九八六年)、幾代通『民法総則[第二版]』五一頁(一九八四年)は、意思能力は個々の具体的な法律行為によって異なるとする。