立命館法学  一九九六年六号(二五〇号)一六一五頁(二七五頁)




ダールのポリアーキー民主政論


中谷 義和






一  展      開

  一九七〇年を初版とする『革命後か』の改訂版(一九九〇年)において、ダール(Robert A. Dahl, 1915ー)は、解決方法の認識に間違いがあったとはいえ、「社会主義者たちによって展開された資本主義批判の多くは本質的に正しかった」と、また「私的所有を特徴とする市場志向型社会が生み出した諸問題の解決策の模索は、全ての民主的諸国の政治議題(アジェンダ)の主要対象であったし、今後も、そうあり続けるであろう」と指摘している(1)。五〇年代のダールの理論にそれなりになじんでいる読者からすれば、このダールの認識には止目せざるを得ないものがあろうが、繁く指摘されてきたように、その論調は、一九七〇年を前後として一定の変更をみているのである。この指摘は、「国家所有・中央指導型経済体制(指令経済(コマンド・エコノミー)」を特徴とする社会主義諸国が「権威主義型独裁体制」に陥ったという歴史的事実のみならず、資本主義諸国のなかにも「権威主義体制」を経験した諸国があるという歴史的事実を踏まえてのことであり、さらには、「市場志向型私的企業体系(market-oriented private enterprise system(2))」(C・E・リンドブロム)としての資本主義体制には、全市民の政治的平等や経済的民主政とは適合し得ないものがあるとの認識を背景としているのである。
  ダールが、「アメリカ政治学会」の会長就任講演において、「都市」とかかわって、民主政治における「規模」の問題や経済組織の民主化の問題を取り上げたのは、一九六七年七月のことであり(3)、この視点は、その後のダールの論調に底流し、近著=『民主政治とその批判者たち(Democracy and Its Critics)』(一九八九年)に連なってくる。ダールが学会会長に就いた頃のアメリカ合衆国は、ベトナム戦争のさなかにあったこともあって、社会的混乱期を迎えている。この局面において、彼の「民主政治論」は「経験的民主政治論(empirical theory of democracy)」であるとして、あるいは「エリート型民主政治論(elite theory of democracy)」の一類型であるとして批判の対象とされだしていた。ダール自身もこうした批判に積極的に応えるなかで、五〇年代−六〇年代の現状分析型民主政治論から現状批判的改革型民主政治論への志向を強くしだす。D・イーストン(Easton, 1917−)が「アメリカ政治学会」会長就任講演において、「行動論的正統派」に向けられた「挑戦」を「脱行動論革命(ポスト・ビヘイヴィオラリズム)」と呼称したのは、一九六九年九月の「アメリカ政治学会」第六五回年次大会においてである(4)
  ダールは「多元主義的民主政治(pluralisticdemocracy)」論の代表的理論家と位置付けられ、また、「ポリアーキー(Polyarchy)」の理論家としても有名であるが、「ポリアーキー民主政(polyarchal democracy)」論が多様な文脈において展開されてきただけに、また、「ポリアーキー」の概念や「ポリアーキー」と「多元主義的民主政」との関連が必ずしも一義的に論述されてこなかっただけに、「ポリアーキー民主政」の概念には正確に捕捉し得ないものが残されていた。
  確かに、「ポリアーキー」概念が最初に提示されるのは、リンドブロムとの共著=『政治・経済・厚生』(一九五三年)においてのことであり(5)、「民主政(デモクラシー)とは目標(ゴール)であって、成就(アチーブメント)ではない」とし、この視点において、「(成就とは言えないまでも)民主政に接近する主要な社会政治過程をポリアーキーと呼ぶべきであろう」と指摘しているわけであるから、目標への「過程(プロセス)」として「ポリアーキー」が位置付けられていたことになる(p. 41)。また、「四つの主な社会政治過程」のひとつとして「ポリアーキー」を措定し(6)、六つの特徴ないし「基準」を挙げるとともに(pp. 277-278)、「ポリアーキーには、かなりの社会的多元主義が必要とされる」とし、その理由として権力保持者のコントロールの拡大に対する掣肘機能を挙げ、その五つの方法を例示している(pp. 302-305, 訳、二二三ー二二七頁)。さらに、『民主政治論序説(A Preface to Democratic Theory)』(一九五六年)においては、「ポリアーキー」とは、「投票期」・「投票以前期」・「投票以後期」・「選挙期間期」における八条件が「相対的に高度に存在する政治体系」であるとされている(7)。その後、『ポリアーキー』(一九七一年)において、「公的異議申立て(public contestation)ないし自由化(liberalization)」という次元が「ポリアーキー」の制度的要件として重視され、『多元主義的民主政のディレンマ』(一九八二年)に至って、七つの「制度」に変えられ(pp. 10-11)、この制度的七条件は『民主政治とその批判者たち』(一九八九年)にも継承されている。
  したがって、ダールの「ポリアーキー」の概念は、その政治学的営為にあって、五〇年代に「過程」概念として設定され、その後、「制度」ないし「制度化された政治体制」概念に変えられ、その「基準」ないし「条件」の修正を経て、『多元主義的民主政のディレンマ』に至って、「ポリアーキー」の制度的七条件が確定したといえる。この点では、「民主政治(democracy)」と「ポリアーキー」の概念は、「ポリアーキー・多元主義・規模」と題する八四年の論文にあっても明示的で、「民主政治」とは、「目標(ゴール)ないし理念(アイデアル)を、恐らく成就されることなく、しかも現実に完全に成就し得ることすらあり得ない最終目的(エンド)を記述する」概念であるのに対し、「ポリアーキー」とは、「通常、”民主的”ないし”民主政治”と呼ばれる現実の政治システムの弁別的特徴を記述する」ための概念であるとされている(8)。したがって、ダールにおける「ポリアーキー」概念は、分析と比較の「記述」概念として措定されていながらも、理念としての「民主政治」との引照において、不断にその制度的条件の模索の過程を辿らざるを得なかったことになる。ダールの「ポリアーキー」概念が変化したのは、こうした記述的・分析的契機と批判的・規範的契機の媒介の軌跡においてのことである。五〇−六〇年代のダール政治論が、総じて現状肯定的分析型政治論であったのは、当時の安定的コンセンサス型政治体制や行動論政治学の知的影響を反映するものであったのにたいし、七〇年を前後とするダール政治論の新展開は、「ポリアーキー」概念による現状分析をもって、また、「ポリアーキー民主政」論の模索において批判的・規範的契機を強くしたと言える。
  『民主政治とその批判者たち』(一九八九年)は、ダール民主政治論の今日的到達点の位置にあり、七〇年を前後とするダール政治論の新展開の総合の位置にあると目し得る。本稿の対象は、『民主政治とその批判者たち』を軸として、ダールの「ポリアーキー民主政」論の今日的到達点の確認にあるが、ここに至る七〇年代以降のダールの主要著作を列挙すると次のようになる。『革命後か(After the Revolution?:Authority in a Good Society)』(一九七〇年)、『ポリアーキー(Polyarchy:Participation and Opposition)』(一九七一年)、『規模とデモクラシー(Size and Democracy)(タフティとの共著、一九七三年)、『多元主義的民主政のディレンマ(Dilemmas of Pluralist Democracy:Autonomy vs. Control)』(一九八二年)、『経済民主政序説(A Preface to Economic Democracy)』(一九八五年)、『核兵器の制御(Controlling Nuclear Weapons:Democracy Versus Guardianship)』(一九八五年)、これである(9)。本稿において、以上の著作を個別に検討し、『民主政治とその批判者たち』に連なるダール政治論の展開の文献学的検討には及び得ないが、大略的であれ、その軌跡をなぞっておこう。
  『革命後か』は、「善き社会における権威」を副題としているように、「権威」の正統的根拠の政治学的・政治学説史的検討を目指したものである。本書は、まず、「決定設定過程(decision-making process)」の正統性(権威)の評価基準として、(1)「個人的選択(personal choice)」、(2)「能力(competence)」、(3)「経済性(economy)」という三つの「基準(criteria)」を措定し、この三つの「基準」の操作的検討において、三者はトレード・オフの関係にあるとする。したがって、全ての集団に適合的な「権威」の形態は存在し得ないと指摘するとともに、「民主的権威の諸様式」として、(i)「委員会型(committee)民主政」、(ii)「プライマリー(ないしタウン・ミーティング)型民主政」、(iii)「レファレンダム型民主政」、(iv)「代表制(representative)民主政」、(v)「権威の委任(delegated authority)の諸形態」という諸様式を措定し、それぞれの形態について検討したうえで(10)、「規模とデモクラシー」との”パラドックス”の指摘に及んでいる(11)
  本書において注目すべき点は、「民主政を単一の形態と考える誤りが大破局に連なったこともあるし、今後も、その惧れがある」(p. 95)との認識をもって、広範な諸問題への操作的対処を可能とする「ポリアーキー(12)」型民主制の利点を指摘するとともに(13)、先の「決定設定過程」の三つの「基準」との関連において、(i)「諸資源の不平等(Inequality of Resources)」、(ii)「企業リバイアサン(Corporate Leviathan)」、(iii)「民主的リバイアサン(Democratic Leviathan)」という三つの今日的問題の検討に及んでいることである。
  「諸資源の不平等」とは、経済的・社会的・政治的資源の不平等な配分体制を指し、こうした「諸資源の不平等」は「個人の実効的選択の機会を極めて不平等」にするのみならず、福祉受給者を「国家の被保護者」にとどめおくにすぎないとの認識において、「要は、アメリカ社会における権威の問題の最善の解決策は、諸資源が、今より、はるかに平等に分配されるより他にはない」と指摘している(p. 115)。この指摘には、『統治するのはだれか(Who Governs?:Democracy and Power in an American City(14))』(一九六一年)に認められる政治資源の「非累積性」ないし「分散型不平等」という楽観的パラダイムと視点を異にするものを認めないわけにはいかない。
  「企業リバイアサン」とは、「巨大企業(giant firm)」のことであり、これを「私的(private)企業」と見なすことは”幻想”であるとし(p. 120)、その管理様式を「内部型コントロール」、「経済型コントロール」、「政府型コントロール」、「利益集団型管理」に類別化し、職場の民主化という点では、「ユーゴ型自主管理(self-management)」にひとつの展望を求めている(p. 140)。また、「民主的リバイアサン」とは、大規模化した現代の政治単位における「参加」と「規模」の問題である。この点でも、多様な形態の検討において、参加の実効性と決定の有効性とのディレンマを指摘している。
  以上のように、『革命後か』は、六七年の学会会長就任講演の問題提起の継承において、「決定設定過程」の正統性を基準として、民主的政治「形態」と「規模」の問題や「諸資源の不平等」な実態から社会組織の検討にまで及ぶのであるが、こうした問題意識は、さらに、『ポリアーキー』(一九七一年)、『規模とデモクラシー』(一九七三年)、『多元主義的民主政のディレンマ』(一九八二年)をもって敷延される。
  『ポリアーキー』は、ダール政治論にあっては、六〇年代中期に緒についていた比較政治論の延長に位置するものである(15)。本書において、「ポリアーキー」とは「高度に包括的で、かつ公的異議申し立てに対し広く開かれた体制」であるとし、「自由化(公的異議申立て)」と「包括性(参加)」を軸として、「ポリアーキー」の増大ないし移行の条件が、(i)歴史的展開、(ii)社会経済秩序の集中化の程度、(iii)社会経済的発達段階、(iv)不平等性、(v)下位文化の分裂、(vi)政治活動家の信念、(vii)外国支配という七条件に即して国際的に比較・検討されている。また『規模とデモクラシー』においては、民主的な政治単位の問題が「有効性」と「容力」という対立的契機において検討され、そのディレンマが指摘されている。こうした民主政治をめぐる諸問題は、さらに『多元主義的民主政のディレンマ』に継承されることになる。
  『多元主義的民主政のディレンマ』は、「自立的(ないし自律的)組織」が、デュルケムやトクヴィルの視点において、また、ポリアーキーの作動メカニズムにおいて必要とされながら、「民主政治の脆弱化ないし破壊」につながりかねないという社会の組織的「多元主義」に、また国民国家という大規模型政治体制に内在する「ディレンマ」を扱ったものとなっている。すなわち、『ディレンマ』は、まず、「ポリアーキー」とは「それなりに民主化された国民国家」の政治体制(レジーム)を、また、「多元主義(pluralism)」ないし「多元主義的(pluralistic)」とは、「一国家の領域における相対的に自律的(自立的)組織(下位システム)の多元性の存在」を指すものとしている。したがって、「ポリアーキー」と自律的社会組織との結合体制が「多元主義的民主政治(pluralistic democracy)」と位置付けられることになる(pp. 4-5)。かくして、「ポリアーキー」とは国民国家の民主政体を指すものとされ、この政体と社会的多元主義との結合体制をもって「多元主義的民主政治」が成立するものと理解されていることになる。また、本書において、既に、「理念的民主過程(ideal democratic process)」の五基準(criteria)と「ポリアーキー」の制度的七条件が措定されている(pp. 6, 10-11)。こうした基準と条件は、文言こそやや異にしつつも、『民主政治とその批判者たち』においても踏襲されることになる。
  『ディレンマ』は、以上の五基準と七条件を軸として、「多元主義的民主政治」の成立に「自立的組織」が必要とされながら、これには、((1))「政治的不平等の安定化(stablizing political inequalities)」、((2))「市民意識の変形化(deforming civic consciousness)」、((3))「公的議題の歪曲(distorting the public agenda)」、((4))「アジェンダに対する究極的コントロールの喪失」という難点が伏在していることを指摘し(pp. 40-52)、また、「権利と効用」・「デモスの排除と包括性」・「個人間の平等と組織間の平等」・「統一性と多様性」・「集権と分権」・「権力と政治資源の集中と分散」という六つの”ディレンマ”を挙げている(pp. 96-107)。この点で、ダールは、近著において、アメリカ政治の「断片化(fragmentation)」ないし「統合の弱体化(less integration)」現象のひとつに「利益集団政治」を挙げるに至っている(16)
  さらには、『核兵器の制御』(一九八五年)において、ダールは、民主政治の「基準」をもって、レーニン型政党論を含めて、プラトン以来のエリート主義が「後見主義的エリート主義」(「守護者制(guardianship)」)に属するものとし、人格的自立(律)性の視点をもってこれを批判し、さらには、『経済民主政序説』(一九八五年)においては、「自治型企業」と市場システムとの結合型経済秩序を構想するに至っている。
  以上のように、ダールの政治学的営為は、「民主政治(デモクラシー)」を嚮導理念とし、現状の比較と分析や政治理念の検討をもって、「ポリアーキー」と「多元主義的民主政治」論を構築するという過程をたどったのであるが、こうした営為の今日的到達点を『民主政治とその批判者たち』(一九八九年)に求めることができる。

二  構      成


  『民主政治とその批判者たち』(一九八九年)は、「現代政治理論における最も意義深いテキストのひとつ(17)」とされる。全六部二三章からなる本書において、ダールは、「人民(people)」の実体、人民の自治、参加の形態、民主政治の規模などについて検討するとともに、民主政治の理論と実践における「大転換(great transformation)」として、古典的「都市国家型民主政」(第一の転換)と「国民国家型民主政」(第二の転換、制度的転機は直接民主政治から代議制民主政治への移行)を経て、今や、民主政治が経済領域と政府の全領域にまで広げられる必要にあるだけでなく、「トランスナショナル型ポリアーキー」が展望されるという点で、「第三の転換」期に至ったとしている。
  本書は、第一部において、「民主政治の最も重要な源泉」として、(i)古代ギリシアの民主的都市国家、(ii)ローマとイタリアの都市国家に起源を発する共和制の伝統、(iii)代議政治の理念と制度、および(iv)政治的平等の論理という四つを挙げ、それぞれについて歴史的・学説史的に整理し(第一−二章)、第二部において、「民主政治の敵対的批判(adversarial critics)」として、「アナーキズム」とプラトン以来の「守護者制(guardianship)」が対話型論述も交えて批判的に検討される。すなわち、「最善の国家とは民主的国家である」との、また、「守護者が、倫理的・手段的・実践的のいずれであれ、”知”を保有しているということには極めて疑わしいものがある」(p. 76)との認識において、さらには、「守護者制」は、後見主義と同様に「全人民の倫理的能力の発育を阻害」するとの姿勢においてアナーキズムとエリート主義が批判されるのである(マルクス主義の「支配階級」論と大陸ヨーロッパのエリート理論に共通する「少数支配(minority domination)」論の批判については、第三−五章、第一九章)。ここから、「民主的過程」と題する第三部(第六−九章)において、「政治的ないし拘束的な集団的決定(governmental or binding collective decision)」に至る「民主的政治過程」の論述に移るのであるが、ダールにあって特徴的なことは、「民主的過程」とは、「民主政治」(=「人民による支配」)へ向けての「不断の接近過程(process of successive approximation)」として、いわば「永続革命」として理解され(p. 336)、その根拠を成人市民の自治能力の仮説と「人格的自律性」の仮説に求められていることである。
  以上の予備的考察を踏まえ、アジェンダの設定から決定段階に至る「民主的過程(democratic process)」の「基準(criteria)」として、(i)「実効的参加(effective participation)」、(ii)「投票の平等(voting equality)」、(iii)「啓蒙的理解(enlightened understanding)」、(iv)「アジェンダのコントロール」、(v)「包括性(inclusiveness)」を挙げ、これが「民主的過程」の五基準であるとともに、「政治的平等」の内実でもあるとされる。
  以上の「基準」とほぼ同様の「基準」は、「合衆国の民主政治の諸障害の除去について」と題する七七年論文に認めることができる(18)。すなわち、この論文において、ダールは「手続的民主政治の教義(doctrine of procedural democracy)」の「基準」として、(i)「政治的平等」、(ii)「実効的参加」、(iii)「啓蒙的理解」、(iv)「包括性」、(v)「デモスによる最終的コントロール」を挙げている。また、「手続的民主政治」と題する七九年論文においては(19)、『民主政治とその批判者たち』におけると同様の五基準をもって、「手続的民主政治」の充足度を設定している。したがって、「手続的民主政治」の概念は、七七年論文で設定され、七九年論文に継承されるのであるが、『民主政治とその批判者たち』に至って「民主的過程(プロセス)」という表現に変えられ、後にみるように、その制度的七条件が設定されたと理解し得ることになる。
  「実効的参加」とは、「平等な利益配慮の原理」からみて、「拘束的決定設定の全過程において、市民が最終結果について自らの選好を表現し得る十分な機会と平等な機会を有しなければならない」ことを示す概念であるとともに、「アジェンダに疑問を提示し、ある帰結を支持する理由を表明し得る十分かつ平等な機会を保有しなければならない」ことを、「決定段階における投票の平等」とは、「内在的平等の理念」と「人格的自律性の仮説」からみて、「集団的決定の決定段階において、各市民には、いずれの他の市民によって表明された選択についても、その重みという点では、平等に算えられる選択を表明する平等な機会が保証されねばならない」とともに、「決定段階における結果の決定に際しては、こうした選択が、しかも、こうした選択のみが考慮されなければならない」ことを示すものとされる。また、「啓蒙的理解」とは、「決定に付される事項について、(決定の必要に可能な時間内に)市民の利益に最も適合的な選択を発見・評価するのに充分かつ平等な機会を各市民が保持すべき」ことを、「アジェンダのコントロール」とは、「いかなる問題が民主的過程によって決定されるべき事項のアジェンダとして設定されるべきかという点で、その専権的機会をデモスが保持しなければならない」ことを、「包括性」とは、「デモスには、一時的居住者や精神的疾患にあると判明した人々を除いて、当該社会の全成人成員が含まれなければならない」ことを意味するものとされる。かくして、以上の五基準の充足をもって「民主的過程」は「完全に民主的」なものと判断できるとしている(第八章)。さらには、「民主的過程」と政治的平等は、自主的決定・自己発展・利益の保護の要諦であり、「分配的公正の要件」にほかならないと位置付けられている(pp. 129, 311-312, 322)。ただし、こうした「基準」は、これを完全に充足する政府の存在を想定ないし前提としているのではなく、いわば理念型として、比較と接近の方法として設定されているのである(p. 109)
  『民主政治とその批判者たち』は、第四部(一〇−一四章)における「民主的過程」に内在する諸問題の検討を踏まえて、第五部(一五−二一章)では、一七世紀に始まる「国民国家」の民主的政治体制を「ポリアーキー民主政」とし、これを「第二の転換」と呼び、その特徴の論述に移っている。既に、ダールは、「ポリアーキー・多元主義・規模」と題する八四年の論文において(20)、「ポリアーキー」とは「近代型代表制民主政」の政治システムであり、端的には「大規模型民主過程に必要な一組の制度」として理解されるべきものと位置付けているが、『批判者たち』にあっても、この視点を継承するとともに、「国民国家」の出現という政治システムの規模の巨大化に伴う主要な変化として、次の八つを挙げている。すなわち、(i)「代表制」、(ii)代表制の導入による人口規模の「限りない膨張」の可能性、(iii)これに伴う「参加民主政治の制約」化、(iv)空間的・宗教的・人種的・イデオロギー的・職業的「多様性」、(v)「対立」、(vi)「ポリアーキー」、および(vii)多様性、対立、ポリアーキーに伴う「社会と組織の多元主義」、そして(viii)ポリアーキー型政治による「個人的権利の拡大」、これである。したがって、「ポリアーキー」とは、国民国家化に伴う多元主義的社会の代議制民主政体を指すことになる。
  以上の規定において、次の七条件が、「民主的過程」との対応において、「ポリアーキー」の制度的条件として措定される(pp. 221, 233)。この七条件は、既に、『多元主義的民主政のディレンマ』において設定されていた条件でもある(21)(pp. 10-11)
一、〈公職層の選出〉  政策決定権の被選出層への基本法に基づく帰属。
二、〈自由・公正な選挙〉  自由で公正な定期的選挙による公職層の選出と平和的更迭。
三、〈包括的投票権〉  全成人の普通選挙制の導入。
四、〈公職就任権〉  全成人の被選権の制度化。
五、〈表現の自由〉  政府、社会・経済・政治システム、支配的イデオロギーの批判を含む表現の自由。
六、〈多様な情報〉  多様な情報入手権とその法的保護。
七、〈結社の自律性〉  政党・利益集団などの自律的集団の結社と政治的影響力の行使の保証。
  かくして、「ポリアーキー」の制度的七条件と先の「民主的過程」の五基準に「充足度」を複合すると、三者の対応関係という点で、次の表を得ることができることになる。

  この表に認められるように、「ポリアーキー」体制を「制度」・「基準」・「充足度」の視点において整理し、さらには、「ポリアーキー民主政」の「第三の転換」を展望することになるのであるが、この点に移るまえに、『ポリアーキー』(一九七三年)の作業の継承において、「ポリアーキー」の成立と崩壊の過程がパターン化されているので、これをみておこう。
  ダールは、「ポリアーキー」の成立と展開過程を、(i)一七七六−一九三〇年、(ii)一九五〇−五九年、(iii)一九八〇年代の三局面において整理している。第一の局面は、アメリカ・フランス革命を端緒とし、ファシズムないし権威主義体制の成立をもって終局を迎える時期にあたり、「ポリアーキー」の制度的条件の充足度を異にしながらも欧米を中心に制度化された局面である。第二の局面は、第二次世界大戦後、「ポリアーキー」の諸国数が急増した局面にあたるが、同時に、この局面の前後には、「ポリアーキー」の挫折ないし権威主義体制の成立をみた諸国も多いという状況にあたる(四〇年代のチェコ・ポーランド・ハンガリー、六〇年代のブラジル・エクアドル・ペルー、七〇年代のチリ・韓国・ウルグァイ・トルコ)。また、第三の局面は、とりわけ、ラ米地域におけるポリアーキーへの移行ないし再民主化が進んだ局面にあたる。だが、戦後、国家数も増大したことによって、ポリアーキー諸国の割合は五〇年前とほとんど変わらない状況にあるとされる。以上のような「ポリアーキー」の成立・展開・挫折の歴史的整理を踏まえて、ダールは、下図の展開パターンを導いている。

  この図において、(1)のパターンは、非ポリアーキー型体制にありながらも、有利な条件の発展と持続において、安定的ポリアーキーへと移行した類型であり、(2)は条件に恵まれず、非ポリアーキーのままに留まっているパターンである。また、(3.a、3.b、3c)のパターンは、非ポリアーキー型体制にありながらも、条件の混在ないし一時性のゆえに不安定なポリアーキーが成立することになるが、(3.a)型にあっては、それが挫折する類型を、(3.b)型は非ポリアーキーへの移行から再びポリアーキーの回復に連なるパターン(再ポリアーキー化=再民主化)を、そして、(3.c)型はポリアーキーと非ポリアーキーとの動揺を繰り返しているパターンを示している。
  以上の類型化において、ポリアーキーの「展開・強化・安定」の諸条件の確認が他の諸類型との比較において要請されることになる。この点で、ダールは、政治体制の歴史と現状の比較をもって、ポリアーキーの展開と存続条件として次の要件を導いている。すなわち、(i)軍部と警察の文民統制の確立と文民指導層の「民主的過程」の遵守姿勢、(ii)「近代型の力学的多元主義社会(modern dynamic pluralist society)」の成立、(iii)文化的同質性の存在−これに欠ける場合でも、(a)強力な個別型下位文化に断片化されていないこと、あるいは(b)断片化されている場合でも「多極共存主義(consociationalism)」を媒介として「下位文化型多元主義(subcultural pluralism)」の存続が許可され、対立の回避策が導入されていること、(iv)ポリアーキーを支えるに足る政治文化と信条の存在、(v)ポリアーキーに敵対的な外国勢力の介入に服していないこと、この五条件である(第一八章)
  さらに、『批判者たち』は、展望と政治姿勢という点で対立的理論の位置にはあるが、マルクス主義とエリート理論に「少数支配」モデルという点での共通性を認め、その黙示録的革命論や悲観的宿命観ではなく、民主的理論と実践の視点において、その克服の方途の模索の必要を指摘し、さらには「共通善(common good)」の内実と対象の検討にも及んでいる(第一九−二一章)

三  第三の転換


  「第三の転換へむけて」と題する第六部(二二−二三章)においては、「都市国家型民主体制(第一の転換)」から「国民国家型民主体制の転換(第二の転換)」を経て、今や「第三の民主的転換」期にあたるとし、その方向が展望される。そのヴィジョンは、「成員が相互に平等な存在であるとともに、集合的に主権者でもあり、自治に必要なすべての力能・資源・諸制度を保有している政治システム」に求められている(p. 311)
  ダールは、こうした「第三の民主的転換」に連なり得る三つの変化の可能性を指摘している。それは、(i)多様な諸国における諸条件の変化に伴うポリアーキー諸国数の変化、(ii)政治生活の規模の変化に伴う民主的過程の範域の変化、(iii)構造と意識の変化に伴うポリアーキー型政治諸国の政治生活の民主化、これである。
  第一の点について、ダールは、民主的・非民主的レジームのいずれであれ、「人民による支配」が政治の正統性の根拠とならざるを得ないとしても、先のポリアーキーの展開と存続条件に鑑みれば、安定的ポリアーキー型諸国が非ポリアーキー型体制に移行する可能性は小さいとしても、不安定型ポリアーキーの非ポリアーキーへの反転は起こり得るわけであるから、ポリアーキー型諸国数が着実に増加するとは即断し得ないとする。この点で、非民主的レジームの評価に際しては、その形態は多様であり得るから、マニ教的善悪二分論を排し、「変化の力学」と「変化の方向と速度」の判断が極めて重要な位置にあると指摘している(pp. 313-317)
  第二の「政治生活の規模の変化」に関わって、ダールは、「トランスナショナル型ポリアーキー(transnational polyarchy)」の可能性を展望しつつも、その危険性についても指摘している。すなわち、国民国家レベルでは対処し得ない国外の決定や国外諸力の影響下にあるという点で、諸国のデモスは新しい変化に服しているのが現実であるから、「利害当事者の原則(principle of affected interests)」(『革命後か』で設定)からすれば、超国民国家型デモスによるアジェンダの設定という問題が登場することになる。この点で、ダールは、例えば、EUに認められるように、その萌芽を認めつつも、諸国における民主的制度改革と代表団の民主的コントロールの強化をともなわないと、権限の「委託(delegation)」は「放棄(alienation)」に転化し、事実上の超国民的「守護者制(guardianship)」に連なる危険性も高いと指摘している(p. 120-121)
  第三の点とかかわって、とりわけ、ダールが重視するのは、「市場志向型私的企業経済」(資本主義経済)における経済的資源の分配や知識・情報の不平等な分配を原因とした政治的不平等の問題である。この点で、ダールは、先進民主主義国における経済的企業組織を「民主的過程」の五基準(実効的参加・投票の平等・啓蒙的理解・アジェンダのコントロール・包括性)に則していないと位置付けている。すなわち、企業体の運営は、多くの人々にとって最も密接な「日常的統治(government)」の場でありながら、「守護者制」ないし「専制主義(despotism)」体制にあると、また「株式保有者民主制」は「撞着語法」であるだけでなく”神話”であると指摘し、『経済民主政序説』(一九八五年)の視点において、労働者による経営者選挙型自治企業システムを構想している(22)(pp. 330-331)。この点で、政治における「民主的過程」の原理は経済の世界にも敷延されていることになる。
  また、第三の問題とのかかわって、「知識」の不平等配分から生ずる「政治公式」の一般化(G・モスカ)ないし「文化的ヘゲモニー」(A・グラムシ)の問題が挙げられるが、この点で、ダールは、「ポリアーキー」の歴史的三類型化をもって、ポリアーキーの第三の局面(ポリアーキーIII)における「テレコミュニケーション」と「ミニポピュラス」型民主政治を展望している。すなわち、ダールは、選出代表者による政策設定と公職層への一定の行政課題の委任を軸とした単純型ポリアーキーを「ポリアーキーI」と呼び、また、政策の管理と設定の複雑化に伴う専門知識の活用体制を「ポリアーキーII」とし、この体制に政策エリートの「守護者制」化の危険を認め、政策エリートとデモスとの知的ギャップを埋めるという視点において、「ポリアーキーIII」が構想されるのである。こうした「ポリアーキーIII」型において、技術的に可能な制度として提示されているのは、エリートによる「操作」機能の阻止と一体化した「テレコミュニケーション(telecommunication)」技術の活用であり、また、デモスから期限を付して任意に選ばれ、争点を討議し、選択を公表するという「ミニポピュラス(minipopulus)」制度の導入である。かくして、ダールの「ポリアーキー民主政」の理論化の営為は、「民主政治」の歴史的・理論史的検討とポリアーキー体制の批判的・比較視座型分析の交差において、「ポリアーキー」の第三の局面として、「トランス・ナショナル」型ポリアーキーや経済・社会組織の民主化と直接民主型諸契機の導入を展望するに至っているのである。
  以上のように、ダールの「ポリアーキー民主政」論にあっては、「民主的過程」が「民主政治」への「不断の接近過程」と位置付けられているだけに、「民主政治」の理念との不断の引照において、また、政治制度の分析と比較の視座において、その「条件」や「基準」が模索され、その「過程」が展望されてきたのである。だが、その知的営為は、なお、継続している。

(1)  Robert A. Dahl, After the Revolution?:Authority in a Good Society, Yale Univ. Press, 1970;revised edition, 1990, pp. 83-87.「改訂版」は、一九八〇年代末の一連の「東欧革命」と社会主義政権の崩壊を踏まえて、書き出しが変えられるとともに、「民主政と市場(Democracy and Markets)」と題する一章(第三章)が追加されている。なお、この章は、次に所収論文の転載とされている。Social Reality and ‘Free Markets’:A Letter to Friends in Eastern Europe, Dissent, Spring 1990, pp. 224-228.
(2)  Charles E. Lindblom, Politics and Markets, Basic Books, 1977, 107ff.
(3)  The City in the Future of Democracy, American Political Science Review 61, Dec. 1967, pp. 953-70.
(4)  D・イーストン(山川訳)『政治体系−政治学の状態への探究−(第二版)』、ぺりかん社、一九七六年、所収。
(5)  R. A. Dahl and C. E. Lindblom, Politics, Economics, and Welfare, 1953(磯部浩一・抄訳『政治・経済・厚生』、東洋経済新報社、一九七一年).
(6)  他の「社会政治過程」として挙げられているのは、「価格制度」・「階序制」・「交渉制」であり、それぞれ、「指導者に対する、および指導者によるコントロール」、「指導者によるコントロール」、「指導者間のコントロール」を示すものと、また、「ポリアーキー」とは「指導者のコントロール」を指すものとされている。
(7)  内山秀夫訳『民主主義理論の基礎』、未来社、一九七〇年、一六二ー一六四頁。
(8)  Polyarchy, Pluralism, and Scale, Scandinavian Political Studies 7, Dec. 1984, pp. 225-241.  次に再録。Democracy, Liberty, and Equality, 1986, p. 226-243.
(9)  以上のなかの訳書として次がある。高畠・前田訳『ポリアーキー』(三一書房、一九八一年)、内山秀夫訳『規模とデモクラシー』(慶応通信、一九七九年)、内山秀夫訳『経済デモクラシー序説』(三嶺書房、一九八八年)。
(10)  「代表制民主政」は、「選挙におけるレファレンダム型民主政と議会におけるプライマリー型・委員型民主政との結合体系」(p. 72)と位置付けられている。
(11)  この問題を論じたのが次の書である。Robert A. Dahl and Edward R. Tufte, Size and Democracy, Stanford Univ. Press, 1973(内山訳、前掲書、一九七九年).
(12)  本書において、「ポリアーキー」とは、「広範な選挙民、政府に反対し、選挙において政権を争う機会、競争型政党、公正に遂行された選挙で敗北した公職層の平和的更迭など、これを備えた体系」とされている(p. 78)。
(13)  この認識は、いわゆる「ガリカン型自由観」に対比される「アングロ・アメリカン型自由観」の伝統に属する。
(14)  河村・高橋監訳『統治するのはだれか』、行人社、一九八八年。
(15)  Robert A. Dahl, ed., Political Oppositions in Western Democracies, 1966;id., Regimes and Oppositions, 1973.
(16)  The New American Political (Dis) Order, Univ. of California Press, 1994, pp. 1-23.
(17)  D. Held,”The Possibilities of Democracy, Theory and Society 20, 1991, pp. 875-889.
(18)  On Removing Certain Impediments to Democracy in the United States, Political Science Quarterly 92, Spring 1977, pp. 1-20, reprinted in Democracy, Liberty and Equality, Norwegian University Press, 1986, pp. 127-152.
(19)  Procedural Democracy, P. Laslett and J. Fishkin, eds., Philosophy, Politics, and Society, 5th Series, 1979, pp. 97-133, reprinted, ibid., 1986, pp. 191-225.
(20)  Polyarchy, Pluralism, and Scale, Scandinavian Political Studies 7, Dec. 1984, pp. 191-203. reprinted ibid., 1986, pp. 226-243.  この論文において、ダールは、E・バーカーの「ポリアーキー主義(polyarchism)」に止目している。pp. 280-281, n. 4.
(21)  この制度的七条件は、次の近著にあっても継承されている。Robert A. Dahl,”Thinking about Democratic Constitutions:Conclusions from Democratic Experience, Ian Shapiro and Russell Hardin, NOMOS 38:Political Order, New York Univ. Press, 1996, p. 198.
(22)  次も参照のこと。R. A. Dahl,”Why Free Markets are not Enough, Larry Diamond and Marc F. Plattner, eds., Capitalism, Socialism, and Democracy, Johns Hopkins Univ. Press, 1993, pp. 76-83.