立命館法学  一九九六年六号(二五〇号)1699頁(三五九頁)




イギリスのネイション・
国民国家・主権国家の形成とその特徴

−西欧国際体系との関連において−


巣山 靖司







一  は  じ  め  に


  湾岸戦争の原因は、一般にいわれている論潮によるとイラクがクウェートの主権を侵害したということである。しかし中東における一般民衆大衆の間では、主権国家 sovereign state という概念は必ずしも根付いていないように思われる。ベドウィン族のような遊牧民にあっては、パスポートの存在すら理解できない者がいるし、事実「国境」といわれるものを無視して交易が行われる場合は多々ある。事実、戦争の過程で国連参加国によって経済封鎖が断行されたが、密輸的な交易は事実上黙認する以外なかったのである(1)
  中東一帯は一八・九世紀にヨーロッパ諸国がきて互に分割・支配する以前には、大きくいってアラブとペルシャに分かれていたのみであった。その上アラブが圧倒的に大きな領土を占拠していた。アラブ民族は、アラビア語とイスラム教スンニ派の信仰を前提に、砂漠的風土と結びついた文化・風俗・習慣を共有していた。またアラブ民族は元々遊牧的な商業的交易に依存した歴史をもっており、中東一円を自分たちの生活圏と考え自由に移動していた。こうした状況は七世紀に成立したイスラム教にも反映している。ちなみにイスラム教の聖典コーランをひもといてみれば、そこに書かれた多くの教えが商業的な取り引き用語によって説明されていることが理解される。またアラブの人たちの多くが主張するように、コーランはアラビア語で書かれ他言語に翻訳されたものはコーランではないと言われるほど、イスラム教スンニ派とアラビア語は密接な関係をもっているのである(2)
  ヨーロッパ諸国がやってくる以前の中東は、全体として一体化し人種的にはアラブ人、言葉はアラビア語、宗教はそれと密接に結合したイスラム教スンニ派を信んずる人たちによって支配されていたのである。そこにヨーロッパ諸国がやってきてかれらの都合により相互の分割が行われ、現在の「国」・「国家」が形成された。その形式は人為的で時には暴力的であり、一体化されていたアラブの文化・言語・宗教を無理遣り分裂させたのである。そしてヨーロッパ流の「主権国家」を形成させたのである。しかしその「主権国家」もヨーロッパ的にはなれなかった。イスラム教は聖と俗・宗教と政治を分離せず、同じものと考えるゆえ、「国家」内でも政教は統一し結合していたのである(3)
  ヨーロッパ諸国は外見上ヨーロッパに似た国家をイラク・ヨルダン・サウジアラビア・エジプト・シリア・アルジェリア・・・等々と創出し、中東をヨーロッパの如き世界にしたと考えているかも知れないが、現実はそうなっていない。アラブ人は諸国家に分裂させられても「その心はひとつ」といわれる如く、現在でも同じようにアラビア語を話し、イスラム教スンニ派の神を信じ、この言語と宗教、それに加えるに共通の風土に立脚した文化を共に享受しているのである。つまり一般民衆大衆は、政治的な国家レベルにおいて力による分裂を余儀なくさせられたとしても、何世紀にもわたって自己の祖先がそれによって生活してきた言語・宗教・文化を同じくする人たちとの連帯・結合を重視するのである。一般大衆にとって・そうした生活を送ることが一番幸福であるという感覚的な自覚があるからである。このことは重要である。イギリスを代表する民族問題の研究者であるアンソニーD・スミス Anthony D. Smith もこのことを強調している。中東においては今後欧米流の諸国家体系の発展が確認されるかも知れない。しかしアラブの一般大衆は何世紀にもわたって自分たちの民族が共有してきた言語・宗教・文化に共づく一体性を、欧米流の国家によって分裂されつつも持続させるであろう。
  わたくしは、ヨーロッパに育ち形成されてきた「主権国家」という概念は、こうした中東の世界と調和しないように考える。中世のヨーロッパは、カソリシズムという普遍的・統一的な世界であった。大陸においては、全部を被うわけではなかったが「神聖ローマ帝国」という限定的ではあるが普遍性をもった実体的な概念も存在した。したがって国とか国家が形成されるに当たってはこうした普遍的な性格を何らかの形で保有したものが、分解し崩壊しなければならなかった。そのことは普遍的なものに対立的・対抗的に生れる nation の発展、つまり個別的なものの形成が必要であった。そのネイションと結合し重なり合う個別的なるものは、カトリック的な普遍的なるものとは性格的に異ったものでなければならなかった。それは具体的にはカトリシズムに対抗するプロテスタンティズムであり、カトリック世界の分裂に通づるものであった。それは同時に言語的な特異性とその言語と宗教と結合した文化的特殊性であった。
  本稿は以上の認識の上に立ってヨーロッパに成立した主権国家が、ヨーロッパ的な世界の言語・宗教・それらの総合として形成された文化に依拠して形成されたものであり、諸々の事情の相違したイスラム的・アラブ世界に強力に摘用しようとすることには無理があることを証明することを目的としたい。そのために、一般的には普遍的であると考えられている「主権国家」なるものがヨーロッパ内にあってもそれぞれ特殊性をもって形成された点を問題にしたい。以後フランスの「主権国家」論、ドイツの「主権国家」論と問題にして行く予定であるが、今回はあし当たってイギリスの主権国家の形成を問題にしたい。
  ところで主権国家形成といっても、その方法論についての言及が必要となる。主権国家は一般に nation state を前提にして形成される。そして nation state の形成は、nation やナショナリズムの形成を前提にする。ところで近年、ネイションやナショナリズムの形成に関し論争が展開されている。最も注目するべきものは、ネイションやナショナリズムといった社会現象は近代固有のものか、それとも前近代社会から存在し歴史貫通的なものかということをめぐっての論争である。前者を一般に近代主義者と言い、後者を原初主義者と言っている。
  近代主義者の代表アーネスト・ゲルナー Ernest Gellner は、前近代的社会は農業社会で地域分散的で住民の間に交流は存在せず全体的な一体感はなかったが、近代的な工業に基づく市場経済が発展する過程で地域分散的孤立状態は破られ、統一国家が出現し官僚主義の経済が生まれ統一した教育も生れた、それゆえネイションやナショナリズムの発展は近代固有のものである、と主張した。ベネデイクト・アンダーソン Benedict Anderson は、近代になり印刷技術が飛躍的に発展し、これが一国規模でのネイション形成の前提となるネイション意識を発展させたとして、近代とネイション意識とを結合して近代主義者の立場に立った。
  近代主義者のこうした議論に対して、原初主義者エドワード・シルス Edward Shils は次のように反論する。かれは言語・宗教・エスニシティ・領土に基礎づけあれた原初的な紐帯を重視し、ネイションとエスニックな共同体は歴史の自然的な結合であり、人間の経験的要素を統合するものである、という。かれによれば、この原初的な紐帯を前提にしたならばネイションやナショナリズムは必ずしも近代的なものではなく、歴史貫通的に永遠に続くものである、なぜならばそれは自然なものであるからである、ということになる。
  アンソニーD・スミスの立場は近代主義者と原初主義者の間に立って「折衷的」である。かれは、近代主義者の考えはある意味で正しいという。かれによれば歴史過程を見るならば、ネイションとかナショナリズムという社会現象は西欧では一五世紀後半から一六世紀に生れ、ネイション・ステート nation state もウエストファリ体制形成時代に現れた、という。しかしナショナル・アイデンティティに類似した現象は古代世界から存在した点も見落とすことは許されない、という。かくしてかれは、ナショナリズムやネイションが現れたのは近代であるとしても、その形成過程は近代よりずっと古い時代から始っているゆえ、それらを問題にするに当っては近代以前より存在したエスニック的な紐帯と感情がどのように発展してネイションやナショナリズムの形成に流れこんでいったのか、という視点が重要である、と主張する。こうした認識を展開するに当たっては、ゲルナーなどが主張する市民革命や産業革命というものは十年単位のものであるが、人間の意識と関係する「神話・記憶・シンボル・価値」といったものは百年単位でないとその変化を明確に看取できない、という考えがあった(4)。そして最近では、かれは前近代的な要素を如何に近代において再構成するかという問題に注目しているように思われる。『Nation and Nationalism』紙においてかれは「ナショナリストというものは、単なる社会を動かす人であるとかイメージ作りの名人であるのではない。自分の活動を通じてエスニックな過去を再発見しその意味を再解釈する社会的で政治的な建築家である(5)。」といっている。かれはネイションの形成に当たって前近代的な諸要素を明らかに重視しているのである。
  この論文は、イギリスのネイション・国民国家・主権国家の形成を差し当たり問題にするものであるか、その方法はアンソニーD・スミスの提起した方法論上の問題を十分考慮することになる。

(1)  巣山靖司編著『「米ソ協調」と湾岸危機・戦争』(一九九一年・水旺社)
(2)  家島彦一『イスラム世界の成立と国際商業』(岩波書店一九九一年)
(3)  Sami Zubaida, Islam. The people and The state, political idea and movements in the middle east, I. B. Tauris, 1993.
(4)  Anthony D, Smith, Nationalism in the Twenty Century, Anstralian National University Press, Canberra, 1979.  巣山靖司監訳『二〇世紀のナショナリズム』(一九九六年、法律文化社)の巣山による「解説とあとがき」三〇九ー三一八ページ参照。
(5)  Anthony D. Smith, Gastronomy or geology?  The role of nationalism in the reconstruction of nations,”Nation and Nationalist, volume I part I. March 1995. p. 3.


二、イギリスにおける国民国家 nation state 形成と王権


  一般的にイギリスの国民国家の形成を論ずるに当たっては、一四・一五世紀における旧大貴族の没落、新中小貴族とジェントリーの台頭、この動向の過程での王権の拡大を問題にする。もちろんこのことは重要であるが、ドイツは言うに及ばずフランスと比較しても、イギリスはその歴史過程の特性からして王権による統一への傾向は元々極めて早いしまた特徴をもっていた。このことは、イギリスの国民国家の形成に当たって重要な意味をもつ。
  前七世紀頃、ブリテン諸島にギリシャ・ラテン・ゲルマン・スラブ民族と並ぶ西方インド・ヨーロッパ語族系のケルト民族がやってきた。はじめにやってきたのはゴイデル人=ゲール人で、やや遅れてブリトン人=キムリ人が最後ベルガエ人がやってきた。前一世紀頃には、ブリテン諸島はこうしたケルト民族に支配される世界となった。ローマのカエザルは前五五年と五四年、二度ブリトン人を中心としたブリタニアにきて、以後ブリタニアはローマ帝国の内部に組み込まれるが、カエザルは『ガリア戦記』において丘砦=ヒル・フォードのケルト族の戦士は猛烈な好戦的気風をもち、熱狂的で興奮しやすく率直な性格を示したとしている(1)
  ケルト人が育成した文化は現在も多く残っているが、それはローマ人の文化のように合理的でもなく透明さを欠いたものである。しかしそれゆえに逆に幻想的で不思議な魅力を持っている。宗教的には、霊魂不滅と輪廻を信ずるドルイド教が信仰されていた。文化とか英雄詩は超自然的なるもの、神秘的なるものをそのまま受け入れ、北国の暗さを内面的なみずみずしい情感を示している。南国の太陽がかがやくローマからやってきた征服者には、こうしたケルト的性格はまったく異質なもので、「野蛮なもの」としてしか映らず理解できなかったかも知れない。しかし現在のイギリスは、こうした地味な幾分暗い文化の性格にある種の誇りを感じている傾向もある。ケルト人の中心であったブリトン人に語源をもつ「ブリトン」が現在でも頻繁に使われていることを思いうかべるならば、理解されよう。「エンサイクロペディア・ブリタニカ」、「ブリティッシュ・ミュージアム」、「ブリティッシュ・エア・ウェイ」等々。
  ブリタニア征服から五世紀までを「ローマ・ブリテン時代」というが、この時期にブリタニアはローマ帝国の属州とされ派遣された総督の下で支配され、経済的には収奪された。しかし同時にローマ軍と支配官僚がそこに持ち込んだものは、逆に以後のイギリスの発展に多いに役立った。五世紀以後、ローマの国教となったキリスト教が導入され、部族対立を緩和した。道路・大土地所有者の農業経営の場であるウィラ・商業経済・都市・公共施設・円形競技場・浴場・水道なども発展に役立った。とくに商業の発展により、大陸や地中海よりオリーブ油・果実・ブドー酒などが輸入され、逆に穀物・奴隷・猟犬など、後には毛織物がローマ世界に輸出された。ローマのブリタニア支配は、基本的には経済的な収奪が目的であり、政治的な支配はそのためのものに限定され、それゆえ厳しいものではなかった。また地域も南中部に限られ、北西部の山岳地帯には及ばなかった。それゆえ、多くの地域でケルト的な世界を根底より変えるものではなかったので、ケルト的文化は残存した(2)
  三世紀の後半よりゲルマン系のサクソン人が東南海岸にやってきてブリタニアを侵略しはじめた。多くのブリトン人がローマ軍の一部となり、サクソンに抵抗した。三六七年、北方のピクト人、スコット人、それにサクソン人の進入が激しくなり、時の西ローマ皇帝ホノリウスは、四一〇年ブリタニアの防衛を放棄した。このことは、「ゲルマン民族の大移動」の一貫としてのアングロとサクソンの両ゲルマン系の民族の侵入に対して、基本的にはブリトン人が対処しなければならないことを意味した。
  五世紀から七世紀にかけて、ゲルマン系のアングロとサクソンに対するブリトン人の戦争は熾烈をきわめた。有名な『アングロ・サクソン年代記』は、四九一年ペヴェンジーに上陸したサクソン人はブリトン人を一人残らず殺したと伝えている。六世紀のブリトン人修道士ギルダスは、ブリタニアの都市と田園は、破壊され焼かれ、ブリトン人はアイルランドやブルターニュ(現フランス)まで逃亡したと言っている。しかし必ずしも敗北ばかりではなかった。アンブロシウス=アウレリアヌスといわれる英雄は、ブリトン人を「反アングロ・サクソンの」旗に下に統合しブトソン諸部族連合をつくり、四八五ー五〇〇年頃にテームス川上流のスウィンダン近傍のバトニクス山で「侵入者」を敗北に追いやった。以後半世紀、アングロとサクソンのブリタニア征服は頓挫し、征服は島の東南半分に限られ、「侵入者」の意図は大きく変更を余儀なくされた(3)
  この事実は、アウレリウスをして伝説の「英雄」=「アーサー王」となし、神話化され伝説が伝説を生む事態が生まれた。一二世紀イギリスの吟遊詩人が、アーサー王の墓がイングランド西部のグラストンベリにあると時の国王ヘンリー二世に伝え、ヘンリー二世がそれを掘り起こし遺体らしきものを発見して以来、そこの東南一二キロにある丘の城がキャメロットと言われるアーサー王の城であるとされた。それ以来、ブリタニアを一時的にせよ侵略者より守った英雄のイメージはイギリス国王のものにされていった。ブリトン人のアングロとサクソンに対する抵抗にもかかわらず、七世紀初めには結局ブリタニアはアングロとサクソンの支配下に入ったが、ブリトン的な名残りは到るところに残った。ウエセックス王エグバートは九世紀前半、当時の七王国を統合し全イングランドの統一王となったが、ウエセックス王家は「チュアディッチ」といわれブリトン人の血縁性を示していた。と同時にかれは、アーサー王的人物とされた。しかし最もアーサー王的な理想をもった国王は、九世紀末ディーン人が侵略してきたとき、それを撃退させたウェセックス王アルフレットである。これ以来、アーサー王の理想的なイメージが明確化される。それは邪悪な侵略者と戦争し、文明と秩序を守る正義の王というものである。アーサー王の伝説は一二世紀フランスの吟遊詩人によってもうたわれ、ウェルズのジェフリ・オブ・モンマスの『ブリテン列王史』で大きく取り上げられ、一五世紀のトーマス・マロニーによって『アーサー王の死』Sir Thomas Malory,”Le Morte D’Arthur という文学となりイギリス人の心に浸透していった。つまりイギリスではウェセックス王アルフレットが、九世紀のエクバート王による七王国統一を受け、九世紀末統一を確固たるものにし、カトリックを布教し、法典を整備し、城市建設を行い、首都ウインチェスターに多くの学者を招いて文化の振興を行い「大王」と呼ばれるようになった。イングランドは、一〇世紀においてウインチェスターを首都とするウェセックス王家によって統一された。アルフレットは、アーサー王的な理想像を具現した国王と考えられ、一般大衆よりしたしまれるようになることによってアーサー王的な神話はイギリス国王と結合されるようになったのである。一一五四年に始まったプランタジネット王朝、一四八五年に始まったテューダ王朝、一六〇三年に始まったスチュアート王朝は各々自己の王朝の正統性を大衆に説明するに当たり、アーサー王との血縁的な連続性を云々するまでになった。またイギリスは一〇六六年のノルマン征服以来封建社会に徐々に推転していったが、封建社会は国王に忠誠をちかう中世的な騎士を生み、失われた聖杯を求める騎士階級はアーサー王神話を補強した(4)
  以上少し長々とアーサー王神話とウェセックス家によるイングランドの統一、それと統一に当たっての王家の役割について言及した。アーサー王神話は必ずしも事実とは一致しない部分を多くもっている。しかしアンソニーD・スミス流に考えるならばこれこそ「神話・歴史的記憶・シンボル・価値」を表現し、イギリスの民族のアイデンティティを形成するに当たりエスニックな前提になった点をここで指摘しておかなければならない。アーサー王神話は伝説となり現在でも、大衆の間に形をかえ登場し極めて強い影響力を示している点十分考えなければならない。
  また、ケルトの問題、、ローマ帝国の支配、アングロとサクソンの侵入、同様にディーンの侵入について簡単な言及をおこなったが、イギリスに統一王朝が一〇世紀に現われるのは、異民族に対する対応のためという意味あいが強いことを指摘しなければならない。つまり政治的、軍事的であったのである。これはフランスの場合ともドイツの場合とも異なる。フランスにおいて統一王朝の足がかりとなるカペー王朝が成立したのは、九八七年であったが、支配領域がパリ周辺のイル・ド・フランスに限られていた点、ランスの大司教アタルベロンによって聖祓されたことより初発より宗教的意味あいが強かったこと、それに何よりパリ東のシャンパーニュ高原にかけての高い農業生産力に裏付けられたものであった点でイギリスのウェセックスの王朝とは異なっていた。ドイツにおいては、フランケン族のコンラート一世がドイツ国王になったのは九一一年であったが、ここにおいては部族的な対立があまりにも激しく、統一国王といえるものではなく、その証拠に統一支配ができないがゆえに教権の(耳力)力を請い、その延長線上に九六二年教皇による「ローマ皇帝」といった称号の授与、つまり「神聖ローマ帝国」という問題が生れた。こうした比較の上に立つならば、イギリスの初発における統一は他二国のそれとは異なり、七王国をほぼ完全に支配したという点で強固であり、それゆえ権力は強力でしかも余り宗教的ではなく政治的であったといえる。それゆえに国王は統一に当り明らかに最も重要な核となっていた。それゆえアーサー王神話が、国王権力の発展と結合して発展したといえよう。
  イギリス人は、現在においても国王の権力に対して何らかの尊敬の念を抱いている。イギリスに行くと「ロイヤル」royal がついた建物、学校、企業などが目につく。Royal Academy of Music とか Royal College of Surgeon といった形である。こうした現象は、フランスやドイツやイタリアには見当らない。イギリスの歴史発展過程での国王権力の重要性を示しているといえよう。

(1)  カエサル著近山金次訳『ガリア戦記』(岩波書店一九九五年)第四巻第二〇ー三六節、第五巻第一ー二三節参照。
(2)  Michael C. Mobbs, The Polyglot Isles, The Language of British Isles, 1980, Seibudo, pp. 36-7.
(3)  ibid, pp. 51-68.
      青山吉信「イングランド、スコットランド、ウェールズの形成」(青山吉信、今井宏編『概説イギリス史』有斐客)二八ー三〇ページ。
(4)  Video.”Le Morte D’Arthur. The legend of The King. produced by R. Ward (USA).


三、英語とその形成


  ネイションの形成に当って言語の問題が重要であることは、議論の余地のない話である。ネイショは同質、同系統の人間の集団であり、その構成員がアイデンティティを示すためには同じ言語に基づくコミュニケーションが不可欠であるからである。一章でイギリスのネイション形成が政治的であり、国王権力が極めて重要であった点を指摘したが、今度はこの時期の問題を言語の側面よりアプローチしてみよう。言語はシンボルの最たるものである。
  ケルト文化は都市的な文化ではなかった。ケルト人は穀物の生産や動物の飼育を主としていた。彼らは霊魂不滅や輪廻を信んずると同時に神に動物の犠牲を供物としてささげた。ケルト人の言葉は話し言葉が中心で、ブリトン人のものとアイルランド人のものの二種類がある。ブリトン人のケルト語はウェルズに残っているが、最初の子音が相手によって変化するとか、質問に対する答えにおいて英語の「イエス」とか「ノー」を使わないと言った特徴をもっていた。また貿易や部族間で使われるものは普通話されているものとは違い、別の言葉のようにも感じられたという。以上の特徴からすると、他のインド、ヨーロッパ語とはかなり異なっていたといわれている。
  ローマ人は支配者としてブリタニアに来たのであって、定住者ではなかった。しかし当時ローマ人は世界で最も偉大な歴史と文化をもっていたので、彼らが使うラテン語は教育、文学、商業、政治の世界では重要であった。とくに、キリスト教が伝えられるようになってから、キリスト教関係者はラテン語を重視した。ブリトン人の間にあっても、ローマ人の支配下という限定があるのではあるが、より高い地位を求めてローマ人とコミュニケートをはかる必要のある人は、ラテン語を学んだ。しかし一般的な言語状況は、ラテン語は公用語で上流階級の人は話すことができたが、一般の人たちは土着のケルト語をしゃべっていた。しかし両方を使用できるバイリンガルの人も多くいたので、ラテン語とケルト語の交流があった。植民地域でのローマ人はケルト語から多くのラテン語をつくったし、逆にケルト人も同様であった。ウェルズ語の pysg=「魚」は、ラテン語の piscis からきている。ローマ人の支配が終わりブリタニアより撤退した後でも、バイリンガルのブリトン人は大陸などの貿易のためラテン語を大切にした(1)
  四世紀末よりアングロ、サクソン、ジュートといったゲルマン民族の侵入が開始されたが、はじめはすでに説明したように激しい斗争が行われ、多くのブリトン人はウェルズ、スコットランドそれにアイルランドに追いやられたが、六世紀後半以降はそれほどの斗いもないままアングロ・サクソンの定住が行われた。ブリテン島にはまた十分の利用可能な土地があり余り斗う必要がなかったこと、アングロ・サクソンが多神教の宗教を信じ排他的でなかったこと、ブリトンの文化より高い文化をアングロ・サクソンが多くの部分でもっていたなどの理由がある。しかしアングロ・サクソンは支配者となり、ブリトン人の多くは中心的な支配者の奴隷にされることもあった。
  言語を考える場合にこうした状況は重要であった。八世紀の末頃七部族王国が存在し、その一つマーシャの王はオファ Offa であったが、そのかれが支配する地域が”Angleland であり、Engla-land と発音されのちに England となった。そこの住民は、Anglian といわれ、かれらのしゃべる言葉は”Engl-ish であった。したがって英語の語幹・文法・構造は、アングロ・サクソン語であるといってよい。しかし語彙・単語ーとくに動詞や形容詞−は、ケルト語・ラテン語、その後になってデンマーク語・フランス語などより借り入れたものが多い。英語の基本的な構造といった場合、日常的な必須欠くべからざる語彙・単語が含まれ、これは重要な意味をもっている。近代英語における火曜日から金曜日までの名は、アングロ・サクソンの神の名前よりきている。Tuesday は戦争の神”Tiw より、Wednesday は神々の主神”Woden より、Thursday は雷鳴の神”Thor より、Friday は”Woden の妻よりきている。ゲルマン的な多神教世界の様子も解る(2)。また現在使われている土地名の多くは、アングロ・サクソン系である。stead は土地を意味し、”bury は城壁のある町を意味し、ton は農園、ham は家庭、ing は所有を意味している。Hamstead,”Birmingham, ”Southampton,”Salisbury,”Edinburgh などは、アングロ・サクソン的な名前である。なお”Winchester,”Manchester の”chester はローマ軍の駐屯地を意味し、ラテン語的である。
  アングロ・サクソンのキリスト教への改宗は、七世紀を通じ行われた。部族主がキリスト教に改宗すれば一般住民は自動的に改宗した。ローマからも宣教師、例えば有名なアウグスチンの如き高僧もやってきて、アングロ・サクソン語(古英語)を勉強しながら伝導し、改宗の仕事は七世紀末にはほぼ完了した。そのことによってキリスト教用語−ラテン語系−が多く現れた。しかしキリスト教関係者は、必ずしもラテン語のそれを押しつけない場合もあり、アングロ・サクソン的多神教の用語を利用したこともあった。例えば復活祭の”Easter はアングロ・サクソンの多神教よりきている。キリスト教での意味は言うまでもなく、イエスはローマの官憲によって金曜日に処刑されたが「三日目によみがえった」ことに対する祝祭であるが、アングロ・サクソンには「明けがたの神々」の祭りが春にとり行われる風習があり、「明けがた」は東方 East よりやってくるとして”Easter が生まれた。つまりアングロ・サクソンの「神々の明けがたの祭」と、復活祭を一致させそれをイングランドに定着させたのである(3)
  しかしキリスト教の定着によってより重要なことが生まれた。当時アングロ・サクソンの支配領域は、ノーサンブリアン・マーシャ・イースト=アグラリアン・ケント・エセックス・サセックス・ウェセックスの七部族王国に分かれ、各々がアングロ・サクソン語を話していたが、方言的な色合いが濃厚で必ずしも言語的に十分なコミュニケーションができていなかった。とくにケルト語とラテン語の取り入れについては濃淡が著しく、そのことによって方言的な差異が拡大していた。キリスト教は唯一神教であり、使用する用語は統一され、とり行われる儀式もどの教会でも同じであった。とくに当時のキリスト教は、ケントのカンタベリを中心とするものと北方のアイルランド系のものとが対立していたが、六六四年ウィトビー宗教会議が行われ、カンタベリの教会がキリスト教の総本山とされることによって統一の核が生まれた。以上のことにより、キリスト教徒相互間のコミュニケーションは著しく発展し、言語状況と文化も変わっていった。
  キリスト教はラテン語のアルファベットを導入した。これにより聖書の写本が多く出まわるようになった。アルファベットの導入で写本が発達したことは、印刷技術が現れたのが一〇〇〇年あとであることを考えると大変なことであった。書き言葉はこうして発展した。もちろんラテン語のものであったが、聖書の内容を説明するイラストレーションと共に現れた付属書などはアングロ・サクソン語で書かれている場合もあった。キリスト教を中心にしてアングロ・サクソンの文化一般も発達した。教会や修道院には、信仰を内容とした壁画や天井画が現れた。こうした共通の写本として見ることができるラテン語聖書物語の註釈があり、共通の芸術が生まれつつあったことは、ケルト人やローマ人を含めたアングロ・サクソンの統一に対して大きく寄与したことは否定できない。
  九世紀前半、ウェセックスのエグバーク王を中心に七部族王国が政治的に統一の方向をとったことはすでに述べた。この時代には、マーシヤのオファ王を中心に「イングランド」、「イングリシュ」という概念が形成されていたが、これをより発展させた契機はディーン人の侵入であった。イギリス人はスカンジナヴィアよりやってきたディーン人に対して統一して抵抗し、侵入・侵略を阻止することが必要であったので・唯一の王をもった単一の「ネイション」の形成が重要であった。エグバーグ王の時代に政治的に一応イギリスは統一されたとしても、言語的・文化的な統一は十分とはいえなかった。この役割を担ったのがウェセックスのウィンチェスターを首都として活躍したアルフレット大王であった。かれは政治的・軍事的にディーン人の侵入に対処したことは言うに及ばず、言語、文化についての政策ですぐれたものを示した。かれはイギリス全体に通用する法典をつくったり、イギリスは言うにおよばず大陸からも学者をまねき古典の英訳を試みたり、イギリス最古の公的歴史記録ともいえる『アングロ・サクソン年代記』の編纂をはじめた。こうした過程で、ウェセックスのイングリッシュが多くあるイングリシュの方言のなかで代表的なものと考えられるようになり、それ以降古英語 Old English の文学はこのウェセックス・イングリシュで書かれ、以後形成される教育機関で教えるイングリシュもこれとなる。またヨーロッパ世界の色々な詩も、ウェセックス・イングリシュで訳されている(4)
  このようにして英語の原型である古英語が形成された。それは文の基本構造や文法に関してはアングロ・サクソン的であると言ってよいが、語彙や単語にはケルト語やローマからのラテン語より借入したものが多く含まれていた。このことより英語は、言語的にはドイツ語系統の言葉といってよい。といっても現在のオランダ語(ドイツ語系統の言葉)に最も似ているといえる。とくにフリージア語に似ている。例えばドイツ語では名詞は男性・女性・中性の三つに分かれるが、英語でも名詞・冠詞、それに伴う形容詞の末尾は、文章での名詞の機能にしたがい(主語か目的かといった)変わってくる。こうした文章のなかでの名詞・冠詞・形容詞などの変化の様態は、ドイツ語よりきているといわれており、英語とドイツ語は文法的に類似していると言われる理由である。
  しかし私は言語学的に英語を問題にしようとは思わない。重要な問題は、九世紀の末にウェセックス・イングリシュを中核としてイギリスの言語が統一の方向を明確に示したこと、そしてそれは「ネイション」意識の形成に極めて重要な意味をもったことである(5)。別の角度から言うならば、つまりアンソニーD・スミス的に言うならば、イギリスのネイション形成は近代と共に進むのであるがその前提は、九、一〇世紀に言語的にはすでに形成されつつあったと言うことである
  ただ断っておかなければならないことは、九、一〇世紀頃形成された英語(古英語)は、近代英語ではないということである。近代英語を問題にするに当っては、一〇一六年に成立したカヌート王によるディーン王朝の問題と、一〇六六に始まるノルマンディ人の侵略とノルマン王朝の成立、それ以降三〇〇年間にわたるフランス語の影響の問題を考えなければならない。
  一〇一六年ディーン人のカヌート王は、イギリスを征服し、ディーン王朝を開いた。以降二二年間イギリスを支配したが、言語と文化について一定の影響をもたらした。ウィンチェスターが首都であったが、以前ディーン人支配地域の問題もあり、英語とならんでデンマーク語が公用語とされた。ただ英語とデンマーク語はよく似た言葉であり、それほど多くの混乱はなかった。二者の相違は、デンマーク語の方が文法的にははるかに単純であるということだけであった。しかしデンマーク語は当時スカンジナヴィアの共通語で影響力が強かったので、デンマーク人男性とイギリス女性の混血が進んだこともあり、英語に影響をあたえた。英語の三人称複数の They, Their (s), Them はデンマーク語からきているし、law, ill, happy, want, take, die, window, skirt, egg, though など日常生活でよく使用されるものもそれからの借用である。また勢力を伸ばしたアイルランドやスコットランドに影響を示し、地名においてそのことは確認される(6)
  より大きな影響を与えたのは、「ノルマンの征服」Norman Conquest とそれ以降の支配であった。ノルマン Norman は「北の男」Northman よりきている。ノルマンはノルマンディ Normandy ともいわれ、元々はゲルマン系のスカンジナヴィアの住民であったが、ゲルマン民族の移動の一環としてフランス北部に移動しそこに定住してフランス語を話すようになった。かれらは九一一年、フランス国王より封土を受け、指導者はフランス国王の家臣となり「公爵」Duke の称号をうけた。フランス国王より封としてあたえられた土地は、ノルマンディ地方であった。
  二六年続いたディーン王朝が崩壊した一〇四二年、ウェセックス王家の血流をもつエドワードが母の出身地ノルマンディより帰国し、イギリス王位についたが、一〇六六年かれが没したときかれに嗣子がなかったので王位継承問題が生れた。この期にノルマンディ公ウィイリアムスが、イギリス王位を主張して「ノルマン・コンケスト」にのりだしたのであるが、当時の王朝の慣例にしたがうならば、ウィリアムにも一定の王位継承権があったのである。というのはウィリアムは、エドワードと親類関係にあった。つまりエドワードの母は、ウィリアムの親のおば、言い換えるとウィリアムはエドワードのいとこの息子、かれはエドワードのまたいとこという関係にあったのである。こうした事態が起るということは、当時すでに皇室関係者の間で「国境」を越えて婚姻が発展していたことを示している。ディーン人カヌートがイギリス王朝を乗取った時代に王位継承権をもったエドワードが、ノルマンディの母の故郷に亡命し、そこでウィリアムと極めて親しく交際したのも、当時における「国際結婚」の発展を前提にしていた。こおした状況は、政治問題だけでなく言語問題を考えるに当っても重要なことであった。それは差し当たりともかくとして、ウィリアムは、一〇六六年一一月のヘイスティングの戦いに勝ちクリスマスの日イギリス王として戴冠した。この時以来約三〇〇年間は、イギリス王はノルマンディ公ウィリアム(形式的にはフランス王の家臣)の子孫によって掌握された。しかし逆に次のことも重要である。ノルマンディ公はフランスでは一介の地方支配者で形式的には国王の家臣であるが、イギリスではれっきとした国王であったので、支配の中心地はイギリスに移り、ノルマンディは「もう一つのイギリス」になった。つまり複合国家である。しかし複合国家で重要な点は、ノルマンディ公からイギリス国王になることにより、イギリス王はイギリスに多くの所領をかかえることになったが、この土地を封としてフランス人の家臣にあたえたことであった。これによりフランス人とイギリス人の混合過程は進んだ。また一一五四年ノルマン王朝のスティーブが没しヘンリ二世が王位についたが、かれはフランス人でノルマンディとアキテーヌを親の代よりのものもとして受け継ぐと共に、西南フランス一帯の支配者アキテーヌ公の女子相続人イリーナを妻として迎えることにより、英仏海峡よりピレネー北麓にいたるフランスの領主となったのである。ヘンリ二世の時代よりイギリス王は、西南フランスの支配が重要な意味をもつことを知るのであるが、支配に当たり政治的と同時に当時の常套手段として「婚姻」がつかわれ、それは家臣にもに及んでいた(7)
  こうした状況のなかで、イギリスにおけるフランス語の意味は極めて高いものになった。フランス系の上流階級は言うにおよばず、イギリス人でもノルマン王朝と関係するものはフランス語を話し、フランスの洗練された文化をよしとした。国王は勿論のこと、家臣の多くはフランス人を妻にすることが習慣となっていたので、フランス語の支配力は極めて強かった。皇室関係者、領主、貴族、教会関係者といった上流階級はフランス語を使っていたが、一般大衆の間にもフランス語は入ってきた。といっても英語がすでに成立していたので語彙や単語としてではあるが。法律用語が司法制度が完備してくるようにしたがいフランス語となり、それに伴ってこれが大衆の間にも入りそれが英語化した。crime, arrest, accuse, prison, punish, solicitor, judge などがそれである。法律以外でフランス語の影響が強く、それが英語化した部門として、政治、宗教、戦争、建築、地理などがある。政治における parliament, duke, county, 宗教での miracle, mercy, saint, 戦争での war, battle, peace, 建築での castle, tower, palace, 地理の river, lake, mountain などはフランス語よりきている。上流社会で牛肉、ひつじ肉、子牛肉を食するようになると、フランス語が当初使われ後に英語化した。beef, mutton, veal は、フランス語の boeuf, mouton, veau, よりきていることは明らかである。また料理の用語も同様で boil, fry, grill, roast, toast はフランス語からである。これらの言葉ははじめ上流社会で使われていたものが、アングロ・サクソン系の中下層に降りて行く過程で英語化したものである。
  しかし古英語、つまりアングロ・サクソン語の中に確立した概念があるのにもかかわらず、フランス語が使われる場合が生まれ、それが次第に土着化つまり英語化してくると、複雑な問題が生まれた。英語には freedom, friendly, deep, answer といった語に対して、 liberty, amicable, profound, response といったほぼ同じ意味をもつ語がある。前者はアングロ・サクソン語から生まれたものであり、後者はフランス語からのものであり微妙なニューアンスの相違が確認される。極めて一般的にいって古英語の前者はやや具体的で物質的、自然的な意味あいをもっている、とされている。フランス語が英語化したものと並んで、ラテン語が英語化し、一つの意味を表すのに二つの語がある場合も生まれた。count, sure はフランス語からきているが、意味としてこれに相当する compute, secure はラテン語よりきている。似た意味だとは言いながら、二者の間には微妙なニューアンス的な相違があるといわれている。このように考えると、ノルマン王朝以降の英語は、文法は比較的明白でありながら微妙に違う語が無数にあり、このことを考えると極めてはっきりした特徴をもつ複雑な言葉になったといえよう(8)
  すでに述べたように一般的にいって上層階級の間ではフランス語が巾をきかせ、中下層では英語が話されていたが、ノルマン王朝から同じフランス系のプランタジネット王朝に代わる頃の一二世紀の始めになると若干変わった状況が生まれてきた。プランタジネット王朝は、フランスの所領経営でフランス国王と対立することが多くなり、その結果イギリスを強化する必要に直面した。皇族関係者の多くはイギリスに住み、イギリス人との接触の機会を多くしない限り、イギリス貴族や領主(イギリス血統、フランス血統、混血血統様々)より税の徴収がむづかしくなった。かくしてフランスのノルマンディ貴族のイギリス化が進展したのである。ジョン王の一三世紀初めになるとフランス南部の所領にフランス国王フィリップ二世(カペー王家)に後押された反乱が起こり、ロワール河北部の全所領とアキテーヌ北部をフランス王に奪われてしまう。一四世紀から一五世紀にかけては英仏問題の決戦である百年戦争が展開される。こうした歴史過程でノルマンディ貴族のイギリス化、イギリス文化の復権がはかられる(9)
  一二〇四年、ノルマンディ貴族と英仏両方にまたがる教会が、英仏海峡をまたいで両国に同時に土地を所有することを禁止する法が成立した。これによりイギリスに住む土地貴族のイギリスに対する帰属意識が明確化された。一三六二年、百年戦争中であったが、法律や法廷で使用される言葉は、英語となった。これ以後教育機関の言葉も英語となった。イギリス王朝の特別旗には”Dieu et mon droit と書かれていたが、God and My Right と書かれるようになった。
  しかし中世の歴史過程で英語そのものの内容ではなく、別の面で変わった点を確認しておく必要がある。ノルマン・コンケスト以前に「ウェセックス・イングリッシュ」が標準英語になっていたことはすでに述べた。しかし宮廷を中心とする上流社会はフランス語を使い、それに照応して公用語がフランス語になると英語の標準語は意味がなくなった。それに対応して「ウェセックス・イングリシュ」より発達した西中部と東中部の以前に方言とされていたものが重視されるようになった。そして西中部と東中部の両方からなるロンドン英語がしだいに標準英語とされるようになった。ロンドン王朝関係者がしだいにこれを話すようになっていったことは重要である。さらにイギリスの代表的な中世の文学者であったチョーサー(一三四三ー一四〇〇年)がそれを使い、また聖書の英訳で有名なJ.ウィクリフやN.ヘレフォードが英訳に当たり(一三八二ー八四年)使ったことで普及し、一五世紀頃より一般大衆も使うようになった。文章語の基礎の強化と普及に当たっては、一五世紀の印刷業の発展に寄与したW・カクストンが重要であろう(10)
  英語は、かくして一五世紀頃近代英語に近いものになった。それはアングロ・サクソン語を言葉の基本構造としてもち、ケルト語、ラテン語、アングロ・サクソン語、デンマーク語、フランス語の語彙・単語を取り入れた複雑なものであった。その形成は同時に「イギリス・ネイション」の形成と密接に結合していたのである。

(1)  Michael C. Mobbs, The Polyglot Isles, pp. 6-19.
(2)  F. M. Stenton, Anglo-Saxon England  1943.  Oxford, 3rd ed., 1971. pp. 98-100.
(3)  Michaelc. Mobbs, op-cit. p. 61.
(4)  ウェセックス、ウィンチェスターについては David W. Lloy D. Historic Towns of Hampshire and Surrey, Victor Gollancz Ltd. pp. 7, 67-76.
(5)  Michael C. Mobbs op-cit. pp. 62-63.
(6)  ibid. pp. 69-76.
(7)  大野真弓編『イギリス史』(一九九三年、山川出版社)。六四ー七五ページ。
(8)  Michael C. Mobbs, op-cit. pp. 77-87.
(9)  百年戦争の過程でフランス系の皇室・貴族は、フランスのヴアロア王朝と激しく対立し、イギリス的になった。この戦争で一時的であるがイギリスに勝利をもたらしたヘンリー五世(一四一三ー一四二二年)はその例である。かれはカソリック教会より破門されたヘンリー八世とならんで、イギリス「ナショナリズム」の代表と考えられることもある。また伝説の王アーサーを具現するものとして考えられることもあった。
(10)  田中克彦、H・ハールマン著『現代ヨーロッパの言語』(岩波書店、一九八五年)一〇〇ー一〇一ページ。


四、イギリスにおける宗教改革の特殊性


  ヨーロッパ中世のキリスト教は、「普遍的」catholic であり、ヨーロッパの世界を単一的に支配していた。ネイションの形成、主権国家の樹立といった観点からしたならば、このカソリシズム=「普遍的世界」がどのように分解し、「普遍的」なものに対して「個別的」なものが形成されたのか、という点が重要である。
  シャルルマニュ=カール大帝が、ローマ教皇によって戴冠された時代は神政政治が行われ、政治と宗教は密接に結合していた。しかし九六二年、教皇ヨハネス一二世が、ドイツ国王オットーに「神聖ローマ皇帝」としての戴冠式を行う頃には政治は各国の国王、宗教は教皇にといった分離状況が生まれていた。一〇七七年、教皇グレコリウス七世がドイツ皇帝ハインリヒ四世に対して破門宣告をした背景には、政治の世界にのみに君臨を認められた皇帝が宗教の世界である教会や修道院の人事にまで支配権を拡大しようとしたという事実が存在した。一一二二年、皇帝ハイリヒ五世と教皇カリクトス二世との間に協定が成立し、皇帝は宗教支配のシンボルである「指輪と司教杖」を持つことができない、つまり司教任命権を放棄する、しかし教会の司教領は皇帝より授封する、つまり家臣になるというはっきりしない約束が生まれた。ウォルムスの協定である。この協定の意義は皇帝が「指輪と司教杖」を放棄することで「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」の原則が確認されることにより、シャルルマニュ的な神政政治を過去のものにしたことであろう。
  しかし具体的な歴史過程を見るならば、皇帝権=政治権力と教権=宗教権の原理的な分離は進んだものの、二者は平等の関係では決してなく、しだいに教権優位の状況が生まれていった。皇帝ハインリヒ四世とたたかった例の教皇グレゴリュウス七世が残した勅書『ディクトス・パパエ』は教皇権の絶対性を力説したものであったが高く評価されるようになっていった。歴代の教皇は、この勅書を理由にして俗権=皇帝権に干渉するようになっていった。かくして一二・三世紀の両世紀は教皇権の最盛期とされ、その頂点にインノケンチウス三世(一一九六ー一二一六年)がいた。かれは、ドイツ皇帝ハインリヒ六世の死後、皇帝権の弱体化に乗じてドイツ国内の人事権を掌握し、一二〇七年イギリス王ジョンを教皇に逆ってカンタベリ大司教ラングトンの就任を拒否したという理由で破門し、離婚しようとしていたフランス王フィリップ尊厳王を牽制しそれを断念させた。つまりドイツ・イギリス・フランスの国王を支配下に抑えたのである。かれは、教皇の命令は神の命令でありキリストの命令である、なぜなら教皇は神とキリストの代理人であるからである、と言っている。これを前提にかれは、教皇は太陽に相当し、皇帝や国王は太陽の光をかりてはじめて輝くことができる月である、とした。かくして「カソリック的世界」が生まれた(1)
  この巨大な教皇権力を支えるものとしてカソリック教会の階層序列制と修道院が存在した。
  教会の階層序列制とは頂点の教皇より末端の在地の神父にいたる間に、一種の階層序列的な秩序が存在し、上位の意志が末端の神父にまで伝達できるシステムをいう。ウルバヌス二世はこの組織の確立に努力した。かれは教皇庁組織を確立し、枢機官の権威を高めた。司教・司祭・(耳力)祭のエリートより枢機官は選ばれたが、枢機官によって構成された枢機会は教皇選挙を左右し、聖書の解釈を支配した。教会組織は司教によって運営されたが、司教のうち筆頭である大司教の権限は広かった。各司教の下に参事会があり、司教を選出すると共に教会の事業に助言した。司教を中心とした司教区の事業には、上位機関の承認が必要とされた。この階層序列的な組織によって十分の一税、聖職者の叙任支払い金、事業費などが、バチカンの教皇の手下に集められ、この総額はヨーロツパの全国王の収入総額をこえたともいわれている。
  修道院は、階層序列制を担う聖職者の養成所の意味をもっていた。五四ス年頃書かれた『ベネディクト戒律』に基づいた厳しい生活が修道士に強制された。修道士は定住、貞淑、服従を誓い、毎日は礼拝・祈祷・労働に明けくれた。厳しい俗世間より離れた生活の過程で、身も心もきよめ教会に(耳力)祭や司祭として就任したとき儀式をサクラメント=秘蹟としてとり行う準備をしたのである。カトリック教会の特徴は、諸儀式をサクラメントとして取り行い、これに参加することによって神の恩寵にあづかれるというものであったので、サクラメントを取り行う聖職者は修道院で厳しい生活を送り身心をきよめたものでなければならなかった。
  こうしたカソリック教会を理論的に最終的に武装したものが、トマス・アクイナス Thomas Aquinas(一二二五ー七四年)が書いた『神学大全』であった。かれは「哲学は神学の奴僕である」という名題を提起したが、これは極めて重要な意味をもっていた。つまり、聖職者は現世を越える存在ゆえ、一般人とは異った高い霊的資質をもち、神の恩寵はこの霊的に高い聖職者が取り行う儀式によってもたらされる、ということを意味していた。儀式は洗礼・賢信・聖体・悔俊・終油・品級・婚姻の七つで、霊的に高い聖職者が秘蹟として行うこの儀式に参加することにより信者は神の恵みにあづかるとされた。この聖職者と一般信者を分離した考え、聖職者を階級的に分ける考えは、先の階層序列制の前提となっていった。こうしたトマス神学は、カトリシズムの神学的な完成形態であった。そしてこうした神学理論に合わないことをいうものは、「異端」として「正統」に逆うとして弾圧された。神学理論の形成と聖書の解釈権を排他的に握っていたローマのバチカンのみが「正統」か「異端」かを決定していた(2)
  ネイションの形成・主権国家の形成を論ずるに当たっては、こうした「普遍的」(カトリック)的なかつ統一的で単一的な宗教の世界の分解が必要であった。それに当たり重要な役割をはたしたのは、言うまでもなく宗教改革である。
  宗教改革を論ずるに当たり重要なのは、イギリスに引きつけて考えなければならないという本稿の目的からするならば、ジョン・ウィクリフ John Wieclif(一三二〇年頃ー八四年)であろう。かれはカソリック教会の堕落を攻撃し教会所有財産の没収、教会への貢納税の廃止を強く主張した。また信仰は聖書に基づくべしとして英語訳聖書の作成をなし、聖書に依拠してカソリック的なサクラメント=秘蹟を批判し、さらに聖餐に用いられているパンとブドー酒はイエスの肉と血とされているがその実体は聖化後も変化しないとした化体説 transubstantiation を否定した。これはカトリック教会の生命線の否定であった。かれの死後、教皇グレゴリウス一一世はウィクリフの神学説を「異端」としたが、この考えはボヘミヤのフスにも伝わり、イギリスではロラード Lollard 運動という大衆運動に発展した。カトリック教会側は、ロラード運動の関係者を「異端審問」にかけ、ノーフォークの礼拝堂司祭ウィリアム・ソートリをはじめ、運動指導者オールドカスルを含め一四一四年以降だけでも六四名が異端懲罰のシンボルである火あぶりの刑に処せられた。ロラード運動は、はじめ教皇、司教の反キリスト的性格、化体説批判、聖遺物信仰、偶像崇拝、巡礼などの否定と神学理論に関係していたか、大衆化が進み参加者が多くなると、教会財産の没収と財産の共有論が生まれ、これはイギリス宗教改革に現れる修道院解散と結合していった(3)
  ウィクリフからロラード運動にかけてのイギリスの宗教改革の前史には、神学理論的な論争が関係していた。しかしイギリス宗教改革そのものの発端は、神学理論とは関係なくヘンリ八世 Henry VIII(一四九一ー一五四七年)の離婚問題であった。
  ヘンリは一五〇九年、一八才の時兄アーサーの未亡人で六才年上のキャサリンと結婚したが、キャサリンはカソリック王国スペインの国王の第四王女であった。この結婚は兄の未亡人との結婚ということで、教会法上禁止されている近親結婚の一種であったが、バチカンの特別の許可をへて行われたものであった。結婚生活は一八年間続いたが男子の後継者が得られず、ヘンリがイギリス人の女官アン・ブリンといい仲になってしまったので離婚を希望するようになった。しかし時の教皇クレメンス七世は、一担は認めた婚姻を離婚という形で崩壊させることは許されないとして、離婚許可申請を却下した。
  この結婚と離婚問題には国際政治の蔭が見えかくれする。ヘンリとキャサリンの結婚自体一種の政略結婚であった。当時スペインは貿易国家ではあったが、一四九二年のコロンブスによる新大陸発見以来最盛期を向かえようとしていた。したがってイギリスが兄の未亡人のキャサリン(スペイン第四王女)と新王ヘンリをあえて結婚させたのには、政治的に理由があった。しかし一五一九年スペイン国王カルロス一世が、フランス国王フランソワ一世をおさえ両ハプスブルグ家の後継者=「神聖ローマ皇帝」(カール五世)となるにおよんで、イギリスはスペインを恐れるようになり、逆にスペインを牽制するためにフランスに接近するようになった。この国際政治の状況の変化は、バチカンにも影響していた。つまりバチカンは政治的にスペインの言うことを聞かなければならない状況にあったということであった。
  ヘンリは教皇の許可による離婚の方向を断念し、バチカンの意向を無視して行動した。一五三二年聖職者会議が国王の許可なしに立法を行うことを禁止し、「条件つき初年度収入納禁止法」The Conditional Restraint of Annates を成立させ、高位聖職者就任時の教皇への上納金を禁止した。三三年「上告禁止法」The Restraint 0f Appeals を成立させ、教皇の最高司法権を否定し、最高司法権は国王にあることを示し、三四年には「聖職者任命法」The Ecclesiastical Appointment Act を制定することで教皇の聖職者任命での干渉を排除した。さらに「教皇特免およびペテロ祭税支払い禁止法」Act forbidding Papal Dispensation and The Payment of Peter’s Pence を発布した上で、ヘンリとキャサリンの結婚が無効であり、ヘンリとアン・ブリンの結婚を合法とした「第一王位継承法」The First Act of Succession が制定された。そうした措置ののち、三四年一一月国王を「アングリカーナ・エクレシアとよばれるイングランド教会の地上における唯一の最高の首長(4)」と規定した「国王至上法」Act of Supremacy を発布して、ローマ・カソリック教会より分離、独立した。国王をイギリス国教会の「唯一の最高の首長」という規定は、他の宗教や他の国家については余り確認することができないものである以上、ネイションや主権国家の形成との関係では十分注意されなければならない。
  ところで、反カソリック教会という形でのイギリス宗教改革がなぜこのように急進的におし進められたかを考えると、それはただ単に国王の権力によるものではなく、一般民衆の間に反カソリック的な雰囲気が充満していたことに気付く。当時一般民衆はその誕生から死にいたるまで全生活がカソリック教会によって握られており、事あるごとに外国よりくる聖職者によって搾取され、反カソリック的な感情が「ナショナリズム」的に存在していた。また教会と修道院は、全国の富の三分の一を支配し、巨大な土地を所有し世俗領主と変わりない土地経営をおこない、一般大衆はこの面でも教会と修道院に反感をいだいていた。ヘンリ八世は、こうした一種の初期的「ナショナリズム」に乗っかって宗教改革をなしたが、一般民衆にとって最も可視的に映った改革は、修道院の解散であった。ヘンリは最初堕落が著しかった小修道院の解散を行ったが、一五三九年大修道院解散法を制定し、俗界との交わりを断って祈りと禁欲の生活を送るという修道院そのものの理念をも否定し、四〇年三月ウォルサム修道院解散を以って八〇〇を越える全修道院を解散させた。そしてその土地を売却して、国王財政のたて直しをはかった(5)
  しかしヘンリ八世の改革は必ずしも透撤した反カソリック的意味あいを全面的にもっていたわけではない。教義上の問題については、一五三六年の信仰箇条「一〇ケ条」Ten Articles は妥協的で、プロテスタント的な側面が迷信排除、偶像崇拝の禁止、巡礼の抑制=労働倫理の支持、英語聖書などに見られるものの、化体説の肯定、サクラメントに対するあいまいな表現が見られカソリック的でもある。三九年の「六ケ条」The Six Articles Act では、逆にカソリック教会のまき返しのなかで、カソリック的な回帰現象が見られた。
  一五四七年ヘンリ八世が没し、エドワード六世が即位したが、このときには逆にプロテスタント化は前進した。共通祈祷書がほぼプロテスタントの路線に沿って作成され、それに基づいて礼拝が行われるようになった。しかし最も重要なものは五三年に制定される「四二か条」で、これはイギリス国教会の基本となった。ルター的信仰義認説、「予定と選び」の教義、信者の会衆=教会、煉獄の否定、サクラメントの洗礼と聖餐のみへの限定、二種陪餐、聖職者の結婚容認、化体説の否定、「唯一の最高の首長」としての国王規定がその内容となっている。
  エドワード六世が死んだのち、ヘンリ八世が離婚したキャサリンとの間に生まれた娘メアリが即位し、一五五四年プロテスタントを弾圧してヘンリ八世以来の改革を無効とし、カソリックに復帰した。メアリはカトリック王国スペインのフェリッペ二世と結婚し、復活させたカソリックを擁護しようとしたが一度改革に進んだものを元にもどすことはむづかしく抵抗にあい失敗した。一五五八年、ヘンリ八世が再婚したイギリス人の女官アン・ブリンとの間に生まれたエリザベスが王位についた。エリザベスは宗教問題には慎重な態度を以って最終的な解決にとりくんだ。かの女は、即位の翌年、新めて「国王至上法」を制定し、メアリ時代のカソリックへの復帰を無効としローマ教会よりの分離を宣言した。同時に共通祈祷書を復活し、日曜と祭日の教区教会への出席を義務づけ、十分の一税の国教会への納入、聖職者の結婚の合法性、偶像崇拝の禁止、祭壇に代わる聖卓の採用を提起した。しかしカトリックよりの遺制と言われる主教制度を正しいとした。教義については、三位一体説を確認した上で、ルター的な信仰のみによる義とカルヴァン的予定説を採用し、煉獄が否定され、サクラメントは洗礼と聖餐に限定され、化体説は否定された(6)
  以上によってアングリカン神学は、基本的に確立されたと考えられる。それによって他国には例のないユニークなイギリス国教会が成立した。ユニークさの中核は、アングリカン・チャーチの「唯一の最高の首長」は国王であるという点にある。イギリスの宗教改革は、国王を中心におこなわれたのである。それゆえ、教義、神学に先に立つものでなく、国王の政治的な動向が先に動き、その動きにしたがって教義、神学が結果として変化したと考えられる。したがって教義と神学を見れば、それはカソリックとプロテスタントの「折衷」とも考えられる。それゆえ、その後のピューリタン革命の課題が生まれたのである。

(1)  George Holmes ed, The Oxford Histry of Medieval Europe, Oxford University Press. 1988. pp. 222-225.  Robert Bartlett, The making of Europe, conquest, colonization, and cultural change, 950-1350, Penguin Book, 1993. pp. 243-268.
(2)  トマス・アクィナスについては、福田歓一『政治学史』(東大出版会・一九八六年)一三六ー一四三ページ。
(3)  小島潤『西洋教会史』(刀水書房・一九八六年)二六三ー二七〇ページ、W. W. Capes, The English Church in The fourteeth and fifteenth centuries, London. 1920. p. 76 は英語訳聖書について。
(4)  H. Gee and W. J. Hardy eds, Documents illustrative of English Church History. p. 244.
(5)  修道院の解散については、G. W. O. Woodward, The Dissolution of The Monasteries, London. 1966.
(6)  浜林正夫『イギリス宗教史』(大日書店・一九八七年)一〇七ー一一三ページ、イギリス国教会の理論として、リチャード・フッカー Richard Hooker(一五五三ー六〇〇年)の『教会政治の法』The law of Ecclesiastical Polity. 1594-1600. が重要である。


五、ま  と  め


  イギリスにおいては一〇世紀頃、外からの侵略に対応することを主目的として統一的な王朝が生まれ、以後ネイションの形成にあたり決定的な役割を演ずることになった。言語的な問題に関しては、アングロ・サクソンが定住した時代に古英語が成立し、一四・五世紀には近代英語に発展し、ネイション形成に当たっての重要な要素になった。一六世紀のヘンリー八世時代に始められた宗教改革は、ヨーロッパを「普遍的」なものとして単一的に支配していたカソリシズムからの分離・独立を成立させた。イギリスでのネイションの形成は、前近代社会からのこうした要素と要因が資本主義の徐々なる発展と結合することにより、進展したと考えられる。しかし本稿においては割り当てられた枚数の関係より、資本主義形成の問題は除外した。
  ネイションの形成はイギリスの場合国民国家 nation state の形成であり、それは主権国家 sovereign state 形成に連係していた。イギリスの主権の形成は、国王至上権に基づくイギリス国教会の形成と結びついていた。その国教会は「アングリカーナ・エクレシアとよばれるイングランド教会の地上のおける唯一の最高の首長」と国王を規定している所に最大の特徴を示していた。このことは国王主権が、国王が宗教を掌握することによって成立したことを意味すると同時に、国王の権威が「王権神授説」divine right theory によって武装されていたことを意味する。
  主権概念は、対外的に独立を意味するものと対内的に何が法であるかを排他的に決定する機関の問題にわけることができる。しかし二者は密接に結合している。前者については、その国家が諸々の国家よりなる共同体の平等の構成員であり、国際法の主体であることが重要である。これが可能とされるためには、上下関係を中心とする階層序列的で「普遍的」であるとされるカソリシズムの世界が解体されなければならない。後者については、「最高にして、諸々の法律に拘束されることがない権力」(ボーダン)、つまり法律をつくる権力が存在することが重要である。広義の法は、成文化され制度化された法律 lex とそれの根底にある一般意識としての宗教的な法 jus(狭義)に分けられる(1)。フランスではこの法律と狭義の法は分離の方向に進むが、イギリスでは国王至上権規定をもつ国教会の成立を見ることにより分離の方向に進まないまま国王主権が成立する。したがって主権論よりするならば、ピューリタン革命と名誉革命の過程は、二者を分離する過程であった。名誉革命後、議会が国教会と結合した王権を抑えるという形で、一応議会主権が形成され、二者の分離が行われた。その理論家はJ・ロックであり、王権神授説の否定もその理論の一部に位置づけられている。かくして王権は君主制形態をとることになる。
  しかし二者の分離はイギリスでは一九世紀を通じて現実には明確にされていない。議会制は一八三二年の選挙法の改正以後確立の方向に進むが、共和制運動が消滅したこともあり、君主制は安定化の道を歩ゆむ。議会制が確立しても「主権は議会のなかの国王にある」という規定が生きつづけることになる。国王は議会のなかでしか主権行使はありえない状態になったとはいえ、立憲君主制の下での国王の存在は重要である。ここに国王に対する伝統的な国民感情が読みとれる。イギリス国民は、国王に対する愛着をもっている。それは理屈ではなく伝統である。この伝統は昔ながらの伝統的な宗教的な儀式に乗って行われる戴冠式を見れば理解される。H・ラスキはかつてイギリス君主制について「そのメタフィジカルな内容」は合理的批判の埒外にある、といったがそのとおりである。イギリス人は「ロイヤル」が好きなのである。
  イギリスの主権はイギリス国教会の「首長」としての国王の主権として形成された。この時点では国教会という形でのキリスト教と主権は密接に結合していた。名誉革命後は、議会主権となることによって主権は非宗教的に一応なった。ひるがえって、西欧諸国が植民地支配を求めて中東諸国を上から強引につくり、それを「主権国家」と呼称するようになった問題を、西欧的主権国家論との関係で考えてみよう。イラクもクウェートも、サウジアラビアも、ヨルダンもシリアも、エジプトも・・・皆同じイスラム教スンニ派の信徒によって形成され、同じようにアラビア語を使用し、それらに基づく共通の文化を享受している。その上政治は宗教であり、宗教は政治であるとの考えを最も著しい特徴としているイスラム教の世界の話である。西欧的基準からしたならばこうしたイスラム世界の「各国」が民族国家を形成し、それは主権国家であるなどとどうして言えるのであろうか。
  国際法学者大沼保昭は次のように言う。「たしかにヨーロッパ諸国にとっては、自分たちの間で妥当していた規則を非ヨーロッパ諸国に『適用』することは『まったく自然』なことであったろう。しかし、非ヨーロッパ諸国はそうした規則とは異なる自分たち自身の規範観念を有していたのである。そうした諸国にとっては、ヨーロッパ諸国との関係においてヨーロッパ的な規則が適用されることは、実は強制されることにほかならなかった(2)」。主権国家というヨーロッパの歴史・文化の中で形成された概念を、暴力によってイスラム世界に適用=強制したのが湾岸戦争であった、と言えないであろうか。

(1)  白石正樹「ボダンー『歴史理解の方法』における主権概念」(田中浩編『現代世界と国民国家の将来』一九九〇年  御茶ノ水書房)五一ー六五ページ。
(2)  大沼保昭編『戦争と平和の法』(東信堂  一九八七年)五九〇ページ。