立命館法学  一九九六年六号(二五〇号)一三四一頁(一頁)




署名活動と表現の自由・プライバシー
−−署名者個人への働きかけと憲法(一)−−


市川 正人






は  じ  め  に

  このところ、署名簿を提出された相手方(地方公共団体や企業)が、署名者の代表者ではなく個々の署名者に対して直接働きかけた事例が幾つか報道されている。まず、原子力発電所の運転の差止めを求めた裁判の原告やその支援者たちが、差止めは認めなかったものの原子力発電所の蒸気発生器細管が破断する可能性があること等を指摘した判決(1)の成果を生かそうと、関西電力に対して他の原子力発電所につき細管の検査をやり直すこと等を求める署名活動を行ったところ、約四万人分の署名簿の提出を受けた関西電力が一部の人の電話番号を調べ、署名の趣旨等を問い合わせたという事例がある。この事例では、署名活動を行った人たちが、((1))関西電力の行為は、署名するとなんらかの被害が及ぶかも知れないという不安を署名者に与えることにより、署名活動を妨害するものであり、自分たちの署名活動を自由に行う権利を侵害したものであると共に、((2))署名者は一定のスローガンに賛同したことを示すために氏名・住所を署名しているのであり、署名簿を提出された相手方から内容についてせんさくされたり議論を投げかけられたりすることを全く予想していないのであるから、関西電力の行為は、署名者個人のプライバシーの権利を侵害するものであると主張して、大阪弁護士会に対し人権救済の申し立てを行っている(2)
  また、大阪府の羽曳野市では、保育園の人員削減計画があるとしてそれに反対する署名活動がなされ約一万二千人分の署名簿が市に提出されたところ、市が、市の保育行政を説明すると共に署名活動及び署名活動を行った団体を強く批判する文書を、署名者の全世帯に送付した(3)。この事例でも、署名活動を行った団体等(市職員労働組合、保育運動連絡会、及び、署名活動を行いあるいは署名をした市民一六人)が、大阪弁護士会に人権救済申立を行っている(4)。さらに、長崎市では、原爆落下中心碑撤去計画に反対する署名簿の提出を受けた市が、市内在住者の署名約二万四千人分をコンピューターに入力し、住所や世帯別に分類・点検すると共に、市長が署名者数人に「なぜ署名をしたのか」と電話をかけた、と報じられている(5)
  署名者は通常、署名簿を提出された相手方から直接に働きかけを受けるとは予測していないだけに、このような署名者への直接的な働きかけがなされることになると署名活動は大きな影響を受けることになろう。一体、署名簿を提出された相手方が署名者に個別的に働きかけることは許されるのであろうか。これは、これまで検討されたことのない新しい、極めて興味深い問題である。ただ、この問題については、署名簿を提出する相手方が国ないし地方公共団体の機関である場合と、私人・私企業である場合とを分けて考える必要がある。というのも、第一に、国・地方公共団体の機関への署名簿提出は憲法一六条が保障する請願権の行使であるが(6)、私人・私企業に対する署名簿提出は基本的に請願権の行使と捉えることはできない。第二に、私人・私企業に対しては憲法の人権規定の拘束が及ぶかという問題がある。そこで、本稿では、署名簿の提出を受けた私人・私企業が署名者個人に直接働きかけることが許されるのか、またどこまで許されるのかといった問題について、関西電力の事例を取り上げて、検討することにしたい(7)。以下では、署名簿を提出された相手方の署名者への個別的働きかけと署名活動の自由・署名の自由との関係、相手方が関西電力という私企業である点をどう考慮に入れるか、の順で論ずる。

(1)  関西電力高浜原子力発電所二号機の周辺住民は、二号機の蒸気発生器の細管が破断し、これにより炉心溶融の危険があるとして、運転差止めを求めた。大阪地裁は、関西電力の細管損傷の検査方法に限界があること等を指摘して、蒸気発生器に約四千本ある細管のうちの一本が破断し、細管内部の一次冷却水が外に漏れる危険性を否定することはできないとした。しかしながら、複数の細管が同時に破断する危険性があるとまではいえないし、細管が一本破断しただけで炉心溶融が起きる具体的危険性があるとはいえないとして、差止請求を棄却した(大阪地判平成五年一二月二四日判時一四八〇号一七頁)。
(2)  朝日新聞一九九四年六月五日。
(3)  毎日新聞一九九六年四月一四日。
(4)  毎日新聞一九九六年四月二六日、産経新聞一九九六年四月二六日。
(5)  毎日新聞一九九六年一二月二一日。
(6)  従来の学説は、請願権を請願の受理という国務を要求しうる権利という国務請求権ないし受益権であると捉え、そこから、請願を受けた機関が請願内容を実現する義務を負うわけではないことを強調し、受理義務だけを負うにすぎないとしてきた。しかし、最近では、請願権に参政権に近い位置づけを与え、あるいは、参政権そのものと捉えて、請願権をより積極的に捉えようとする動きが強まってきている。こうした最近の有力な学説によれば、請願権は単に国家機関・地方公共団体の機関に対して、希望の陳述を受理してもらうだけでなく、その誠実処理を求める権利と解される。請願を受理した機関が請願を誠実に処理するとは、一般に、請願の内容を審査することを意味すると解されている(内容審査義務)。さらに、誠実処理義務には内容審査義務だけでなく、審査の結果(処理結果)を請願者に通知する義務が含まれるという主張もなされている。こうした請願権の権利としての性格をめぐる最近の議論については、吉田栄司「請願権の現代的意義・再考」関西大学法学論集四三巻一・二号二八一頁(一九九三年)参照。請願権を積極的に構成し、請願を受けた国家機関は審査の結果を請願者に通知する義務がある(あるいは、少なくとも、審査結果の請願者への通知が請願権を実効的に保障していくものとして望ましい)と解するにしても、その通知によって請願がしにくくなってしまえばもともこもないのであるから、通知の仕方・内容が当然問題となろう。以後の請願行為を萎縮させないような請願者への通知でなければならないはずである。国家機関・地方公共団体の機関による署名者個人への直接的働きの許容性については、別稿を予定している。
(7)  筆者は、既にこの事例につき法学セミナー連載の「ケースメソッド憲法」において論じているが(「署名活動と表現の自由」法セミ四九四号八一頁[一九九六年])、その後、それに手を加え大阪弁護士会人権擁護委員会に意見書として提出した。本稿の以下の部分は、その意見書に若干の修正加筆を行ったものである。それゆえ、本稿は、基本的に法学セミナー掲載の拙稿と同趣旨のものであるが、問題の新しさ及び重要性からして、このような形で公表することも意義があるのではないかと考え、あえて公表することとした次第である。


一  署名活動の自由と署名の自由


  署名活動(署名を集める行為)が表現の自由の保障を受ける表現活動であるか、正面から問題とされたことはあまりないが、学説・判例は、署名活動が表現活動であるという立場をとっているようである。たとえば、公安委員会が定めた「道路に人が集まり一般交通に著しい影響を及ぼすような行為」を行おうとするものは所轄警察署長の許可を得なければならないと規定する道路交通法七七条一項を受けて、公安委員会が「道路において人が集まるような方法で署名を求めること」等を要許可行為として定めていることを、道路交通の安全のための表現活動の内容中立的な規制と解している学説がある(8)。また、昭和女子大事件最高裁判決(最判昭和四九年七月一九日民集二八巻五号七九〇頁)は、学生の署名活動について事前に大学当局に届け出てその指示を受けるものと定めた大学の生活要録の規定は憲法二一条に違反するとの上告人側の主張を受けて、憲法二一条はもっぱら国・公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人間の関係である私立大学とその学生との関係について当然に適用ないし類推適用されるものではないとして、憲法二一条違反かどうか論ずる余地はないと判示している。この判決は、憲法一五条、一六条違反の主張を、生活要録の規定はそれらの権利と直接かかわりがないとして退けているところを見ると、署名活動が憲法二一条の保障を受ける表現活動であるということを前提としているように思われる。そして、学説は、同様の前提に立ちながら同判決を批判している。
  このように学説・判例は、署名活動を表現活動と捉えていると解される。確かに署名活動は、他人に対して請願書・要望書・抗議文等の趣旨に賛同し署名してくれるよう働きかける活動であり、情報の提供行為を内実とするのであるから、表現活動であることは疑いないであろう。
  では、私人・私企業への署名簿の提出はどのように解されるであろうか。国や地方公共団体の機関への署名簿の提出は、憲法一六条が保障する請願権の行使である。しかし、請願権を、希望や苦情を申し出て、その相手方である機関にそれを受理する義務を負わせる国務請求権ないし受益権と理解するにせよ、あるいは、より積極的に参政権的な権利ないし参政権と理解するにせよ(9)、私人・私企業に対する署名簿提出を請願権の行使と捉えることは困難である(10)。それゆえ、私人・私企業への署名簿提出は、相手方に対して抗議や要望を表明する集団的な表現活動と解するべきである。私人・私企業への署名簿提出は、ある要求内容につき多数が賛同していることを示すことによって、強大な力を持つ者に対して要求内容を考慮するよう求める集団的な表現活動である。これは、一人あるいは少数では太刀打ちできないような強大な相手に対して、多数の支持を得ていることを示して対抗しようとするものであり、社会的弱者にとって重要な表現手段である。また、私人・私企業に提出する署名簿に署名する行為は、そうした集団的な表現活動への参加を意味する。
  もっとも、表現の自由の行使として通常考えられている表現行為は、特定多数者や不特定多数者に対する表現行為である。それゆえ、署名簿の提出のような単一の相手方に対する意見・抗議・要望の表明が、憲法二一条の保障を受ける表現行為かという問題もありうるところである。わが国においてこの問題が意識されたことはないようであるが、アメリカ合衆国最高裁は、信用調査会社が契約を結んでいる特定の相手方に対して誤った情報を提供したとして提起された名誉毀損訴訟において、信用調査会社の報告を表現の自由の問題として捉えている(11)。確かに、表現の自由の保障は、情報の自由な流れを確保しようとするものであるが、伝達される情報が情報の自由な流れに乗せられるものかどうかを厳格に解すべきではないであろう。特定の私人・私企業への署名簿提出も、それによって情報を伝達された相手方の反論を誘発することなどを考えても理解できるように、世の中の情報の自由な流れの一環をなすものである。特定の相手方に対する情報(意見・要望・抗議・思想・事実等々)の伝達は、少なくとも情報を外部に漏らさないことを前提とする内密な伝達でない限り−右に見たアメリカの事例のように内密に情報を提供する場合については異論もありえよう−表現の自由の行使と捉えるべきである。
  表現の自由の保障は、自己の素性を明らかにしないで匿名で表現活動を行うことにも及ぶ(匿名性の保障(12))。政府や多数者から見て好ましくないと思われるような内容の表現活動を行う者は、素性を明らかにすることによって、「経済的報復、失職、肉体的強制の脅威、及び、その他の公衆の敵意の表明」にさらされる可能性が高いのであるから(13)、素性を明らかにしての表現活動しか認めないことは、そのような表現活動を行おうとする者に対して大きな萎縮効果を与えるであろう。実際、欧米では伝統的に、政府に批判的な文書の普及を妨げることを一つの目的として、表現者の氏名を明らかにするような規制がなされてきたのである(14)。このように匿名で表現活動を行う権利が認められなければならないのであるが、日本国憲法下で匿名で表現活動を行う自由が問題となった裁判例はないようである。それに対し、アメリカの判例には、ビラに印刷者、執筆者、編集者、配布者等の氏名・住所を印刷しなければならないとする市条例を表現の自由を侵害するものであり違憲であるとしたもの(15)や、匿名の選挙文書配布禁止は表現の自由を侵害し違憲であるとしたもの(16)がある。
  かくして、このようなことはほとんど考えられないであろうが、署名活動参加者全員の氏名・住所をあらかじめ警察署長に届け出ることを要求することや、私人・私企業に提出した署名簿全ての写しを警察署長に届け出ることを要求することは、表現の自由侵害の問題を生ぜしめるであろう。もっとも、署名の場合、氏名・住所を記載するのであるから、提出された相手方には氏名・住所を知らせることになる。この場合、相手方に対して匿名性の保障を完全に放棄したことになるであろうか。この点について、デモ参加者の写真撮影の問題が参考になろう。
  デモに覆面もせず仮装もせず素顔をさらして参加した場合、参加者は自己の肖像権を放棄したことになるであろうか。かつては放棄したことになるという学説や下級審判決もあった。しかし、デモ行進参加者は集団としての意思を表現する限度において肖像権を放棄したにすぎず、デモ行進という集団的表現活動をそれとして写真に撮ることは認められても、参加者個人の顔写真を撮ることまでは認められないというのが学説の多数であり、下級審判決にもそのような立場をとるものもあった(17)。そしてこうした流れを受けて、最高裁は、京都府学連事件判決(最大判昭和四四年一二月二四日刑集二三巻一二号一六二五頁)において、憲法一三条の保障する国民の私生活上の自由の一つとして、「その承諾なしに、みだりにその容ぼう、姿態を撮影されない自由」があるとし、デモ参加者も原則として警察官によってその容ぼう、姿態を撮影されないと判示したのであった。これは、表現者が自己をある程度さらしても完全に匿名性の保障を失うわけではない、ということを示している。
  ところで、署名者は、署名簿に書かれている要望・抗議に基本的に賛同して、集団的表現活動に加わるということを明らかにする趣旨で氏名・住所を記載している。署名者は、氏名・住所を記載することによって、後に署名を提出された相手方から、個別に、署名にどのようなつもりで賛同したのかを尋ねられ、あるいは、署名による要望・抗議について反論されることがあるとは意識していない。もしそのようなことがあれば、署名者は迷惑に思うであろうし、あるいは、相手方が巨大企業であれば畏怖してしまうであろう。特に署名を提出する相手方が巨大企業である場合、署名してくれるよう求められた者は、相手方から個別に働きかけられるかもしれないと考えれば、署名の趣旨に賛同していても署名するのに躊躇してしまう可能性が高いであろう。その点で、相手方による署名者への個別的な働きかけによって、署名活動を行った者の将来の署名活動が妨げられるおそれがあることは確かである。これは、報道機関が、取材資料につき裁判所への提出を強制され、あるいは、捜査機関に押収されると、将来の取材活動が妨げられるという場合と類似している。最高裁は、取材の自由を表現の自由そのものではなく、「憲法二一条の精神に照らし、十分尊重に値いするもの」としたにとどまるが、取材の自由の保障が取材資料の提出強制・押収をみだりに受けない保障を含むことを認めている(18)。後述するように、取材活動=情報収集活動にも表現の自由の保障が及ぶと捉えるべきであるが、いずれにせよ表現の自由の保障は、将来の表現活動が妨げられないことに対する保障をも含むと解すべきである。署名活動を行った者は、原則として署名が提出された相手方(とりわけ巨大企業)が署名者に直接働きかけないことを期待できると思われる。
  では、相手方による署名者への個別的働きかけは、署名者自身の権利との関係ではどう評価されるであろうか。署名者による氏名・住所の記載は、集団的表現活動に参加するという限りで部分的に匿名性を放棄したにとどまり、相手方からの個別的な対応も甘受することを表明したものではない。逆に代表者を通じて、一定数の人が署名した署名簿が提出されたということは、そこに署名している個々人への働きかけは拒絶する趣旨であると見るべきである。相手方にも表現の自由、反論の自由はあるが、署名簿提出という表現活動はあくまでも集団的な表現活動であるのだから、それへの相手方の反論は、署名者全体ないし署名者の代表者に対して行うのが筋であろう。そうでなければ署名の自由が行使しにくくなるのであるから、署名者も、原則として署名が提出された相手方(とりわけ巨大企業)から直接働きかけられないことを期待できるのではなかろうか。
  ところで、人権救済申立を行った元原告・支援者たちは、「住所・氏名という一つの自己情報により電話番号まで調べられて自宅にまで追いかけられることは[署名者の]プライバシーの侵害である(19)」と主張している。確かに、デモ行進の写真撮影の問題が、一般にプライバシーの権利の一部である肖像権の問題として捉えられていることからしても、署名者のプライバシーの権利の問題として捉えることに根拠がないわけではない。
  従来、プライバイシーの権利は、「私生活をみだりに探られ公表されない自由」として捉えられてきたが(20)、今日では、プライバシーの権利をより積極的に「自己に関する情報の流れをコントロールする権利」と捉え、そのようなプライバシーの権利が憲法一三条によって保障されているという学説(情報プライバシー権説)が有力である(21)。この情報プライバシー権説は、情報化社会である現代社会において個人情報が他者によって広く収集・蓄積され、利用され、また、提供されているということを背景にして登場してきたものである。プライバシーの権利は、自己に関する情報を他人が取得・収集、保有、利用、提供することに対してコントロールを及ぼす権利と捉えられている。ここでは取得・収集と利用に関するコントロールの内容について見ておくと、まず、他人による自己情報の取得・収集については、((1))思想・信条、個人の身体的内部的情報、不当な社会的差別の原因となる情報のような、個人の道徳的自律の存在にかかわる情報(「プライバシー固有情報」)の取得・収集は原則として許されず、((2))その他の個人情報(「プライバシー外延情報」)の収集も正当な目的に基づき正当な方法(原則として目的を明らかにして本人から収集)によらなければならない。利用についても、個人情報を本来の目的以外の目的で利用することは原則として許されず(目的外利用の原則的禁止)、目的外利用をするためには本人の同意をえなければならない。
  署名簿には署名者の氏名・住所が記載されているのであるから、署名簿の提出は署名者の氏名・住所という個人情報を提供するものである。それゆえ、自己情報コントロール権としてのプライバシーの権利は、署名簿を提出された相手方がそれによって知りえた個人情報の利用についても及ぶ、という論理も成り立つかもしれない。そうであるならば、当該個人情報の提供は、集団的表現・意思伝達という目的による個人情報の提供なのであり、相手方が知りえた個人情報(氏名・住所)を、署名者本人に働きかけるために電話番号を知るという目的のために利用することは、本来の目的外の利用であって許されないということになろう。ただ、この場合には、相手方の求めに応じて個人情報を提供しているのではなく、署名者たちの方から自分たちの意思を伝えるために勝手に(すなわち表現活動として)個人情報を提供しているのであるから、通常の個人情報の取得・収集、利用等が問題となる場合とは異なった状況にある。このように個人情報を表現行為として提供する場合にも自己情報コントロール権としてのプライバシーの権利が働くと考えることには、異論もあろう。それゆえ、署名者への相手方の個別的働きかけは、プライバシーの権利の問題としてではなく、表現の自由の匿名性の保障の問題として捉えた方が無難であり、それで十分であろう。

(8)  佐藤幸治『憲法[第三版]』五三二頁(青林書院、一九九五年)等参照。
(9)  注(6)参照。
(10)  署名簿を提出される相手方である私人・私企業が、国家と同視され、国民の苦情や希望の申し立てを受理する義務、あるいはそれに加えて誠実に処理する義務等を負うと考えられる場合には、その署名簿提出は請願権の行使と捉えることができよう。しかし、後述するように電力会社を完全に国家と同視することは妥当でない。
(11)  See Dun & Bradstreet, Inc. v. Greenmoss Builders, Inc., 472 U.S. 749 (1985).  この判決については、中谷実「企業についての誤った信用情報と名誉毀損」判タ六一一号一二六頁(一九八六年)参照。
(12)  芦部信喜『現代人権論』一三六頁以下(有斐閣、一九七四年)参照。
(13)  NAACP v. Alabama, 357 U.S. 449, 462 (1958).
(14)  わが国においても、明治初年に匿名禁止の規制がなされたことがある。一八七五(明治八)年の新聞紙条例は、記事執筆者の氏名・住所を明記することを要求していたが、八年後にそうした要求の部分は廃止された。奥平康弘「日本出版警察法制の歴史的研究序説4」法時三九巻八号六六頁(一九六七年)参照。
(15)  Talley v. California, 362 U.S. 60 (1960).
(16)  McIntyre v. Ohio Elections Commission, 115 S. Ct. 1511 (1995).
(17)  この点につきさしあたり、鴨野幸雄「被疑者の写真撮影と肖像権」芦部信喜ほか編『憲法判例百選I[第三版]』四一頁(有斐閣、一九九四年)参照。
(18)  最大決昭和四四年一一月二六日刑集二三巻一一号一四九〇頁、最決平成元年一月三〇日刑集四三巻一号一九頁、最決平成二年七月九日刑集四四巻五号四二一頁参照。
(19)  大阪弁護士会人権擁護委員会への人権救済申立補充書五頁。
(20)  たとえば「宴のあと」事件判決(東京地判昭和三九年九月二八日下民集一五巻九号二三一七頁)参照。
(21)  樋口陽一ほか『注解法律学全集1  憲法I』二八一頁以下(青林書院、一九九四年)(佐藤幸治執筆)、佐藤『憲法[第三版]』四五三頁以下等参照。


二  私人間における人権保障


  ここで検討している事例で署名者に個別的に働きかけたのは関西電力という私企業であるので、表現の自由の保障内容がそのまま関西電力に対して主張できるかという問題がある。「私人間における人権保障」「人権規定の私人間効力」の問題である。
  伝統的な憲法理論によれば、憲法の人権規定は国家のみを拘束し、私人に向けられたものではないとされてきた。しかるに今日では、大企業、大労働組合などの社会的権力の登場を受けて、私人間における人権規定の効力の問題が活発に論じられるようになっている。そして、民法九〇条等の私法の一般条項を媒介として、私人間にも憲法の人権保障の趣旨を及ぼそうとする間接効力説が通説的な立場である。私法の独自性ないし私的自治の原則を尊重しつつ、憲法の人権保障の趣旨を私人間にも及ぼそうとするこの間接効力説は、問題となる私法関係や人権の性質に応じた解決を模索するのに適した理論構成であるため、広い支持を受けている。最高裁も、三菱樹脂事件判決(最大判昭和四八年一二月一二日民集二七巻一一号一五三六頁)において間接効力説をとることを明らかにしている。また、間接効力説の主唱者の一人である芦部信喜教授は、アメリカの判例理論である国家同視説(ステート・アクション論)を、私人の事実行為による人権侵害に対する間接効力説の限界を補うものであり参照に値するとし、紹介してきた。アメリカ合衆国憲法の人権規定は、その条文上連邦政府及び州政府に対する禁止の定めであることが明確であるが、一定の場合には、私人の行為が政府の行為ないし州の行為(state action)とみなされ、憲法の人権規定による拘束を受けるとされてきたのである。芦部教授は、私人の行為を州の行為と同視する理論として、国家援助の理論(国から財政的援助または免税その他の援助を受けている場合の私的団体の行為を国家行為と同視する理論)、特権付与の理論(国からある種の特権を与えられ、その限りで国の広汎な規制ないし監督を受け、国との間に密接な関係がある場合の私的団体の行為を国家行為と同視する理論)等があるとしてきた(22)
  先に見たように間接効力説が通説・判例の立場であるが、わが国で説かれている直接効力説と間接効力説との間にそれほど大きな相違があるわけではない(23)。第一に、すべての人権規定について直接的な効力を認める直接効力説は少ないし、間接効力説も、一定の人権規定については直接的効力を認めている。第二に、直接効力説も、人権規定の内容がすべての私法関係においてそのまま妥当するという立場ではなく、私的自治の原則等によって相対化されうることを認めている。そこで、最近では、直接効力説か間接効力説かという一般論にあまりこだわる必要はないという指摘が有力になされている。問題となる私法関係や人権の性質に応じてどのような妥当な解決策を探るかこそが重要なのであり、直接効力か間接効力かは論理構成の問題にすぎないという。直接効力説、間接効力説あるいは国家同視説を用いての論理構成はとられねばならないが、そのこと自体はあまり重要ではないというのである(24)
  私も基本的にはこの立場が適切であると考える。憲法が規定する権利は、「個人としての尊重」(一三条前段)「個人の尊厳」(二四条二項)に基づく「基本的人権」であり(一一条、九七条)、人間が人間である以上当然に有する価値・属性、「人間がただ人間であることにのみもとづいて当然にもっている権利(25)」である。それゆえ、憲法上の権利=基本的人権は、国家に対してだけでなく、私人に対しても守られなければならない。もっとも、国家は一方的に人権を主張される相手方であるが、私人の場合には、相互に人権ないし憲法上の権利の享有主体でありえ、私人間における「人権の侵害」は人権と人権ないし憲法上の権利との衝突でもある。私人間における人権侵害問題は国家による人権侵害の場合とは異なった扱い、つまり、「侵害者」の側の人権ないし憲法上の権利との調整が必要なのである。私人間における人権ないし憲法上の権利の衝突の妥当な調整をいかにはかるかが、「私人間における人権保障」問題の核心であり、論理構成の仕方は二次的な問題である。
  もっとも、論理構成の仕方が二次的な問題であるということは、論理構成はどのようなものであってもよいという趣旨ではない。伝統的な憲法理解を踏まえつつも問題となる私法関係や人権の性質に応じた無理のない論理構成がとられることが望ましいことはいうまでもない。なお、国家同視説は、アメリカ合衆国憲法の人権規定の規定の仕方と共に連邦制とも深く関わった理論であることを考えると(26)、わが国において同様に私人の行為を国家の行為と同視するという理論を採用すべきか否か問題であるし、また、採用されるにしても私人の行為を国家の行為と全く同視することは限定的になされるべきである。しかし、アメリカの国家同視説が、国家による援助や、国家による特権付与とそれに伴う強力な監督といった国家と私人とのつながりを考慮に入れていることは、大いに参考になる(27)
  ところで、私人間における人権侵害が問題となる場合、「侵害者」は大企業、大労働組合等の社会的権力であることが多い。私人間における人権ないし憲法上の権利の衝突の妥当な調整をいかにはかるかが、「私人間における人権保障」問題の核心であるとする前述の議論は、こうした社会的権力=法人・団体も憲法上の権利の享有主体たりうることを前提としている。「人権」という観念が、自然法思想の下、自然人が当然に有する権利という観念として成立したことや、中間団体からの個人の解放を重大な課題とした近代市民革命期において反結社主義的な立場が一般的であったことからして、近代立憲主義確立期においては、当然、人権の享有主体は自然人に限られていた。しかし、その後の資本主義の高度化と社会の組織化の進展の下、法人ないし団体にも憲法上の権利の享有主体性を認める考え方が一般的になってきている。そして、日本国憲法についても、法人さらには法人格を有さない団体にも憲法上の権利の享有主体性が認められるというのが圧倒的な通説であり(28)、判例の立場である(29)。ただその論拠については、(a)法人の活動の効果が結局は自然人に帰属することを根拠とする説、(b)現代社会において法人が一個の社会的実体・社会的実在として重要な活動を行っていることを重視する説、(c)団体の活動を人権の共同行使と捉えた上で、結社の自由の保障の結果、人権の共同行使のための団体的活動が当該団体の権利としても承認されざるをえないとする説とがあり、(b)が多数説である。そして、法人が享有する憲法上の権利の範囲については、一般的に、権利の性質によって判断すべきであるとされているが、実際には法人が享有できる憲法上の権利の範囲はかなり広く捉えられている。また、法人が憲法上の権利を享有できても、自然人と同じ程度の保障を受けるのではなく、法人による憲法上の権利の行使は自然人(法人の外にある自然人及び法人の構成員たる自然人)の人権行使を不当に制限するものであってはならないとされている。
  しかし、日本国憲法が保障する権利が人間(すなわち自然人)である以上当然に有する基本的人権であるとされている(一一条・九七条)ことからして、法人が社会的実在であるというだけでは、法人に「人権」である憲法上の権利の享有が認められるということを正当化できないと思われる。思うに法人の活動には、法人を構成ないし運営する諸個人による人権の共同行使と捉えられる限りで、及び、そうした人権の共同行使を実効的あらしめるのに必要な限りで、憲法上の権利の保障が及ぶと解されるべきである。法人の社会的実在性とは、法人の行為をそれを構成・運営する諸個人の行為に還元することが困難であり、諸個人の人権保障のためには法人自身に憲法上の権利の保障を及ぼす必要がある、という事情をあらわすものといえよう。かくして、法人が享有する憲法上の権利の範囲を確定するにあたっては、権利の性質と共に、法人が諸個人のどのような人権の共同行使のために設立されているのかが重要である。また、法人の行為が(法人の外の、あるいは、法人の構成員たる)自然人の人権行使を不当に制限するものでないか否かが、法人の憲法上の権利享有の範囲及び程度を判断するに当たって考慮されねばならない(30)
  それゆえ、法人・団体による「人権侵害」的な行為が、自然人であれば憲法上の権利の行使であるような行為であるからといって、それを直ちに憲法上の権利の行使であり、「侵害」されている私人の人権との調整がはかられねばならないと解するべきではない。その行為が、法人を構成ないし運営する諸個人による人権の共同行使と捉えられる場合に初めて、憲法上の権利の行使と捉えられるのである。また、法人・団体の行為が憲法上の権利の行使と捉えられても、法人・団体による憲法上の権利の行使は、自然人の人権行使を不当に制限しない限りで認められるのであるから、法人・団体の憲法上の権利と自然人の人権との衝突は、自然人に有利に調整がはかられねばならない。
  電力会社は、国から地域的な独占的営業を認められると共に、電気工作物、料金等の業務に関する事柄、会計・財務等につき広汎な規制を受けている。それゆえ、特権付与の理論が参考になるが、電力会社を国と全く同視する、すなわちそのすべての行為を国家の行為と同視することにはなお無理がある。そこで、個人の人権と電力会社の権利との衝突を調整する際に、電力会社と国との密接な関係が考慮に入れられ、個人の側の人権保障の趣旨が圧倒的に重視されると解すべきであろう。
  ところで、前述したように、法人の活動には、法人を構成ないし運営する諸個人による人権の共同行使と捉えられる限りで、及び、そうした人権の共同行使を実効的あらしめるのに必要な限りで、憲法上の権利の保障が及ぶと解されるべきである。こうした見地からは、電力会社は、電気の供給活動を行うのに必要な限りで表現の自由を保障されていると解される。そして、電力会社による、原子力発電所の安全性に関する批判に対応するための表現活動は、当然、表現の自由の保障を受ける活動であるといえる。ところで、今日では、表現の自由を、情報の伝達に関する活動の自由、情報の流通(情報収集・情報提供・情報受領)にかかわる諸活動を妨げられない自由と捉え、表現の自由は、情報提供の自由だけでなく、情報受領の自由、情報収集の自由を含むと解する立場が学説上有力である(31)。電力会社の署名者個人への働きかけのうち、署名の趣旨等の問い合わせは、署名への対応の仕方(情報提供活動の内容・態様)を決定するための情報収集ということであれば、表現の自由の一部と解される情報収集の自由の行使と捉えられるし、反論は情報提供の自由の行使と捉えられる。それゆえ、電力会社による署名者個人への働きかけは憲法によって保障される表現の自由の行使といえる。
  そこで、問題は、署名活動者の署名活動の自由、署名者の署名の自由と電力会社の表現の自由との衝突をどう調整するかということになるが、先に述べたように個人の側の自由、すなわち署名活動者・署名者の権利を圧倒的に重視した形で調整がされなければならない。

(22)  芦部『現代人権論』二三頁以下、七六頁以下、同『憲法学II』三一四頁以下(有斐閣、一九九四年)等参照。もっとも、アメリカ合衆国最高裁は、最近では、私人の行為を州の行為と同視するのに消極的になっている。たとえば、私人が州によって多額の援助を受け(全生徒の授業料を州が支払っている私立学校)、あるいは、特権を付与されると共に強力な監督に服している(電力会社)というだけでは、そうした私人の行為を州の行為と同視できないとしている。州が問題の人権侵害行為を直接的に奨励・授権していることが必要であるというのである。松井茂記『アメリカ憲法入門[第3版]』一二八ー一二九頁(有斐閣、一九九五年)参照。
(23)  佐藤『憲法[第三版]』四三七ー四三八頁、阿部照哉ほか編『憲法(2)[第3版]』七七ー七八頁(有斐閣、一九九五年)(市川正人執筆)参照。
(24)  奥平康弘「私人間における思想・信条の自由」法学セミナー増刊『思想・信仰と現代』一〇六頁(日本評論社、一九七七年)、中村睦男『憲法30講』四八頁以下(青林書院、一九八四年)、佐藤『憲法[第三版]』四三八頁参照。
(25)  宮沢俊義『憲法II[新版]』七七頁(有斐閣、一九七一年)。
(26)  連邦の差別禁止法である公民権法(Civil Rights Acts)は、州の差別行為を禁止するものでなくては憲法上許されないというのが判例理論である。それゆえ、公民権法による私人の差別行為の禁止が適用され、また、そのことが合憲であるためには、私人の差別行為が州の行為とみなされることが必要となる。松井『アメリカ憲法入門[第3版]』一三〇ー一三一頁参照。
(27)  この点、芦部教授も、国家同視説をそのままわが国に直輸入することには慎重であって、「アメリカ法の趣、旨、をわが国の憲法解釈に導入すること」を提唱してきた。芦部『現代人権論』八四頁、同『憲法学II』三一五頁参照。
(28)  学説は「法人の人権享有主体性」という用語を用いているが、憲法上の権利の享有主体性につき法人格の有無は関係ないとしている。芦部『憲法学II』一六四ー一六五頁、伊藤正己『憲法  第三版』二〇一頁(弘文堂、一九九五年)等参照。
(29)  八幡製鉄政治献金事件最高裁判決(最大判昭和四五年六月二四日民集二四巻六号六二五頁)参照。
(30)  以上の点につき、拙稿「企業の政治献金」法セミ四八九号七八頁(一九九五年)参照。なお、法人の行為を人権の共同行使と捉える場合、法人の正規の構成員による人権の共同行使と狭く捉える必要はない。会社の場合、その正規の構成員は株主であるが、株主でない従業員も含めて考えることができよう。また、財団法人の行為についても、財団法人を運営している諸個人の人権の共同行使と捉えることができる。
(31)  松井茂記『マス・メディア法入門』二一頁(日本評論社、一九九四年)、佐藤『憲法[第三版]』五一三頁以下等参照。


結      び


  電力会社は、国から一定地域での独占的営業を認められた巨大企業であるが、このような巨大企業に対し市民が要望を述べ抗議をする手段として、署名提出はきわめて重要である。他方、電力会社のような、強大な企業であると共に市民生活に不可欠なものを供給する企業が、署名者個人に働きかけることは、正当な理由なく電気の供給を拒否してはならないと法律で定められていても(電気事業法一八条一項)、署名者に対して大きなプレッシャーとなるであろう。それゆえ、電力会社による署名者個々人への電話による働きかけが行われたという事実は、当該働きかけがいかに紳士的に行われたにせよ、今後の電力会社に対する署名に大きな萎縮効果を及ぼすことは疑いない。
  他方、電力会社の側には、今回のケースのような個別的働きかけをするどのような必要性があったであろうか。この点につき、関西電力は、「署名された方々が原子力発電のしくみや必要性についてどの程度理解されておられるか、また蒸気発生器細管の検査方法をはじめ原子力発電の安全性についてどのような点に不安をいだいておられるのかを十分に認識し、その疑問にきっちりとお答えする必要があるのではないかと判断」して、署名簿の中から六名を無作為抽出し電話をかけたが、「もとより、電話に際し署名を批判、論評するような言動は一切しておりません」としている。その結果、「電話でご意見を伺いました限りでは、ほとんどの方々が原子力発電のしくみなど原子力に関する基礎的知識をお持ちになっておられず、また署名の趣旨も十分理解されておられないようでした」ので、署名簿を提出した代表者への文書回答ではなく、署名者全員に直接メッセージ(わかりやすい原子力情報)を郵送することが署名に対する回答としては最善の方法であると判断するに至った、という(32)。つまり、関西電力によれば、個別的な問い合わせは、署名への適切な対応策を決めるための判断材料として、署名者の署名の趣旨や原子力発電についての理解度を調査しようとしたものであったのである。しかし、署名への適切な対応策を決定するのにこうした調査(署名者個人に対する質問)がどれほど必要なのか疑問もあるが、かりにその必要性を認めても、電話による直接的な問い合わせではなくアンケートの送付などといったより衝撃度の少ない方法もあった。それゆえ、関西電力の行為は、署名活動者・署名者の人権を違法に侵害するものであったといえよう(33)

(32)  関西電力地域共生本部広報部長の大阪弁護士会人権擁護委員会への上申書二ー三頁。
(33)  関西電力の事例は、私人の事実行為による人権侵害行為が問題となった事例である。こうした私人の事実行為による人権侵害行為がなされた場合、被害者が不法行為であるとして損害賠償を請求することが考えられる。本文での結論は、かりに署名活動を行った元原告・支援者たちが関西電力を相手取って損害賠償を求める訴訟を提起したと仮定すれば、不法行為の成立要件のうち、法的利益の違法な侵害の要件はみたされているのではないか、ということである。いうまでもなく故意・過失の要件については別個の検討が必要である。

〔追記〕  本稿校正中の二月一二日、大阪弁護士会は、関西電力に対して今後同様の行為をしないよう求める要望書を郵送した。要望書は、関西電力の行為について、「署名者に対する無用の圧力となりかねず、署名者の意思表明の自由を制約し、署名運動自体を萎縮させる恐れがあるので、憲法が保障する表現の自由を侵害する恐れがある」と指摘しているようである。朝日新聞一九九七年二月一三日参照。