立命館法学  一九九七年一号(二五一号)二二〇頁(二二〇頁)




一七八九年フランス人権宣言の矛盾について
−近年のフランスにおける「法律中心主義論」の動向−


石埼 学







は じ め に


  カール・シュミットは述べる。「フランス革命の政治的に偉大な点は、あらゆる自由主義的および法治国的諸原理にもかかわらず、フランス人民の政治的統一の思想がかたときも決定的な目標たることをやめなかった所にある(1)」。このシュミットの見解においては、「にもかかわらず」という言葉により、フランス革命がその内側に孕んだ逆説的緊張が示唆されている。
  その逆説的緊張を、憲法現象に即して考える場合、次のリュシアン・ジョームの見解は示唆的である。「フランス革命に固有の困難は、代表者によって行使される主権の自由かつ決定的な権力と公民の自発性と諸権利とを両立させるところに存することが分かる。この至高の主権が、どのようにして前もって存在する自然権と調和しうるのであろうか?  そこにフランスの法律中心主義が登場する(2)」。ジョームによれば、主権の至高性と自然権との緊張関係、それこそがフランス革命の憲法現象の基底に存するアポリアなのである。そして両原理の狭間に「法律中心主義」が位置するというのである。
  さて自然権思想に立脚したアメリカ諸州の人権宣言にフランス人権宣言の起源を見いだそうとしたイエリネックにとって、「法律中心主義」は不可解なものであった。彼は述べる。「フランスの《宣言》に加えられた第四条から第六条に至る特殊フランス的な付加条項は、概して、自由および法律についての、余計な、中味のない定義である(3)」。
  しかしながらジョームの指摘するように、人権宣言第四条および第六条で表明された「法律中心主義」のうちにこそフランス革命に「固有の困難」が顕現しているのであり、それを無視してフランス人権宣言を論じることはできないと私は考える。またこの「固有の困難」を認識することによって、人権宣言の内在的理解が可能となると思われる。
  さらに、フランスにおける多数派デモクラシーの原型が、この「法律中心主義」にあることを考えれば、それを考察することの意味は、さらに広いものとなる。コーン・タニュジは述べる。「アメリカでは、法的権力が政治的多数者に対抗する自由を擁護するという役割を果たすことを可能とする諸規範を法的権力に与えるために、権利章典が憲法にただちに加えられたのに対して、フランス革命の法律中心主義と法的権力の武装解除は、一七八九年の諸原理から、一切の法的効力を奪い去った。かくして、ほぼ二世紀の間、フランスは、民主主義の基礎的な諸原理に対する立法者の行為の適合性の審査なしで生活してきたのである。法律が、一般意思を具現しつつ、主権的に支配していたのだ(4)」。
  このような「法律中心主義」に対する省察は、フランス憲法院が、その一判決において一七八九年人権宣言に憲法規範性を承認したことにより、従来の「ジャコバン的国家」像を基底とした多数派デモクラシーが動揺しつつあることの反映である。そうして「法治国」像に立脚したあらたな立憲的デモクラシーが模索されているのである。
  ところで「ジャコバン的国家」から「法治国」へという近年のフランスのデモクラシーのメタモルフォーズという文脈で、一七八九年人権宣言が、あらためて見なおされているのであるが、そこには、「ジャコバン的国家」像=多数派デモクラシーの原型とも言える「法律中心主義」が含まれており、それゆえに、近年の人権宣言研究は、宣言内部にある諸原理間の緊張関係を認識するという方向に進んでいるのである。以下、まず近年のフランスの民主主義のメタモルフォーズの主たる原因となった憲法院の動向を簡潔に素描し、ついで近年の人権宣言研究の動向の一端を紹介し、さらに、今後の人権宣言研究への視角を模索したいと思う。

(1)  カール・シュミット、尾吹善人訳『憲法理論』六五頁。
(2)  Lucien Jaume, E´chec au libe´ralisme, Les Jacobins et l’E´tat, 1990, p. 19.
(3)  初宿正典編訳『イエリネック対ブトミー・人権宣言論争』六九頁。
(4)  Laurent Cohen-Tanugi, La me´tamorphose de la de´mocratie francaise, De l’E´tat jacobin a` l’E´tat de droit.E´ditions Gallimard, 1993. p. 32.


一、憲法院と動向と一七八九年人権宣言


  ここでは、近年の人権宣言研究にも影響を与えている憲法院の動向を簡潔に素描することとする(1)

(1)  憲法院
  フランスでは、自由・人権を法律によって保障するという伝統の下、法律に対する違憲審査制は、意識的に排除されてきた。フランス革命下では、コンドルセのように「法律の専制」に警鐘を発する論者も存在した(2)とはいえ、一七八九年人権宣言の「法律は一般意思の表明である」(第六条)という定式が、第三共和制下で「議会中心主義」として完成されてゆくのである。そこでは、法律によって具体的に保障されるものが自由であるという「公的自由」の観念(3)が行き渡り、議会が採択したものが法律であるという「形式的意味における法律(4)」の観念が支配的であった。また一般意思の表明としての法律という図式の下では、民主的正当性を持たない裁判官が議会の採択した法律を無効にするという余地は存在しなかった。このような「法律による自由」というフランスの憲法伝統は、浦田一郎教授の指摘するように「フランスの自由主義の確立に対する自信(5)」に由来するものであったといえよう。
  しかしこのようなフランスの憲法伝統は一九七一年の憲法院によるいわゆる「結社の自由」判決によって大きく動揺することとなる。それに見る前に、憲法院について簡潔な素描を行なっておこう。憲法院は、一九五八年の第五共和制憲法により設置された機関であるが、他の国家機関の行為の合憲性を審査する機関であるとはいえ、その主たる目的は、議会の法律事項と政府の命令事項の権限配分を行なうことにより、それまでの「議会中心主義」のもとでの強力な議会の権限を抑えるところにあった。しかも憲法院は、議会による法律の可決後、大統領が審署するまでの間に法律の審査を行なうという事前審査制の機関であり、また当初は、通常法律(組織法律には、必ず憲法院の審査が行なわれる)の審査が行なわれるのは、大統領、首相、両院議長のいずれかの請求があった場合に限られていたのである。しかし一九七一年判決により、このような憲法院の性格は大きく変貌し、人権保障機関として機能するようになる。

(2)  一九七一年「結社の自由」判決(6)
  第五共和制憲法は、「フランス人民は、一九四六年憲法前文で確認され補充された、一七八九年宣言によって定められたような、人権および国民主権の原則に対する愛着を厳粛に宣言する」と定めていが、一九七一年七月一六日のいわゆる「結社の自由」判決において、憲法院は、「共和国の諸法律によって認められ、憲法前文によって厳粛に再確認された基本的な諸原理」に違憲審査基準としての裁判規範性を承認した。そしてその後の諸判決の中で、@第五共和制憲法前文、A一九四六年の第四共和制憲法前文、B共和国の諸法律によって認められた基本的な諸原理、C一七八九年人権宣言の四つからなるいわゆる「憲法ブロック」に、憲法規範性が承認され、定着してゆく。かくして憲法院は、人権保障機関としての第一歩を踏み出すこととなった。

(3)  一九七四年の提訴権者の拡大
  憲法院の人権保障機関への傾斜に拍車をかけたのが、一九七四年のジスカール・デスタンの改革よる提訴権者の拡大である。この改革により、上院議員六〇人以上、あるいは国民議会議員六〇人以上にまで、憲法六一条二項による通常法律の違憲審査の提訴権が拡大されたのである。このことは、議会内少数派が提訴権を獲得したことを意味する点において特に重要である。

(4)  一九八五年八月二三日「ニュー・カレドニアの発展」判決(7)
  このような憲法院の人権保障機関への傾斜は、一般意思という概念にも影響を及ぼしている。一九八五年八月二三日の「ニュー・カレドニアの発展」判決において憲法院は、議会によって「可決された法律は、憲法を尊重する限りにおいて、一般意思の表明である」とし、かつてのフランスの憲法伝統からする一般意思の概念とは著しくことなる理解を示した。すなわち議会が採択した法律が、無条件に一般意思であるという図式は否定され、憲法を尊重するものが一般意思であるというのである。このことは、結局のところ一般意思とは憲法規範(この場合「憲法ブロック」)のことであるということを意味するのか、従来無条件に一般意思を具現するものとされてきた法律と憲法規範との緊張関係を示唆するにとどまるものなのか、様々な理論的可能性が考えられよう。いずれにせよ従来の法律=一般意思という観念とはことなるものが示唆されたことは確かである。

(5)  一九八九年ミッテラン改革の失敗(8)
  この傾向は、一九八九年のミッテランによる憲法院改革の提案において一つの頂点に達する。この改革案は、憲法六一条の提訴権をすべての個人に承認し、また事後審査制を導入しようとするものであったが、結局成立することなく終わった。しかしフランスにおける憲法院の人権保障機関としての展開の勢いを示す出来事であったことは間違いない。

小    括
  以上のような憲法院の人権保障機関への傾斜は、法治国家論として多岐にわたる議論を引き起こしており、わが国にも紹介されている(9)。しかし本稿において重要なのは、それが、主権者である人民の一般意思の至高性と憲法ブロックとして承認されている各種の人権規範との間の緊張関係をもたらしているという点である。いったい、この緊張関係を緊張関係として承認することが重要なのか、この一見したところの緊張関係を別の原理によって整合的に理解することが重要なのであろうか。後者の例として、始原的に存在する一般意思という考えかたを否定し、一般意思が、憲法院や議会などの複数のアクターの競合によって事後的に形成されるとするドミニク・ルソーの見解(10)などがあげられよう。しかし次では、ここでごく簡潔に素描した憲法院の動向を踏まえつつ、先の緊張関係について「法律中心主義」と「自然権」との緊張関係とし、その原型を一七八九年人権宣言内部に見いだそうとしている近年の理論動向を見ることとする。

(1)  ここでの叙述は、以下の研究業績に多くを負っている。樋口陽一『現代民主主義の憲法思想』(一九七七年)七七頁−一一五頁、中村睦男「フランス憲法院の憲法裁判機関への進展」北大法学論集二七巻三・四号(一九七七年)、矢口俊昭「フランスの憲法裁判」芦部信喜編『講座憲法訴訟第一巻』(一九八七年)、辻村みよ子「憲法学の『法律学化』と憲法院の課題」ジュリスト一〇八九号(一九九六年)、和田英夫『大陸型違憲審査制〔増補版〕』(一九九四年)六五頁−一九一頁。
(2)  コンドルセは専制を「公権力の名を借りた法律によってなされる人権に対する一切の侵害」と定義した(Ide´es sur le despotisme, 1789, OEuvres de Condorcet, E´dit. O’Connor et Arago, Paris, 1847, t. 9, p. 164.)。
(3)  「公的自由」については、浦田一郎「議会による立憲主義の展
開−《droits de l’homme》から《liberte´ s publiques》へ」一橋論叢第一一〇巻第一号(一九九三年)、同「政治による立憲主義」法律時報六八巻一号を参照。
(4)  「形式的意味における法律」については、Carre´ de Malberg, La Loi, expression de la volonte´ ge´ne´rale pp. 4-24.を参照。また高橋和之『現代憲法理論の源流』(一九八六年)一七〇頁以下を参照。
(5)  浦田一郎、前掲「政治による立憲主義」六九頁。
(6)  Louis Favoreu et Loi¨c Philip, les grandes de´cisions du Conseil constitutionnel, 7ed, 1993, pp. 242-259.
(7)  ibid., pp. 627-654.
(8)  この改革案の詳細につき、今関源成「挫折した憲法院改革」『高柳古稀・現代憲法の諸相』(一九九二年)を参照。
(9)  山元  一「《法》《社会像》《民主主義》−フランス憲法思想史研究への一視角−(1)(2)」国家学会雑誌第一〇六巻一・二号、第一〇六巻五・六号、および辻村前掲論文などを参照。
(10)  ドミニク・ルソーのいう一般意思の「競合的表明体制」とは次のようなものである。「政府は、自らの多数者の信任を基礎にして行政の助けを借りて自らの政治プログラムを法律案にする。議会は、選挙民の信任を基礎にして、公開かつ対審的な仕方で、条文の適時性と内容を討論する。そして憲法院は、一九四六年憲法前文により確認され完全にされた一七八九年人権宣言により定められたような人権と国民主権の原理への、フランス人民により厳粛に宣明された愛着を基礎にして、内密な仕方でかつ法的推論にしたがって、法律
の内容を評価し審査する。こうしてそれぞれが、一般意思の形成にそれぞれの寄与をするのである」(Dominique Rousseau, Droit du contentieux constitutionnel, 4ed, 1995, p. 418)。


二、近年のフランスにおける「法律中心主義」論


  以上で見たような憲法院の動向は、フランスが、多数者の意思を一般意思とみなす多数派デモクラシーから、一般意思に人権という枠組みを嵌める立憲的デモクラシー、その意味での「法治国」へと変貌しつつあることの現われである。このような傾向は、人権宣言の研究にも及び、多数派デモクラシーの原型とも言える「法律中心主義」と自然権、法律と自由との二律背反が強調されるようになってきている。
  ここでは、そのような近年のフランスにおける人権宣言研究の傾向の一端を垣間見る。フランスの研究は、人権宣言の起草過程、啓蒙思想の系譜等多面的な角度から人権宣言内部の緊張関係にアプローチしているが、ここでは、人権宣言の第四条および第六条の「法律中心主義」についての考察を見るにとどめる(1)

(1)  ステファヌ・リアルスの所説
  @  二つの「法律中心主義」
  ステファヌ・リアルスは、「法律中心主義」の生成過程の複雑さを明らかにすることにより、それが、必ずしも統一的な理念に基づいたものではないことを示す。
  リアルスは、フランスの人権宣言の「第四条、第五条および第六条に相当するものがアメリカにはない(2)」ということに、フランス人権宣言の重要な特徴を見いだしているが、そのリアルスによれば、一七八九年の「宣言の法律中心主義は、保守主義者たちの押し殺したペシミズムと左翼の合理主義的オプティムズムとの間の注意深く隠されたそしておそらく無意識の結婚による不義の子である(3)」。つまり「法律中心主義」を生み出したのは、異なる主観的動機を持つ二つの勢力であるというのである。それでは、その動機である「保守主義者たちの押し殺したペシミズム」と「左翼の合理主義的オプティミズム」とはどのようなものであったのだろうか。
  一七八九年八月一八日、ルソー主義に近いクレニエールは、次のように述べた。「アメリカの権利宣言がしばしば口にされる。しかし宣言がそれに即して起草されるとするならば、それは馬鹿げたことであろう。それは何の効果も生み出さない(4)」。またジェファーソンの友人のラボーは次のように述べた。「議会は\\合衆国の例に盲従的に追随したり、それに自らを限定するべきではない(5)」。
  しかしリアルスによれば真の争点は他のところにある。「重要なのは他の点である。なぜ憲法制定議会の多数者が、先行のモデルとは異なる作品を実現しようとし、そうしたと信じているのかを識別する必要がある。私の意見では、また未成熟な仕方でではあるが、この多数者は、二つの少数者の合計なのである。その一方は強力な左翼であり、他方は、君主制支持の中道派とより保守的でより少数の諸要素との寄せ集めの結果である。前者はイギリス嫌いであり、アメリカ人たちを歴史を好みすぎるとして非難している。後者はイギリスびいきであり、アメリカ人たちが自然を称揚しすぎることをおそれている(6)」。
  A  保守主義者たちの法律中心主義−自然への恐怖−
  リアルスによれば、保守主義者たちは、アメリカの諸州の人権宣言のうちの「自然」を恐れている。すなわちかれらは、「想定される『非文明』のフランスへの輸出の可能性に不安をいだいているのである。それは、わが国では、乱暴な『脱文明』を引き起こすかもしれない(7)」。かれらは、権利の過剰を嫌ったのであり、「それを良俗と現状のうちに閉じこめる(8)」ことを望んだのである。そしてそのために、かれらは、「長き歴史の掟に自然を適合させるにふさわしいものと考えられた法律を称賛して埋め合わせるところへと向かっていくことになるのである(9)」。そこに見られるのはホッブズ的発想である。つまり「公民的法律は、全員が全員に対して争い、人権宣言の第四条が危惧しているところであるが、各人が『他人を害する』ように、すなわちおそらくは貧乏人たちが金持ちたちを不安にさせるようにする危険のある自然の権利の氾濫に終止符を打つのではなかろうか(10)」と保守主義者たちは考え、そうして「法律中心主義」を志向したというのである。
  B  左翼の「法律中心主義」
        −法律によって歴史から脱却する−
  それに対して国民議会の大多数は、「人権を始点として完全な権力を合理的に築きあげること望んでいた(11)」のである。そして「不完全な法律に対する人権の慎重な保障という問題は、完全な法律による、公民の権利という形態での、人権の実現という問題に取って代わられた(12)」のである。そのように「八九年の法律中心主義」に支配的な影響力を及ぼしたのは、「合理主義者のオプティミズム(13)」であったという。このような立場からは「法律は、存在論的に解放者であり幸福の創造者である(14)」ので、「法律と自由との二律背反は馬鹿げたこととなる(15)」。かくして、「人間精神の働きのうちで、最終的に自らの真の目的地への方向性を持った法律は、歴史からの脱却ないし歴史の終焉の一形態を可能とするように要請されているのである(16)」。ここで「歴史」とは、人権を侵害していた絶対君主制のそれであると思われる。リアルスによれば、憲法制定議会で支配的であった左翼の「法律中心主義」は以上のようなものである。リアルスの考えにおいても、本稿のはじめに示したジョームの見解と同様、法律と自由、主権と自然権の二律背反の狭間に「法律中心主義」があるということが確認されるであろう。

(2)  リュシアン・ジョームの所説
  @  人ー法律の主権ー公民
  リュシアン・ジョームもまた、一七八九年人権宣言内部における諸原理の間の緊張関係を強調する。かれの「法律中心主義」の分析は、その中心に位置する。
  「近代的意味における公民が存在するため」には、「抽象的な平等」すなわち「法律の前の平等」が必要である(17)。すなわち「本当に新しい契機は、八九年に、何よりもまず、一切の個別性の要素を取り去ることを本質とする消極的作用によって公民がつくられるという契機である(18)」。そこのところにジョームは、法律中心主義ないし主権の作用の本質を看取している。
  つまり「人」が「法律の主権」を媒介として「公民」にメタモルフォーズされる(19)、その過程こそが「法律中心主義」なのである。そこで「公民」とは、個別性の要素を持った「人」を抽象化し、その共通点を取り出された一般的なものである。その共通点とは、かれら「人」が主権的な法律から被る「強制の同一性(20)」なのである。
  A  一七八九年宣言のパラドックス
  さらに、主権ないし法律中心主義に与えられた地位は、フランスの人権宣言をアメリカのそれから区別するメルクマールであるが、しかしそれは、パラドキシカルなものであり、「一七八九年のテクストの核心には解決されていない緊張が存在していた(21)」のである。すなわち「フランスのテクストのパラドックスは、個人権を保障せねばならない法律自体が、個人権の範囲を確定するところにある。そしてこの作用については、宣言の装置にしたがい、裁判官であるのは、またしても法律なのである(22)」。
  ジョームは一七八九宣言が自然権と実定法、自然と社会との関係を実効的に体系化しておらずあいまいなままにしてあるとみなしているが、とりわけパラドックスは以下の諸条項のうちにみられる。
「法律は、自然と社会との相互浸透を確固たるものにする。このことは、ある種の具体的な仕方で、宣言の第四条から第六条の論理的連関のうちに読み取ることができる。
  実際、我々は、自由から自然権の行使と法律へと移行する(第四条)が、それは自由についての第二の定義へと通じるものである。それは、自然的観点から当初宣明されていたもの(第五条)を社会という枠組みの範囲内で明確にするように思われる(23)」。つまるところ「自然権と各個人に承認された属性の限界を画するのは『社会』なのである。最後に、第六条は、社会が立法をするときに、社会の声は、『一般意思』であるとされるということを我々に教えている。主権はすでに指定されている(第三条)のだが、条文は、最も決定的な審級へと後退してゆくのである。この審級は自然権ではない。それは主権である(24)」。
  前文や第二条で宣言された自然権が、法律中心主義を規定した諸条項によって後退を余儀なくされて、結局のところ自然権という審級は主権という審級にとって代わられ、社会という枠組みの範囲内に押し込められてしまうというのが一七八九年人権宣言の主要なパラドックスであるとジョームが考えていることがわかる。
  以上のようにジョームが、一七八九年人権宣言のうちの自然権と法律・主権との緊張関係を強調してみせるのは、近年のフランスにおける憲法院による「法律に対する」人権保障の展開を正当化するという意図を持っている。ジョームは述べる。「フランスで一九七一年以来とりわけ一九七四年の改革以後展開してきたような合憲性の統制の実践のみが、願望にすぎなかった権利の保障の確認を確実にするのだと考えることができる(25)」。

(3)  パトリック・ワシュマンの所説
  パトリック・ワシュマンは、人権宣言の条文に即して、その内部のいくつかの矛盾的緊張関係を叙述している。
  ワシュマンによれば、人権宣言においては、「自然法主義への準拠の背後に、新しいシステムの創設が隠れている。それは法治国というシステムであり、そこでは、憲法的宣明のみが、それが設置する権力による侵害の外に人権を位置付けるのである(26)」という。
  @  自然権と実定法
  さて人権宣言のうちでも、「自然権の真の地位を最も明確に述べている(27)」のは、次の第二条である。「あらゆる政治的結合の目的は、自然権および時効にかからない人権の保全である。これらの権利は、自由、所有、安全および圧政への抵抗である」。しかし「自然権に対して表された敬意は、実定法のただ中へのその完全な後退を隠している(28)」という。つまり「これらの権利」という「列挙は、閉じており、自然権の動態は打ち砕かれ(29)」るのである。こうした「実定法秩序の頂点にある条文の乱暴さは、この新しい秩序の呪縛なのである(30)」。かくしてワシュマンは述べる。「自然権は、宣明された諸原理に固定され、そして終わるのだ(31)」。人権宣言の第二条のうちにワシュマンは、自然権と実定法秩序との緊張関係、そして後者の勝利を読み取っている。
  このワシュマンの議論の枠組みは、第四条についても同様である。「自由は、他人を害しない一切のことをなしうることに存する。かくして、各人の自然権の行使は、社会の他の構成員に、この同じ権利の享受を確実にするという限界以外の限界を持たない。これらの限界は、法律によってのみ定められうる」(第四条)。この条文についてワシュマンは次のように述べる。「ここでもまた、自然権への言及は、それを実定法の方へと追いやるのである。なんとなれば、競合する各種の『自然』権の裁定者を創設するのは法律であるからである。『自然』という形容辞は、ここでは、とりわけて蛇足的である(32)」。
  A  引き裂かれた実定法
  以下の条文になるともはや人権宣言は自然権には言及しない。「それは、それが確立する諸権利と法律との関係を組織化することのみに専心することとなる(33)」。そうして創設される実定法秩序は、「(必然的に同じ意味であるわけではないが第六条とルソーとにかかわる)法律を『一般意思の表明』へと高めようとする意思と確立された諸権利の効果的な尊重を果たそうとする意思とに、すべての権力に制約として課される自由と法律の介入を要請する平等とに絶え間なく引き裂かれてゆくことになる(34)」。法律すなわち一般意思と権利、自由と平等とに実定法秩序が引き裂かれているというのがワシュマンの見解である。
  このようにワシュマンは、自然権と実定法の緊張関係、そして実定法内部の分裂とを人権宣言のうちに看取するのである。

小    括
  本稿は、人権宣言の内部の重要な諸原理間の緊張関係にのみかかわるものであるが、ひろく近代憲法の諸原理間の緊張関係を認識しておくことは重要なことであると思われる。たとえばリアルスの叙述する左翼合理主義者の「法律中心主義」における、合理的で完全な権力という夢想の下では、違憲審査制は成立する余地はないのである。なぜなら、立法が完全であり、立法によって自由が完全に実現されるのであれば、立法に対する枠組みとして人権という規範を確立することは用のないことであるからである。
  その意味で、ここで紹介してきたフランスにおける「法律中心主義」に対する批判的検討は、単に人権宣言の研究というにとどまらず、近代憲法の把握の仕方にかかわる射程を持った重要な理論動向ということができよう。

(1)  「法律中心主義」について、田村理「『フランス憲法史における人権保障』研究序説」一橋論叢第一〇八巻第一号(一九九二年)、同『フランス革命と財産権』(一九九七年)二〇頁−二三頁および五〇四頁−五〇六頁等を参照。後者において田村助教授は、リアルス等の議論につき「革命当時の史料の外でつくられたロック対ルソー、自然権対実定法などのものさしで、史料を整理してしまってはいないだろうか」(二二頁)という疑問を提示し、実証的研究に基き、革命期の人権保障のあり方は実体的には自然権である人権を手続的には法律によって保障するものであったとする浦田教授の見解を支持している(五〇五頁)。浦田一郎前掲「政治による立憲主義」(六七頁)。この点については今後の検討課題とする。
(2)  Ste´phane Rials, La de´claration des droits de l’homme et du citoyen, 1988, p. 370.
(3)  ibid., p. 369.
(4)  Archives parlementaires, 1 se´rie, t. 8, p. 451.
(5)  ibid., p. 452.
(6)  Rials, op. cit., p. 365.
(7)  ibid., p. 368.
(8)  ibid., p. 368.
(9)  ibid., p. 368.
(10)  ibid., p. 368.
(11)  ibid., p. 371.
(12)  ibid., p. 371.
(13)  ibid., p. 371.
(14)  ibid., p. 372.
(15)  ibid., pp. 371-372.
(16)  ibid., p. 372.
(17)  Lucien Jaume, Les de´clarations des droits de l’homme, 1989, p. 54.
(18)  ibid., p. 55.
(19)  ibid., p. 30.
(20)  Lucien Jaume, Citoyennete´ et souverainete´:le poids de l’absolutisme, in THE FRANCH REVOLUTION AND THE CREATION OF MODERN POLITICAL CULTURE vol 1. Edeited by KEITH MICHAEL BAKER, 1987, p. 526.
(21)  Jaume, op. cit., p. 59.
(22)  ibid., p. 58.
(23)  ibid., pp. 60-61.
(24)  ibid., p. 61.
(25)  ibid., p. 58.
(26)  Patrick Wachsmann, De´claration ou constitution des droits?  dans Michel Troper et Lucien Jaume, dir, 1789 et l’invention de la constitution, 1994, p. 48.
(27)  ibid., p. 48.
(28)  ibid., p. 48.
(29)  ibid., p. 48.
(30)  ibid., p. 48.
(31)  ibid., p. 48.
(32)  ibid., p. 49.
(33)  ibid., p. 49.
(34)  ibid., p. 49.


お わ り に


  以上で紹介した人権宣言内部の諸原理の緊張関係を強調する近年のフランスの理論動向は、他方では一七八九年人権宣言そしてそれを前文とする一七九一年憲法が、次の二つの点で、重要な性格を有していることを承認している。一九八九年三月のフランス政治学会の報告集『一七八九年と憲法の発明』の編者トロペールとジョームによる「序文」は以下のようの述べている。   一七九一年憲法は「少なくとも二つの指摘しておくべき新しさを持っている。ひとつは、自然権という言葉で個人の自由が問題とされているのであるから、過去との全き相違を確立していることである。他のひとつは、その憲法が無数の他の憲法の淵源たるテクストとなっているという意味において、未来を見つめているということである(1)」。
  近年のフランスの理論動向が、決して一七八九年人権宣言の意義を低下させようとしているのではないということが、ここからもうかがえよう。
  問題は、その意義と限界とを見極めることである。その点については、わが国でもすでにいくつかの優れた研究がある(2)。しかし概してそれらの研究は、近代憲法の諸原理間の矛盾・緊張関係については、あまり関心を払っていないように見受けられる。さらにそのことはフランス憲法研究にとどまらず、ひろく憲法学全体の問題のようにも見受けられる。
  かつて大西芳雄教授は、権力を制限しようとする自由主義と国家権力と国民の意思との同一性の制度的確保をめざす民主主義とは「衝突」するとし、その衝突する「二つの思想は、それぞれ近代立憲的憲法の各種の具体的な法制度・政治制度の中に具現している(3)」と説いた。本稿としては、いま一度、近代憲法の諸原理相互間の「衝突」ないし調和について考えてみる必要があるのではないかということを示唆するにとどめる。

(1)  Michel Troper et Lucien Jaume, dir, op. cit., p. 14.
(2)  代表的なものとして以下の業績がある。杉原泰雄『国民主権の研究』(一九七一年)、深瀬忠一「一七八九年人権宣言研究序説(1)−(4)完」北大法学論集第一四巻三・四号、第一五巻一号、第一八巻三号、第四〇巻一号(一九六四年−一九八九年)、稲本洋之助「一七八九年の『人および市民の権利宣言』−その市民革命における位置づけ−」東京大学社会科学研究所編『基本的人権三』(一九六八年)、辻村みよ子『フランス革命の憲法原理』(一九八九年)、同『人権の普遍性と歴史性』(一九九二年)、田村理『フランス革命と財産権』(一九九七年)など。
(3)  大西芳雄『憲法要論』(一九六四年)二〇頁、なお大西芳雄教授の憲法学については、山下健次「日本公法学者のプロフィール・大西芳雄」法学教室一七〇号(一九九四年)を参照。また清宮四郎教授は、自由主義と民主主義は、結びつきあう場合もあるが、「両者は、どこまでも両立できるとはかぎらない」とし、また民主主義と権力分立(自由主義)について、「純粋に理念的またはイデオロギー的には、両者は窮極においては、互いに矛盾し、相容れないということもできよう」と説いた(『権力分立制の研究』(一九五〇年)五頁−七頁)。