立命館法学  一九九七年一号(二五一号)一五七頁(一五七頁)




ミッテラン政権下における「地域民主主義」の形成
地方制度改革とグルノーブル市の事例


中田 晋自






は じ め に
第一章  地方分権化から「地域民主主義」への制度改革
  第一節  一九八二年法の地方分権改革
  第二節  地方制度改革と分権参加型デモクラシー構想
  第三節  一九九二年法の「地域民主主義」改革
第二章  フランス「地域民主主義」の形成とその社会的土壌
  第一節  「地域民主主義」としてのアソシアシオン媒介型地方政治
  第二節  グルノーブル市における「地域民主主義」の実践
む  す  び




は  じ  め  に


  周知のように、フランスでは、「コミューン、県およびレジオンの権利と自由に関する一九八二年三月二日の第八二ー二一三号法律(1)」(以下「八二年法」と略す)を基本法とする地方分権改革が実施された。これはミッテラン政権のもとでおこなわれた極めて重要な制度改革の一つである(2)。この制度改革の影響のもと、地方政治の舞台(とりわけ、コミューン段階)では、どのような変化がみられたのか。地方分権化が制度改革として推進されるなか、市民参加の問題はどのように具体化されたのか。言い換えれば、中央集権国家の典型とされるフランスにあって、ミッテラン政権のもと、分権参加型デモクラシーがどのように構想され、実践され、定着をみているのかが、ここでの問題なのである。
  さしあたり本稿では、「地域民主主義(de´mocratie locale(3))」を分権参加型デモクラシーの現代フランス版と定義し、その形成過程(制度化と実体化)を検討の対象とする。より具体的に述べるならば、次のようになる。すなわち、「地域民主主義」の制度化とは、「共和国の地方行政に関する一九九二年二月六日の第九二ー一二五号指針法律(4)」(以下、「九二年法」と略す)の第二編が「地域民主主義」と題されるなど、「地域民主主義」がこの時期の主要な改革テーマの一つとされた点を指している(5)。また、「地域民主主義」の実体化とは、フランスの中規模都市を中心に「アソシアシオン媒介型地方政治」という運営形態が、「地域民主主義」として実践され、一定の定着をみている点を指している。
  以上の提起した課題に沿って、本稿では、ミッテラン政権下における「地域民主主義」の形成過程が検討される。まず、第一章では、この問題を考えていく上で鍵となる二つの法律、すなわち、八二年法と九二年法の概略を明らかにしながら、それぞれの時点において構想されていた分権参加型デモクラシーとは何かを検討する。しかし、ここには一〇年という時間的推移がある。むしろ、この間におこった地方政治の構造変動が、九二年法の「地域民主主義」改革を実現させ、その改革のあり方を規定したと考えられる。従って、第二章では、八二年の地方分権改革以降、フランスの地方政治がどのように変化したのかを検討し、フランス「地域民主主義」が形成される社会的土壌を明らかにしていく。また、その事例研究として、フランス南東部に位置する中規模都市グルノーブル(Grenoble)が取り上げられるが、ここでは、カルティエ住民組織の活動や自主的な住民投票が「地域民主主義」として実践されており、九二年法における「地域民主主義」改革への影響が確認される。
  現代フランスの地方分権化過程に関する我が国の研究は、フランスの学会状況を反映して、もっぱら公法学的見地からすすめられている。フランスの「地域民主主義」に関する研究についても、管見の限り、その制度改革的側面を、九二年法の立法紹介としておこなっているものが中心で(6)、地域社会の実態や地方政治の権力構造に光を当てた政治学的研究は、未だ不十分であると考えられる。従って、国政レベルにおける地方制度改革を、その背景をなす地方政治の現実から明らかにしようとする実証研究には、大きな意義を認めることができると考えるものである。
  なお、この問題の検討にあたり、フランス地方政治に関わる、最近の研究動向について触れておきたい。まず、一九九二年のフランスでは、法学・政治学の理論雑誌を中心に、「地方分権化の一〇年」を総括する様々な理論的取り組みがみられた点を指摘しなければなるまい(7)。また、四二名もの執筆者が各自の専門分野から多面的な分析を加えている『フランスにおける地方分権化』(地方分権研究所(8))や、その地方分権研究所の所長であるオネ(Jean-Marc Ohnet)の『フランス地方分権化の歴史(9)』、さらには、レジオン・ 県 ・コミューンの各段階について詳細なデータに基づく分析を加えてたJ・ブラン(Jacques Blanc)とB・レモン(Bruno Re´mond)の労作『地方公共団体(10)』などが出版された。これは、地方問題が極めて大きな知的関心の対象とされていることを示している。
  一九八二年以降、試行錯誤の一〇年を経験したフランスの分権化社会は、「地域民主主義」を制度的・実践的な課題としたように見える。このことは同時に、地方政治の新たな動向として、フランス「地域民主主義」が理論的にも検討されるべき研究課題となったことを意味する。バグナール(Jacques Baquenard)とブセト(Jean-Marie Becet)は、「地域民主主義」をフランスの地方制度改革史のなかに位置づけた『地域民主主義(11)』を出版する。また、『プヴォワール』誌・第七三号(12)は、その特集のテーマとして「コミューン民主主義(La de´mocratie municipale)」を取り上げている。さらに、フランス地方政治の研究者として知られるA・マビロー(Albert Mabileau)の『フランスの地方システム』(第二版、一九九四年(13))は、「政治システム(政治 機構 )・政治社会(権力構造)・市民社会(社会・経済構造)」という三つの局面からフランス地方システムを分析しており、フランス「地域民主主義」の形成を一九八二年以降の地方政治構造の変動(地域社会の変容)で捉えようとする本稿にあっては、導きとすべき先行業績である。

(1)  Loi n゜ 82-213 du 2 mars 1982 relative aux droits et liberte´s des communes, des de´partements et des re´gions.
(2)  この政権は、当初、「重要産業・銀行の 国有化 」、「勤労者の労働生活条件の改善、社会の近代化・合理化を目指す 民主的改革 」および「地方の政治・行政制度の改革としての 地方分権化 」を主要政策として掲げ、一九八一年の国民議会選挙で左翼が勝利し、議会内で支配的勢力を確保したことを背景に、これを実行に移していったとされる。岡村茂「地方分権化政策の光と影−ミッテラン政権下における地方行政改革の問題性−」(西堀文隆編『ミッテラン政権下のフランス』ミネルヴァ書房、一九九三年)、一七八頁。
(3)  本稿では、フランス語の「デモクラシー・ローカル」に、「地域民主主義」という訳語をあてるものとする。その意図するところは明確である。すなわち、「地域民主主義」という概念に対して、通常、我々が想起するものは、かつて松下圭一氏が提起されたそれであり、とりわけ、氏がこの概念を、一九六〇年代における国家統治型から市民自治型への理論転換という文脈で用いている点で、「デモクラシー・ローカル」概念との間に共通する意味内容をみとめることができるからである。しかし同時に、「デモクラシー・ローカル」概念が用いられる場合には、当然、フランス独自の文脈のもとで用いられている点にも注意しなければならない。さしあたり、ここで強調しておくべき独自性は、ここでいう「ローカル」が、もっぱらコミューン(ないしはその連合体であるコミューン連合区や都市共同体など各種の 公施設法人 )という段階と同義で用いられている点であり、ここを舞台とした市民ないしは住民のアクティヴな参加がイメージされている点である。
(4)  Loi d’orientation n゜ 92-125 du 6 fe´vrier 1992 relative a` l’administration territoriale de la Re´publique.
(5)  内務省(地方公共団体総局)と国家改革・地方分権改革・ 市民参加 改革省は、法令・政令集として官報『地域民主主義』を刊行している。このことからも、フランス「地域民主主義」が、追求すべき一つの改革テーマとして、制度化されつつあるとみることができよう。Journal Officiel de la Re´publique Francaise, La De´mocratic Locale, Ministre de l’Interieur, Ministre de la Re´forme de l’E´tat, de la De´centralisation et de la Citoyennete´, 1995.
(6)  「地域民主主義」改革について紹介したものとして、大山礼子「立法紹介・地方分権−一九九二年二月六日の指針法律第一二五号」(『日仏法学』一九号、一九九三ー一九九四年)、同「フランスの地方分権−法律の積み重ねによる分権改革」(藤岡純一・自治体問題研究所編『海外の地方分権事情』自治体研究社、一九九五年)、さらに、松田聰「フランスにおける最近の地方制度改革」(地方自治制度研究会『地方自治』五三八号、一九九二年九月)などがある。
(7)  例えば、『プヴォワール』誌は、一九九二年に、「地方分権化(La de´centralisation)」というテーマで特集を組み、この問題にかかわる様々な分野の研究者の手による研究論文を掲載している。また、一九九二年二月の五・六日に開催されたシンポジウム「一〇年を経た地方分権化(La de´centralisation dix ans apre´s)」では、まさに一線級の研究者たちがいくつかの分科会に分けて、計四〇にものぼる報告と円卓会議を行い、翌年、それが六〇〇頁を超える大論文集となって刊行されている。さらに、「カイエ・フランセ」誌も、一九九二年に、「地方分権化の現状(L’e´tat de la de´centralisation)」というテーマで特集を組んでいる。Pouvoirs, n゜ 60, La de´centralisation, P.U.F., 1992. Guy Gilbert et Alain Delcamp (dir.), La de´centralisation dix ans apre`s;Actes du Colloque organise´ au Palais du Luxembourg, Les 5 et 6 Fe´vrier 1992, 1993. Les Cahiers francais, n゜ 256, L’e´tat de la de´centralisation, La Documentation francaise, 1992.
(8)  Institut de la de´centralisation, La De´centralisation en France, L’e´tat des politiques publiques, la dynamique des re´formes locales, la dimension europe´enne, LA DE´COUVERTE, 1996.
(9)  Jean-Marc Ohnet, Histoire de la de´centralisation francaise, Librairie Ge´ne´rale Francaise, 1996.
(10)  Jacques Blanc, Bruno Re´mond, Les Collectivite´s Locales, PRESS DE SCIENCES PO & DALLOZ, 1994.
(11)  Jacques Baguenard et Jean−Marie Becet, La de´mocratie locale, P.U.F., 1995.
(12)  Pouvoirs, n゜ 73, La De´mocratie Municipale, Seuil, 1995.
(13)  Albert Mabileau, Le syste`me local en France, 2e e´d., 1994.


第一章  地方分権化から「地域民主主義」への制度改革


  九二年法は、「一〇年余りにわたって続けられてきた分権化改革の掉尾を飾る立法(1)」とみなすことができることから、今日のフランスにおける地方分権改革のプロセスは、制度改革の側面から捉えた場合、八二年法を基本法として開始され、九二年法が実施されるまでの一〇年間を一区切りとみなすことができる。この間に、全体で五〇以上の法律と三五〇以上のデクレが実施されたが(表1参照)、この点からみても、この改革は、緩慢ながら極めて大きな事業であったことがわかる。
  九二年法の第二編は「地域民主主義」という表題を冠して、コミューン議会内部の民主化や、メール(maire(2))の公共事業にからむ汚職を防止するための措置として県地方長官による事後的統制の強化を規定するとともに、特に注目すべき点として、コミューンの行政施策に関する情報公開制度や住民投票制度を規定している。このことは、八二年法改革との関連において検討するべき重要な意味をもっている。というのも、「法律によって」「地域社会への市民参加の促進について定める」とした八二年法第一条第二項の「 形式的な約束 (3)」が、一〇年の時を経て、ここに制度化されているからである。これは、分権参加型デモクラシー構想の制度的進展過程と捉えることができる。しかし後述のように、「地域民主主義」改革の内容の検討からは、八二年時点とは明らかに異なった住民の参加形態が、九二年時点では構想されていると類推される。本稿は、こうした一〇年間の変化を誘発した要因として、地方政治の構造変動を想定する。そこで本章は、そうした検討の前提として、八二年法および九二年法の概略を明らかにするとともに、第五共和政以降の地方制度改革と地域主義などの社会運動という二つの歴史的経過から、分権参加型デモクラシー構想の具体化として八二年法の地方分権改革が実施に移されていく背景を明らかにする。

表1
〈主要な一般法〉
・コミューン、県、および、レジオンの権利と自由に関する1982年3月2日の第82-213号法律(官報、1982年3月3日、修正は官報、1982年3月6日)。この法律は、1982年1月25日の第82-137号デクレの決定の後、1982年7月22日の第82-623号法律により、修正、補完されることになる(官報、1982年7月23日)。
・レジオン会計検査院に関する1982年7月10日の第82-594号および第82-595号法律(官報、1982年7月13日)。
・コミューン、県、レジオン、国の権限配分に関する1983年1月7日の第83-8号法律(官報、1983年1月9日)。この法律は、1983年7月22日の第83-662号法律により、補完されることになる(官報、1983年7月23日)。
・地方公務員の身分規程を定める1984年1月26日の第84-53号法律(官報、1984年1月27日)。
・地方公務員に関する諸規定を修正する1987年7月13日の第87-529号法律(官報、1987年7月16日)。
・地方分権化の改善を定める1988年1月5日の第88-13号法律(官報、1988年1月6日)。
・社会秩序に関する諸措置を定める1991年12月31日の第91-1406号法律(官報、1992年2月4日)。
・地方において公職を行使する諸条件に関する1992年2月3日の第92-108号法律(官報、1992年2月5日)。
・共和国の地方行政に関する1992年2月6日の第92-125号指針法律(官報、1992年2月8日)。

〈主要な特別法〉
・行政組織につきコルシカに特殊な地位を定める1982年3月2日の第82-214号法律(官報、1982年3月3日)。
・諸権限につきコルシカに特殊な地位を定める1982年7月30日の第82-659号法律(官報、1982年7月31日)。
・パリ、リヨン、マルセイユの行政組織およびコミューン間協同事業公施設法人に関する1982年12月31日の第82-1169号法律(官報、1983年1月1日)。
・グアドループ、ギアナ、マルチニーク島の諸地域組織および合併を定める1982年12月31日の第82-1171号法律(官報、1983年1月1日)。
・グアドループ、ギアナ、マルチニーク島の諸権限および合併を定める1984年8月2日の第84-747号法律(官報、1984年8月3日)。
・コルシカの地方公共団体としての地位を定める、修正1991年5月13日の第91-428号法律(官報、1991年5月14日)。


表作成にあたっては、バグナールの著書を参照した。J. Baguenard, La de´centralisation, p. 5-6.


第一節  一九八二年法の地方分権改革
  ミッテラン政権下の地方分権改革は、先述のように、八二年から九二年までの一〇年の間に数多くの法律とデクレを通じて実施されていった。ミッテラン政権は、八二年法を基本法とし、実現を規定された諸法を徐々に整備していったのである。確かに、ここに列挙された法令の数に、この地方制度改革の課題の大きさをうかがい知ることができるとしても、その一方で、「法律革命(4)」という言葉が端的に示しているように、この地方制度改革が、法律を通じた機構改革に止まる危険性も指摘されている。八二年法による地方分権改革は、主に次のように要約される(5)
  (一)  レジオンの「地方公共団体」化と官選県知事制度の廃止
  一九六四年に創設されたレジオンは、「 公施設法人 」から「地方公共団体」へと格上げされ(6)、公選議会が設置された。従来、県およびレジオンの執行部の長は「官選 知事 」であったが、この改革により、各地方公共団体の首長は、公選議会で互選されるようになった(議会議長=首長)。こうして、県およびレジオンの地方公共団体としての決定権限を強化すべく、首長への執行権限の委譲がおこなわれた。従来、コミューンでは、執行権者として議会から互選されたメールが当該コミューンにおいて責任を負うとする政治行政制度がとられてきたが、これで、県およびレジオンにも、同様の制度が導入されたことになる。
  このことは、当然、従来の官選による県(およびレジオン)知事制度の廃止を意味する。従来の制度の下では、各県、各レジオンに配置される知事は、政府が高級官僚団体たる「 知事団 」のメンバーから選任し、彼らは、県民に向けては「国の代理人」であると同時に、地方公共団体たる県の外に向けては執行権の長でもあるという、二重の性格にあった。しかし、この改革以後、彼らは、「国の代理人」たる県地方長官(改革当初は「共和国委員」とよばれていた)として、各県(各レジオン)にある国の地方出先機関の監督にあたるという任務に限定されたのである。
  (二)  コミューンに対する県知事の後見監督廃止
  従来の制度の下で、「国の代理人」としての官選県知事には、各コミューンに対する後見監督権が与えられてきた。しかし、この改革により、この権限は否定され、県地方長官による事後的な行財政監督に置き換えられた。この事後的な統制のあり方については、現在でもその実態の問題をめぐって様々議論されているが(事実上、事前の統制といえるような非公式な「打診」が、県地方長官からコミューンに対してなされているという(7))、制度的にみれば、この統制は地方行政裁判所およびレジオン会計検査院によるコミューン事務の事後的審査・監査に限定されたのであるから、各コミューンが、一つの地方公共団体として、自立的に判断し、政策を展開する可能性は拡がったことになる。
  (三)  各自治体への権限と財源の配分
  執行権限の委譲にともない、コミューン・県・レジオンが主体となって、地域へ経済的・社会的・文化的に関与・介入する範囲が大幅に拡大された。例えば、地方公共団体は、地域の経済活動に積極的に介入できることが法的に認められた結果、特に、地域雇用の確保のために、各地方公共団体は具体的な行財政措置をとることができるようになった。また、こうした改革諸原則に則って、これまでは中央に一極集中していた諸事務(職業訓練、都市計画、社会保障のための諸措置、学校施設の建設、生徒の輸送業務など)は、これらの自治体に財源措置を伴いながら移管された(8)。これらの措置は、一九八三年一月七日の「権限配分法(9)」などにより実施されていった。

第二節  地方制度改革と分権参加型デモクラシー構想
  このような特徴をもつ八二年法の地方分権改革に、「参加」の視点は見出されるであろうか。言い換えるならば、この改革が実施された八二年の時点で、分権参加型デモクラシーは、どのように構想されていたのであろうか。この点に関して岡村茂氏は、この改革には「住民の参加 による 改革の実施という観点が極めて希薄である(10)」との批判を向ける。氏は、その理由を、この八二年改革の基本法全体を通して、またその後の諸法令を見ても、機構上の改革が先行する一方で、肝腎の「自主管理」を地方で根付かせようという踏み込んだ措置はほとんど見あたらない点に求める。その点で、地方改革は、一方での機構上の地方行政改革=分権化が必要であるが、それだけでは不十分で、他方において当該地域住民の行政への参加が不可欠であると断じた『プロジェ・ソシアリスト』からは、大きく後退しているとの感は否めないとするのである。
  後述のように、フランスにとって一九七〇年代は、地域主義的市民運動が「参加」要求を掲げて、その勢力を大幅に拡大した時期にあたっている。こうした運動を背景として、フランス社会党を中心とする左翼勢力は「分権化」を公約に掲げることになる。本節では、第五共和政下における地方分権化への動きを、制度改革および社会運動の両面において跡づけ、八二年の地方分権改革時点における分権参加型デモクラシー構想について検討する。
  (一)  一九六〇年代の地方分散化改革
  一九五〇年代には、地方自治体および地方の農業団体、工業団体、さらに労働組合組織からも支持を集めた「地域経済拡大委員会」という形をとった地域的圧力団体が各地方に出現し、中央政府はその対応を迫られることになる。川崎信文氏によれば、こうした委員会は、「県を超えた地域経済の研究・連絡・運動機関」であり、「半ば公式の団体として政府から認可を受けていた」とされるが、政府のなかで、委員会のこうした活動に最も注目していたのは、「計画庁テクノクラート」であったという(11)。彼らテクノクラートは、県制度を基本とする「伝統的な行政回路(中央官庁ー県知事ー地方出先機関ー県議会ーコミューン議会)」には、限界があると見ていた。というのも、こうした従来型の県制度には、政治・行政システムの柔軟性という点でも、また、人口や領域の適正規模という点でも、フランスの国家的課題であった国土整備計画を中心的に推進するだけの能力がないと見ていたからである。他方、各地に出現した地域経済拡大委員会は、こうした回路の外で一定程度自由に活動することが可能であったし、そのメンバーの多くは、当時台頭しつつあった新世代の社会職能集団「フォルス・ヴィーヴ(12)」に属していたのである。後述のように、フォルス・ヴィーヴは、ゴーリストたちの考える地方改革戦略のまさに担い手と位置づけられていた。こうした政府内における計画庁の活動は、一九六三年に首相直属機関として新設された「国土開発庁(DATAR)」により引き継がれ、この新設機関は、国土整備政策を推進する中核的役割を担うことになる。
  地方をめぐるこうした動きを背景として、一九六四年に大規模な地方制度改革(レジオン制度の整備と県庁の機構に関する改革)が実施される。まず、このレジオン改革により、経済開発上の地方行政単位として二一のレジオンが設置された(ただし、この単位は、あくまでも公施設法人として設定されたものであり、レジオンが地方公共団体として承認されるのは、八二年法の地方分権改革においてである)。当該レジオン内における有力県(レジオン庁所在県)の知事を、レジオン知事として政府が任命し、その知事は、その県とレジオンの双方を担当することになる。J・ヘイワード(Jack Hayward)によれば、この時点での政府の主たる関心が、そうした新たな地域的運動を一定方向に向け、この運動を中立化させながら中央権力の復興を進めることにあったため、政府は、行政的地域主義の標準化と強化を狙い、それをレジオン知事の庇護のもとにおこうとしたとされる(13)。また、この改革では、レジオン知事を補佐する諮問機関として「レジオン経済開発委員会」が、さらに「レジオン行政協議会」や「レジオン拡大委員会」が設置された。こうしたレジオン制度の整備は、分権化された自治機構の設置というよりは、調整装置として広域的に事務を集中させようとしたものであり、同時に、中央の機能分散を意味していたといわれる。つまり、ヘイワードが述べているように、この改革では、鈍重で集権化された決定作成を機能分散化しなければならないという認識が、こうした行政の再編成にとって県が適切な単位ではなくなったことと相まって、レジオン制度を創設させることになったのであり、これらの制度の利点は、既存の制度に代替することにあるのではなく、むしろ既存の制度に対して一層柔軟な公共活動の手段を付け加えることにあったとされるのである(14)
  他方、県庁の機構に関する改革により、戦後一貫して失墜しつつあった県知事の地位の再生が試みられ、不十分ながらも、中央政府の代表としての知事の役割が強化されることになった(15)。これら一連の改革の結果として、「本来は中央ー地方関係の再編成における巨大な一歩となることが意図されながら」も、実際には、県およびその伝統的な長である知事の地位を強化することになったことから(16)、この改革に対する国民の期待は裏切られる結果となった。
  (二)  ドゴールによる一九六九年改革構想の失敗
  一九六九年の国民投票法案は、まさに「挫折した改革構想」として知られる。この国民投票での敗北により、ドゴール大統領が失脚したことは、あまりにも有名である。ドゴールがこの法案を提出したことは、一九六八年五月危機への一つの回答を意味していたといえる。ここでの構想は、レジオンを政治システムの一部として、憲法上、承認させようとするものであり、より具体的には、「経済開発行政ばかりか文化・社会的発展(文化、職業教育、スポーツ、社会教育などの施設)にまでおよぶ広範囲の権限と財源」がレジオンに与えられ、地域計画に関して「議決権をもつ評議会」の設置が予定されていた(17)
  この局面でドゴールが選択した戦略を、ヘイワードは「ドゴール主義者の新地域主義」と定義し、こうした戦略がもつ真の目的は、地方分散的な行政システムを形成することにあったとする。つまり、革命を起こしかねない民衆の不平不満をレジオン知事が察知・撃退し、さらに鎮静させる能力を高めることにあったというのである。この点で、ルイ・ナポレオンが、まさに一世紀前の一八六九年に、その権威主義体制の「自由化」を試みたのと同様、この時点で地方分権に込められた意図は、「擬装された中央集権の強化」であったとされる(18)。しかし、レジオンを地方公共団体に昇格させようとしたこの改革構想は、元老院の改革と抱き合わせで提案されたため、地方議員から激しい反発を受け、この第五共和政初代大統領は敗北を喫することになる。この当時から元老院は、農村部コミューンを重視した間接選挙制をとっているために「フランスのコミューンの大評議会」と呼ばれ、まさに農村的・保守的勢力の牙城であった(19)。ドゴール自身は、「参加」の時代的風潮に乗って「民衆参加」「直接民主主義」「地方分権化」を宣伝文句に掲げ、レジオンの位置づけを高めることで、硬直化した中央ー地方関係に「フォルス・ヴィーヴ」を組み入れようと企図したのであった。
  (三)  一九七〇年代の諸改革とボネ改革構想の流産
  この一九六九年国民投票での失敗により、ドゴールが失脚したことで、ポンピドー政権下でのドゴール派の「地方侵攻」作戦は、しだいにトーン・ダウンしていくことになる(20)。川崎氏によれば、その背景として次の二つが指摘されるという。すなわち、一つは、一九六〇年代を通じた高度経済成長の達成により、国家が主導する強行的な経済近代化政策と、その延長線上にある「フォルス・ヴィーヴ」投入型の「地方侵攻」が、その任務を一応完了したことである。もう一つは、一九七二年に左翼共同政府綱領が締結され、左翼政権樹立への第一歩が踏み出されたことにより、ドゴール派は、従来の「フォルス・ヴィーヴ」投入型地方戦略を放棄し、保守的・中道的地方勢力との同盟による保守総結集の路線を追求する必要があったことである。
  これらを背景に、極めて慎重で漸進的な発展過程がポンピドー大統領の下で始動する。そこに作用する政治力学は、ドゴールの二の舞を避けるという意味で、地方名望家たちへの配慮と妥協であったといえる。この時期における改革の動きとしては、「一九七二年七月五日の第七二ー六一九号法律」があり、ここでは主として、全国規模の開発計画にかかわる特定の任務を付与された「公施設法人」としてレジオンを定義したのである。その妥協的性格は、この法律により新たに設置されたレジオン評議会に社会・職能代表の姿がなく、間接代表制によって選出された上・下両院議員、県議会・主要コミューン議会の代表が全議席をしめていたことに示されていたといえる。
  第五共和政期における地方制度改革は、ジスカールデスタン政権の下でも続行される。元老院は一九八〇年四月二二日の第一読会において、一五二条にもおよぶ「地方公共団体の権限促進に関する法案(いわゆる、ボネ改革法案(21))」を採択する。しかし、この地方制度改革構想は、ミッテラン政権への政権交代により、この時点では実現をみなかった。ところで、この改革構想には、ジスカールデスタン大統領自身の権力基盤とかかわって、極めて複雑な背景があったといわれる。つまり、彼自身の権力基盤の拡大という要請から、左翼とドゴール派を共に少数派に追い込むような、強大な中道主義政党の建設という願望が大統領にはあり、そのための方策として、地方の中道ないし穏健派の議員や首長を是が非でも味方につける必要があったのである。それを象徴するような、彼の戦略が次の点に示される。すなわち、一九七六年に提出された「地方権限促進委員会(いわゆるギシャール委員会)報告(22)」は、コミューンの合併ではなく、その連合体構想を提案していたが、彼はただちに改革に着手せず、「地方議員の歓心を買いたい」という意図から、全国の首長宛に質問表を送付する形で大規模な諮問に乗り出したというのである(23)。こうした背景が鋭く反映して、この改革構想の内容は、レジオンではなく、もっぱら県およびコミューンに関連したものとなり、特に「コミューンへの融和策」とでもいうべきものとなったとされる。この構想の内容は、主に、次の三点に整理されている(24)
  @  コミューンなどに対する国の監督の縮小(具体的には、コミューン議会の議決に対する事前の監督の原則的廃止、起債制限の緩和、職権による予算計上手続の廃止、国庫補助金の包括化、コミューンおよび県の行う事業に関して国が細かな手続や基準を課することの制限などが含まれる)。
  A  国、県およびコミューンのあいだの所管事務の再配分とそれに伴う財源措置。
  B  コミューン行政に関する住民への情報提供と住民参加の拡大(特に、住民投票制度の導入(25))。
  (四)  二つの推進要因と「連続性」
  ミッテラン政権下の地方分権改革には、前史があるといわれる。つまり、「ジスカールデスタン前政権の下で、地方制度改革は重要課題としてすでに本格的に取り組まれていた」のであり、「そこで理論的実務的な議論が積み重ねられていたからこそ、ミッテラン新政権がただちにみずからの改革案を実施に移すべく決意しえた(26)」のである。この見方は、地方分権改革にかんする一九七〇年代と八〇年代の「連続説」と呼ぶことができる。この説の根拠としては、次の諸点が指摘できる(27)。まず、ジスカールデスタン政権下で提出された「ボネ改革法案」(一九七八年)とミッテラン政権下で提出された「ドフェール地方分権改革法案」(のちの八二年法)とは、ともに、当時、内務・地方分権省地方公共団体総局長であったP・リシャール(Pie`re Richard)が、その起草作業の中心にいたという点である。また、八二年法の諸改革には、その源泉を、一九七六年に提出された「ギシャール報告」に遡ることができる点も指摘される。これは、八二年改革の推進要因として、政権にあったフランス左翼の政治的「指導性」よりも、むしろ、当時の内務官僚のあいだで認識されていた地方制度改革の「必須性」に重点を置いて説明されている。確かに、一九七〇年代からすでにフランスの地方政治に存在していた現実を、八二年の地方分権改革は制度化したに過ぎないとする見方は、フランスの研究者の間でも通説となりつつある。こうした説明は、地方分権改革を実施した政権がミッテラン率いる社会党政権であったという事実を半ば「偶然」に帰するものであり、一九八一年の大統領選挙でミッテランが勝利しなかったとしても地方分権化政策が実施されていた可能性を示唆するものである。しかしながら、こうした角度からの説明のみでは、ミッテラン政権が、なぜ地方分権化政策を自らの政権獲得の主要な戦略として組み込んでいったのかという点に関して、完全な回答を与えるものではない。この点を明らかにするためには、地方分権化の要求が、七〇年代を通じてフランス社会党の政策にどのような影響を与えたのかについて検討することが求められる。ここでは、ミッテラン改革の推進要因として、一九七〇年代に高まりを見せた地域主義的市民運動が、検討の対象とされる。
  しかし、フランス左翼にはジャコバン主義的中央集権主義的伝統があると、一般的に捉えられている以上、先述の問題を検証するためには、フランス左翼が、七〇年代を通じて地方分権化へと戦略「転換」した点を論証しなければならない。歴史的に見て、フランス左翼の地方分権化に対する立場は、「共和主義を脅かすような、県を超えた広域圏、つまりレジオンの制度には反対」というものであったといわれる。つまり、この立場は、「単一不可分の共和国」というジャコバン的国家理念の範囲内において、県やコミューンの自治を「共和国の最後の砦」として擁護することに他ならなかったのである(28)。しかし、一九六八年の「五月危機」が、左翼の脱ジャコバン化の大きな転機となり、さらに六九年のドゴールによる国民投票(地方自治拡大提案)、七一年の新生社会党発足を機として、左翼はジャコバン伝統から次第に離れ、レジオナリスムの積極的な推進者、いうなれば、「左翼ジロンド派」へと転身していくことになった(29)。しかし、ここでいう彼らの「転身」を、ジャコバン主義的中央集権主義から地方分権主義への単なる転換として狭く捉えることはできない。一九七〇年代のフランス社会党は、政治的スローガンとして「自主管理社会主義」を掲げており、こうした主張と関わって、七〇年代における左翼市政での中心的スローガンは「地域の自主管理」であったといわれる(30)。この事実は、 地方世界 への政治参加を要求する当時の地域主義的市民運動と既成左翼諸政党との間に、一定の結合関係があったことを推察させるものである。つまり、ここでいう転換とは、歴史的事実にそくしていえば、地域主義的市民運動の政治参加要求を背景とした「レジオナリスムへの転換」なのであった。
  (五)  地域主義的市民運動の台頭
  こうした「レジオナリスムへの転換」過程について、野地孝一氏は、一九六〇年代後半より台頭した「周縁のナショナリズム」、いいかえれば「レジオナリスム・エトニーク」がフランス社会党を中心とする左翼の政策と発想に、どのような影響を与えたかに注目している。この所説を整理すると以下のようになる(31)
  第二次大戦後、左翼政党が初めて分権化を重要な課題として取り上げたとき、その関心は、専ら県とコミューンの自治拡大に向けられていたとされる。左翼は、「共和政的合法性」への復帰に伴い、ヴィシー政権による統治の象徴の一つであったレジオンを否定するに急で、分権化の方法についての精密な議論を欠落したままジャコバン的伝統を保持したのである(32)。しかし、「レジョン」を否定するという点では左翼のジャコバン的立場は不変であったが、早くも第二次大戦後の第四共和政憲法制定過程では、分権化をめぐる従来の左翼と右翼の立場に、逆転が確認できるとされる(33)。そしてこれは、分権化が新たな政治的対抗関係のなかに置かれたことを示すものであった。しかし、社会党と共産党に共通していたのは、レジオンという政治的・行政的枠組みへの無関心ないし拒否であったとされる。一九六四年に設定されたレジオンに対して、左翼は激しく反発したが、与党の実施したレジオン化に対しても、また、一九六九年のドゴールによる国民投票に対しても、社共両党は受け身で、政府の政策に代替する体系的なレジオン構想の提出は見られなかったとされる。しかし、この中から新たな変化が生まれた。この変化は、まず既成左翼政党の外部における多様なイニシアティヴが世論に影響を与え、また特に、社会党の再生を通じて政党組織内にそれが浸透していく過程によるものであったとされる。より具体的には、次のような過程がみられた。すなわち、一九六七年から六八年にかけて地域問題をめぐる「新しい知的潮流(34)」が現れ、一九六八年五月の政治危機を経て、一九七一年六月のエピネー合同大会でF・ミッテランを党首とする新生社会党が成立する。こうした左翼の再編過程のなかで、左翼の地域主義は、着実な地歩が築かれていったのである。この過程にあって、一九六八年から六九年までの諸事件は、これらのクラブや市民運動を、「五月革命」によって政治化した大量の青年層と共に、新生社会党のなかに融合させ、また、一九七一年にリヨンで社会党が主催した地方分権にかんする会議では、クラブや市民運動の思想−特に直接的市民参加、それを可能にする全面的分権化、レジオンの独立の地方公共団体としての設置等−が、大幅に党方針に組み込まれていったという。そしてついに、一九七二年に社会党、共産党、急進左派の間で締結された「共同政府綱領(35)」では、「地方公共団体と分権化」と題する章を設け、伝統的な左翼の要求であったコミューン、県の自治拡大に加え、レジオンが「補助的な行政区画」であることをやめ、「完全な執行権をもつ民主的な新しい地方公共団体となる」べきことを求めたのであった。
  以上見てきたように、一九七〇年代には、地域主義的市民運動が「参加」要求を掲げて、その勢力を大幅に拡大し、これを背景として、ミッテランの新生フランス社会党は、一九八一年の大統領選挙に先駆け、地方分権化を公約に掲げる。しかし、結果的に見て、少なくとも指摘されるべきは、八二年改革に「参加」の視点がダイレクトには反映しなかったという点である(36)。このようにみてくると、八二年の時点における分権参加型デモクラシー構想は、あくまでも、中央ー地方関係の変革(中央から地方公共団体への権限委譲)に限定され、「住民参加」のレベルまで拡大されなかったと整理できる。このことは、次の点と符合している。すなわち、ラディカルな改革の必要性を主張するメニィ(Yves Me´ny)が、改革の不十分な幾つかの点を指摘するなかで「住民参加」の不十分さを指摘し(37)、トエニ(Jean-Claude Thoenig)が、一九七七年に提案された社会党の「プログラム」から「 住民投票 の拡大」すら引き継がれなかったことを問題とし、「公的諸問題に対する市民の参加については、いかなる発展もなかった」と総括したように(38)、フランスの研究者が、八二年法改革の不十分点として住民投票などの直接民主主義的な住民参加の欠如を指摘していたのである。
  この構想が「住民参加」へと視点を拡大するまでには、さらに一〇年の年月を必要とした。しかし後述のように、九二年に確立された構想は、従来想定されてきた参加民主主義的な意味における参加とは次元を異にするものであり、このことは、「地域民主主義」改革により導入された住民投票制度の内容にも示されている。こうした一連の推移は、一体どのような要因に基づくのか。この問題に対し、本稿は、一九八二年以降、地方政治の舞台にどのような変化がおこり、従来の分権参加型デモクラシー構想に対し、どのような変更を加えたかを検討することで、一つの答えを示そうとしている。この議論の前提として、一九九二年法の「地域民主主義」改革とはどのような内容をもっているのか。節を改めて、その概略を明らかにする。

第三節  一九九二年法の「地域民主主義」改革
  (一)  九二年法と「地域民主主義」改革
  九二年法は、第一編「国家の地方組織編制」、第二編「地域民主主義」、第三編「地方自治体間の協力」、第四編「地方公共団体の対外的協力」の四編から構成されている(39)。従って、「地域民主主義」改革は、八二年法を補完する位置にあるこの重要な法律における、基本テーマの一つといってよい。ここでは、先述のようにコミューン議会内部の民主化、さらに、メールの公共事業にからむ汚職を防止するための措置として、県地方長官による事後的統制の強化が規定されているが(40)、本稿においてとりわけ注目したいのは、コミューンの行政施策に関する情報公開(第一章)と諮問型住民投票制度(41)の整備を中心とする住民参加(第二章)である。事実、九二年法の第一〇条は、第二編「地域民主主義」の基本精神を次のように述べている。すなわち、「コミューンに関わる諸問題について情報を知り、それらの問題に関わる諸決定について意見表明を求められるという、当該コミューンに暮らす住民の権利は、自治体による自由な行政と不可分に結びついた、地域民主主義における一つの基本原理である。この権利は、とりわけ地方当局の施策の公開および行政文書にアクセスする自由に関する現行諸規定を侵害しない範囲において、本章に定められた諸条件の下で行使される」と(42)。バグナールとブセトによれば、こうした新しい権利は、「地方分権化を市民たちのものとすべく、諸条文に明瞭な形で刻み込まれている」とされ、一方では「行政機関が行う施策の透明性原理の拡大を意味する」情報公開制度が整備され、他方では、「地方レベルにおける参加原理の出現(たとえ、憲法第三条を部分的に根拠とした穏健な出現ではあるとしても)を意味する」住民投票制度が導入されたとされる(43)
  (二)  コミューンの行政施策に関する情報公開
  地方当局の施策に対する市民の情報アクセス権の問題自体は、特段目新しいものというわけではない。しかし、そうしたなかにあっても、九二年法の諸規定は、バグナールとブセトによれば、「古いものとなった様々な既得権を、現代化させ、延命させている」とされる(44)。彼らは、これらの規定を次の三点で整理する(45)
  まず第一に、地方における諸決定の公開形態を簡素化したことが挙げられる。市民は、本来、自らが実践すべき諸決定について知る必要があることから、極めて古典的なものとしては、個人に関わる諸決定の通知という公開義務が規定されてきた。ここで修正され、定められた公開の形態は、個人が諸決定の内容を理解しやすいよう配慮している点に特徴がある。結果として、コミューンが何らかの規則や施策を定めた場合、従来は当該役所内に掲示することだけが義務づけられていたが、それ以降、人口三五〇〇名以上のコミューンでは、『行政例規集』への掲載が義務づけられ、さらに、個人にとって重要な内容をもつ規定に関しては、地方刊行物への掲載と、その普及を義務づけられることとなったのである。
  第二に、地方の行政機関により作成されたあらゆる文書を閲覧する権利が指摘される。ここで想定されている閲覧とは、あくまでも、直接的で、個人的なものであり、行政が下した諸決定そのものではないとしても、その決定に至る過程において提出された文書にも適用されることになった。一九七〇年代後半は公的権力の介入主義が一般化した時期にあたっており、それへの対応として、行政の施策に関わる文書を閲覧する権利がすでに規定されてはいたが、対象となる分野が限定されるなど実効性を欠いていたという。これに対し、ここで規定された新しい権利は、地方という領域内で、とりわけ幾つかの基本的分野(地方財政、公的契約、事業行政の委託)に対する市民のより実効的なコントロールの実現を目指しており、「市町村法典」ないし一八七一年法により従来から定められていたものを、さらに掘り下げ、近代化し、補強したものとなっているという。そして、バグナールとブセトによれば、これらの規定には「情報アクセス権が全ての人に開かれていること」と「その権利行使が容易であること」という「二つの主要な指標」が示されているとされる(46)
  第三には、最近発展のめざましい情報伝達技術に対し、その逸脱した使用を回避するための規定が指摘される。すなわち、地方のジャーナルやマスメディアなどを通じて、住民が任意に情報を得る技術と手段は、日々発展を遂げているが、逆に、プロパガンダの道具とされる危険性も高まっている。従って、ここでは、そうした現代的問題に対応するための厳格な諸措置が、規定されているといえる。
  (三)  コミューンにおける住民投票制度の整備
  「 地方自治 への住民参加」に関して、住民投票を通じた参加形態が規定された。諮問型住民投票が制度化されたことで、明らかに、フランス「地域民主主義」は新たな局面を迎えた。しかし、改革の内容が不完全なものにとどまれば、成文化が逆効果となる場合もある。バジュナールとブセトによれば、九二年法により制度化されたコミューン選挙人の諮問型住民投票制度は、かつて提出された法案(ジスカールデスタン政権下で流産した一九七九年の「ボネ改革法案」)や、九二年以前の具体的実践例と比較しても革新性はあまりなく、むしろ、後退しているようにさえ見えるとされる(47)
  まず第一に、住民投票の案件に関する問題が指摘される。この制度が九二年に導入されて以降、実践的に明らかにされた問題点は、住民投票で取り上げられる案件がコミューン当局の権限事項であるか否かという点に関わっている。つまり、住民投票の実施は、手続として、当該コミューン議会の議決により決定されることになっているが、例えば、県地方長官が、この議決内容(対象となる案件)を問題にして、行政裁判所に提訴し、それが認められた場合には、住民投票そのものが無効とされる場合がある。こうして、住民投票を実施する前の段階から、住民が意見表明できる「領域」が限定されているのである。この問題について、大山礼子氏は、条文の不備を指摘する。つまり、「住民投票にかけるべき事項の範囲が不明確であり、明らかに市町村の権限に属していない事項について住民投票を実施した場合に、投票結果を無効とするのかどうかについても規定されていない」のであり、「これまでに、移民受入れの是非を問題にした住民投票や高速道路のルート決定(48)をめぐる住民投票などが実施され、問題になっている(49)」とするのである。こうして、たとえ住民投票にかけられる案件が、コミューン当局の権限に帰属していれば、事前に排除されることなく、いかなる案件でも投票にかけることができるとはいえ、実施条件が厳格に規定されていることで(諮問型住民投票の発議権者、投票権者、実施制限、法的効力)、逆に、この改革の先進性を稀釈することになりかねないように思われるのである。この点からみて、九二年法の「住民参加」改革により確立された諸原理は、実際には現行の法制度を修正するものではなく、むしろ、ここには、現行法制度(特に、コミューン段階における代議制民主主義)が大きく変化することへの拒絶反応すらうかがわれるのである。
  第二に、住民投票の実施を求める発議権の問題が指摘できるが、こうした権限は市民に対して全く認められていない。住民投票は、メールによる提案か、人口三五〇〇名以上のコミューンにおいては、コミューン議会議員の三分の一以上の書面による要求(人口規模がそれ以下のコミューンでは議員の過半数の書面による要求)があった場合に実施される。しかし、こうした発議をおこなっただけでは、諮問型住民投票の手続を開始できない。つまり、諮問型住民投票を行うか否かを決定できるのは、コミューン議会だけなのであり、諮問型住民投票の組織原則および組織形態については、コミューン議会が議決により決定するのである。結果として、この制度の下では、住民投票の実施を住民が直接請求できないことになる。これは、「住民参加」改革としての住民投票制度導入の意義を無に帰するような、極めて重大な問題であるといえるが、議会審議過程を見る限り、与党の社会党やさらには共産党からも、こうした観点からの指摘はみられなかった。
  第三に住民投票の投票権者の問題がある。すなわち、諮問型住民投票で投票することができるのは、「コミューンの選挙人」だけである。結果的にいえば、移民労働者などの外国人は、「住民」ではあっても、「選挙人」ではないため、この住民投票から排除されたことになる。しかし、むしろ「政策決定上の効力を備えた国民投票とは違うのであるから、そこに提起された案件に直接関わってくる当該コミューン在住の非選挙人(未成年を除けば、移民労働者などの外国人を指している)に対して、諮問型住民投票を開放することは可能である(50)」といえよう。この問題は、地方政治へヨーロッパ市民が参加できるようになる問題、さらに、移民労働者など外国人に投票権を与えるか否かという問題と関連している。そのため、議会審議過程においては、投票権者は「住民」か「選挙人」かを争点に、激しい議論が展開された。
  第四には、住民投票に関する実施制限の問題があり、諮問型住民投票の実施条件(時期や頻度)は、極めて厳格に規定され、実施が大きく制約されている。この条件から推察されるように、この投票は、各種議会選挙を見込んで組織されてはならないとの見地に立っている。というのも、議員任期が切れる時期、すなわち、選挙が予定されている年には、住民投票を禁じられているからである。また、一年の期間をおくことなく、次の投票を実施することはできない。さらに、二回の諮問型住民投票が同一の案件にかんして実施される場合、二回目の投票まで、少なくとも二年が経過していなければならないとされる。
  最後に、第五点目として、住民投票が「諮問的」性格であるとされている点が指摘される。諮問型住民投票の結果は、コミューンの立法・行政諸機関を法的に縛らない。したがって、それらの機関の自由裁量権は、大枠としては現状のまま維持されるのである。しかも、市町村法典のL・一二五ー二ー二条は、コミューン議会における諮問型住民投票実施の議決により、この住民投票が「参考意見」の表明にすぎないと、明確に指示を受けると定めている。
  以上みてきたように、九二年法における「地域民主主義」改革は、二つの制度(地方自治体の情報公開制度と諮問型住民投票制度)を整備することで、市民に新たな権利を付与した。ここには、中央ー地方関係の変革に止まった八二年時点の構想を乗り越えようとする、地方公共団体内部の民主化(住民が参加する形態の探求)を通じた新たな分権参加型デモクラシーの構想があるように思われる。しかし同時に、諮問型住民投票制度に関しては、様々な点で制度の不十分な側面が指摘されている。先述のように、八二年時点では欠如しながらも期待されていた、住民投票制度を中心とする参加民主主義的構想が、なぜ、当初想定されていたものとは異なった形で制度化されたのか。次章では、八二年以降、地方政治の世界にみられた構造変動(地域社会の変容)に着目しながら、この問題の解明を試みる。

(1)  大山礼子「立法紹介・地方分権ー一九九二年二月六日の指針法律第一二五号」(『日仏法学』一九号、一九九三ー一九九四年)、九六頁。
(2)  コミューンの首長で、コミューン議会の互選で選出されることになっているが、現在の選挙制度の下では、選挙で第一党をとった政党が提出していた候補者名簿の筆頭者が、この職に就任することになる。フランスのコミューンが、日本の行政区画では市町村に対応していることから、メールを「市町村長」と訳す場合もある。
(3)  Pierre Sadran,”Des citoyens peu concerne´s, Proble´mes politiques et sociaux, De´centralisation et de´mocratie locale, n゜ 708, La documentation francaise, 1993, p. 15.
(4)  岡村、前掲論文、一九九三年、一九三頁。
(5)  この八二年改革の主要な内容については、すでに多くの論者によって解説されている。ここでは主に、岡村、前掲論文、一九九三年、一八七頁を参照した。
(6)  ここでは、県やコミューンといった「地方公共団体」を第一級、「公施設法人」を第二級と格付けしている。
(7)  こうした後見監督権の廃止後の実態について、例えば、川崎信文「現代フランスの地方自治」(中木康夫編『現代フランスの国家と政治−西欧デモクラシーのパラドックス−』、有斐閣選書、一九八七年)、一七五頁以降を参照。
(8)  岡村、前掲論文、一九九三年、一八八頁参照。
(9)  この法律については条文の邦訳がある。磯部力・大山礼子訳「フランスの新権限配分法」(『自治研究』第六〇巻第三号、第五号、第八号)。
(10)  岡村、前掲論文、一九九三年、一九二頁。なお、傍点は引用者。
(11)  川崎、前掲論文、一九八七年、一五七頁。
(12)  同前、一五七頁を参照。氏によれば、フォルス・ヴィーヴの具体例として、機械化と経営規模拡大を求める農業改革路線の担い手であった「青年農業者全国センター(CNJA)」や地方の企業革新の旗手であった「青年経営者集団」、さらに、階級闘争路線を否定して国家との「対話」「協調」を求める「キリスト教労働同盟(CFTC)」などがあるという。
(13)  J.E.S. Hayward, Governing France:The One and Indivisible Republic, 1983.(田口富久治・川崎信文ほか訳『フランス政治百科』、勁草書房、一九八六年)邦訳、七三頁。
(14)  同前、七四頁。
(15)  川崎信文「フランス地方行政における県知事の位置と役割−戦後の論争と一九六四年改革−」(田口富久治編『主要諸国の行政改革』勁草書房、一九八二年)を参照。
(16)  J. Hayward, op. cit., 邦訳、七七頁。また、この一九六四年改革に関する文献紹介が、同訳書の八七頁にある。
(17)  川崎、前掲論文、一九八七年、一六四頁。
(18)  J. Hayward, op. cit., 邦訳、七八頁。
(19)  川崎、前掲論文、一九八七年、一六五頁。
(20)  同前、一六八頁。
(21)  Projet de loi pour le de´veloppement des responsabilite´s des collectivite´s locales, J. O., Senat, Document n゜ 187.
(22)  Vivre ensemble, Rapport de la commission de de´veloppement des responsabilite´s locales, pre´sente´ par Oliver Guichard, 1976.
(23)  川崎、前掲論文、一九八七年、一七〇頁。
(24)  この時期の改革の状況および改革の内容について、例えば、小早川光郎「フランス地方制度改革とその背景」(『自治研究』第五七巻第一一号)を参照。
(25)  この第三点目については、社会的背景が注目される。この点について大津浩氏は、次のように説明する。すなわち、この住民投票制度は、「伝統的な地方公選職の支配に異議申し立てをおこなうエコロジスト等の新しい直接民主主義運動の盛り上がり」を背景にしていたという。また、当時の政治状況からいえば、この住民投票制度のうち、投票結果に地方機関がなんら拘束されない「諮問的投票」については、直接民主主義に反感の根強い地方公選職も元老院も賛成していた。しかし、地方機関が結果に拘束される「決定の住民投票」については、「公選職を市民投票と取り替えることは問題外」として否決されていたとされる。大津浩「フランス地方分権制と単一国主義」(梶田孝道・宮島喬編『現代ヨーロッパの地域と国家』有信堂、一九八八年)、六一頁。
(26)  小早川光郎、前掲論文、三ー四頁。
(27)  川崎信文「フランスにおける地方制度改革と知事団」(『広島法学』第一一・一二巻)、第一一巻、一八三頁。
(28)  川崎、前掲論文、一九八七年、一七一頁。
(29)  同前、一七二頁。
(30)  西村茂「フランスの都市政治」(中木康夫、前掲書、一九八七年)、二二七頁。
(31)  野地孝一、「フランス地域政治の危機と分権改革−レジオンを中心として−」(『日本政治学会年報』、一九八三年)、一九七頁以降。
(32)  野地氏によれば、戦闘的共和主義は集権的な地域システムを前提とし、それゆえに文化的な異質性を有するレジオンを単位とした分権化と
は両立しない、というこのジャコバン的発想は、ほぼそのまま社会党と共産党によって受け継がれたという。野地孝一、前掲論文、一九九頁。
(33)  つまり、この時点での社会党と共産党は県議会による県執行部の選出と、コミューンへの後見支配の制限を主張したが、特に南西部農村地帯の自治体における共産党の進出を恐れた右翼は、急進社会党の一部の協力を得て、県とコミューンの分権化を規定した憲法条項を空文化させるのに成功した。その結果、共和主義=集権主義、反共和主義=分権主義という図式が妥当しなくなったというのである。
(34)  こうした地域問題をめぐる「新しい潮流」として、氏は次のものを指摘する。すなわち、一九六七年から一九六八年にかけて、ロベール・ラフォン、ミシェル・ロカール、政治クラブであるクラブ・ジャン=ムーランによってレジオンに関する著作が相次いで公刊され、左翼に近いノン・コンフォルミストたちによるこれらの著作は、ニュアンスの差はあれ、「フランス内部の非植民地化」すなわち地域格差の是正と、地域文化の復権を唱え、そのためにレジオンを単位とした分権化の必要性を主張することで共通していた、と。
(35)  ここで見てきたフランス左翼の「転換」過程は、「参加」の視点を獲得していく一つの契機を読みとることができる。また同時に、ここには、「自主管理」という鍵的概念が介在していると推察される。例えば、『共同政府綱領』の第三部「諸制度の民主化、自由の保障・発展」の第三章「地方公共団体と分権化」は、冒頭において次のように規定している。「全ての者が自己に関わりのある決定に真に参加することを保障するため、より進んだ分権化の手続きをとる」と。そしてつづけて、「このことは、調査、決定、管理、資金調達という国の重要な諸手段を地方公共団体に移すことによって、地方公共団体の自治を強化することを想定」しており、「これは地方の民主主義の発展、つまり市民がこれらの地方公共団体のあり方に参加する可能性の発展を意味する」と述べている。なお、検討にあたっては、次の訳文を参考にした。「フランス共産党および社会党の共同政府綱領」(『統一戦線と政府綱領』、新日本出版社、一九七四年)。原文は以下の通り。Programme commun de governement du parti communiste francais et du Parti socialiste, 1972.
(36)  ただし、この事象を説明するのは容易ではない。こうした一連の経過を解明するためには、ミッテラン政権初期の政策決定過程にかんするより精緻で実証的な検討が必要である。こうした検討作業は重要な研究課題として、今後追求していきたい。
(37)  Yves Me´ny,”La Re´publique des fiefs, Pouvoirs, n゜ 60, La de´centralisation, 1992, p. 18.
(38)  トエニは、地方分権化政策が一九八一年から八五年にかけて開始されたものの、「デクレをもって」しては社会を再構成する革命とはなり得ないという。つまり、この政策の「強固な核心」は、国家にあった諸任務のほんの一部を、より大きな自律性を享受した地方公共団体に委譲することにあるという。このことが示しているのは、地方分権化政策による諸措置が実質的には制限されているという点であり、この点を証明するには、八二年改革が放置してきた諸問題を検討すれば十分であるとされる。すなわち、憲法は全く改正されていない点、地方公共団体の数が削減されていない点、税制、より一般的には公的収入が近代化されていない点、そして、 地域民主主義が拡大されなかった点 である。J.-C. Thoenig,”La de´centralisation:dix ans de´ja` et apre´s?, Les Cahiers francais, n゜ 256, L’e´tat de la de´centralisation. 1992, p. 74-75.
(39)  ブルジョルによれば、九二年法の諸条文は、大きく分けて二つの目標(「国家行政機構の再配置」と「ヨーロッパ統合の鍵となる分野における統制と後見監督の強化」)を目指しているとされる。Maurice Bourjol,”La re´forme de l’administrarion territoriale, commentaire de la loi d’orientation du 6 fe´vrier 1992, AJDA, 1992-4, p. 140.この指摘は、ヨーロッパ統合への対応策として、国家権限を強化する必要にあるとの認識が、九二年法の改革構想に内在することを示唆するものである。実際、次のような事実から、九二年法の背景として、ヨーロッパ統合の文脈が確認される。つまり、例えば、ここにマーストリヒト条約の調印が「一九九二年二月七日」におこなわれたという事実を提示した場合、これを単なる偶然として看過できるであろうか。ブルジョルによれば、「ヨーロッパ建設」という問題認識は、九二年法の諸改革全体を貫いているとされ、具体的な施策として、レジオンを単位とした政府機能分散化、欧州統合との関わりで弱点となっている領域(市場、公的事務の委譲、国土整備、経済発展)における国家の統制や後見監督の強化、レジオンの連携による地方行政の広域化、市町村の再編成、地方税制の特化などが設定されているとされる。とくに、フランスのレジオンにあたる「広域行政圏」の強化は、ヨーロッパ統合の下で、各国の重要課題と位置づけられていることから、フランスにとっても遅れをとることのできない分野となっている。つまり、こうしたヨーロッパ統合への対応という課題を、フランス国内の地方諸制度ないし地方システムの視点から捉え直すならば、九二年法は、超国家レベルで起こっている変動への対応策として、すなわち、「統一ヨーロッパにおける地方自治のあり方を規定したもの」として解釈されるのである。また、これに関連して、大山礼子氏は、九二年法により新たに導入された住民への情報公開制度が、外国人や外国企業(とりわけEC域内からの進出企業)をもカテゴリーとして含む「住民」に対して、地方税をはじめとする市町村財政に関する情報提供を定めている点を指摘している。大山礼子「地方自治と分権化改革」(奥島孝康・中村孝一編『フランスの政治』早稲田大学出版部、一九九三年)、一〇五頁を参照。この指摘から、九二年法改革が、ヨーロッパ統合へ対応するための地域再編政策を主要な目標にしていたことが確認される。さらに、九二年法改革は、その対象とされているカテゴリーを、レジオンとコミューンとに分類することができる。レジオンを対象とした政策は、九二年法に確認される「対ヨーロッパ」の問題認識を体現するものであり、その主要目標は、レジオン地方長官への政府機能分散化による再集権化と「レジオン間同盟」の推進によるレジオン再編政策を推進することにある。また、コミューンを対象とした政策は、コミューン段階における「住民参加」や細分化されすぎているといわれるコミューン間協同事業の促進をめざすというように、「 地方自治 の近代化と民主化」を基軸に据えている。
(40)  こうした地方自治体の執行部に対する統制強化という動きは、シラク政権の下でさらに強められているように見える。それを示すものとし
て、「地方公共団体の一般法典の立法分野に関する一九九六年二月二一日の第九六ー一四二号法律」(Loi n゜ 96-142 du 21 fe´vrier 1996 relative a` la partie Le´gislative du code ge´ne´ral des collectivite´s territoriales)の立法化が挙げられる。この一二条では、八二年法や九二年法のうち、メールや県議会議長の権限強化を定めた部分について、廃止することが定められている。しかし、この法律の背景や社会的効果について、未だ判断を下す段階にはない。今後、社会党政権からドゴール派政権への交代をうけて、地方政治の問題がどのように位置づけ直されるのか、注目していく必要がある。Journal offciel du 24 fe´vrier 1996.
(41)  「住民投票」について、九二年法では consultation という用語が用いられている。かつて、幾つかのコミューンにおいて自主的におこなわれた住民投票は Le re´fe´rendum communal(コミューンにおける国民投票)と呼ばれていたが、本来「レフェランドム」という用語は決定権限をもった投票を意味するのであり、九二年法でいう「コンシュルタシオン」とは明らかに違っている。この違いを明確にするため、ここでは「諮問型住民投票」という訳をつけた。また、大山礼子氏によれば、ジスカールデスタン政権の下で構想されていた地方制度改革(いわゆる「ボネ改革法案」)では、投票の結果がコミューンを拘束しない「諮問型住民投票」と、拘束する「決定型住民投票」という二種類の住民投票制度導入が検討されていたとされる。大山礼子、前掲論文、一九九五年、二一四頁。
(42)  この条項は、先述の「地方公共団体の一般法典の立法分野に関する一九九六年二月二一日の第九六ー一四二号法律」(Loi n゜ 96-142 du 21 fe´vrier 1996 relative a` la partie Le´gislative du code ge´ne´ral des collectivite´s territoriales)により廃止されている。ただし、情報公開制度および諮問型住民投票制度に関わる諸規定は、廃止されていない。
(43)  J. Baguenard et J.-M. Becet, op. cit., p. 98.
(44)  ibid., p. 98.
(45)  ibid., p. 98-116.
(46)  ibid., p. 103.
(47)  ibid., p. 121.
(48)  実際、高速道路のルート決定をめぐって、住民投票を実施しようとしたコミューン(メーヌ・エ・ロワール県のアヴリレというコミューン)があった。ここで対象とされた案件は、「あなたは、歴代のコミューン機関が推進してきた都市政策、環境政策、生活の質の改善政策が、アヴリレ地域の南北に都市高速道路が開通することと、両立可能であると考えますか?」というものであった。しかし、高速道路のルート決定という案件は、県の権限事項(つまり、コミューンの越権行為)であるとして、当該県地方長官がナント行政裁判所に提訴し、この訴えが認められ、住民投票の実施を決めたコミューン議会の議決は破棄された。このコミューン当局は、この行政裁判所の決定を不服であるとし、コンセイユ・デタに略式申請をおこなったが、コンセイユ・デタもこのコミューンの申請を却下した。Yves Jegouzo,”Re´ferendum Local, AJDA, 20 novembre 1995, p. 838-B840.
(49)  大山礼子、前掲論文、一九九五年、二一六頁。
(50)  J. Baguenard et J.-M. Becet, op. cit., p. 122.


第二章  フランス「地域民主主義」の形成とその社会的土壌


  八二年法の地方分権改革は、一体、どのようなイムパクトをフランスの地方政治構造にもたらしたのであろうか(1)。本章では、一九八二年の地方分権改革以降、フランス地方政治の舞台がどのような変化を遂げたのかを明らかにし、フランスに独自の「地域民主主義」が形成されいく社会的土壌を明らかにする。ここではもっぱらコミューン段階に生起する現象を対象とするが、八二年法の地方分権改革を通じて、国から地方公共団体へ権限が委譲されたことにより、各コミューンではメールに権限がさらに一極集中したシステムが確立されたとみられている。さらに、フランスに特有の制度である公選職兼任制度が、この状況をさらに強化しているのは間違いない(2)。こうした現状認識は、先述のように、メニィやトエニなど多くの研究者に共通している。マビローは、地方分権改革により、権限強化がはかられたのは、市民ではなく地方議員であり、この改革によるこうした変化が、「地方権力の著しい 個人独占化 を導く地方諸制度の 大統領制化 (3)」により助長されていると指摘する。すなわち、メールの選出過程においては、議院内閣制のごとくコミューン議会で互選されながらも、彼は、メールに就任した時点から議会に責任を負わない大統領のような存在となり、その結果、メール個人への権限の集中が誘発されているのである。
  では、八二年法の地方分権改革が残した問題点と、その後形成をみた「地域民主主義」との間には、どのような関連がみられるのであろうか。結論から述べるならば、次のようになる。すなわち、コミューン行政当局は、権限をさらに集中させるなかで、円滑な運営という観点にたった全住民対象の参加形態を模索するようになる。また同時に、それは、当局主導による住民の包摂・統合の危険性をはらんでいる。従って、ここに生じた変化こそ、八二年改革が地方政治構造に与えたイムパクトによるものであり、参加と包摂という表裏の関係をもった二つの変化が、九二年法による「地域民主主義」改革の内容に影響を与えたと考えられるのである。
  そこで第一節では、フランスの中規模都市で、近年、アソシアシオンを媒介とした地方政治の運営スタイルが台頭しつつあるとするマビローの議論を検討し、次いで第二節では、グルノーブルの事例に基づいて具体的に検証し、さらに、九二年の「地域民主主義」改革が結実する現実的要因を明らかにしたい。

第一節  「地域民主主義」としてのアソシアシオン媒介型地方政治
  (一)  地方分権化と参加民主主義
  かつて、J・ロンダン(Jacques Rondain)は、八二年法のなかで幾つかの「予告」がなされたことの意味を、次のように説明した。すなわち、「この地方分権改革は、膨大な権限を与えることで地方の執行部を強化し、もし、これと均衡するものが何一つない場合には、全く危険がないとはいえないことから、地方分権化法の作成者たちはその危険性を明確に認識し、また、地域民主主義が単なる地方公共団体の自由に還元されるものではないことを強く認識していた」のであり、その具体的現れとしては、「公選職兼任を制限しようとする意思」と「市民参加の発展を通じて地域民主主義を強化する法案を将来提出するとした予告」が指摘されるのである。そして、ロンダンによれば、こうした考え方は、アメリカ合衆国のいくつかの州において実践されている「直接民主主義モデル」に依拠しているとされ、結局、これが地方分権化過程の全般的安定性を確保したとされる。つまり、知事の行政的後見監督が、市民による民主的統制に置き換えられるという意味で、何らかの「歯止め」が制度的に準備されていたと考えられるのである(4)
  しかし、地方分権改革によって、従来型の地方政治システムにかわって、参加民主主義が確立されたとは言えない以上、我々は、ロンダンが立てたパースペクティヴに対して、単純に首肯することはできない。ここに必要なのは、フランス「地域民主主義」の内実を明らかにすることである。その点で、まず確認する必要があるのは、「地域民主主義」改革が実施された後においても、フランスの都市コミューンには「フランス型コミューン君主制(5)」と呼ぶべきシステムが強固に残存しているという点である。実際、地方分権改革以降、参加民主主義が自らの位置づけを高めたとはいえない。マビローはいう。その改革推進者や政権担当者の演説や九二年法のなかの定型句として述べられているほど、地方分権化は、参加民主主義を現実に用いることはなかった、と。その一方で、地方分権改革は、地方議員の責任強化を大幅にはかり、こうした現状は、今日地方選挙の棄権率が高まりをみせ、さらに、フランス人の三分の二が「地元のメールを信頼する」という満足感により担保されているという実態があるだけに、地方レベルにあっては、一段と強化された代議制民主主義と市民の無気力感著しい参加民主主義との間のズレは激しさを増していると分析されるのである(6)。従って、次のように述べられる。「フランス人の三分の二は、巨大な不参加者群をなしているにもかかわらず、様々な調査によれば、地方分権化に関する総合評価で、満足していると表明しているのである!市民たちにとって、地方の諸問題は、全くもって地方議員たちの問題なのであり、地方議員を罰するのが次回の選挙となろうとも、それは仕方がないことなのである(7)」と。こうした分析からは、地方分権化により、市民が自らの問題として選択を迫られる争点が増加したにもかかわらず、市民たちは地方への関心を失い、もっぱら、代表者たちにその処理を委ねているという実像が浮かび上がることになる。
  しかし、こうした地方政治の現実との関わりにおいて、九二年法の「地域民主主義」改革により導入された情報公開制度と住民投票制度は、どのように位置づけられるのか。とりわけ、後者は参加民主主義を最も典型的に示すものであるだけに、検討されるべきものである。マビローは、コミューン住民投票制度の創設へ向けけた動きは一九七〇年代から確認されるが、先述のように、一九八一年に提出された地方分権法案からは姿を消した点を指摘している。確かに一九八二年以降、いくつかのコミューンの幹部たちは、彼らの都市住民に対し諮問型住民投票をおこなわなければならないと考えていたが(グルノーブルでは都市交通に関して、モンペリエでは家庭からのゴミの貯蔵に関して)、大多数の地方自治体の幹部たちは、地方として見解を統一させるというより、むしろ、彼らの代表者としてのイメージ強化を目指したとされる。そして、九二年法の時点では、まさに、「地方世界の民主化」や「住民参加」が構想されながらも、コミューン住民投票制度に対し尻込みする姿勢を未だ残すものであり、その投票結果は参考意見としての性格をもつにすぎない点を指摘するのである(8)。つまり、この制度は、個々の住民が決定に参加する最も直接的な方法である点で、もっともラディカルな構想のように見えるが、現実的には、参加民主主義の進展と捉えることはできないのである。その点で、P・サドラン(Pierre Sadran)が指摘するように、「地域民主主義は、よりラディカルな新改革の代替として出発したに過ぎない(9)」のである。
  (二)  分権化社会に浸透するアソシアシオン媒介型地方政治
  八二年法の地方分権改革が残した問題点を、「直接民主主義モデル」が克服ないし補完できなかったとすれば、地方の分権化社会は、実際のところ、どのような運営スタイルを見いだして、安定を図ったのであろうか。こうして、検討の対象は、上述のような権限の集中した地方統治システムが残存するフランス地方政治の舞台にあって、分権参加型デモクラシー構想がどのように具体化されたのか、言い換えれば、どのような参加形態が追求され、具体化されたのかという問題へと移っていくことになる。この点に関していえば、まず、参加形態の多様化と日常化を確認しなければばならない。
  マビローは、八二年法の地方分権改革に「もう一つの意図(10)」を見いだすことで、次のようなオルタナティヴを提出する。すなわち、「一九八二年法は、地方公共団体が『 住民 の経済的・社会的諸利害の擁護』を保障するという原則を確立した」が、「このことから考えて、地方分権化は、地方システムに託された社会的統合機能をさらに強化した」とし、政治社会(地方ボスに支配された権力構造)と市民社会(無力感のなかにある市民たちの社会・経済構造)の間の埋めがたいズレを克服すべく、 アソシアシオンを通じた住民の政治参加 を提起するのである。
  もちろん、フランスの政治文化として、 中間団体 に対し不信を抱く伝統があることは知られている(11)。従って、フランスにおけるアソシアシオンの実態を、前もって確認しておく必要がある。この点についてマビローは、次のように指摘する。すなわち、アソシアシオンの発達は、七〇年代のフランスに認められる一つの現象であり、この時期には、おそらくフランス人の個人主義的文化も手伝って、アングロサクソン諸国と比べかなり遅れてはいるものの、この種の組織が毎年約三万団体創設されている、と。また、これらの組織の活動は、とりわけ、地方システムの基底段階(コミューン、カルティエ(12))において活発におこなわれており、市民が集団的に参加する領域を拡大可能にしているとされる(13)。ベスナールによれば、こうしたコミューン段階における住民組織が拡大している背景として、一九六〇年代以降におけるフランスの文化政策の思想的な展開(社会環境の改善、非行の防止、参加の奨励、多元的社会到来への準備のため文化面での施策)や地方自治体による奨励(財政面、施設面、人材面)があるといわれており、組織類型としては婦人組織(参加率二三%)、スポーツ組織(一八%)、文化組織(一八%)、カルティエ組織(七%)などが挙げられる。そして、これらの組織に対し、フランス人の四名に一名が加入し、組織の総数は四〇万に達するとされる(14)
  今日のフランスにおいて、こうしたアソシアシオンに光が当たるようになっている背景には、これらが担うべき社会的機能が明確になっているからに他ならない。こうした観点は、地域社会の構造に対し政治学的分析を加えようとするものであるが、マビローによれば、これらの組織が伝達している社会的諸利害は極めて多様で、バイパス道路建設に反対する異議申し立てから低家賃住宅(HLM)に居住する住民の権利擁護まで、さらに、社会的連帯、自然環境や生活環境の保護もあるとされる。また、それが果たす機能は、市民社会(地方の社会・経済構造)における媒介的機能であり、大きく分けて二つのものがあるとされる。すなわち、一つが「代表制という古典的メカニズムでは考慮されない諸要求をもった人々を生み出す扇動的機能」であり、もう一つが「国ないし地方公共団体との協調を通じて、社会セクター内で伝統的に保持されている管理の機能」である(15)
  中央集権国家にあっては、国家が、人民の社会的統合や画一的行政の要の位置にあるのに対して、分権化社会にあっては、地域社会(とりわけフランスではコミューン)の自律的統治能力(自治能力)が問われることになる。従って、分権化社会の探究は、自ずから「自治の担い手」の探求を意味することになる。フランスの地方政治史をみる限り、ここにはさしあたり、地方エリートとしての地方名望家か住民かという選択肢が用意されている。こうして、地方分権化の問題が、住民の政治参加の問題へと連結されることになる。ここに描かれる地方政治のイメージにおいては、より日常化された、多様な要求に基づく自発的結社の姿が想定されている。こうした参加活動のなかに積極的側面が見出されるとすれば、アソシアシオンへの多面的・日常的参加を通じて、住民自身が自らを、地域社会を民主的に活性化する担い手として高めていくという教育的側面であろう。さしあたり、これを「アソシアシオン媒介型地方政治」と呼ぶものとする。
  (三)  アソシアシオン媒介型地方政治と「地域民主主義」改革の関係
  以上の議論で、「アソシアシオン媒介型地方政治」という運営形態が抽出された。では、そこに見出される改革諸課題は、九二年法による「地域民主主義」改革とどのような関係にあるのか。これは、八二年法改革以降地方政治がどのような構造を形成し、これが九二年法の「地域民主主義」改革のあり方にどのような影響を与えたかを明らかにしようとする本稿の検討課題に対する一つの答えである。
  先に見たアソシアシオン媒介型地方政治にも多くの問題点が残されている。マビローによれば、組織内での民主主義の問題や、各組織の指導者たちが地方議員により取り込まれたり、諸組織がコミューン当局の都合に沿って再編成されるといった点が指摘されるが(16)、これらの問題点は、とりわけ、コミューン行政当局と地域住民組織との関係において重大な意味をもつ。すなわち、地方分権化過程のなか、地方レベルにおける公共政策が拡大し、権限が集中した行政当局が、政策決定から執行までを優位な立場で推進する状況が進行しているといわれるのである。こうしたことから、マビローは、コミューン段階で「採用される諸手続の明確な民主化」を主要な改革点とし(17)、具体的には、@「 地域住民 の要請にこたえた情報公開政策(透明性の民主主義)の進展」と、A「住民の要求に対し開放されたカルティエ委員会やコミューン間委員会の確立(18)」の必要性を指摘する。@Aのいずれについても参加形態の多様化と日常化が構想されているといえるが、最も重要な点は、こうした改革の方向性をとることで、アソシアシオン媒介型地方政治に内在する二つの側面(全住民を視野に入れた参加促進の可能性と当局主導による地域組織再編と住民包摂化の危険性)をふまえた、現実的な発展が展望できることにある。事実、九二年法の「地域民主主義」改革には、行政当局が仲介する組織を固定化する傾向を排除しようとする問題意識が認められる。例えば、情報公開の推進は、様々な要求やテーマに基づく市民団体の結成を可能とするものであるし、地域を単位とした住民組織の活性化を促進するものである。ここには、「アソシアシオン媒介型地方政治」と「地域民主主義」改革との間に問題認識の共有があると推察されるのである。
  その具体的検証は次節において試みられるが、そこでは、カルティエ住民組織を中心とする市民参加の先進的実践を築いてきたグルノーブル市が取り上げられる。この中規模都市コミューンは、九二年法を待つことなく、行政サイドからの積極的な情報公開やカルティエ住民組織への支援がすすめられ、さらに、諮問型住民投票を自主的に実施した。ここに、九二年法の「地域民主主義」改革を実現させる現実的規定要因が集約されているといっても過言ではない。

第二節  グルノーブル市における「地域民主主義」の実践
  一九八三年のコミューン議会選挙以来、フランス国内では、「地域住民との対話を強化」し、「市当局の新たな実践を拡張しようと試みる」ため、様々な地方公共団体で様々な発議がなされるなど、地域民主主義が市民たちにとって最大の関心事になっているといわれる。しかし、グルノーブルに関してみる限り、地域民主主義はかなり長期にわたる「現在進行中」のものであり、地方政治世界における「 独自方式 」の一つであると位置づけられる(19)。また同時に、グルノーブルの特殊性は、「地方における組織世界の急激な発展」や市当局と諸組織との「緊密な関係」のなかに、さらには、コミューン内部の地方分権化を先駆的に実現しようとした政治的意思のなかにあるといわれる(20)。つまり、グルノーブルは、地域民主主義とアソシアシオン媒介型地方政治の双方を結びつけた点において、先進的都市とみなされるのである。この点で、マビローが、フランス地方政治における今後の改革点を、住民の要求に基づく情報公開やカルティエ委員会の確立と位置づけるとき、その具体的事例として、我々は、グルノーブル市(レジオンローヌ・アルプ、県イゼール)を想起しないわけにはいかないであろう。
  ここではまず、「グルノーブル方式」と呼ばれる独自の方式を確立した一九六〇年代後半以降のグルノーブル市政史を、産業や人口動態なども参照しながら、地域住民組織を中心とする住民参加を構想したをH・デュブドゥ(Hubert Dubedout)の左翼市政(一九六五−八三年)から、都市経営的観点から全住民との対話を模索したA・カリニョン(Alain Carignon)の右翼市政(一九八三−九五年)への転換として概括する。次いで、それぞれの市政の住民参加政策を検討する。
  (一)  グルノーブル市の概要と二つの市政
  グルノーブルといえば、「進んだ技術による工業生産物を通して、一部の経済界にその国際的名声が広まっていた(21)」こと以外には、ドキュメンタリー映画「白い恋人たち」の題材となった第一〇回冬季オリンピック(一九六八年)が開催されるまで、国際的にはほとんど知られることはなかったといわれる。後にみるグルノーブル市の元メールであるデュブドゥの分析を整理すれば、この中規模都市を特徴づける上で重要なのは、この都市に発展が著しい科学技術とそれに伴う都市部での人口急増、さらにそれに続く、住民参加を視野に入れた都市計画の推進ということになる。
  グルノーブルとその周辺人口密集地域の発展は、工業生産の発展をみた一九世紀からすでに開始したといわれる。第二次世界大戦以前には、水力発電、アルミニウム、セメント製造、製紙、諸金属工業などを主力産業としていたが、戦後は、機械・電気・科学の分野へとその重点を移行し、さらに七〇年代には、原子力・電子工学・サイバネティクスの分野での発展が著しいという(22)。こうした産業の発展は、外部からの人口流入として現れた。一九四六年には一〇万名弱であったグルノーブル市の人口は、一九九〇年時点で一五万七五八名(三二のコミューンからなるグルノーブル都市圏では四〇万四七三三名)となっており(23)、都市圏でみればローヌ・アルプ(レジオン)のなかではリヨンに次ぐ第二位である(イゼール県内では第一位の県庁所在地)。表2から明らかなように、一九五〇年代から六〇年代にかけて、グルノーブル市では急激な人口の増大を経験する。こうした一九五〇年代以降におけるグルノーブル市の人口急増は、都市化を誘発したが、そのコントロールが不可能なまでに拡大を続けた。そして、「必要不可欠の市民施設・都市装置(ゴミ処理施設、下水道、学校・・)」は、都市計画のないまま「危険なまでに不足した状態(24)」に陥った。一九六五年に始まるデュブドゥ市政は、こうした都市問題への対応策と目前に迫った冬季オリンピック大会の準備を同時にすすめるべく、「第五次経済社会開発計画」に取り組むことになった。しかし、デュブドゥによれば、これらは市政にとって「基本的な目標」ではなかったとされる。つまり、この左翼市政が目指したのは、「地区や企業や文化団体の活動家たちの支持をうけて、継続的な対話をおこない、諸『中間団体』との協力を通して、住民に関する問題の決定の立案・策定過程への住民自身の参加を可能にすること」にあったのである(25)。こうした取り組みが、後述のように、「グルノーブル方式」として知られる住民参加の先進都市としてグルノーブルの名を世界に知らしめることになる。   原子力研究センターのエンジニアであったデュブドゥは、本格的な政治活動を、GAM(Groupe d’Action Municipale(26))の代表メンバーとして開始する。一九六五年におけるグルノーブル市の選挙では、この組織のメンバーとして社会党や統一社会党と共同し、勝利を収める。こうしてデュブドゥは、グルノーブル市の新しいメールに就任したが、七三年には社会党に入党し、国民議会選挙でも勝利して、国会議員を兼職するに至る。七七年の選挙では共産党も参加し、三選を果たしたが、八三年のコミューン議会選挙では、一八年続いたデュブドゥ長期市政にも翳りが見えはじめ、共和国連合(RPR)のカリニョンにメールの座を奪われる。皮肉な結果ではあるが、国政レベルではミッテランを大統領とする左翼政権が成立し、デュブドゥは自らの実践をかなりの点で成文化したといえる地方分権法案に社会党議員として賛成したが、翌年のコミューン議会選挙ではカリニョンに敗北し、RPRの市政が成立したのであった。こうして、左翼政権が実施に移した地方分権改革は、グルノーブルにあっては、ゴーリストたちにより実践されたのである。
  その背景には、二度にわたる石油ショックの影響から抜け出しきれずにいたヨーロッパ経済の問題と、それに伴うグルノーブル市全体の低迷という問題があったと推測される。こうした低迷の傾向は、増加傾向にあった人口が、七五年から八二年の間に減少に向かったことにも現れていた(表2参照(27))。そして、表3からも明らかなように、外国人の総数には変化がなく、全体に占める比率は一一・四%(一九七五年)から一二%(一九八二年)へと高まる一方、その内訳においては、南欧諸国出身者の比率が下がる一方で、アルジェリアやその他の諸国出身者の比率が高まっていた(28)。こうした現象は、市民の日常生活においては、失業不安として受け止められる。従って、左翼市政は、「雇用・財政・環境」という三つの指標において失敗したとみなされ、とりわけ、雇用と財政においては、その若い候補者の方が、改善へのパースペクティヴをもっているとみられていたという(29)


表2 グルノーブル市における人口の変遷 (単位:名)
1962年 1968年 1975年 1982年 1990年
市の総人口 155,677 161,240 165,746 156,490 150,758
Denis Bonzy et al., op. cit., p. 28. L’e´tat de la FRANCE 96-97, 1996, p. 373.


表3  グルノーブル市における外国人の出身国別人口   (単位:名)
アルジェリア イタリア スペイン ポルトガル その他の地域 合計
1975年 4,063 6,381 1,980 1,448 4,524 183,970
1982年 5,222 4,128 1,103 1,430 6,349 182,310
7年間の変化率 +29% -35% -44% -1% +40% -1%
Denis Bonzy et al.,op.cit.,p.35.


  カリニョンは、非常に若々しく(当時三四歳で人口一〇万人以上の都市のメールとしては最年少であった)、政治家と言うよりは経営者的感覚を備えた新世代の地方議員を体現していたといわれるゴーリストであった(30)。彼は、左右の党派性よりも、グルノーブルの住民参加という伝統を発展させることで、デュブドゥを超える必要があった。しかし、三選を目指した一九九五年のコミューン議会選挙の直前、市長自らが政治汚職に関わったとして逮捕される。こうして、地方の有力者を失い、混迷を深めたグルノーブルの九五年コミューン議会選挙は、社会党やエコロジストらが勝利を収め、国会議員を兼職する社会党のM・デスト(Michel Destot)がメールに就任することで、再び左翼市政へと転換する。一九九五年といえば、ミッテランからJ.シラクへと左右の政権交代があった年である。その点で、グルノーブルで起こったこの出来事は、もう一つの皮肉であるといえるかもしれない(31)
  (二)  デュブドゥ市政の都市政策と情報公開
  デュブドゥは、人口の急増のなかでグルノーブルに体系だった都市計画の必要性を痛感し、都市問題の学際的研究と明確な都市戦略を市民の監視と参加を基盤にして推進しようと考えた。彼は、人口の膨張により「なりゆきまかせにしていたのでは住民の総体を支えきれなく」なったこの都市には、「社会関係ならびに住民と環境の関係の新しい体系」が必要であるとして「新しい都市政策」を構想するが、同時に、「都市発展に対する市民参加」の必要性も、市政担当者として自覚していたのである。この構想は、「経済的・社会的・空間的観点による問題把握」と結びつけられることで、「都市計画プランを検討し、それを承認させ、その実施を監督すること」にある「 都市計画公社 」の創設(一九六六年)として、まず実現された(32)。つまり、従来、建築家や建設技術者のみにより担われていた都市計画は、社会学者・経済学者・統計学者などが加わった学際的研究を求められていたが、そのなかで、都市の単なる量的拡大とは区別される「都市の発展」という考え方が明確化されるようになり、都市内部における社会的・経済的階層分化を抑制する都市戦略として「政治秩序の構想」が必要となるという。こうして、国家官僚から自律した都市の経済計画をコントロールできる地方の公的機関が重要性を高めることになった。国家からの自律という点で、ここには高い「政治性」がみとめられるが、デュブドゥは同時に次の点を見落としていなかった。すなわち、こうした政治性が、「都市使用者(=市民)の監視と参加という、はっきり表現された意志によって平衡が保たれていないかぎり、最も危険な技術主義に陥る恐れ(33)」がある、と。こうして彼は、グルノーブルにおける市民参加の具体化を開始する。
  デュブドゥは、市民参加の目的が「民主主義の実践に日常的現実を与え、都市政策の実現とグルノーブルの都市整備を通して新しい都市文明を建設することに寄与しつつ、個人と集団が自らの運命の支配者になること(34)」にあるとしたが、より具体的には、都市整備の対象と提案された解決策について市民との間に論争と対決を惹起することで官僚主義的な非公開主義を克服し、都市内部の主要団体に発言の機会を与えることで資本主義特有の都市建設における私的体制に対抗しようとしたのである(35)。しかし、さらに注目すべき点が二つある。すなわち、一方では、「都市全体の構成員の利益を守るための構造」をもち、そのために組織された「連合体」として、ここでは「カルティエ協会(Unions de Quartier)」が想定されていた点であり(36)、他方では、その主要な任務が、当局サイドからなされる情報提供(情報公開)を基礎に、住民の様々な参加形態をより強力なものとして実現することにあるとされていた点である(37)。そして、これこそが「グルノーブル方式」とよばれる住民参加の姿であった。
  このカルティエ協会は、当時、グルノーブル全体を網羅する勢いで各所に設立されており、一九六〇年一〇月一三日には、それらの連絡組織として「カルティエ協会連絡委員会(Comite´ de Liaison des Unions de Quartier)」が設立され、翌年の四月に正式に公表されていた(38)。デュブドゥ市政の誕生は、この協会(および連絡委員会)が、グルノーブル市政全体のなかで「制度化」されることを意味していた。デュブドゥ市政が、市議会議員に対するコントロール役として、この「中間諸団体」を高く位置づけていたことはすでに述べた。他方で、この連絡委員会は、この市政の誕生を「ある意味では権力の獲得」と位置づけながらも、財政的援助の問題も重なったために、行政に対して独立したスタンスをどのようにして確保していくのか、その後もかなりの議論を重ねたとされる(39)。さらに、都市化によって惹き起こされた「新しいコミュニケーションの様式」がカルティエ単位での要求集約形式に変化を与え、様々な要求をもった市民たちが社会団体を次々と設立させていくなかで、カルティエ協会にとっても、自らの存在意義を改めて明確化すべき段階がすでに七〇年代に訪れていたのである(40)
  以上の議論により、マビローの理念的提起であったアソシアシオン媒介型地方政治は、六〇年代中期以降のグルノーブルに、その萌芽的事例を見いだすことができたといえる。つまり、市当局が積極的に情報公開をすすめる一方で、カルティエ住民組織は自らを仲介者として日常的な住民参加形態を模索していたが、これらは地域民主主義の一環としてすすめられた実践であった。しかし同時に、この時期のグルノーブル市政とカルティエ組織は、もう一つの課題に直面していた。すなわち、カルティエ組織が行政側に接近しすぎることで、行政側が優位に立って住民組織を主導・再編成したり、これらの組織を特権化された団体とみなすようになる傾向をどのように回避するかという問題である。このように、先述したアソシアシオン媒介型地方政治に内在する二つの側面(全住民を視野に入れた参加促進の可能性と当局主導による地域組織再編と住民包摂化の危険性)は、七〇年代のグルノーブルですでに確認されていたことになる。そして、これらの課題は、八二年の地方分権改革や八三年の市政転換によって、さらに新たな課題として捉え直されていくことになる。
  (三)  カリニョン市政の住民参加政策と住民投票
  一九八三年の市政転換以降、グルノーブルは地域民主主義の新たな時代を迎えた。このことは、この若い新市長が独自の住民参加政策を模索した点と堅く結びついている。彼が率いる「新しい都市経営スタッフ(41)」は、一九八三年以降活動を開始するが、ここでは「従来以上に直接的な地域民主主義の実現」がとりわけ重視されたという(42)。つまり、新市政は、基本的政策を前市政から継承しただけでなく、前市政を超えようと自らの独自性を打ち出すことで、グルノーブルにおける直接民主主義をさらに展開させたとみることが出来るのである。
  カリニョン新市政の住民参加政策の一つの実例としては、情報公開の推進が指摘できる。具体的には、グルノーブル市議会議事年報や各セクター(secteur(43))の活動報告書の定期的発行、そして、従来住民組織の代表が参加していたセクター評議会の全住民への開放などが挙げられる(44)。コミュニケーションの技術的向上とともに、いままさに、フランスでは、地方における双方向的な政治的コミュニケーションのあり方が模索されている。この点でも、九二年法の「地域民主主義」改革は、地方政治の変化に対する制度的対応であったといえる。そして、八〇年代以降さらに発展を遂げたグルノーブルにおける取り組みは、フランスにおけるこれらの動向に先駆けたものと評価される。
  しかし、それ以上に、一九八三年六月二二日に実施された自主的な住民投票が、「従来以上に直接的な地域民主主義」の実例として、指摘されなければならない(45)。この住民投票の実施は、「人口一五万人以上の都市では初のコミューン住民投票(46)」であった。フランス南東部に位置するこの中規模都市コミューンでは、当時、デュブドゥ前市政が都市計画の中核として位置づけてきた「 市電 建設計画」を、市政転換以降どうしていくのかが問題となっていた。この問題解決に、カリニョン新市長は、コミューンにおける自主的な住民投票を提起するとともに、市当局はその投票結果に従うとした(47)。ここでは、明らかに、「都市使用者」である住民による明確な意思表明が必要となっていたのである。新市政成立後、三ヶ月にも満たない時期のことであった。また、この投票では、あらゆる意見について議論が尽くされるよう、賛否両派の活動費用が公費により負担されている。投票率三七%であったこの住民投票の結果は、結局、投票者の五三%が「計画に賛成」を表明することで決し(反対は四七%)、これを受けたグルノーブルのコミューン議会は、六月二九日に計画実施の最終決定を下すに至るのである(48)
  歴史的に構築されたこれらの先行事例が、九二年法の「地域民主主義」改革における諮問的住民投票の導入に大きな影響を与えたことは、容易に推察されるものがある。こうした画期的な住民投票が実施される背景として、例えば、ボンジィらは二つの要因(財政問題など争われた「争点の重大性」と伝統的におこなわれてきた国民投票と限りなく近い法的条件で実施するという「 国民投票 規則の尊重」)を指摘するが(49)、さらに強調されるべき要因は、デュブドゥ前市政との違いを強調するためにカリニョン新市政がとった、新たな住民参加政策の基本性格である。デュブドゥ前市政が、主要にはカルティエ住民組織を仲介者とする住民参加のあり方を模索してきたのに対し、カリニョン市政は住民組織との対話だけでなく、全住民との定期的対話を視野に入れていたという点において(50)、「従来より直接的な地域民主主義の実現」を模索していたのである。確かに、カリニョンが、デュブドゥ前市政との間に強調しようとした違いは、前市長と異なる党派(つまり、RPR)に属していたという点で、政治的パフォーマンスとしての性質を帯びているといえるかもしれない。しかし同時に、新市政が、住民参加の伝統あるグルノーブル市の参加制度を前市政から引き継ぐだけでなく、独自の路線においてさらに発展を模索したと評価されるとすれば、その要因は、グルノーブル市民のなかに築かれた政治的伝統や地方分権化の一九八〇年代という時代的要請をみておかなくてはなるまい。一九八二年法の地方分権改革を起点とする地域社会の変容は、七〇年代以降フランスにも発展をみたアソシアシオンの増大とともに、地域住民組織を媒介とした市民参加の時代を要請していた。また、コミューン行政当局への権限集中は、住民との直接的な対話を模索させたのである。

(1)  J・ヘイワードは、この点に関する問題意識を、地方分権改革後の早い段階から表明していた。また、そこでの予測は、八二年改革による「知事ー名望家関係」の大きな変化は望めないというものであった。J. Hayward, op. cit.,邦訳、五一頁。
(2)  フランスの公選職兼任問題に関しては、岡村茂氏の二論文に詳しい。岡村茂「フランス地方分権化政策と公職兼任−ミッテラン改革の評価をめぐって−」(『社会科学研究年報(第二一号)』龍谷大学社会科学研究所、一九九一年)、同前「地方分権化政策の光と影−ミッテラン政権下における地方行政改革の問題性−」(西堀文隆編『ミッテラン政権下のフランス』ミネルヴァ書房、一九九三年)。また、この問題を、最新の資料に基づく「地方政治エリート」研究として検討している、次の論文を参照。Albert Mabileau,”Les e´lites politique locales, Les collectivite´s locales en France, La documentation Francaise, 1996.
(3)  Albert Mabileau,”La de´centralisation en retard, Les Cahiers franais, n゜. 256, L’e´tat de la de´centralisation, 1992, p. 68.
(4)  Jacques Rondain,”Forte concentration des pouvoirs, Proble´mes politiques et sociaux, n゜. 708, De´centralisation et de´mocratie locale, Dossier constitue´ par Jacques Palard, La Documentation Francaise, 1993, p. 17.
(5)  Albert Mabileau,”De la Monarchie Municipale a` la Francaise, Pouvoirs, n゜. 73, La De´mocratie Municipale, Seuil, 1995.
(6)  Albert Mabileau, op. cit., 1992, p. 68.
(7)  Albert Mabileau, op. cit., 1994, p. 130.
(8)  ibid., p. 129.
(9)  Pierre Sadran,”La de´mcratie locale, Les collectivite´s locales en France, La Documentation Francaise, 1996, p. 116.
(10)  Albert Mabileau, op. cit., 1994, p. 131.
(11)  この問題に関する日本の研究としては、さしあたり、樋口陽一『近代国民国家の憲法構造』(東京大学出版会、一九九四年)、三五ー九七頁を参照。また、ここでは、最近のフランスには、「ルソー=ジャコバン型」国家像から「トクヴィル=アメリカ型」国家像への移行がみられるとして、その具体的事例の一つに「地方分権改革」が挙げられている。
(12)  カルティエ(quartier)は、「住区」と訳されることもある。例えば、人口二三〇万を超えるパリ市は、二〇の行政区の各区に、四つのカルティエ(語意からいえば、カルティエとは四分の一を意味する)があり、合計八〇のカルティエが存在するとされる。これらのカルティエが、たんに行政上の地理的区画にすぎないのか、何らかの社会学的な実態をもつものなのかをめぐって、いろいろな議論がなされてきているという。
中田実「フランスの都市住民自治組織」(名古屋大学社会学論集、第一一号、一九九〇年)、一頁参照。
(13)  Albert Mabileau, op. cit., 1994, p. 131.
(14)  P. Besnard, L’ animation socioculturelle, PUF, 1985.  中田実、前掲論文、一九九〇年。
(15)  Albert Mabileau, op. cit., 1994, p. 131.
(16)  ibid., p. 131.  また、こうした地域住民組織と行政との関わりを「指導者参加」型、「地域ボスの圧力団体」型、「政治的合意形成」型などとして区別できるといわれる。中田実、前掲論文、一九九〇年、一六頁。こうした行政と市民団体との関係をめぐっては、我が国でも新たな社会的問題として浮上しつつあり、フランスとの共通性が確認される。とりわけ、税制上の優遇措置を認めながら、それらの団体が行政から自律性を確保していくかが、重要な問題であるといえる。いずれにせよ、フランスにおけるアソシアシオン問題は、フランス地方政治研究の深化にとって鍵となるテーマであることは間違いない。地方における政治的コミュニケーションのあり方などにも着目しながら、今後こうした問題にも取り組んでいきたい。
(17)  Albert Mabileau, op.cit., p. 131.
(18)  フランスのカルティエ組織に関しては、中田実、前掲論文、一九九〇年を参照。今日のフランスでは、カルティエという地域空間そのものに対し、「コミューンと市民の中間に地域を基盤とする何らかのまとまりがあることは、とくに都市化のすすむ地域では、行政にとっても住民生活にとっても必要である」との認識が拡大しつつあり、「単なる地理的区画や観念のなかの存在に止まらず、地域自治(あるいは地域の自主管理)の単位として現実に機能しているとともに、分権化指向の強まりを受けて、その再生・強化が期待される」といわれ、カルティエが「自治の単位」としてあるためには、これを単位とする「住民の自治的組織」が存在しなければならないとされる。また、ここでは、地域住民組織を地方自治の主体と位置づける次のような指摘がある。すなわち、「四〇万とも五〇万ともいわれるフランスの任意組織のなかで、われわれが注目するのは、いわゆる地域住民組織であり、地域における住民自治と地域民主主義の発展を 主体的に担う住民組織の存在形態とその機能 、および特に行政との関係である」と(三ー五頁、傍点は引用者)。
(19)  Denis Bonzy et al., GRENOBLE;Portrait de ville avec lendmains, Didier Richard, 1988, p. 41.
(20)  ibid., p. 41.
(21)  ユベール・デュブドゥ「グルノーブルにおける都市政策と市民参加」、『岩波講座・現代都市政策』別巻・世界の都市政策(岩波書店、一九七三年)、七三頁。
(22)  同前、七三頁。
(23)  L’e´tat de la FRANCE 96-97, collab. CRE´DOC;e´d. sous la dir. de Serge Cordellier, E´lisabeth Poisson. -8e e´d. -Paris:La Decouberte, 1996, p. 373.
(24)  ユベール・デュブドゥ、前掲論文、七四頁。
(25)  同前、七五頁。
(26)  デュブドゥの呼びかけで、一九六四年に設立された無党派市民組織。マビローによれば、この組織は、数名の地方議員が結集して開始された「参加民主主義」を唱える運動体であり、この運動は、のちに提出された政府レポート(一九七六年の「ギシャール報告」など)の内容に、一定のイムパクトを与えるものであったという。Mabileau, op. cit., 1994, p. 128.
(27)  こうしたグルノーブルにおける人口の減少は、一八八〇年以来初めての出来事であるという。Denis Bonzy et al., op. cit., p. 36.
(28)  ibid., p. 35.
(29)  中田実「フランス都市の分権化と住民組織−グルノーブル市を中心に−」(山田・長尾編著『共育・共生の社会理論』、税務経理協会、一九九三年)、一二頁。
(30)  Denis Bonzy et al., op. cit., p. 16.
(31)  第二次大戦後、一九九五年までの五〇年間をみると、社会党を中心とする左翼市政が三一年間を占め、ドゴール派の市政は一九年間となっている。
(32)  ユベール・デュブドゥ、前掲論文、七五頁。
(33)  同前、八〇頁。
(34)  同前、七五頁。
(35)  同前、八〇頁。
(36)  同前、八二頁。これを媒介として、「(市政の)責任者と市民、自治権力とさまざまな社会団体、それぞれの間に、緊密な関係」の創出が期待されていたという(八一頁)。
(37)  同前、八四頁。
(38)  ここでは、当該委員会の「CLUQの歴史編纂グループ」が、一九九一年に提出した『CLUQの三〇年史』が参考になる。Groupe de
Travail sur l’Historique du C.L.U.Q.,”Trente Annees du C.L.U.Q., Asse`mble´e ge´ne´rale du 16 mai 1991, Comite´ de Liaison des Unions de Quartier de Grenoble, (Association Loi de 1991), p. 5.
(39)  ibid., p. 6-7.
(40)  ユベール・デュブドゥ、前掲論文、八六頁。
(41)  Denis Bonzy et al., op. cit., p. 15.
(42)  ibid., p. 45.
(43)  グルノーブル市は六つのセクターに区画されており、この区画はコミューンとカルティエの中間段階にあたる。各セクター内に、市内二二のカルティエが、規模に応じて二から六のカルティエが束ねられている。これは、デュブドゥ市政が一九七七年に、住民の共同生活のあらゆる場面で関与することが多くなっているコミューン当局内の「 分権化された専門部組織 」づくりを決定し、一九七九年から実施に移したものである。現在グルノーブル市では、この区画に評議会システムを設置することにより、行政と住民との合議システムのさらなる拡大を目指しており、『セクター評議会憲章(一九九一年六月二八日)』がカリニョン当時市長とトゥーロン当時CLUQ会長との間で確認されている。La Charte des Conseils de Secteur, 28 juin 1991.  また、こうした七〇年代末から見られた、「コミューン内部の分権化」の取り組みは、一九八二年法改革や社会党員により研究されていた人口一〇万人以上の都市における公選カルティエ評議会法案を先取りしたものであったといわれる。ibid., p. 43.
(44)  ibid., p. 48.
(45)  この点に関連していえば、こうした自主的住民投票の実施事例は、グルノーブルだけに限られるものではなく、フランスの各地方自治体の独自判断に基づいて住民投票を実施した例は、一九世紀末から今日までに少なくとも二五〇件を数えるといわれる。大山礼子、前掲論文、一九九五年、二一六頁を参照。氏は、九二年法により導入された「諮問型住民投票制度」に関して、「従来、各自治体によって自発的に行われてきた住民投票を制度化し、手続を整備したものといってよく、ボネ法案と比較すると内容的にはむしろ物足りなさが残る」改革であると評価する。
(46)  Denis Bonzy et al., op. cit., p. 47.
(47)  カリニョン市長(当時)は、この提案(第一九号)のなかで、次のような立場表明をおこなったといわれる。「グルノーブルの市電計画に関して、住民投票が実施される。これは、あらゆる論拠(利点や難点)が表明されたのちに実施される。こうした意見聴取の内容は、地方のすべての構成員の合意のもとで定められるものである。市当局は、その住民投票の結果に従うものであり、従って、単なる参考意見と位置づけるようなことはしない。」ibid., p. 47.
(48)  ibid., p. 48.
(49)  ibid., p. 47.
(50)  ibid., p. 47.


む    す    び


  現在、フランスは地方分権型社会へと着実に変貌を遂げつつある。一九八二年法を基本法とする地方分権化過程は、地域社会に自律的運営能力を要請した。こうした動向への対応として、「地域民主主義」の新たな展開が確認された。しかし、この展開が、制度改革の側面だけでなく、地方政治の構造変動という実態の問題としても検討された点は重要であった。すなわち、一九九二年法に基づく新たな地方制度の実施としてだけでなく、グルノーブルの事例でも明らかにされたように、地方政治の舞台に定着をみていた一つの運営スタイルの台頭として把握されたのである。この点で、アソシアシオン媒介型地方政治を一つの事例とする「 地域民主主義 」は、分権参加型デモクラシーの現代フランス版であると定義できる。
  フランス「地域民主主義」が地方政治のなかで実体化される背景として、一九八二年法の地方分権改革以降のフランス地域社会における二つの変化が指摘された。すなわち、一つは、メール(コミューン行政当局)への権限の著しい集中であり、もう一つは「アソシアシオン媒介型地方政治」の台頭である。前者の問題に対する危惧は、フランスの地方政治を研究対象とする多くの研究者から一貫して提出されてきた。しかし、フランスのコミューンにあるそうした伝統的統治スタイルに代替できるのは、いわゆる「直接民主主義モデル」ではなく、「アソシアシオン媒介型地方政治」であった。グルノーブルの事例研究では、こうした運営スタイルの存在が確認された。すなわち、ここでは、地域住民のアソシアシオンであるカルティエ住民組織を媒介とした市民参加の発展過程(一九七〇年代)と、決定権限の集中が著しいコミューン行政当局が住民との直接対話を模索する過程およびその一環としての自主的な住民投票の先進的取り組み(一九八〇年代)が、確認されたのである。九二年法の第二編「地域民主主義」は、こうした先行事例とフランス地域社会の変化を、二大改革(情報公開制度の拡大と諮問型住民投票制度の導入)として成文化するものであったと受け止めることができる。
  ただし、今回とりあげたグルノーブルの事例は、あくまでも、三万六千ほどあるフランスの多様なコミューンのなかの一事例にすぎない。しかし、他の地域にも、こうした事例は存在している。例えば、フランス北部に位置するアミアン市では、一八年間続いた共産党市政が一九八九年のコミューン議会選挙で敗北し、「地域民主主義」を公約に掲げた保守中道市政が誕生している。今後は、こうした他の地域の事例を取り上げながら、フランス「地域民主主義」の動向を、多角的に分析していきたいと考えるものである。
  また、本稿では、フランス「地域民主主義」を、分権参加型デモクラシー構想が制度的・実践的に具体化されたものと位置づけた。しかし、現代フランスにおける分権参加型デモクラシーの「構想」といっても、その内実や主体は、未だ不明確なままである。この構想は、おそらく、一九七〇年代におけるいくつかの思想潮流として整理できると思われる。すなわち、地域主義的市民運動やGAMの参加民主主義運動、さらに分権参加論を提起する内務官僚P.リシャールの思想など、一九七〇年代における分権参加型デモクラシーの様々な構想が一九八二年法の地方分権改革を推進する大きな力になったことは間違いないのであり、これらの構想が、フランス「地域民主主義」の制度化・実体化へとどのように結実していくのかに注目していきたい。分権化の過程にある地域社会は、下からの活力を要請するが、これらの構想は、いずれも、市民参加という自治的活力に立脚した地域社会の民主主義的発展を展望しているのである。
  さらに、今回の議論では、ヨーロッパ統合の問題がほとんど検討の対象とされていない。この問題は、経済政策を中心とするフランス国政上の問題としてだけでなく、国内の各地域に対して大きな影響を及ぼす強力な外的イムパクトとして想定されなければならない。事実、九二年法のなかには、ヨーロッパ統合への国内的対応を意識した規定も認められる。現代フランスにおいて続けられている地方制度改革の背景には、地方政治の実態や市民の運動、立法者の構想だけでなく、こうした外的イムパクトがあったことを見落としてはならないのである。