立命館法学  一九九七年一号(二五一号)六七頁(六七頁)




自己危殆化への関与と
合意による他者危殆化について

  


塩谷 毅






目    次
はじめに  ー問題の所在
第一章  ドイツにおける事例状況の整理
  第一節  総    説
  第二節  メーメル河事件とエイズ感染事件
  第三節  道路交通における違法態度事例
  第四節  麻薬事例                      (以上二四六号)
第二章  「被害者の承諾論」によるアプローチ
  第一節  ウルリッヒ・ウェーバーの見解
  第二節  ディーター・デリングの見解
  第三節  個人の自己決定の尊重と被害者の承諾による
        犯罪阻却
  第四節  承諾の対象と心理的内容
  第五節  生命・身体法益に対する被害者の承諾          (以上二四七号)
第三章  「客観的帰属論」によるアプローチ
  第一節  クラウス・ロクシンの見解  ー「規範の保護目的
        の理論」
  第二節  ハロー・オットーの見解  ー「因果経過制御理論」
  第三節  小    括                      (以上二四八号)
第四章  「被害者学的原則」によるアプローチ
  第一節  ラルフ・ペーター・フィートラーの見解
  第二節  小    括
第五章  「被害者の自己答責性原則」によるアプローチ
  第一節  ライナー・ツァツィクの見解
  第二節  ズザンネ・ヴァルターの見解
  第三節  「被害者の自己答責」思想と内容
おわりに  ー私見の整理と今後の課題          (以上本号)

第四章  「被害者学的原則」によるアプローチ


第一節  ラルフ・ペーター・フィートラーの見解
    フィートラーは、「合意による他者危殆化の可罰性についてー被害者学的原則の特別な考慮のもとでー(1)」と題するモノグラフィーにおいて、本稿で扱われている論点についての独自の解決提案を行った。
  彼は次の二つのことが重要な意義を持つことを指摘する。第一には、「具体的な危険を著しく増加させたことによって、被害者の要保護性が完全に欠落するということ」であり、これは「被害者学的モデルの本質的な特徴」である(2)。もう一つは、「規範的な観点で行われるべき危険分配(Risikoverteilung)の思考」である。そして、これは「我々の憲法の人間像に内在している自己の法領域に対する答責性」によって特徴づけられるとしている(3)
    では、彼は「憲法(基本法)の人間像」をどのように考えているのであろうか。彼は、エルマーを引用し(4)、以下のように述べている。
  ある一定の人間像の存在は、法秩序の機能能力(Funktionsfa¨higkeit)にとって絶対に必要なものである。それは、基礎問題の決定にとってと同様に、特殊問題の決定にとっても模範としての機能を持つ。我々の憲法の人間像は、基本法一条一項に従って、「人間の尊厳」の宣言から、疑う余地のない最高の価値を特徴づけられている。「人間の尊厳」は、存在論的に根拠づけられた「人間らしさ(Personhaftigkeit)」と、同時に本質的に、彼の「自己答責能力」によって規定されている。「人間らしさ」は二つの相反する価値、すなわち、「尊厳(Wu¨rde)」と「重荷(Bu¨rde)」を同時に含んでいる。
  「尊厳」−人は決して単なる客体にまでおとしめられてはならないからである。
  「重荷」−人は自分自身に対して答責的であることを課せられているからである、と(5)
    このような認識のもとで、彼は「被害者の自己答責」をそのまま「被害者学的原則(Das viktimologische Prinzip)」に結びつけている。彼は、以下のようなシューネマンが定式化した「被害者学的原則」を援用する。
  「社会侵害防止のための国家の最終手段(ultima ratio)として刑罰を科すことは、被害者が保護に値せず、保護を必要としないときには、見当違いなことである(6)」。
  そして、この被害者学的原則が「合意による他者危殆化」の問題状況においても考慮されるとする。
  すなわち、被害者学的原則の背景のもとで、彼は「(危険を)認識しながら危険状況に赴いた被害者が保護に値するかどうか」を問い、その結論は、「被害者が状況の危険を完全に認識してその危険に身をさらしたのであれば、彼に保護は必要ではなく、また彼は保護するに値しないのである」ということになるのである(7)
    以上のような「被害者学的原則」の思考が、彼の解決においては不法構成要件の次元で利益衡量の中に生かされてくる。彼は、「被害者の承諾」の基準によって解決しようという説のように、もっぱら「被害者態度」にのみ照準を合わせる思考や、その逆に、一定の「被害者態度」を全く考慮しない思考によっては、「行為者態度」と「被害者態度」の相互作用を適切に把握することはできないという(8)。そして、以下のように続けている。
  「利益衡量による解決、つまり、不法構成要件の次元での包括的な利益衡量による決定が奨励されるべきである。この衡量において、確実にかつ優先的に、危殆化された事象を惹起した者の態度が入り込む(9)」。
  そして、このことは刑法の目的からも結論づけられるとする。
  刑法の目的とは、「与えられた均衡状態を破って自己の自律領域を他人の負担に拡げようとする市民に対しても、脅かされる法益を保持する負担をおわせ、全ての市民に対して自律の権利から判断して同様の地位を保証しようとすることにある。一般的生活危険を越える結果発生の危険を自己の態度によって創出した者は、できるかぎり、発生しそうな損害を回避するためのすべての努力を払わなければならないのである(10)」。
  そして、利益衡量の一般的な原理への考慮と並んで、誰が、どの程度侵害を導く危険をはらんだ状況を作り出したのか、つまり、誰に生じた法益侵害を客観的に帰属させるべきかについての慎重な検討が必要であるとしている(11)
    以上のような観点から、彼は諸判決について以下のような評価を下している。
  たしかに、「オートバイ事件(12)」や「飲酒運転への同乗事件(13)」においては、自己答責性原則を根拠とする帰属の阻却が為されなかった。これは、前者の事件では被害者がオートバイのブレーキに欠陥があることを知らなかったので意識的に危険を引き受けることができなかったためであり、後者の事件では同乗者(被害者)が飲酒のために自己答責的な決定をすることができなかったためである(14)。しかし、以下の諸判例においては、被害者学的検討でもって無罪判決が獲得されるべきであった。
  まず、「オートバイ競争事件(15)」においては、生命危殆化への同意が無効であるとされ、被告人は過失致死によって処罰されたのだが、この事件における可罰性にとっては、実際には裁判所の以下の認定が意味を持っていた。すなわち、被告人は被害者よりも危険をより明確に見通していたというのである。しかし、以下のことに注目すべきである。被害者は追い越されまいとしてジグザグ運転をし、その結果事故にあったのであって、まず第一にオートバイ競争と結びついた高度な危険から事故が発生したというよりも、むしろ被害者の運転の「無統制」から事故が発生したというべきなのである。それ故、競争のパートナー(被告人)は無罪を言い渡されるべきであった。なぜなら、被害者が具体的な危険強度を高めたのであり、それ故、彼が唯一の答責性を負うべきだからである、と(16)
  次に、「エイズ感染事件(17)」においては、以下のことを指摘する。
  従来からの行為支配に対する決定基準は、このような状況においては役に立たないことは明白である。自己危殆化への共働が話題になっているのかもしくは合意による他者危殆化が話題になっているのかを判断することは、不可能であると思われ、行為者と被害者は合意による性交においては同じ程度に関与し合っているのである(18)。被害者の生命の危殆化は、確かにエイズ感染者からのみ出発するものであるが、しかし、それは合意による性交においてパートナー(被害者)の積極的な態度によってのみ現実化しうるものなのである、と(19)
  最後に、「メーメル河事件(20)」に対しては、以下の点を指摘している。
  この事件では、学説において、合意による他者危殆化であるのか自己危殆化への関与であるのかが争われたが、従来からの限界基準を適用するならば、合意による他者危殆化が問題になっていることは明らかである(21)。二人の乗客は、彼らには予見不可能な、彼らがもはや制御できない展開に我が身をさらしたのであり、その意味で渡し守が危殆化を「制御」したのである。渡し守の職業経験を考慮すれば、ライヒスゲリヒトの「二人の乗客は、完全に渡し守と同程度に意図された運航(渡河)の危険を見通していた」という認定は、少なくとも疑いのあるものなのである。ライヒスゲリヒトの無罪判決は、至る所で賛同を受けているが、それはライヒスゲリヒトが、意識的にか無意識にか、乗客の自己危殆化決意の自由答責性に専心していたからである(22)。正当にも、ライヒスゲリヒトは、本来故意犯において考えられた行為支配の観点による限界基準を無視し、合意による他者危殆化を自己危殆化と同等視し、自己答責原則の顧慮のもとで、誘致、可能化、促進に義務違反の非難を結びつけなかったのである、と(23)

(1)  Ralf -Peter Fiedler, Zur Strafbarkeit der einversta¨ndlichen Fremdgefa¨hrdung -unter besonderer Beru¨cksichtigung des viktimologischen Prinzips, 1990.
(2)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 175.
(3)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 175.
(4)  Manfred Ellmer, Betrug und Opfermitverantwortung, 1986, S. 237ff.
(5)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 119.
(6)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 122.
(7)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 183-193., Vgl. Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993, S. 10.
(8)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 178.
(9)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 179.
(10)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 179.
(11)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 181.
(12)  RG JW 1925, 2250ff.
(13)  BGHSt 6, 232ff.
(14)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 183.
(15)  BGHSt 7, 112ff.
(16)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 185.
(17)  BGH NStZ 1990, 81f.
(18)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 189.
(19)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 190.
(20)  RGSt 57, 172ff.
(21)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 191.
(22)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 192.
(23)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 193.

第二節  小    括
    「被害者学的原則」は「法益主体の法益保持義務」ともいうべき思想と密接に関連しているように思われる。法益主体は自己の法益を侵害から守り、保全する義務を負っているのであって、法益保全のための刑法の発動は、そのような義務を果たした市民に対してはじめて向けられていると考えられているようである。
  フィートラーは以下のように述べている。
  被害者学的原則の顧慮のもとで、合意による他者危殆化の事例を適切に取り扱おうとする者は、過失行為者の不可罰性をたとえば以下のような思想によって論拠づけうるであろう。すなわち、緊急状態にあるわけではないのに、完全に危険を認識してその危険に自己の法益をさらした法益主体は、単に過失的に行為しただけの行為者よりも重く罪を犯している(versundigen)のであるという思想である、と(1)
  「被害者が保護を必要としないとき」に刑法の発動は控えられるべきであるというのは、「必要としない」主体が被害者個人の主観に設定されるならば、被害者(法益主体)の「自己決定権」思想、つまり、「被害者の承諾」による犯罪阻却の思想に通じていくであろう。
  問題は「被害者が保護に値しないとき」も刑法の発動は無意味であるとの部分である。このままでは、どういう場合に「被害者が保護に値しない者となるのか」が未解決なままである。「過失相殺」類似の発想でもって、被害者の慎重さを欠く態度が、それだけで彼を刑法による保護から駆逐し、もはや彼に対する第三者の法益侵害行為には刑法規範が向けられないことがここから短絡的に導かれるのであろうか。もしそのように解釈され得るならば、相当に問題であると思われる。
    本稿での問題状況においては、被害者は「危険を認識していながらその危険に近づく者」である。そして、フィートラーはこの場合に被害者が保護を必要とせず、またそれに値しないということを承認している(2)。たとえ危険を認識してそれに身を委ねたとしても、結果発生を望まず結果の不発生を信じていた被害者は、少なくとも彼の主観においては「(刑法による)保護を必要としな」かったわけではあるまい。その意味では、被害者は「刑法による保護に値しない」者と考えられていたように思われる。しかし、危険を認識してそれに近づく者を刑法による保護に値しない者というためには、両者を結びつけるための十分な説明が必要であろう。「一般的生活危険を越える結果発生の危険を自己の態度によって創出した者は、できる限り脅かされた危険を回避するためのすべての努力を払わなければならない(3)」との被害者における義務の指摘がフィートラーにとってのその説明であろうが、ツァツィクも指摘するように(4)、そこには「論理に飛躍がある」との批判は免れないように思われる。
    また、フィートラーはドイツ基本法が想定する「人間像」をこの被害者学的原則の土台においている(5)が、彼の考える人間像に対しては、以下のようなツァツィクの批判がある。
  「憲法の人間像は、個々人を、個人に不法を与える他人との関係において規定しているのではなく、また、積極的に及び消極的に分割するのでもなく、むしろ、基本的に人間を法人格として規定しているのであるから、人間をまず第一にお互いに積極的な関係において規定しているのである。このような自己答責概念からは、個々人に危険が迫っていてそれを避けることがある程度自己答責の防衛力によってなされなければならない個々人の状況へとは直接に移行され得ないのである。フィートラーが、様々な視点が紛れ込んだ行為者利益と被害者利益の比較衡量という結論に達したことが、この原則がそこでは適切に規定されないということを明らかにしているのである(6)」。
    ツァツィクは、そのほかに、存在論的・事実的な次元での被害者学的発想が、規範的な次元での解決を直接に導くのではないことも指摘している。彼は以下のように言う(7)
  「被害者学的原則が由来を負っている関連を考えるならば、被害者の自己答責原則が被害者学的原則とともにはなされ得ないということが明らかに示されよう。被害者の理論としての被害者学は、その由来とその真の場所を犯罪学の中に持っている。被害者学は犯罪学において、一九七〇年代初期以来注目を引いてきた。被害者学の根本思想は、犯罪に対する探求の視野を拡張し、被害者をも考慮の中に取り込むという点にある。つまり、行為者と被害者は二人とも罰せられる(couple penal)のである」。
  「しかし、現象のこの犯罪学的把握は法的な帰結を導き得ない。なぜなら、誰かが被害者であるという事実から、彼が公正であるか否かという問題は帰結されないからである」。
    「犯罪の発生に対して被害者がどれだけの寄与をしたのか」「被害者にも不注意な点があったのか」という事実的な問題の確定に加えて、「被害者に、行為者の犯罪性を減少させるという意味での、結果発生に対するどれだけの答責性を認めることができるか」という規範的な観点からの検討も行って初めて、行為者の犯罪阻却効果が語りうるであろう。それを、第五章において検討することにする。

(1)  Ralf-Peter Fiedler, Zur Strafbarkeit der einversta¨ndlichen Fremdgefa¨hrdung -unter besonderer Beru¨cksichtigung des viktiomologischen Prinzips, 1990, S. 145.
(2)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 183ff.
(3)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 179.
(4)  Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993, S. 11.
(5)  Fiedler, a. a. O., (1), S. 119.
(6)  Zaczyk, a. a. O., (4), S. 10f.
(7)  Zaczyk, a. a. O., (4), S. 11f.


第五章  「被害者の自己答責性原則」によるアプローチ


第一節  ライナー・ツァツィクの見解
    ツァツィクは、「刑法的不法と被害者の自己答責」というモノグラフィーにおいて(1)、本稿での問題状況において「被害者の自己答責」が重要な意味を持つことを指摘した。
  まず、彼は「自己答責」の概念について、「被害者の自己答責」概念の使用が恣意的なものにとどまるべきでないならば、この概念は法律学的な基礎決定を必要とするとし(2)、以下のように述べている。
  「自己答責」概念は直接に「個人の自由」と関連している。人が作為及び不作為に答責的であり得るということは、人が自らの現存在において余すところ無く決定されていると理解されるのではなく、むしろ人は決定する機関として問いかけられ得るということを意味している。人は法則に従ってではなく、法則の表象に従って行為するのであり、つまり人は意思を持っている。カントは定言的命法「君の格率が普遍的法則となることを欲し得るような格率に従ってのみ行為せよ」において、格率の普遍化可能性の思想を指し示していた。カントは、自由と定言的命法は相互に重なり合って引き合いに出しうるものであるということもできた。定言的命法は自由の認識根拠であるが、自由は定言的命法の存在根拠である、と(3)
  続けて、「法的意味における自己答責」について、以下のように述べている。
  法はある人の他人との関係から組み立てられるものであるから、その基礎は外的な間人格的な関係である。従って、「法的意味における自己答責」は、個人の自己答責を「他人との関係」において把握することによって特徴をはっきり示される。行為は、個人に自己決定された行為として理解されるべきであると同時に、他人との関係を持つ行為としても理解されるべきである。それによって、自己答責はここでは二重の意味を持つ。すなわち、一方で行為者の実行に移された自由が問題になり、他方で彼の行為の法的正当性の問題において、他人(被害者)の自由への敬意が問題になる。ある者と並んで、自己関係的な統一体としての他人は同一の要求をもって生きている。個人は他人という自由な現存在を承認することにおいて正当性を決定し、共通の法の世界を構成する。そのような「自己答責」は、個人から離れた国家の次元で影響を持つ法原則なのである、と(4)
    このような個人の「自己答責」は、彼によれば「不法の次元で」問題になるものである。彼は「刑法的不法」を以下のように説明する(5)
  「刑法的不法」は、個々人の人格性への攻撃、つまり個々人の現実の自由を縮減させることである。相互に保障しあい、法規範によって担保される自由の関係が、ある一方(行為者)の行為の過ちによって、もう一方(被害者)の自由領域が抑圧されるというように作り替えられてしまうのである。不法は法の否定なので、それは行為者の自由領域並びに被害者の自由領域の関係を示す。不法の通常の事例において、関与者達は、一方は積極的部分、もう一方は消極的部分として対置し合っているのである。
  このことから以下のことが導かれるとする(6)
  「自己侵害は、それ自体として不法を意味することはできない」。なぜなら、自分自身に対して向けられた行為としての自己侵害は、「法」に特有な「間人格的な関連」を欠いているからである。それ故、刑法的な意味において、自己の物の破壊は器物損壊ではなく、自殺は殺害ではない。
  もちろん、この命題の限界もここで考えられなければならない。自己侵害は、外的な結果を顧慮すれば、つまり「他人のパースペクティブ」からみれば、侵害であり、毀損である。とりわけ、人の現存在(身体及び生命)の自己侵害においては、「他人の侵害」の表象が生じる。自己侵害が、とりわけそれが「生命」に向けられた場合には、法的諸関係の社会的な次元のために、他人による阻止行為を引き起こし、それは正当化されうるのである(7)
    このような考察に基づいて、「被害者の自己答責」の観点から、「意識的自己侵害の事例 ー 自殺関与事例」と「自己危殆化事例」についての考察が行われている。
  まず、「意識的自己侵害事例」について、以下の点を指摘している。
  「意識的な自己侵害」とは、被害者が結果を知りつつ自己の法益を侵害する行為を行い、その際、その結果も意欲していた場合である。ここでは、他人との相互作用が重要である。行為者と被害者のいずれが結果の発生に対して決定的な根拠をおいたのかが確定されなければならない(8)
  「意識的自己侵害の事例」において、「意思」、「行為」及び「結果」の統一体を作り出したのは、被害者自身である。被害者は行為の中心であり、またその目標でもある。被害者が「意思、行為、結果の統一体」を創出したという事情は、原則的に、侵害事象に対する他人(行為者)の答責を遮断するのである。そして、しばしば個々のもの(意思、行為、結果)は、事象全体に対してそれがどのような意義を持つのかを確定するために、分析的視点からそれらを孤立化させようとされるが、実際にはこの三者は孤立化させられないのである。むしろ、常に、行為の実行と引き起こされた結果の連関が考えられなければならない(9)
  そして、他人の答責は、自傷行為者が体質的な理由(刑法一九条、二〇条の意味における(10))から、事象の意義を正しく評価することができないか、もしくはその他の意思の瑕疵(錯誤や強制(11))が彼の決定の自己答責を侵害している場合に初めて、問題になりうるとしている。
    しかし、「自己危殆化」が問題になる状況においては、「意識的自己侵害事例」で見たような「意思、行為、結果の統一体(連関)」は存在しないという。「意識的自己危殆化」においては、「結果」は目標として行為連関に統合されることはなく、むしろこの連関の外に存在しているのであり、危険への意識的賛同を結果に対する決意と見ることはフィクションにすぎず、多くの場合は結果の不発生が信じられているのである、と(12)
  では、この自己危殆化において他人の正犯的答責が生じるのはどのような場合であろうか。彼は以下のように言う。
  「自己危殆化事例において、他人の過失正犯が根拠づけられるのは、侵害結果の発生は行為者が法益を偶然にゆだねたことに基づくのであり被害者がそうしたことに基づくのではない、と指摘されうる場合だけである(13)」。
  ではそれはどのようにして確定されるのか。彼は以下の二つの検討によって確定されるとする(14)
   @  「被害者が、法的に確固とした形態において、他人が侵害を導く経過を義務適合的な態度によって支配するということを信頼することができたかどうか」。
  これが肯定されるならば、自己危殆化は否定され、他人の答責が生じる。これが否定されるならば、自己危殆化が肯定され、他人の答責は生じない。
  そして、@において自己危殆化が肯定される場合には、さらに以下のことが点検されなければならない。
   A  「被害者が、法的に確固とした形態において、自己危殆化への歩みを行う可能性が全く彼に開かれていないということを信頼することができたかどうか」。
  しかしながら、これが肯定され他人の答責が生じるのは、例外的な場合だけである。なぜなら、一般的に他人に対する監督義務は根拠づけられないからである。
    これを、第一章で概観した個別事例に当てはめると次のようになる。
  まず、「メーメル河事件」については、以下のように述べている。渡し守は、当初、嵐の日に渡河することを危険であるからと拒んでいた。「渡し守が、自分たちの要請にも関わらず、危険状況を作り出すことを阻止できる」と、乗客が一般的に信頼することができたかを検討すべきである。しかし、これを肯定するには、渡し守に乗客に対する特別な監督義務を負わすことを認めなければならないので、結局これは肯定できない。従って、乗客の自己危殆化が肯定され、渡し守は無罪であるという(15)
  次に、「エイズ感染事件」についても、同様に自己危殆化が肯定され、行為者は無罪であるという。感染が一般に発生するかは不確かにとどまるのであり、「行為者」が侵害を導く事象を支配することを被害者は信頼することはできない、と(16)
  しかし、「道路交通における違法態度事例」については、自己危殆化は存在せず、行為者の過失的可罰性が発生するという。なぜなら、「行為者(運転手)は自己の運転方法を自己のそのときにもっている運転能力に合わせるか、もしくは全く運転しないかのいずれかにすべき」であり、加えて「彼が刑法的に義務を負わされている」ことを、被害者は信頼することができるからである(17)
  ただし、例外的に、飲酒などによって運転手が自動車などを運転することに全く無能力であると完全に見分けがつく場合には、被害者は上述したことを信頼することはできない。従って、そのような場合には被害者の自己危殆化が存在し、行為者は無罪である(18)
  最後に、「麻薬事例」においては、Aの検討が重要な意味を持つとする。すなわち、麻酔剤法の禁止の意味は、個人を麻薬の危険にさらさないことであり、被害者には自己危殆化への可能性が開かれていないということを、彼は計算に入れることができる。従って、この領域においては、被害者の自己危殆化は否定され、他人の答責が生じるのである、と(19)

(1)  Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993.
(2)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 2.
(3)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 19ff.
(4)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 23f.
(5)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 25f.
(6)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 26.
(7)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 63.
(8)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 32f.
(9)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 33ff.
(10)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 36f.
(11)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 37ff.
(12)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 49f.
(13)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 64.
(14)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 56f.
(15)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 58.
(16)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 58f.
(17)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 59.
(18)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 59.
(19)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 60f.

第二節  ズザンネ・ヴァルターの見解
    ヴァルターは「自己答責性と刑法的帰属」と題するモノグラフィーにおいて(1)、「被害者の自己答責性」の観点を「客観的帰属論」の次元で働かせた。彼女はまず、以下のように問題を提起する。
  過失結果犯(特に刑法二二二条の過失致死罪)において、包括的な「責任阻却」が、法益主体(被害者)の自己答責性から方法論上根拠づけられるのではなく、また事実的な結論から根拠づけられるのでもない。むしろ、問題の提起は詳細に検討されなければならない。
  危険創出に関する法益主体の共同過責(Mitverschulden)が問題になる場合においては、(広義の意味における)「帰属阻却の問題」が重要になりうるのであるが、そこではある一定の態度(行為)が「正犯の質」(Ta¨terqualita¨t)を欠いているかという問題も重要になりうるのである。この細分化は、危険創出において行為者と被害者が共働した場合には決定的な意義を獲得するのである、と(2)
    まず、「自己危殆化への関与」について、以下の点を指摘している(3)
  関与者の寄与が、たとえそれがどのような重要性であったとしても、危険実現に対する刑法的な管轄(Zusta¨ndigkeit)、従って、過失結果犯の正犯性を根拠付け得たのかどうかという問題が重要である。
  一般に、過失結果犯において、構成要件を総覧(Zusammenschau)し、刑法二五条を基礎にして行われるべき正犯領域の具体化は、ここでは、以下のような結論を導くのである。
  それは、関与者の危険創出への寄与が被害者のそれより下位に位置づけられることによって、関与者の行為は、(過失)結果犯の領域においては正犯性を根拠付け得ないのであり、それは共犯としての性格のものである、とされることである。
  そのような関与者の行為が「正犯の質」を欠いていることは、立法上、「故意」の共犯(関与)だけが可罰的であるとされている(刑法二六、二七条)ということのみから生じるのではないとし、以下のことがより重要であるとする。
  「自傷の領域においては、自己侵害が法益主体(被害者)自身の答責領域に属するならば、関与態度の当罰性(Strafwu¨rdigkeit)は欠如しているのである。関与態度の「当罰性の欠如」が関与者の行為の「正犯の質」の欠如に先行し、それを根拠づけているのである」と(4)
    次に「準共同正犯的関与」と呼ばれている形態については、行為者の可罰性の有無を「間接正犯としての要件」にかからせている。
  自己危殆化への分業的(すなわち準共同正犯的)関与においては、ここでは危険創出が外面上明確に関与者の答責領域に整序されうるのではなく、また法益主体自身の答責領域に整序されうるのでもない、ということから問題が生じうる(5)
  この問題に関しては、「原則的に不可罰とされる自己危殆化への関与としての整序が長所(利点)を獲得」し、その結果、関与者に間接正犯の要件が存在する場合にはじめて危険実現に対する刑法的な管轄、すなわち関与者の可罰性が根拠づけられるのである、と(6)
    そして、行為者と被害者の答責領域の限界付けに対しては「行為支配」概念を用いている(7)
  「自己危殆化関与者の答責領域の限界付けに関しては、構成要件の総覧及び刑法二五条から、複数当事者の共同作業において不可罰的な関与と過失の(間接)正犯との間の限界付けに対して、行為支配の基準が重要な意義を獲得するのである。行為支配に基づく行為者(正犯)と被害者の答責領域の限界付けは、ここでは、危険な態度に結果への目的性が欠けているということによって挫折することはない。なぜなら、外的事象の目標に向けられた操縦が、行為支配の典型であるとみなされうるにもかかわらず、規範的な管轄(Zusta¨ndigkeit)概念としての行為支配はなくならないからである。それゆえ、行為支配概念の内容を各々の事例状況の特殊性に基づいて具体化することは可能なことであり、また必要なことでもある」。
  それでは、この行為支配はどのような場合に認められるのであろうか。彼女は危険な態度の「決定資格」が関与者にあれば彼は間接正犯として可罰的であるという。
  「自己危殆化への関与においては、関与者に危険な態度の実現についての決定資格があれば(決定支配)、関与者は行為支配によって間接正犯(刑法二五条一項、二項)である。ここでは、関与者が優越的な危険の認識をもって決定された危険促進への寄与を行ったということが前提条件となる(8)」。
  つまり、「関与者が決定資格を持つ」とは、関与者に被害者より「優越的な事物知識」があるということをほぼ言い換えただけである。
    さらに、特に「生命法益」が対象となる場合、いわゆる自殺事例などでの「生命保護保証人」という可罰性の考慮に対しては、次のように述べている(9)
  「自分で自分自身を危殆化した法益主体は、関与者がたとえ生命保護の保証人である場合にも、原則的に発生した結果に対して自分で責任をもつ。ここから生じる保障義務の機能は、いずれにせよ自己危殆化関与の領域において、不作為の可罰性の領域に制限されなければならない。生命保護保証人としての地位は、ここでは、態度命令規範の創出のみを導きうるのであり、態度禁止規範の拡張は導き得ないのである」。
  また、保証義務の問題に関して、以下の点も指摘している。
  原則的に、先行する自己危殆化への関与に基づいて、先行行為から救助義務は生じない。なぜなら、単なる共犯形式の自己危殆化への関与においては、「直接的な危険の創出」がないからである、と(10)
    以上のような「自己危殆化への関与」と異なり、「合意による他者危殆化」においては、法益主体(被害者)の「処分の有効性」の観点から行為者・被害者の答責領域が限界づけられるとし、特に、刑法二一六条、刑法二二六条aによる立法的な価値決定、すなわち、生命及び身体の完全性に対する(故意的な)処分が制限されていることが、過失的侵害が問題になるこの領域においてどのような影響を及ぼすのかに注目している(11)
  まず、「合意による他者危殆化」において、行為者に「正犯の質」が存在するかについて以下のように述べている。
  確かに、刑法二一六条は故意的な殺害の領域において、法益主体の自己決定権よりも生命保護が優先することを示している。しかし、生命への「過失的」な侵害が問題になる限りでは、故意の場合と同じではない。なぜならば、故意的殺害のタブーは、我々の(つまりキリスト教的に特徴づけられた)社会倫理の基礎にある攻撃のタブーに一致するが、過失的侵害の領域においては、これと同程度のタブーは見つけられないからである。従って、刑法二一六条による故意的殺害の絶対的な禁止は、過失的殺害が問題になる状況には直接に移行され得ない(12)
  しかし、「合意による他者危殆化」において、法益主体による絶対的な処分の制限に賛成できないからといって、行為者の危険創出態度に「正犯の質」が欠如しているということにはならない。複数の者が共同する場合における「正犯の質」は、自手的・直接的な(eigenhangig-unmittelbar)危険創出から生じるのである。従って、「合意による他者危殆化」においては、原則的に、刑法的な結果管轄の創出に対する正犯的な態度が存在するのである、と(13)
  しかしながら、法益主体(被害者)の積極的行為答責性は、危険創出者(行為者)の注意違反のいわば「中和」(Neutralisierung)を導く、とする(14)
  法益主体と行為者との答責領域は客観的に限界づけられなければならないが、それには刑法二二六条aにおける議論が関連しうる。ここで、法益主体の答責性判断に対して、危険の惹起でもって追求された「目的」に対する評価を問題にする見解があり得る。しかし、それは妥当でない。過失結果犯において良俗違反判断の基礎におかれている基準への接近は、「客観的な危険創出に対する法益保護の手段としての刑法」という理解から行われなければならない。むしろ、どのような状況で、法益主体は自分自身に対して特別な、刑法的な保護を必要とするのかが問われなければならない。
  この問いに対するヴァルターの回答は、「危険の程度」に着目するものである。すなわち、冒された危険が特別に高度な危険強度を示すところでは、法益主体は自分自身に対して(刑法的に)保護が必要とされるのである、と(15)。その結果、法益主体の処分は制限されて、行為者の可罰性が導かれることになるのである。

(1)  Susanne Walther, Eigenverantwortlichkeit und strafrechtliche Zurechnung, 1991.
(2)  Walther, a. a. O., (1), S. 246.
(3)  Walther, a. a. O., (1), S. 246.
(4)  Walther, a. a. O., (1), S. 246.
(5)  Walther, a. a. O., (1), S. 247.
(6)  Walther, a. a. O., (1), S. 247.
(7)  Walther, a. a. O., (1), S. 145ff.
(8)  Walther, a. a. O., (1), S. 181ff.
(9)  Walther, a. a. O., (1), S. 205ff.
(10)  Walther, a. a. O., (1), S. 211ff.
(11)  Walther, a. a. O., (1), S. 227.  ここで、ヴァルターは以下のように述べている。「合意による他者危殆化においては、故意的な傷害や殺害が問題になっているのではなく、むしろ意識的な危険創出と過失的な傷害及び殺害が問題になっているので、ここでは刑法二一六条及び刑法二二六条aは直接に「干渉」するわけではない。それにも関わらず、両規定によって明らかにされる(生命及び身体の完全性に対する)「他者侵害のタブー」は、広範な影響を持つのである(S. 227.)」。
(12)  Walther, a. a. O., (1), S. 229ff.
(13)  Walther, a. a. O., (1), S. 231, 248.  ヴァルターは、自手的・直接的な危険創出は、危険実現に対する正犯的答責性の「典型(Prototyp)」であるとしている(S. 231.)。
(14)  Walther, a. a. O., (1), S. 248.
(15)  Walther, a. a. O., (1), S. 236.

第三節  「被害者の自己答責」思想と内容
    前章で考察したように、「被害者学的原則」は、まず第一に事実的・存在論的な次元において意味を持ち(1)、本稿での問題状況において、被害者の慎重さを欠く態度によって、彼は「法的保護の必要性がなく」また「法的保護に値しない」とされるわけであるが、被害者態度に不注意な点があったということから直ちにそういえるかについては疑問がある。
  しかし、規範的な次元において、「被害者の自己答責的な態度」によって、生じた結果は第一に被害者の「答責領域」に帰属し、他人の「答責領域」には属さず、従って他人が正犯として処罰されることが妨げられるとする思考方法には注目すべきものが含まれているように思われる。ここでは、「被害者の自己答責性」の観点は一つの「正犯性」制限原理として働いているのである。
    ツァツィクによれば、結果に対する「被害者の自己答責性」が認定されると、侵害行為に対する行為者の答責性が制限されるだけではなく、被害者は次のような立場に立たされると言う。すなわち、被害者は行為に対して「法的保護の必要性がない」という状況におかれるのみならず、「結果を被害者自身の責任に帰さなければならない」とも主張されることになる、と(2)
  そして、不法論の次元において、「被害者の自己答責性」に着目することは「不法概念の物質化」に通じるとし、以下のように述べている。
  「結果」は、単に行為者の行為のパースペクティブからのみ考えられるものなのではなく、それに加えて、自立した答責的な法人格としての被害者の行為のパースペクティブからも考えられるものなのである。従って、「不法論のための被害者の再発見」は、「不法の(再)物質化」に通じているだけではなく、それに加えて、法と不法の間人格的な構造に対する洞察にも通じているのである、と(3)
  このような認識のもとで、彼は「被害者の自己答責原則」を精密化し、特に「自己危殆化状況」においては、他人の慎重な態度を被害者は自己の法益に対する保障として「信頼」できたのかを重視している。ここでの「信頼」は、被害者が「実際に信頼していたのか」に照準が合わせられているのではなく、そのような状況において被害者は一般に信頼することができたのか(「信頼可能性」)が問題にされていたのである。
    また、ヴァルターによれば(4)、「被害者の自己答責性」という思考の特色は、「答責原則に基づく答責領域の限界付けの問題として」近年の学説において主張されているものである。その理論においては、以下の三つの問題が重要な意義を持つという。それは、
  @  遡及禁止論的な視点での結果帰属に関する問題性、
  A  (客観的)注意義務の射程の問題性、
  B  注意義務の基礎、つまりある一定の結果に対する因果的な態度形式の「正犯の質」の問題性
の三つである(5)
  そして、ヴァルターは次のように続けている。
  犯罪体系的には、答責領域論と呼ばれる最近の理論の展開において、遡及禁止論及び正犯と(不可罰的な過失)共犯の限界付け理論の双方からその要素が見つけられる。その際、両理論の中核的要素は「答責原則」つまり「自己答責性の理論」において結びつけられるべきであると思われる、と(6)
    我が国においても、松生教授は「自己答責性」の観点を客観的帰属論の中で働かせ、それは「正犯性」を制限する原理であるとする(遡及禁止論)。教授は、因果関係の流れの中に「人間の行動」が介在する場合には、特殊な帰属関係が問題になり、ここでは行為者の行為意思を介して最初の行為と結果が結びつけられているのであるから、これに物理的過程と同じ帰属原理を適用してよいかが問われなければならないという(7)
  教授によれば、そもそも規範に違反した行為者に「結果を帰属させる」のは、以下の理由からであるという。
  それは、「積極的一般予防」の観点から、結果惹起によって生じた紛争の「原因」が行為者であると定義することによって「紛争を処理する」つまり「規範が違反されたにもかかわらず、規範の予期を放棄する必要のないことを示すため」である。従って、その目的は直接的に結果を惹起する行為者への帰属によって達成されるのであって、彼に何らかの形で寄与した者に同じように帰属させる必要はなく、そのような者は現行刑法では共犯という周辺的な帰属形態で把握されるだけである、と(8)
  この思考の基礎にあるのが「自己答責性(Eigenverantwortlichkeit)の原理」であるとして、以下のように続ける。
  自由かつ故意に結果に向けて決意した者は、規範に違反した行為を決意しない能力(答責性)を有していたといえる。つまり彼は、たとえ背後者により決意させられ、あるいはすでに決意していた場合に援助を受けたとしても、みずからこれを拒否する能力を有していたのであり、法はそれを彼に期待していたのである(9)。惹起された結果は、彼の仕業として完全に帰属され、結果惹起によって生じた紛争が終わる。従って、「自己答責的に結果に向けて決意した行為者の背後にあって彼に寄与した行為者には、結果は正犯的に帰属され得ないのである(遡及禁止)」、と(10)
  この「自己答責性原理」は、まず、「第三者の故意による行為」が介入する場合に正犯としての帰属が否定されるという結論を導くという。そして、背後者の行為が故意によるものである場合には、共犯の正否が問題になるだけであるとする。さらに、「被害者自身の行為」が介入する場合にも「自己答責性原理」は適用されるとする(11)
  しかしながら、介在する他者の行為が「過失」による場合には、「遡及禁止」は当然には妥当しないという。背後者が故意による場合は間接正犯が成立しうるので、ここではもっぱら背後者も過失による場合が問題になり、「自己答責性原理」はこの場合にも答責領域の限界付けの役に立ちうるとする(12)
  では、介入行為が「過失」によるものである場合に、「自己答責性原理」が答責領域の限界付けに役立つのはなぜであろうか。教授は以下のように続ける。
  「人が自己答責的な存在である、つまり結果を惹起しないよう決意する能力を有するのであるから、過失犯の場合にもこのような能力を使用して結果を予見し、回避することが法により期待されている。従って、このような自由な決意の過程に介入して、結果の回避に向けて動機づけるべき他人の義務は、当然に(過失)正犯を根拠づけるわけではないので、原則的には共犯的構造を持つといえる」、と(13)
  しかし、ここで原則的に共犯的構造を持つ他人の行為は、以下の場合に(過失間接)正犯が考えられるとする。
  「過失行為は結果惹起を予見し、意図しているのではないから、故意行為と比べると完全に自由ではない。したがって、このような不自由が他人に利用される場合(優越した行為反価値)、換言すると他者の過失行為に対し配慮すべき義務が課せられる場合、(過失)間接正犯の成立を問題としうるのである」、と(14)
  そして、ここでも「被害者自身の行為」について「自己答責性原理」は適用しうるとする(15)。教授によれば、「自己危殆化」とは、みずからが侵害されるという結果を予見してはいないが、その結果が予見可能あるいは回避可能であるにもかかわらず行為に出た場合である。その例として、以下のような事例を挙げる。AがBに麻薬を供与し、Bがそれを自己答責的に摂取して死亡したが、AもBも死の結果は予見していなかったという場合である。この自己危殆化に過失的に関与した者には原則として結果は帰属されないとしている。
  以上のように、教授によれば「被害者の自己答責性」は、もっぱら規範に違反した行為を「決意しない能力」、いわば「自己答責能力」のみの問題である。しかし、「被害者の自己答責性」に、行為者の正犯性の制限という刑罰効果を結びつけるためには「自己答責能力の存在」のみでは不十分ではないだろうか。
    本稿での問題状況においては、それが自己危殆化への関与であるにせよ合意による他者危殆化であるにせよ、危険行為の実行と結果の発生に対して、行為者と被害者が過失的に「共働」したという点が特徴的である。法社会の中で、人は「答責的な人格」として対置し合っており、各々が固有の「答責領域」をもっている。これは被害者(法益主体)であっても同様である。刑法は法益の保持をその第一の目標とする社会的な制度であるが、法益の保持は単に「他人によって干渉・侵害されない」ということでのみ示されるものではない。法益主体もまた、法益保持のために固有の責任を負っており、彼がその責任を果たし、みだりに法益を危殆化しないことを法によって期待されているのである。法益主体(被害者)と他人(行為者)が共働して法益を危殆化する場合には、まず法益保持に関する第一責任者ともいうべき法益主体自身の事象(及び結果の発生)における役割を明らかにする必要があるであろう。ここにおいて、被害者の事象に対する「自己答責性」の認定が意味を持ってくる。すなわち、被害者がある一定の主観的事情(自己答責能力など)を満たした上で、自己の態度(自己答責的態度)によって事象における「イニシアチブ」を取ることを示したのであれば、行為の危険性と発生した結果は「正犯的」に被害者自身の答責領域に帰属されるべきなのであり、行為者はせいぜい「共犯的」に、すなわち「幇助的」に事象に関わったと見なされるべきなのである。このようなもっぱら「被害者」自身に照準を合わせる思考方法は、被害者利益と行為者利益の「比較衡量」という思考や、行為によって追求された「目的の倫理性」の評価といった思考方法とは根本的に異なるものである。また、それは被害者の「主観的可能性」のみに着目すべきものでもない。「被害者の自己答責性」の認定によって、発生した結果が被害者の答責領域に帰属し、その結果行為者への正犯性が否定されるためには、以下の条件を必要とすべきであろう。
  @  まず、行為の危険性と、同時にそれが特定の(構成要件的)結果発生に結びつく可能性が被害者に完全に認識されていたのでなくてはならない。ある危険行為が特定の構成要件的結果に結びつく可能性が被害者に認識されていなかったのであれば、彼は自己の態度によって危険を自己に引き受けて、その結果行為者の刑法的答責性が遮断されるという刑罰効果を付与されることはないというべきである。その可能性の不認識は、被害者が不注意にも結果発生の可能性を認識していなかった場合であっても、その不注意でもって彼の自己答責性を語ることはできない。
  たとえば、エイズ感染者(行為者)との性交によってパートナー(被害者)が死亡する場合、その被害者は行為者がエイズヴィールス保持者であることと性交によってエイズが感染しうるということだけを認識しており、エイズの感染によって自分が死亡することがあり得ることを予見していなかった場合、被害者の自己答責性を語るべきではないのである。
  A  次に、@の条件の前提として、行為の危険性と結果発生の可能性を正しく認識・評価しうる能力が被害者に存在したこと(自己答責能力の存在)および、彼に意志決定の自由が留保されていたことが、「被害者の自己答責性」を認定するための第二の条件となる。
  この「自己答責能力」の問題に関しては、被害者の「年齢」が意味を持ちうる。しかし、それは画一的に「刑事責任能力」や民事上の「行為能力」規定に従うわけではない。個別事例において、危殆化された法益の種類と結果発生の可能性の程度を考慮して、具体的に認定せざるを得ないであろう。
  この点について、「麻薬事例」での被害者は麻薬の常習使用によってしばしばこの能力を欠いていることが考えられ、その場合には彼の自己答責的な結果の引き受けを語ることは許されないであろう。
  B  以上の主観的な要件と並んで、事象において被害者が単に成り行きに身を任せ行為者の手に自らを委ねるというだけではなく、少なくとも行為者と同程度以上に結果発生に対して積極的な態度(自己答責的態度)を示したことが、彼の自己答責性を語るための条件とされるべきである。
  これは、「自己危殆化への関与」の場合には、結果発生に至る行為を直接自らの手で行ったということから、「結果発生に対する積極性」は通常認定され、彼の自己答責性を語ることが許される。従って、「自己危殆化への関与」の場合には、被害者の主観的要件の検討によって彼の自己答責性を認定しうる。
  しかし、「合意による他者危殆化」の場合には、直接結果発生に至る行為が他人の手に委ねられていることから、原則的に行為者の「正犯性」が語られることになる。しかし、被害者態度に(特別な)「結果発生への積極性」があり、事象全体において彼の方がイニシアチブを取っていたことが明らかに示される場合には、例外的に、生じた結果は被害者の答責領域に帰属し、彼はいわば「間接正犯」に類似する役割でもって行為者行為を利用したのであり、従って行為者行為はせいぜい「幇助的」な性質のものとして評価すべき場合があり得よう。それは、「メーメル河事件」や「エイズ感染事件」におけるように、「行為者」が結果発生の危険を指摘し、(自己の)行為実行を控える方がよいと被害者に説得していたにも関わらず、「被害者」が彼の行為の遂行を「なお要求し、強要する」ような場合にのみ、この被害者における「結果発生への積極性」が認定しうるのである。

(1)  Rainer Zaczyk, StrafrechtlicheUnrecht und die Selbstverantwortung, 1993, S. 11.
(2)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 1.
(3)  Zaczyk, a. a. O., (1), S. 2f.
(4)  Susanne Walther, Eigenverantwortlichkeit und strafrechtliche Zurechnung, 1991.
(5)  Walther, a. a. O., (4), S. 53
(6)  Walther, a. a. O., (4), S. 53f.
(7)  松生「客観的帰属論」伊藤ー松生ー川口ー葛原『刑法教科書(総論上)』(一九九二)一六六頁。
(8)  松生・前掲書(7)一六八頁。(注40)において教授はヤコブスを引用し、次のように述べている。「誰も、自身の行為の影響を犯罪的結果にまで向きを変える可能性を他人に与えないということを、刑法は、他人の行為の予期として安定させ得ない。・・予期されうるのは、誰も(回避可能的に)犯罪的経過の条件を完成させないということだけである。すなわち、まずは(それだけではない)、結果犯の場合、(回避可能的に)直接に結果をもたらす行為が違背しているということだけである」。Vgl. Gunther Jakobs, Regresverbot beim Erfolgsdelikt Zugleich eine Untersuchung zum Grund der strafrechtlichen Haftuung fur Begehung, ZStW 89, S. 20.
(9)  松生・前掲書(7)一六八頁。Vgl. Welp, Vorangegangenes Tun als Grundlage einer Handlungsaquivalenz der Unterlassung, 1968, S. 276.
(10)  松生・前掲書(7)一六八頁。
(11)  松生・前掲書(7)一六九頁。
(12)  松生・前掲書(7)一六九頁。
(13)  松生・前掲書(7)一六九頁。
(14)  松生・前掲書(7)一六九頁。
(15)  松生・前掲書(7)一六九頁。ここでは、被害者の自己危殆化に過失的に関与した者には結果は帰属されないとしながらも、背後者に、被害者の落ち度ある態度に対する配慮義務の課せられる場合があり得るとしている。


お  わ  り  に
−私見の整理と今後の課題

    ここで、もう一度私見を整理すると以下のようになる。
  @  被害者が自己の法益を危険にさらし、他の行為の媒介なしに直接に結果発生に至る行為を自ら行った場合が「被害者の自己危殆化」であり、それに過失的に関与した者は被害者の自己危殆化への関与の可罰性が検討される。ここでは、(間接正犯的な)「過失正犯」としての可罰性、及び「過失共犯」としての可罰性がそれぞれ検討されることになる。
  この問題について、ドイツと我が国の法状態の違いが、議論の前提を異なるものにしていることに注意する必要がある。
  ドイツにおいては、刑法二一六条で故殺の減軽類型とされる嘱託殺人を処罰しているが、自殺関与(自殺教唆・幇助)は不可罰である。そして、しばしばそれとの論証連鎖から、自己危殆化への関与の不可罰性が語られている(1)
  しかし、我が国では周知のように刑法二〇二条において嘱託殺人と並んで自殺関与も可罰的とされているので、この論証連鎖を直ちに適用することはできない。
  また、ドイツでは刑法二六条及び二七条で、それぞれ「教唆犯」「幇助犯」としての処罰のために、教唆者、幇助者に対して、「故意で」決意させたこと、「故意で」幇助したことを要求している。過失的な「誘致」、「可能化」、「促進」は、間接正犯的な「過失正犯」と見なされることによって初めて可罰性が問題になりうる。
  しかし、我が国では、少なくとも明文でもって「過失による教唆・幇助」の可罰性が遮断されているわけではないので、「過失共犯」としての処罰も検討しなければならない。
  A  他人(行為者)の危険行為の実行によって自己の法益に危険が生じることを認識して法益主体(被害者)が「その行為の実行」を「容認」し、それに基づく他人の危険行為によって法益侵害結果が発生した場合が「合意による他者危殆化」である。
  B  このような被害者の自己危殆化への関与及び合意による他者危殆化の可罰性を考えるにあたって、従来より「被害者の承諾」によって解決を図る見解がドイツの判例・学説において有力である(2)。しかし、私見によれば、それは「被害者の承諾」に包摂されないものである。
  いわゆる「被害者の承諾」と呼ばれる一つの独立した違法阻却事由は「人の自己決定権」尊重の思想にその基盤を持つ。日本国憲法十三条は「すべて国民は、個人として尊重される」と述べているが、ここでいう個人は人間性という抽象的な存在を意味するのではなく、具体的な一人一人の人間をいうのであり、人の個性を尊重するという「自己決定権」尊重の思想は、ここに起源を持つものである。ある法益主体が自分にのみ属する法益について、他人に処分を許した場合、発生した結果は彼の自己決定によるものであり、法益侵害というマイナスとともに彼の自己決定の実現というプラスをも生み出している。この両者が「利益衡量」され、法益侵害のマイナスが行為者の可罰性を基礎づける程度以下になった場合に違法阻却が認められるのである。
  その承諾の対象としては、「行為」や「危険」では足りず、「結果」に照準が合わせられなければならない。なぜならば、結果犯において「結果」も一つの重要な構成要件要素であり、実質的にも結果発生の有無こそが被害者の最重要関心事であるからである。そして、そのような結果発生の可能性についての「認識」と並んで、承諾の「心理的内容」としては、単なる「認容」ではなく「意欲」が要求されるべきである。結果発生が被害者の自己決定の実現であり、それを一つのプラス価値と見るためには、被害者に結果発生を認容する意思があったという消極的な態度では足りず、結果発生を意欲したという積極的な態度が必要であろうからである。
  以上のことより、本稿での問題状況は、被害者において結果の不発生が信じられていることによって、発生した結果は彼の「自己決定の実現」としてプラス価値を持ちうるものとはいえず、結局「被害者の承諾」の問題領域にはないものといえる。
  C  また、ある者は本稿での問題状況を「規範の保護目的の理論」でもって、客観的帰属論の内部で解決を図ろうとする。「規範の保護目的の理論」とは、「結果に対する予見可能性があり、危険創出ないし危険増加が存在するにも関わらず、刑事政策上過失責任を限定するのが妥当な場合に機能するもの」である。しかし、最終的に構成要件該当性を否定される事案は、ある意味ではすべて「規範の保護目的」外にあるとも言えるのであり(3)、何が規範の保護目的であるかの特定もしばしば困難である。
  D  「被害者学的原則」による解決提案(4)も説得的なものとはいえない。「被害者学的原則」は以下のようなテーゼによって表される。「社会侵害防止のための国家の手段として刑罰を科すことは、被害者が保護に値せず、保護を必要としないときには見当違いなことである」。ここでは「被害者が保護に値しない」ことの基礎として、法益主体の「法益保全義務」ともいうべき思想が見られる。しかし、本稿での問題状況において、被害者が保護に値しないものと言いうるかについては、十分な論証が必要であろう。論者はそれを行っていないように思われる。
  E  結局、本稿での問題状況の解決においては、規範的な次元において「被害者の自己答責性」に着目することが有意義である。「被害者の自己答責性」は、以下の点に基づいて認定されるべきである。
    

(一)  被害者が行為の危険性とともに特定の構成要件的結果発生の可能性を完全に認識していたこと。

    
(二)  被害者にそれを認識・評価しうる能力(自己答責能力)が存在し、意思決定の自由が留保されていたこと。

    
(三)  客観的要因として、事象において被害者が単に成り行きに身を任せ行為者の手に自らを委ねるというだけでなく、少なくとも行為者と同程度以上に結果発生に対して積極的な態度(自己答責的態度)を示したこと。

  この「結果発生に対する積極性」は、「自己危殆化」の場合には、直接結果発生に至る行為を被害者自ら実行したということでもって、語ることができる。
  しかし、「合意による他者危殆化」が問題になる場合には、直接結果発生に至る行為が他人の手によって行われているので、「積極性」を肯定するためには「特殊な事情」が必要とされるべきである。それは、「メーメル河事件」や「エイズ感染事件」に見られるように、行為者(被告人)が結果発生の危険を指摘し、自分自身は行為実行について慎重な態度をとろうとしたにもかかわらず、被害者の「強い要請」によって行為を実行するに至ったというような場合にのみ、この被害者の「結果発生に対する積極性」を語るべきである。
  F  そのような「合意による他者危殆化」において、背後者である被害者の側に事象に対する「自己答責性」が認定されるならば、「被害者」が事象においていわば「間接正犯的な役割」を担って自己の欲求のために行為者行為を利用したのであり、生じた結果は、まず第一に被害者の答責領域に帰属されるのである。その場合、行為者は被害者に「従属」することによって、「(過失)正犯としての可罰性」が否定され、彼の行為はせいぜい「幇助的」な役割をもったものとして評価されるのである。
  G  なお、「被害者の自己答責性」の認定によって「過失正犯」としての可罰性が否定されるとしても、なお「過失共犯」としての可罰性が存在するかが問題になりうる。前述したように、「過失による共犯」の可罰性については、我が国では少なくとも明文でこれが遮断されているわけではない。しかし、刑法においては「故意犯」の処罰が原則であり、そもそも過失犯処罰は例外であること(刑法三八条一項)、及び(狭義の)「共犯」は「正犯」より類型的に可罰性が低いこととを考え合わせれば、我が国においても「過失による共犯」は処罰されないものと見なすことが適切であろう。
  H  従って、本稿での問題状況においては、行為者の「過失犯」としての可罰性が問題になる限りで、正犯性制限原理としての「被害者の自己答責性」が行為者の可罰・不可罰の限界を設定するのである。
    近年、我が国において、「ダートトライアル同乗者死亡事件(5)」という「危険引き受け」に関する興味深い判決が下された。事案は、被告人はダートトライアル競技の練習走行中に運転を誤り車両を防御柵に激突させたが、その際に同乗者を死亡させた。そこで、被告人は業務上過失致死罪に問われたというものであった。
  弁護人は被告人の無罪のために、幾つかの論拠と並んで次の点を主張した。
  「被害者は同乗することによって、生じるかもしれない危険性を自ら甘受し、自己の法益をその限りで放棄していた(自己決定権の範疇の問題)」。
  これに対して、裁判所は次の判断を示した。
  「ダートトライアル競技は、その性質上、転倒や衝突等によって乗員の生命、身体に重大な損害が生じる危険が内在しており、その練習においても、競技時と同様の危険が伴うことは否定できない」。
  「上級者が初心者の指導のために同乗するような場合、同乗者は前記の危険性についての知識を有しており、運転手が技術向上のために暴走、転倒等の一定の危険を冒すことを予見していることもある。また、運転手への助言を通じて一定限度でその危険を制御する機会もある」。
  「そのような認識、予見のもとで同乗していた者については、運転手が予見の範囲内にある運転方法をとることを容認した上で、それに伴う危険を自己の危険として引き受けたと見ることができ、その危険が現実化した事態については、違法性阻却を認める根拠がある」。
  「もっとも、そのような同乗者でも、死亡や重大な傷害についての意識は薄いかもしれないが、それはコースや車両に対する信頼から死亡等には至らないと期待しているにすぎず、直接的な原因となる転倒や衝突を予測しているのであれば、死亡等の結果発生の危険をも引き受けたものと認めうる」。
  「本件では、被害者は約七年のダートトライアル経験があるのに対して、被告人は初心者であって、被害者もその認識を有していたこと、本件運転方法が被告人の技術と隔絶したものではないことなどから、被害者は、被告人の三速での高速走行の結果生じうる事態を自己の危険として引き受けた上で同乗していたものと認められる」。
    しかしながら、この判決には以下のような問題点がある。
  まず、判旨からは「危険引き受け」の内容と要件が明確でないということが挙げられる。すなわち、被害者において、どのよう事情があることが「危険引き受け」を語るときの要件になっているのか、その中で特にどの事情を重視していたのかが明らかでない。これまでの検討に加えて、判決理由を注意深く読んで分析すると、被害者の「危険引き受け」の要件としては以下の五つの観点が考えられるであろう。
@  その(危険)行為が特定の(構成要件的)結果に結びつくであろうことの予見が被害者にあるか。
  本件の場合、ダートトライアル競技において転倒や衝突は日常茶飯事であるが、それが死亡等の重大な事故に結びついた前例がなかったことから、この要件を肯定するのは困難であると思われる。そうである以上、被害者が少なくとも「自己答責的に」結果を引き受けていたとすることはできない。代わりに判例は、
A  行為の一般的危険性についての認識が被害者にあるか。
  の肯定でもって、@の要件に変えたように思われる。
B  被告人に対する一定の制御可能性が被害者にあるか。
  判旨では、「助言」を通じて被害者が危険を一定程度制御する可能性があったとの指摘がある。
C  「優越的な事物(専門)知識」が被告人になかったといえるか。
  この要件は、特に、被害者の危険認識が不正確で被告人の危険認識が正確であった場合、または、被告人に被害者にはない特別な危険に対する「知識」があった場合に、被告人の「優越的事物知識」の故に、彼は正犯として可罰的であるとの考え方がありうることから注目したものである。しかしながら、本件では被害者の方が上級者であり、被告人は初級者であったことから、むしろ被害者に「優越的事物知識」が存在し、被告人にそれは存在しなかったといえるであろう。
D  被告人に被害者に対する特別な「保証人的地位」がなかったといえるか。
  この要件は、「板東三津五郎ふぐ中毒死事件(6)」における料理人と客との関係や「メーメル河事件(7)」における渡し守と客との関係などで「考慮」されたように、被告人が客に対する特別な監督義務(保証義務)を有しており、そのことが被告人の正犯的可罰性を根拠づけるとの考え方がありうることから注目したものである。
  「保証人的地位」を「両者の地位(立場)の上下関係」に着目して事案を整理すれば、「エイズ感染事件(8)」では両者は恋人同士の関係であり、特に上下関係は存在しなかったし、一方、本件では上級者と初心者の関係、しかも被害者の方が上級者であったことからも、被告人にこのような可罰化要因は存在しなかったといえるであろう。
  もっとも、判旨からは、裁判所は思いつくままに「自己の危険として引き受けた」ということを導くために様々な点を指摘したという印象を受ける。
    次に、判旨において「危険引き受け」になぜ「違法性の阻却」という刑罰効果が与えられるかが明確でない。
  我が国の刑法二〇二条やドイツ刑法二一六条によって、被害者の「故意的な」生命の処分、つまり「承諾」に違法阻却の効果が与えられていない以上、なぜ被害者のいわば「過失的な」「危険引き受け」態度に「違法阻却」の刑罰効果を結びつけることができるのか、詳細な論証が必要であろう。判旨においては、それが欠如している。
    さらに、「危険引き受け」が違法阻却効果を持つとして、それと他の違法阻却事由(特に「被害者の承諾」及び「社会的相当性」)との関係も明確でない。
  裁判所は、また弁護人においても、「被害者の承諾」ないし「同意」という言葉を用いれば、第二章で論じてきたような疑問が生じるので、この言葉を用いることを注意深く避けたのではないかと思われるが、それによって「危険引き受け」は「被害者の承諾」とは全く別のものとされてしまったように思われる。
  また、判旨の中で、「右の理由から(危険引き受けということから)本件については違法性の阻却が考えられるが、さらに、被害者を同乗させた本件走行の社会的相当性について検討する」。「以上の通り、本件事故の原因となった被告人の運転方法及びこれによる被害者の死亡の結果は、同乗した被害者が引き受けていた危険の現実化というべき事態であり、また、社会的相当性を欠くものではないといえるから」というように、「さらに」「また」という言葉でもって、両者を無関係なものとして並列しているように思える。
  つまり、ある概念がある概念の要件であったり、逆に上位概念としての役割を与えられているというわけでもなく、「危険引き受け」「社会的相当性」「承諾(同意)」の三者は、相互に全く独立した「違法阻却事由」とされているようである。「危険引き受け」は、本判決によれば、今までにいわれてきたそのほかの「違法阻却事由」とも無関係な、全く新しい(過失犯に特有な)「違法阻却事由」ということになるのであろう。
    結局のところ、本件は被害者による「危険の引き受け」ということの例としてはふさわしいものではなく、具体的結果の予見可能性の困難や注意義務違反の内容を特定することの困難によって、被告人の無罪が導かれる事案であったと思われる。すなわち、ダートトライアルにおいて、「転倒」や「衝突」は日常茶飯事であるが、それが「死亡」などの結果に結びついたということが過去にはなく、「安全な競技」だと被害者に認識されていた事情が、被害者の「危険引き受け」を語るのを不適切にしているのと同時に、まさに同じように被告人が認識していたことが、被告人に刑事的責任を負わせるのを不適切にしていたのではないかと思えるのである。
    公法である刑法において、「個人」はどのように位置づけられているかは、しばしば「刑法における人間」というテーマのもとで論じられてきた。そこでは、「個人」は、刑罰目的論とも関連させて、暗黙の前提として「行為者」を念頭において論じられているといえるであろう。しかし、現実には、不法結果の発生に対して「被害者」の共働的態度が存在する場合があり、犯罪の正否を考えるにあたって、その被害者態度が犯罪論上様々な場面で重要な意義を持ちうるのである。それは、従来からも「被害者の承諾」であるとか「信頼の原則」などにおいて、犯罪阻却的効果を持ちうるものとして論じられてきたが、本稿で扱った「自己危殆化への関与」や「合意による他者危殆化」も同様な「被害者態度による行為者の犯罪阻却」が考慮される場合である。個々人を答責的な人格としてとらえ、一定の要件のもとで「被害者の自己答責性」の認定から、事案の処理が考えられるべきである。
  この「被害者の自己答責性」の観点が犯罪論上どのような意義を持ちうるかについては、今後さらに探求していかなければならないと考えている。「自己危殆化事例」と並んで、いわばそれと「車の両輪」ともいうべき「被害者の意識的自己侵害の事例」、特に「自殺関与事例」において「被害者の自己答責性」がどのように考慮されるべきであるかが重要である。その特殊問題として、いわゆる「臨死介助」の問題性を「被害者の自己答責性」の視点のもとで取り扱うことができるかも検討しなければならないと考えている。

(1)  Vgl. Claus Roxin, Zum Schutzzweck der Norm bei fahrla¨ssigen Delikten, in Festschrift fu¨r Wilhelm Gallas, 1973, S. 246.
(2)  第二章「被害者の承諾論」によるアプローチを参照。
(3)  Harro Otto, Eigenverantwortliche Selbstscha¨digung und-gefa¨hrdung sowie einversta¨ndliche Fremdscha¨digung und-gefa¨hrdung, in Festschrift fu¨r Herbert Tro¨ndle zum 70. Geburtstag, 1989, S. 173.
(4)  Ralf-Peter Fiedler, Zur Strafbarkeit der einversta¨ndlichen Fremdgefa¨hrdung-unter besonderer Beru¨cksichtigung des viktimologischen Prinzip, 1990.
(5)  千葉地裁平成七年一二月一三日判決。判例時報一五六五号一四四頁以下。この判決に対する評釈として、大山ー松宮・もぎたて判例紹介「ダートトライアル同乗者死亡事件」法学セミナー五〇三号七四頁以下、佐伯仁志・判例セレクト「ダートトライアルの練習中に同乗者を死亡させた事案において、業務上過失致死罪の成立を否定した事例」法学教室判例セレクト'96三二頁。
(6)  第一審・判例時報九〇五号一二六頁以下、控訴審・判例時報九三五号一三五頁以下、上告審・刑集三四巻三号一四九頁以下。
(7)  RGSt 57, 172ff.
(8)  BGH NStZ 1990, 81.