立命館法学  一九九七年一号(二五一号)二〇九頁(二〇九頁)




環境法における強みと弱み
― 日本とドイツを比較して ―


ヘルムート・クリューガー
和田 真一 訳







T  は  じ  め  に


  日本とドイツには、環境法にも関係する共通性がある。両国は極めて発展した産業国で、人口は多く、面積も類似している。しかしよく見れば、部分的には特徴的な違いもある。日本はもっぱら島々から構成され、日本人の八〇%は最大の島である本州に居住し、その多くは関東(東京)と関西(大阪ー京都)に住み、それぞれは二五〇〇万人を擁する。日本の人口を平均的に国土面積で割ると、人口密度は三二〇人/平方キロであるが、森林、山岳地帯では人口減少があり、実質的な人口密度は一五〇〇人/平方キロと、世界最高の人口密度となる。
  ドイツは八つの国々と国境を接し、ヨーロッパの中心に位置するため交通の要所であることで、日本と異なる。ドイツはルール地方の他にも多くの過密地帯を持っている。ドイツは地理的条件のために、単独では環境の規制ができない。環境領域でも、いわゆる隣接諸地域や−一九九〇年一〇月三日に行われた再統一にも関わらず−旧DDRにおける事実的、法的状況が極めて異なっているという特殊事情があるのである。

U  ドイツ環境法の特色


  環境法の理解には、環境法の目的を明確にすることが不可欠である。なぜなら環境法の目的が個別の環境法規範の解釈に決定的であり、それが環境法の統一的な解釈を進めるからである。環境法の規制対象の異質性ゆえに、その目的には極めて一般的な共通項があるだけで、それは一九七一年の連邦政府の環境プログラムの政治的目標設定である(1)。これによれば、環境法の目的は自然の機能可能性とその他の自然資源の利用可能性の継続的確保である。環境保護措置は人間の健康と福祉にも役立つ。環境保護には、環境リスクの減少と回避、環境破壊の除去、自然の機能可能性の回復、環境のための必要な介助措置の実施が含まれるのである。環境保護は、法の枠内での他の法益との衡量の下に行われる。
  ドイツの環境法理解のためには特に三つの基本原則が重要である。すなわち、配慮原則、原因者原則、共同原則である。
  多くの環境法律に規定のある配慮原則は、現代の環境政策の指針であるとみなされる。配慮原則の個別的特色は次のようである。
  • 環境負荷を増加させるべきでない。
  • 最適技術の投入を命じることで、技術水準に照らして最小限のイムミシォーンの程度に押さえること。
  • 当局の措置は、物質や集中による侵害の存在に基づくのではなく、侵害の蓋然性によってとられるべきである。
  • 環境の重要性はどの計画決定に際しても考慮されるべきである。
  • 人間社会のさらなる成長は、自由利用の余地の創出によって可能となる(自由利用の余地理論 Freiraumtheorie)。
  • 侵害の効果は完全に除去されることはないので、侵害は期待できる最低限にとどめられるべきである。
  配慮原則が環境の質の改良を直接に目的とするのに対して、原因者原則によっては、誰に個々の環境侵害を帰責すべきか、誰がその除去ないし減少に義務を負うべきかが規定される。この原則は、環境への負荷の回避、除去、補償のための単なる費用負担問題には留まらない。むしろ、命令や禁止、負担に基づく直接的な行為規制の形で環境汚染に対処する諸義務を定める法規制が示していることは、原因者原則というのが実質的な責任を目的としているということである。全体的に、環境法上の手段は原因者原則を基本的には優先する形になっている。とはいえ公が環境損害の減少に重要な貢献もしている。その限りでの共同負担原則は、原因者原則と結びつきのある確認の問題、帰責の問題、数量化の問題の観点から、ならびに、社会政策的、経済政策的考慮(労働場所と競争力の確保)の結果として受け入れねばならない。新しい諸州では、かつての莫大な負荷に対する原因者原則の適用は見ていない。責任負担適格のある原因者にもはや責任を負わせられないからである。
  もう一つの重要な原則である共同原則は、国家と社会の共同、とりわけ、社会的諸力が環境政策の意思形成過程や決定過程に早期に参加することによって環境問題を解決することに寄与する。この原則は、環境保護の課題が、様々な社会グループが対立するよりも共同する方が容易に解決するという認識の現れである。しかしながら、よい共同のためには公共の費用で妥協を行う危険も伴う。かくして、任意の合意を信頼することは常には正当化されないから、環境法においても、共同が国家の規制権限の代わりにはなり得ない。環境法の目的を実現する諸措置、つまり、環境法の戦略とひいては目的を実現するであろう各種の措置を見れば、極めて様々のイメージが浮かぶ。すなわち、環境の利益は、場所的な全体計画の対象でありならびに多様な専門的計画の対象である。行政実務では、届出と報告義務、保全義務、許認可の留保による法律上の禁止、特別規定がない場合の一般的な手続、保全の法規定に基づく諸措置等の秩序法的手段が最も大きな意義を持つ。
  長年来ドイツでは環境税や管理税、調整税による環境保護が議論されてきたが、排水分野での管理税と自然景観保護法での調整税はすでに存在する。

V  環  境  立  法


  専門家も環境法全体を見通すことはほとんどできない。環境国際法、EC法、連邦憲法、州憲法、包括的な構想を伴う再統一協定による特別規定、連邦法や州法、広範な法規命令、自治体の条例、技術的な規制が、考慮されるべき環境法を構成している。加えて、多数の判例が環境法を具体化し、輪郭を形成している。ドイツの環境立法が合理的なものであるかどうかが、批判的に問われるべきなのである。

W  ドイツの環境立法は合理的か?


  環境法が目的を正しく果たすためには、環境法は高度に自然科学上ないし技術上の見識に基づいていなければならない。自然科学的、技術的データと事実の「客観性」と検証可能性から、立法者が法律規定によって特定の技術分野に介入するための正当化がなされねばならない。しかし、環境立法のための基準は、連邦共和国では、自然科学上の認識とは異なることがしばしばである。むしろ立法者は、現実にまたはおそらく存在する国民の「意見」、「不安」、世論動向に目を向ける。ドイツの政治家や官僚は世論調査に基づいて、科学的分析を回避して(まだ形成されてはいない)世論を理解し、推定される多数意見の好みを求めすぎて、政治プロセスを踏んだり、専門知識の見地から世論形成することがない。議会や政府のそもそもの課題は−『ザ・フェデラリスト』の一〇条に関するマディソンの言葉のように−「世論の精製と高度化」である。この意味でのリードは民主主義原則に反するものではないばかりか、そうして初めて実質的議論を可能とするのである。リスクが社会的に不十分にしか認識されていないのを、適切な法律を受容させるために真摯な説明を試みることによって修正するのも、これに入るのである。
  ドイツの世論では、リスクの評価や期待可能性を問う場合に、むしろ量的な性格の要素が重要な役割を果たしている。つまり、技術利用の評価とその分配、または、リスク引受の任意性、社会的制度的コントロール能力の程度、同様に利用できる選択肢の実現可能性、リスクの通常化の度合いである。二つの考察方法がこれらの問題にはつきものである。専門家でも誤った判断、推測を行うことはあるし、「客観的な」見解から遠く離れることもある。他方、むしろ「主観的な」見解の側で見当違いになることもある。たとえば、先進的産業国での大部分の科学的考察では、大気中のダイオキシンにより発癌するのは事実上皆無ということであったが、世論では−ドイツでは統計上年に一〇〇〇名が生命を落としている(2)−ディーゼル排気ガスよりも大きな関わりがあると議論されている。
  「ダイオキシン」という言葉と同様、「アスベスト」とという言葉も市民の多くを自然と身震いさせるものだが、アスベストの加工の際の関係作業員にとっての危険性とパネルなどによるアスベストの無害性との間で十分な区別がなされていない。
  次の事例はケルンに実際に関連するものである。家庭、産業、工場によって生産される「ゴミの山」は、活用意見も高まっているが、あらゆるアピールや計画にも関わらず、指数的に増大している。例えば、家庭ゴミ処理場の技術水準は特に新しい諸州では満たされていない。現在なお約四〇〇〇の不十分な処理場が稼働している。ゴミ焼却の近代的施設は、残存廃棄物の取り扱いのために今日唯一の実現可能な、安全で、環境に親しむ技術なのだが、それの建設は、市民の間にある不安のために実現が困難である。ゴミ焼却の危険性に対するこの不安は、おそらく七〇年代の全く不完全な焼却技術に基づいている。残存廃棄物の化学的負荷を考えるなら、環境保護を理由としている組織的議員団の活動を止めさせ、解消することが求められている。ゴミ処理のキャパシティーについては、ドイツは大部分でゴミ梗塞状態にある。このことが、不当にも、不十分な安全性しか持たないゴミ処理場の稼動が要求されるという危険を増加させているのである。
  市民が消極的態度をとる状況で、ゴミ焼却施設の建設と操業のための観点を示すことは科学者と政治家の課題であろう。つまり、環境汚染物質が貯蔵されると、一部は土壌に、一部は地下水または大気に到達し、漸次継続的に人間、動物や環境全体を危殆化することである。安全かつ環境に親しむ残存廃棄物の取り扱い技術のために、市民の少なくとも良識ある部分の理解を得るべきであろう。
  合理的で親和的な環境政策は信頼性を前提とする。そうでない環境立法の実際例はEC委員会の、遺伝子工学により製造または変更される食品の販売を表示義務なく許可する試みである。そうされたのは、市民間では遺伝子工学によって製造されたり遺伝子工学によって変更された食品を好まない態度が広がっているので、表示義務はこのように製造された食品の販売に不利だという主張によるものであった。
  EC委員会がこの方法で、健康上問題のない食品の販売を推進しようとすることは徐々に失敗する。むしろ、食品は完全に不安のないものであるべきであるにも関わらず、なぜ製造方法が明示されていないのかが正当にも問われ、市民のこのような食品への不信が増加するのである。環境立法のためには、現在問われているよりもいっそう客観的合理的基準をめざすようにすべきである。

X  ドイツ環境法の強みと弱み


  ドイツ環境法の弱みは、わけても環境法が体系化された法領域ではない点にある。規範の大河、数多くの類似の規制モデル、命令制定者によるとどまることのない改正の猛威、失敗に終わった法律編纂、過剰に推進された法適用、これらがその見出しである。しかしこのような事態は他の法領域、例えば社会法や税法でも生じている。環境法はさらに行政裁判所や民事裁判所の判例によって複雑化し、後者は損害賠償訴訟、責任訴訟、私法上の相隣関係訴訟について判決する。行政法上の一般条項との関連で基本法一九条四項にしたがい、公権力の違法な措置に対する出訴の途を原則的に開くことは、多くの市民によって行政訴訟への誘いと理解され、そして利用される。ドイツ環境法の別の弱点は、部分的にドイツの環境基準を下回るEC法のハンディキャップによって特徴づけられると考えられる。行政の実施には欠陥がある。というのは、過去の行政は財政的理由からあまりにわずかな自然科学の専門家しか持たなかったからである。しかし現在では、大卒者の労働市場における就職危機の結果、公務員の賃金条件でも十分な専門家が得られるが、それでも財政状況がその登用を許さないことがしばしばである。
  ドイツ環境法の強みも見誤るべきではない。特に実際的な諸規制、一様な法適用、かなり専門的な資質のある人員を取り上げるべきである。この関連で、判例が環境法を解釈、詳細化、修正し、そして裁判所が市民の権利だけでなく企業家の権利も保障していることを上げることもできる。

Y  日本とドイツの環境法の若干の比較


  第二次世界大戦後の日本の太平洋岸の過密地域が産業化する過程で、一九六〇年代にはヨーロッパの諸国をはるかに上回る程度で公害が生じた。その原因は極端な人口集中、モータリゼーション、エネルギー消費の増大、廃棄物処理問題の増大にあった。ヨーロッパ諸国とは反対に、日本では経済成長が絶対的に優先され、つまり、社会資本への投資は比較的厳しく抑制されてきたのである。環境への負担の増加は、国の福祉増大と経済力強化のために支払われるべき対価であるとみなされた。しかし今日では日本は厳格かつ現代的な環境立法及び環境領域におけるインフラを備えている。日本のこのような発展からドイツも学びうる。ドイツの新諸州においては、経済発展の加速によってのみ生態の再建に必要な余裕を生み出すという基本的考え方が、多くの計画法や環境法規定に現れている。しかし、経済的利益に生態の利益を劣後させる態度は、旧西ドイツで環境破壊的であると考えられていた展開を新しい諸州に後追いさせる危険をもたらす。したがって−日本の経験に照らしても−経済的利益の強調に警告することが急務である。
  ドイツと日本の立法を比較すると、両国に特定の環境問題について類似の法律が存在することは驚くことではない。しかし日本はドイツよりも部分的には優れている。つまり、日本はすでに環境基本法−ドイツでは大学教授による草案の形で総論と各論を有する環境法典が存在するだけである−ならびに公害対策基本法を有する。また、行政行為や公法上の契約に代わって、我々の理解によればソフトローとみなされる行政指導という手法が日本の法実務では専らとられている。
  環境法判例の重要性においては日本とドイツには著しい違いがある。日本では裁判に訴えるよりも裁判外で争われることが多く、これに対してドイツでは考えられるどの紛争にも裁判所が関わる。人口が少ないドイツに三万人の裁判官がいるのに、日本はわずか三〇〇〇人の裁判官であることが思い起こされるであろう。
  日本とドイツとの環境法比較を双方的に行うならば、それによってそれぞれの国でとりうる規制として相当な解決を考慮できるし、不適切な規制は予め回避されよう。日本については、七〇年代以降に環境立法が強力に行われたが、なお完結した体系をなしてはいない。特に、立地計画に関する規制、部分的には行政指導の下で行われる環境アセスメントに関する規定、環境保護の観点からの施設の認可手続きに関する規制が欠けている(3)。廃棄物処理、大気汚染、一般的自然保護の規制にも欠歃が見られる。ここに掲げた分野において、ドイツの法規定が環境利益を促進するかどうかを日本は検討しうるであろう。
  ドイツの環境事件で認められる訴訟の頻繁さについては、日本を見れば、適切な紛争解決モデルとして別の紛争解決形態を考えられよう。
  日本には当事者間における紛争収拾の規制形態があり、自治体レベルでは異議申立手続、県や国のレベルでは斡旋、調停、仲裁、裁定などが用意されている(4)。これらの紛争解決手続は日本では長年の伝統である。示談、斡旋、仲裁とは別に、調停ならびに国レベルでの裁定が、重要な役割を果たしている。これらの紛争解決形態のために、環境法に特に関連する法律によって一つの枠組みがつくられてきた。ここに挙げた手続は、裁判手続に比較して、法の早期実現に有益である。全ての手続は、救済を求める者が裁判上の解決には存在する障害を克服する必要が無いという利点を有する。同時にしかし、これらの手続規定は、聴問や証明、判決の発見という、部分的には裁判に類似する公正な手続も保障している。ドイツで真剣に検討すべきことは、このような紛争解決形態が公法の領域でもよい影響をもたらすかどうか、特に裁判所の介入のない迅速な決定がよい影響をもたらすかどうかということである。

(1)  BT-Drucks. 6/2710, S. 6.
(2)  Vgl. F. Vahrenholt, Umweltpolitik, in:Handwo¨rterbuch des Umweltrechts, 2. Aufl. 1994, Sp. 2248f.
(3)  Vgl. E. Rehbinder, Artikel ゛apan, in:Handwo¨rterbuch des Umweltrechts, 2. Aufl. 1994, Sp. 1223.
(4)  Vgl. H. Weidner/E. Rehbinder/R.-U. Sprenger, Darstellung und Wirkungsanalyse der o¨konomischen Instrumente der Umweltpolitik in Japan. IFO-Institut fu¨r Wirtschaftsforschung, 1989.

  参考文献
Behrens, Peter/Koch, Hans-Joachim (Hrsg.), Umweltschutz in der Europa¨ischen Gemeinschaft, 1991.
Bender, Bernd/Sparwasser, Reinhard, Umweltrecht, 2. Aufl., 1990.
Breuer, Ru¨diger, Umweltschutzrecht, in:v. Mu¨nch/Schmidt-Aβmann, Besonderes Verwaltungsrecht, 9. Aufl., 1992, S. 391ff.
Hoppe, Werner/Beckmann, Martin, Umweltrecht, 1989.
Kimminich, Otto/Freiherr von Lersner, Heinrich/Storm, Peter-Christoph (Hrsg.), Handwo¨rterbuch des Umweltrechts, Bd. I u. II, 2. Aufl., 1994.
Kloepfer, Michael, Umweltrecht, 1989.
Peters, Heinz-Joachim/Schenk, Karlheinz/Schlabach, Erhard, Umweltverwaltungrecht, 1990.
Rengeling, Hans-Werner, Umweltschutz und andere Politiken der Europa¨ischen Gemeinschaft, 1993.
Schmidt, Reiner/Mu¨ller, Helmut, Einfu¨hrung in das Umweltrecht, 4. Aufl., 1995.
Storm, Peter-Christoph, Umweltrecht, 5. Aufl., 1992.
Wicke, Lutz, Umwelto¨konomie, 4. Aufl., 1993.

  環境に関する法律と法規命令は、Loseblatt-Ausgaben von Kloepfer, Michael, Umweltrecht. Textsammlung des Umweltrechts der Bundesrepublik Deutschland, 1981ff.;Wolfgang Burhenne, Umweltrecht. Textsammlung, 1962ff.に公表されている。
  日本の環境法に関する文献(ドイツ語と英語で出版されたもので、日本人筆者によるものを含む)は、E. Rehbinder, Artikel ゛apan, in:Klmminichi, Otto/Freiher von Lersner, Heinrich/Storm, Peter-Christoph (Hersg.), Handwo¨rterbuch des Umweltrechts, Band I, 1994, 1225ff.で包括的に指摘されており、同時に日本の環境法の法律規定も公表されている。

[訳者あとがき]
  ケルン大学法学部ヘルムート・クリューガー教授(Prof. Dr. Hermut Kru¨ger)は、環境法・行政法を専門とされており、また現在は同大学において学術法研究所の所長も兼任されている。この原稿は、一九九五年九月に、立命館大学法学部とケルン大学法学部、ケルン市、ケルン日本文化研究所とが共同で行ったシンポジウム企画(立命館大学法学部ニューズレター4号(一九九六・二)に企画全体の紹介がある。http:://www. ritsumei. ac. jp/kic/ja/htdocsj/newslet 4. html)の一環として、九月一八日の午後七時から、ケルン市庁舎会議場で、立命館大学吉村良一教授による日本の公害・環境法に関する講演と併せて行われた講演に基づいている。原題は、ヾta¨rken und Schwa¨chen des Umweltrechts―ein Vergleich zwischen Japan und Deutschland― である。教授には、当初から立命館法学誌上での紹介に快諾いただいていたにもかかわらず、当方の事情で掲載が大変遅れてしまったことを心からお詫びしたい。また、すでに講演から二年以上を経ているので、文献など最新のものに改めるべき部分もおそらくあろうが、教授の比較の視点や考察は現在でも十分に興味深く、そして何よりこの紹介は講演の記録としての意味も持っているので、当時の原稿をあえて手を入れずに紹介することにした。クリューガー教授を初めとするケルン大学法学部のスタッフと本学法学部との研究交流は継続されているので、ドイツ環境法の最新状況についても別途紹介いただく機会を持てればと思っている。
  なお、ドイツ環境法の概要に関する邦語文献としては、吉村良一「ドイツにおける公害・環境問題と民事責任論の新しい動向」立命館法学二二〇号一頁以下(一九九一年)、東京海上火災保険株式会社編『環境リスクと環境法−欧州編−』九一頁以下(有斐閣、一九九二年)などを参照されたい。
  Ich mo¨chte Herrn Prof. Dr. Hermut Kru¨ger fu¨r die Genehmigung der U¨bersetzung Ihres Vortrags herzlich danken.
(4. April. 1997, Kyoto, a. o. Prof. Shinichi Wada)