立命館法学 一九九七年三号(二五四号)五七〇頁(一二二頁)




国連カンボジア暫定統治機構 (UNTAC)活動の評価とその教訓 (二・完)
カンボジア紛争を巡る国連の対応 (一九九一〜一九九三)


一柳 直子






  目  次
は じ め に
第一章 UNTACの活動
 1.パリ協定
 2.UNAMICの設立
 3.UNTACの任務と特徴
 4.UNTAC各部門の活動 (以上、二五二号)
第二章 UNTACの評価   (以下、本号)
 1.成功
 2.失敗
 3.成否の決定要素
第三章 UNTAC活動からの教訓
 1.UNTAC活動からの教訓
 2.選挙後とポストUNTACのカンボジア
結   論


第二章 UNTACの評価

 前章でUNTACの七部門の活動を部門ごとに総括したことから明らかとなったことは、UNTACは各部門ごと、さらには各部門内部でも、その任務を遂行できたものとできなかったものがあったということである。このことはまた、UNTAC活動全体を評価する際にも言えることである。複雑且つ多様な任務が与えられていたUNTACの活動を、一面的に成功したか、失敗したかという観点で議論できないのはこのためである。
 そこで本章は、全体としてのUNTAC活動の評価を多面的に行うために、三つのパートから構成される。すなわち、第一節では、UNTAC活動の成功した分野を列挙し、その要因を分析する。続く第二節では、UNTAC活動の中でその任務を果たせなかった分野を呈示し、その背景を考察する。最後に第三節で、PKO活動の成否を決定する一般的な諸要素を、UNTACの場合と照らし合わせながらUNTAC活動の総括を行ないたい。

1.成  功
 UNTACの成功として第一に挙げられるのは、カンボジアがその歴史上おそらく初めて、外国の支配からの真の独立を享受したことである。一九五四年までのフランスと日本の植民地支配に始まり、アメリカ、中国、ヴェトナムの介入を経て、一九九三年に国連が実施した選挙によって、カンボジア人は初めて、民主的に自らの政府を選び、外部勢力からの影響を受けない独立した政権を誕生させたのであった。
 第二に、カンボジアにUNTACが存在したという事実そのものが、この国に影響を与えたことである。すなわち、このことは全面的な内戦の終了を意味したのであった。
 三六万人以上の難民がタイの難民キャンプから平和裡に帰還したことが、UNTACの成功の第三点目である。またその際、UNTACが難民にその最終目的地を自由に選べることを保障したことは重要であった。
 四点目は、UNTACが選挙を実施し、それが成功したことである。UNTACが様々な手段を用いて、人権と選挙の概念についてカンボジア人を教育したことは、当初の予想をはるかに上回る選挙人登録者の数、並びに九〇%に及ぶ高い投票率にも十分な成果となって現れた。この選挙の成功は、カンボジア国民を権力闘争に参加させたということだけでなく、これまでの監視活動のみならず、実施計画の段階から選挙法の制定、選挙人の登録、選挙の実施まで全てを国連が直接組織したという点で、今後の国連の類似の活動にとっても意義深いものとなった。
 UNTACの成功の五つ目は、民主的な議会システムをカンボジアに作ったことである。換言すれば、選挙によって、民主主義を創設するための最初の重要なステップが踏み出されたのであった。この憲法制定議会 (憲法制定後は国民議会となる)によって、カンボジアは東南アジア諸国で唯一の、自由民主主義の諸原則並びに基本的人権の保障を柱とした民主的な憲法を持つ国となったのであった。
 六番目に、UNTACが実施した選挙によって、カンボジアには連立政権が誕生した。パリ協定の調印者であるKRがこの連立政権に参加していないとはいえ、選挙戦を戦った政党の間で、相対的に平和な権力の移行が行なわれたことが、この民主化プロセスの中でも最も重要な側面であろう。
 最後に、移行期間中にカンボジアに市民社会の萠芽が出現し始めたことが挙げられる。例えば、利益団体がその結成を許可され、議会での活動を行なっている。さらに、UNTAC展開中には一〇〇以上のNGOが組織された。また十数紙の新聞 (主に英字新聞)が出版され、そのいくつかは独立系の新聞社で、政府指導者や野党党員に対して批判的な見解を表明している。加えて、九五年現在で、一二の人権団体がカンボジアで活動している (1)
 UNTAC活動が成果を収めた要因は、様々なものが考えられるが、次に、それらの諸要因について詳しく見ていこう。
 まず第一に、パリ和平協定が存在したことである (2) 。パリ協定に設定された和平プランは、国連のその他のPKO活動には見られない活動のための枠組みと最終目的を明確にした。和平プランの中心に選挙の実施を置いたことによって、UNTACとカンボジア国民が結束するための目標が提供されたのであった。また、パリ協定は同時に、活動のタイムテーブルも前もって設定しており、UNTACが、おおよそそのタイムテーブル通りに活動したということにも触れておく必要があるであろう。言い換えれば、パリ協定が存在したということは、それに基づいてUNTACが仕事をする政治的な枠組みがあったということなのである。
 第二に、個別の協定や合意を実施する過程で、関係各国が非常に強固な決意でカンボジア和平を支えたという事実が挙げられる (3) 。安保理の五常任理事国 (P5)は常に、UNTACを支持し、和平プロセスに関与し続けたし、地域の主要国である、オーストラリア、インドネシア、日本、さらにタイやASEAN諸国の支援も重要であった。また、KRを和平プロセスに再び参加させるための努力が、オーストラリア、インドネシア、日本やタイなどといった国々の二国間外交を通じて常に続けられた。国際社会が、軍事要員並びに文民要員を派遣することによって、UNTACに参加したこともまた重要であった。何故なら、様々な国々がその活動に参加することは、PKOにとっての「正統性の鍵 (4) 」を握る要素であるからである。加えて、軍事部門のトップであるサンダーソン将軍がオーストラリア人であったことから、彼はオーストラリアの支援を動員することができたし、UNTACのトップである事務総長特別代表が日本人であったことから、日本も気前よくUNTACからの要請に応じたのであった (5) 。この近隣諸大国の継続したサポート、またさらに重要なことには、最低限の国連の投資が、UNTACの成功に貢献したのであった (6)
 第三に、紛争各派に対する国連及び各国のアメとムチの併用が、うまく機能したことが挙げられる (7) 。カンボジア問題に関して採択された安保理の決議は十数本にのぼる。それは一方では、和平プロセスからのKRの離脱を防止するための対話路線を継続することを貫き、他方では、KRが安保理の定めた和平日程に抵抗するようになった後、事実上の制裁措置ーー経済的な措置であり軍事的な制裁措置ではなかったーーを次々と取った。「天然資源保護措置」と呼ばれたそれらの措置は、SNCによる自主的な決定の形を取り、そのような「アメとムチの併用と、相手の面子を尊重するやり方が有効に機能した(8)」と明石特別代表は述べている。
 四点目は、UNTACが、国連史上かつてないほどの強大な権限を与えられたことである(9)。加えて、与えられた任務が広範囲に及んでいたことも成功の一因であった。選挙を通じた国民和解は、その他の部門の任務が失敗に終わったとしても、可能であった。すなわち、ある分野で失敗したとしても、それがUNTAC活動全体の失敗とはならなかったのであった(10)
 UNTACがあらゆる局面において政治心理的な側面、ないしは広報・教育活動を重視したこと(11)が、その第五点目である。「国連のPKOの成否は、究極的には、国連が関係国の人々の心をつかみ、国連の目的に協力してもらえるかどうかにかかっている(12)」と後に明石特別代表は述べている。この点に関して、UNTACはカンボジア人民に選挙の重要性やUNTAC活動の目的を広報・教育活動を通じて理解させたことによって、カンボジア人の支持を得ることができた。実際、二三年間も戦乱と惨苦の経験をしたカンボジア国民は平和を強く希求していたのであった。その際、シアヌーク殿下の存在も、カンボジアでは大きな要素であった。カンボジアの紛争各派がその立場にかかわりなく受け入れ得る人物は、彼以外になかったからである。「気まぐれ殿下」という批判を受けているにもかかわらず、その一方でかけがえのない調停者としてのシアヌークの存在が、いくつかの危機的な局面において決定的な役割を果たしたことは否定できないのである。
 六点目として、カンボジアを取り巻く様々な外的要因が変化したことが挙げられる。第一に、冷戦の終焉によって生じた新たな世界秩序の下で、中越関係が改善されたこととソ連と西側諸国との対立が終了したことによって、パリ協定の調印が実現した。第二に、一方で、KRの後見人であった中国が、天安門事件以降悪化の一途をたどっていた西側諸国との関係改善を要したことでKRへの支援をやめたこと、他方で、冷戦終了後の東西デタントの中でソ連がカンプチア人民共和国政府 (PRK:SOCの前身)への援助を停止したこと、さらにPRKの最大の支援国であったヴェトナムのPRK離れが進んだことから、カンボジアの紛争各派の戦略が内戦を終了させ、和平協定の調印によって、選挙を実施して新たな民族和解政府を創造する方向へとシフトしたのであった(13)
 第七の要因は、紛争各派からの消極的な支持であった(14)。彼らはUNTACの活動に対して積極的には反対しなかった。さらに、UNTACが直接に組織して行なった活動は、それが効力のあるものとなるために四派からの積極的な協力を必要としなかったのである。すなわち、UNHCRは国際赤十字と様々なNGOの協力のもとに帰還活動を管理したし、人権部門と広報部門は国際及び地元NGOの支援を得て、人権教育を実施した。さらに、選挙部門の活動にとっては、軍事部門のサポートと国連ボランティア並びに現地で採用されたカンボジア人選挙スタッフの働きが非常に重要な意味を持ったのであった。
 八番目の点はリーダーシップである。とりわけ重要なのは、前述したようにシアヌーク殿下であった。重要な局面、特に総選挙の後に、彼はリーダーシップを発揮し、カンボジア政治の統合者として登場した。彼はまた、UNTACと国際社会がカンボジア人の真のシンボルとして付きあうことのできた人物でもあった。カンボジアにはまた、ラナリット殿下とフン = センという二大政党を代表する「スポークスパーソン」が存在した。
 UNTAC内部のリーダーシップも特筆に値する。明石特別代表とサンダーソン軍事部門司令官は、常に同意見を持っていたわけではないが、両者は共に、パリ協定違反から国連活動に内在する官僚主義から来る組織内部の硬直といった諸問題にもかかわらず、UNTACを成功に導くための政治的・文化的鋭敏さを備えていた(15)。アジア人として、体面を重んじ、対立を避けることを重要視するカンボジアの文化的規範を理解していた明石氏は、特別代表の任に適していたと言えよう。彼に与えられていた権限を行使して決定を強制することで、カンボジアのマッカーサー将軍となることを望まなかった(16)明石氏は、常にカンボジア四派間のコンセンサスで物事が決定されるように腐心した。が、一方で、それが要求された際には、非常に強固な姿勢で、問題に対処していった。サンダーソンもまた、このような活動を行なう軍事部門の指揮官としてふさわしい資質を持った人物であった(17)
 最後に、情勢を味方にしたことが、その成功の一因として挙げられよう。具体的に第一には、KRがその戦略を決定する際に、カンボジア人の平和や民族和解への希求を誤算したこと、第二には、KRがその支援者であった中国と、協定違反や中国人PKO要員を殺害することなどによって、不和になったこと、最後に、重要な局面において、いつもは予見不可能な行動を起こすシアヌークが自分自身よりもカンボジア人民の利益を基に行動したこと(18)、などがそれである。

2.失  敗
 先に述べたような数々の成功を収めたUNTACの活動であるが、同時に失敗に終わった分野もあるのが事実である。その第一点目は、文民行政機関の直接管理が失敗に終わったことである。パリ協定の下、UNTACは自由で公正な選挙を実施するための中立な政治環境を保障し、いずれの派も選挙目的のために行政機関を用いることができないようにするために、選挙の結果に影響を及ぼし得ると見なされる外交、国防、公安、財政、情報の五つの行政部門を直接管理することとされていた。UNTACはまた、各派の行政機関に要員を派遣したり、その役職に適任でないと認められた各派の行政官を解雇したりする等の権限をはじめ、四派の行政活動を監督する権限を有していた。しかしながら、これらの任務は一部を除いて上手く機能しなかった。具体的に言えば、例えば、財政分野でUNTACは通貨の発行と国境貿易を上手く監督、管理したが、その一方で、CPPの財政部門とSOCの財政部門を分離することに成功したかどうかは議論の余地がある(19)。また、UNTACの管理チームの調査によれば、CPPがその選挙キャンペーンに、警察官や軍隊、公務員といったSOCの国家機関を利用していたことが明らかになった。裁判なしの拘束や被疑者の拷問といった悪弊が常態化していた警察権力による人権侵害をなくすためにUNTACが行なったプログラムも控訴裁判所がないことから成功しなかった。この点に関して言えば、UNTACは人権侵害に対して強制的に対処することを嫌い、とりわけ最もひどい人権侵害を取り扱うための司法システムを確立する意思がなかったのであった(20)。この直接管理の失敗から、文民行政部門は管理チームによる各派の選挙活動の監視にその任務を集中することに軌道修正を行った。
 第二に、UNTACは停戦と武装解除を達成することができなかった。パリ協定に明記されていた「自由で公正な選挙を実施するための中立な政治環境を保障」するためには、この停戦と武装解除の実施が必須事項であったにもかかわらず、両者はKRの協定違反に端を発して失敗に終り、選挙前に明石特別代表が「中立な政治環境」がないことを認めざるを得ないほどまでにカンボジアの治安状況は不安定であった(21)。結局、UNTACは法と秩序の崩壊を防げず、中立な政治環境を創造できなかったのであった。またこうした状況の中では、平和を保障することも不可能となった。
 第三点目として挙げられるのは、UNTACの運営上の失敗で、これには部門間の調整や協力が乏しかったことが含まれる(22)
 カンボジア国民の大半の社会・経済的ニーズに対処することができなかった点が、その第四の点である(23)。援助のタイプはカンボジアのニーズやプライオリティに合致したものよりも援助提供国の優先権を基にして決定されることが多かったし、また代理機関間あるいは援助提供国間の緊張関係や競争が問題を複雑にした。加えて、移行期間中には、UNTACがその発生に責任を負うとされる様々な社会問題が生じた。無法状態、強盗、汚職、人種差別的要素をもつ暴力事件や緊張状態の増加、売春及びエイズ禍の急速な増大、ストリート・チルドレンの増加、弱者集団の生活状況の悪化、基本的な公共サービスの低下、プノンペンをはじめとする都市部の地価の高騰、熟練労働者の給料の上昇などが、これらの社会問題に含まれるが、こうした諸問題に対する対策をUNTACは「内政問題である」として講じなかったのであった。
 以上に挙げた点がUNTACの失敗した分野であるが、それでは、以下に何がこの失敗の要因として考えられるか分析していこう。
 失敗の要因としてまず挙げられるのが、カンボジア四派の非協力的な態度ーー主としてKRとSOCーー、並びに彼らによる度重なるパリ協定違反である。和平プロセスを進行させるうえで、UNTACには協定調印者にそれを強制する権限はなく、パリ協定では、四派が協定を遵守するであろうという前提を下に和平のタイムテーブルが設定されていた。それ故に、UNTACがその任務を遂行できるかどうかは、四派の「善意の履行」に大いに依存していたのであった。ガリ事務総長が選挙前に語ったように、UNTACは「対話、説得、交渉及び外交」を通じて問題を解決することができるのみであったのである(24)。しかし現実には、四派の抵抗からUNTACの任務遂行の試みは挫折したのであった。さらに、移行期間中のシアヌークの移り気な態度と行動が、UNTACの任務遂行を複雑なものにした(25)。健康状態に不安を抱え、移行期間の大半の期間を北京で過ごしていたにもかかわらず、UNTACは国民の間で絶大な人気を誇り、対内的にも対外的にも、SNC議長として重要な地位にあるシアヌークと反目するという危険を冒すことはできなかったのであった。
 第二に、資源、計画、実践という点に関して、UNTACは永続性のある解決策を導入することができない数々の限界を有していたことである(26)。さらにUNTAC活動によって、国連が大規模且つ多部門にわたる任務に着手し、それを継続してやり遂げるために必要な体系を備えていないことが明かとなったのであった(27)
 三点目としては、展開の遅れが挙げられる。UNTACの展開が遅れたことは、その後の活動に様々な悪影響を及ぼした。例えば軍事部門の迅速な展開は、武装解除プロセスの成否の鍵を握っていたにもかかわらず、実施計画では、通信班、航空班並びにエンジニア班ーーこれらのユニットは武装解除プロセスを成功させるのに重要な部隊ではあったが、技術的及び補佐的な性格を有するのみであったーーの派遣のみが九二年四月末までに完了することになっていた。信頼醸成プロセスにおいて最も重要な役割を果たすべき一二の歩兵部隊、海軍部隊や警察はその活動を五月以降ーー武装解除の第二段階が始まるわずか一カ月前ーーまで始めないことになっていた。しかも、実際にはその展開は予定よりも大幅に遅れ、九二年九月に、UNTACの全部門が現地での活動を開始した時には、四派はすでにUNTACの中立な政治環境を作るという能力に対する信頼を失ってしまっていたのであった(28)
 第四点目は、UNTACの任務の大きさと複雑さ、多面性によって、技術的・政治的制約が生じ、その活動に支障をきたしたことである。技術面では、各部隊が部隊ごとの機材や基準をもっており、結集した軍隊内部で確実なコミュニケーションを確立することが困難になった。また、政治面では、和平プラン、パリ協定、実施計画のいずれもが、四派の安全上のニーズにプライオリティを与えておらず、そのことから、各派間の相互不信を取り除くことができなかった。
 五点目は、UNTAC自身の規模の大きさーー四〇以上の国々がUNTACに軍事要員や警察要員を派遣したーーに起因するもので、使用言語の問題である。カンボジアでは、フランス語も英語も (共にUNTACの公用語)話せないという部隊がいくつかあったために、相互のコミュニケーションを取るうえで問題が生じた。さらに、UNTACには、バイリンガルのオペレーター (例えば、クメール語に堪能な者)がいなかった。
 UNTAC内部の明確かつ明瞭な指揮系統の欠如とニューヨークの国連事務局との間での調整の欠落によって、活動の効率性を失ったことが、第六の要因である(29)
 第七番目の要因は、財政上の諸問題である。限られた財源の中で、UNTACは帰還プロセスにその多くをつぎ込んだが、そのことによって他部門の財源が圧迫され、文民分野の要員や資源を切り詰めなければならくなってしまった。スタッフ不足は、文民分野での直接管理が失敗した一因でもある。
 最後に、スタッフは数の面で不足していただけでなく、質の面でも残念ながら不十分であることが多く、それが八番目の要因であった。中でも文民警察部門でその傾向が顕著であったことは、前章でも触れた通りである。
 また個別の任務として、「直接管理」が失敗に終わった原因には、第一に、その主たるターゲットとなったSOCの大臣や役人が「直接管理」に抵抗し、それが障害となったこと、第二に、文民行政部門の準備が不適当であったこと、すなわち、先にも触れた様に能力のあるスタッフが不足していたこと、SOCの官僚組織の性質及びクメール語に対する知識の低さやカンボジアに対する深い造詣と感性の欠如、などが挙げられる(30)。直接管理と並んでUNTACの政治的暴力に関する調査が不調に終わった理由としては、第一に、パリ協定の規定で、四派がそれぞれの支配地域内で各々、警察活動ができることになっていたこと、第二に、文民警察官が任務に関する訓練を十分に受けておらず、士気に欠けていたこと、最後に、裁判システムを通じた証拠集め及び証拠提出という概念がカンボジアになかったことが指摘できる。

3.成否の決定要因
 前二節では、UNTACの成功及び失敗分野とその諸要因について見てきたわけだが、本節では、UNTAC活動の成否を決定する上で特に重要であると考えられる事項をいくつか列挙し、個別に詳しい分析を試みたい。

 A 実 施 計 画
 先に触れたように、UNTACに詳細な実施計画があったことは、その後の活動を進めていく上で、非常に有益であった。実施計画を練るために、九〇〜九一年にかけて、国連はカンボジアにいくつかの調査団を派遣し、とりわけ選挙実施に関する先行計画は、九〇年から九二年八月にかけて、オーストラリア政府の協力を得て、充実していったが、それ以外の分野における先行計画は、調査団が派遣されたにもかかわらず、寄せ集めで調整不足であったのが現実である。したがって、後に明らかになったように、実施計画にはいくつかの重要な欠陥が見られた。すなわち第一に、実施計画は現地の状況に合わせた後方支援組織の見積もりを基にしたものではなかったこと、第二に、実施計画では現行行政機構と共に行政活動を行なう際に生じるであろう政治上の問題点や実践上の問題点が考慮に入れられていなかったこと、最後に、一八カ月間という期間内に、パリ協定で定められていた任務を遂行することは不可能であった、というのがそれである(31)。また先行計画を練り上げていく上で、集権化された後方支援部隊計画局が、事務局にはなかったという問題が国連内部にもあり、そのことが実施計画の欠陥につながったことは否めない。
 さらに、和平プランの発展とその実践とが継続して行なわれなかったことから、UNTAC活動ははじめからハンディキャップを背負うことになった。言い換えれば、パリ協定の画策に携わった者と、その実践に関わった者がそれぞれ違っていたのであった。例えば、九二年一月に事務総長に選出されたガリ氏は、前任者のデクエヤル氏がカンボジア全四派から信頼を得ていたのとは違って、この問題に関して経験がなく、また人事交代の事務処理等によって実施計画の迅速な提出が阻害された。UNAMICの上級官が引き続きUNTACに携わることはなく、UNTACの上級官のうち、帰還部門の指揮官であったUNHCRのS・V・デメロ氏だけがカンボジアでの仕事の経験があったにすぎなかった。九一年の計画開始時点からの人員が継続してその実施にも関わった選挙部門が成功していることからも、この計画から実施まで同じ上級スタッフが登用されるということが、当該PKOの成功のための重要な要素であることが言えるであろう(32)
 最後に、効果的な計画立案には、活動基準を設定しそれに必要な資源を明確にする事務局と、現地の条件を定義した後にこれらの基準を実施する任務を負う現地との間の対話が必要である(33)

 B 迅速な展開
 UNTACの場合、実施計画立案の遅れーー事務総長の実施計画が提出されたのは九二年二月になってからで、パリ協定の調印から四カ月後であったーーから、その展開は大幅に遅れ、完全に活動可能な状態になるには九二年七月から八月ーーパリ協定調印から九カ月後ーーまで待たねばならなかった(34)。UNTAC活動が公式に開始されたのは、パリ協定調印から五カ月後の九二年三月一五日であった。UNTACの派遣が遅れた原因はいくつか考えられるが、以下、列挙すると、(1)具体的な計画、予算及び準備が国連本部でなされなかったこと、(2)適切な予算と人材が認められなかったこと、(3)九二年初頭に事務総長が交替したこと、(4)同時期に、旧ユーゴ紛争に対処することを国連が求められたこと(35)、(5)国連本部の組織能力の欠如及び経験不足(36)、(6)人員募集の面で、現行のシステムでは、国連内部での人材の募集ができず、加盟国から募らなければならないので、現地派遣に時間を要したこと、(7)国連の規定では、迅速な派遣を行なえず、さらに各国政府からの迅速な対応を保障する手続きがないこと(37)、ョ国連の複雑な予算配分手続き及び資金提供国の財政援助の遅れ(38)、最後に、ッ活動に必要な物資の調達が困難を極めたことと、その調達がスローペースであったこと(39)、等が指摘できる。
 この展開の遅れがその後の活動に及ぼした影響は多大であった。文民行政部門の展開が遅れたことによって、SOC官僚達はUNTACに対して非協力な態度を取るようになってしまった(40)。またもちろん、展開の遅れは、和平協定のタイムテーブルを圧迫した。そして、PKO活動の成功に不可欠な時間的なインパクト及び好機をUNTACは逃してしまったと言える。パリ協定が調印された九一年秋は、現地でも和平の気運が最高潮に高まった時期であり、カンボジア国民のUNTACへの期待も膨らんだ時期であった。しかし、UNTACの展開が遅れたことから、カンボジア国民は国連の紛争解決能力を疑問視するようになり、移行期間の進行に伴って、UNTACはカンボジア国民の間でその信頼を失っていった。したがって、現地人民の支持を得るためにも、PKO部隊が敏速に行動を起こすことは重要である。

 C 武力の行使
 UNTACには、伝統的なPKO活動と同様に交戦権はなく、武力の行使は自衛の場合に限られていた。また、自衛のためであっても、武力の行使は非常に制約されていた。実際、UNTACは武力を行使するための装備を施されていたわけでも、武力を行使するために展開されていたわけでもなかったのであった。
 当初、UNTACは自衛権を狭義に定義しており、後にその定義は若干拡大されたが、その場合でも、(1)自衛のために武力を行使すべきか、(2)その場合、どの程度までの武力の行使が認められるべきか、といった点に関しての共通の解釈はなかった。また、明石特別代表とサンダーソン軍事部門司令官は共に、武力の行使を望んでおらず、サンダーソン司令官にとっては、「平和維持活動に平和執行は含まれず、強制行為は戦争(41)」であったし、明石特別代表も、「安保理からUNTACに与えられた任務には武力の行使は入っていないし、そうした軍事的能力もUNTACは持っていないことを確認し、その種の方法に訴えることを拒絶すべき(42)」であるとの見解を持っていた。後にKRからの協定違反行為が増加していった際にも、KRに対する限定的な武力行使について、「(明石特別代表は)軍事部門に検討を命じたものの、やはり不可能であるとの結論に達した。UNTACには普通の意味での戦闘能力やゲリラ戦のいずれについても、それを行う能力はないし、そうした任務も与えられていないというのが、幹部の一致した意見(43)」であった。
 第二世代の平和維持活動におけるより実効的な軍事力を提唱する者によれば、武力の行使に関してさらなる柔軟性が要請されるべきであり、選択肢の幅を拡大すべきである、と主張されているが、このことは、武力行使のための敷居を低くすることや、国連が積極的に「平和のために闘う」ことを意味するわけでもないのである(44)

 D 中 立 性
 国連の平和維持活動では、「中立性」と「公正さ」の維持が非常に重要である。カンボジアの場合、紛争当事者のある派ーーここではKRーーが露骨な協定違反を行い、UNTACが和平プロセスを進めるうえでKRの協力を必要としているにも関わらず、これに対して禁輸措置が課されたという状況の下では、とりわけ困難な事態に陥った。
 こうした中、カンボジアでは、国連の中立性は侵されたと言える。明石特別代表は、カンボジア各派に対するアプローチに関して、中立ではなかったと結論付けられるであろう(45)。何故なら、ある者は、彼がSOCに肩入れしていると考え、その一方である者は、UNTACがKRに対して十分に強固な態度を取らなかったと考えたからである。また、彼がSOCの政敵を支持したことは、中立性の問題がいかにして扱われるべきかという深刻な問題を提起することとなった(46)
 ヘイニンジャー氏が述べている様に、国連は、平和構築を成し遂げるために、とりわけ、紛争当事者が和平というゴールを国連と共有せず、それに反対して暴力に訴えることを躊躇しない場合に、その中立性を侵すという対価を払うことが必要であるのかどうかを、慎重に決定する必要があるのである(47)

 E 各部門間での調整
 UNTACのように大規模で多面的な任務を持ったPKO活動では、その各部門間での調整が効果的に行なわれるかどうかは、その任務の達成にとって重要な要素であった。
 現実には、軍事部門と文民部門との間の調整がその効率的な任務遂行のために必要であったにもかかわらず、軍事部門の活動は、その他の部門の活動との調整の上に行なわれたわけではなかった。それらの活動を調整することを任務とする軍事・文民共同のスタッフもいなかった。また、全ての部門が参加する調整会合が開かれてはいたが、それは主に、政策レヴェルでの調整であって、活動レヴェルでのものではなかった(48)。この調整の欠如は、各部門による任務の重複の原因となった。さらに、軍事・文民両部門間の共同計画がなかったことによって、九二年後半に政治的暴力がエスカレートしてきた際に、選挙スタッフの身の安全が脅かされた州もいくつかあった(49)
 この分野に関して言えば、UNTACは今後の類似のPKO活動に課題を残したと言えよう。

 F ス タ ッ フ
 様々な分野でその専門分野に精通した優秀な人材を数多く確保できるかどうかは、PKO活動の成否を左右する問題である。この点に関して、使命感に燃え、KRの協定違反から生じた危険をものともしない精力的な活動で選挙部門を支えた国連ボランティアとは対照的に、文民警察部門は要員の質について数多くの課題を残したのは、前章でも触れた通りである。
 ヴェトナム戦争中に米国サイドで戦った者が、現地司令官として赴任したり、広報・教育ユニットのある司令官は、かつて、プノンペンの米大使館の高官としてロン = ノル政権を支援し、七九年以降はタイ・カンボジア国境で米国の政策を推進していた経歴を持ち、彼らの善意にもかかわらず、かつての敵陣営の中には疑念が残っていたであろう(50)。このような人物を採用することによって、国連はその信頼性と中立性を低下させたのであった。
 カンボジアに派遣された人員の多くは、技術、経験及びカンボジアに関する知識がなく、上級官クラスにおいてもカンボジアの専門家や学者がいなかったのであった。また、金銭的あるいは個人的な理由で参加した者もいたのであった。さらにクメール語に堪能な人材が不足したことから、通訳、翻訳の仕事に多くの時間を割かねばならなくなってしまった。
 その一方で、UNTACの仕事を補完し、同時に独自に活動した国際NGO並びに現地NGOは、評価されるべきである。それらは、難民の帰還、人権教育の促進や地雷で足を失ったカンボジア人のための義足の提供といった分野で貢献した。

 G 民族和解とSNC
 UNTACはカンボジア四派による「権力分配」の代替案であり、そのための機関として設置されたのがSNCであった。SNCは移行期間中のカンボジアの「主権を体現」する地位を与えられたが、実際にはUNTACへの「諮問的」機関として機能したにすぎず、実効的な権力はほとんど行使しなかった。加えて、SNCの政策決定には、パリ協定の文言とは違って、実際には拡大P5がSNCの会合にオブザーバーとして出席していた(51)ことから、P5や他の関係諸国からの多大な影響力が見られた。このようにSNCにはいくつかの問題点が指摘されているが、ドイル氏が指摘しているように、「多元的民主主義」を追求するうえでSNCには、市民社会の一員として、例えば仏教僧、NGOや国家以外の社会の代表なども含まれるべきであったのではないであろうか(52)。これらの補佐団体は立法権や執行権を執行する必要はなく、ここで重要なことは、市民社会が公式に認められた諮問的なチャンネルを通じて政策決定過程に参加することである(53)
 パリ協定が提供した民族和解は不完全な和解であった。協定調印時、四派には他の選択肢がなかったし、協定に対する思惑もそれぞれで、一致した見解を持っていたわけでもなかった。SOCはパリ協定による兵員引き離しと武装解除をKR軍を崩壊させるための手段であると考えていたし、自分たちの行政機構に対するUNTACの実効管理を阻止することを決定していた。一方のKRは、UNTACがSOCの行政機関を監督し、さらにそれを弱体化させられるであろうことを望んでいた。この二派と比べてより弱小の武装集団であったFUNCINPECとKPNLFは、選挙を実施するためにパリ協定が必要であった。
 シアヌークに関して言えば、彼は彼自身の利害を追求した。軍事力も権力基盤も持たない彼は、その正統性を強化するために彼を必要としていたSOCに接近し、カンボジア民族のリーダーとなり、自分流の方法で和平を達成し、KRと共に自身の過去を消してしまうという彼自身の目標を達成しようとした(54)。カンボジアに戻った後も、彼は四派に民族和解のために一丸となって努力することを奨励せず、そのための土壌を作り出そうともしなかった(55)。UNTACを植民地権力と見做していたシアヌークはまた、UNTACに対して非協力的であった(56)。選挙後、米国の強力な反対とUNTACの抵抗にもかかわらず、彼は暫定連立政府案を押し進めることに成功した。この政府は、選挙で選出された議会からの全会一致の支持を得ているにもかかわらず、パリ協定で予見されておらず、UNTACも当初政府として認めていなかったが、カンボジアの新たな政治的安定の始まりであると言える(57)。しかし、選挙後も、国内のライバル関係は依然として潜在的に存在するため、相互調整を行なうことが必要である(58)

 H 文化的・地域的相対主義ーーカンボジアの特性ーーの認識
 PKO活動を成功させるためには、当該地域の歴史・文化・社会・慣習などをしっかりと認識した上で、その地域に即した方法を採用するというやり方が要請されるのではないであろうか。
 カンボジアもまた、先進国社会とは異なる特質を持つ社会である。カンボジアは、国民の九〇〜九五%が農業に従事する農業社会であり、またその労働力の六〇〜六五%を女性が占めている(59)ーーこれは七五〜七九年のKR政権時代の大虐殺によって男性人口が不足していることに起因する。カンボジア社会と文化は、複雑な道徳慣例とヒエラルキー的な人間関係に特徴付けられる。このヒエラルキーは国家のトップから社会の末端まで浸透しており、村々では、その村の実力者が集団の面倒を見て、他の者は彼に従うという家父長的システムが確立されている。家父長的システムの浸透から、強力かつ統一されたリーダーシップを求める国民性が導き出され、このことがカンボジアにおけるシアヌークの存在を説明している。
 対外的要素として、クメール王朝時代及びフランス植民地時代から脈々と流れる、隣国大国のヴェトナムに対する根深い反越感情もカンボジア社会の特性を語るうえで忘れてはならない側面である。また、国内的にはKR政権時代及び内戦、難民キャンプでの生活の結果、精神的な諸問題、恐怖心、相互不信感が生み出された(60)
 政治的には、民主主義の限定された経験しかなく、九二年の時点で、カンボジアには民主的移行及び民主主義への移行の土台が、経済面、社会面、文化面及び制度面で整っていなかった。また、多様な民主主義の経済的基盤となる強力な中産階級も存在しておらず(61)、最近まで、「社会」や「コンセンサス」に相当する言葉もなかったのであった(62)
 以上のような特性を持つカンボジアでは、「『カンボジア的民主主義』でゆくしかないし、杓子定規に西欧的民主主義を導入してもダメである(63)」と考えていた明石特別代表が、「杓子定規に民主主義や人権思想をカンボジアに普及しようという一部欧米諸国出身のUNTAC職員の考え方をたしなめなければならない(64)」こともあった(65)
 和平とUNTACはカンボジアの文化的諸要因から失敗に終わる運命にあったという主張もある。リゼ氏は、「仏教とバラモン教の影響力といった要素と結びついて、カンボジアの辿った特異な歴史と資本主義的発展によって、政治の制度化に対するカンボジア人の深い不信感が教え込まれて」おり、「後ろ盾と家族の絆を大切にするというカンボジア人の精神とそこにおける『公的な領域』の欠如は、政治参加や正統性といった概念の発展を阻害した(66)」のであると主張している。さらに、パリ協定が、カンボジア人に西洋的価値観を押し付けるための陰謀であった(67)、とする見解もある。
 カンボジアで活動している外国の諸機関の多くは、現地社会の社会組織や社会関係の伝統的な規範を軽視していたため、現地人との間で衝突が起こった。例えば、UNTAC車両による交通事故の多発や買春及び性感染病の増加などがその例である。
 したがって、以上に述べたことから、現地のニーズに応じたPKO活動の実施計画が画策され、そこから利益を享受する者 (現地人民)が積極的且つ継続的にこの計画に参加することを保障するためにも、現地の慣習や社会関係に関する知識を持つことが重要になってくるのである。
 以上、UNTAC活動の成否を決定する重要な要素について考察した。が、しかし、UNTAC活動の成功もさることながら、ガリ事務総長も述べているように(68)、祖国の平和と安定の再建に対する最大の責任はカンボジア人自身にあるのである。

(1) Peou, op. cit., p. 268.
(2) 明石、前掲書、一三〇頁。
(3) 同上書、一三一頁。
(4) J.A. Shear, The case of Cambodia, D. Daniel and B. Hayes (eds), Beyond Traditional Peacekeeping, Macmillan, London, 1995, p. 300. 一九六三年のイエメンでのPKOは、国際的支援の欠如から失敗している。
(5) 明石は、九二年五月に、カンボジア再建に必要な資金の三分の一を提供し、PKO要員を派遣することを日本に要請した (Defense News, 18-24 May 1992 p. 2.)。また、日本人である明石が特別代表であったことは、日本人ボランティアと警察官が死亡した後で、日本の世論から日本がUNTACから撤退するように強力な圧力がかかった際にも、それを阻止するための重要な要素であった。
(6) Doyle and Suntharalingam, op. cit., p. 140.
(7) 明石、前掲書、一三五頁。
(8) 同上書、一三六頁。
(9) 同上書、一三七頁。
(10) Doyle and Suntharalingam, op. cit., p. 127.
(11) 明石、前掲書、一四〇頁。
(12) 同上書、同頁。
(13) このカンボジアを取り巻く国際情勢の変化については、拙稿、前掲論文を参照されたい。
(14) Doyle and Suntharalingam, op. cit., p. 130.
(15 Findlay, op. cit., pp. 109-110.
(16) 明石、前掲書、一三八頁。しかし、その一方で、このことが、P5や他の関係諸国がSNCに対して「より大きな影響力」を行使することを許す結果にもなった (Findlay, op. cit., p. 58.)。
(17) Findlay, op. cit., p. 111.
(18) Ibid., p. 112.
(19) Doyle and Suntharalingam, op. cit., p. 125.
(20) Findlay, op. cit., p. 106.
(21) 選挙前までに、KRは国土の一五〜二〇%を支配しており、これはパリ協定調印時よりも拡大していた (Utting, Utting (ed.), op. cit., p. 4.)。
(22) Findlay, op. cit., p. 106.
(23) Utting, Utting (ed.), op. cit., p. 4.
(24) Berdal and Leifer, op. cit., p. 37. 一九九三年四月七日の、王宮におけるガリ事務総長とシアヌーク殿下の記者会見において。
(25) Ibid.
(26) Ibid.
(27) Ibid., p. 37.
(28) Peou, op. cit., p. 272.
(29) Berdal and Leifer, op. cit., p. 50.
(30) Ibid., p. 44.
(31) Ibid., p. 38.
(32) Findlay, op. cit., p. 118.
(33) Doyle, op. cit., p. 60.
(34) その時点でも、文民警察部門の重要な部隊のいくつかはまだ完全にその展開を終了していなかった (Doyle, op. cit., p. 59.)。
(35) Azimi, op. cit., p. 6.
(36) Findlay, op. cit., p. 115.
(37) Azimi, op. cit., p. 7.
(38) Berdal and Leifer, op. cit., p. 49.
(39) Heininger, op. cit., p. 42.
(40) Ibid., p. 125.
(41) Findlay, op. cit., p. 158.
(42) 明石、前掲書、四八〜四九頁。
(43) 同上書、四九頁。
(44) Findlay, op. cit., p. 134. 及び J. Mackinlay, De■ning a role beyond peacekeeping, Military Implications of United Nations Peacekeeping Operations, W.H. Lewis (ed.) National Defense University, Insitute for National Strategic Studies, (INSS : Washington, DC, June 1993) pp. 32-38.
(45) Heininger, op. cit., p. 137.
(46) Ibid.
(47) Ibid., p. 138.
(48) Ibid., p. 74. 及び United States General Accounting Of■ce, UN Peacekeeping : Lessons learned in managing recent missions, GAO/NSIAD-94-9, December 1993, p. 49.
(49) Heininger, op. cit., p. 74.
(50) Jennar, op. cit., pp. 153-4.
(51) 中でも、フランスとオーストラリアは軍事戦略面で活発に活動したが、両者の反目が時として見られた (Akashi, op. cit., p. 199.)。
(52) Doyle, op. cit., p. 85.
(53) Ibid.
(54) M.H. Lao, Obstacles to Peace in Cambodia, The Paci■c Review, Vol. 6. No. 4. 1993, p. 390.
(55) Ibid.
(56) Ibid.
(57) Jennar, op. cit., p. 149.
(58) Akashi, op. cit., p. 200.
(59) Arnvig, Utting (ed.), op. cit., p. 146. 及び Redd Barna, Women in Cambodia, Phnom Penh, 1993.
(60) Utting, Utting (ed.), op. cit., p. 21.
(61) 明石、前掲書、一五二頁。
(62) Findlay, op. cit., p. 110. 及び David Chandlar, The tragedy of Cambodian history revisited, SASI Review, summer-fall 1994, p. 84.
(63) 明石、前掲書、一一七〜一一八頁。明石特別代表はまた、「西洋的な民主主義や人権の思想を抽象的・観念的にアジアの現実にそのまま適用することはいささか考えるべきである。むろん人道や人権の基準にはアジア的な基準とかヨーロッパ的なそれがあるのではなく、グローバルな一つの基準がある。ただ、その現実への適用においては、色々な味付けをし、段階的な適用を考える必要がある。」と考えていた (同上書、一四三頁)。
(64) 同上書、一四三頁。
(65) あるアジアの国の停戦監視要員は「何事もスケジュールを決め、合理的に管理・運営しようとするUNTACのやり方が成功するとは思えない。民族性を重視し、上からの押し付けだけではなく、もっとゆっくりした方法の方がカンボジアの風土に合う」と語っている (近藤、前掲書、一三八頁)。
(66) Findlay, op. cit., p. 21. 及び Pierre Lizee, Peacekeeing, peace building and the challenge of con■ict resolution in Cambodia, D.A. Charters (ed.), Peacekeeping and the Challenge of Civil Con■ict Resolution, University of New Brunswick, Centre for Con■ict Studies, Fredericton, 1991, pp. 141-43.
(67) Findlay, Ibid. 及び J. Pilger, Peace in our time ?, New Statesman and Society, 27 Nov. 1992, p. 10.
(68) Les Nations Unies, op. cit., p. 42.

第三章 UNTAC活動からの教訓

 本章では、前二章でのUNTAC活動の総括及び評価を踏まえて、このUNTAC活動から得られる今後の国連のPKO活動への教訓を論じていこうと考える。まず第一節で、UNTAC活動からの教訓を分析し、今後の国連のPKO活動への提言を呈示した後に、第二節では、ポストUNTACのカンボジアについて若干の補足を行なう。

1.UNTAC活動からの教訓
 本活動から学ぶべき教訓を述べていく前に、PKO活動に関するいくつかの一般的な考察点を挙げておきたい。第一に、予防的手段の行使は国連が用いることのできる最も適切な手段であるし、また、平和維持活動を通じて、今後も適用され続けるべきである。国連の分析調査や調停活動は、紛争が勃発する危険性のある地域により迅速に派遣されるべきである。経済的並びに人道的支援に加えて、このような手段は紛争に発展しそうな緊張状態を緩和する上で効果的であることを示すことができるであろう。第二に、平和維持活動の派遣を決定する際の選択のメカニズムを確立することが要請されている。地域紛争の数が増加しつつあり、そのことによって国連の財源と人材が圧迫されているポスト冷戦期においては、厳正な選択基準が必要である。その際、どのような基準がふさわしいかが問題となってくるが、各加盟国や安保理事国の国家利益が国際社会の広範な利益に一致しない場合に難しい問題を提起することになろう。カンボジアの場合は、この問題に関与する必要性があるという点に関して先例のないコンセンサスが存在していたのであった。最後に、PKO活動の成功は加盟国の政治的意思のみならず、加盟国から提供される財源と人材の量に依存する。カンボジアでの選挙の実施は、民主的なカンボジアを再建するためのプロセスの終着点ではなくて、むしろその出発点なのであった。
 UNTAC活動では、成功を収めた分野並びに失敗に終わった分野があることが、前章で本活動の評価を行った結果、明らかになった。そこでまず、UNTAC活動からの教訓として、成功した分野から得られる教訓から見ていくことにしよう。
 UNTAC活動の成功は、国連が加盟国の努力とカンボジア国民の協力によって、PKO活動において成果を挙げられることを示した。しかしながら、紛争解決のための普遍的な万能薬は存在しないのが現実である。したがって、紛争ごと及び状況ごとに、異なった政策を採る必要があるのである。カンボジアでのケースのように、紛争当事者の同意が得られた場合、あるいは後に一つ以上の当事者が同意を破るおそれのある場合、国連は現地住民の見解を考慮に入れるべきであることも明白となった。何故なら、こうした活動の成功には、現地住民のサポートが不可欠であるからである。つまり、「PKOの成否は、究極的には、国連が関係国の人々の心をつかみ、国連の目的に協力してもらえるかどうかにかかっている(1)」のである。
 UNTAC活動によって明らかになったPKOを成功させるためのルーツが三点ある(2)。一点目は、PKOの任務あるいは役割が明確で、実践可能且つ当事者の同意が得られていることである。二点目は、当事者がPKO要員に協力することを保障し、これらの保障が信頼できることである。最後に、国連加盟国がその任務を遂行するために必要な人材及び物資を提供する準備があることである。
 カンボジアでの経験はさらに、和平協定が政治力を通じて紛争を解決することを意図している場合には、こうした協定の実施に国連が介入していくことが有効であるということを示唆している(3)。この点に関して、国連は、カンボジアでの活動を冷戦後時代の最初の成功例として、また将来の国連の同様の活動のための基準を確立したものとして主張することができるであろう(4)
 一方で、我々はUNTAC活動の失敗分野から数多くの示唆に富んだ教訓を、今後のPKO活動を成功させるために学ぶべきである。
 UNTAC活動の部分的な失敗によって、国連が大規模で複数の部門からなるPKO活動を計画し、派遣し、統括する能力に欠けていることが明かとなった。さらに浮かび上がってきた問題点は、国連が国内紛争を処理する上で、より積極的且つ長期間にわたる任務を果たそうとすることに関する政治的意思が、超大国間に存在しないことであり、特にそれが平和執行の任務を要求する場合にそうであることが明かとなったことである(5)
 次に、活動期間中の国連事務局とUNTACとの関係から、国連本部への明確に定義づけられた報告ルートが事務局に欠如しているという問題が呈示された(6)。この欠点は、国連運営がその実践にあたって集権化されていないことと、PKOに最も直接的に関与する四つの部局 (PKO局、政治問題課、人道問題課、行政・管理課)間のヨコの調整機能の欠落に起因するものである。また、将来の活動においては、より広大な財政・行政活動に関する権限が現地に委譲されるべきであることも、国連事務局とUNTACとの関係から示唆されている(7)
 各部門間の調整が欠如していたことから、様々な問題が生じたことは前章でも触れた通りであるが、こうした問題を今後回避するために、部門間の活動を調整するためのメカニズムが確立される必要があろうし、こうした調整がより良く保障されるために、計画段階での検討が望ましいであろう。実施計画に関しては、その有益性がUNTAC活動でも証明されたが、より詳細な計画立案を可能にするために、調査団が定期的に当該地域に派遣されるべきである。その際の情報収集とその確認のための技術と手続きをより発展させることが重要になってくる。また、前述のように、PKO活動は、現地の情勢に適したように計画されるべきである。
 UNTACとカンボジアの関係で言えば、カンボジア政治の新たな構造を創造するために、カンボジア各派のものも含めて、カンボジアの資源を用いるべきであった(8)
 以上が、UNTACの成功及び失敗分野を踏まえた上での教訓である。最後に、UNTAC活動から得られる今後の国連のPKO活動にとって有益なより一般的な提言を、九四年八月にシンガポールでシンガポール政策研究研究所と国連訓練調査研究所 (UNITAR)の共催の下で開催された国際会議からの報告を参照にして指摘していこう(9)
 適任のスタッフや適当な量の資源 (財源)が可能な限り迅速に、紛争当事者が和平協定に調印し、安保理事会が活動を公式に承認した後に派遣されることが重要である(10)。それによって、紛争当事者間のみならず、現地人民の信頼が構築され、維持されるであろう。それはまた、任務の実効的な遂行を可能にする。UNTACの場合には、各部門の派遣が遅れたのみならず、文民及び軍事部門の上級官の任命も遅れた。特別代表は九二年一月まで任命されなかったし、文民警察部門、文民行政部門並びに人権部門の司令官のそれは九二年三月まで行なわれなかった。PKO活動の準備として重要なのは、こうした上級官の早期の任命と彼らが活動の構想や計画に早急に関与していくことである。UNTACが計画から実施までの人材面での継続性を欠いたことから、数々の諸問題が生じてきたことを見ても、この点の重要性は明白である。
 緩慢で煩雑な国連の立法上並びに予算上の手続きーー最も重要な事項ではあるがーーは、UNTACの展開中、常に深刻な問題となり、この分野の改革の必要性を喚起した(11)。一般に、安保理事会が平和維持活動を承認してから予算が編成されるまでに数週間を要し、理論上は、予算が承認されるまで、事務総長はそれを執行する権限を持たないのである。また、平和維持活動に必要な財源を確保することは重大な問題であり、加盟国がこの問題についての責任を負っているということを認識すべきである(12)。現在、各活動の財政は数カ月間のみの予算が組まれるにすぎない。そのことから、活動の計画が不適正であったり、運営が不十分であったりするのである。加盟国は、活動の財政管理がもっと透明度を増すのであれば、より長期間に及ぶ平和維持活動への財政上の関与を拡大させるべきである(13)。同時に、事務局は自身の活動の運営及び予算管理の改善を促進されるべきである(14)。またUNTAC活動の経験から、事務局の改革にはPKO局 (DPKO)への現地活動部隊 (FOD)の統合が含まれるべきであることが明らかになった。何故なら国連本部のサポート体制が巨大な平和維持活動を支えるために必要な資源を持っていなかったからである。この点に関して、PKO局をはじめとする部局で最近行なわれている役割の強化は、一つのステップであり、今後も続けられるべきである。
 活動の日々の行政及び財政に関して言えば、PKO活動のための現在のニーズに合った国連のルールや規則の確立が必要である。何故なら、これまでのものは時代遅れの部分があり、昨今の様変わりしつつあるPKO活動のニーズに適応するものではなくなってきているからである。こうした改革にはまた、加盟国からの支持が不可欠である。
 UNTAC活動の教訓から、多面的PKO活動が、国連事務局の新しく且つ改良された計画立案機構を必要とすることが明らかになった。したがって、事務局それ自体のさらなる構造的改革が、平和維持活動を現地での増大する要求に合わせて準備するために、また平和維持活動の運営を改良するために考慮されるべきある(15)。これらの変革には、スタッフの数や財源を増やすことが含まれるが、またその一方で、既存の事務局の人材や財源をより効率良く利用することも可能である(16)
 さらに、基金配分に関する、より柔軟で強大な権限が現地の (文民及び軍事双方の)司令官に与えられるべきである(17)。何故なら、彼らが現地の複雑な状況を最もよく把握している人物であるからである。
 UNTAC活動で見られた活動用機材の不一致という欠陥を防ぐために、要員派遣国が統一された機材を提供できるようにするためのガイドラインを設定すべきである(18)。また、迅速な展開を保証するために、当該活動に詳しい諸国からのエンジニア部隊をより多く利用することも可能であろう(19)。要員面から言えば、国連と加盟国は、活動の信頼性を維持するために優秀な人材や専門職の人員が登用されることを保証しなければならない(20)。その際、国連が設定した基準に適応する人材を提供するのは加盟国の義務であり、優秀な人材の提供を確保するためにその基準や訓練に関するガイドラインを加盟国側に明確に提示するのは国連の義務である。国連内外から適任な人材に関するアップデイトで入手可能なデータベースの設立も必要となるであろう(21)。適切な人材の派遣が決定した後には、国連の共通基準に対する派遣前の訓練を行なうことが重要である(22)。それには、UNTACでの失敗を避けるために、最低でも共通言語の使用に関する訓練が含まれるべきである。軍事要員や文民警察官の容認できない行動によって、多くのカンボジア人が憤りを感じてUNTACから離れていった。今後の類似の活動でこうした事態を避けるためには、将来のPKO活動に携わる国連要員のために行動規約が確立される必要がある(23)
 PKO活動に従事する要員の安全を確保するということは、もう一つの重大な問題である。そのためには、国連本部の安全調整局の活動を強化することは一考に値するであろう(24)。UNTACはまた、国連ボランティアが大規模に参加した最初の平和維持活動でもあった。国内に散在する地雷の危険性や脆弱なインフラをもものともせず、選挙計画の立案に必要な基本データの収集や民主主義のメッセージを伝播するといった国連ボランティア達の行なった仕事は称賛に値するものであった。UNTAC活動での彼らの働きは十分に評価されるべきであり、今後のPKO活動においても、その働きが期待されるのである。
 効率的な平和維持活動を保証するための基本的な条件の一つとして、明確かつ達成可能な目標が確立されていることが挙げられる(25)。カンボジアの場合では、文民行政部門にその点が欠落していたと言えよう。それは野心的すぎると言える任務に起因し、またある意味においては、国連の資源の限界や、長年にわたる武力紛争によってその国民も基本的なインフラストラクチャーも疲弊していたカンボジアの情勢からは達成可能なゴールではなかったのである。
 紛争当事者からの支持は、PKO活動の成功に不可欠な要素である。同時に、外部からの支援もまたPKOの成功には欠かせないものである。カンボジアで選挙を成功裡に実施できたことは、紛争各派に対する外部の支援者が彼らに暴力に頼らないように圧力をかけたことが一因であったし、拡大P5のメンバーがカンボジア各派がパリ協定の規定を遵守するように圧力をかけ続け、説得し続けたことも有益であった。PKO活動の成功を保証するために、この様な加盟国からの国際的な支援が、将来の活動でも発展されなければならないであろう。
 平和維持活動がその活動開始の初期の段階から強固な意思を持って実施される場合、平和維持と平和構築との間のジレンマは存在しない。国連が躊躇や弱腰を示すと和平協定を履行する強硬派の抵抗にあうようになるのである。したがって、平和維持活動の「確固たる完全な実施」が必要である(26)。また、PKO活動は侵略行為ではなく、PKO軍は侵略軍ではないので、国連はその活動の実施に当たって、現地の慣習や文化を尊重しなければならない。また、UNTACの支出は地元経済に物価の上昇をはじめとする深刻且つ不安定な効果をもたらした。平和維持活動を実施する場合、この様な現地経済や社会に与える影響も考慮に入れられるべきである。
 PKO活動は和平プロセスの最終段階ではなく、単なるステップにすぎない。PKO要員はその義務を遂行しなければならないが、その任務を、長期にわたるより複雑なプロセスの一部であると考えなければならない。そして、彼らは活動終了後に起こり得る諸問題に関しても鋭敏な関心を持ってその任務に当たらなければならないのである(27)
 UNTAC活動の教訓から、PKO活動の計画と実施に適用される統合されたアプローチの必要性が提示された。この「統合されたアプローチ」とは、事務局から現地まで及び任務の開始から終了までの二つのラインで適用されなければならない(28)
 最後に、国連社会開発研究所が九三年六月に開催したワークショップから出されたUNTACへの提言のいくつかを列挙しておこう。それは、(1)援助が与える歪んだ影響を最小化すること、(2)予算支援と税制改革に対するさらなる留意、(3)UNTACとカンボジア内の他の諸機関との間の効率の良い調整、(4) (現地への)インパクトの評価方法の改善、(5)カンボジア人のより良い訓練とさらなる参加、(6)データ収集と広報活動の改善、そして、(7)現地の知識と制度への依存度の増大(29)、などである。
 以上がUNTAC活動から得られた教訓である。これらの教訓が、今後、PKO活動が画策・実施される際に考慮され、その効力を高めるために活用されることが望まれるのである。

2.ポストUNTACのカンボジア
 前節までのところで、UNTAC活動を様々な角度から検証した。本節では、UNTAC展開中、選挙後、並びにポストUNTACのカンボジアの情勢に視点を置いて、一連の活動総括の補足を行う。

 A UNTAC期のカンボジア
 国連主導の和平プロセスはカンボジアの急速な社会・経済的変化を助長した。九一年のカンボジア経済は、(1)極度に低い一人当たりの所得レべル、(2)未熟練労働力を基礎にした生産システムと、熟練労働者と近代的な設備の絶対的な不足、(3)コメコンからの外部援助ーー主として石油、ソ連崩壊によって撤退を余儀なくされていたーーに依存した脆弱な外部セクター(30)という点で特徴付けられていた。カンボジアの復興もその任務とされていたにもかかわらず、カンボジアの経済発展を支援するUNTACの能力は、その到着後も、SOCが財政及び技術協力のためのカウンターパートとして認められていないという事実によって、制限されたものであった。しかしながら、UNTACの到着がカンボジア経済に多大なインパクトを与えたことは事実である。UNTACの到着後、カンボジアでは経済的・社会的不安定が増大し、人工的な経済ブームとインフレが発生した。例えば、現地で雇われたUNTAC要員が受け取っていた給料はカンボジア人の平均給与の一五倍に上り(31)、これは、国連職員の基準からいっても普通ではないほどの高給であった。このことによって、現地の賃金レベルも「競り上げ」られることになったのであった。九二年にUNTACは、インフレはカンボジア政府の責任にであると示唆した。これは文字通りの意味では正しいが、選挙前の期間中の西側援助提供国からの予算支援の欠如がインフレの根本的な原因であることも同様に指摘されるべきである(32)
 UNTACが引き起こした経済ブームの中でも最も注目に値するものは、レストラン、商店、ナイトクラブが急増したことと建設ブームが起こったことである。そこから、住居地及び商業地の賃料が高騰し、都市部の不動産価格が上昇した。また、私的・公的の両セクターで金利生活者の資本家グループが出現した(33)。こうした経済的不安定はUNTACに対するカンボジア人民の信頼を損ない、不安や恐怖の空気を助長することとなった。UNTAC展開から一年後、UNTACのプレゼンスに対して現地の人々は不快感を露にし始めるようになり、現地人の間でのUNTAC熱が低下していった。
 また、UNTACの存在によって、経済成長の面で女性の地位が向上するであろうとされていたのだが、この面でのプラスの徴候はほとんど見られなかった。九二年一月の時点で、六〇〇〇人にのぼるカンボジア人のUNTACスタッフのうち女性は一〇〜一五%を占めるにすぎず、UNTAC自身も女性差別的であって、そのトップ一〇の地位には女性が一人もいなかった(34)
 UNTACの資金の大半が、スタッフの給与と建設や修復に割当られたが、同時にまたこの支出金は様々な形でカンボジア経済に影響を及ぼした。すなわち、(1)輸入及び貿易関連の利益だけが増加し、雇用や地元の生産業に与えた効果が少なかったこと、(2)外国の諸機関が、現地のカウンターパート、運転手、給仕などとしてカンボジア人を直接雇用したこと、(3)地元の個人サービス部門への需要が急増し、それがレストラン、タクシー運転手、車の修理、バー及び売春という形態を取って現れたこと、さらに、(4)事務所やUNTAC要員のための住居の建設、改築、賃貸の目的のために資金が用いられたこと(35)、の四点である。
 社会面でもまた、UNTACは様々な問題の発生にその責任があると言えよう。こうした社会問題としては、売春や性感染病並びに交通事故の急増のそれや、麻薬の蔓延のそれなどが挙げられる(36)
 九二年六月に発表された世界銀行の研究によると、カンボジアでの経済・社会問題の原因は以下のように分析されている(37)。すなわち、(1)中央及び地方レベルでの投資の計画、プログラム、予算、管理体系の欠如、(2)戦略的政策の枠組みの不在並びに技術的な専門知識と社会セクターでの政策、プログラム、計画を指向し、修正し、評価するための基本データの不足、(3)社会セクター内でのスタッフの質並びに低レベルの訓練と資質不足のスタッフの数の多さ、及び人材管理能力の欠如、そして、(4)公共セクターの社会サービス部門での不均衡と持続可能な財政の不足、である。

 B 選挙後のカンボジア政局の動き
 選挙後、カンボジアでは新政府樹立を巡って様々な政治的駆け引きが行われた。五月末に選挙結果が明らかになった後、CPPから選挙に不正があったとしてその無効を訴える動きが出た。安保理事会が総選挙の公正さを公式に支持する前に、シアヌークは明石特別代表、NYの国連事務官や彼の息子であり選挙戦に勝利したFUNCINPECの党首でもあるラナリット殿下と事前に協議することなく、CPPの強硬派であるチア = シム議長と、CPPとFUNCINPECからなる暫定連立政権の樹立とシアヌークの国家元首就任という取引を行った(38)。が、しかし、FUNCINPECとUNTAC高官からの反対に遭い(39)、彼は一二時間後にこの提案を断念した。この直後 (六月)に、シアヌークの息子でラナリット殿下の異母弟にあたるチャクラポン殿下 (SOCの副首相)とシン = ソン将軍 (SOCの国家治安相)に率いられたCPPのグループが東部の七州からなる「自治区」の形成を宣言して、分離独立のクーデターを試みたがこれは失敗に終わった。これは、選挙での敗北にもかかわらず、自らの政権参加を確保しようとするCPPの内部協定を基にした企てであった(40)。このクーデターの企てはカンボジアの国家としての脆さを露呈したが、CPP内の穏健派とFUNCINPECとの同盟をまとめることにもなった(41)
 こうした事態に直面して、明石特別代表は六月一三日にトワイニング米国大使と情勢を分析し、その結果、シアヌーク提案を一部手直しして、二大政党の妥協と協調の下にこの過渡期を乗り切る必要があることで意見が一致した(42)。一四日には憲法制定議会の第一回会合が開催され、事態が渾沌としていたにもかかわらず、第一党のFUNCINPEC、第二党のCPP、第三党のBLNDP、第四党 (一議席)のクメール自由モリナカ、その他が参加した。翌一五日、シアヌークが、ラナリット、フン = セン両共同首相の下に内閣を構成するという新提案を発表した。「これでゆくしか他に道はないと確信した」明石特別代表は、「そうした規定がパリ協定にはない」と主張するクシュリナ・ダーソンUNTAC法律顧問には沈黙を守るように言い、スポークスマンを通じて、シアヌーク提案を積極的に評価する声明を発表させた(43)。相前後して、チャクラポン殿下は、陸路、ヴェトナムへ脱出した。
 二〇日になって、選挙結果に異議を唱え続けていた人民党が(1)国家元首であるシアヌーク殿下による総選挙結果の承認、(2)UNTACが規則違反の存在を認知したこと、(3)違反調査を継続することを特別代表が約束したこと、などの理由から「五月の総選挙の結果を承認する」との声明を発表した(44)。これで、暫定国民政府樹立への土台が整ったのであった。ただ、この間、FUNCINPECが第一党であるのに、何故人民党との閣僚配分をフィフティ・フィフティにしたのかという批判が、一部の西欧諸国から浴びせられた(45)。これに対して、明石特別代表は、以下のように主張し、この内閣成立を支持した。すなわち、「民主選挙によってフンシンペック党が五八議席を取り、第一党となったことは間違いない。また、そのフンシンペック党はカンボジアにおける新しい風を代表しており、フランスやアメリカから帰ったインテリ層、王政の復古を熱望する上・中流階級の人たちの要望を担っている。しかし同時に、五一議席で第二党に終わりはしたものの、人民党には一三年間の行政の実績があり、しかも、独裁的要素は濃いが軍と警察の大半を掌握している。これを敵に回してカンボジアの安定はあり得ない。現実的に民主主義に向かって歩んでいくためには、この二大政党の協力は必須である。それを成り立たせるためには、共同首相制というユニークな形しかない。言ってみれば、これはカンボジア的な、さらに言えば、シアヌーク的な知恵の産物である(46)。」と。
 UNTACの中にも、サンダーソン司令官など、シアヌーク裁定への批判派が存在したが、結局、六月二四日、暫定国民政府の樹立が宣言された(47)。カンボジアでは、選挙結果ではなく、軍事的・政治的バランスが新権力を決定し、それが連立政権の樹立となって帰結したが、これはカンボジアの現実を反映した結果であったと言える。そのことは、国際的に受けがいいFUNCINPECが、連立政権内で、財政と外交を担当したことにも現れている。
 一方のKRであるが、七月からそれまでのUNTACへの協力拒否の姿勢を、カンボジア政局への復帰を交渉を通じて勝ち取る戦術に転換した。その際、新内閣内での「顧問役」を与えられるのであれば、KR軍を新たな統一軍へ提供してもよいと提案し、これをシアヌークが民族和解の観点から奨励した(48)。こうした民族和解を目指した交渉は、九四年半ばに政府がKRを非合法化するまでに何の成果も得られず、同年の乾期期間中の政府軍によるKRへの攻撃に対してKRは反撃に成功し、KRの軍事抵抗が明白となった。こうして、UNTACの成功にもかかわらず、カンボジアは、その一年以内に内戦状態に逆戻りしてしまったのであった。
 他方で、憲法制定議会は、九三年九月二一日に、自由民主主義、君主制の新憲法を採択し、二四日には、シアヌーク殿下が三八年ぶりに国王に復位し、カンボジアは二三年ぶりに王政に復古した。同時に、ラナリット第一、フン = セン第二首相の任命が行われた。また二八日には、憲法制定議会が国民議会に移行した。

 C ポストUNTACのカンボジア
 九三年九月二四日の新憲法発布を以て、UNTACは五六〇日にわたったその任務を終了した。本項では、ポストUNTACのカンボジアの情勢について、若干の考察と補足を行いたい。
 カンボジアの和平プロセスは、カンボジアに政策面でのオプションの選択方法を導入できず、また建設的な方法で政策上の争点を提起し得る野党を育成することもできなかった。この政策上のオプションの欠如や法的な規制枠組みの不在は、カンボジア新政府にとってハンディキャップとなるであろう。UNTAC展開中には、政治的移行期に相対的な安定を保証したが、UNTACの撤退後、こうした安定要因は存在せず、新政権は政治的結合に欠けている。また、新生カンボジアには、真の国軍、警察機構、官僚機構がなく、カンボジアは依然として不安定である。こうした事態を見たシアヌーク国王は、九四年六月に、国王としてではなく首相として、議会によってその権力を保証されるーーカンボジア憲法の規定では、王政が「君臨すれども統治せず」であることは修正不可能であったためーーようになることを示唆した。彼は、KRにも上級官職を与える民族統一政府の形成を提案したが、フン = センからもラナリットからも拒否された。他方で、FUNCINPECとCPPの脆弱な連立政権が生き残れるかどうか、及び政治的変革のための進歩的な推進力がUNTAC撤退後も引き続きカンボジアに残存するかどうかを評価するにはさらに時間を要するであろう。
 また、選挙の実施だけでは市民社会の樹立には不十分であり、今後さらなる努力が必要である。根本的な政治的変換は、国連からではなくカンボジア人自身の中から起こさなければならないであろう。政治制度化の乏しさと、市民社会形成のための機会が限定されていることは、依然として中・長期的なカンボジアの将来を決定するうえで鍵を握る要素である。
 国内の治安状況は、UNTACの軍事部門の撤退後、KRと政府軍との戦闘が終了せず(49)、不安定になった(50)。ポストUNTAC期における軍事行動のレベルは、八〇年代と同じぐらいに高いのが実情である(51)。KRと政府との和平交渉は良い方向に進まなかった。シアヌーク国王からのプノンペンでの「円卓会議」案を拒絶したKRは、九四年五月に平壌での会合に同意した。が、「作業委員会交渉」ーー後にこれも挫折ーーを継続することに同意した以外には、何の成果も挙げられなかった。六月一五日、一六日のプノンペンでの円卓会議が失敗した後、KRはそのプノンペン事務所を閉鎖した。七月になって、国民議会はKRを非合法化する法案を可決した。これは、効果的ではないと方々から批判された。非合法化措置に対抗して、KRはプレアビヒア州に拠点を置き、キュー = サムファンが率いる「暫定民族統一・救国政府」の樹立を宣言した(52)
 経済復興の面ではいくつかのよい徴候が見られる。九四年三月の東京でのカンボジアの再建に関する国際委員会の会合で、五億米ドルの新たな援助が保証された(53)。一二月には、議会の全会一致で予算が可決され、インフレの年率は、ピークの三四〇%から約一〇% (一九九三年)にまで低下し(54)、九四年の国内総生産は七〜八% (九三年は六%)に上昇すると見積もられた(55)。カンボジアの経済計画者達が、経済を安定させ構造的な変革(56)を制度化するうえで、著しい功績を収めたと考えられている。
 社会面では、新憲法では、「クメール市民」のみの権利しか認められておらず、少数民族の権利が侵害される虞がある。国際社会はこの様な権利侵害が行われないように、今後も充分に監視を続けるべきである。
 ポストUNTAC期におけるカンボジアの新秩序への政治的かつ潜在的な脅威は、KRの存在である。その他の主な脅威を列挙すると、(1)新政府の脆弱さと連立の脆さ、(2)無法状態の継続、(3)新カンボジア国軍の乏しい業績(57)、などである。
 最後にポストUNTACのカンボジアの経験から浮上してきた別の問題点を指摘しておく。第一点目は、UNTACは現在、カンボジアが直面している諸問題を回避するために機能できたか、という問題である。この回答はおそらくノーであると言えよう。UNTACはより多くの地雷を除去するために、またより多くのカンボジアのインフラを再建し、警察や軍隊を再訓練するためにもっと迅速に行動すべきであった。第二点目は、パリ協定はUNTAC撤退後のカンボジアでのより広範な「活動後のケア」を認めるべきであったか、という問題である。実際、パリ協定は、UNTACの撤退後に再建から地雷除去、人権侵害監視に至る「平和構築」の先例のない任務を与えたが、政治的・軍事的性格を持つポストUNTAC活動の任務は与えなかった。ガリ事務総長は国連のカンボジアへの大規模な継続任務に着手するのに及び腰で、カンボジアは自立しなければならないと考えていた(58)。彼は軍事状況を監視するための国連の軍事部隊の派遣に反対したし、プノンペンの国連文民事務所はUNTACに関連する未解決の諸問題に関してカンボジア政府と連絡を取ることを制約されていた(59)。フィンドレー氏は「国連はカンボジアに前例のない干渉的な方法でカンボジアに介入したのであって、カンボジア人が彼らの政治問題に責任を取り戻すようにさせる時期が来ている。新植民地主義的な形態を取った国連の監督任務が避けられることは非常に重要である(60)」と述べているが、同時に、国連がカンボジア和平で果たした一定の役割は看過されるべきではないであろう。

(1) 明石、前掲書、一四一頁。明石氏はまた、「PKOがより一層の成果を挙げるためには、関係国の人々の心の細かいヒダまで理解しなければならない」と述べている (同上書、同頁)。
(2) Doyle, op. cit., p. 59.
(3) Heininger, op. cit., p. 135.
(4) Findlay, op. cit., p. 156.
(5) Berdal and Leifer, op. cit., p. 58.
(6) Ibid., p. 51.
(7) Ibid.
(8) Doyle, op. cit., p. 88.
(9) Azimi, op. cit., Report and Recommendations of the International Conference Singapore, August 1994.
(10) Ibid., p. 46.
(11) Ibid., p.47.
(12) Ibid., p. 52.
(13) Ibid.
(14) Ibid.
(15) Ibid., p. 48.
(16) Ibid.
(17) Ibid.
(18) Ibid.
(19) Ibid.
(20) Ibid., p. 50.
(21) Ibid.
(22) Ibid., p. 51.
(23) Ibid.
(24) Ibid.
(25) Ibid., p. 48.
(26) Jennar, op. cit., p. 154.
(27) Ibid.
(28) Azimi, op. cit., p. 11.
(29) Findlay, op. cit., p. 69. 及び UN Research Institute for Social Development (UNRISD), The social consequances of the peace process in Cambodia, recommendations and ■ndings from UNRISD Workshop, Geneva, 29-30 Apr. 1993 (UNRISD : Geneva, July 1993) pp. 2-3.
(30) E.V.K. FitzGerald, The Economic Dimension of Social Development and the Peace Process in Cambodia, Utting (ed.), op. cit., p. 77.
(31) Ibid., p. 63
(32) Ibid., p. 83.
(33) Ibid., p. 82.
(34) Arnvig, Utting (Ed.), op. cit., p. 149. 及び Barna, op. cit.
(35) FitzGerald, Utting (Ed.), op. cit., p. 81.
(36) Arnvig, uting (Ed.), op. cit., p. 169. 麻薬や麻薬取引を禁止する法律がカンボジアになかったことから、いかなる行動も取れなかった。
(37) Grant Curtis, Transition to What ? Cambodia, UNTAC and the Peace Process, Utting (ed), op. cit., p. 50. 及び World Bank, Cambodia : Agenda for Rehabilitation and Reconstruction, East Asia and Paci■c Region, Washington, DC, June 1992.
(38) このシアヌーク提案について、UNTAC幹部の評価は割れた。経済局長と政治顧問はこれを積極的に評価し、法律顧問は批判に回り、司令官も全く否定的であった。外交官の意見も分かれたが、大勢はシアヌーク殿下に同情的であった。王宮前ではこの提案に賛成の民衆デモが行われた。カンボジア通貨の価値が急に高くなったのは、経済界がシアヌーク提案を支持していることを示していた (明石、前掲書、一〇三〜一〇四頁)。
(39) 米国はすばやくより明確な形で、シアヌーク提案への反対を発表した (同上書、一〇三頁)。
(40) Berdal and Leifer, op. cit., pp. 55-56. この分離独立の動きを巡っては、その解釈が、S・ヘーダーとM・ヴィッケリーの二人のカンボジア学者の間で見解が分かれている。ヘーダーによればこれは「典型的な共産主義者の『陣地への後退』戦略」であるが、ヴィッケリーはこの動きを「選挙に反対する、おそらくはまた議会からの離脱に反対する一部の急進派による予期せぬその場しのぎの行動」であり、「UNTACに対抗
し、その精神的な権威を自治運動に及ぼすことによって信頼を獲得する機会を作りたかったシアヌークに鼓舞されたもの」であった (Roberts, op. cit., pp. 107-108. 及び Stephen Heder, CPP Secessionism. Resignations from the Assembly and Intimidation of UNTAC : Background and Theories., The memo dated 13 June 1993, and adressed to Tim Carney, head of the Infomation/Education Division, Micheal Vickery, Resignation of CPP Candidates and Their Replacements : A counter analysis to “CPP Secessionism. Resignations from the Assembly and Intimidation of UNTAC : Background and Theories." by Stephen Heder, Phnom Penh, 24 June 1993.)。
(41) Doyle, op. cit., p. 73.
(42) 明石、前掲書、一一〇頁。
(43) 同上書、一一二頁。この提案に関しては、国連本部の事務次長クラスの何人かが、同提案の法的妥当性について異議を唱えた。担当の事務次長補はカンボジアの実情を理解し、明石特別代表と同意見であった (同上書、同頁)。
(44) 同上書、一一三頁。
(45) その急先鋒は米国とオーストラリアであって、対照的に、フランス、ロシア、日本などはシアヌーク案に賛意を表した (同上書、同頁)。
(46) 同上書、一一三〜一一四頁。
(47) ラナリット殿下とフン = センの共同首相制は、七月一日に、憲法制定議会で承認された。
(48) Berdal and Leifer, op. cit., p. 56.
(49) 政府軍は、九三年九月末から、KR最強硬派のタ・モク将軍の拠点、シェムレアプ州アンロンベン攻撃を開始した。新政府が軍事力に訴えたのは、KRが依然として「ヴェトナムによる国土支配」を主張すると共に、国軍への参加と政治顧問の地位を要求、戦闘継続の姿勢を変えないためである (近藤、前掲書、二一八頁)。また、政府軍は九四年三月、ついにバタンバン州パイリンへの攻撃を開始し、一時的に陥落させた (同上書、二一九頁)。
(50) United Nations, S/1994/164, Rapport interimaire du Secre´taire ge´ne´ral concernant l'e´quipe de liason militaire des Nations Unies au Cambodge, 14 fe´v. 1994.
(51) Jennar, op. cit., p. 155.
(52) タイとカンボジア政府の関係も、プノンペンからの「タイは引き続きKRを支援している」という非難を受けて悪化した (Findlay, op. cit., p. 166.)。
(53) Cambodia : recent developments, Statement by Peter Tomsen, Deputy Assistent Secretary for East Asian and Paci■c Affairs, before the Subcommitte on Asia and Paci■c of the House Foreign Affairs Committee, US Congress, Washington DC, 11 May 1994. Reproduced in US Department of State Dispatch, vol. 5 no. 21. (23 May 1994), p. 344.
(54) J. Friedland, Someone to trust : Cambodia's free-market plan wins over donors., Far Easten Economic Review, 24 Mar. 1994, p. 47.
(55) Ibid.
(56) これらには、税制や予算手続きの改革が含まれる (Findlay, op. cit., p. 163.)。
(57) Ibid., p. 161.
(58) Ibid., p. 168.
(59) Ibid.
(60) Ibid.

結   論

 カンボジア和平における国連の役割の成果は、国際的な側面と国内的な側面とに分けて考えられる。国際的な側面としては、カンボジア和平によって、東南アジア諸国間の平和が達成され (九四年四月時点)、カンボジア、ヴェトナム、ラオス及び中国の近隣諸国との関係が正常化したことが挙げられる(1) 。一方で、国内的な側面としては、国内の二大政党による連立政権の樹立、形成中の市民社会に (これまでのカンボジアには見られなかった)「政治的な意識」が芽生え始めていること、東南アジア地域で最も自由な新聞の誕生、そして経済再建の始まりを指摘できる(2)
 冷戦の終焉と八九〜九一年にかけてのアフガニスタン、ナミビア、イラクなどでの国連PKO活動の成功によって、国連の役割に対する強力な楽観論が生まれた。が、しかし、国際社会は、国連に余りにも少ない資源で余りにも多くのことをなすべきことを求めている。UNTAC活動の経験からも、拡大する任務を遂行する国連の能力は正しく評価されていないことが明らかである。明確かつ一貫した基準は拡大したPKO活動を行うために確立されてはいないし、またいつPKO活動に着手すべきかといった決定を下すための基準も設定されていないのでる。さらに、国連の制度上の構造や手続きに関する重要な修正もなされていないし、国際社会はこうした要求を満たすために必要な資源を提供してこなかったのである。
 国連のPKO活動の目標は自決権の行使であるが、この自決権が真の自決権となるためには、帝国主義的支配とは異なって、当該紛争地域に固有のルーツを持たねばならないのである。カンボジア和平でUNTACに与えられた責任は、カンボジア全派がパリ協定の精神と条文を守ることを保障するための権威にも能力にも支えられたものではなかったし、国連が暫定政府としてのUNTACによって、信託統治の任を引き受けたわけではなかったため、平和執行はその任務の範囲内ではなかった。したがって、バーデル・レイファーの両氏が述べているように、カンボジアは国連の干渉の一つのモデルと見なされるべきではない(3)
 UNTAC活動から明らかになったように、国連には当該地域の人民の支援を獲得し、それを維持するために政治的な戦略が必要である。国連のPKO活動は、分断された現地の政治アクターからの積極的な協力を生み出し、その目的のために現地の資源を集結させることができる効果的且つ実行可能な戦略を見出す必要があるのである(4)
 カンボジアでの和平プロセスの中で特異であったことは、民主主義を保証するという国連の役割であった。パリ協定が目指した自由で公正な選挙を通じたカンボジア人民の民族自決権は、UNTACの努力によって一応は達成されたと言えよう。しかし、この成功に傲ることなく、UNTAC活動から得られた教訓を基に、国際・地域紛争解決の分野における国連の役割をさらに高めるために必要な国連の構造的・制度的・政治的改革を引き続いて議論し、実行していくことが、我々に課された責任である。

(1) Doyle and Suntharalingam, op. cit., p. 138.
(2) Ibid.
(3) Berdal and Leifer, op. cit., p. 58.
(4) Doyle, op. cit., p. 83.