立命館法学  一九九七年五号(二五五号)一一二五頁(二三七頁)




自殺関与事例における被害者の自己答責性



塩谷 毅






はじめに  ー問題の所在
第一章 自殺関与事例における被害者の自己答責性原則の展開
  第一節  総説
  第二節  ドイツにおける主要判例の概観
  第三節  ドイツにおける主要学説の概観
  第四節  「一九八六年臨死介助対案」について
  第五節  小    括                  (以上本号)
第二章  同意殺人・自殺関与罪に関する諸論点の再検討
  第一節  総    説
  第二節  ドイツにおける「要求による殺人罪」の法的性質をめぐる議論
  第三節  我が国における「同意殺人・自殺関与罪」の法的性質をめぐる議論
  第四節  「承諾・自己答責能力」と「意思の瑕疵」について
  第五節  小    括
むすびにかえて


は じ め に  ー問題の所在

    行為者による法益の侵害、すなわち不法結果の発生に対して、被害者(法益主体)の意思や態度が重要な寄与をなしている場合、そのような被害者の事情に、行為者の犯罪成立を阻却し、正犯性を制限し、あるいは違法性や責任を減少させる効果を結びつけることがある。そのような被害者の事情は、従来、刑法理論上「被害者の承諾(同意)」や「信頼の原則」、そして「被害者の自己危殆化」などの論点で論じられてきたものである。
    このうち、「被害者の承諾」に関しては、特に「生命法益」に対して被害者の完全な処分が可能であるのかが重要な問題になっている。この問題に対する一応の回答は、我が国では刑法二〇二条において「同意殺人・自殺関与」が処罰されていることによって、立法上、その処分不可能性は明白であるように見える。
  しかし、被害者の自己の生命に対する処分を全く不可能であると見ることに関しては、近年の生命維持医療の発達に伴って様々な問題が浮かび上がるにつれて、根本的に疑問が提起されるようになってきたといえるであろう。
  去年(一九九七年)の六月一七日に、ついに我が国において「臓器移植法」が成立した(1)。そこでは、立法作業における様々な紆余曲折を経て、「本人」の生前の書面による「意思表示」が臓器摘出における「必要条件」とされた。臓器移植の場面において、「被害者」の「生命の自己決定」に本質的な重要性が認められることになったのである。さらに「遺族の承諾」も条件とされていることとあわせて、この法律は脳死状態の臓器提供者からの臓器の摘出にかなり慎重な立場をとったといえるであろう。
  一方、臨死介助(安楽死、尊厳死)の問題に関しては、一九九五年にいわゆる「東海大病院安楽死事件」に関する判決が下された(2)。従来、我が国の「安楽死事件」に関する判例の立場(3)は、有名な名古屋高裁判決(4)の「安楽死許容のための六要件(5)」を基調とするものであった。それによれば、「被害者の生命の自己決定」は、表明されることが可能であればそうされることが望ましいという程度の第二義的な意義しか与えられていなかった。そもそも名古屋高裁の判決に大きな影響を与えたといわれる小野清一郎博士の見解(6)は、「安楽死の許容性」という問題においては「被害者の承諾(生命の自己決定)」に照準が合わせられるのではなく、行為者の「惻隠の情」による行為であるということにその不可罰の根拠があるとされていたのである。しかし、この「東海大病院安楽死事件」判決では、特に「積極的安楽死」に関して、「被害者の生命の自己決定」が安楽死の許容のための「必要条件」であるとされるに至った。これは、近年の医療における「インフォームド・コンセントの法理」の発達と併せて、臨死介助の領域においても、「被害者の生命の自己決定」に本質的な重要性が承認されるようになってきた証拠であろう。
    しかし、このような「特殊な状況」のもとにある「被害者の生命の自己決定」尊重の思想が、「一般的な自殺関与事例」において、さらに「偽装心中」などに見られるような「情状の悪い」状況においても貫徹されるのか、すなわち、同じようにそれが行為者の犯罪成立の阻却に関係づけられるかは問題である。さらに、「臓器移植」や「臨死介助」などの状況においても、「被害者の生命の自己決定」は行為者の犯罪成立阻却のためのあくまで一つの要件にすぎないのであり、その他の要件と合わせて初めて、また、「緊急避難の法理」などの助けもかりて犯罪成立の阻却に至りうるとされることも重要である。このことは、「被害者の承諾」という法制度が、更なる別の根拠を必要とせずに、被害者の法益処分意思が「それのみで」行為者の犯罪成立阻却を導くものであるので(7)、いずれにせよ生命法益に対しては「被害者の承諾」は原則として認められていないと表現することもできよう。また、「臨死介助状況」において「被害者の生命の自己決定」が直接に行為者の犯罪成立阻却の効果を持つものであるならば、「消極的臨死介助」や「間接的臨死介助」においては犯罪不成立が認められ、「積極的臨死介助」においてはそれが認められないというように、行為者の「目的」の如何によって、あるいは行為者の行為態様の作為・不作為という評価によって可罰・不可罰が変化するのは説明できないのではないだろうか。
  「被害者の生命の自己決定」の尊重という思想は、特に「臨死介助」状況などにおいて、医師や家族などの「他人」が被害者の死を決定するのではなく、まさに「被害者本人」が自分のことは自分で決定できるべきであるということを意味しているといえるであろう。すなわち、「他律」に対する「自律」の優位という思想である。これは、一般的におよそ人は生命処分は全く自由なのだという合理主義的に割り切った世界観・価値観とは必ずしも同義ではないであろう。
    そこで、「自殺関与事例」における行為者行為の刑法的評価については、被害者の「生命の自己決定」という彼の「意思」のみに着目するのではなく、被害者の自由な「意思」決定に基づいた被害者自身の「態度(行為)」と実際に生じた「結果」との「統合体(連関)」が、被害者と行為者との共働である全体事象においてどのような意義を有するのか(8)に着目する「被害者の自己答責性」という観点が重要な意義を獲得するように思われる。すなわち、「被害者の自己答責性論」は、伝統的な「被害者の承諾論」を越えた独自の意義を有しているので、注目に値するのである。
  この「被害者の自己答責性」の思想は、ドイツの判例及び学説において、「自殺関与事例」や「(広義の)自己危殆化事例」における正犯共犯の限界に関する議論に関連づけて発展してきたものである。周知のように、ドイツでは「自殺教唆・幇助」といった「自殺に対する狭義の共犯」は不可罰とされてしまっている。ただ刑法二一六条が被害者の明示的かつ真摯な「要求による殺人」を通常の故殺罪の減刑類型として処罰しているだけである。そこで、ある行為が「要求による殺人」の「正犯」と見なされるか、被害者の自殺への「共犯」と見なされるかは、直接に行為者の可罰・不可罰を限界づけることになる。そのことが、ドイツでは我が国と異なり、自殺関与事例における正犯と共犯の限界基準について活発な議論がなされる契機になったのであり、また「被害者の自己答責性」の思想が発展する契機ともなったのである。
  一方、我が国では、いずれにせよ承諾殺人・嘱託殺人と自殺関与は、刑法二〇二条によって、同一の法定刑のもとで処断されるので、両者の限界付けについてはあまり深刻に考えられてこなかったといえる(9)。しかし、我が国のような法状態のもとにおいても、その行為が犯罪の正犯的実行なのか共犯的実行なのかを考慮して、同一の構成要件の中で差別的に取り扱うことは不可能ではないし、また、我が国でも様々な刑法改正作業の中で、自殺関与の「非犯罪化」とまではいかなくとも、正犯的実行と共犯的実行を区別する試みは意識されてきたのである。それ故、「被害者の自己答責性」の思想が持つ意義について探求し、併せて、「自殺関与事例」における正犯と共犯の限界付けについてもう一度検討する意義はあると思われる。
  さらに、「被害者の自己答責性」の思想は、ドイツの判例及び学説では、「故意的な自殺への関与」である「自殺関与事例」においてのみではなく、「過失的な自己危殆化への関与」である「(広義の)自己危殆化事例」においても重要な意義を持っている。それらは、ドイツではパラレルに考えられ、議論されているのである。従って、「自己危殆化」に関する議論を正しく評価し、検討するには、「自殺関与事例」における「被害者の自己答責性原則」の展開を押さえておくことが不可欠の前提であるとも言えるであろう。
  そこで、以下においては、まず第一章において、ドイツにおいて「自殺関与事例」に関連し「被害者の自己答責性」の理論がどのように展開してきているかを検討する。また、ここで依然公刊した「自己危殆化」に関する論文(10)での私見について、若干の補足も行う。第二章では、それをふまえて、「同意殺人・自殺関与罪」に関する諸論点についてもう一度整理・検討を行うことにする。

(1)  成立した「臓器移植法」に関しては、以下の文献を参照。甲斐克則「脳死移植立法の意義と問題点」法律時報六九巻八号二頁以下、中山太郎「臓器移植法−適正な移植医療を目指して」法学セミナー五一三号一一〇頁以下、秋葉悦子「臓器移植法の成立−死の選択権の認容」法学教室二〇五号四三頁以下、唄孝一「脳死論議は決着したか  臓器移植法の成立」法律時報六九巻一〇号三四頁以下、島崎・中森・野本・唄・町野・丸山「座談会  臓器移植法をめぐって」ジュリスト一一二一号四頁以下、平野龍一「三方一両損的解決−ソフト・ランディングのための暫定的措置」ジュリスト一一二一号三〇頁以下、伊東研祐「『死』の概念」ジュリスト一一二一号三九頁以下、宇都木伸「提供意思」ジュリスト一一二一号四六頁以下、長谷川友紀「臓器移植法の運用と課題」ジュリスト一一二一号五四頁以下、中山研一「迷走した臓器移植法の軌跡」法学セミナー五一七号一三頁以下、中山研一「臓器移植法と脳死問題」法学セミナー五一七号一八頁以下、丸山英二「臓器移植法における臓器の摘出要件」法学セミナー五一七号二二頁以下、水越治「臓器移植法の施行と残された課題」法学セミナー五一七号二七頁以下。
(2)  横浜地裁平成七年三月二八日判決・判例時報一五三〇号二八頁以下、判例タイムズ八七七号一四八頁以下。なお、本判決に関しては以下の文献を参照。町野朔「安楽死−許される殺人?」法学教室一五二号六三頁以下、同「『東海大学安楽死判決』覚書」ジュリスト一〇七二号一〇六頁以下、甲斐克則「治療行為中止及び安楽死の許容要件」法学教室一七八号三七頁以下、中山研一「東海大学『安楽死事件』判決について」北陸法学三巻三号二七頁以下、大山・松宮「もぎたて判例紹介  東海大学付属病院『安楽死』事件」法学セミナー四八七号八一頁以下、阿部純二「安楽死の問題」研修平成七年九月号三頁以下、酒井安行「『死』『生命』についての自己決定権を問う」法学セミナー四四八号五八頁以下、唄孝一「いわゆる『東海大学安楽死判決』における『末期医療と法』」法律時報六七巻七号四三頁以下、内藤・唄・柳田・山崎「座談会  安楽死ー東海大学事件をめぐって」ジュリスト一〇七二号八一頁以下。
(3)  中山・石原編著『資料に見る尊厳死問題』(一九九三)六〇頁によれば、我が国で「安楽死」が刑事事件になって実際に裁判所の判決が出たものは、「東海大安楽死事件判決」をのぞけば、以下の六件があるということである。すなわち、東京地裁昭和二五年四月一四日判決・裁判所時報五八号四頁以下、名古屋高裁昭和三七年一二月二二日判決・高刑集一五巻九号六七四頁以下、鹿児島地裁昭和五〇年一〇月一日判決・判例時報八〇八号一一二頁以下、神戸地裁昭和五〇年一〇月二九日判決・判例時報八〇八号一一二頁以下、大阪地裁昭和五二年一一月三〇日判決・判例時報八七九号一五八頁以下、高知地裁平成二年九月一七日判決・判例時報一三六三号一六〇頁以下。
(4)  名古屋高裁昭和三七年一二月二二日判決・高刑集一五巻九号六七四頁以下。
(5)  本判決における「安楽死適法化のための六要件」とは、以下のものである。
  @病者が現代医学の知識と技術から見て不治の病に冒され、しかもその死が目前に迫っていること。
  A病者の苦痛が甚だしく、何人も真にこれを見るに忍びない程度のものであること。
  Bもっぱら病者の死苦の緩和の目的でなされたこと。
  C病者の意識がなお明瞭であって意思を表明できる場合には、本人の真摯な嘱託又は承諾のあること。
  D医師の手によることを本則とし、これにより得ない場合には医師により得ないと首肯するに足る特別な事情があること。
  Eその方法が倫理的にも妥当なものとして容認しうるものなること。
(6)  小野清一郎「安楽死の問題」『刑罰の本質について・その他』(一九五五)一九七頁以下
(7)  Vgl. Alfred A. Go¨bel, Die Einwilligung im Strafrecht als Auspra¨gung des Selbstbestimmungsrechts, 1992. S. 44.
(8)  Vgl. Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993, S. 33ff.
(9)  たとえば、前田教授は両罪の限界は微妙であることを指摘した上で、「同一構成要件内での区別の問題」であり「その実益は少ない」としている。前田雅英『刑法各論講義(第二版)』(一九九五)二七頁。
(10)  拙稿「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化について」立命館法学(一)二四六号五四三頁以下、(二)二四七号三五一頁以下、(三)二四八号六四四頁以下、(四)二五一号六七頁以下。



第一章  自殺関与事例における被害者の自己答責性原則の展開

第一節  総    説
    本章では、「被害者の自己答責性」の思想が、ドイツの判例及び学説においてどのように展開してきたかを検討する。
  たとえばツァツィクは、「被害者の自己答責性」が特に問題となる領域として、「意識的自己侵害、特に自殺関与事例」と「(広義の)意識的自己危殆化事例」の二つを挙げている。彼は、「自殺関与事例」において、「自己答責的な自己侵害」の刑法的意味の根本思想は、この領域に存在し、また不可避的にこの領域に通じていかなければならないのだが、BGHはこの領域においては、判断の指導原理としての「自己答責性」の一般的承認を認めてこなかったとしている(1)。そして、「被害者の自己答責性」の思想は、BGH判例では、むしろ「自己危殆化」が問題となる領域において発展してきたのだとしている(2)
  ツァツィクが述べているように、BGHは「自殺関与事例」において「被害者の自己答責性」の思想を働かせてはいない。後述するように、BGHはこの領域においては、可罰的な要求による殺人(刑法二一六条)「正犯」と不可罰の自殺「共犯」の限界基準として「行為支配基準」を用いている(3)。その結果、被害者が自殺行為を行った後、意識不明状態に陥り、その段階で行為者が関与した場合には、行為者が「行為支配」を持つ者として「正犯」の責任を負うとしている。このことが、一見して「自殺への不作為的な幇助」と考えられる一連の「自殺不阻止」事例を「不作為」の「(要求による)殺人正犯」として処罰してきたことにつながっているのである。
  このような判例の傾向に対して、学説では、「被害者の自己答責性」に着目して行為者(関与者)の「正犯性」及び「可罰性」を制限することによって、判例変更を行うことが目指されたのである。
    そこで、以下ではまず第二節において、「自殺関与事例」に関するBGH判例の傾向を探ることから考察を始める。そこでは、事例の特質に従って、以下の五つの類型に分けてその問題点を整理する。
  まず、第一の類型は「一般的自殺への作為的関与」の事例を取り上げる。
  さらに、第二類型は「臨死介助状況における作為的関与」の事例である。
  第三類型以降は、我が国における判例ではあまり現れてこない事例群である。ドイツでこのような事例が刑事事件としてあらわれ、しかも処罰されていることには、前述したように、BGHが自殺関与における正犯共犯の限界付けに「行為支配基準」を用いていることが関連しているのである。
  第三類型は、「一般的自殺への不作為的関与」いわゆる「自殺不阻止事件」を取り上げる。
  第四類型の「臨死介助状況における不作為的関与」は、有名な「ヴィティヒ事件(4)」がその典型的なものであるが、そこで展開された判例の論理は、第三類型の事例群の延長線上にあるということができよう。
  最後に、第五類型として「一般的自殺への過失的関与」の問題がある(5)。ここでは、上述した四類型のように、主に刑法二一六条などが問題とされるのではなく、刑法二二二条の「過失致死罪」の成否が問題になる。ドイツでは、刑法二六条及び二七条によって、「過失による教唆、幇助」は立法的に不可罰とされている。それ故、この事例群においても、過失犯領域において、「正犯」と「共犯」との限界基準が重要な意味を獲得するのである(6)
  以上のような判例の検討の後、第三節ではそのような判例に対して反省を迫るための理論として、「被害者の自己答責性」による解決を主張する主要な論者の見解を概観する。ここでは、ヘルツベルクのように(7)全体の事象を行為者と被害者の「共同正犯」的に把握して、行為者(関与者)の「正犯性」を肯定してしまう見解もあるが、「被害者の自己答責性」原則にとっては、被害者態度でもって行為者の正犯性を制限するという論理が重要である。そのような論理を展開する者として、ロクシン、ノイマン、ホーマン/ケーニヒ、ツァツィクの見解を検討する。
  また、第四節では特に「臨死介助(安楽死、尊厳死)」の問題において、ドイツの「一九八六年臨死介助対案(8)」を素材にして、「被害者の自己答責性」の思想がこの問題領域においてどのように位置づけられているかを検討する。
  最後に、第五節では、以上のような「自殺関与事例」における「被害者の自己答責性」の意味を明らかにした後で、「自己危殆化事例」における「被害者の自己答責性」の意味についても、以前に公刊した拙稿(9)を若干補足し、両者の関連性についてまとめることにする。

(1)  Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993, S. 6.
(2)  Rainer Zaczyk, a. a. O(1), S. 7f.
(3)  第一章第二節「ドイツにおける主要判例の概観」参照
(4)  BGHSt 32, 367ff.
(5)  もちろん、この類型を「作為・不作為」によって、あるいは「一般的自殺・臨死介助状況」によって、さらに細分化することも可能であろうが、現実のBGH判例にそれぞれに該当する適切な事例が存在するわけではないので、便宜的に「過失的関与」については一つの類型にまとめることにした。
(6)  もちろん、少なくとも「過失犯」の領域においては「拡張的(統一的)正犯概念」が妥当し、従って正犯共犯の区別がないとする立場も存在しうる。この問題については、特に松宮孝明「過失犯における正犯概念」立命館法学(一)二三五号三四九頁以下、(二)二三八号一二六四頁以下を参照。
(7)  第一章第三節「ドイツにおける主要学説の概観」参照
(8)  Alternativentwulf eines Gesetzes u¨ber Sterbehilfe, 1986.
(9)  拙稿「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化について」立命館法学(一)二四六号五四三頁以下、(二)二四七号三五一頁以下、(三)二四八号六四四頁以下、(四)二五一号六七頁以下。


第二節  ドイツにおける主要判例の概観
    まず、第一類型の「一般的自殺への作為的関与」の事例から検討する。この類型における重要な判例は、「心中の生き残り事件(ギーゼラー事件)」である。
  「心中の生き残り事件(ギーゼラー事件)」(BGH Urteil vom 14. 8. 1963(1))
(事実)  被告人の男性と被害者の女性ギーゼラー(一六歳)は、恋人同士であった。しかし、両親たちはこの関係を否認していた。ギーゼラーの両親の申し立てに基づいて被告人が彼女に接触することが禁じられたとき、ギーゼラーは自殺をする強固な決心をした。二人が出会ったある日の晩、被告人は彼女に自殺意思を撤回させることを試みたが無駄であった。被告人は、彼女を一人で死なせることを欲しなかったので、自分も一緒に死のうと決心をした。まず、二人は被告人の車の中で、ルミナール錠(睡眠薬)を服用し自殺を図ったが、作用は発生せず失敗した。そこで、被告人は排気ガスを車内に引き込むことを提案し、彼女は合意した。被告人は排気管にホースを接続し、それを車内に導いた。被害者は、右前部座席に被告人と並んで座り、内部から車のドアに鍵をかけた。被告人は、エンジンを始動させ、流れ込む一酸化炭素によって自分が意識不明になるまで、アクセルをいっぱいに踏んだ。翌日の朝、二人は車内で発見され、しばらくは二人とも意識不明のまま生存していた。その後、被告人だけは救われたが、ギーゼラーはしばらくして亡くなったのであった。
  原審の刑事部(Strafkammer)は、刑法二一六条による起訴に対し、殺人行為、殺人の故意、及び重大な行為支配が欠如しているために、正犯としては処罰されず、また、自殺の可罰性の欠如のために他人の殺人の幇助としても処罰されないとして、無罪判決を言い渡していた。
(判旨)  BGHは以下のように述べて、事象における被告人の役割は刑法二一六条の正犯のものであったとした。
  まず、刑法二一六条の構成要件的な限界付けの事例は、「行為者が行為を自己のものとして意欲したのか否か」、「正犯者意思」、「行為支配の意思」または「行為についての自己の利益を持っていたか否か」という主観的に決定される基準では、適切に決定できない。このことは、とりわけ「一方だけ失敗した心中の事例」に対して妥当する。なぜなら、ここでは「ともに死ぬという自由かつ真摯な決心、すなわち両者の運命の意識的な結合」は、主観的メルクマールによる区別を特に疑わしいものにしているからである。
  そこで、主観的メルクマールによる区別をとらないとすると、「死へと導く事象を事実上支配していたのは誰か」がもっぱら問題になる。それには、個別事例において、死者が自己の運命についてどの程度自由に処理できたかというその種類と方法が決定的になる。死者が黙認して(duldend)他人から死を受け取ろうと望み、他人の手に自らをゆだねたならば、この他人が行為支配を持っていたことになる。これに対して、死者が自己の運命についての自由な決定を最後まで保持していたならば、たとえ他人の助けがあったとしても、自分で自分自身を殺したことになる。もっとも、この「決定の留保」は、一方だけ失敗した心中事例においては、他人の行為寄与の後に事実上生死についての自由な決定を保持していたことと同視されてはならない。なぜなら、そうでないと、判断は事象経過の偶然性に依存することになってしまうからである。とりわけ、関与者の行為が後になってはじめて結果から殺害行為と特徴づけられることになってしまうからである。
  そこで、むしろ、全体計画(Gesamtplan)が重要である。その計画によれば、関与者の寄与が、結果発生に至るまで意思の制御でもって持続するようなものではなく、むしろ関与者の実行の後に他の関与者(被害者)になお完全な自由が残っているように、原因系列のみを始動させるものであったならば、それは「自殺への幇助」にすぎないのである。しかし、本件においては、全体計画はそうではなかった。被告人は、全体の事象を最後まで自己の手の中に持ち、両者の死を目指す実行行為を自己の意識喪失の発生に至るまで続けていた。たしかに、ギーゼラーは右側の車のドアを再び開け、または被告人の足をアクセルから押しのけることができたかもしれない。しかし、被害者は死を目的とした被告人の行為を黙認して受け入れることを決心し、彼女にとってどの時点でもはや死から免れることができなくなるかを知ることなく、被告人の行為を受け入れたのである。被告人は、このすべてのことを認識していた。全体計画の実行における彼の役割は、このような状況のもとでは刑法二一六条による正犯の役割であった。ギーゼラーが意識を失う以前に又はその後に被告人が意識を失ったのかは重要なことではない。判断は偶然的事情に依存してはならないのである。
    この判決においては、自殺関与における正犯と共犯の限界について、「正犯者意思説」「利益説」などの主観的基準によることを意識的に排除し、「事実上の(行為)支配」基準によることが明言されている。
  原審では、被害者は被告人よりもおそらく遅く意識を失ったので、被告人の行為寄与の後、自己の生死についての自由な決定を自分の手元にとどめていたのだという認定をし、従って、被告人には行為支配もその意思もなかったとして彼の正犯性を否定した(2)。しかし、BGHは、全く反対に、被害者は被告人に自己の身をゆだねてしまっていたことを重視し、また判断はこのような状況のもとでどちらが先に意識を失ったのかという偶然的な事情に左右されてはならないとし、被告人の役割は「正犯」のものであったとしたのである。
  また、本判決においては、「行為支配」概念を「行為支配の意思」という主観的な方向で理解する立場を排除して、「客観的な事情」としての「行為支配」が問題になるという点を明確にした点が注目されうる(3)
    次に、第二類型の「臨死介助状況における作為的関与」の事例を検討する。この類型で、注目される「意識喪失後の積極的臨死介助」事件は以下のような事案であった。
  「意識喪失後の積極的臨死介助事件」(BGH Urteil vom 25. 11. 1986(4))
(事実)  被害者は、被告人の七〇歳になる叔父であり、妻を癌で亡くした後は自宅で一人暮らしをしていた。彼は、慢性の気管支喘息を患っており、呼吸困難を伴う激しい咳の発作や心臓の苦痛、不眠症などは彼の生きる意思を阻害していた。被害者は、自分のことを自分で満足にすることができなくなっていたが、他人の世話になることを欲せず、また集中治療も拒絶していた。彼は、次第に自殺意図を固くしていった。被害者は、彼が愛し、信頼していた甥である被告人とともに、明らかに自殺の準備をするために薬局から睡眠薬(Scophedal)を購入しておいた。その後、一九八四年一二月の中旬頃から被害者は寝たきりになり、被告人は看病した。一九八六年一二月一八日に、被害者は自殺のためにあらかじめ買っておいた Scophedal を被告人に渡してくれと頼み、それを注射し始めた。彼は、その途中で被告人に対して、「自分が注射することができなくなったら手伝ってくれないか?」と尋ねた。被告人が驚いているのに気づき、被害者は次のように続けた。「私が注射できる場合は、おまえにはそれに関与させない。私はいつそれを実行するかもおまえには言わない。おまえはそれをする必要はないのだ」と。一九八六年一二月二〇日の晩、被害者は被告人に気づかれずに、その薬品を自分で一五から二〇ミリリットル筋肉注射した。その後、被告人はそれに気づき、被害者の自殺が失敗するのではないかとおそれた。そこで、被害者の生命を「確実に」終結させることを決心し、さらに睡眠薬を被害者に注射した。それによって、約一時間後、被害者は息を引き取った。被害者は、被告人の行為が無くとも死んだであろうが、しかし、少なくとも確実に一時間は長く生き延びたであろう。
  原審は、刑法二一三条の「故殺の比較的重くない事態(5)」によって有罪にし、三年六ヶ月の自由刑を言い渡した。すなわち、被告人と被害者の会話の中で、被害者が被告人に頼んだことを「撤回」し、自らの手によって自殺することを示唆したことに固執して、刑法二一六条の「要求による殺人」ではないと判断したのである。
(判旨)  これに対して、BGHは、原審のこのような認定は会話の意義を正しく評価したものではないとした。
  被害者は、緊急の場合においてのみ、被告人の助けを借りることを欲し、この場合も被害者のその願いは存続していた。刑法二一六条における「真摯でかつ明示的な嘱託」は、行為の時点において存続し、それが基づくような、またはそれと結びつけられる事実上の要件が存在したことが必要であり、かつそれで十分でもある。これは、本件ではそうであった。被害者は自分の自殺意思を事実上言い換えたのである。被害者の自殺意思の実現において、必要があれば被告人によって援助されるという被害者の願いは、このような状況においては被告人にとって特別な重要性を持っているものであった、と。
  また、被告人の「正犯性」に対しては、以下のことを指摘し、これを肯定した。
  LGは、正当にも、被告人は自由答責的に行われた叔父の自殺の幇助ではないということから出発している。被害者は、その時点において、深い意識喪失の状態にあり、従って事象へ影響を及ぼす可能性を失っていた。そのため、「行為支配」は排他的に被告人だけにあったのである。後の事象経過は、彼が認識していたように、彼の決断のみに依存していたのであった。被告人は、たとえ主観的には被害者の願いを叶え、彼の自殺意思に従属するつもりであったとしても、正犯者であって、他人の行為における単なる幇助者ではない、と。
    このように、この判決においても、自殺関与における正犯と(不可罰的な)共犯との限界は「正犯者意思」などの「主観的な基準」によるのではなく、「行為支配」基準によっていた。すなわち、被害者が意識不明に陥った後、被告人にのみ「事象へ影響を与えうる可能性」としての「行為支配」があったことから、彼の「正犯性」が基礎づけられていたのであった。LGとBGHの判決の相違は、会話における被害者の意思表明を「嘱託」と見なすかどうか、特に被告人が驚いて尻込みしたとき、彼を安心させるために付け足した被害者の言葉を「嘱託の撤回」と評価するかどうかの違いであった。いずれにしても、被告人の「正犯性」についての疑いは存在しなかったのである。
  しかし、学説においては、後述するようにロクシン(6)などによって、まさにこの事件を重要な契機として「被害者の自己答責性」を重視する論者から、「正犯性」に疑いがもたれることになったのである。
    さらに、第三類型として、「一般的自殺への不作為的関与」の事例を検討する。
  ルドルフ・シュミットは(7)、ライヒスゲリヒト時代はいわゆる「自殺不阻止」も倫理的に非難されることはあるにせよ法的に処罰されることはなかったのだが、それはBGHが設置されるとまもなく変更されたとしている。そのような自殺不阻止を処罰する最初の判例は、以下の事件である。
  「夫の自殺不阻止事件」(BGH Urteil vom 12. 2. 1952(8))
(事実)  被告人(妻)の夫は、婚姻上および家庭上の不和のために首つり自殺をした。彼が既に意識を失っているが、なお救助することが可能であったとき、被告人はその場に偶然やって来て、これを認識しながら放置した。彼女は、自分とは無関係になされた事象の経過に合意し、その因果経過を救助することによって変更しようとはしなかった。彼女は、不作為の援助行為(刑法三三〇条c)によって有罪判決を受けたが無罪を主張し、他方、検察官は故殺を主張した。原判決破棄差し戻し。
(判旨)  刑法三三〇条c(現行の刑法三二三条c)は、確かに有効だが、ここでは適用できない。本条にいう「事故(Unglu¨cksfall)」とは、人もしくは物に対する著しい損害をひき起こし、更なる損害をひき起こすおそれのある、突然の外部的出来事である。この外部的出来事は事故の被害者の意思にはよらない。ある一定の諸状況のもとで、自殺の予期しない経過もそのような外部的出来事であり得るかは、ここでは不確かである。いずれにせよ、自殺者の答責的な行為が彼が表象したように生命の危険を本質的に作り出し、そして自殺意思が継続する限り、事故は概念的にまた用語法上排除される。従って、被告人にはここでは刑法三三〇条cによる事故からの救助義務は生じないのである。
  ドイツ刑法は自殺の幇助を処罰していない。自殺は犯罪行為ではなく、それへの幇助も可罰的な正犯行為が欠けるために処罰されない。共犯の制限従属性の原則は、ここでも変更されない。その原則は、正犯行為を前提にする。
  しかし、被告人は夫の死を独立して、故意もしくは過失の殺害によって、有責的に共働惹起し、それ故、その死に対して答責的である。被告人は何ら行為していないから、被告人の禁じられた作為(Handeln)による正犯性は排除される。被告人は、夫が首をつり意識を喪失しているのを発見したとき、何もせずに立ち去った。この不活動(Unta¨tigbleiben)は、それが義務違反的であり、かつ被告人がそれを認識していた場合には、被告人に刑法上の非難をもたらす。なぜなら、義務違反的な不作為は、不法内容において、禁じられた作為と原則的に同じだからである。ある者が、被害者に対して義務関係をもっていなかったならば、被告人と同じような状況のもとで被告人のような不活動の態度をとったとしても、刑法三三〇条cの特別な前提条件が欠け、そして自殺への幇助の可罰性が欠けるため、なるほど人倫則上は非難されるであろうが、刑法上の非難は加えられない。しかしながら、被告人において法状態は異なっている。被告人は夫と「婚姻共同体(Ehegemeinschaft)」をなして生活しており、それ故、特別にそこから生じる義務を負っていた。刑法は、関与者の双方またはその一方が、相互的にまたは他の一方に対して保障し、特別な状況の下で他人の生命の危険を回避する義務を法的に負わせる、緊密な義務関係を前から知っている。そのような救助と危険回避についての法的義務は、法律、慣習法に、また契約にも基づきうるものである。その内容と範囲は多様である。それは事実状態と法状態に依るのであり、極端な場合には義務を負わされる者の力と能力によって制限される。そのような保護義務の有責的な侵害は、行為(作為)によってと同様、不活動(不作為)によっても可能である。義務違反性の不法内容は、両事例において同一でありうる。
  ライヒスゲリヒトは、そのような法的義務を、緊密な、誠実命令(Treugebot)によって支配された生活共同体、とりわけ家族によって根拠づけた。これは、特に婚姻による生活共同体に妥当する。夫婦は、婚姻共同体にお互いに義務づけられる(民法一三五三条)。これには、通常、生命の危険においてはお互いに力の限り保護し、援助する法的義務が含まれる。
  (本件において)被告人は、わずかの労力でもって、自分自身に対する危険なしに、綱を切断して被害者を救助することができた。しかし、彼女は不活動にとどまった。なぜなら、彼女は自分自身が危険になるとか、救助義務の負担を負うことができないと考えたからではなく、彼女にとって自殺による夫の死はどうでもよいことであり、むしろ好ましいことであったからである。彼女は義務違反的に不活動にとどまることによって、夫によって誘致された原因経過を中断しなかった。そのことによって、彼女は夫の死を共働惹起したのである。
    以上のように、この判例においては、自殺不阻止を不作為の殺人罪に問う作為義務の発生根拠は、「婚姻共同体」に基づくとして、制限的に解されていた。
  また、注目すべきことは、本判決においては、少なくとも@自殺者の答責的行為が生命の危険を本質的に作り出しA自殺意思が継続している限り、「自殺」は「事故」にあたらず、従って「自殺不阻止」を「緊急救助義務違反罪(刑法三三〇条c、現行の刑法三二三条c(9))」によって処罰することは否定されたのである。
    ところが、続く「妻の自殺不阻止事件」は、自殺は倫理的に非難可能なものであることを前提に、自殺企図に基づく危難状況は、緊急救助義務違反罪にいうところの事故に該当するとした。BGHは、本判決以後、一貫して「自殺の不阻止」は緊急救助義務違反罪(刑法三二三条c)に該当しうるとしている。
  「妻の自殺不阻止事件」(BGH Urteil vom 10. 3. 1954(10))
(事実)  被告人は、他の男性と不倫している妻(被害者)と不仲であった。ある日、被告人が仕事から帰宅した際に、妻の寝室へのドアが遮断されているのに気づいた。被害者はそのとき自殺を図っていた。被告人と管理人の指示によって、他の住人が被害者の寝室のドアをこじ開けた。被害者は、ベッドの上で意識不明の状態であえいでいた。被告人は、しばらくそこにいたが、医者を呼ぶことはさせなかった。そこで、管理人が医者を呼び、人の手を借りて被害者を病院に運ばせた。数日後、被害者は全快して退院した。
(判旨)  刑法三三〇条c(現行の刑法三二三条c)は、必要な援助行為の不作為を処罰している。救助は、人がそこから助けられなければならない危険状況に陥ったときにはじめて必要になる。それ故、自殺の試み自体が重要なのではなく、むしろそれによって引き起こされた危険状況とそれと結びついた保護必要性が重要なのである。
  人は、刑法三三〇条cの規定内容によって、救助を要求する深刻な危険状態に気づいたときに、救助することが義務づけられる。この観点のもとで事案を考えるならば、自殺の試みによって惹起された危険状態を刑法三三〇条cの意味における「事故」と見ることは、用語上何ら疑念を抱かせるものではない。なぜなら、このような状況においても、人はそこから助けられなければならない緊急状態に陥っているからである。
  事故は、危険状態が危殆化されている者に外部からふりかかるか、あるいは自殺者においてのように、その者の意思によって引き起こされるかには関わりなく、著しい危険をもたらすか、あるいはそのおそれがある、一定の突然性でもって発生するすべての出来事なのである。
    以上の二つの自殺不阻止に関する判例は、夫婦間での不救助が問題となった事案であり、従って「婚姻共同体」による作為義務を問題にし得たのだが、後述する「婚約者の自殺不阻止事件(11)」では、「婚約関係(内縁関係)」という「事実上の緊密な生活共同体」にまで、作為義務の発生根拠が拡大された。しかも、その事件では被告人の不作為が問題になる時点において、被害者は「意識喪失」の状態にはなかったのであった。
    さらに、つづく「姑の自殺不阻止事件」では、被告人と被害者はそもそも「生活共同体」を形成してはいなかった。本件について、神山教授は、もし姑がもともと一人では思うように行動できず、保護が必要な状態にあったのならば、「事実上の引き受け」によって、被告人には(被害者の)生命・身体を保護する義務が認められる余地もあるとしている(12)
  「姑の自殺不阻止事件」(BGH Urteil vom 15. 5. 1959(13))
(事実)  被告人及びその妻は、養老院にいた姑に対して、家に連れ帰る途中、二人は永久に彼女を受け入れないであろうことを暗示した。これに対して姑は誰にも負担をかけないかもしれないと言った。姑はダムの方へ行き、被告人に自分を突き落としてくれと言った。被告人はその要請に従わなかった。彼女は水中に落ち込んで溺死した。
(判旨)  被害者による明白かつ真摯な要求が、自分の死を防止するなということにあるならば、義務違反的な不作為による要求による殺人が行われうるというのは正当である。しかし、事実審裁判官は、被告人が正犯者意思(Ta¨terwille)で行為したことを十分明らかにしなかった。認定によると、被告人は姑によって独自に惹起された出来事を支配するつもりはなく、正犯者意思は彼に欠けていた。この意思は、不作為による要求による殺人の場合にも必要である。
  「夫の自殺不阻止事件(14)」は、被告人の助力なくして行われた自殺に対して不活動にとどまる被告人を、殺人の犯罪行為の正犯と見た。しかし、この見解に従うならば、同様に他人の正犯者意思のもとでの従属にもかかわらず、作為による他人の自殺の促進は、刑罰の科されていない主たる行為への幇助として不可罰的であり、それに対して不作為による促進は、正犯の殺人として可罰的であることになる。また、同一の不作為は、それが他人の殺人に関するものであるならばそれへの単なる幇助として処罰されるにすぎないが、それに対して自殺の場合には正犯的な殺人行為として処罰されうることになってしまう。結局、これまでの認定によると、刑法二一六条の適用は考慮されないのである。
  しかしながら、事実審裁判官は被告人が緊急救助義務違反罪(刑法三三〇条c)で処罰されないかを検討すべきである。他人の自由な自殺への関与の不可罰性は、刑法三三〇条c(現行の刑法三二三条c)の適用を妨げない。
    ここではまず、刑法二一六条の不作為正犯としての可罰性に「正犯者意思」を必要とするとされていることが注目に値する。また、結局本件においても、刑法三二三条cによる可罰性は、肯定されている。
  十一  このような自殺不阻止に関する判例の流れの上に、有名な「ヴィティヒ事件」判決があることになる。それは、第四類型の「臨死介助状況における不作為的関与」の事例である。また、この「ヴィティヒ事件」は、本章の第四節で検討する「一九八六年臨死介助対案」が出されるきっかけともなった重要な判例でもある。
  「ヴィティヒ事件」(BGH Urteil vom 4. 7. 1984(15))
(事実)  被告人は、被害者である七六歳の未亡人Uのホームドクターであった。U夫人は、冠状動脈硬化や腰と膝の関節症による歩行障害に悩まされており、夫を亡くして以来生き甲斐を失って、被告人や第三者に自殺願望をうち明けていた。
  被告人は、一九八一年十一月二八日の夜にU夫人を訪問した。被告人は玄関ドアのベルを鳴らしたが、灯がついていたにもかかわらず、Uはドアを開けなかった。そこで、近所にすむBのもとを訪れ、B所携のスペアキーを使ってともにU夫人の家に入った。そのとき、U夫人は意識不明の状態でソファーに横たわっており、彼女の手の中には入院、治療を拒絶する意思表示をしたメモがあった。
  被告人は、U夫人が多量のモルヒネと睡眠薬を自殺の意図で使用したことを知った。被告人は、U夫人が救助不可能であり、もし仮に救助できても重い後遺症を伴うであろうと考えた。被告人は、彼女の自殺の意図を認識していたことから、U夫人の救助を試みないことを決意し、翌朝七時頃、彼女の死を確認するまでその家にとどまった。
  地方裁判所は、被告人について、要求による殺人(及びその未遂)の可罰性を否定し、また、自殺は刑法三二三条cの「事故」にあたらないとして同条の可罰性も否定し、結局無罪を言い渡していた。
(判旨)  まず、BGHは「自己(自由)答責的な自殺への共犯」の問題性に関する判例の状況について、以下のように述べている。
  判例は、これまで、自由答責的な自殺への第三者の積極的若しくは消極的な関与の事例群に対する刑法的評価について、一貫した法体系を展開してこなかった。しかしながら、現在の法律状態のもとでは、限界事例において、ある程度の評価矛盾は回避され得ない。
  自己答責的に望まれ、実現された自殺は不可罰である、なぜならそれは殺人の罪の構成要件に該当しないからである。それゆえ、動機の誠実さ(Lauterkeit)は顧みずに、そのような自殺へ関与した者は、教唆若しくは幇助としては処罰され得ない。しかし一方で、法律は刑法二一六条から明らかなように、生に疲れた者の殺害に正犯的に共働した者を処罰しているのである。
  そして、本件については、以下のような判断を下している。
  自殺者の生命に対して保証人的義務を持つ者、たとえば配偶者とか主治医のような者が、意識喪失者を彼の生命が危険な状況で発見して、必要で期待可能な救助を行わなければ、「不作為による殺人」で処罰される。それが故意の殺人か過失致死かは、彼の意思及び態度に依存する。
  この評価は、行為無能力及び意思無能力の被害者の救助が必要とされる状態が、被害者自身によって惹起されたのだということによっても変更されない。自殺者が意識喪失状態になればもはや自己の決意を撤回できず、事実上の事象に影響を与える可能性(「行為支配」)は最終的になくなり、死の発生は専ら保障人の態度に依存するのである。
  確かに、自殺者がなおその事象の支配者である限り、保障人には行為支配がないので保障者責任の観点から介入する義務はない。しかし、刑法三二三条cによって誰にでも妥当するとされる一般的な救助義務から、自殺を阻止するために彼に可能で期待しうることをなす義務が生じうる。それゆえ、自殺の場合、「行為支配の移行」は、共働者が一般的救助義務の他に、さらに加えて被害者の生命に対する保障義務を持つ事案に対してだけ意義を有する。つまり、保護義務のある保障人に行為支配が移行すれば、すでに生じている刑法三二三条cの可罰性に代わって、殺人の罪による可罰性に導かれうるのである。
  これに対して、学説には、自由答責的な自殺は、刑法三二三条cの「事故」に含まれないとの見解もある(16)が、BGHは自殺の意思は基本的に顧慮されないとしている。そもそも、精神医学や心理学の専門知識がなければ、また外的・内的な動機づけの要因が入念に解明されなければ、事故現場で短時間に自由答責性の有無を確実に判断し得ない。
  しかしながら、本件では事案の特殊事情から、「要求による殺人」の未遂による有罪判決は考えられない。被告人は、医師としての生命救助の任務と患者の自己決定権尊重の要請との葛藤状態に陥った。どちらの義務を優先するかは、法秩序及び職業倫理に準拠した義務適合的な医師の決定に基づくのである。
  患者の自己決定権の尊重は、医師の任務領域の一つの本質的部分である。医師は、基本法二条二項一文で保障された身体の不可侵性の権利を、生命救助のための(医的)侵襲を拒否する患者に対しても尊重しなければならない。しかし、患者の意思に反する医的侵襲の禁止が、救助すべき自殺者が問題になっている場合にも妥当するかは、上級審判例ではいまだなお決定されていない。
  いずれにせよ、医的侵襲がなければ確実に死ぬ自殺者がすでに意識を喪失しているとき、担当する医師は意識喪失が発生する以前に表明された自殺者の意思だけを目安にすればよいというものではなく、やはり自己の責任において医的侵襲の実行もしくは不実行の決断をすべきである。
  医師も刑法の立法者も、生命保護の優先から出発している。刑法二一六条は、他人の生命に対する原則的な不可侵性を保障することを意図しており、同時に第三者が被害者の自己の死への要求を惹起することに対して、重症の患者を保護することを意図しているのである。
  他方、医師は消えゆく生命をいかなる犠牲を払ってでも維持する法的義務を有しないということが考慮されなければならない。延命措置はそれが技術的に可能というだけで絶対必要だとは限らない。医療技術が著しく進歩した今日、医師の治療義務の限界を画するに当たり、装置の有効性ではなく、生命及び人間の尊厳を尊重した決定が望まれる。
  医師が自殺者の死の願望に服することは、基本的には許されない。本件において被告人を免責する特殊事情は以下の点にある。彼は患者の致命的な中毒状態を考慮し、患者が常に嫌悪していた集中治療という手段で延命すれば、回復不能な重大な損傷を必ず伴うと確信したのである。この限界状況において、生命保護義務と患者の自己決定権の尊重との葛藤の中での、患者の人格を尊重した被告人の医師としての良心の決定は、法的に正当化できないわけではない。
  十二  以上のように、本判決では、「臨死介助状況」においても「自殺の不阻止」は、緊急救助義務違反罪に該当し、さらに被害者の意識喪失後は行為者に「行為支配」が移行することから不作為の殺人罪も成立しうるとされたのであった。本判決における被告人の無罪は、限界状況における医師としての良心的葛藤が考慮されたからにすぎなかったのである。
  十三  最後に、第五類型の「自殺への過失的関与」事例を検討する。まず、前述した「婚約者の自殺不阻止事件」からである。
  「婚約者の自殺不阻止事件」(BGH Urteil vom 2. 9. 1954(17))
(事実)  被告人の男性と被害者の女性は婚約関係であったが、被害者の親が二人の関係に反対していた。被害者は被告人とともに家出し、二人はお金を手に入れるため犯行を重ね、警察に追われていた。被害者は自分たちが警察に追われており、お金が断たれたとき、自殺する決心をした。被害者は鉄道の線路の方に行き、列車にひかれて自殺した。被告人は、列車が近づいてきたこと及び彼女が線路に行ったことを不注意にも気にかけなかった。
(判旨)  一定の生活関係は、関係者を、相互に保証し、相互に危険をできる限り回避することを法的に義務づける。「婚約」も、事情によってはそのような場合とみなされるべきである。もちろん、婚約関係が、一方が他方を保障すべき程度には存在せず、完全な生活共同体を築いていない場合には、一方の側にふりかかった危険を避ける義務は、他方の側には存在しない。
  しかし、本件では、認定によれば二人は異常なほど強い恋愛関係によって結ばれており、婚約によって緊密な共同体に結合していた。二人は運命をともにし、事実上の生活共同体を受け入れていた。このような場合、被告人には婚約者の自殺を可能な限り阻止する法的な義務が存在したといえる。被告人は、不作為による過失殺人である。
  十四  本件の場合、被告人を「故意犯」として捕捉しようとすると、被害者が自殺したとき彼女は「意識喪失」の状態にはなく、従ってBGHの「行為支配基準」によると被告人は「正犯」としての地位が与えられず「不可罰の自殺幇助」になってしまうであろう。しかし、BGHは被告人の行為を「過失犯」としてとらえ、「過失殺人(正犯)」とすることによって有罪としたのである。
  十五  しかし、自殺不阻止に関する事案を「過失正犯」として処罰することは、続く「警官ピストル放置事件」によって否定されることになった。
  「警官ピストル放置事件」(BGH Urteil vom 16. 5. 1972(18))
(事実)  警察官である被告人の男性と被害者の女性は、互いに緊密な関係(恋仲)であった。ある日、二人が飲み屋に行き、飲酒した後被告人は車で被害者を送っていこうとした。被告人は、被害者が飲酒の後しばしば憂鬱になり、自殺未遂を何度か行ったことを知っていた。彼はいつもの習慣に従って、不注意にも、自分のピストルを車のダッシュボードの上に置いた。被告人が目を離している隙に、被害者は彼のピストルを手に取り、自殺した。
  陪審裁判所は、被告人を過失殺人によって有罪としていた。
(判旨)  自殺者の死を、幇助の故意で共働惹起する者は、自殺が犯罪ではないので処罰され得ない。そうであるなら、自殺者の死に対する原因を過失的にのみ設定した者を処罰することは「正義」の根拠から禁止される。刑法上、過失でもって不法を惹起する、すなわち自殺者の死を共働惹起する者の行為を、幇助の故意で同じ不法を惹起する者の行為よりも厳しく評価することはできない。被告人は無罪である。
  十六  このように、「婚約者の自殺不阻止事件」では、被害者の自殺を保証人である被告人が過失によって阻止しなかった場合を「過失殺人」で評価していたが、「警官ピストル放置事件」では、同じ行為を「幇助の故意」で行った場合と「過失」で行った場合を比較し、故意作為である自殺幇助が不可罰であることとの権衡上、被告人の過失行為を「過失殺人正犯」と評価して処罰することを退けている。しかしながら、両事件とも、被害者が意識のある状態で自殺するときに、被告人が過失で関与した場合の判断だったのであり、自殺者が自殺行為を行い意識不明状態に陥った後、行為者が過失によって阻止しなかった場合、「行為支配」基準によって「正犯性」を認定し、「過失殺人正犯」で処罰する可能性が残されていることが指摘されている(19)

(1)  BGHSt 19, 135ff.  なお、本判決に関する我が国の文献として、以下のものを参照。神山敏雄「自殺関与をめぐる正犯と共犯の限界」岡山法学三九巻四号五四一頁以下、橋本正博「『行為支配論』の構造と展開」一橋大学研究年報法学研究一八号二六六頁以下、園田寿「心中において一方が生き残った事例」法学ジャーナル二五号九九頁以下。
(2)  BGHSt 19, 136.  なお、神山敏雄・前掲論文(1)五四四頁も参照。
(3)  橋本正博・前掲論文(1)二七一頁
(4)  BGH NStZ 1987, 365ff.,= NJW 1987, 1092ff.,= MDR 1987, 334ff.  なお、本判決に関する我が国の文献として、神山敏雄・前掲論文(1)五三
四頁以下を参照。
(5)  刑法二一三条は以下のような条文である。
  故殺者が、その責任なしに殺人の被害者によって自己または親族に加えられた虐待又は重大な侮辱のため、激怒に駆られ、そのためその場において犯行に及んだとき、その他比較的重くない事態が存在するときは、その刑は六月以上五年以下の自由刑とする。
(6)  Vgl. Claus Roxin, Die Sterbehilfe im Spannungsfeld von Suizidteilnahme, erlaubtem Behandlungabbruch und To¨tung auf Verlangen - Zugleich eine Besprechung von BGH, NStZ 1987, 365 und LG Ravensburg NStZ 1987, 229, NStZ 1987, S. 346.
(7)  Rudolf Schmitt, Das Recht auf den eigenen Tod, MDR 1986, S. 618.
(8)  BGHSt 2, 150ff.  なお、本判決に関する我が国の文献として、以下のものを参照。神山敏雄『不作為をめぐる共犯論』(一九九四)四〇頁以下、橋本正博・前掲論文(1)二一六頁以下、宮沢浩一「不作為犯−不作為による自殺幇助−」ドイツ判例百選一六〇頁以下。
(9)  緊急救助義務違反罪(刑法三三〇条c、現行の刑法三二三条c)は、以下のような条文である。
  事故又は公共の危険もしくは窮迫に際し、救助を行うことが必要であり、かつ諸般の事情から見て行為者にそれを期待することができ、特に自分自身に著しい危険もなく、かつ他の重要な義務に違反しなくてもそれが可能であるにもかかわらず、救助を行わなかった者は一年以下の自由刑又は罰金に処する。
(10)  BGHSt 6, 147ff.  なお、本判決に関する我が国の文献として、以下のものを参照。神山敏雄・前掲書(8)二〇一頁以下。
(11)  BGH JR 1955, 104ff.
(12)  神山敏雄・前掲書(8)三六頁
(13)  BGHSt 13, 162ff.  なお、本判決に関する我が国の文献として、以下のものを参照。神山敏雄・前掲書(8)三五頁以下、橋本正博・前掲論文(1)二三三頁以下。
(14)  BGHSt 2, 150ff.
(15)  BGHSt 32, 367ff.= NJW 1984, 2639ff.= JZ 1984, 893ff.= MDR 1984, 858ff.= NStZ 1985, 119ff.  なお、本判決に関する我が国の文献として、以下のものを参照。神山敏雄・前掲書(8)二一〇頁以下、甲斐克則訳「ヴィティヒ事件」アルビン・エーザー著、上田健二・浅田和茂編訳『先端医療と刑法』三四七頁以下、岩間康夫「自殺を図った患者に対し措置を施さなかった医師の可罰性に関するBGH判決」警察研究五六巻一二号六九頁以下、秋葉悦子「自殺の不救助」警察研究五八巻四号六八頁以下。
(16)  Cramer, in Scho¨nke/Schro¨der, StGB 21. Aufl. § 323c Rdn. 7.
(17)  BGH JR 1955, 104ff.  なお、本判決に関する我が国の文献として、以下のものを参照。神山敏雄・前掲書(8)二〇二頁以下。
(18)  BGHSt 24, 342ff.  なお、本判決に関する我が国の文献として、以下のものを参照。神山敏雄・前掲書(8)二〇七頁以下。
(19)  神山敏雄・前掲書(8)二〇八頁参照。


第三節  ドイツにおける主要学説の概観
    第二節で概観したように、ドイツのBGH判例の主要な傾向は、「自殺関与事例」の限界事例において、「行為支配」の観点に着目することによって行為者行為の「正犯性」及び「可罰性」を基礎づけている。少なくとも、「自殺関与事例」においては、判例も「主観説」やそのヴァリエーションとしての「行為者は、他人の利益のためではなく、自己の利益のために犯罪行為を行ったのか否か」という「利益説(Interessentheorie(1))」はとってはいない。
  これに対して、学説においては、「広義の自己危殆化事例」の問題領域と並んで、まさにこの刑法二一六条の限界事例において、「被害者の自己答責性」に着目して一定の場合に行為者の不可罰を基礎づけようとする見解が唱えられている。この領域における「被害者の自己答責性」原則の主張は、学説による判例変更のための作業であるといってよいであろう。以下では、そのような「被害者の自己答責性」原則に関する主要な論者の見解を概観する。
    まず、ロクシンの見解から見てみることにしよう。
  彼は、BGH判例において、一般的な正犯共犯の限界についてなお大きな役割を果たしている主観的理論(subjektive Theorie)、すなわち「正犯者意思(Ta¨terwille)による行為であったのか幇助的意思であったのか」による区別は、「自殺関与事例」においては常に不可罰の自殺幇助と判断されることになるという。なぜならば、被害者の明示的かつ真摯な要求に基づいて殺害を動機づけられた者は、被害者の望みに必然的に従属するので、主観的基準でいう「正犯者意思」は常に存在せず、(不可罰の)関与意思のみが与えられることになる。従って、刑法二一六条は常に適用不可能になり、刑法二一六条が存在していることと矛盾することになるからである。それゆえ、BGH判例は正当にも刑法二一六条の解釈において主観的理論を排除してきたのである、と(2)
  また、刑法二一六条の解釈問題において、「行為支配」基準によることも問題の核心をついていないとする。特に、「ヴィティヒ事件」のような「自殺不阻止」の「不作為の事例」において、不活動者による行為支配というものはあり得ない、なぜならば真正な消極性(reine Passivitat)によっては外界の事象を支配し得ないからである。結果を回避しうる可能性は、不作為の概念的な前提であるが、「支配」を根拠づけるものではない。そもそも不作為における「正犯性」は、正当な見解によれば、「行為支配」によってではなく、「不作為者の結果回避義務」によって根拠づけられるものなのである、と(3)
  さらに、ロクシンは、「共同正犯」の観点を検討して以下のように述べている。
  自殺関与事例における限界問題の解決は、そもそも総則の共同正犯の規定からは直接に獲得され得ない。共同正犯者は、各人が行為の一部を実行し、共通の計画の枠内における各人の役割によって、全体の行為を支配的に形成するために、一方の共同正犯者によって実現された不法が他方に帰せられるのである。しかし、これは刑法二一六条には転用することができない。なぜなら、「準共同正犯」のうちの一人は、自殺の構成要件不該当性のために、何らの不法も実現しておらず、従って他人の手によって実現される不法の帰属ははじめから考えられないのであり、刑法二五条二項(共同正犯)の規範内容は、刑法二一六条においては相応するものを見いだせないからである、と(4)
  結局、ロクシンは、要求による殺人と自殺関与との限界付けは、むしろ刑法二一六条の根本思想の考慮のもとで、構成要件関係的態様においてのみ行われるとする。「本来の自由死(自殺)行為を答責的に行為する死ぬ意思を有する者(自殺者)に委ねた者は不可罰とされるべきであり、一方、生死についての決定的な行為を、生に疲れた者から取り上げた人は可罰的な要求による殺人(正犯)を犯したのである」。たとえば、誰かが自分の頭に弾丸を撃ち込む場合、ピストルの提供者は不可罰な自殺幇助であり、被害者が他人に自分を射殺してくれるよう頼み、他人が射殺した場合は可罰的な要求による殺人なのである。「意識喪失後の積極的臨死介助事件(5)」では、被害者自身が睡眠薬を、死を惹起するに十分であると承知して自分自身に注射し、従って全面的に自己答責的な自殺行為を行っており、被告人の事後的な援助活動は、「幇助」であるとしている(6)
    また、ノイマンは、「『被害者』の自己答責性の問題としての自殺関与の可罰性」と題する論文(7)において、「被害者の自己答責性論」をさらに詳細に展開した。
  彼は、まず、自殺関与に刑法二六、二七条を適用する見解に対して、以下の点を指摘し、これを排斥した。
  教唆行為と幇助行為は、それに相当する正犯行為の存在を必要とし、またその正犯行為は刑法各則における構成要件上の類型化を必要とするのだが、自殺関与においては、正犯行為(自殺)のこのような構成要件上の類型化が欠如している。刑法二一二条以下は、支配的な見解によれば、「他人の殺害」のみを捕捉している。従って、自殺関与は、刑法二六条(教唆)及び二七条(幇助)の規定の範囲には該当しない。このことは、刑法二五条二項の規定にも妥当する。共同正犯的関与もまた、法的に構成された、すなわち構成要件的に類型化された行為と関連づけられているのである(8)
  次に、共同正犯的な理解に対しては、以下の点を指摘している。
  刑法二五条二項は、一つの犯罪行為を共同して行う複数の人間が、どのように処罰されるべきかという問題について回答を与える。複数人が同じ比重の行為寄与でもって一つの犯罪行為を行う場合、その中の一人または数名を単なる「幇助」として処罰する根拠はない。全ての者を幇助として処罰する可能性も、既に総論の規定(従属性)によって禁止されている。正犯者としての処罰は、個々人に対して過度に罪を負わせるものではない。答責性の複数人への配分から場合によって生じる個々人の答責性の減少は、共同して犯罪を実行することの高められた危険性によって修正されるからである(9)
  これに対して、「被害者と行為者との合意による共働」の事例においては、刑法上の答責性の「配分」の問題ではなくて、そもそも誰に刑法上の答責性が負わされるべきかという問題が設定される。複数の行為者の間における刑法上の答責性の配分が問題ではなくて、行為者と被害者の答責性の範囲の限界が重要なのである(10)
  それ故、「自殺者と行為者の準共同正犯」という理解は、以下のようにして退けられる。自殺関与者に対して一般原則によって共同正犯の行為支配が承認される場合でも、当該事象が自己答責的に行われた自殺を意味する限り、当該関与者は不可罰である。可罰性と不可罰性の限界は、共同正犯と共犯の区別によるのではなく、他人の自殺と殺害の区別によって確定される。被害者の行為支配は、行為者の行為支配を「排除」する(11)
  彼は、このようにして「共同正犯的な理解」を否定した上で、「被害者の自己答責性」原則について、以下の重要な指摘を行っている。
  少なくとも自由主義的で、パターナリスティックでない法秩序においては、法益保護の第一次的管轄は「法益主体」に向けられる。個々人が、自己の法益を自由答責的に把握された決心に基づいて侵害するならば、第三者にとっては、その放棄された法益を尊重しなければならないいかなる契機も存在しない。法益主体が、帰責可能な方法でもって、自己の法益を侵害する限り、当該法益に対する第三者の答責性は欠落する。複数の行為者間の状況は「対称的」であるのに対し、行為者と被害者間の状況は「非対称的」である。それ故、答責的な自己侵害は共働者の可罰性を排除する(12)
  自殺への関与に対する刑法上の答責性を、「被害者の自己答責性原則」に基づいて判断するならば、ある者が完全に答責的に行為するのではない形で自己を殺害した(自殺した)場合にのみ、帰責可能な方法でその者を人(第三者)は殺害することができるということが根拠づけられるのである(13)
    さらに、ホーマン/ケーニヒは、「被害者の自己答責性の思考」は法秩序に内在するものであって、それが放棄不可能な法原則であることはほとんど否定できないのであり、従ってこの原則の正当性という問題は真の問題ではなく、困難はこの原則を現実の問題へと具体化することの中に存在するとしている(14)
  まず、彼らは「自己答責性(Eigenverantwortlichkeit)」概念の明確化のために、しばしば学説や判例において使用される「自由答責性(Freiverantwortlichkeit)」という概念との区別を行うべきであるとする。彼らは次のように言う。「自由答責性」は、自殺者の決意が錯誤に基づくものであったり、自殺者が刑法二〇条の意味における責任無能力である場合には、存在しなくなる。また、他の見解(15)によれば、「自由答責的な決意」の要求には刑法二一六条の「真摯な嘱託」という基準が妥当する。これに対して、「自己答責性」は規範的管轄に関連しており、答責性原則を特徴づけている。それは、答責領域の創設を内容としている。自殺決意の自由答責性は、自己答責性の存在にとって、なるほど必要条件ではあるが十分条件ではない。自由答責的な自殺決意が存在するだけでは、自己答責的な行為に基づいて共働者が帰属を阻却されるということを未だ保障するものではない。自由答責的な決意を帰属阻却を是認するための一つの要素であるとしたロクシンの思考は、「自己答責性」の規範的条件の具体化において意義のある一つの発展であったのだ、と(16)
  続けて、法益の放棄(Preisgabe)と方向付け(Richtungsgebung)について検討している。「放棄」という概念は、内容的に十分に定まっているものではない。「放棄」という概念の一般的に使われている意味内容は、自殺者は自分の将来性という利益を否定し、法秩序によって保護されている「生命」という法益を、任意の態様で死に委ねることの承認に尽きている。しかし、それは、自由答責的で自己答責的な自殺においてはまさしく存在しない。そのような自殺においては、自殺者は自己の生命を「任意性」に委ねているのではないのである。従って、自殺意思を有する者が、自殺を成功させるために自主的に行うすべてのことは、むしろ「方向付け」として理解されうるとする。自殺者は自己の生命の終結の種類及び方法に対して責任を引き受ける。自らによって自己の法益を法律の保護の外におくことの代わりに、自殺者において自己の法益に対する「規範的管轄の独占化(Die Monopolisierung der normativen Zusta¨ndigkeit)」が生じる。自殺者は、方向付けの行為によって法益に対する管轄の独占化を獲得し、その独占化の結果は、他の関与者の帰属を阻却することになる。たとえ、自殺者の自殺決意が疑いもなく自由答責的であったとしても、自殺意思を有する者が、十分可能であるにもかかわらず自殺しないような場合、他人(関与者)の死を惹起する行為は、帰属を阻却されず、自由答責的決意のみでは、法益主体の管轄の独占化をもたらすことはできないとする(17)
  そして、自由答責性の基準は、具体的に自殺する行為態様というさらなる要素を必要とし、それは以下の二つの観点によって方向付けられるとしている。
  一つは、自由答責的決意は、自殺意思を有する者自身が自殺が実際に成功する態様でもって自分の手で自殺するという場合にのみ、それにふさわしいものをみつけ、自殺者の管轄の独占化が行われるということである。
  もう一つは、自殺に第三者を巻き込むということは、少なくとも(被害者の)主観的な視点からは、死の発生に導く行為を確保することだけに役立ちうるものなのである。なお、「第三者を自殺に巻き込む」ということは、単に共働者の情報だけでなく、実際に行われるべき共働行為の種類と態様も両者の間で合意され、少なくとも暗黙に確定されていることを必要とするのである、と(18)
    最後に、ツァツィクは、「自己答責性」概念について、「被害者の自己答責性」概念の使用が恣意的なものにとどまるべきでないならば、この概念は法律学的な基礎決定を必要とするとし(19)、以下のように述べている。
  「自己答責」概念は直接に「個人の自由」と関連している。人が作為及び不作為に答責的であり得るということは、人が自らの現存在において余すところ無く決定されていると理解されるのではなく、むしろ人は決定する機関として問いかけられ得るということを意味している。人は法則に従ってではなく、法則の表象に従って行為するのであり、つまり人は意思を持っている。カントは定言的命法「君の格率が普遍的法則となることを欲し得るような格率に従ってのみ行為せよ」において、格率の普遍化可能性の思想を指し示していた。カントは、自由と定言的命法は相互に重なり合って引き合いに出しうるものであるということもできた。定言的命法は自由の認識根拠であるが、自由は定言的命法の存在根拠である、と(20)
  続けて、「法的意味における自己答責」について、以下のように述べている。
  法はある人の他人との関係から組み立てられるものであるから、その基礎は外的な間人格的な関係である。従って、「法的意味における自己答責」は、個人の自己答責を「他人との関係」において把握することによって特徴をはっきり示される。行為は、個人に自己決定された行為として理解されるべきであると同時に、他人との関係を持つ行為としても理解されるべきである。それによって、自己答責はここでは二重の意味を持つ。すなわち、一方で行為者の実行に移された自由が問題になり、他方で彼の行為の法的正当性の問題において、他人(被害者)の自由への敬意が問題になる。ある者と並んで、自己関係的な統一体としての他人は同一の要求をもって生きている。個人は他人という自由な現存在を承認することにおいて正当性を決定し、共通の法の世界を構成する。そのような「自己答責」は、個人から離れた国家の次元で影響を持つ法原則なのである、と(21)
  このような個人の「自己答責」は、彼によれば「不法の次元で」問題になるものである。彼は「刑法的不法」を以下のように説明する(22)
  「刑法的不法」は、個々人の人格性への攻撃、つまり個々人の現実の自由を縮減させることである。相互に保障しあい、法規範によって担保される自由の関係が、ある一方(行為者)の行為の過ちによって、もう一方の側の自由領域が抑圧されるというように作り替えられてしまうのである。不法は法の否定なので、それは行為者の自由領域並びに被害者の自由領域の関係を示す。不法の通常の事例において、関与者達は、一方は積極的部分、もう一方は消極的部分として対置し合っているのである。
  このことから以下のことが導かれるとする(23)
  「自己侵害は、それ自体として不法を意味することはできない」。なぜなら、自分自身に対して向けられた行為としての自己侵害は、「法」に特有な「間人格的な関連」を欠いているからである。それ故、刑法的な意味において、自己の物の破壊は器物損壊ではなく、自殺は殺害ではない。
  もちろん、この命題の限界もここで考えられなければならない。自己侵害は、外的な結果を顧慮すれば、つまり「他人のパースペクティブ」からみれば、侵害であり、毀損である。とりわけ、人の現存在(身体及び生命)の自己侵害においては、「他人の侵害」という表象が生じる。自己侵害が、とりわけそれが「生命」に向けられた場合には、法的諸関係の社会的な次元のために、他人による阻止行為を引き起こし、それは正当化されうるのである(24)
  以上を前提に、「意識的自己侵害事例  ーとりわけ自殺関与事例」について、以下の点を指摘している。
  「意識的な自己侵害」とは、被害者が結果を知りつつ自己の法益を侵害する行為を行い、その際、その結果も意欲していた場合である。ここでは、他人との相互作用が重要である。行為者と被害者のいずれが結果の発生に対して決定的な根拠をおいたのかが確定されなければならない(25)
  「意識的自己侵害の事例」において、「意思」、「行為」及び「結果」の統一体を作り出したのは、被害者自身である。被害者は行為の中心であり、またその目標でもある。被害者が「意思、行為、結果の統一体」を創出したという事情は、原則的に、侵害事象に対する他人(行為者)の答責を遮断するのである。そして、しばしば個々のもの(意思、行為、結果)は、事象全体に対してそれがどのような意義を持つのかを確定するために、分析的視点からそれらを孤立化させようとされるが、実際にはこの三者は孤立化させられないのである。むしろ、常に行為の実行と引き起こされた結果の連関が考えられなければならない。それ故、被害者の「意思」のみに着目する「被害者の承諾」といわれる一つの法制度は、ここでいう「被害者の自己答責性」という法制度とは区別されるものなのである(26)
  そして、他人の答責は、自傷行為者が体質的な理由(刑法一九条、二〇条の意味における(27))から、事象の意義を正しく評価することができないか、もしくはその他の意思の瑕疵(錯誤や強制(28))が彼の決定の自己答責を侵害している場合に初めて、問題になりうるとしている。
    一方、これまで述べた論者とは異なり、ヘルツベルクは、自殺者と関与者との間に「共同正犯」の関係が成立することを限られた範囲で認め、それを「準共同正犯(Quasi-Mitta¨terschaft)」と名付けていた(29)。そのような立場によれば、「被害者の自己答責性」の認定は、もはや他の関与者の帰属阻却を導く役割を果たさなくなる。
  彼は、まず、「心中の生き残り事件(30)」について、以下のように述べていた。
  ロクシンらは、本件について以下のように述べていた。「被害者は共同正犯者として、自己の死についてなお「正犯」だったのであり、従って自由死(自殺)があったのであり、被告人はそれに不可罰的にのみ共働しえたのだ」、と。この批判は、出発点においては正しい。被害者と行為者は、殺人の「共同正犯」である。なぜならば、二人は被害者の死を共同して惹起したことについて、同じ比重の寄与を行ったからである。すなわち、行為者は排気ガスを車に導き入れることによって、また被害者は車に乗って意図的に呼吸をし、排気ガスを吸い込むことによってである(31)
  しかし、このことから導かれたロクシンらの結論は正しくない。自殺へのあらゆる種類の「共働」が不可罰であるという内容の法原則は存在しない。「自殺への共働の不可罰性」は、いわゆる「教唆」「幇助」に対してのみ妥当する。なぜならば、それらは、刑罰で威嚇された行為を前提とするものだからである。しかし、「共働」が「共同正犯」として現れた場合には、もはや「従属性原則」は妥当しない。共働による死の実現は、被害者にとってはなるほど「自殺」であるが、行為者にとっては「他人の殺害」であり、従ってそれは刑罰構成要件該当的なのである。「被害者の承諾」は、ここでは「正当化」の効力を持つのではなく、もっぱら「不法を減少」させる効力を持つだけである。従って、行為者を有罪としたBGH判決は正当であり、被告人は刑法二一六条によって処罰されるべきだった(32)
  次に、別の論文において、「要求による殺人」と「不可罰的自殺関与」の限界について、以下のように述べていた。
  両者の限界付けは、「行為支配理論」に基づいて、「共同正犯論」の適用において、解決されるべきである。自殺者と関与者は、被害者の身体への侵害的な作用を有する行為の実行へ本質的な寄与によって構成的に共働した場合には、両者とも「正犯」なのである。ただガス984eを開けるだけの者や毒杯を置いて退却した者は、もはや実行には関与していない。なぜならば、実行行為は、被害者が自分の身体をガス及び毒に近づける場合に初めて始まるからである。そのような自由死の事例においては、行為者は不可罰的な幇助にすぎない。しかし、被害者が呼吸をしている間に積極的にガスを導き入れるとか、毒を注ぐとか、または注射をする者は、被害者が同時的に「自殺の正犯」であるにもかかわらず、「他人の殺害の正犯」なのである、と(33)
    このようなヘルツベルクの見解については、以下のような批判がある。
  まず、ホーマン/ケーニヒは、自殺関与者が可罰的であるという根拠づけのために、「共同正犯」的構成が不適切であることは明白であるとする。彼らによれば、「共同正犯」的な共働というのは、既に概念的に、帰属可能な法益侵害(若しくは少なくともその未遂)を前提にしている。それ故、「共同正犯」を引き合いに出すことの条件は、犯罪的な答責性の可能な部分可能性である。しかし、自殺関与事例においては、自殺者の側にまさしくそのような性質が欠如しているのである(34)、と。
  また、ツァツィクも以下のように述べている。なるほど、共同して分業的に始められた他人(第三者)に対する不法な行動は、「共同正犯」を特徴づける。しかし、ここで話題になっている「心中の生き残り事例」のように、事象が関与者の一方にとっては「自己侵害」である場合には、事情は異なる。その限りで、「共同正犯」の概念は「他人に向けられた行為」ということをその中に含む概念なのである。関与者において、そのような(他人に向けられた行為という)「方向性」が欠如しているならば、たとえそれが「準(疑似)」共同正犯(Quasi-Mitta¨terschaft)という用語上の粉飾があるにせよ、「共同正犯」を語ることは不毛なことである、と(35)
    さて、我が国において、「被害者の自己答責性」に関する見解について、神山教授は以下のように述べている。
  「意識喪失後の積極的臨死介助」事件(36)において、被告人(甥)の行為が毒薬が微量であるがために死にいたらないものであったならば、何も(被害者の)自己答責的な行為などを持ち出すまでもなく、被告人の行為を「幇助」として評価することも可能であろう。しかし、その追加された毒薬が即効性があり、それだけで死に至った場合にもそういえるかは問題である。それは、自殺者が毒薬を服用し、その毒が未だ完全にまわりきらない状態で、第三者が首を絞めるとか、ピストルで射殺する場合と同列におかれることになろう。それは、「因果関係の中断」として、事後の第三者の行為に正犯の実行性が認められるはずである。結局、被害者の自己答責的自殺行為は、自由な責任ある行為によって自らの生命を奪う行為として示すことはできても、それに関与する他人の行為の正犯と共犯の性質までも決定することはできない(37)
  また、ロクシンが、刑法二一六条においては自殺者と関与者の「共同正犯」はあり得ないと述べたことは正しい。なぜなら、共同正犯においては、一部実行全部責任の原則が働くので、他人が一部実行すれば幇助行為も正犯の責任を負わされることになってしまうからである。嘱託殺人は、自殺者の嘱託によって第三者が自殺者を殺害することを要求しているので、単なる一部実行では足りず、殺害の決定的原因となる行為を要する。もちろん、第三者であるAとBが共同して被害者Cを殺害する場合は、AとBが共同して殺害の決定的原因行為をすればよく、そこでは総則の共犯規定が適用されるので、相互に一部実行すれば足りるのである、と(38)
  神山教授は、結局、自殺関与の正犯と共犯を区別する基準を「自殺者の死を導く事象において誰が因果的に決定的な役割を果たしたか」に一義的に求めている(39)。従って、被害者の自己答責的な自殺行為があっても、関与者が因果的に決定的な役割を果たすことがあり得ること、また被害者の自己答責性の理論では自殺関与を処罰する我が国の刑法二〇二条の根拠が失われるということから、この理論に反対している(40)
  神山教授の論文を評釈した上田(健二)教授は、「自己答責的自殺をさえ違法と見る神山教授の前提からすれば、両者が相容れないのは当然」としている(41)
  また、上田教授は、神山教授の基準に対して「因果的に決定的な役割を果たしてさえいれば、実行行為を伴わなくてもよいのか」という疑問を提起している(42)
  しかし、おそらく神山教授の「役割」という概念は、そのような実行行為を伴わない抽象的なものではないであろう。教授の見解は「正犯性」の認定にとって、因果主義的な理解のうえで、行為者行為がもつ結果発生への「自手性」ないし「直接性」を重視しているように思われるからである。
  だが、「被害者の自己答責性」が「自殺関与事例」において固有の意義を持つとすれば、まさに、主観的に被害者に従属している行為者の行為が結果発生に対する「直接性」ないし「自手性」を有する場合であっても、規範的な評価として彼の行為の「正犯性」を遮断するところにあると思われる。

(1)  「利益説」が「主観説」のヴァリエーションであることについては、たとえば、BGHSt 19, 135ff. の判例によれば、犯罪行為を「自己のものとして欲したか」という利益説の基準は、「正犯者意思」の存在にとっての「一つの要件」として扱われている。また、橋本教授によれば、ドイツの判例において正犯共犯の限界基準として、今日まで「主観説」が生き続けてきた背景には、「主観説」の考え方自体がその許容範囲を拡大し、いわば自己変遷をたどってきたのであり、それが「利益説」であり、それは「正犯者意思」概念の改造であると考えられるということである。橋本正博「『行為支配論』の構造と展開」一橋大学研究年報法学研究十八号一九八頁以下を参照。
(2)  Claus Roxin, Die Sterbehilfe im Spannungsfeld von Suizidteilnahme, erlaubtem Behandlungabbruch und To¨tung auf Verlangen - Zugleich eine Besprechung von BGH, NStZ 1987, 365 und LG Ravensburg NStZ 1987, 229, NStZ 1987, S. 346.
(3)  Claus Roxin, a. a. O (2), S. 346.
(4)  Claus Roxin, a. a. O (2), S. 347.
(5)  BGH NStZ 1987, 365ff.,= NJW 1987, 1092ff.,= MDR 1987, 334ff.
(6)  Claus Roxin, a. a. O (2), S. 347f.
(7)  Ulfrid Neumann, Die Strafbarkeit der Suizidbeteiligung als Proberm der Eigenverantwortlichkeit des”Opfers, JA 1987, S. 244ff.
(8)  Ulfrid Neumann, a. a. O (7), S. 247.
(9)  Ulfrid Neumann, a. a. O (7), S. 247.
(10)  Ulfrid Neumann, a. a. O (7), S. 247f.
(11)  Ulfrid Neumann, a. a. O (7), S. 249.
(12)  Ulfrid Neumann, a. a. O (7), S. 248.
(13)  Ulfrid Neumann, a. a. O (7), S. 249.
(14)  Ralf Hohmann und Pia Ko¨nig, Zur Begru¨ndung der strafrechtlichen Verantwortlichkeit in den Fa¨llen der aktiven Suizidteilnahme, NStZ 1989, S. 308.
(15)  Vgl. LK-Ja¨hnke, vor § 211 Rn 25f.
(16)  Ralf Hohmann und Pia Ko¨nig, a. a. O (14), S. 308.  但し、ドイツの判例及び学説において、この両概念が彼らのいうように明確に使いわけられているかは疑問である。
(17)  Ralf Hohmann und Pia Ko¨nig, a. a. O (14), S. 308f.
(18)  Ralf Hohmann und Pia Ko¨nig, a. a. O (14), S. 309.
(19)  Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993, S. 2.
(20)  Rainer Zaczyk, a. a. O (19), S. 19ff.
(21)  Rainer Zaczyk, a. a. O (19), S. 23f.
(22)  Rainer Zaczyk, a. a. O (19), S. 25f.
(23)  Rainer Zaczyk, a. a. O (19), S. 26.
(24)  Rainer Zaczyk, a. a. O (19), S. 63.
(25)  Rainer Zaczyk, a. a. O (19), S. 32f.
(26)  Rainer Zaczyk, a. a. O (19), S. 33ff.
(27)  Rainer Zaczyk, a. a. O (19), S. 36f.
(28)  Rainer Zaczyk, a. a. O (19), S. 37ff.
(29)  Rolf Dietrich Herzberg, Die Quasi-Mitta¨terschaft bei § 216 StGB:Straftat oder straffreie Suizidbeteiligung? - BGH, NJW 1987, 1092, JuS 1988, S. 771.
(30)  BGHSt 19, 135ff.
(31)  Rolf Dietrich Herzberg, Grundfa¨lle zur Lehre von Ta¨terschaft und Teilnahme, JuS 1975, S. 38.
(32)  Rolf Dietrich Herzberg, a. a. O (31), S. 38.
(33)  Rolf Dietrich Herzberg, Beteiligung an einer Selbstto¨tung oder to¨dlichen Selbstgefa¨hrdung als To¨tungsdelikt - Teil 1 -, JA 1985, S. 137.
(34)  Ralf Hohmann und Pia Ko¨nig, a. a. O (14), S. 307.
(35)  Rainer Zaczyk, a. a. O (19), S. 40f.
(36)  BGH NJW 1987, 1092ff.= NStZ 1987, 365ff.
(37)  神山敏雄「自殺関与をめぐる正犯と共犯の限界−西ドイツの判例・学説を中心に−」岡山法学第三九巻第四号五六〇頁
(38)  神山敏雄・前掲論文(37)五六一頁
(39)  神山敏雄・前掲論文(37)五三七頁
(40)  神山敏雄・前掲論文(37)五六七頁
(41)  上田健二「刑事法学の動き  (ー神山論文など)」法律時報六四巻五号一〇一頁
(42)  上田健二・前掲評釈(41)一〇一頁


第四節  「一九八六年臨死介助対案」について
    さて、ドイツでは、「ヴィティヒ事件」へと至るいわゆる「自殺不阻止」を処罰してきた一連の判例(1)の変更をもくろみ、また、「臨死介助(Sterbehilfe)」の問題について、一定の範囲で不可罰の領域を立法上確保するための法律提案が一九八六年に発表された。この「臨死介助対案」は、クラウス・ロクシン、アルビン・エーザーらの刑法学者に医学者を加えた二二名の共同作業であった。それにおいても、「被害者の自己答責性」の思想は、たとえば刑法二一五条の「自由答責的な自殺」といった概念に見られるように、十分な注意が払われているのであり、次にこれを検討することにする。
  「一九八六年臨死介助対案」は、まず刑法二一四条に「消極的臨死介助」や「尊厳死」を内容とする「生命維持措置の中断又は不開始(2)」を、次に刑法二一四条aに「苦痛緩和措置(3)」いわゆる「間接的臨死介助」を、さらに刑法二一五条には「自殺不阻止(4)」について、一定の場合に行為者は「違法に行為するものではない」とすることによって不可罰を明文化しようとした。しかし、刑法二一六条の一項には、現行法の「要求による殺人」の処罰規定をそのまま残し、「積極的臨死介助」の原則的処罰は維持していた。ただ二項において、一定の場合には「積極的臨死介助」であっても「刑が免除」されることがあり得るとしていたにすぎなかった(5)
  すなわち、この対案は、被害者が自己の死を「真摯に」決断し、他人に殺害行為の実行を「要求するだけ」では、行為者の不可罰は得られないとし、被害者が「自由答責的に」「自殺」した場合にはじめて、関与者を不可罰にするという規範内容をもっていたのである。
    このような「臨死介助対案」は、「ヴィティヒ事件」判決に見られるようなBGH判例の傾向を立法によって変更することをその目的の一つとしていた。そこで、まず、そのような対案がどのような問題意識のもとで主張されているのかを概観しよう。対案グループの中心メンバーであったアルビン・エーザーは、「死への自由  ー殺害を求める権利ではない」と題する論文において(6)、「臨死介助」の問題について、法律の改正が必要とされる医学的・社会的背景として以下の事柄を挙げていた。
  むかしは「自然な終末」には逆らえず、死は『避けがたい運命』として甘受されていたが、現代の医学は苦痛緩和にも生命延引にも道を開いた。その結果、医師に対してどのような犠牲を払ってでも生命維持を、という結果への重圧が生じている(7)
  また、どのような病気であったとしても、患者の他人への依存は、むかしは患者の身のまわりの人々に限られていたが、他人との間では、個人の自己決定の喪失は甚だしいと感じられている。それで、患者本人は自己決定を公理にまで高めることによって、それに対抗しようとする。「善意の」医師ではなくて、患者自身が、何が自分の幸福に値することであるかを決定したがっている。こうして、患者の「客観的幸福」と「主観的意思」とが、しばしば対立するスローガンとなった(8)
  さらに、彼はそもそも「絶対的な生命の保護」は不可能であるとする。生命保護の法制史的変遷を見ると、生命の「神聖性」の要求と人間存在の一定の質の要求との間に妥協を見いだすことがもっぱら問題だったのであり、このような生命保護の原理的な「相対性」は、要求による殺人及び自殺関与の不処罰に際して「個人の自己決定の利益」を考慮しようとする世俗の法の領域では、ますます明白であるという。そして、「自死への権利」は、一つは人間の生命を無条件に維持すべきと見る立場と、生命を無条件に処分できるとする立場の「中庸」に存在するとしている(9)
  このような規範的観点から見ると、現行法では不十分であるとし、以下のように指摘している。現行刑法は、刑法二一六条以外に、死における及び死への介助に関する特別な規定が無く、医療行為の特殊性を全く考慮していない。このような規定の欠陥は、それを補う一般原理が部分的に対立するものであるため評価矛盾に陥りやすいということから、いっそう増幅される。そこに立法の必要性が存在する。また判例は、自殺関与が不処罰であるという立法者の決断を、保障人あるいは一般人の「救助義務」を設定することによって、潜脱してきた。救助義務を「自殺患者」と「通常の患者」を区別して前者のみに限定しようという見解(10)もあるが、この区別は疑わしい。また、生命維持装置の停止が作為と解されるか不作為と解されるかによって異なった結論に至る(11)というのは、健全な人間の悟性によっては理解困難なことである。また間接的臨死介助の不処罰についても、古くから争いがないが、その根拠と限界には問題があり、誠実な医師が刑法の危険にさらされている。
  それ故、立法が必要であるとする。以下のように述べている。何よりもまず、法的明確性が、全ての関与者にとって必要である。患者にとっては、早すぎる生命短縮からも、強制された生命延引からも安全であり得るために。また、医師にとっては、自分に生命維持義務がどの程度義務づけられているのか、または、延命治療を見合わせ又は死を促進する危険を冒しても苦痛緩和措置を行う権限を与えられているのかにつき、安全性をもてるために。近親者にとっては、自分に何を援助するよう求められているのか、自分は医師に対して延命の願望としてまたは死を促進させる要求としてさえ、何を期待して良いかわかるように。このような明確性の要求は、−生命短縮の危険を伴う苦痛緩和のように−争いのない形態の臨死介助に関しても強調されるべきである。なぜなら、そのために『寝た子を起こす』危険を冒してでも、法秩序はまさに誠実な医師に対して安定性と明確性の責務を負うからである(12)、と。また、BGHが不処罰の自殺関与を処罰してきた不作為犯としての処罰など、判例の修正が必要であるところは、特に立法者の介入が必要であるとする。
  彼は、「本人の意思に反する救助義務を限定することによる自由答責的な自殺の尊重」がこの対案の基本理念の一つであるとする。しかし、彼は同時に「自由答責性に疑いがある場合は、生命維持が優先する」としており、そこでは、自殺不阻止の場合における原則的な自殺阻止義務は承認されているようにも思われる。また、原則的に、積極的臨死介助などの「要求による殺人」の当罰性は維持すべきであり、せいぜい例外的に刑の免除がなされるだけであると考えていた(13)
    以上のような対案グループの見解に対して、ルドルフ・シュミットは、より広く「臨死介助」状況において行為者の不可罰性を確保しようとした。彼は、まず「自殺阻止義務」について、ドイツでは自殺の不阻止を不作為の殺人罪又は緊急救助義務違反罪として処罰してきたBGH判例を批判し、以下のように述べていた(14)
  自殺の構成要件不該当性そして共犯従属性の原則から、自殺の積極的(作為による)幇助もその教唆も処罰され得ないということが確かに推論される。さらに、すでに刑法十三条二項にその表現を見つけるように、不作為は作為よりも当罰性が低いということを我々が認めるならば、自殺に関する純粋に消極的な(不作為の)態度が処罰されるというのは全くグロテスクなことである。また、BGHによって根拠づけられた自殺阻止義務は、専断的治療行為を禁止し(可罰的なものとする)確定した民事判例(15)、刑事判例(16)と必然的に矛盾する。「ヴィティヒ事件(17)」は、専断的治療行為の禁止を著しく破壊することによってのみこの矛盾を取り除くことができたのである。さらに、BGHによって規定された自殺阻止義務は立法者の意思と矛盾していると知ることが重要である。刑法二一一条以下の解釈と自殺関与を独立して処罰する規定がないことは、立法者はいかなる自殺関与をも不可罰にしようと望んだことを十分に示しているのである。
  そして、BGHが自殺の不阻止についての法律の規定がないことを、学説によって批判されている判例を継続するために利用しているとみられるので、法律に明確に規定されなければならないとしている(18)
  ここで、どのような規定が望ましいかについて、彼は一九七〇年の対案との比較を行っている。
  すなわち、一九七〇年対案は、「他人の自殺を阻止しない者は、自殺者が一八歳未満であるか精神障害に基づいて\\行為し、不作為者が法律上の、あるいは任意に引き受けられた公衆もしくは他人に対する法的義務に基づいて、結果が発生しないように配慮しなければならない場合にのみ可罰的である」と一〇三条一項で規定している。これに対して、「一九八六年臨死介助対案」は「自殺の不阻止」について二一五条で以下の文言を用いている。「他人の自殺を阻止しない者は、自由答責的で明示的に表現されたか、あるいは状況から認識することができる真摯な決断に関しては、違法に行為する者ではない。とりわけ、自殺者が一八歳未満であるか、刑法二〇、二一条によれば彼の自由な意思決定が侵害されている場合、そのような決断ありとしてはならない」。
  この両対案は、異なった基盤にたっている。シュミットは言う。「一九七〇年対案一〇三条が阻止義務を保証人に限定しており、一方、一九八六年臨死介助対案二一五条はそのような制約を明らかに知らない。一九七〇年対案一〇三条は原則的に自殺阻止義務の不存在から出発しており、単に子供、若者、精神病者(のみ)が制限された例外である。これに反して、一九八六年臨死介助対案二一五条は、結局のところ、自殺阻止義務を原則的に肯定する。すなわち、自由答責的な自殺かそうでない自殺かの区別で決定するのである」。
  「自由答責的な自殺であるか否かの区別は、突然に自殺状況と対置された人には不可能である。それ故、一九八六年臨死介助対案二一五条は結局のところ、人に用意周到に自殺に立ち向かうことを強いる。なぜなら、彼はそうしなければ処罰される危険があるからである(19)」。結論として、シュミットは一九七〇年対案一〇三条に長所があると考えており、彼の独自の立法提案は、それを模範としたものであった。
  シュミットはこのようにして、自殺の不阻止が原則として不作為の殺人罪にはあたらないとした上で、さらに刑法三二三条c(緊急救助義務違反罪)の不成立も主張する。BGHは「自殺未遂によって作出された危険状況」を、刑法三二三条cの意味における「事故」であると評価している。これに対してシュミットは次のように言っている。
  「ここでは判例は大きく倫理的考慮に、特に隣人愛の『人倫則上の要求』と、『人倫則』による自殺の不許可に基づいている。とりわけ、刑事大法廷は、純粋な循環論法によって、すなわち深刻な危険状況の救助が要求される場合は常に『事故』は存在するというテーゼによって、この判決に達した(20)」。ライヒスゲリヒトは最後までこのような解釈を決して行わなかった。「夫の自殺不阻止事件」判決において、刑法三三〇条c(現行の刑法三二三条c)は、確かに有効であるが、ここでは適用できない、自殺は原則としてこの規定の意味における事故として理解されてはならない、と言われていた。人が自殺するときには、確かに彼と彼の家族に対して大きな『事故』がある。それにもかかわらず、この言葉の日常言語としての利用法が、事故の場合としてこの事象を分類することに抵抗するのである(21)
  また、自由答責的な「清算自殺」に限って「事故」にあたらないとする見解(22)もあるが、それにたいしては、自由答責的な『清算自殺』とそうでない自殺の間の概念的区別は十分に可能であるが、不意に自殺状況に直面した者にとってはこの区別は実行可能でないこと、それゆえこの区別の試みは、刑法改正を行うためには不的確なものであること(23)を指摘している。
  以上より、彼独自の改正提案が導かれる。それは以下のようなものである(24)
@  現在空白になっている刑法二一四条の位置に、次の規定が挿入されるべきである。
「他人の自殺を阻止しない者は、自殺者が一八歳未満であるか、精神障害(刑法二〇、二一条)に基づいて行為していることが明らかな場合のみ、可罰的である。」
A  刑法二一六条に、次のような第三項が加えられるべきである。
「被害者の真摯な意思に従って治療を施さないか、あるいは中止する者は処罰されない。これは治療の開始あるいは継続により、被害者の生命が延長される場合にも妥当する。」
B  現行刑法の刑法二三四条の代わりに、専断的治療行為に関する次のような規定が挿入されるべきである。
「相手方の真摯な意思に反して治療的侵襲を行う者は\\処罰される。これは治療的侵襲が被害者の生命を延長したか、あるいはそれを目的とした場合にも妥当する。」
C  刑法三二三条cに、次のような第二項がつけ加えられるべきである。
「第一項にいう事故は、自殺を目的とする行為により作出された危険状態においては存在しない。」
    「一九八六年臨死介助対案」は、「自殺不阻止」の問題が占める割合が非常に大きい。「被害者の自己(自由)答責性」は、特にこの領域で重要な意義を与えられている。ドイツには、緊急救助義務違反罪(刑法三二三条c(25))の規定が存在するが、この規定において、一連のBGH判例は自殺を「事故」(Unglu¨cksfall)の場合であると解してきた(26)。日本には、この規定に相当する規定はない。また、自殺の不阻止がわが国において不作為による自殺幇助あるいは保護責任者遺棄罪として処罰されたケースは見あたらないといわれている(27)
  自殺不阻止の「正犯としての」処罰を可能にした背景として、BGH判例における正犯と共犯の限界付けにおける「行為支配説」の定着が指摘できる(28)。BGHは、刑法二一六条に関しては、かなりはやくから正犯と共犯の限界付けの「主観的基準」すなわち「正犯者故意で行為したのか、幇助の故意で行為したのか」による区別を否定していた(29)。自殺不阻止の問題においては、ドイツでは自殺関与(自殺教唆・幇助)が不可罰であるため、自殺幇助とみなされれば不処罰になる。しかも、ロクシンが指摘しているように、被害者の明示的かつ真摯な嘱託によって殺害を動機づけられた者は、嘱託をする被害者の望みに必然的に従属するので、主観的基準によると全て(ドイツでは)不可罰の自殺幇助になるはずである(30)。ところが「行為支配説」によると、自殺を試み意識喪失状態になっている被害者を発見して救助しなかった者は、行為支配性を有し(嘱託)殺人の不作為「正犯」ということになる。もっともここでの「行為支配性」はもっぱら「結果回避の可能性」を意味することになるのであろう。
    法律提案を提示し、判例変更をもくろんだ論者はこの自殺不阻止の不可罰性を立法化しようとした。「一九八六年臨死介助対案」は自殺の「自由答責性」を基準に、第二一五条において「\\の場合には、違法に行為する者ではない」と定める。すなわち、この規定のあり方は、原則として自殺不阻止は違法であり、自殺が自由答責的なものであった場合にのみ自殺不阻止は違法ではないとするわけである。
  「自己の死」への内心的決意、他人への要求の「真摯性、自由答責性」は、外部から正確に判定するのは難しい。実際問題として、自殺状態に急に直面した者は、それが自由答責的な自殺であるか否かは見分けがつかず、従って「自己(自由)答責性が疑わしきは生命維持の利益に(31)」という規範が存在する限り、結局のところ多くの場合は自殺の阻止を義務づけられていることになるだろう。反対に、この場合「疑わしきは被告人の利益に」という規範が妥当するならば、救助義務者は自殺が自由答責的なものであったと言い張ることにより、容易に無罪判決を受けることができることになる(32)
  ここで注意すべき点は、「自殺」の自由答責性が尊重されるのであって「生命処分意思」の自由答責性のみが問題とされていたわけではないということである。「被害者の自己(自由)答責性」にとって、被害者の単なる「主観」だけではなく、それに基づいた彼の「客観的態度」との「統合体」に着目する点は、正しい視点であるといえるであろう。そもそも生命維持の要請は、人間を含めた動物に深く根付いた本能であり、「生命への執着」は容易には絶てないものである。被害者が「死にたい、殺してくれ」と嘱託行為を行ったときにではなく、自ら生命処分行為を試みた場合に「被害者の自己(自由)答責性」がはじめて認定され、生じた結果が彼の「答責領域」に優先的に、かつ排他的に帰属するといい得るであろう。

(1)  その詳細は、本章第二節参照
(2)  以下、「一九八六年臨死介助対案」の条文について、松宮孝明「西ドイツの『臨死介助対案』とその基本思想」刑法雑誌二九巻一号一六九頁以下を参照。
  第二一四条(生命維持措置の中断又は不開始)
  @生命維持措置を中断し又は開始しない者は、次の場合違法に行為するものではない。
一、本人がこれを明示的かつ真摯に要求した場合、又は
二、本人が医師の認識によれば回復不能なまでに意識を喪失している場合、又は最重度の障害を持つ新生児であれば決して意識を回復しない場合、又は
三、本人が医師の認識によれば治療の開始又は継続について永続的に意思表明ができず、かつ信頼するに足りる根拠に基づいて、彼が見込みのない苦痛状態の継続及び経過に鑑みて、特に目前に迫った死に鑑みて当該治療を拒絶できるであろうと想定できる場合、又は
四、死が目前に迫っている場合に本人の苦痛状態と治療行為の見込みのなさに鑑みて、生命維持措置の開始又は継続が医師の認識によればもはや適当でない場合。
  A第一項は、本人の状態が自殺企図に基づく場合にも当てはまる。
(3)  第二一四条a(苦痛緩和措置)
  医師として又は医師の権限を与えられて、死の近い病者にその明示的又は推定的な承諾を得て、それ以外では除去できない重大な苦痛状態を緩和する措置を施す者は、たとえそれによる不可避の付随的効果として死の発現が促進されたとしても、違法に行為する者ではない。
(4)  第二一五条(自殺の不阻止)
  @他人の自殺を阻止しない者は、当該自殺が自由答責的で、明示的に表明されたか、又は諸般の事情から真摯であると認めうる決断に基づいている場合には、違法に行為する者ではない。
  A特に他人が十八歳未満の場合、又は彼の自由な意思決定が刑法二十条、二十一条に照らして侵害されている場合には、前項の決断有りとしてはならない。
(5)  第二一六条(要求による殺人)
  @被殺者の明示的かつ真摯な要求から殺害を決定づけられた藻のは、六月以上五年までの自由刑に処する。
  A裁判所は、第一項の要件が存在する場合に、当該殺害が本人にもはや耐え難い極めて重大な苦痛状態の終結に役立つものであり、この苦痛状態が他の措置では除去あるいは緩和できないものであるときは、刑を免除することができる。
  B未遂は罰せられる。(現行法二一六条二項)
(6)  Albin Eser, Freiheit zum Sterben ーKein Recht auf To¨tung, JZ 1986, S. 786ff.  本論文の紹介として松宮孝明「臨死介助と自死への権利(二)」警察研究五九巻五号七六頁以下がある。なお、上田健二・浅田和茂編訳『アルビン・エーザー  先端医療と刑法』(一九八八)一一九頁以下も合わせて参照。
(7)  Eser, a. a. O. (6), S. 787.
(8)  Eser, a. a. O. (6), S. 787.
(9)  Eser, a. a. O. (6), S. 789.
(10)  Klaus Kutzer, Strafrechtliche U¨berlegungen zum Selbstbestimmungsrecht des Patienten und zur Zura¨ssigkeit der Sterbehilfe, MDR 1985, S. 716ff.  なお、本論文の紹介として、岩間康夫「臨死介助と自死への権利(五)」警察研究五九巻八号七八頁以下を参照。
(11)  この問題に関するわが国の文献として、神山敏雄「作為と不作為の限界に関する一考察−心肺装置の遮断をめぐって−」平場博士還暦祝賀『現代の刑事法学(上)』(一九七九)一〇六頁以下、中森喜彦「作為と不作為の区別」平場博士還暦祝賀『現代の刑事法学(上)』(一九七九)三五頁以下を参照。
(12)  Eser, a. a. O. (6), S. 794.
(13)  Eser, a. a. O. (6), S. 795f.
(14)  Rdolf Schmitt, Das Recht auf den eigenen Tod, MDR 1986, S. 618.   なお、本論文に関して、岩間康夫「臨死介助と自死への権利(四)」警察研究五九巻七号七八頁以下に紹介がある。
(15)  BGH, NJW 1956, S. 1106.
(16)  RGSt 25, 375., BGHSt 11, 111.
(17)  BGHSt 32, 367.
(18)  Schmitt, a. a. O. (14), S. 618.
(19)  Schmitt, a. a. O. (14), S. 619.
(20)  Schmitt, a. a. O. (14), S. 619.
(21)  Schmitt, a. a. O. (14), S. 619.
(22)  Dieter Do¨lling, NJW 1986, S. 1017.
(23)  Schmitt, a. a. O. (14), S. 619.
(24)  Schmitt, a. a. O. (14), S. 621.
(25)  刑法三二三条c(緊急救助義務違反罪)は、以下のような条文である。サ
  事故又は公共の危険もしくは窮迫に際し、救助を行うことが必要であり、かつ諸般の事情から見て行為者にそれを期待することができ、特に自分自身に著しい危険もなく、かつ他の重要な義務に違反しなくてもそれが可能であるにもかかわらず、救助を行わなかった者は一年以下の自由刑又は罰金に処する。
(26)  本章第二節参照
(27)  松宮孝明・前掲論文(2)一八五頁。
(28)  この点については神山敏雄「自殺関与をめぐる正犯と共犯の限界−西ドイツの判例・学説を中心に−」岡山大学法学会雑誌三九巻四号五三六頁を参照。
(29)  Vgl. BGHSt2, 150.
(30)  Claus Roxin, Die Sterbehilfe im Spannungsfeld von Suizidteilnahme, erlaubtem Behandlungsabbruch und To¨tung auf Verlangen 」ー「ハ0.75」Zugleich eine Besprechung von BGH, NStZ 1987, 365 und LG Ravensburg NStZ 1987, 229, NStZ 1987. S. 346.
(31)  Albin Eser, a. a. O (6), S. 795.
(32)  Klaus Kutzer, a. a. O. (10), S. 713.


第五節  小    括
    以上のような考察に基づいて、「自殺関与事例」における「被害者の自己答責性」が持つ意味をまとめてみたい。そもそも、ある一定の被害者態度は、行為者の犯罪成立に影響を与えうるが、その中で、法益主体(被害者)が自己答責的な意思と態度でもって結果発生に影響を与える場合には、被害者と行為者の答責性の分配には特別な配慮が必要とされるように思われる。それは、本稿の主題である「被害者の故意的な自己侵害への行為者の関与」の場合において、まず考慮されなければならないであろう。
  とりわけ、「生命」法益は、「財産」などのその他の個人的法益とは異なり、個人に完全な処分権が与えられてはいない。ドイツでは刑法二一六条において「要求による殺人」が処罰され、我が国ではさらにひろく、刑法二〇二条によって「承諾殺人・嘱託殺人」ばかりか「自殺教唆・幇助」も処罰されている。被害者の「生命の自己決定」もしくは「生命処分意思」は、行為者を完全な犯罪阻却に導きうるものではない。むしろ、「生命法益」が問題になる場合には、被害者の「主観」的な処分だけではなく、「意思と態度の統一体」としての「被害者の自己答責性」に着目すべきなのである。従って、ここで重要なのは、被害者の自由答責的な意思に基づく態度(行為)が、被害者と行為者との共働という全体事象に対して有する社会的解釈図式における意味である。
    「自殺関与事例」において、「被害者の自己答責性」は以下のような意義を有すると考えられる。
  法益主体自身が、自由答責的な決意に基づき、自己の態度(行為)でもって自己の法益を侵害するならば、それに関与する行為者は、被害者の法益を「正犯的に」侵害したのではなく、被害者の自己侵害に「関与」しただけであると評価されるべきである。被害者が自由答責的な決断のもとで、結果発生へと至る因果の流れを自らの手で「設定・起動」し、その被害者の行為はそれのみで結果を発生させる性質のものであったならば、たとえ行為者の行為が、他の行為の媒介なしに、結果を「直接に」あるいは「自手的に」発生させる場合であっても、その行為は、「被害者の手による、結果発生へと至る因果の流れを『変更』したのではなく、『助長』したにすぎない」といえるのである。ここにおいて、意思及び態度の統一体としての「被害者の自己答責性」は、行為者の「正犯性(あるいは正犯的な結果帰属)」を制限する役割が与えられる。
  被害者の客観的な「自己答責的態度」が必要であるという要求は、単にそれが被害者の「主観」の「飛躍的表動」を外部的に明らかにするというだけの意味ではない。外部的な態度は、それが被害者の主観の「徴表」であり、かつそれで十分であると考えるならば、被害者は、自己侵害に形式的な意味で「着手」すれば十分であり、それが結果発生を導きうるものでなくてもかまわないことになろう。しかし、「被害者の自己答責性」による行為者の「正犯的帰属の阻却」に関して必要とされる態度は、そのようなものであってはまだ足りないのであり、言い換えるならば、「自殺不能犯的態様の行為」では十分ではないのである。「被害者の自己答責的態度」は、あくまで「結果発生へと至る因果の流れを自ら設定し、かつ決定づけうるものであった」といえることが重要である。そうであってはじめて、行為者(関与者)の「故意的」で、かつ「直接的・自手的」な行為をも「関与行為」と評価することが可能になるといえるであろう。
  従って、「被害者の自己答責性は以下の観点から認定されるべきである。
@自殺決意が自由答責的に、すなわち、法的に重要な錯誤や強制がなく、自由で任意に為されたものであったこと。
Aそのような決断を可能にする「能力」が被害者に存在したこと。
B自殺が実際に成功する態様での被害者自身の行為(客観的要素)。
    しかし、被害者の自殺がそのような「自己答責的な」ものであったならば、「適法」な行為といえるかはなお疑問視されなければならない。被害者の生命処分が全く適法なものであったならば、それへの阻止行為は「強要罪」に該当し得るはずである。しかし、現実に「自殺を阻止する行為」は自殺の「自己答責的」であるか否かに関わりなく「正当な」行為と見なされている。その限りで、被害者の生命処分はそれが「自己答責的」であろうともなお「違法」なものであると解さざるを得ない。被害者の自殺の「自己答責性」は、被害者と行為者の故意的・意識的共働である全体事象において、行為者の「正犯性」だけに影響を与えうる観点であるといわなければならない。
  なお、この問題については第二章においてもう一度検討することにする。
    では、被害者が結果発生を確実に認識し、故意的に行為する本稿での主題とは異なり、「被害者のいわば過失的な自己危殆化への関与」が問題なる場合、「被害者の自己答責性」はどのようなものであり、かつどのような意義を有するのであろうか。私は、かつてそのような問題に関して、以下の趣旨のことを述べたことがある(1)
  「広義の自己危殆化事例」において、「被害者の自己答責性」は、以下の点に基づいて認定されるべきである。
(一)  被害者が行為の危険性とともに特定の構成要件的結果発生の可能性を完全に認識しており、また、被害者に意思決定の自由が留保されていたこと。なお、結果発生の可能性の不認識は、被害者が不注意にも結果発生の可能性を認識していなかった場合であっても、その不注意でもって彼の自己答責性を認定することはできない。
(二)  (一)の前提として、行為の危険性と結果発生の可能性を認識・評価しうる能力(自己答責能力)が存在したこと。
(三)  客観的要因として、事象において被害者が単に成り行きに身を任せ行為者の手に自らを委ねるというだけでなく、少なくとも行為者と同程度以上に結果発生に対して積極的な態度(自己答責的態度)を示したこと。
  この「結果発生に対する積極性」は、「自己危殆化への関与」の場合には、直接結果発生に至る行為を被害者自ら実行したということでもって、認めることができる。
  しかし、「合意による他者危殆化」が問題になる場合には、結果発生に直結する行為が他人の手によって行われているので、「この積極性」を肯定するためには「特殊な事情」が必要とされるべきである。それは、「メーメル河事件」や「エイズ感染事件」に見られるように、行為者が被害者に結果発生の危険を指摘し、自分自身は行為実行について慎重な態度をとろうとしたにもかかわらず、被害者の「強い要請」によって行為を実行するに至ったというような場合にのみ、この被害者の「結果発生に対する積極性」を認めるべきである。
  そのような「合意による他者危殆化」において、背後者である被害者の側に事象に対する「自己答責性」が認定されるならば、「被害者」が事象においていわば「間接正犯的な役割」を担って自己の欲求のために行為者行為を利用したのであり、生じた結果は、まず第一に被害者の答責領域に帰属されるのである。その場合、行為者は被害者に規範的意味において、単に主観的にだけでなく、客観的にも「従属」することによって、「(過失)正犯としての可罰性」が否定され、彼の行為はせいぜい「幇助的」な役割をもったものとして評価されるのである。
  なお、「被害者の自己答責性」の認定によって「過失正犯」としての可罰性が否定されるとしても、なお「過失共犯」としての可罰性が存在するかが問題になりうる。「過失による共犯」の可罰性については、我が国では少なくとも明文でこれが遮断されているわけではない。しかし、刑法においては「故意犯」の処罰が原則であり、そもそも過失犯処罰は例外であること(刑法三八条一項)、及び(狭義の)「共犯」は「正犯」より類型的に可罰性が低いこととを考え合わせれば、我が国においても「過失による共犯」は処罰されないものと見なすことが適切であろう。
  従って、「自己危殆化事例」においては、行為者の「過失犯」としての可罰性が問題になる限りで、正犯性制限原理としての「被害者の自己答責性」が行為者の可罰・不可罰の限界を設定するのである。
    ここで述べたように、「被害者の過失的な自己危殆化への行為者の過失的関与」が問題になる場合であっても、原則としては「自己危殆化」の場合、すなわち結果発生へと至る直接的な行為が被害者自身によって担われている場合に「被害者の自己答責性」が認められうるのである。
  しかし、それが行為者の過失的な関与において、彼の「過失致死正犯」としての可罰性を遮断する場合には、例外的に「合意による他者危殆化」、すなわち結果発生へと至る行為が行為者によって担われた場合にも「被害者の自己答責性」を認定しうる場合があるように思われる。このような場合において、被害者が自己の意思と態度でもって、因果の流れを「設定・起動」したことは、やはり「被害者の自己答責性」にとって最低限必要であるが、被害者の態度が「結果発生を決定づけうる」性質のものであることまでは必要ではないであろう。ただし、被害者の行為実行の要求は、単に「存在した」というだけではなく、まさにそれによって慎重な態度をとろうとした行為者を行為実行に駆り立てたということがいえなければならず、そうであってはじめて、「被害者の自己答責性」が被害者と行為者の過失的共働という全体事象に対して、一定の意義を持ってくるといえよう。
  なお、「被害者の自己答責性」によって、被害者による過失的な広い意味での自損行為が行われたということは、一方で行為者(関与者)の「過失致死正犯」の処罰の否定であるが、他方で「過失的な自損行為」という構成要件該当性のない行為への共犯でしかないということも意味している。これは、通説のように、「過失による教唆・幇助」を認めない立場からはもちろん、たとえそれを肯定する立場であっても、なお処罰の否定に至るであろう。この点、前稿(2)の記述を補足しておく。
    この問題に関連して、我が国で平成七年に「被害者の危険引き受け」に関する興味深い下級審判例が下された。この「ダートトライアル同乗者死亡事件(3)」は、「広義の自己危殆化事例」(厳密には「合意による他者危殆化」の事例)における我が国のはじめての判例といえる。ここでは、被害者の「危険引き受け」態度は、「違法阻却」の効果を持つものとされた。しかし、本件判旨からは、「被害者の危険引き受け」になぜ「違法性の阻却」という刑罰効果が与えられるかは、全く明確でなかった。特に、我が国の刑法二〇二条やドイツ刑法二一六条によって、被害者のいわば「故意的な」生命処分、「承諾」に違法阻却の効果が与えられていない以上、なぜ被害者のいわば「過失的な」「危険引き受け」態度に「違法阻却」の刑罰効果を結びつけることができるのか、アンバランスがあるように思われるのである。「危険引き受け」を過失犯における新たな、独自の「違法阻却事由」とするのであれば、この疑問に十分答えなければならないであろう。
  むしろ、このような事案においても、「行為者の正犯性の阻却」と関連する「被害者の自己答責性」にこそ着目すべきであると思われる。では、本件では「被害者の自己答責性」を認定できたのであろうか。この点に関して、ダートトライアル競技では「転倒・衝突」は日常茶飯事であるが、それが死亡事故など重大な結果に結びついたことがなく、安全な競技だと思われていたのであり、被害者に特定の構成要件的結果発生の可能性の認識はなく、「自己答責性」の認定は困難であると思われる。本件において被告人の無罪という結論には賛成であるが、それは「被害者の自己答責性」という「被害者の事情」から根拠づけられるのではなく、行為者において結果の予見が困難であったこと、また注意義務違反の内容を特定することが困難であることから導かれるべきであったのである。

(1)  拙稿「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化について(四・完)」立命館法学二五一号九七頁以下
(2)  拙稿・前掲論文(1)九八頁以下。
(3)  千葉地裁平成七年一二月一三日判決、判例時報一五六五号一四四頁以下。本判決に関して、以下の文献を参照。大山弘・松宮孝明「自動車競技練習中の衝突・転倒により同乗者を死亡させる結果になった運転が同乗者による危険の引き受けを理由に正当化されることがありうるか(肯定)」法学セミナー五〇三号七四頁以下、佐伯仁志「ダートトライアルの練習中に同乗者を死亡させた事案において、業務上過失致死罪の成立を否定した事例」法学教室・判例セレクト一九九六年三二頁、荒川雅行「危険の引受けと過失犯の成否」ジュリスト平成九年度重要判例解説一四七頁以下、日本弁護士連合会刑事弁護センター編『無罪事例集(第二集)』二七二頁以下、曽根威彦「過失犯における危険の引受け」早稲田法学七三巻二号三三頁以下、拙稿「危険引き受けについて」立命館法学二五三号六一五頁以下。