立命館法学  一九九七年六号(二五六号)一六二五頁(四一三頁)




一九世紀末フランスにおける排他的ナショナリズムの様相
― 反ユダヤ主義の動向を手掛かりにして ―


中谷 猛







は  じ  め  に


  概して政治体制の不安定性に悩まされ続けてきたフランスが議会的共和制の定着に成功するのは一九世紀末の時期である。社会構成から見た場合、この体制を支えた社会集団とは農民層であり、上層ブルジョワ階級(たとえば大実業家、銀行家、上級公務員など)であり、労働者階級にも上層ブルジョワ階級にも属さないと言う意味で中間層となる中産階級であった。とりわけ中産階級の実態は極めて複雑で、その社会意識も多様といってよい。ガンベッタがグルノーブル演説で「新社会層」(一八七二年)と呼んだ中小ブルジョワ階級には、伝統的手工業者、小土地所有者、年金生活者、自由職業人(法曹・医者・技師・教員・ジャーナリスト)など様々な職業の人々が含まれていた。彼らが時代の動向を左右する勢力になりつつあったことは先の演説から分かる(1)
  一方、議会的共和制のもとで労働者階級は、普選の実施で政治的権利を獲得したとはいえ、この社会の周縁部に位置付けられていたにすぎず、そのため彼らはみずからの主張・利益の擁護を労働運動や社会主義党派に託した。このような社会構成をとる共和国において政権維持とその体制の安定を図るため、政府が打ち出したイデオロギー政策の一つに愛国心(祖国愛=パトリオチズム)の涵養がある。その結果、政府による様々な「国民」化の施策が進めば愛国感情は一層拡大する(2)。だがこのエモーショナルな感情・意識は複雑なイデオロギー的諸要素の産物である以上、先ず具体的な事例の分析を通してこの時期における「ナショナルなもの」の内容に迫る必要がある。
  本稿のテーマの前提となるナショナリズムの基本的構図とは、M・ヴィノックによれば、この国には二つのナショナリズムの潮流、すなわち「開かれたナショナリズム」と「閉ざされたナショナリズム」とがあって、この世紀末が前者から後者への転換期となる(3)。この変容こそ一般に極右ないし排他的ナショナリズムの台頭と呼ばれる問題である。近年の諸研究はそこに反体制的急進性があることを指摘し、またヴィシー政府を支えた人々との思想的連関に注目している(4)。だが広く共和制ナショナリズムの位相から見た場合、排他的ナショナリズムのイデオロギー的実態については未解明の部分が多い。そこでこの時期に愛国感情に訴え活躍した知識人、事業家、司祭を選び、彼らが時代状況の中で行なった政治的言説について考察してみたい。その手掛かりとして彼らの「反ユダヤ感情」に注目しなければならない(5)。というのは、彼らの思想と行動にはこの感情が混交しており、排他的ナショナリズムの形成に密接に関連しているからである。彼らの主張の特色について認識すれば、思潮に見られる問題性が明らかになるだろう。差し当たり本稿は一九世紀末ナショナリズム研究のための予備的考察 (メモ)に過ぎないことをおことわりしておきたい。


(1)  中木康夫『フランス政治史』上 (未来社、一九七五年)二三二頁参照。ガンベッタは「政治には新しい社会階層が登場し、存在している。この階層は確かに彼らの前にいる者と比べて全く劣った者ではない」と述べた。Georges Dupeux, La Socie´te´ francaise 1789-1960, Librairie Armand Colin, 1964. cit., p. 171. 当時、フランスが農民人口の優位の国であることは留意しておく必要がある。渡辺他著『現代フランス政治史』(ナカニシヤ出版、一九九七年)五二頁以下参照。
(2)  小学校での公民精神の涵養では「公民」、「兵士」、「軍隊」、「祖国」の言葉が生徒に繰り返し教えられた。Cf. Sanford Elwitt, The Making of the Third Republic, class and politics in France, 1868-1884.  Louisiana State Univ. Press, 1975. p. 204.  共和主義的な「国民」形成のために、政府は七月一四日を建国記念日として制定し、また「ラ=マルセイエーズ」を国歌とする。
(3)  ミシェル・ヴィノック著川上・中谷監訳『ナショナリズム・反ユダヤ主義・ファシズム』(藤原書店、一九九五年)二ー三頁参照。R・ジラルデはフランスにおけるナショナリズムの変容を一つのナショナリズムからもう一つのナショナリズムへとして捉えている。Raoul Girardet, Le Nationalisme francais, Anthologie 1871-1941, E´ditions du Seuil, 1983. p. 11 sqq.  つまり革命遺産を継承する左翼ナショナリズムから右翼ナショナリズム、ナショナリストのナショナリズムのことである。この時期における右翼陣営の動向については Jean-Francois Sirinelli, Histoire des droites en France, 1 Gallimard, 1992, p. 147 sqq.  J・フェリーは右翼の攻撃に対して「わが共和国はすべての人に開かれている」と主張する。ibid., p. 203.
(4)  たとえば Zeev Sternhell, La Droite re´volutionnaire, Les origines francaises du fascisme 1885-1914, E´ditions du Seuil, 1978. p. 33 sqq.
(5)  近年のユダヤ研究文献については Paula E. Hyman, The History of European Jewry: Recent Trend in the Literature, Journal of Modern History. juin 1982, vol. 54 No.2, pp. 303-319. が有益である。この感情が結局「二つのフランス」という政治的対抗軸の形成に重要な役割を果たしてゆく。Cf. Pierre Birnbaum,”La France aux Francais Histoire des haines nationalistes, Seuil, 1993. p. 10 sqq.


1.知識人ルナンの場合ー政治社会批評とユダヤ観
  反ユダヤ主義が台頭してくる世紀末社会、より厳密に言えば一八八〇年代の社会に大きな思想的影響を及ぼした人としてH・テーヌやE・ルナン、あるいはフュステル・ドゥ・クーランジの名前を挙げることに異論はないであろう。彼らは実証主義の精神のもとに文化現象の歴史的考察で名をなしたが、なかでもルナンはいわゆる「ユダヤ問題」との関連でいえば重要な位置を占める。彼には「国民」の観念について講演・時論による発言があるからである。
  ルナンは優れた宗教史研究やセム族言語の歴史的考察などで令名が高い。だが、同時代の政治社会についての考察や文明論的論評もあったことはあまり知られていない(1)。第二帝政末期に『両世界評論』に発表された「フランスの立憲君主政」(La Monarchie constitutionelle en France, 1869. 11)や普仏戦争での敗北とパリ=コミューン後に発表された『フランスの知的道徳的改革』(La Re´forme intellectuelle et morale de la France. 1871. 11)には混迷の度を深める当時のフランス社会に対する彼の認識と社会再建の方途が示されている。とくに後者の著作ではフランスの敗北と社会的反乱の惨状が「わが祖国の苦悩(2)」として受け止められ、全体としてフランス社会の陥った危機状態が分析されていた。その手法は複合的な比較方法といってよい。すなわち、一方にイギリスの自由な国家構造やドイツの教育水準の高さなど隣国の長所とみなされるものが比較の尺度に設定され、他方に歴史的な因果関係の視角が導入され、そうした作業を通じて自国の抱える問題が明らかにされてゆく。
  まず、イギリスとフランスとの国制比較に関するルナンの認識について取り上げよう。イギリスは「もっとも自由でもっとも繁栄する愛国心の強い国(3)」であって、この成功の要因とは王権、貴族、教会やコミューンなどが打破されなかったからである。一方、フランスは一八世紀末に大革命が定めた目標、すなわち「それぞれが有する諸権利と自由をできるだけ犠牲にせずにすべての人の権利と自由を保障する公平で開明的、かつ誠実で思いやりのある社会(4)」にはいまだほど遠い状態にある。イギリスでは国制の枠内で改革が漸進的に行なわれたが、フランスではこうした漸進的方法をとらずに絶えず革命に訴える手段をとり、同時にこの諸革命によって制定された様々な制度が国家権力の強化を助長したのである。
  また、立憲君主政の枠組みでは代表制が存在するため漸進的な制度改革が行なわれ、国家は持続的に発展する。だがフランスではこうした立憲君主政による制度改革は絶えず失敗におわった。このようにルナンはイギリスの自由な国制に憧憬を抱く一方、大革命の掲げた目標が達成できない要因を統治形態に求めたように思われる。
  次に、ドイツとの対比でフランスの現状が考察される。その際の基準は知的道徳的な規律問題にある。たとえば、ルナンは普仏戦争で自国が敗北した原因の一つに軍事的組織の緩みをあげ、軍事組織とデモクラシーの関連性を指摘する。彼によれば近代デモクラシーの精神とは個人的諸権利の要求にあるが、この精神では戦争はできない。デモクラシーは軍事組織を堕落させる強い要素である。というのは規律に依拠する軍事組織から見ると、デモクラシー精神には規律を否定する要素があるからだ。もちろんドイツにもデモクラシー運動があったが、それは「全国規模の愛国的運動」(mouvement patriotique national)に従った。それゆえ、ドイツの勝利は「規律なき者に対する規律正しい者の勝利」であり、そのことは「科学と理性の勝利」であり、また同時に人民主権の原理を否定する「旧体制の勝利(5)」でもあったのである。
  このような考察から祖国への義務の観念が引き出されてくる。すなわちフランスの再興に必要な観念とは義務の観念であるという。彼によると、ナポレオン軍に破れて以来、プロイセンはシュタイン首相のもとで軍事改革を行ない、またベルリン大学には多くの学者や哲学者が集められ、この大学がドイツ再生の知的センターとしての役割を担ったのである。その後五〇年にわたる彼らの努力がみのり、プロイセンはヨーロッパの一流国になった。この国の再生にあたり「連帯感」が重要な働きをしたとはいえ、それは「単なる思い上がった愛国心」によってもたらされ得るもではなかった。そこには「道徳的基礎」がある。その基礎とは「義務の観念」であり、国難を堂々と耐え忍ぶ「誇りの観念(6)」である。ルナンはフランスにもいまこの種の観念や気概がいる、と考えていたのである。
  ドイツに対するフランスの敗北とその後の危機状況を考慮すれば、彼の主張は説得性をもっていたと思われる。だがドイツとの対比で導きだされたこの見解は、必ずしも目新しいものではない。問題はこのような議論の中で見過ごされやすい「ゲルマン的原理」への言及と騎士道精神の称揚とにある。たとえば、彼は中世時代の騎士の決闘を引き合いにだしていう。甲胄を身につけた者の威圧感は安逸をむさぼる土地所有者にある意味では戦いの場を想起させる。この場面は「武人」がまさにあらゆる富の作り手だということを一般に印象づける。「というのは、征服したものを防衛する以上、武人は彼の保護を求めて集まってきた人々の財産についても保証するからである(7)。」
  われわれにとってこの説明は直ちに納得し難いが、生命を賭した騎士の行為とその精神が必要であると考える彼の発言の意図は明瞭である。彼と同時代の「フランスのブルジョワ階級」を念頭におけば、この発言はこの階級への批判と受け取れるからだ。すなわち兵役代替法によってブルジョワの子弟は兵役を免れえた事実が前提にある。ブルジョワ階級がいわば「剣」もたずに自分の財産を擁護するように彼には映る。ここから彼らは「社会という建築物の実に不安定な部分(8)」だという見方が生れる。ところが世紀末社会では 騎、士、の、精、神、 を尺度にしてブルジョワ階級を論難するこの時代錯誤的思考が重要な意味をもってくる。
  第一にルナンにとってブルジョワ階級の精神と物質主義の傾向とは表裏一体のものとみなされる。概して財産所有階級であるブルジョワ階級は怠惰のうちに暮し、公的職務もほとんどこなさず、だが尊大な態度をとる。当然こうした社会では人々の紐帯は弱くなる。そしてこの社会傾向を生み出しているものこそ「ブルジョワ的物質主義」で、普通選挙制の到来とともにこの傾向が助長され、フランス人は「全く物質主義者」になったという(9)。この言説はまさに「高尚なもの」ー「貴族階級」との対比のもとで展開されており、彼の批判論理は一貫して騎士的精神、自己犠牲と尚武の賛美にある。ルナンはいう、「昔のフランスの高尚な関心とは愛国心 (patriotisme)や美的なものへの心酔や名誉心であって、そうした様々な関心は貴族階級とともに消滅したが、その貴族階級はフランスの心を具体的に示していた。」だがいまや「頭の働きのにぶい、粗野な大衆、もっとも皮相的利害という見方に支配される大衆(10)」に事物の判断や統治が委ねられたのである。第二にいわゆるデモクラシー批判への傾斜である。一方の極にデモクラシーと大衆支配を等式で捉え、もう一方の極に貴族支配を設定し、広くブルジョワ政治の「凡庸さ」を指摘する。言い換えると、この図式のもとで強調されるのは「純然たる政治的物質主義」に他ならない。富への欲望と貨幣による支配への軽蔑がこの言説に潜んでいる。総じて彼の論述には時代の風潮としての「物質主義」への反発と精神主義への傾斜という特徴が見られたが、この二項対比の図式による現状批判こそ当時の知的状態を国粋化に旋回させる回路の一つとなる。
  さて、ルナンは敗戦国フランスにとってドイツの勝因を探ることがみずからの使命だと考えていた。その知的作業の成果が『道徳的知的改革』であった。両国の歴史的考察をとおして明らかにされた隣国の勝因とは初等教育の発展、強固な軍隊の存在と国民のアイデンティティの形成などである。この諸要因がドイツの優位を保証するものとするなら、フランスの国制はこの優位性を作りだすことができるのか。現実政治の根幹に関連する問題に直面して苦悩していたがゆえに、彼のデモクラシーに対する懐疑が拡大する。こうした政治的思索ではデモクラシーに対する両価的評価が見られたとはいえ、彼の場合共和制への信頼は徐々に深まっている。
  まず、ドイツが伝統的な君主国であるのに対してフランスはデモクラシー国である。彼によると、デモクラシーは「砂の家」に過ぎない。すなわち「様々な伝統的制度のない国家であり、国民意識を持続しうる責務を負う集団が存在しない。国家は一つの世代が次の世代について責任を負わないというこの嘆かわしい原理に基づいている。その結果、死者と生者との間にはなんのつながりもなく、未来に対する保証もないのである(11)。」この一文が如実に物語るように、ルナンは普通選挙制に基づくデモクラシー政治に否定的な立場をとる。そしてその制度のために代償をフランスは払っていると考えていたようだ。だがR・ジラルデが指摘したように権力構成の方法としてのデモクラシー(ニ院制・政教分離など)は認めていた(12)。ともあれこうした考察を通してルナンが訴えたのは国民意識の形成の重要性であった。そこで彼はフランスに新しい市民道徳を作りだし、ドイツに対抗する国民的アイデンティティを形成するために、「祖国」の観念を鼓吹してゆくことになる。
  その後に発表されたルナンの時論などを検討すれば、明らかなようにフランスがドイツのような古い貴族制国家に再び戻る道は否定されている。彼は基本的に革命原理を肯定し、とくに自由の理念を信奉してこの立場からドイツの位置を見定めようとする。すなわち、「自由主義的フランス」の立場に立って、彼はヨーロッパ連合を構想しその中で両国の友好の道が追求されるのである。
  次に共和制国家に必要な国民的アイデンティティの問題に移ろう。すでに述べたようにルナンの場合、ドイツ優位の認識があった。もちろん彼は一般民衆のように復讐感情を基礎にしてこうした議論を展開していたわけではない。その認識は理性的な判断に基づくもので、かつ平和・友好の立場に立って行なわれていた。「ドイツとフランスとの戦争は文明のもたらしうる最大の不幸(13)」と判断されていたからに他ならない。後で触れるように彼は、ヨーロッパのそれぞれの国と国民はまさに各国が歴史的に独自の発展の道をたどってきたと考えていた。それゆえ、彼には諸国家の連合以外の構想はありえない。ドイツも当然この構想のもとで位置づけられる。ルナンの時論の特徴とは、ヨーロッパ的視野から独仏関係の枠組みが捉えられ、この二国の共存と繁栄の方向が前提にされつつ、フランス再興の方策が考察されていた点にある。
  フランスへの期待を込めて語られた周知のルナンの「国民とは何か」という講演は、国民のアイデンティティの形成に力点をおいている。そこではフランスの「精神」と過去の「記憶」との結合が強調される。「われわれにとって、国民とは魂であり精神であり、精神的家族である。それは様々な追憶や犠牲や栄光、しばしば襲う不幸と後悔という過去から生み出されたものである。また現在にあっては共に生き続けたいと願う意欲の産物でもある。一国民を構成するものは、同じ言葉を話たり同じ民族学的集団に属していることではない。それは過去において様々な偉大な事業を一緒に遂行したものによって、またその事業を将来に向かってなお続けようと望むものからなるのである(14)。」ルナンはこのような過去から現在を経て未来に向う願望と意志の持続性を前提に 想、像、さ、れ、る、 国民の共同体と「祖国」とを同一視していたと思われる。
  ルナンやクーランジュにはドイツを外国とみる意識はあっても、この国の人々を「敵」視する態度は見られない。それぞれの国民形成を広く文化的位相において認識し、ヨーロッパ連合という展望の中で自国を位置づけていたため彼らの場合、国民と人種を等式で結ぶような捉え方は否定されていたといえよう。ルナンのユダヤ人観は、上述してきたような文脈に関連づけて理解しておく必要がある。
  とはいえ、ルナンのユダヤ人観には問題がある。一体、彼のユダヤ人観とはどのようなものであったか。差し当たり二つの講演、すなわち「文明史におけるセム諸民族の役割」(一八六二・二・二一(15))と「人種としてまた宗教としてのユダヤ教」(一八八三・一・二七(16))にその手掛かりがある。まず一八六二年の講演では、彼はインド・ヨーロッパ語族と対比しながらヘブライ語やアラビヤ語やエジプト語などを話すセム語諸民族が「文明という共同事業」に貢献したことを説く。この講演で度々出てくる「セム語族」や「インド・ヨーロッパ語族」という言葉自体は目新しいもので、当時の言語学研究の成果が取りいれられていたといってよい。
  さて、彼がセム系諸民族と印欧系諸民族の混交について語る場合、様々な思想交流によって形づくられた文明の評価に重点がある。彼は両民族の「一種の歴史的協力」に注目していたとはいえ、両民族の有する文明的異質性に力点をおく。たとえば政治の領域に関していえば、印欧系諸民族の場合、自由の重要性は認識されており、国家と個人の独立についても理解されていた。だから彼らにはエジプトやバビロニアや中国におけるようにすべての個性を打ち砕き、人を名無し状態に陥れる専制政治の経験がなかった。一方、セム系諸民族の場合、ダビデ王やソロモン王の政治に見られたように、それは神政政治であった。こうして彼はいう。「聴衆のみなさん、神政政治、アナーキー、専制政治、こう言ったものがセム系民族の政治の要約です。幸いなことにそれはわれわれの政治ではありません(17)」と。
  科学や哲学の分野では、たとえば諸々の原因の探究や知の追究に従事したギリシア人に対してバビロニア人による科学の発達やエジプト人による幾何学の発明を挙げる。だがバビロニアの科学といってもいわゆる科学的原理に基づくものではなく、幾何学を知っていたエジプト人でも、ユークリッドの平面幾何学を大成しえなかった、と論評した後、彼は「セム諸民族の知恵は決して寓話や様々な諺の類から抜け出しえなかった(18)」と指摘した。とくにユダヤ人について触れたところでは、中世のユダヤ人の哲学上の役割とは単なる解釈者の役割にすぎず、「この時期のユダヤ哲学はまさに手の入ってないアラビア哲学そのものだ(19)」とも述べた。
  もちろん、彼はセム民族、あるいはユダヤ人の道徳がときに極めて純粋で神聖なものであることを知悉していた。福音書の道徳は、はじめセム族の言葉で説かれていた、と述べた後、彼はこう切り出す。「セム族的 (ユダヤ的)性格は概して人に厳しく偏狭で利己的である。この人種には激しい情熱、全き献身など比類のない様々な特性がある(20)」と。ここにはステロタイプのユダヤ人像の形成を助長する言説が指摘できよう。
  確かにルナンは公平な観察眼でもってセム諸民族と印欧諸民族との文明史的考察を行なっている。だが他面では印欧諸民族の生み出した文明の優位への評価は歴然としている。また「セミ族的」という言葉には「ユダヤ的」という意味が含意されており、文脈上極めて曖昧なまま使用されている場合が多い。さらに「人種」と「民族」の区分も曖昧で皮膚の色や血液型など遺伝的形質により分類される「人種」と文明比較の視点を基軸に社会・文化・言語などの見地から分類される「民族」との混同がある。したがってこの講演を見るかぎりそこに多くの問題があったことは否めない。
  最後に、ルナンはユダヤ教とユダヤ民族の将来についてどのような展望をもっていたのか。この点について検討しておこう。一八八三年一一月の講演「人種としてまた宗教としてのユダヤ教」は彼の見解を知る手掛かりとなる。この講演では、標題に如実に示されているように人種と宗教との区分に立ってユダヤ教の特徴が説明される。まず、宗教には普遍的なものと地域的、あるいは民族的なものがある。キリスト教や仏教やヒンドゥー教やイスラム教は普遍的宗教であり、ユダヤ教は民族的宗教である、と彼は見る。というのは、ユダヤ教はなるほど偉大な宗教であるが、イスラエル国、ユダヤ国の宗教であり、またこの宗教には「特有な人種の伝統」(la tradition d’une race particulie`re(21))があるからである。その説明に当たって「ユダヤ人」とか曖昧な「イスラエル人種」(la race israe´lite)という概念が用いられる。それはいわゆるエスニック的要素を強調するためと思われる。
  だが、彼の見解を大局的見地から捉えれば、ユダヤ人を紋きり型で論じるような態度は見られず、様々なタイプのユダヤ人の存在に目を向ける必要性が説かれていた。ユダヤ研究に立ち向かう際に、彼がつねに歴史文化的方法に依拠していたからに他ならない。そこにユダヤ教自体が文化変容を蒙っている、言い換えると開かれたユダヤ教という発想があったことは重要である。たとえば、彼は「元来、ユダヤ教は閉ざされた宗教であった。しかしその間長い世紀が過ぎユダヤ教は開かれていった。非イスラエル人血統の人口のかなり大きな集団がユダヤ教に理解を示し包み込んだ。その結果、言語・民族分類学の観点から見ると、このユダヤ教という言葉の意味は極めて疑わしいものとなった(22)」という。この言説の背景には多分一九世紀以降のユダヤ人に対する同化政策の進展が想定されているのであろう。
  ルナンは「開かれたユダヤ教」という視点に立つことによって、中世以来の固定的な宗教的ユダヤ人像を塗り替えようとしたのではないか。「ユダヤ人にあっては彼ら固有の相貌と様々な生活習慣とは数世紀にわたって彼らに重くのしかかった社会的にさけることのできぬ条件から全く生み出されたものであって、人種の異常性(un phe´nome`ne de race)によるものでない(23)。」このようにユダヤ人の存在そのものを歴史における社会的形成物と見る以上、「人種としてユダヤ人」の比重が低くなるのは当然であろう。文明が進展すれば、人類分類学的な事実はその歴史的起源を探るうえで役立つにすぎないのである。
  叙上のような考えにたつ彼は反ユダヤ主義者でもないし、またユダヤ人を遺伝的形質から捉える人種差別主義者と一線を画する必要がある。「一七九一年に国民議会がユダヤ人の解放を宣言したとき、その議会では人種そのものが入る余地がなかった。人間はその血管に流れる血液によって判断されるべきでない。彼らの道徳的で知的な価値によって判断すべきである、と議会は考えたのである(24)。」この引用文はユダヤ人の同化政策を支持する立場からの発言であったことは確かだが、彼のユダヤ人を見る目は公平で、蔑視感情もなかったと思われる。彼のユダヤ人観は後の世代によって歪曲して受け取られたといってよい。


(1)  Ernest Renan, La Re´forme intellectuelle et morale, Calmann-Le´vy, 1922.  この著作には時論「フランスの立憲君主政」(Monarchie constitutionnelle en France)や「ドイツとフランスの間の戦争」(La Guerre entre la France et l’Allemagne)などが収録されている。
(2)  Ibid., p. 1.
(3)  Ibid., p. 5.
(4)  Monarchie constitutionnelle en France, p. 235.
(5)  E. Renan, op. cit., pp. 54-55.
(6)  Ibid., pp. 60-61.
(7)(8)  Ibid., p. 32.
(9)(10)  Ibid., p. 18.
(11)  Ibid., pp. 68-69.
(12)  Raoul Girardet, Renan, Qu’est-ce qu’une Nation? et autres e´crits politiques, Imprimerie nationale. 1996. p. 18.
(13)  E. Renan, La Guerre entre La France et L’Allemagne, 1870. pp. 123-124.
(14)  E. Renan, Qu’est-ce qu’une nation? Presses Pocket, 1992. p. 58.
(15)  Ibid., p. 185.
(16)  Ibid., p. 188.
(17)  Ibid., p. 190.
(18)(19)  Ibid., p. 191.
(20)  Ibid., p. 192.
(21)(22)  Ibid., p. 217.
(23)(24)  Ibid., p. 220.


  2.ブルジョワ的事業家モレス侯爵とモーリス=バレスの場合−ナショナリズムと国民社会主義の問題
  一九世紀末フランス社会にはいわば様々な思想が混交するカオスが現出する。とりわけナショナリズムの台頭と社会主義思想の浸透とあいまってこの両者の結合、つまり後に「国民社会主義」と呼ばれる観念が創出される。この観念の誕生に関して、モレス侯爵(Marquis Antonio de More`s, 1858-96. 7)とバレスの役割が問題になるが、この点ではいまだあいまいな部分が多い。まずバレスがモレス侯爵について述べた弔辞に注目してみよう。
  バレスはモレス侯爵の墓前葬儀(一八九六年七月一九日)で故人を偲んで弔辞を読んだ。その中にわれわれの関心をそそる一節がある。彼は、ナショナリズムという言葉によって理解されているものとは歴史的感覚であり鋭敏な自然的感情であり、また運命決定論の是認であると述べて、こう続ける。
  「モレスは社会主義者であった。彼はわれわれの社会の経済的改良と個人のあり方の改善(le changement de personnel)を認め、かつそれを願っていた。同時に祖国の観念を現実的なものとして確信していた民族主義者(ナショナリスト)であった(1)。」「わたしは社会主義の観念と民族主義の観念の結合を強調することを決しておそれない。もしもわれわれがこの二つの原理の一致した力をしっかりと樹立したいなら、そのために尽力しその生涯を捧げたのがモレスだが、われわれには褒めたたえられる英雄たちの記憶が役立つであろう、と思う(2)。」つまり、バレスにとってモレスはこの二つの観念を結合しようとしていた人物に他ならない。一般的に「国民社会主義」の創出に関わってバレスの役割が指摘されるが、モレスへの言及はほとんどない。
  重要なことは、「社会主義」と「ナショナリズム」の結合とは一体何を意味するのか、またその観念の誕生に関わってモレスの役割とは何かを明らかにすることにある。したがってこの人物の行動を追求すれば、問題解明の糸口はつかめるにちがいない。
  まずモレスとはどのような人物か(3)。彼の先祖はアラゴン諸国王とサヴォワ公に仕えていたが、両親はスペイン系である。多くの軍人を輩出した家門のゆえに、彼には将来の士官の夢があった。イエズス会の経営する名の知れた学校を出て、サン=シール陸軍学校に入った(一八七七年)。同級生には後に元師となるペタンがいた。その後胸甲騎兵第一連隊の少尉なったが、一八八一年二三歳で退役、ニューヨークの富豪銀行家の令嬢と結婚(一八八二年二月)して渡米する。
  彼はダコタ州のミズーリ河沿いに広大な土地を巨費を投じて購入し、牧場経営と精肉産業に乗り出すが、成功しなかった。その後多数の牧童を雇い入れシカゴに畜牛を運搬する運送会社を設立したり、金融業などいくつかの事業に手をだしたが、その地域に住む一友人の言葉によれば、「経験も冷静な判断力もないのに向こう見ず(4)」のゆえにいずれも失敗に終った。北米での約五年の間に、待ち伏せ事件(一八八五年六月二六日)[ノースダコタのビスマーク市から自宅への帰路、三人組に待ち伏せされ、彼は一人を殺し、二人目を負傷させ、三人目を捕まえた]とその裁判問題が持ち上がる。モレス一家はダコタからニューヨークに移転(一八八五年)し、その後フランスへ戻る。野心的な事業家で冒険心の旺盛な彼は、仏領インドシナでの鉄道敷設事業に関心をもち、その資金調達のため政界で画策したり、またアフリカでの活躍を夢に見、探検旅行を企てた(一八九四年北アフリカへ出発)。不幸にも彼を含む六人の一行は現地北アフリカのサハラ地方で回教遊牧民トゥアレグ族におそわれ、モレスは殺害された(一八九六年六月九日)。パリのノートルダム寺院で行なわれた彼の葬儀には外務大臣やパリ大枢機卿などが列席して盛大に行なわれたという(5)
  北米での彼の行動に見られる特徴とは、向こう見ずな貴族的事業家としての側面、牧童用上着とソンブレロをかぶった私兵「制服」集団の結成、そして労働者への強い関心、その援助のための経済関連組織の企画案の作成 (消費者共同組合案)にある。帰国後、こうした経験が政治活動に生かされることになる。
  モレス侯爵の母国フランスでは、ドリュモンの反ユダヤ主義が勢いを持ちはじめていた。R・バーネス(Robert F. Byrnes)によれば、帰国後モレス侯爵はドリュモンの『ユダヤ人のフランス』を読み、彼の計画がことごとく、ユダヤ人の食肉業者や金融業者によってくじかれていたということ知ったのである(6)。一方、彼がブーランジェ運動に関わったことは確かだが、いつ頃ブーランジェ将軍の支持者になったかは明らかでない。注目すべきことは、一八八九年九月にパリの労働大衆に向けて、彼がナショナリズムと社会主義の結合を、また下層階級と上層階級の結合を呼びかける最初の演説を行なったことにある。「同志諸君、時は来た。フランスには忠誠な子らすべてが必要だ。『祖国』フランスをつくる戦場で貴族も平民も一緒になって血を流したあの時のように、並んでまた共に戦おう。ユダヤ人が祖国を破壊しようとしているからだ(7)。」彼の行動原理は「祖国」愛にある。
  一般にブーランジスムと反ユダヤ主義の公然たる同盟関係は、一八九〇年一月の時点に求められる。すなわち、このとき「フランス国民反ユダヤ同盟」はきたるべき四月の下院議員選挙での「国民共和派委員会」のメンバーである反ユダヤ主義者のフランシ=ロール(Francis Laur)の再選を目指して最初の集会を開催したのである。
  パリ北西部の保守的な地域、ヌイイにおいてこの集会を準備したのがモレスであった。彼の他にドリュモン、フランシ=ロール、ポール=デルレードらが参加して反ユダヤ的演説をおこなった。当時、ポール=デルレードはフランス・ナショナリズムの闘将であった。政治的出来事として見ると、この集会の意義は看過できない。というのは、バーネスによれば、集会の意図はこれら政治的立場の異なった二つの運動を結合して若い貴族たちと労働者たちによる新しい党派の結成が求められていたからである。実際の運動面から見た場合、モレスの組織者としての役割は大きい。
  ところでこのような政治活動と合わせてモレスの反ユダヤ主義の立場を指摘しておかねばならない。その事例を示す演説を取り上げてみよう。同じ立場のユーグ子爵が主催したモンペリエ集会(一八九五年一月七日)や約九〇〇人の人々が集まったディジョン円形闘技場での集会(一八九五年三月五日)演説がわれわれの関心を引く。前者の集会では彼はみずから「何よりまずカトリックだ」といい、ロートシルト家と彼らの巨万の個人財産を非難した。またトゥールーズにおける最近の選挙戦ではユダヤ人たちが知事レオン=コーンと組み、選挙違反に加担していたと告発した。三月一〇日の集会では「多数の教会関係者やカトリック・グループや〈キリスト教修道士会〉に引率された生徒ら(8)」が圧倒的多数を占めていたが、そこでモレスは「オート・バンクの代理人」といわれた政治家レオン=セイを非難し、またクレミューを盛んに攻撃した。
  モレスによれば、その理由は「彼が国防大臣であったとき、このユダヤ人があらゆる官庁暗号書類をユダヤ寺院に流したからである。」「彼のもとで、人々が思っているようにこれらの書類は取引の材料となったのである(9)。」政界で活躍するユダヤ人に対してドリュモンと同じデマゴギー的手口が使われていることはいうまでもない。この演説の特徴はユダヤ人攻撃と既存の議会共和制への非難が一体的なものとなっていたことだ。
  一方、モレスはアナーキストのグループとも交流をもっていた。たとえば、アナーキストの一人、リュシアン=パンジャン(Lucien Pemjean)に説得されて一八九〇年の春、二か月にわたって発行された新聞に援助金を出した。またルイーズ=ミシェル(Louise Michel)とともにアナーキスト集会に出席して、既存体制に対する全階級の団結を呼びかけた。一八九〇年四月には彼は「憲法と法典の民主的社会的改正」を力説し、約四万人のパリ失業者の大規模な示威集会に労働者や中産階級が参加するよう説いた。もちろん社会主義者たちはこのようなモレスの活動に猜疑の目を向け、彼に「素人の遊び人社会主義者(10)」と冷笑をあびせた。
  ではいわゆる「社会主義」思想そのものについての理解が一般に極めて不十分な状況で、モレスはどのような「社会主義」を構想していたのか(11)。「憲法改正派社会主義者」を自称していた彼の「社会主義」思想には明らかにルイ=ブランやプルードンの影響が見られた。一八九二年に発行されたパンフレット(『ロートシルト、ラヴァコールと会社』、『労働者信用制度と都市のストライキ』など)では金融資本主義、集中された産業と政治権力、イギリスとユダヤ人が激しく攻撃されている。彼の主張を概括すると、まず銀本位制の擁護がある。その理由として、フランスは大搾取者であるイギリスの金本位制に対して正直な農業諸国民に加担しうるからだと述べた。また労働者信用(銀行)システムの構想がある。彼の計算によると、労働者一人一人は軍役、租税、生産能力、購買力を合わせると国家に二二四、〇〇〇フラン投資したことになる。したがって、彼らには国立銀行からその五%にあたる五〇〇〇フランの貸付を受ける資格があるという。そこで労働組合は彼らに貸付けられた資金から必要な資金提供をうけ、組合銀行を設立する。それによって大株式会社を打倒して、フランスに分権化された健全な組合銀行システムと経済の再建を目指すのである(12)
  労働組合が主体となるモレス侯爵のこの経済改革案を荒唐無稽として退けることは簡単であろう。だが、彼の主張に見られる労働者の組織化と組織労働者による経済改革の視点や資本のくびきからの労働者の解放、彼の言葉を借りれば「現代の奴隷」を解放するという考えはまさに「社会主義」思想に不可欠な部分である。この意味からすれば、彼が「社会主義者」ではなかったとはいえない。
  問題はむしろ彼のナショナリズムにある。上述のシステムはフランスに「新しい国民的社会的統一」をもたらすことだけを狙ったものではない。それはフランスから外国人を排除して、「フランス人のためのフランス」の樹立を目指す、とモレスはいう(13)。思想的基調には排外的ナショナリズムがある。資本の支配に対して労働者階級の利益を擁護し、彼らの「国民」化を促進する統合構想は、ジレンマに突き当たる。東欧諸国から移民としてユダヤ人が流入する時期にあたって、国粋主義に訴える風潮が広がるなかで、モレスの「社会主義」的言説はこの国粋ナショナリズムの論理と相即不離であったため、「新しい国民的社会的統一」が強調されればされるほど排除の感情も激しくならざるをえない。
  以上がモレス侯爵の思想的素描であるが、その言動につねに暴力的契機がつきまとっていたことを見落としてはならない。たとえば、ある集会で彼はアメリカであればユダヤ人は数々の悪事のためにリンチにされたのに、フランスでは彼らに寛大だ、と言明した。また、決闘でユダヤ人陸軍大尉アルマン=メイエール(Armand Mayer)を殺した。ドレフュス事件の発生する二年前(一八九二年六月二三日)のことである。彼の私兵団の結成はこうした暴力容認の立場なしに考えられない。
  すなわち、彼は一八九〇年三月にフランス銀行の所在地とは一街区離れ、証券取引所とはわずかな距離のところに政治活動の拠点を設けた。それは「サンタンヌ街委員会」(Comite´ de rue Sainte-Anne)と呼ばれ、反ユダヤ主義者、アナーキストや新聞発行のための資金援助を期待する昔馴染みのブーランジェ派記者たち、また失業者らがそこに集まった。モレスは彼らにソンブレロと牧童用上着を支給したうえ、彼らを引き連れ近所の金融業者や株取引き業者を強請ったのである(14)。その行動における情熱がごろつきのような人間を集めた私兵団の結成にまでいたった事実は、後の歴史から考えると重要な意味をもっている。それはアクション・フランセーズの活動に見られた行動様式に通じるからである。
  モレスはいわば反逆児であり、それゆえ彼の人生はきわめて破天荒であり、特定の政治的立場に縛られていない。友人に書き残した言葉にこうある。「人生は行動を通じてのみ価値がある。もしも行動そのものが消滅すべきものとするなら、人生にとってはそれはかえって最悪だ(15)。」行動本位の立場とでも呼ぶべきこの信念のもとに反ユダヤ主義も社会主義もナショナルな感情も包摂されることになる。以上の略伝から判明するように、この強い信念が「国民社会主義」という新たな観念の形成に影響を及ぼしたことは認めねばならないだろう(16)。弔辞で述べられていたことから判明するようにバレスは全体としてモレスの思想と行動に賛辞を呈し、その行動様式には新しい観念として「ナショナリズム」と「社会主義」の結合があったことを明らかにした。これはまさに達見であった。しかしバレスによって「獅子のような」人物と形容され、その活動を礼賛されたモレス侯爵自身は行動の人であって、いわゆる思想家というにはほど遠い存在であった。
  モレスに意義を見出したバレスがこの生成しつつある思想の理論化に取り組むことになる。したがって後に刊行されるバレスの著作、すなわち『ナショナリズムの情景と理論』(Sce`nes et doctrines du nationalisme, 1902)には、「国民社会主義」と呼ばれる観念の形成過程が見出される。概して、この著作が「ナショナリズム」の視角から取り上げられ、論議されてきたことは確かだが、バレスとモレスとの思想的関連を考慮に入れると、その視角からのみ論じることは問題だといわねばならない。
  そこで次にバレスにおける労働者保護の主張とナショナリズムとの関連性に問題をしぼって検討してみよう。『ナショナリズムの情景と理論』には『ル・フィガロ』一八九三年五・六・七号の論文が収録されている。たとえば国民議会で一八九三年五月四ー六日にわたり行なわれた「フランスにおける外国人滞在の諸条件と国民の労働(Travail national)の保護について」の論議を踏まえて執筆された「国粋主義的感情」ではフランス労働者の保護と愛国感情が基調なる主張が見られる(17)
  いまそれを要約して紹介しよう。すなわち議会では、外国人の滞在条件が論議されているが、労働当局の統計によれば約一三〇万人の外国人がいる。彼らは様々な公務負担なしに生活し、わずか六五〇〇〇人の者が自分の収入で生活しているにすぎない。この膨大な外国人は毎年増加し彼らの雇用が問題となっているとき、当局には「無職のあるいは一時的労働で生活する多数のフランス労働者」に納得の行く説明がない。もちろんコルネリゥス=ヘルツやレーナックのような「国際派」(internationalistes)がいうように外国人を歓待するフランスの態度は立派だ。だがわが同胞はベットもなく路上にうずくまっている。だからこの精神を持ち出すなら、まず彼らを無料で泊めよう(18)
  ではなぜ外国人はフランスにやってくるのか。彼らはわれわれの仕事に「侵入」し、また医学部や重要な専門学校などを卒業して様々な自由職業につく(19)。彼らがフランスを好むのは二つの理由がある。すなわち兵役義務の負担がないこと、そしてよりよい生活、よりよい賃金がえられるからである。一方、「つつましい楽しみを望むわれわれフランス人たちは、家族とともにそこでは(北部、東部の産業地帯・・引用者)滅ぶだろう。」したがって「正義そのものが圧殺される(20)」という恐るべき矛盾が生じている。われわれは非常に洗練されたフランス文明から恩恵を受けている。その文明は労働者たちの協力のもとにはるか先まで押し進められた。だから彼らはこの努力に対して様々な物質的幸福を要求してきたのである。
  ついでバレスはフランスの労働者と関税保護主義の問題をとりあげ、外国との競争で苦境に立つ「国産の羊肉」や「国産のシーツ」の保護を訴える。そしてフランスにおける「このような外国人の侵入」を衝撃として受け止めない正統派の自由主義経済学者や集産主義的社会主義者を批判の俎上に載せるが、その議論の場合「祖国の観念」が導入される(21)。では「国内労働者の保護」はどのような論理によって展開されるか。彼によれば、祖国の観念はわれわれにはもっぱら耐え忍ぶ様々な負担や果たすべき強制労働として現われる。今日多くの労働者たちがその観念を無視するのは、結局、それが彼らに租税や兵役の形でしか提示されないからだ。国土や国民の財産を守るために彼らには時間や金や生命さえ要求される。また彼らは外国人によって国土が武力によらずに侵攻されるのを見る。一方彼ら自身が国土の一片の土地も所有しないのに、フランス法の保護のもとに外国人によって国富は独占されている。その上悲惨な状態にある労働者たちは、しばしばほとんど仕事を見出しえないのである。祖国の観念には外国人の肩をもってはならないという不平等なことが含まれているが、今日のように国民全体の肩をもってはならないということは含まれていないのである(22)
  こうして最後に、彼は外国軍の自国領土への軍事的侵略とその結果としての国民全体の抑圧という問題以上に外国人による「フランスの経済的征服」の事態を強調する。「軍服をまとわぬこれら征服者たち」は「富と権力」をもって「一年に一〇億フラン以上の賃金を巻き上げる(23)」と。
  そこでバレスは「ナショナリストの要求する立法的措置」として次のような提案をする。すなわち1.雇用者への課税。2.外国人への軍役賦課税。3.軍事施設建設労働からの外国人の排除。4.公的援助金の必要な外国人の排除である(24)
  以上の要約から明らかなようにバレスの主張は国益論を中心にしている。モレスと同様に外国人(ユダヤ人という言葉は使用されてはいないが、そこに彼らの存在が含意されている)の経済支配からフランスの労働者を擁護するという主張に、「祖国の観念」を導入したため経済的主張に政治的心情が接合され、全体として憂国感情が論調を覆う。そしてこの感情が彼の既存体制批判の立場を強めることはあっても弱めることはない。政府の唱導する「愛国心」を彼は逆手にとったといってよい。こうした現実政治への具体的な対応の過程を検討すれば、バレスのナショナリズムがいわゆる社会主義的な要素を取り込んで議論していたことが理解できる。
  バレスのナショナリズムについていえば、その思想構成の複合性と排他性の強調の他に、「民族本位の原理」(le Principe des nationalite´s)の主張に注目する必要がある。第二帝政末期にJ・シモンやJ・ファブルは国際主義こそフランス革命の帰結であると考え軍縮を主張していた。だがバレスはこの考えを反駁してフランス革命と愛国主義との結合を重視する。彼によれば、この革命が提示した自然権によってわれわれは歴史的契約から解放された。様々な契約や古い憲章から解放された人間は、唯一の論理に従い伝説や共通の生活基礎をもつ人々の間で自然に集まろうと決める。もはや戦闘や君侯たちの結婚契約や遺言によって彼らが引き渡されることは認められない。彼らは歴史的権利を自然権に取り替えた。その結果、同じ言葉を話す人々は近づき団結する。同一の言語や様々な共通の伝説があってはじめて民族なるものが構成されるのである(25)
  バレスはフランス革命後の新しい政治状況を国民(民族)形成の観点から据え直し、この国民の構成要素の一つとして労働者を位置づけていたと思われる。つまり「民族本位の原理」は革命から生じた諸成果をより古い歴史の古層として文化の土壌に定着させる論理として作用するのである。
  「国民社会主義」の理論的系譜からみれば、彼のナショナリズム論が重要な役割を果していたことと、そこに差別あるは排除の契機があったことは繰り返すまでもない(26)。だが、一方彼のいうナショナリズムそれ自体はその核心が本能の働きにある。「『フランス』とか『祖国』とかいう言葉は、われわれのような人間の心に突風で森に生じたざわめきのように意識の中でもともと結び合わされていた極めて数多くのものを呼び起こす。こうした言葉は、このような思想のつながりがもともとない人の場合には理解しようにもできない。これは知性に関わる問題ではない。彼らの精神がどんなに機敏でも、その精神がどんなに覚醒していても、彼らにはわれわれのように感じることはできないだろう。同じ本能、あえていうなら同じ身体で感じるもの(physiologie)のゆえに集まったのだ。だが、われわれの受けた教育や立場の相違のゆえにわれわれには理性でもってその本能を裏打ちする必要がある(27)。」
  それゆえ彼にとってナショナリズムとは単に政治的表現として存在べきものではない。それが真に永遠なるものすべてを追求しようとすれば、文学的表現としての存在、つまり文学的ナショナリズムも考えられる。彼が「死者」や「大地」という言葉に含意したものは歴史的遺物としての過去ではなくて、様々な伝説に彩られて持続されてきた記憶の回路であり、その回路から流れ出てくるまさにナショナルな感情ではなかったか。そしてこうした感情を「フランス」や「祖国」という言葉に強く結び付けた点にバレスの思想的役割があったといえよう。


(1)  L’ ・ uvre de Maurice Barre`s, annote´e par Philippe Barre`s, tome. V, Au Club d’Honne^te Homme, 1966.  Discour sur le cercuil de More`s pour demander vengeance (19 juillet 1896) p. 295.
(2)  Ibid., p. 296.
(3)  Cf. Robert F. Byrnes, More`s,”The First National Socialist.  The Review of Politics vol. 12, 1950, No. 3.  バーネスはモレスを最初の国民社会主義者と位置づけている。この評価はバレスの指摘を前提にしたものと思われる。またM・ヴィノックは反ユダヤ主義者をドリュモンと国民社会主義のフランス的根源の一つと指摘している。ヴィノック著川上・中谷監訳前掲書、一七六頁参照。
(4)  R. F. Byrnes, art., p. 344.
(5)  Cf. Pierre Pierrard, Juifs et catholiques francais, Les E´ditions du CERF, 1997. pp. 138-140.  パリのマドレーヌ寺院で行なわれた追悼ミサ(一八九七年六月九日)では親戚やドリュモンなど多くの民衆が参集したという。ibid., p. 140.
(6)  R. F. Byrnes, art., p. 347.
(7)  cited by R. F. Byrnes, p. 350.  一八八九年九月に設立された「反ユダヤ同盟」の設立者の一人としてモレスは名前を並べている。
(8)(9)  P. Pierrard, op. cit., p. 139.
(10)  R. F. Byrnes, art., p. 354.
(11)  Cf. G. de Bertier de Sauvigny, Liberalism, Nationalism and Socialism:the birth of three words, The Review of Politics, 1970, 32-2., p. 161 seq.  「社会主義」という言葉はリトレによれば、一八七〇年以降「様々の政治改革に依拠するこのシステムは社会改革のプランを提供する」と広く捉え、ラルースは、「統治システムで、基礎に様々の社会改革の全体をおく」と説明する。ibid., p. 164.サ
  この時期の憲法改正派の動向については Odile Rudelle, La Re´publique absolue, 1870-1889, Publications de la Sorbonne, 1982. p. 196 sqq.
(12)  R. F. Byrnes, art., p. 357.
(13)  cited by R. F. Byrnes, art., p. 358.  このようなモレスの考えは Rothschild, Ravachol et Companie (Paris, 1892), Le Cre´dit ouvrier et la gre`ve de l’urbaine (Paris, 1892)のパンフレットで表明されている。彼の言説の一部抜粋を収録したものとしてRaou1 Girardet, Le nationalisme francais, pp. 150-151, P. 166-167がある。彼はロートシルトを敵とみなし、また社会主義的見解を「フランスの労働者へ」で示している。
(14)  Ibid., p. 352.
(15)  Ibid., p. 361.
(16)  一八九〇年にモレスは「憲法改正派社会主義者」を自称し、一八九一年から九三年にかけて彼は「反ユダヤ的社会主義者」とみなされていた。
(17)  L’ ・ uvre de Maurice Barre`s tome V. pp. 407-424. バレスの政治行動については拙稿「M・バレスと二つの共和国像−議会制共和国か国民的共和国か−」(『立命館言語文化研究』第八巻第二号)五ー二一頁参照。
(18)  Ibid., p. 408.
(19)  フランス社会におけるユダヤ人の活動を具体的にE・ベンバサが示している。Cf. Esther Benbassa, Histoire des Juifs de France, E´ditions du Seuil, 1997, p. 176 sqq. 例えば学術分野ではソルボンヌ、コレージュ・ド・フランス、高等師範、理工科学校など。
(20)  Ibid., p. 410.
(21)  Ibid., p. 411.
(22)  「祖国の観念と国内労働者の保護」のテーマのもとで、バレスは自国労働者擁護を訴えた。idid., p. 412.
(23)  Ibid., p. 43.
(24)  Ibid., p. 414-416.
(25)  Ibid., p. 420.
(26)  バレスの社会主義的思想については差し当り「一九世紀末フランス・ナショナリズムの境位」(拙著『近代フランスの自由とナショナリズム』法律文化社、一九九六年)三二七頁以下参照。
(27)  L’ ・ uvre de Maurice Barre`s tomeV. cit., p. 116.


3.カトリック司祭の場合ー政治的反ユダヤ主義の組織化
  概してこの国ではカトリック教会の聖職者や一般信徒の間にユダヤ人に対する軽蔑や嫌悪が見られ、つとに宗教的・社会的反ユダヤ主義の傾向が指摘されていた。だがよく知られているように彼らの特定のユダヤ(人)観が政治的な意味をおびてくるのは一九世紀末になってからである(1)。中でもカトリック的社会集団において「聖母被昇天修道会」(Les Augustins de L’Assomption)とその会員(Assomptionnistes)が、偏見にみちたユダヤ人像の流布に積極的役割を果たしてゆく。そこで主要機関紙『ラ・クロワ(十字架)』の内容を手掛かりに保守的カトリックの思想と行動について検討してみよう(2)
  E・ダルゾン神父(Emmanuel d’Alzon, 1810-1880)によって一八六五年ニームに設立された「聖母被昇天修道会」は、大革命以後ばらばらになったカトリック教徒のあり方を不幸の元とみなし、その再統一を実現してキリスト教社会の再生・活性化を目指そうとした。この宗教団体にはいわば近代世界の再キリスト教化という壮大な使命があったといってよい。もちろんこの団体は、当初、小さな修道会の一つに過ぎなかったが、一八七〇年代のはじめに信者たちの宗教的覚醒をめざす一種の同盟、「救済のためのノートルダム協会」(l’Association Notre-Dame-du-Salut)を結成した。これを契機に運動は全国的規模に拡大する。
  修道会の活動として専ら道徳的側面への働き掛けが重視されていたとはいえ、実際に彼らが「神への祈りによってフランスの救済」を実現しようとしたため、様々な司教区の信徒会はその活動から刺激を受けることになる。また後に労働者階級への働き掛けも強め、パリに拠点を移して『正教出版』(La Bonne Presse)の名のもとに宣伝活動が展開される。この宗教団体の活動に寄与し、また反ユダヤ主義の醸成に一役買うことになるのがフランスにおける最初の絵入り週刊民衆紙の一つ『絵入り巡礼者』(Le Pelerin illustre´, 一八七七年六月第一号発行)やヴァンサン・ド・ポール=バイイ(Vincent de Paul Bailly, 1832-1912)が創刊した『ラ・クロワ』である(3)
  一八八〇年四月に月刊誌として発刊された『ラ・クロワ』は、『絵入り巡礼者』が農村向けであったのに対して、教養ある読者層を対象としていた。月刊誌の趣旨は極めて明白で、カトリックを擁護し、近代社会にあって公然と神の諸権利を主張することにあった。その主張の激しさはこの修道会の設立者、ダルゾン神父の一文から容易に窺える。すなわち「キリストの支配の代わりに、人はサタンの支配を求める(4)」。彼にとってこの世界は神と悪魔の戦い合う場として捉えられていたようだ。その後一八八三年六月から『ラ・クロワ』は日刊紙となり、徐々に購読者数を拡大してゆく(5)
  さてこの新聞に描かれたユダヤ人像とはどのようなものか。P・ソルランによると、『ラ・クロワ』には嫌悪すべき様々な論敵、すなわちイギリス人、フリーメーソン、プロテスタント、反教権主義者や社会主義者がいた。そしてユダヤ人もこのグループの一つに分類される。だがユダヤ人だけは概して大文字単数の「ユダヤ人」(Le Juif)、また「ユダヤ社会」として一般抽象的な表現で認識され、個々の具体的なユダヤ人(des Juifs)に関心が払われることはなかったといわれる(6)。つまり、この分類の中でもユダヤ人は例外的存在とみなされたのである。主な論説担当者ポール=バイイの場合、論題に「ユダヤ人たち」(Les Juifs)という複数形で表記された論説もあったが、概してユダヤ人たちは、単数表記で「ユダヤ人」として一括される存在となる。彼の場合、「ユダヤ人」はフランスという社会集団に異質なものという暗黙の前提があったように思われる。
  では『ラ・クロワ』はなぜ彼らを差別するのか。その答えはカトリック神学そのものに内在する宗教的反ユダヤ主義に淵源があって明らかに、「キリストを磔にした者」(=「神を殺した者」)(Les de´icides)という主張に基づく。その主張をポール=バイイの論理にしたがって示すと、こうなる。「われわれの信じるところではユダヤ人の問題は全く宗教的なものである。なにしろ世界のただなかで迫害されたユダヤ人種が存続するという秘密は宗教的には異様なことだからだ。様々なユダヤ人以外の国民の中で数世紀にわたり離散した民が幾つもの国境を越え共に行動すためにどうしてみずからのヘゲモニーをずっと保持しうるのか。ー中略ー一般的にはキリストと神殺しの民の問題にはこの事柄が決定的な影響をもつ。」(論説『神殺し』一八九五年五月二八日付(7))。
  「神殺しの民」という主張こそユダヤ人がその他の民族と差別される指標である。そしてイエスが十字架に掛けられたとき、神の民の分裂が生じ、一方は神の民としてローマ教会に、他方は「神殺しの民」となる。かつてポール=バイイは月刊誌『ラ・クロワ』の論説で、「ユダヤ人は救世主とその弟子たちの敵である」とまで論難していた(一八八一年六月)。したがってこの新聞の紙面で繰り返し描かれるユダヤ人像とは、カトリック教会に敵対する「キリストの敵としての人種」であり、「神殺しの民」となる。この認識がいかに偏見にみちたものであったとしても、それが広く信じられていたことに問題がある。聖職者の言動が社会的に大きな意味をもっていた社会だけに人種的偏見が助長されたことは間違いない。
  ポール=バイイの描くユダヤ人像の問題点を探れば、それは単に偏見の助長だけにあるのではない。「ユダヤ人にとってキリストの十字架像が恐怖の対象だ(8)」(一八八九年四月一六日付)と述べることで、彼は逆に彼らに恐怖心があることを強調した点だ。実際はカトリック教徒の間にユダヤ人に対する嫌悪や恐れがあった。つまり彼の場合、逆転した論理が反ユダヤ主義の核心といえる。彼の同僚ジケル・デ・トゥーシュ(Gicquel des Touches)は、この点を巧みに用いてユダヤ人のカトリック教会への攻撃はその憎悪の憂さ晴らしという論理に仕立て上げる。「ユダヤ人たちはカトリック教会に反抗することで自分たちの強い憎悪を静めるのだ・・」と(一八八九年一一月一〇日付(9))。カトリック教会に対する「恐怖」と「憎悪」の感情で塗り固められた「ユダヤ人」像とは、彼ら反ユダヤ主義者の観念の産物に他ならない。そしてその論理の行き着く先は「キリスト教社会」を破壊しようとする者となるのである。
  もちろんこの新聞はユダヤ人の優れた能力にも関心を払っている。『ラ・クロワ』の論説でポール=バイイは創造主がユダヤ人に特例的な諸才能を賦与されたことを認め、彼らには「知性や活動や一徹さにおいて」(一八八九年六月二九日付(10))その他の民族に勝る能力があるという。だがこうした諸能力はユダヤ人がみずから金持ちになるために利用され、その目的からみれば全く外れた利用法に他ならない。P・ソルランによれば、ドレフュス事件が勃発した一八九四年以降『正教出版』による刊行物はユダヤ人の長所につてあまり語らないのである(11)
  さて、E・ドリュモンの場合、生物学的人種としての「ユダヤ人」像が精神医学の「成果」と結合された結果、彼の反ユダヤ主義は人種論議をまきこんで広がってゆく。一方、聖母被昇天修道会会員の場合、まず彼らのユダヤ教についての見方が反ユダヤ主義を受容する回路となっている。その見方は極めて単純であるといってよい。すなわちイエスを十字架に掛けたこの民の宗教とは「呪われた宗教」であって、ユダヤ人には「聖なる呪」がかけられている。彼らは神殺しとその呪をかけられた日から人間としての値打ちを失ったのだ。こうした言説の典拠はいうまでもなく聖書の有名な一節、マタイの福音書第二七節「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかてもよい」にある。つまり、宗教の次元においてユダヤ教が一種の反キリスト教として分類されていたこと、この問題は一修道会の域を越えてカトリック社会に反ユダヤ主義へと傾斜する土壌があったことを示している。
  だが、P・ソルランが詳細に検討したようにこの修道会会員の中ではユダヤ教への態度は両価的であったが、政治的社会的状況の変化に対応してその態度は硬直化してゆくのである。等しく宗教と捉えれば、彼らにユダヤ教の信者への批判にためらいがあっても不思議なことではない。彼らの間ではユダヤ教に帰依する「善良なユダヤ人」とキリスト教に対する憎悪だけに駆られる「悪しきユダヤ人」との区別を前提にして、一般的にいえば「誠実なユダヤ人たち」はラビの教えに従うが、そのことが彼らをどこに導くのか分からずに、普段の彼らの場合では平穏に宗教的な勤めを行なっている、と考えられていた。ところが、ポール=バイイのように「ユダヤの陰謀」を論拠にこの宗教を憎む者もいた。彼の語ることを要約するとこうなる。すなわちユダヤ人はキリスト教に敵対する宗教を進んで組織し、カバラとタルムードの前にひれ伏し、秘密結社を作る。彼らは自分たちの寺院があったイエルサレムを奪われたとみなし、このイエルサレムを寡婦に見立てた。そこで『寡婦の息子たち』(Fils de la Veuve)と呼ばれる秘密結社がつくられる。こうして「サタンはシナゴーグの指導者として姿を現わした」とか「この結社の目的はイエス=キリストの王国を打倒することにある(12)」(『ユダヤの陰謀』一八九八年三月二九日付)という荒唐無稽な論説が紙面を賑すことになる。
  では『ラ・クロワ』では反ユダヤ主義論のテーマの一つである「人種」論はどのように考えられていたのか。この新聞では「ユダヤ民族」(peuple juif)と「ユダヤ人種」(race juif)とは概して混同して用いられており、E・ドリュモンのようにセム人とアーリア人との対立を前面に押し出した議論は多くない。この視点から見た場合、新聞論説者たちの見方はむしろ抑制的といってよい。たとえば、タルヂ・ド・モワドレイ(Tardif de Moidrey)はいう。「セム人としてユダヤ人たちがあらゆる種類の身体的障害や悪習をもち、生来的に様々な身体的障害に苦しむ劣等な人種であるという必要はない(13)」(一八九六年五月一九日付)と。彼はこの人種にはアブラハムやヤコブらの血が流れており、それゆえすべての中から「救世主」はこの人種を選ばれたと説明している。P・ソルランによれば、この新聞では「人種」という言葉は使われたが、「民族」という言葉とそれは混同して用いられたため、その使用頻度は徐々に減ってゆく(14)。恐らく宗教的反ユダヤ主義の立場に立ってこの新聞がユダヤの民に「神殺し」の烙印を押した以上、当時の「科学的」論拠と見なされた「人種」論によってあえて「ユダヤ人」を非難する必要がなかったのではないだろうか。
  ところで『ラ・クロワ』はドレフュス事件をどのように論評したのか。その特徴について簡単に触れておこう。新聞論調に見られる一般的な特徴としてドレフュス大尉の裏切りの糾弾や軍隊への崇拝が挙げられる。注目すべき点は、ドレフュス事件が神慮との関連性において捉えられていたことにある。それはわれわれにフランス革命を神の摂理とみなし、下劣な手段を用いてでも神意が実現されると理解して革命の罪状を捉えた伝統主義の考えを想起させる。『ラ・クロワ』でのポール=バイイの論説では、ドレフュスの逮捕を神の加護とみる発想をはじめ、キリストを裏切ったユダにドレフュス自身を重ね、彼への憎悪を広く市民権を獲得したユダヤ市民一般に拡大していることが読み取れる。また公務についていたユダヤ市民を等し並みにスパイ呼わりして、その摘発を要請している(15)。ともあれ彼の主張を貫く論理とは愛国感情を基礎にした憎悪と排除を結ぶ黒い線に他ならない。
  ちなみにこのようなカトリック聖職者の反ユダヤ的言動が地方における宗教行事に少なくとも影響を及ぼしていたことは次の事例が示している。サヴォワ県の山岳部にあるサン=ジャン・ド・モリエンヌでは一人のユダヤ人しかいなかった。にもかかわらずこの町で行なわれた謝肉祭最後の日にあたる告解火曜日(一八九八年二月)の祭礼の行列は反ユダヤのデモに取って代わられ、人々は「ゾラ=ユダヤ人」をかたどった人形を掲げて行進した。むろん地方紙『ラ・クロワ・ド・サヴォワ』がこの行進に参加するよう読者に呼びかけた、といわれている(16)
  総じてこれらの新聞では感情的な側面が先走り、論理があとを追う形になっている。だが多くの聖職者や信徒たちがこうした新聞論調に同調したことを考慮すれば、彼らの情念だけで説明することは誹りを免れない。カトリック側に立てば、共和政府の進める政教分離政策、とりわけ修道会組織に対する敵対的姿勢が彼らの感情を刺激し続けていたことは指摘しなければならない。たとえば、ドリュモンが『ユダヤ人のフランス』を出版した年に、初等教育から聖職者を全く排除するゴブレ法(一八八六年一〇月三〇日付)が制定されている。彼らの宗教についての危機意識はすでにアルベール・ド・マンによって見事に表明されていたのである(17)。彼が一八八一年五月ヴァンヌで行なった講演はドリュモンの過剰なまでの社会的崩壊の意識=「カタストロフ」と一脈相通じるものがある。まさにドリュモンはこの「カタストロフ」の因果関係を人々に説明したのである。そしてその因果関係の説明をたどれば、人々はユダヤに行き着く。この独断的説明に納得した人々の意識はそれほど単純ではない。また、彼らの意識に働きかける反ユダヤ主義団体の活動がある。
  そこでわれわれは思想団体の動きに目をむけねばならない。事例としてカトリック反ユダヤ主義団体の一つ『リュニオン・ナショナル』(L’Union nationale)を取り上げ、その思想的特色と役割について検討してみよう。世紀末に反ユダヤ主義運動団体とみなされるグループはナショナリズム関連を含めると、一〇以上になる(18)。元来反ユダヤ主義はあらゆる姿に変身できる海神、「プロテウスのようなもの(19)」といわれている。その中で『リュニオン・ナショナル』はその典型とみてよい。そしてこの団体においてもすでに指摘した二つの傾向、すなわちナショナリズムと「社会主義」とが反ユダヤ的感情を媒介にして結びついていたのが分る。
  カトリック神父テオドル=ガルニエ(Teodore Garnier, 1850-1920)は、すでにノートルダム寺院の説教壇から宗教、国民、家族、繁栄の四原則に基づく〈ユニオン・ナショナル〉と呼ばれる団体のための活動を訴えていた(一八八五年(20))。その後彼の手によって日刊新聞『ル・プープル・フランセー』が一八九三年に発刊されると、この名称のもとに活動していたいくつかのグループが連係をとり一つの緩い様々な傾向と立場もつ集合体が形成される。彼の協力者ロザ神父の言葉によれば、その団体を構成する集団は「制服も定まった計画」もない単なる人道的な婦人たちのサークル、親しい友人たちのグループ、協同的な人民信用組織、また日曜労働に反対する同盟などである。そして、様々な慈善事業で活動する場合に、その中心グループとなるとき、また政治活動を目的とする場合に、その核となるとき、さらには宗教上の研究や精神的修養のためのグループをつくったときには、以前に用いられていた〈ユニオン・ナショナル〉の標識がそれぞれの集団に付けられたという(21)
  テオドル=ガルニエの発案で組織体となる『リュニオン・ナショナル』の全体的な特徴を考えてみると、まずこの団体の実態が極めて日常の生活に密着しものであること、活動は多面的で、それぞれの分野で主要な役割を果たす場合に、団体の存在を「標識」などでアッピールしたことが注目される。次にこれらのグループを全体として統合するものとして『リュニオン・ナショナル』が存在する。まさにこの運動の社会的拡大が「ナショナル」という言葉に含意されていたといえる。
  だが、組織全体が緩やかなものであっただけに、たとえばリーダーのガルニエ神父がそれぞれ歴訪したグループを去ると、寄り合い的なグループ・団体では自然消滅する傾向が見られたのである。さらに大会参加者の規模と組織性が注目される。パリでの一八九五年度全国大会と翌年のリヨンでの大会では、二〇〇〇人以上の人々が参加したといわれ、また一八九五年には青年組織『ラ・ジュネス・ド・リュニオン・ナショナル』が設立された。一八九八年には三五県とパリの二つの区を除くすべてに「ユニオン・ナショナル」委員会が設置された。パリ警視庁はこの同盟の動向に注目しており、かなりの動員力をもつ勢力団体として位置づけていたのである(22)
  反ユダヤ主義的思想の拡大がこうしたカトリック団体を通じて進められたことに注目しておきたい。その一例として中央委員会が配布したビラを紹介しておこう。「ユダヤのところでは決して買うな。フランス全体はフランス人のものであらねばならない。フランス人は追い出せるものなら祖国からユダヤ人たちを追い出したいのだ」(一八九六年九月二四日付(23))。
  ではこの同盟はなぜ激烈な反ユダヤ主義の側面をもつのか。それは同盟の活動目標と密接に関わる。すなわち、第一にキリスト教の再興によって衰退と腐敗のフランス社会を救済すること、第二に「社会改革」の側面に教会の喚起を促し社会的勢力としてのカトリック教会の支援のもとに「デカダンス」を押し止めることにある。同盟の「総則」に謳われたように彼らは「もしもフランスが唯一福音書に再びもどるなら、フランスは救われる(24)」と確信していた。宗教から来る憂国感情と社会改良の意志あるいは情熱がユダヤ人を排斥し敵とみなすことで一層掻き立てられる。こうして同盟は、ときの経過とともに労働者や貧困の生活改善に必要な諸問題に関心を注ぎ、また「万人の権利の尊重や雇用者と労働者との関係改善によって労働世界の平穏を回復すること」(「総則(25)」)に則って活動を展開してゆく。
  同盟の論理に即して考えれば、彼らの主張は神とカトリック教会ーフランス社会ー労働民衆の線でつなぐことができる。そして教会勢力の支持をえて社会改革に着手する取組みとはこの論理の具体化に他ならない(26)。概して反ユダヤ主義の思想と運動が論じられる場合、その情念の激烈さに目を奪われ、伝統的カトリシズムのもつ多面性の認識やその社会面が近代化の生み出す矛盾に対応してゆく過程は見落とされやすい。同盟の活動に見られたようにこの側面の意味を把握しないと、フランス反ユダヤ主義の特徴は浮き彫りにできないだろう。つまり保守的カトリックの両価性のもつダイナミズムが強く作用している点への注目である。保守的カトリックの場合、反ユダヤ感情が社会問題への関心や伝統主義史観の見方と混交している。メーストルを想起すれば明らかなように、彼らは独自の史観でもって事件を見る。フランス革命が神の摂理によるもので、その下劣な手段や罪状でさえ神意を実現するためのものと解釈する神学的歴史観である。それと通底する見方がドレフュス事件の際に見られたことはすでに触れた。
  すでに、E・ウェバーが詳細に考察したように「司祭のヘゲモニー」のもとに展開される「カトリック的民衆主義」が一九世紀末社会に及ぼした影響の解明を急がねばならない(27)。この力によって反ユダヤ主義が助長されたことは疑いえないからである。


(1)  Cf. Antole Leroy-Beaulieu, Juifs et L’Antise´mitisme, Revue des Deux Mondes, 1891, No. 103, pp. 773-813. ユダヤ人に対する憎悪は、反キリスト教的本能から生まれるとみている。ibid., art., p. 780.
(2)  以下の考察では Pierre Sorlin, La Croix et les Juifs (1880-1899), contribution a` l’histoire de l’antise´mitisme contemporain, E´ditions Bernard Grasset, 1967 に依拠している。
(3)  『ラ・クロワ』新聞の創刊者ヴァンサン・ド・ポール=バイイには同じ反ユダヤ主義の立場に立つ弟のエマニュエル=バイイがいた。
(4)  La Croix No 1, avril 1880. P. Sorlin, op. cit., p. 30. また同年七月号ではP.ダルゾンはいう。「サタンの支配を求める結果、人間は世界から神を追放するという唯一の観念に至るにちがいない。急進主義、社会主義、虚無主義は、ニュアンスの相違はあるが、いたるところ同じ原理に立っている。すなわち、サタンの支配が神の王国の中に打ち立てられている。」ibid., p. 248, note 101.
(5)  この新聞紙上で反ユダヤ主義の論調が高まる一八八九ー九三年には約一七万部発行。フランス北部、リール地域では多くの購読者がいた。定期購読者の大口は聖職者で論説担当者の一人ピカール神父の計算では一八九六年に約二五〇〇人いたといわれる。ibid., p. 46.
(6)  Ibid., pp. 131-132.
(7)  Ibid., p. 132.
(8)(9)  Ibid., p. 134. 彼らの言説を「被害妄想」の病理で捉えることは可能である。反教権主義も逆の立場から同じ行動に走っている点は注目しなければならない。cf. Jan Goldstein, The Hysteria Diagnosis and the Politics of Anti clericalism in Late Nineteenth-Century France, Journal of Modern History, juin 1982, vol. 54, No.2. pp. 209 seq.
(10)(11)  Ibid., p. 133.
(12)  Ibid., p. 138.
(13)  Ibid., p. 161.
(14)  Ibid., p. 162.
(15)  『ラ・クロワ』新聞掲載のドレフュス事件の記事。「周知のように様々な金融機関同様、行政組織も軍隊も司法官も外国人たちで混雑している。世界を股にかけたユダヤ人はお互いにキリスト教諸国民を獲得しようと押し合っている。天祐によってユダヤ人、大尉ドレフュスは逮捕された。陸軍省の事務局に忍び込んだ彼は動員計画書などを盗み、それを外国人に郵送した。しかもフランス将官全体の名簿を自ら外国のスパイに手渡した。彼はフランスを裏切るユダヤの敵兵だ。われわれの中にユダヤ社会を取り囲む秘密のほとんど目に見えない様々の防御物があったにもかかわらず彼は逮捕された。」P. Pierrard, op. cit., p. 93.
(16)  Cf. P. Pierrard, op. cit., p. 100.
(17)  Cf. P. Pierrard, op. pp. 97-98.「われわれは滅びる。これは事実だ・・(そうだ、そうだ、全くその通り)また善き市民すべての不安の叫びでもある。われらの信仰の破壊によって、神なき教育によってわれわれの様々の財政面での浪費によって、行政機関の乱れによって、経済的危機によってわれわれは滅びる。こういったことを信じるものはもっとも臆病なものやもっとも無関心なものの中にだれもいない。またその中には仕事や遊びの後で自分の家に帰り、苦痛や怒りや落胆のこもった調子でわれわれは滅ぶと繰り返すものはだれもいない。さて諸君、私についていえば、このフランスが墓となろうとその上に座ることには同意しない。(ブラボー、長い拍手)。」
(18)  Bertrand Joly, Les Antidreyfusards avant Dreyfus, Revue d’histoire moderne et contemporaine, 39-2, avril-juin 1992. p. 212.
(19)  B. Joly, art. p. 200.
(20)  Cf. Stephen Wilson, Catholic Populism in France at the time of the Dreyfus Affair:The Union Nationale, Journal of Contemporary History, october 1975. pp. 667-705.
(21)  S. Wilson, art., cit., p. 669.
(22)  Ibid., pp. 670-671.
(23)  B. Joly, art., p. 204. また S. Wilson, art., p. 672.
(24)  S. Wilson, art., cit., p. 674.
(25)  Ibid., p. 675.
(26)  カトリシズムと農村社会との関係は一九世紀末以降大きく変化してゆく。「リュニオン・ナショナル』の動きも大局的にはこの変化の中で捉えることができる。カトリシズムの近代社会への統合の側面を分析した論考として槙原茂「カトリシスムと農村社会−世紀転換期フランスにおけるヘゲモニーの位相−」(岡本明編著『支配の文化史』、ミネルヴァ書房、一九九七年)二三一頁以下がある。
(27)  Cf. Eugen Weber, Peasants into Frenchmen, The Modernization of Rural France 1870-1914, Stanford Univ. Press, 1976. p. 357 seq. 谷川稔他編『規範としての文化』(平凡社、一九九〇年)、三九頁以下参照。



お  わ  り  に


  議会共和制国家への制度的定着が進む一九世紀末フランス社会では、知識人にもブルジョワにもカトリック聖職者にも一様に強い愛国感情が見られた。その契機にドイツへの敗北があったことは確かだが、他方で共和政府が愛国心を鼓吹したことも大きな要因といえる。とくに国家の再建と共和政体の確立が主要課題となるこの時期に、国家統一のイデオロギー的要としてナショナリズムが利用されたことはよく知られている。そして彼らの言説はこの体制の文化ナショナリズムの枠組みに条件づけられる場合、重要なことは言説を支える情熱がどの程度認識されていたかにある。問題は政治的情熱である愛国心(祖国愛)と反ユダヤ主義や「社会主義」との間に見られる負の感情(ルサンチマン)による人々の共同性と親和性にある。この負の親和性が世紀末の様々な事件をとおして強化され、排他的ナショナリズムを生み出していくことになる。ルナンの場合、省察から生み出された知的道徳的改善の提唱や「国民とは何か」の講演はまさに愛国感情から発せられたことは明らかであった。反ユダヤ主義の立場を標榜したドリュモンやバレスやモレスの言説にも愛国心への発露があって、それが労働民衆の生活救済と表裏一体となっている。さらに保守的カトリックの社会問題への関心は、教皇レオ一三世の回勅「新情勢」(一八九一年)が発せられる以前にすでに反ユダヤ感情と共に広がっていた。
  民衆意識の次元では、反ユダヤ的聖職者の働きかけによるものであれ、民衆自身の直接的生活体験からくるものであれ、彼らが抱く社会不安の根源を説明してくれる物語が求められていたのではないか。というのは社会が文明化され、社会進歩が叫ばれる割りには、一般民衆の生活状態の改善は進まず、逆に議会政治の腐敗や上層階級のスキャンダルがつぎつぎと露呈されたからである。なるほどドリュモンがこの混沌を「デカダンス」と見立て、その原因としての「ユダヤ人」や「フリーメーソン」などの暗躍の図式でもって答えたことは周知のことだ。また神意による懲罰、善悪の対立を中心に展開される二元論的神学的歴史観が簡便な形で教会の説教壇などを通じて繰り返し説かれていた事実は看過できない。民衆の負の情念の広がりを取り上げた場合、その要因に眼前に展開される「富裕なもの」による「金権政治」に対する憤懣があったことは疑いえないが、同時に聖職者たちの強い宗教的信念や使命感がこの情熱念を掻き立てたことは想像に難くない。反ユダヤ感情を基底にした排他的ナショナリズムは社会の差異構造にその根源が求められるだけに根は深い。
  したがってこうした負の感情の共同性と親和性のもとに形成される排他的ナショナリズムについてヴィノックのいうような「開かれたナショナリズム」と「閉ざされたナショナリズム」の二分法では十分説明できないのではないか。排他的ナショナリズムが批判の対象としたブルジョワ議会共和国の国民化政策と、このナショナリズムを醸成する「カトリック的民衆主義」の意識構造との関連性の解明が必要であろう。