立命館法学  一九九七年六号(二五六号)一五三一頁(三一九頁)




企業の社会的責



梁 東錫

徐   聖治(共訳)
多木 誠一郎







    目    次
一  序      論
二  米国における社会的責任論に関する議論
  1  学説の展開
  2  最近の動向
三  企業の社会的責任
  1  意義及び性質
  2  主体及び客体
  3  内容及び限界
四  企業の社会的責任と意思決定・監督
  1  意思決定・監督とその限界
  2  望ましい意思決定・監督の形態
五  結      論




一  序      論


  企業の社会的責任につき議論され始めたのは一九三〇年代初めの米国においてであり、日本及び韓国においては一九七〇年代に入ってからこれについて活発に議論されるようになった。第二次世界大戦後における経済の急速な成長と社会状況の変化により、企業に対する従来の期待とは異なる新たな視点から批判・攻撃が加えられるようになった。しかし当時、企業の社会的責任についてはその概念や範囲が明確ではなかったのみならず、株式会社法体系において企業の社会的責任をどう具現すべきかについても曖昧なのが実情であった。
  今日、株式会社は我々の経済組織の中で非常に重要な役割を果たしている。〔すなわち〕(訳注1)従来と同様の生産活動の展開、利潤の追求、生産性向上等の役割のみならず、大企業が社会的機関として登場し社会福祉問題にも積極的に参与する役割を果たすようになった。してみれば、今日の株式会社は一種の公共機関類似の性格を有するようになり、その維持及び健全な経営は国家社会的に大きな関心事となっている(1)。そして国民個々人の生活領域においても、大企業の活動は国民的関心事となっている。
  しかし最近では、自身のみの利潤追求、独善的経営及び政経癒着という特殊な状況により様々な反社会的な利潤追求を企業が先頭に立って行うようになった。その結果、脱税、密輸、株価操作、手抜き工事〈不實工事〉(訳注1)、産業公害等の問題が引き起こされた。また、〔企業は〕少数株主を抑圧したり労働者及び債権者を十分保護できず、消費者までをも害する機関に転落した。更に、労働者も責任ある行動をとらないため会社の倒産が加速し、それにより誠実さに欠ける経営〈不實経営〉がより一層行われるようになっているのが実情である。それだけではなく世界のいかなる国にも類例を見出すのが困難な、企業に纏わる大規模の不祥事〈不條理〉・事故及び手抜き工事が最近多発している。聖水大橋・三豊百貨店の崩壊、地下鉄工事現場の事故、旅客船の沈没以外にも徳山・起亜・韓宝グループの倒産・不祥事がさめやらぬまま、建国以来最大の工事といわれる高速電鉄工事の手抜き工事に関するニュースに接すると、もはや驚愕の次元を越え企業に対する考え方及び哲学を変更しなければならず、企業組織に改革を加える時期が来ていると思わざるをえない。したがって、米国のような国ではすでに約七〇年前から議論されており、韓国及び日本においても約三〇年前から議論され始めた、企業の病理的現状に対する予防策及び解決策としての企業の社会的責任について再論せざるをえない。
  このような企業の社会的責任論についてはその起源や観点により様々な立場と見解がありうるが、本稿では法律的側面特に商法的観点から問題を取扱うことに重点を置き、解釈論・立法論を通して商法上の理論定立を行おうと思う。私は、Corporate Governance について別稿で特に論じたこともあるが(2)、消費者、労働者、地域住民、環境問題、政治活動問題等と関連する企業倫理を、もはや企業の社会的責任の基本的課題としてのみではなく実践的課題として確立しようと思う。
  本稿では、企業の社会的責任に関する概念及び内容をより明確にしたうえで、現代的課題を明らかにし立法論として提案を行う。そのために米国法上の議論をまず整理し、〔次に〕その概念・性質・内容、並びに企業の意思決定及び監視・監督上の従来の問題点〔について考察し〕、最後にその発展方向を模索してみよう。

二  米国における社会的責任論に関する議論


1  学説の展開
  一九三〇年代前半「取締役〈理事〉は誰の受託者か」という問題に対し、会社の権力は株主の信託によるものであるとする見解と、会社の権力は社会全体の信託によるものであるとする見解があった。この問題は会社の「責任」に関する問題において、現代でも依然として中核を成している(3)。このような意味において、Berle=Means は現在でも無視できない存在となっている。現代の会社における経営者主義といわれる新たな理論、及びそれに基づき「利益創出機能とともに社会的奉仕機能を有する経済的機構」にならなければならないという新たな目標を、Berle=Means の遺産は(4)現代の会社法においても追求するのである(5)
  企業の社会的責任をどのように把握するのかにつき、Berle=Means の経営者主義によると社会的責任のメカニズムは資本集中そのもの、すなわち現代の会社及びその支配者の活動の中に見出される。これに対し、Friedman や Hayek は「会社経営における社会的責任とは、利潤を増加させることである(6)」という。しかし現在では、「Friedman の法則」にしたがい当該理論に今更後戻りしてはならない。とはいうものの、当該法則を否定するたけで会社法の構造的問題を解決できるのではない(7)。現在でも利潤極大化を主張し、私的セクター〈範疇〉に属する会社についての社会的義務の観念を「純粋で完全な社会主義」と非難する古典的学説もある。しかし、社会的に望ましいことを理由に法的には委任されていない行為に対し対価なく費用を負担するという意味で、ある程度社会的責任という概念を多くの学者は受け入れている。Friedman の支持者でさえも「社会的責任」により行われた会社の行為という要素を認め、それらを「社会的費用」として利潤極大化の立場に合致させている。そこでは社会奉仕、慈善事業、従業員の福利及び環境事業における会社の活動は、長期的な意味で会社と株主に対する利潤を発生させ、比較的費用のかからない方法により社会的規範に適合させる実験として把握することにより軟着陸が試みられた。その上「会社の博愛主義」は、投資の多角化を伴う資本主義経済システムを維持するために不可決であると主張された(8)
  ともかく、責任という問題を法的に解決する方法を模索するのは容易ではなかった。Eisenberg は株主の権限及び能力を強化し、その目的を達成しようとした。株主が社会的活動と法的活動を結びつけることに表面的な効果があるのかどうかはわからないが、会社の責任を構造的に変更する成果は期待できなかった(9)。例えば環境に対し関心を有する株主を合理的かつ倫理的な投資者と米国の裁判所が認めていることは承認すべきであるが、それにより更に多くの問題が引き起こされるかもしれない(10)
  また一方では、株主から従業員、原料供給者、卸売業者等にまで拡大された「構成員」を有する「依頼人集団の参加」を法律によりもたらすという計画により、多面的な利害関係者を有する取締役会という構想を〔Eisenberg は〕提起した。しかし、このような制度では裁判所は取締役の経営判断に敬意を表するであろうが、実際上は諸利益の合理的な均衡について判断し会社の政策を監督することを要求されるようになるであろう。〔しかし〕そのようなことは裁判所の任務ではないといえるであろう。
  米国では比較的最近、取締役会の構成についての改革に関心が集まっている。米国の会社の取締役会には、相当多くの「非常勤(non−executive)」取締役又は「社外(outside)」取締役が存在する。会社の政治献金等の scandal が明らかになった一九七四年から一九七七年まで、社外取締役の増加、及び監査委員会・公共政策委員会の設置という要求が再三なされたことは当然である。一九七七年以降、経営者の「清廉」を確保するため上記要求に沿った改革の拡大〈開始●擴大〉をSECは要求したが、大きな成果は得られなかった(11)
  このように、SEC長官 Hills は経営者を監視し変化させるため独立した人物が取締役会に入ることを要求した(12)。Stone は、取締役会の改革のため最も特異 な 連邦機関から取締役を任命することを主張した(13)。しかし、ユニオンパシフィック鉄道において経験した少数政府取締役(minority government directors)制度はそれほど成功したとはいえない。また、最も穏健な方策として裁判所により任命される、より思慮深い行為を促すための特別公益取締役(special public directors)制度を Stone は提案した。しかし、ここでは何が「公」であり何が「私」であるかを区別しなければならないという問題に直面する(14)
  Nadder 等は、利害関係者又は依頼人の代表という視点から取締役会の大改革を提案した(15)。彼らが計画した九人の取締役会の構成員は、従業員の福利厚生、消費者、環境・共同社会、株主、法の執行、マーケティング、財務、計画調査そして経営の領域を代表する。しかし、Nadder の目的とするところは公益のために行動する企業経営者の社会的責任に依存するのみでは達成しえず、株主、従業員、消費者、納税者及び近隣共同社会の法的権利を強化するものとして社会的責任が理解されている。
  Nadder のいう多層的な利害関係者による取締役会(multi constituency board)に対しては、取締役会の利害対立を解決する指針がないとの批判があった。これでは会社を通じ株主に責任を負わせる(あるいは米国では直接株主に責任を負わせる)伝統的な「信認義務」が元来のようには残っていない。したがって、会社経営者の裁量を減少させるというより増加させる方向に導かれる(16)

2  最近の動向
  アメリカ法律協会(ALI)の Corporate Governance の原理分析と勧告の第二・〇一条(Principles of Corporate Governance:Analysis and Recommendations (訳注2) § 2.01)は以下のように規定している。
  会社は、会社の利潤及び株主の利益を増加させようとする観点から営業活動を行わなければならない((a)項)とし、会社の基本的目的が営利追求であることをまず明らかにする。しかし会社の利潤及び株主の利益が〔そのために〕増加させられない場合でも、自然人と同様に法が定める範囲内で行為する義務を負う((b)項(1)号)とし、法律に違反してまでも利益を追求してはならないと規定している。また営利目的に反する事実〈事實〉についても、責任ある営業活動にとり適切であると合理的にみなされる倫理上の考慮を加えることができる((b)項(2)号)。そして、会社は公共の福祉、〔人道上、〕教育上及び慈善の目的に合理的な額の資産を充てることを妨げられてはならない((b)項(3)号)、と。会社は経済制度と同様社会制度であるため経済目的の追求は社会的規範(imperative)によって制限されるべきであり、社会的必要に応じて限定されることがあるという認識をこれら諸規定は反映したものである。(b)項(3)号が規定する諸目的のために使用される資産が合理的か否かは、当該事例の状況全体により決定される。当該状況において考慮されるべき重要な要素には、収益・資産が同程度の会社において資産が当該目的のために寄付される慣習的な水準、及び会社資産の使用と営業との関連性があるとされる。
  次に、米国各州の制定法は取締役会の構成について現在も特に規定を設けていない。しかし、ニューヨーク証券取引所は経営者から独立した最低二人以上の取締役を要求している。アメリカン証券取引所も最低二人の独立した取締役を置くよう勧告している。ALIの Corporate Governance の原理分析と勧告の第三A・〇一条は、すべての大規模会社の取締役会は〔その会社の〕上級執行役員と特別な関係を有しない取締役が過半数を占めなければならない、と会社実務に対し勧告している。各種資料によると、第三A・〇一条に表現されている諸概念は実務において安定的な支持をえ始めていることが明かである(17)。第三A・〇一条にいう取締役会は、経営者の行為についての客観的評価に資するよう構成されなければならないという考え方を反映したものである。更に、ALIの Corporate Governance の原理分析と勧告の第三・〇五条は、以下のように規定している。すべての大規模公開会社は取締役会の監督機能を補充し、かつ補助するため監査委員会を設置しなければならない。同委員会は少なくとも三人の委員から構成され、その会社の上級執行役員と特別な関係を有しない委員を少なくとも過半数含まなければならない。また、実際に会社に雇用されておらず、かつ直近の過去二年内においても会社に雇用されていなかった取締役により構成されなければならない、と。
  また、米国の州会社法では企業買収(M&A)に対する防衛策がどの範囲で適法であるのかという問題が契機となり、何が会社にとって最善の利益であるかのかを経営者が判断する際、株主の利益に加え従業員、供給者、顧客及び地域住民に対する影響をも考慮できると明文により定めることが増加している(18)。これら州法では株主以外の他の集団の利益は、それが株主の長期的利益を著しく害しない範囲で考慮できるとする。そこでALIの Corporate Governance の原理分析と勧告の第六・〇二条は、敵対的公開買収に関する原則として以下のように定めている。合理的対応である場合に限り、取締役は対抗手段をとることができる((a)項)。合理性の判断基準として、会社及び株主の最善の利益を原則的には考慮できる((b)項(1)号)。また株主の長期的利益を著しく害しない範囲で、株主以外の諸集団の利益を付加的に考慮できる(同(2)号(19))、と。これらの規定はM&Aという局面で取締役の社会的責任を一定限度内で認めるが、経営判断の原則の範囲内での自由裁量権の問題として把握されているため、経営者の行動を正当化する範囲を広げるために利用される場合が多くなるであろう。

三  企業の社会的責任


1  意義及び性質
  企業の社会的責任論が台頭し始めた当時、それは企業家個人の道徳や倫理問題としてであり、企業自体に対する関心が表明されたのではなかった。しかし一九五〇年代に入ってからは、企業家についての単なる道徳的問題や経営者の経営理念の問題ではなく、現代社会において企業に課せられた役割及び地位という観点からそれが検討された。特に経営学者である Drucker や Eells 等はこの問題を実践的課題として検討するようになった(20)
  韓国においても、一九六〇年代の産業公害問題、一九七〇年代の oil shock や企業による買占め・売惜しみ等企業の反社会的行為が社会の批判〔の的となり、それが会社の〕責任を問う契機となった。一九九〇年代の企業に纏わる大規模事故〈企業型  大型事故〉及び倒産により、企業の社会的責任について再論する必要性が要請されている。しかし、企業の社会的責任に関する概念は未だ明らかではなく不完全なのが実情であり、この概念を認めるか否かの問題までも取り上げられている。なぜならば、企業の社会的責任に関する概念の定義はその立場及び観点により非常に多様であり、法的側面から特に考察する場合においても体系的な理論構成を種々説明しうるからである。
  今日、企業の社会的責任に関する問題が韓国だけではなく世界的に議論されている理由としては(21)、国民の生活目標の変化、企業の産業活動による環境破壊、企業を中心とする利害関係者間での利益衝突(労働者、消費者、地域社会、経営者、株主等)、企業の社会的影響力の増大等が挙げられる。
  このような必要性及び多様な観点から企業の社会的責任をみると、その現代的意味は企業固有の機能である利潤追求を通じた富の蓄積とともに社会問題の解決により多く寄与することと定義できよう(22)。ともかく、今日この問題は企業の単なる倫理性ないし社会性を強調するにとどまらず、法的次元における責任を意味している(23)
  企業の社会的責任の性質について把握する場合にも多様な見解がある。すなわち社会的責任肯定論の立場からはその性質は自発性・自律性として把握されているし、否定論の立場からは他律的なものとして理解されている。しかし法律的観点からの企業の社会的責任は、自律性と他律性を同時に有するものとして理解されるべきであろう(24)

2  主体及び客体
  従来、企業の社会的責任と経営者の社会的責任が明確に区別されず使用されてきたが、法人とその経営者は別個の人格であるためその責任も区別されるべきである。しかし、個人としての経営者ではなく企業の意思を決定しそれを執行する公的意味の経営者は、責任の主体に関し企業と同一視してもよかろう(25)。今日、企業の社会的責任を議論する際には株式会社形態の大規模企業すなわち社会的影響力が大きく、かつ所有と経営が分離されている企業を前提とする。これら企業の実質は、企業の公共性(社会性)及び営利性という点に求められるからである。
  企業が責任を負う相対方(客体)は誰であるのかにつき、株主、債権者、供給者、顧客、競争会社、労働者、政府、地方団体、販売業者等種々挙げられているのが実情である。過去においては企業(経営者)は経済的意味の所有者たる株主に対してのみ責任を負うと考えられてきた。しかし、今日では企業と関連する他の利害集団(従業員、債権者、消費者、地域住民等)に対しても責任を負うという拡大された概念が登場するようになった。これを企業の社会的責任であると考える。このような立場に Corporate Governance を論ずるようになった理由が見出される(26)
  このような利害集団の中でどの者の保護に重点を置くべきかは、むろんその国の立法政策・経済政策によるであろうが、国民経済や地域住民を前提として少数株主、従業員、消費者等の利益を優先的に考慮すべきであろう。

3  内容及び限界
  企業の社会的責任に関する従来の経営学的立場は道徳的意味ないし経営理念として〔社会的責任を〕理解し、経営者の理解と自覚を要求したのである。しかし、現代的意味では企業に纏わる大規模事故の続発・〔企業〕グループの倒産、環境破壊、労働者・消費者の保護等は経営理念や倫理意識の強調だけでは解決できなくなった。したがって社会的に強力に要請されている企業の社会的責任を、法的責任として確立するのが急を要する課題であると考える。
  しかし前述のように企業の本質的な属性が利潤追求であるため、営利性の前提なしには企業の社会的責任を議論できないであろう(27)。してみれば企業の利潤は期間利潤ないし適正利潤を意味するのであり、これらを保障する範囲内において企業の社会的責任が認められるのである。
  企業のその他の属性として公共性が挙げられる。すなわち国民の衣食住に関するものだけではなく、成功・失敗及び生の本質に関わる国民経済のあらゆることが企業に依存しているため企業は公共的存在である。したがって、企業の社会的責任は国民経済の発展と安定を害するものであってはならない。
  しかし以上の営利性と公共性という企業の属性は二律背反的であり、その調整は非常に困難である。それゆえ本稿ではこれを扱わない。

四  企業の社会的責任と意思決定・監督


  前述のように一九六〇年代以降、企業規模の巨大化とともに企業の反社会的行為が深刻になったため、七〇年代及び八〇年代にかけ企業の社会的責任は非常に活発に議論され、商法だけではなくあらゆる分野の法に影響を及ぼした。とりわけ商法学者の間では企業の社会的責任に関する一般規定を、株式会社法に設けることに議論の重点が置かれた。しかしその概念の多義性や観点の多様性のため、一般規定が明文化されずほとんど足踏み状態にとどまっているのが実情である。
  しかし大企業はますます多くの非行を繰り返し、その悪影響がさらに深刻になっているため、もはやこれ以上放置できない状況になっている。政治癒着、不正金融、環境破壊、企業の倒産及び大規模事故は、株式会社法の基本的な変更及び国民の憂慮を引き起こさざるをえないのである。このような変化及び反社会的行為の厳禁を株式会社法に取り入れることができなければ、二一世紀に向けての韓国の国民経済が心配されるといわざるをえない。
  したがって、従来の株式会社法のメカニズムは株主のために営業活動をすることに重点が置かれていたが、これを変化させ株主以外の利害集団、国民経済、環境保護等にその重点を移すための方策を探るために、本稿では株式会社の機関に関する若干の研究を行うことにする。

1  意思決定・監督とその限界
  社員は法的に会社・会社財産の所有者ではないが、会社の資本や財産を出資する者であるから実質的・経済的意味の所有者である。会社の経営は実質的所有者たる株主によって行われるべきであるので、商法は株主総会を意思決定機関として規定している。なぜならば株式会社は社会の遊休資本を自己資本として集め多数の株主を予定しているため、営業活動に株主が直接参与するのは不可能だからである。それゆえ適切かつ効果的な経営には、実質的所有者とは別に専門的知識を有する経営者が必要になる。今日の株主は全国的に広がっており、その大部分は資本総額と比較すれば零細な出資者であり、彼らは会社経営に対する知識・経験・意欲を有していないのが通常である。してみれば株主が実質的な所有者であるとしても、会社経営の効率性を高めるために株主が会社経営に直接参加することは期待できない。そのため商法は株主総会の最高機関性を認めながら、これを会社内部の意思決定機関にすぎないとし業務執行は直接行えないようにした。会社経営については取締役会・取締役制度を設け、これが会社の実質的所有者たる株主の委託を受け(28)法令・定款及び株主総会の決議に基づき業務執行を担当する。
  取締役・取締役会が株主からの委託を受け会社を経営するのであれば、その経営は株主の意向・監督に従わなければならないのは当然である。それゆえ商法は取締役をして総会決議を遵守せしめ、株主総会には取締役及び監査役〈監事〉の選・解任権を付与している。これにより所有による監督・支配を認め両者の再統合を図っている(29)
  また株主総会は統一的な意思形成に際し資本多数決を採用しているため、総会決議を支配する大株主は自らの意思により総会を支配することになる。つまり、総会が有する取締役・監査役の選任権を通して取締役・監査役・取締役会を支配・監督することにより、会社の経営を支配するようになる。しかし多くの小株主〈群小株主〉は総会を支配できないため、会社の実質的所有者であるにもかかわらずその経営や支配から疎外されてしまう。換言すれば、会社利益の分配のみに参加できるのみでありその所有に見合う支配がない(30)。株式会社は広範に分散されている遊休資本を動員・集中すると同時に資本多数決を媒介に大株主に支配を集中し、支配資本の節約〈●約〉を可能にする機構である。そのため、株式会社制度が今日の大企業の支配的な会社形態になった(31)
  多くの小株主の立場からみると、会社の支配・経営から疎外されたとしてもこれを甘受できる制度的方策があってはじめて投資者としてとどまるようになろう。それがまさに会社の利益配分への参与である。これを保障するため少数株主の代表をも取締役にしたり監査役として選任し、会社経営を監視・監督させるのである(32)。これ以外にも会社経営に対する監督・監視制度として取締役会、公認会計士・監査法人〈會計法人〉及び株主の監督権が認められている。
  いずれにせよ、監督・監視のための様々な制度が期待通りに機能すれば、企業の反社会的行動や非行を相当予防できるであろう。しかし上記の様々な監督機能が期待通り機能せず、形骸化・無機能化しているという指摘がなされている(33)。韓国商法を制定した際、米国の取締役会制度を導入し監査役から業務監査権を剥奪した結果、監査役は取締役会に出席することもできず会計監査のみを行うこととされ、会計監査の実効性も得られなくなった。そうかといって代表取締役・業務担当取締役による業務執行の、取締役会を通じた監督も実効性を有していたわけではなかった。それだけではなく企業の社会的責任という観点からみると、株主の監督権や会計監査を通じた監査、企業の公開・開始〈開始〉等がその機能を十分に発揮していないのが実情である(34)

2  望ましい意思決定・監督の形態
  企業の社会的責任を遂行する観点から企業の意思を決定・監督する機構を改革する場合には、以下の二つの方向を挙げられる。第一に、従来と同様の私的所有制を前提とし会社の実質的な所有者たる株主に経営の監督・control をさせても社会的責任に適切に対応できないという立場から、従来の枠を離れた改善〔策〕を提示する方向である。第二に、あくまでも従来の所有に基づく経営の監督・control という範囲を維持しながら、企業の社会的責任に対応する改善策を提示しようとする方向である。
  今日、大会社の規模は巨大化し、その行動は当該会社の株主及び債権者のみではなく従業員、地域住民、消費者等にも大きな影響を及ぼしている。してみれば、その存在は当然に社会的であるといえよう。会社の社会的存在という側面をより重視すべきであるとするならば、会社は単に株主だけのものではなく従業員、地域住民及び消費者のものでなければならない。そうすると会社の意思決定に株主のみを関与させるのは適切ではなく(35)、右利害関係者もこれに関与させるべきであろう。
  これに関してはドイツの共同決定法を参考にできる。ドイツでは資本金〔額〕及び従業員数にしたがい、労働者代表を監査役として一定割合選任している。従業員以外の消費者、地域住民等の代表までは考慮されておらず不十分であると思われるが、私的所有制の否定を部分的に包含する画期的変革である。企業の社会的責任という観点から、企業の意思決定過程に労働者を参加させるのは大きな意味を有する。
  企業の社会的責任を遂行する観点からみると、従来の所有に基づく監督・監視の枠から離れ各種監督機関が独立性及び公正性を確保するの〔が肝要〕である(36)。しかし、韓国では監督機関の独立性が重要な問題ではあるが確保されていないのが実情である。したがって監査役・取締役の選任問題等が代表取締役から独立できれば、企業の社会的責任の遂行がより容易になるであろう。実際に監査を受けるべき者が監査する者の人事権を掌握していたり、会議招集権限や議長等の権限を行使していれば、やはり企業の社会的責任の遂行にとり阻害要因となろう。
  既に有名無実な機関に転落していた監査役制度が原因で会社が放漫経営になり、〔その結果〕会社の経営に信用性がなくなり財務状態が不安定〈不實化〉になった。このような弊害を是正する目的で、一九八四年監査役制度に関する大幅な商法改正が断行された。しかし、一九八四年商法改正の趣旨にあるようには監査役制度が活性化されず、期待通りにその役割を果たしえていないのが実情である。なぜならば、監査役の地位が強化されたとしても取締役の地位が依然優越しており、取締役の業務執行に対する監視・監督は期待できないからである(37)。また、監査役選任の際に監査役の独立性・自主性・専門性等を重視し適切に機能する制度として定着するよう努力するよりは、かつての使用人・取締役等から昇進・転任させたり〔彼らを〕待機させるポストとして〔会社は〕活用しているし、情実・落下傘式による任命等が未だ大部分を占めているからである(38)
  したがって韓国の大企業の経営者を他の国の経営者と比較してみると、〔経営者は〕自由に意思決定を行い大胆な政策や改革を推進し、〔大企業は〕市場占有についての優位を確保できた。監査役制度の形骸化により経営者を中心とする内部的権力集中が可能であったためである。それゆえ企業は国家機関の干渉から逃れ、これを利用し銀行から低利の資金を調達できた。そして投資家からの check を意識する必要のない資本市場を形成し、保険会社、金融機関、その他大株主との話し合い〈對話〉・調整が可能になった。
  商法改正後も会社の経営形態に大きな変化はなく、むしろ多くの企業が倒産するに至っている。更に、旅客機の墜落、西海フェリー号・遊覧船の沈没、都市ガス爆発、タンカーの沈没、三豊百貨店・聖水大橋の崩壊等のような事件が続出したのである。そこで、韓国においても企業の活動及び経営上の問題点が、従来とは異なる視点から見られるようになった。また、今日の韓国は経済の長期的停滞、失業率増加、企業の海外移転及び物価の不安定という局面を迎えており、企業の組織・活動に関する新たな議論とともに監査役制度の強化・改革〈變化〉について再論する必要性が生じているのである。いずれにせよ大株主・最高経営者に委ねられている意思決定及び経営上の支配を監査役をして制御せしめ、経営者の暴走や不正を check させるようにし、企業が新たな社会に向け再生し社会に貢献できるようにならなければならないとの主張が監査役制度と関連しなされている(39)

五  結      論


  韓国経済が発展し続け株式会社が健全な成長を遂げるためには、企業が社会的責任を自覚しその機能を円滑に発揮できるようにならなければならない。〔そのためには〕株主、債権者、従業員、消費者等の利害を調整できる制度の整備が必要である。企業及び企業家の営利追求という目的達成の手段としてのみ会社が利用されてはならない。特に韓国社会に蔓延している拝金思想〈 黄 金萬能〉という退廃的風潮や違法行為は禁止されるべきである。また企業家の意識の後進性及び政治家の脱法行為は、国民経済に及ぼす影響が非常に大きいため是正されなければならないであろう。一九九〇年代に発生した企業に纏わる大規模の事故・大企業グループの倒産及び政治家の不正・腐敗は、企業及び企業家の意識・姿勢が企業の社会性・公共性を度外視した結果であるといわざるをえない。
  今日、企業の社会的責任とは企業と関連するあらゆる利害関係者すなわち株主、消費者、従業員、債権者及び地域住民の利益を調整することであり、それは環境を保護し国民経済に寄与する方向に進まなければならない。企業活動が全国に広がり国際化している趨勢にしたがい、企業の社会的責任の対象もその種類及び範囲を拡大していくのである。このような責任はある行為の禁止ないし消極的なことに限定されるのではなく、直接、介入し参加する積極的な責任に変化していく傾向がある。また企業の社会的責任は法的・強制的性質のみではなく、自発的で道徳的な性質をも有する。
  このような社会的要請が強調される現代社会において、企業の社会的責任がどのように法的に定着しうるのかという問題は非常に重要である。まずこれを商法上の一般規定にするためには、会社の公共性・社会性を強調する条文の新設が必要である。その実効性を保障するために、取締役が〔公共性・社会性を〕十分に考慮する義務〈充實義務〉等を明文化する必要があると思う(40)。これを実現するための具体的規定が、商法及びその他の各種経済立法に反映されうるであろう。本稿では、企業の意思決定及び監督機能の遂行に際し株主のために会社を経営するという従来の次元から脱却し、様々な利害関係者を前提とする会社組織を念頭に置いた。そして最も急を要する重要なことは、監督機能の正常化であるとの結論に達した。
  本来、株式会社の監査業務は所有と経営の分離を前提とし、株主を保護することが本質的なことであった。しかし、大局的・社会的観点から社会的存在としての企業の健全性を担保し、そのような視点から経営姿勢の是正及び経営者独走の防止を促さなければならない。当該業務は社外監査を通じて実現可能であり、本来の監査とは異質的なものとして社外監査は一種の社会監査又は公的監査(public audit)といいうる。米国では取締役会の内部に監査委員会(audit committee)、役員指名委員会、報酬決定委員会、執行委員会、財務委員会等が設けられているが、New York 証券取引所に株式を上場するためには社外取締役のみで構成される監査委員会の設置が要件になっており、これに注目すべきであろう。
  従来、韓国の株式会社では監査役選任の際にその独立性・専門性等が十分に発揮されず、大部分が社内監査役により構成されたため、監査役制度が形骸化し〔監査役は〕有名無実な機関に転落した。その結果、会社に関連する大型事故及び非道徳的なこと〈非理〉が続出した。してみれば、株式会社の機関特に監査役制度が従来の枠から離れ根本的に変化し、大株主と経営担当者の独走を防止し利害関係者の利益を調整できるよう、監視・監督機能を活性化させるのが企業の社会的責任を実現する近道〈捷徑〉である。
  企業の非行を防止し社会的責任を実現するためには、現行の法令や基準の範囲内でも監査担当者による貢献が相当〔程度〕可能であるから、むしろ会社の内部的な規則及び監査方針を設定し彼らを社会的責任意識に目ざめさせることが必要である。米国では財務報告の信頼性・公正性・誠実性を高めるために、監査は企業の詐欺、錯誤及び不正の発見に関する積極的義務(affirmative duty)を負い、もし違法行為を発見したらその会社を監督する国家機関に通報しなければならない。ともかく、社会監査(social audit)の立場から監査役は企業の成果を検証・評価する必要性があるということを、漸次構築していかなければならないであろう。
  更に最近の大企業の倒産と関連してみられるように、使用者と労働者間の熾烈な利害対立という悪循環も企業内部で継続している。全般的な経済状況が順調でないにもかかわらず利害対立が継続すれば、物価の暴騰、失業率の上昇、不必要な費用の増大、生産性の低下等だけではなく当該企業の倒産に繋がり、債権者及び投資家を害することになるであろうし、最終的には国民経済を塗炭の苦しみに陥らせる虞がある。したがって、企業の社会的責任の中では、企業、企業家及び労働者の責任意識がより一層要求されるようになると考える。

(1)  喜多川篤典『株式会社の法理』(中央経済社、一九六六)一五五頁。
(2)  梁東錫、”Corporate Governance●  監査制度”「商事法●究」第一五輯二號、(商事法學會、一九九六)、一三五面以下.
(3)  Wedderburn, The Legal Development of Corporate Responsibility, in Corporate Governance and Directors’ Liabilities:Legal, Econom. and Sociolog. Analyses on Corporate Social Responsibility, 3 (ed. by Klaus J. Hopt;Gunter Teubner, 1984);中村美紀子「企業の社会的責任論の現在」岡法四四巻二号(一九九四)四九頁。
(4)  Berle and Means, The Modern Corporation and Private Property (1932).
(5)  Dodd, For whom are Corporate Managers Trustees?, 45 Harv. L. Rev. 1145, 1148 (1932);Wedderburn, supra note 3, at 5.
(6)  M. Friedman, The Social Responsibility of Business is to make Profit, in Issues in Business and Society, 168-174 (2d ed., 1977).
(7)  Wedderburn, supra note 3, at 10.
(8)  Baumol et al., A New Rationale for Corporate Social Policy, 39-55 (1970), quoting from Wedderburn, supra note 3, at 11.
(9)  中村・前掲注(3)五七頁。
(10)  Natural Resources Defense Council Inc. v. SEC, 389 F. Supp. 689, 700 (1974);Wedderburn, supra note 3, at 15.
(11)  Wedderburn, supra note 3, at 16.
(12)  Herman, Corporate Control, Corporate Power, 282 (1981).
(13)  Stone, Where the Law Ends (1975);Wedderburn, supra note 3, at 16.
(14)  Wedderburn, supra note 3, at 17.
(15)  Nadder et al., Taming the Giant Corporation (1976);Wedderburn, supra note 3, at 17.
(16)  Winter, Government and the Corporation, The American Enterprise Institute for public policy Research, 50 (1978);Wedderburn, supra note 3, at 18.
(17)  中村・前掲注(3)六〇頁。各種調査によると、社外取締役又は独立的な取締役の比率は年々高まっている。
(18)  コネティカット、イリノイ、ルイジアナ、マサチューセッツ、ニューヨーク、オハイオ、ウィスコンシン州等約半数の州がそのような制定法を設けている。
(19)  中村・前掲(3)六一頁、吉田直「敵対的企業買収の法理」『企業結合と買収の法理』(中央経済社、一九九二)一〇七頁。
(20)  李允榮、”企業法 概 論”、(一潮各、一九八二)、三九二面.
(21)  西野嘉一郎  著、朴英敦  譯、「企業●9473會的  責任」(常志9473、一九七六)、一三〇ー一三二面.
(22)  孫國鎬、”企業●  9473會的  責任●  關●  法的   研 究”、博士學位論文(成均 館 大  大學院)、一九ー二〇面;J. Humble, A Practical Approach to social Responsibility, 19 Management Review (May, 1978).
(23)  孫洙 矢 、”産業公害●  企業●  9473會的  責任”、「司法行政」(一九九七・四)、七面.
(24)  中村一彦『企業の社会的責任』(同文舘、一九七七)一〇六頁。
(25)  孫國鎬、前掲論文、二四面.
(26)  梁東錫、前掲論文、一三五ー一三八面.
(27)   「4.5」ォュ15亠ォュ20「5」裴「7フ12」 鐵世・姜渭斗、”企業●  9473會的  責任●  ●●法的   研 究”、「東西大學校  石堂論叢」第一輯(一九七六)、一一六ー一一七面.
(28)  三枝一雄「会社の社会的責任と企業意思の決定」自由と正義四三巻一号(一九九二)五四頁。
(29)  新山雄三「株式会社立法政策の方法的基礎としての私的自治」服部栄三先生古希記念『商法学における論争と省察』(商事法務研究会、一九九〇)七三五頁。
(30)  梁東錫、前掲論文、一四〇面;三枝・前掲注(28)五四頁。
(31)  三枝・前掲注(28)五四頁、同「会社の所有・支配構造の変化と会社の機関構成」法時四八巻一一号(一九七六)一一七頁。
(32)  梁東錫、”監事會●  9473外監事制度”、「法学論叢」(朝鮮大學校  法學●究所、一九九五)、一〇〇ー一〇一面;新山雄三「Aufsichtsrat の機関としての地位と任務」岡法三九巻二号(一九八九)一九三頁以下。
(33)  梁東錫、上掲[注(32)]論文、九一面以下;崔基元、「新會9473法論」(博英9473、一九九六)、七六五面.
(34)  三枝・前掲注(28)五六ー五八頁。
(35)  梁東錫、前掲 Corporate Governance●  監査制度、一五九ー一六〇面;三枝・前掲注(28)五九頁。
(36)  梁東錫、前掲 Corporate Governance●  監査制度、一四五面以下;洪復基、”9473外監査制度●●●●”、「商事法 研 究」第一三輯(一九九四)、一七八ー一八一面;中原俊明「事前監査と事後監査」蓮井良憲先生・今井宏先生古稀記念『企業監査とリスク管理の法構造』(法律文化社、一九九四)三一ー三二頁、楠元純一郎「社外監査役の役割と責任」同記念論文集一六五ー一六六頁。
(37)  洪復基、前掲論文、一七〇ー一七一面.
(38)  孟柱炯”商事會9473監査制度●  運營現況分析”、「上場協」(一九九二、秋季號)、一四〇ー一四一面;鄭文985b、”株式會9473監査制度  運營現況分析”、「上場協」(一九八七、秋季號)、一五七面.当該研究によると、監査役の前職につき社内出身又は子会社・関連会社の役職員出身というのが全体の約六七・二%を占めており、またすべての会社では代表取締役が推薦した候補者を監査役に選任している。監査役の独立性と関連し大きな問題があることを理解できる。
(39)  高田正淳「コーポレート・カバナンスからみた監査役監査と会計監査」企業会計四六巻二号(一九九四)五三ー五九頁、酒巻俊雄「社外監査役の機能」ジュリ一〇五〇号一三六頁ー一四一頁。
(40)  鄭煕 笈 、”株式會9473法改正●  方向”、「企業法●  展望」(博英9473、一九八二)、二二六ー二二七面.
訳注
(1)  〈  〉内の語は韓国語の原文である。また、〔  〕内の語は意味をより明確にするために訳者が付け加えたものである。
(2)  邦訳に際しては、証券取引法研究会国際部会訳「コーポレート・ガバナンスの原理分析と勧告ー条文ー」同部会訳編『コーポレート・ガバナンス−アメリカ法律協会「コーポレート・ガバナンスの原理分析と勧告」の研究−』((財)日本証券経済研究所、一九九四)三頁以下を参照した。
本稿は、一九九六年度朝鮮大學校学術研究費の支援を受け執筆したものである。