立命館法学  一九九八年一号(二五七号)


自殺関与事例における被害者の自己答責性(二・完)

塩谷 毅




  目    次

はじめに  −問題の所在

第一章 自殺関与事例における被害者の自己答責性原則の展開
  第一節  総    説
  第二節  ドイツにおける主要判例の概観
  第三節  ドイツにおける主要学説の概観
  第四節  「一九八六年臨死介助対案」について
  第五節  小    括                    (以上二五五号)

第二章  同意殺人・自殺関与罪に関する諸論点の再検討
  第一節  総    説
  第二節  ドイツにおける「要求による殺人罪」の法的性質をめぐる議論
  第三節  我が国における「同意殺人・自殺関与罪」の法的性質をめぐる議論
  第四節  「承諾・自己答責能力」と「意思の瑕疵」について
  第五節  小    括

むすびにかえて                         (以上本号)



第二章  同意殺人・自殺関与罪に関する諸論点の再検討

 

第一節  総    説

    本章では、前章における「被害者の自己答責性」原則の考察に配慮して、ドイツの刑法二一六条と我が国の刑法二〇二条に関する様々な論点に対して、従来の議論の様相を再検討する。

  ドイツの刑法二一六条「要求による殺人」罪は、以下のように規定する。

    「ある者が、被殺者の明示的かつ真摯な要求から殺害を決意するに至ったときは、六月以上五年以下の自由刑を科する」。

  また、我が国の刑法二〇二条「同意殺人・自殺関与」罪は、以下のような条文である。

    「人を教唆し若しくは幇助して自殺させ、又は人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する」。

  このように、ドイツの刑法二一六条と我が国の刑法二〇二条は、@「自殺関与」の可罰・不可罰という点とA「承諾殺人」が通常の殺人罪に対して減刑類型として特別に構成要件化されているか否かという点に違いがあるが、それだけでなくB「要求による殺人」と「嘱託殺人」も厳密に言えば、その射程範囲が微妙に異なっていると考えられる。

  それは、ドイツの刑法二一六条「要求による殺人」罪においては、被害者の「要求(嘱託)によって」行為者が殺害へと「動機づけられる」ことを犯罪成立の不可欠の要件とされているのであるが、我が国の刑法二〇二条は、被害者の「嘱託」が「存在したこと」のみが要件になっているので、行為の動機付けが他の理由から為された場合であってもなお成立しうることになる。

  また、第二に、「要求による殺人」罪においては、被害者の要求が「真摯でかつ明示のもの」であることが「明文上」必要とされているが、我が国では、それは少なくとも「明文で」要求されていない。もちろん、我が国でも、刑法二〇二条の成立にとって被害者の嘱託は「まじめなもの」である必要があり、被害者に「判断能力の欠如」や「意思の瑕疵」などが存在し、「不自由な状態で為された意思決定」であった場合には、刑法二〇二条の構成要件該当性が失われ、通常の殺人罪になりうると考えられているが、ドイツと我が国での「真摯性」の捉え方については、微妙に差異が存在するとも考えられる(1)

    このような両国の規定とそれに関する諸論点について考察を進めて行くわけであるが、まず関連する論点は以下のように整理できよう。

  @  自殺(生命処分)の法的性質

  A  自殺関与罪の法的性質

  B  自殺関与罪の実行の着手時期

  C  同意殺人罪の減刑根拠

  D  同意殺人罪と自殺関与罪の区別

  E  同意殺人・自殺関与罪と殺人罪の区別

  もちろん、AとBの問題は、ドイツでは自殺関与罪が存在しないので、我が国でのみ議論されているものであり、Dは、ドイツではそれが可罰・不可罰の限界を意味し、従って活発に議論されているのに対し、我が国では両罪は同一の条文で同一の法定刑のもとで処断されているので、あまり重要視されていない。また、Eの問題は、偽装心中などの事例において、「意思の瑕疵」と承諾の有効性などの観点から重要な論点になっているのである。なお、「被害者の自己答責性」原則はDの問題において本質的な役割を果たすものであり、Eの問題、とりわけ同意殺人罪と殺人罪を区別する概念ではないことに注意する必要がある。

  そこで、以下の検討では、まず本節では、それぞれの規定の歴史的変遷を簡単に概観する。また第二節においては、ドイツにおける刑法二一六条の法的性質をめぐる議論を概観する。第三節においては、我が国の刑法二〇二条の法的性質をめぐる議論を概観する。そして、第四節において「承諾・自己答責能力」の問題と「意思の瑕疵」の問題を扱った上で、我が国の法状態のもとで、どのような観点から刑法二〇二条の適用範囲が規定され、その中で「被害者の自己答責性」の思想が生かされうるかを検討することにする。

    さて、前述したように、我が国においては、刑法二〇二条は嘱託殺人のほかに承諾殺人及び自殺教唆・幇助を同一の法定刑で処断している。しかし、ドイツでは、刑法二一六条においていわゆる「要求による殺人」のみを規定し、自殺関与行為はもはや「非犯罪化」されてしまっている。また、承諾殺人は故殺罪等で処罰され、生命に対する「被害者の承諾」は特別な減刑根拠とはされていない。このような両国の立法形式の相違は、どのような歴史的変遷をたどって生じたものであろうか。この問題については、既に優れた先行研究(2)があり、それを参考に簡単に概観する。

    まず、ドイツなど西欧諸国では、キリスト教の影響のもと、自殺を非とし、これを防止しようとする倫理観が歴史的に形成されてきたといわれている。たとえば、アウグスティヌスは自殺を次の三つの理由から許されないものであるとしていた。まず、自殺は「汝、殺すなかれ」という十戒の一つに違反する。次に、自殺は悔い改めの機会を自ら奪うことである。最後に、自殺は卑怯な行為であり、真に偉大な人間は苦難に耐え抜かなければならない、と(3)。聖書自体には「自殺を悪である」と明言した箇所はない(4)が、このアウグスティヌスの教説以来、「中世ヨーロッパ」では、キリスト教教義において自殺を悪であると考えることは一般的になった(5)

  しかし、「近代」にはいると自殺に肯定的な態度をとる思想家も現れた。たとえば、トマス・モアは「ユートピア」の中で、「その病気が永久に不治であるばかりでなく、絶え間のない猛烈な苦しみを伴うものであれば」、自ら生命を処分することも許されるとしている(6)。ショウペンハウエルも、次のように述べて自殺には肯定的である。

  「自殺がはたして犯罪であるかどうか、この点に関しては何よりもまず倫理的感情に訴えて判定を下されたらよいと思う。試みに、知人がある種の犯罪、たとえば殺人とか暴行とか詐欺とか窃盗とかの犯罪を犯したという報道に接した場合に我々の受ける印象と、知人が自発的な死を遂げたという報道に接した場合のそれとを比較してみられるがいい。前の場合には生々しい憤激やこの上もない腹立たしさを覚え、処罰や復讐の念に駆られたりするのであるが、後の場合に呼び起こされてくるものは哀愁と同情である。そしておそらくはそれに、悪行に伴うところの倫理的否認というよりはむしろ、彼の行為に対する一種嘆賞の念がかえってしばしば入り交じることであろう(7)」。

    では、現実の法律の上では自殺はどのように扱われていたのであろうか。まず、中世ヨーロッパにおいて、多くの「教会法」には自殺者の不名誉な埋葬などの「宗教的制裁」が規定されており、また「カロリナ刑法典」(一五三二年)は、国家の利益を図ることを目的として、自殺既遂者の財産没収を規定していた(8)

  しかしながら、啓蒙思想の影響による刑法の非宗教化の一環として、自殺処罰は徐々に廃止されるようになり、ドイツにおいても一八世紀中頃フリードリッヒ大王によって自殺既遂者に対する処罰廃止の勅令が下された。これを受けて「プロイセン一般ラント法」は自殺の処罰を廃止したのである。

  さて、ドイツにおける最初の嘱託殺人・自殺関与罪は、プロイセン一般ラント法(一七九四年)の八三四条である。その規定においては、嘱託殺人と自殺幇助が同一の刑で処断され、自殺という違法な状態の原因設定をおこなう自殺教唆が重く処罰されていた(9)

  これに対して、現行のドイツ刑法二一六条は、前述したように「要求による殺人」のみを捕捉し、「自殺関与」はもはや非犯罪化されてしまっている。そこにおいては、「自殺の構成要件不該当性」と「共犯の従属性」が重視され、正犯である自殺が処罰されない以上、その共犯も不可罰とされざるを得ないという認識がもとになっていると考えられている。また、被殺者の「真摯な要求」に基づいて殺害の決意が行われた場合のみが殺人罪の減刑類型とされているので、単に被殺者の「承諾」を得て殺害の実行行為を行った者は、通常の殺人罪が適用されることになる。

    では、わが国において、「同意殺人・自殺関与罪」は歴史的にどのような変遷を経ているのであろうか(10)

  江戸時代、徳川幕府の「御定書百箇条」は、心中を「不義による相対死」と呼んで、犯罪としていた。同様の規定は「新律綱領」、「改定律例」にも受け継がれている。しかし、これらは今日でいう同意殺人・自殺関与罪とは異なり、「男女の不義」に対する非難を意味していたといわれる(11)

  我が国における本格的な同意殺人・自殺関与罪の最初のものは、旧刑法の「自殺ニ関スル罪」であった。旧刑法第三二〇条は「人ヲ教唆シテ自殺セシメ、又ハ嘱託ヲ受ケテ自殺人ノ為ニ手ヲ下シタル者ハ六月以上三年以下ノ軽禁固ニ処シ、十円以上五十円以下ノ罰金ヲ附加ス。其他自殺ノ補助ヲ為シタル者ハ、一等ヲ減ズ」と規定し、第三二一条は「自己ノ利ヲ図リ人ヲ教唆シテ自殺セシメタル者ハ重懲役ニ処ス」と規定していた。

  旧刑法に大きな影響を与えたボアソナードには、この犯罪の処罰根拠について、生命がその享有者一人のためのものではなく、彼の近親に、彼の国家に、そして彼の同胞つまり人類に属するものであり、それゆえ自殺者が刑を免除されるのは我々が生命を処分しうるからではなく、自殺(未遂)者は常に一時的な理性の欠如のもとで行為すると推定されるからであるということ、自殺を唆したり、決意させたり、手助けをする者にはそのような特典を与えることはできないので可罰的であるということを指摘している。また、そのほかに、日本の「切腹」という「悪慣習」を排除するためという意図もあったとのことである(12)。三二〇条の文言が「自殺人」となっていることからもそれがうかがえる。本条中の「自殺人」という文言が、単に死を決意し、他人に自己の殺害を頼む者一般を指すのではなく、「切腹しようとする者」のみを予定していたのなら、ここで問題になっているのは今日でいうところの「嘱託殺人」一般ではなく、まさに切腹(の介錯)を禁止するための規定であったとも考えられるからである。

  ところで、ボアソナードは自殺の違法性をキリスト教の倫理から導き出したが、我が国にはもともと自殺を違法視する精神的風土は伝統的なものではなかったのではないだろうか。「切腹」という習慣以外にも、仏教の「捨身往生」の思想、戦時中の「神風特攻隊」などが「賞賛されるべき行為」とみなされていたことが指摘されている(13)

  現行刑法は、旧刑法から「自己の利益のため」にするか否かの区別は必要でないとしてこれを廃し、「被殺者の承諾を得てこれを殺した場合」をあわせて規定した(刑法改正政府提出案理由書)ものである。現行刑法二〇二条は、承諾・嘱託殺人、自殺教唆・幇助の四類型を処罰している。この規定は四類型を同一条文で規定し、刑の上限などについても特に区別はもうけていない。そのため旧刑法においては「一等を減」ぜられていた自殺幇助も、嘱託殺人、自殺教唆同様の法定刑に引き上げられることになった。また、法定刑の上限が旧刑法の三年から七年に引き上げられたのは、本条にそれまでは通常の殺人罪の中に含められていたであろう「承諾殺人」、即ち単に被害者の承諾を得て殺害行為を行った者も本条の対象にいれられたためであると思われる。

    ちなみに、我が国のその後の刑法改正作業において、本罪はどのような扱いを受けているのであろうか。

  まず、「刑法改正予備草案」(一九二七年)は、承諾殺人・嘱託殺人と自殺教唆・自殺幇助に分け、それぞれ別項に規定した。また、現行法と順序が入れ替えられ、承諾・嘱託殺人を第一項とした。ここで注目すべきは、その二六一条において、未遂犯は第一項(承諾・嘱託殺人)のみ可罰的であるとされ、「自殺関与」については、その未遂を非犯罪化しようとしたということである。

  次に「刑法改正仮案」(一九四〇年)は、法定刑を「一年以上一〇年以下」にまで引き上げ、禁固刑を採用しなかった。また、加重類型として偽計・威力を用いた場合は通常の殺人罪または尊属殺人罪の刑を以て処断すると第二項で定めた。仮案が制定された時代背景として、戦時中の国家主義思想が盛んであったことが指摘できる。この時代においては、生命は個人的法益であるとともに国家的法益、社会的法益としての性質も有するとされることが一般であった。たとえば、牧野英一博士は「法益には純正に個人的なものというのはなく、また、したがって、個人が任意に処分しうるものというものもなかるべきである。法益は全てが、社会的且つ国家的な性質を有するものであるとせねばならぬ。それで法益の処分に対する個人の承諾は、常に行為の違法性に関する原理によって統制せねばならぬものであることを注意せねばならぬ(14)」とし、宮本英脩博士は「自殺は自己の生命の上に存する自己の法益を侵害する点においては違法ではないが、同時に自己の生命の上に存する国家の法益を侵害する点において違法たるを免れない(15)」とし、滝川幸辰博士も自殺は「妻子または社会がその上にもっている利益」を侵害する行為である(16)としていたのである。国家主義的思想は、我が国にそれまでほとんど存在しなかった「自殺を違法視する意識」を生み出したことが指摘されている(17)。しかし、同時代には、戦時中であるという時代背景において、「神風特別攻撃隊」に見られるような「国家のために個人の生命を投げ出す」ことが美徳とされる精神的風土が同時に存在していたことを忘れてはならない。

  さらに、「改正刑法草案」(一九七一年)は、二六〇条で同意殺人・自殺関与罪を規定し、その一項を承諾・嘱託殺人、二項を自殺教唆・幇助と分けて規定している。法定刑は仮案以来の「一年以上一〇年以下」であり、禁固刑が復活させられている。一項と二項で刑の差はない。

  最後に、一五人の刑法学者を構成員とする刑法研究会による「刑法研究会試案(未定稿)」(一九八三年)は、その八四条において次のような条文を考えていた。

    「人の嘱託を受け、または承諾を得て、これを殺した者は、七年以下の拘禁に処する。

    人を教唆し、または援助して、自殺させた者は、五年以下の拘禁に処する」。

  ここでは、承諾・嘱託殺人と自殺教唆・幇助は単に別項に分けられただけでなく、法定刑も異なるべきであると考えられていたことが特に注目に値するのである(18)

(1)  なお、町野朔「被害者の承諾」『判例刑法研究2違法性』(一九八一)一八五頁以下も参照。

(2)  秋葉悦子「自殺関与罪に関する考察」上智法学三二巻二、三号(一九九一)一三七頁以下、谷直之「自殺関与罪に関する一考察」同志社法学四四巻六号(一九九四)一二一頁以下を参照。

(3)  山田卓生『私事と自己決定』(一九八七)三一一頁参照。

(4)  たとえば、ショウペンハウエルは次のように述べている。「私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者たちだけである。ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関するなんらの禁令も、否それを決定的に否認するようななんらの言葉さえも見い出されえないのであるから、いよいよもってこれは奇怪である」。そして彼は、神学者たちは自殺非難の理由を哲学的論議の上に基礎づけなければならないが、その論議は甚だ怪しげなものであり、議論に迫力の欠けているところは自殺に対する憎悪の表現を強めることによって、即ち自殺を罵倒することによって補おうと努力している、と言う。斉藤信治訳・ショウペンハウエル『自殺について・他四篇』(岩波文庫)七三頁。

(5)  さらに、トマス・アキナスは自殺否定論について、以下の理由を挙げた。@自己破壊は、人間の自然的傾向、自然法、そして自らが負う恩寵に反する。A人間は、その存在と活動を、自殺によって社会から奪う権利を持たない。B人間は神の所有物であるが故に、人間の生死について決するのは神である。山田卓生・前掲書(3)三一一頁参照。

(6)  平井正穂訳・トマス・モア『ユートピア』(岩波文庫)一三一頁以下。

(7)  斉藤信治訳・ショウペンハウエル・前掲書(4)七四頁。

(8)  秋葉悦子・前掲論文(2)一六一頁。

(9)  秋葉悦子・前掲論文(2)一六二頁。

(10)  以下の記述は、秋葉悦子・前掲論文(2)一四二頁以下、谷直之・前掲論文(2)一五六頁以下を参照した。

(11)  秋葉悦子・前掲論文(2)一四三頁、谷直之・前掲論文(2)一五八頁。

(12)  秋葉悦子・前掲論文(2)一四五頁。

(13)  秋葉悦子・前掲論文(2)一四六頁。もっとも、谷氏は殉死の禁止がたびたびなされたことなどを引きあいに出して、明治以前の日本においても、自殺を違法視する見解は存在していたとしている。谷直之・前掲論文(2)一五七頁。

(14)  牧野英一『刑法総論(上)』(全訂版)(一九五八)四九一頁以下。牧野博士は、自己の身体・財産も単に自己のものであるに止まるべきでなく、社会連帯の関係上、国家と社会とに対する責務を負担するものであるとした。そして、生命身体の自損行為も「国家の労働力」という観点から、財産処分も「国家の経済力」という点から考えねばならないものがあるとしていた(四九一頁)。

(15)  宮本英脩『刑法大綱』(一九三五)二八一頁。

(16)  滝川幸辰『刑法各論』(増補版)(一九五一)三〇頁。

(17)  秋葉悦子・前掲論文(2)一五三頁。

(18)  秋葉悦子・前掲論文(2)一五五頁。

 

第二節  ドイツにおける「要求による殺人罪」の法的性質をめぐる議論

    本節では、ドイツにおいて刑法二一六条の法的性質、ないしはその処罰根拠がどのように説明されているかを概観する。

  ドイツでは、刑法二一六条において「要求による殺人」が処罰されているが、自殺関与は非犯罪化されてしまっている。そこで、「要求による殺人」も非犯罪化すべきという主張と「自殺関与」も殺人罪の共犯として処罰すべきという主張を両極とし、多数の論者は、その中間で「一方で要求による殺人は可罰的であり、他方で自殺関与は不可罰であること」を矛盾無く説明するための根拠、及び両罪の「限界基準」に関心が集中しているのである。

  そこで、以下では、「生命の処分」を肯定し、刑法二一六条の「非犯罪化」を主張し、あるいは本規定を「生命」に対する罪とは一定の距離をおいたものと考える見解と、原則として生命処分の自由を否定する見解に大別して検討を加えることにする。

    まず、ルドルフ・シュミットは、マウラッハ祝賀論集における「被害者の自分自身からの刑法的保護?」という論文(1)で、「要求による殺人」罪の「非犯罪化」を提案していた。

  彼は、「(被害者の)自己侵害と自己危殆化は不可罰である」という原則は、既に現行刑法の基礎を為しているが「法益主体(被害者)の瑕疵のない同意は、他者侵害の可罰性を排除する」という原則は、現行刑法においても、また刑法改正案においても、要求による殺人罪などの存在によって実現されていないということ、しかしそのような規定は正当なものであると承認することはできないのであり、将来的には、刑法はそのような規定はもたないのが望ましいとしていた(2)

  彼は、特に刑法二一六条について以下のように述べていた。

  まず、個人の生命は同時に公共の法益でもあるとする見解は、基本法はその二条二項において生命を個人の最高の人格的法益とみなしていること、及び全ての刑法教科書はその体系においてこのような整序から出発していることから、支持し得ない。次に、生命は個人的法益ではあるが放棄することができず、法益主体の処分権限は奪われているという見解が提出されるが、なぜ放棄し得ないのかについては、人間は神から自己の生命を自由に処分することを承認されていないからとするのみで、答えにはなっていない。さらに、法益の放棄不可能性を、立証の困難性、すなわち、被害者は同意があったとの加害者の主張に対して、もはや反駁し得ないという根拠付けも、同様に支持し得ない。最後に、パターナリズムの観点から刑法二一六条を正当化しようとする見解は、同意者には病理学的な原因、つまり精神的もしくは心理的に病的な状態にあるから有効に同意し得ないという根拠づけがなされるが、それならば「真摯な」という刑法二一六条の構成要件要素の厳格な解釈によって、本条はおよそ適用不可能となるはずである(3)。結局、刑法二一六条は既に現行刑法において体系矛盾を意味しており、将来の刑法はそのような規定はもたないことが望まれる(4)と、要求による殺人の非犯罪化を主張していたのである(5)

    このような「非犯罪化」の主張に対して、同じく「生命処分の自由」を肯定しながら生命法益とは別の角度から刑法二一六条の処罰根拠を説明しようという見解がドイツでは有力である。その代表者の一人であるヒルシュは、「自殺」と「合意に基づく他殺」の間に重大な違いがあることを指摘している。彼は以下のように述べている。

  もし要求による殺人を許容したなら、他人の生命に対する尊重も阻害されることになる。合意に基づく他殺禁止の背後には、単に「生命への敬意」の思想があるだけではなく、むしろ「同胞の生命への敬意の擁護」という思想がある(6)のである。他人の生命は原則的に不可侵のものとして、タブー視することが必要である(7)。「自」殺においては、言葉通り「他人の」生命に対するタブーにはふれることはない。従って、自殺と合意に基づく他殺とは異なった扱いが必要なのである。

  ヒルシュが想定した他人の生命への「タブー」違反という根拠は、フリードリッヒ・クリスチャン・シュレーダーの言葉を借りれば、刑法二一六条を「一般予防侵害」と性格づける(8)ことになる。しかしこの説は、「殺害タブー」といったような精神化された保護法益を考えることは望ましくないとの批判にさらされている。シュレーダーは、生きるのに疲れた人の「真摯な要求」に従うことによって、隣人の生命への敬意そのものが侵害されることになるというのは、説得的なものではないし、タブーの保護は「啓蒙された合理的な刑法」にとって十分な根拠とはほとんどならないと述べている(9)

  さらにまたゲーベルは、いわゆる「危険の同意(広義の自己危殆化)」の問題において、次のような疑問を提起している(10)。合意による過失致死も「殺害タブー」を犯すものであり、ヒルシュらの見解からは禁止(処罰)されなければなるまい。しかし、臨終の父を生きている間にもう一度だけ会うためのこれが唯一の方法なので、同乗者が飲酒により危険な状態の運転手に運転を強要したときには、その危険な運転によって過失致死の結果が発生してもこの運転手の可罰性は否定されるべきであろう。そこで過失致死に対する被害者の承諾を少なくとも一部分でも有効と考えようとするならば、刑法二一六条の「殺害タブー」による根拠付けはとれないことになるという。

    では、ゲーベル自身は刑法二一六条の処罰根拠をどのように説明するのであろうか。彼は、刑法二一六条について、この規定は刑法二一二条(故殺罪)に対する減軽類型として、少なくとも部分的には自己決定権が承認されているとする。そして、刑法二一六条の保護財として「生命」から離れようとするならば、評価矛盾のない解決モデルが新しく切り開かれるとしている(11)。彼は、規範は社会的諸事情を離れては解釈され得ず、その時代の社会の文化的な価値意識は刑法規範の発生に少なからず影響を持ち、それどころか唯一の合理的な解釈を可能にすると述べている(12)。その例として動物保護法一七条の「動物虐待の禁止」を挙げている。ゲーベルによれば、刑法三〇三条(器物損壊罪)とは異なり、動物虐待においては動物という物の使用価値の減少が問題とされているのではなく、我々の社会に深く根を下ろした価値確信に違反することがこの規定の趣旨である(13)。この背景のもとで合意に基づく他殺の禁止の根拠付けが可能であるという。生命は社会において最高の財として位置づけられ、他人の生命に対する侵害の禁止は社会に深く根を下ろした価値確信であるとする。そのような公衆の価値確信は、価値多元主義的な社会においては頻繁に確認され得ないものであるが、動物虐待が単なる器物損壊とは異なった意味を付与されており、そのことについて社会に深く根を下ろした価値確信があるのと同様、いやそれ以上に合意に基づく他殺禁止にはドイツ連邦共和国の国民に深く根を下ろした価値確信がある(14)とする。

  では刑法二一六条は単なるモラルに対する違反を意味するのであろうか。ゲーベルはそうではないという。動物虐待の禁止や合意に基づく他殺の禁止において刑法が介入するのであれば、刑法に「社会の平穏を維持する機能」があることになるが、それは社会の共同生活のために何の機能も持たない単なるモラル違反的な態度を処罰することとは異なる(15)というのである。そして直接の保護財として、「社会的平穏」を想定している(16)

  また、彼は安楽死の特別な問題性として、以下のことを指摘している。不治の病のために激しい苦痛に悩み、なお少しの時間のみを生きることができる人に、彼の明示的な願望に基づいて解放(死)への注射を与えることは、一般に承認された価値確信に違反するのかを問い、被害者の真摯な要求に「更なる根拠」がつけ加わる場合にはそれは否定される可能性がある(17)としている。彼は、ここでは正当化の論理としては刑法三四条(正当化的緊急避難)が問題になっているのであり、そうであるならばもはや「被害者の同意による正当化」の観点から離れてしまっている(18)としている。

  しかしこの説も、前説同様、要求による殺人の規定の意味を「生命」ではなく「社会の価値観念、社会的平穏」に対する違反とすることの是非が問われなければならない。彼のように考えるならば、刑法二一六条はもはや個人的法益に対する罪ではなく、社会的法益に対する罪ということになろう。しかし、このように精神化された法益を想定することは、刑法の自由保障機能の点からも問題がある(19)

  また、このように刑法二一六条を社会の価値確信に対する違反であるとすると、通常、要求による殺人(嘱託殺人)は侵害犯であると考えられているが、抽象的危険犯であると読み変える可能性が生じよう。そうなれば、同罪の実行の着手時期や既遂時期の判断に大きな影響を与え、結果的にそれらが早められることにもなりうるのである。

    これに対して、ドイツにおいても、「生命処分の不可能性」から出発する見解が存在する。

  まず、シュミットホイザーは、「被害者の承諾」による犯罪阻却を以下のように説明する。

  彼は、そもそも「被害者(Verletzter)」の同意という言い方は不適切であるとし、「権利者(Berechtigter)」あるいは「当事者(Betroffener)」の同意と呼ばれるべきであるとする。なぜならば、同意者は、正確に見れば、全く「侵害」されていないからである、と(20)

  そして、ゲールズの「合意(Einversta¨ndnis)」と「同意(Einwilligung)」を区別する見解(21)に対しては、以下のように述べている。両者は、一方は構成要件的に記述されており(合意)、他方は記述されていない(同意)という限りで区別されるが、それは両者の刑法体系上の位置づけには関係しない。「同意」もまた、「(不法)構成要件」を阻却するのである(22)

  真の「法益」は、権利者がその財に対して権利を持つ客体の「無傷性(Unversehrtheit)」なのではなく、むしろ権利者の財に対する「自律的な支配」である(23)。すなわち、「侵害される」のは、それぞれの法益から出てくる「尊重要求(Achtungsanspruch)」なのである(24)

  「人間の尊厳」(Menschenwu¨rde)は、放棄し得ない限界を設定し、自殺は認められない(25)。刑法二一六条は正当にもそのことを示している。また、身体の完全性と行動の自由への攻撃においては、同様に「人間の尊厳」が放棄しえない限界を設定する。刑法二二六条aは身体傷害に関して、行為者の観点から、自律による限界を公式化したものであり、この思想は自由剥奪に拡大して理解されるべきである(26)

  自殺は殺人の罪の意味における構成要件該当的な不法であり、いずれにせよ自殺の一般的な正当化から出発することはできない(27)。自殺は刑法二一二条(故殺罪)の構成要件該当的な行為であり、この規定は以下のように読まれるべきである。「人を殺害した者は」とは「自分自身もしくは他人を殺害した者は」という意味である、と(28)。彼の考えによれば、社会に別れを告げた人に対して刑罰を以て威嚇することは意味がないので、自殺(未遂)の可罰性が断念されるだけである。自殺は超法規的に責任が阻却され、その共犯は制限従属性説から可罰的なままである(29)ことになる。

  しかし、彼のように自殺を故殺罪の構成要件該当的であると考えることは無理がある。歴史上の立法者は他人の殺害のみを刑罰のもとにおくことを望んでいたのであり、通常殺人罪の客体である「人」は他人のことを指すと考えられているから(30)である。また、生命を公共法益としたことも問題であろう。かつての全体主義的な考え方によれば生命を国家の利益、社会の利益と結びつけて解釈され得たかも知れないが、個人主義的な理解のもとでは生命のもつ公共的な法益としての側面の実質はなにかが明らかにされなければならない。さらに彼の「生命維持義務」思想の是非も問われなければならない。社会は個々人の存在をまってはじめて存在しうるものであるが、そうであるからといって、社会の構成員は、「国家のために存在する」よう義務づけられてはいない(31)のである。最後に、彼は「人間の尊厳」が放棄し得ない限界を設定するというが、その人間の尊厳の内容に詳しい説明が加えられていないのも問題である。

    さらに、ブリンゲヴァートもまた、「刑法解釈論の限界問題としての他人の自殺への関与の可罰性」と題する論文(32)において、自殺関与が刑法二一二条(故殺)の共犯として可罰的であり得ると考えていた。

  彼は、まず一九五三年にリンゲルが行った自殺未遂者に対する研究(33)を引用して、自殺意思が「病的」であることは疑いようがないとし、「自由死(Freitod)」あるいは「自殺決意の自由答責性」は、医学的に維持不可能な擬制であり、それだけでなく、規範的・刑法的にもやはり維持不可能な擬制であるとした(34)。彼は、このことから自殺者の「自殺意思」は刑法上重要でないと考え、それ故、自殺関与者が保障人である場合には、関与者が被害者の自殺意思を尊重しようとしたか否かには関わりなく、被害者に対して義務的な地位におかれるとしたのであった(35)

  彼は、自殺(未遂)の不処罰は、「慣習法」であるとした。そして、自殺の不処罰が慣習法であるならば、刑法典において確定されていないこのような「身分犯」の構成要件性は、構成要件化が欠如している場合とは同じようにおかれ得ないとした。それ故、自殺(未遂)の刑罰構成要件は「慣習法」の中に実在性を有し、それは刑法二八条二項の意味における「法律」を満たしているとする。それ故、自殺(未遂)に対する積極的な関与は、刑法二一二条(故殺)に対する「教唆・幇助」として、刑法二六条以下によって可罰的であるとしたのであった(36)

  このように、ブリンゲヴァートは、「自殺者を実際に処罰する」ことを目指したわけではないので、「自殺者を不処罰にし、同時に自殺関与者を処罰する」ための方法を考えたのであった。彼は、自殺者自身は「慣習法」から引き出される人的な刑罰構成要件阻却事由に基づいて不処罰にとどまり、関与者はこのような「被害者としての質」が欠如しているために、刑法二一二条、二八条二項によって可罰的であるとしたのである。

  このような見解に対して、ホーマン/ケーニヒは、自殺自体が慣習法的に構成要件が阻却されるとしても、結局それは刑法一一条五号の意味における(構成要件該当的な)違法行為が否定されることになるのであり、教唆・幇助としては不可罰になるはずであることが見落とされているとする。さらに、刑法二八条二項の身分犯規定は、既に存在している可罰性のみを加減し、あるいは阻却するものなのであり、彼の解釈のような「刑罰創設的」な適用は禁じられていると指摘している(37)

    最後に、シュレーダーは、刑法二一六条の存在を正当化することは、一方で、要求による殺人を可罰的とし、他方で自殺と自殺の共犯を不可罰とすることの区別を正当化することでもある(38)と述べ、各説を検討してそれを否定している。たとえば、「生命保護の絶対性」による根拠付けは、要求による殺人の処罰についてはともかく自殺の共犯の不可罰を正当化し得ないので、刑法二一六条の存在の根拠とはならない(39)としたり、「要求による殺人を許容することが、彼の家族に対する関係で瀕死の人にとっての抑圧状態を呼び起こしかねない」という根拠付けは、要求による殺人の可罰性はともかく自殺教唆の不可罰性を根拠づけられない(40)などとしている。

  それでは、彼が刑法二一六条の存在の正当化根拠と考えるものは何であろうか。彼は、立法理由書が「争いのない道徳律生命が譲渡可能な財ではないということが、(要求による殺人の)不可罰を許容しないのである」といっていることをふまえ、次のように言う。「(生命が譲渡可能な財ではないという)この根拠付けは、これは極めて不十分な理由付けなのであるが、あとになってもたらされた他の根拠付けよりもはるかに優れており、これまでの法の発展に従ってなお確信力を獲得してきたのである。基本法二条二項は生命の権利を承認しており、この権利は基本法一条二項に従って『譲渡不可能な』ものである(41)」。「立法者は自死の決定を極めて重要なものと見ていたので、その実行を他人に転嫁することが許されないとしていた、ということの中に刑法二一六条の意味が存在する。立法者が一連の法律行為において、その一身専属的な意味のために代理を排除したのと同様に、彼らはここでも行為における代理を排除したのである(42)」。

  また、自殺幇助と要求による殺人との限界基準については、正犯と幇助の限界付けの一般原則が妥当するとし、共同正犯に基づく正犯は、刑法二一六条においては排除される(43)としている。ロクシンの「直接に生命を終結させる行為の支配」という限界基準に対しては、「支配」というメルクマールは法律上曖昧なものであり、生きるのに疲れた人が死を「真摯に要求」し殺人を自ら用意しているのであれば、彼もまた常に行為についての共同「支配者」であるということ、また生命終結の「真摯性」という基準も不明確なものであることなどから支持し得ない(44)としている。

  彼は、このようにして刑法二一六条の存在を正当化しながら、要求による殺人の可罰性が制限される可能性も指摘している。すなわち、生きるのに疲れた人が自分自身の手で殺害を「肉体的に」もはや実行することができないので、要求による殺人が行われるときには、それは不可罰とされることがあり得る(45)、というのである。ここでは「単なる精神的な能力」の基準とは異なって、「自殺についての肉体的な無能力」に照準が合わせられている。そのような事例は、回復不可能な激痛の苦しみが存在する場合や、事故に遭遇して車に挟まれ身動きできず、生きたまま体を焼かれるような事故などに生じる(46)。この場合、なお少し残っている生命は我慢できない痛みの除去との財衡量によって重要性を失いうるのであり、その結果、刑法三四条によって正当化される(47)としている。

  彼が要求による殺人の可罰性の根拠を、生命法益の「譲渡不可能性」から帰結される「代理不可能性」に見ていたことは支持しうると思われる。しかしながら、彼が要求による殺人の可罰性の制限として、刑法三四条による正当化を想定していることには問題があるように思われる。彼は安楽死が問題となるような病気や事故の場合の、あと少し残された生命の価値は相対化しうる、つまりこういう場合の生命の価値は苦痛除去の利益を「本質的に」下回るものでありうると考えているようである。生命価値の法秩序における位置づけを、このように相対化することは許されるのだろうか。

(1)  Rudolf Schmitt, Strafrechitlicher Schutz des Opfers vor sich selbst?  Gleichzeitig ein Beitrag zur Reform des Opiumgesetzes, Festschrift fu¨r R. Maurach, 1972, S. 113ff.

(2)  Schmitt, a. a. O. (1), S. 126.

(3)  Schmitt, a. a. O. (1), S. 117.

(4)  Schmitt, a. a. O. (1), S. 118.

(5)  シュミットは、自分は刑法二一六条の削除を主張する論者としてよく挙げられるが、一九八六年の論文では、その見解は変更したとしている。彼によれば、「積極的安楽死」は原則として可罰的であっても、「間接的安楽死」の不可罰が一般的に承認されていることを前提とし、「消極的安楽死」を明確に不可罰であると考えるならば、「ドイツの判例」の傾向からすれば、事実上刑法二一六条による処罰はほとんど残らないであろうと述べている。Vgl. Rudolf Schmitt, Das Recht auf den eigenen Tod, MDR 1986, S. 620f.

(6)  Hans Joachim Hirsch, Behandlungsabbruch und Sterbehilfe, Festschrift fu¨r K. Lackner, 1987, S. 612.

(7)  Hans Joachim Hirsch, Einwilligung und Selbstbestimmung, Festschrift fu¨r H. Welzel, 1974, S. 779.  なお、本論文に関しては、以下の翻訳がある。石原明「ハンス・ヨアヒム・ヒルシュ  同意と自己決定」神戸学院法学一四巻三号二〇七頁以下。

(8)  Friedrich Cristian Schroeder, Beihilfe zum Selbstmord und To¨tung auf Verlangen, ZStW 106, 1994, S. 567.

(9)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 567.

(10)  Alfred A. Go¨bel, Die Einwilligung im Strafrecht als Auspra¨gung des Selbstbestimmungsrechts, 1992, S. 38f.

(11)  Go¨bel, a. a. O. (10), S. 29f.

(12)  Go¨bel, a. a. O. (10), S. 39f.

(13)  Go¨bel, a. a. O. (10), S. 40.

(14)  Go¨bel, a. a. O. (10), S. 41.

(15)  Go¨bel, a. a. O. (10), S. 42f.

(16)  Go¨bel, a. a. O. (10), S. 42.

(17)  Go¨bel, a. a. O. (10), S. 43ff.

(18)  Go¨bel, a. a. O. (10), S. 44.

(19)  生田勝義「『被害者の承諾』についての一考察」立命館法学二二八号(一九九三)一八八頁以下を参照。

(20)  Eberhard Schmidha¨user, Handeln mit Einwilligung des Betroffenen -strafrechtlich:eine scheinbare Rechtgutsverletzung, in Festschrift fu¨r Friedrich Geerds, 1995, S. 602.

(21)  Vgl. Friedrich Geerds, Einwilligung und Einversta¨ndnis des Verletzten im Strafrecht, GA1954, S. 262ff.

(22)  Schmidha¨user, a. a. O. (20), S. 602.

(23)  Eberhard Schmidha¨user, Strafrecht, Allgemeiner Teil, 1970, S. 214f. (8/131).

(24)  Schmidha¨user, a. a. O. (20), S. 597.

(25)  Schmidha¨user, a. a. O. (23), S. 216f. (8/137)

(26)  Schmidha¨user, a. a. O. (23), S. 217f. (8/140)

(27)  Eberhard Schmidha¨user, Selbstmord und Beteiligung am Selbstmord in strafrechtlicher Sicht, Festschrift fu¨r H. Welzel, 1974, S. 819.

(28)  Schmidha¨user, a. a. O. (27), S. 812.

(29)  Schmidha¨user, a. a. O. (27), S. 814f.

(30)  Vgl. Schroeder, a. a. O. (8), S. 566., Go¨bel, a. a. O. (10), S. 33.

(31)  Go¨bel, a. a. O. (10), S. 33.

(32)  Peter Bringewat, Die Strafbarkeit der Beteiligung an fremder Selbstto¨tung als Grenzproblem der Strafrechtsdogmatik, ZStW87(1975), S. 623ff.  なお、本論文については、以下の紹介がある。園田寿「ペーター・ブリンゲヴァート  刑法ドグマティークの限界問題としての自殺関与の可罰性」法学ジャーナル二三号一〇一頁以下。

(33)  Vgl. Ringel, Neue Untersuchungen zum Selbstmordproblem, 1961.  ブリンゲヴァートによれば、リンゲルは、七四五人の自殺未遂者において、全体の一四パーセントに精神異常が、残りの八六パーセントに精神障害が確認されたとして、自殺行為の全ては「精神病」に基づくものであるとしていた。

(34)  Bringewat, a. a. O. (32), S. 634, 637.

(35)  Bringewat, a. a. O. (32), S. 637.

(36)  Bringewat, a. a. O. (32), S. 648f.

(37)  Ralf Hohmann/ Pia Ko¨nig, Zur Begru¨ndung der strafrechtlichen Verantwortlichkeit in den Fa¨llen der aktiven Suizidteilnahme, NStZ 1987, S. 306.

(38)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 566f.

(39)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 567.

(40)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 569f.

(41)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 573f.

(42)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 574.

(43)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 574f.

(44)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 576f.

(45)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 579.

(46)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 579f.

(47)  Schroeder, a. a. O. (8), S. 580.

第三節  我が国における「同意殺人・自殺関与罪」の法的性質をめぐる議論

    我が国の刑法二〇二条(同意殺人・自殺関与罪)に関しては、@自殺(生命処分)の法的性質の問題とA自殺関与(教唆・幇助)罪の法的性質(処罰根拠)の問題、及びB自殺関与罪の「実行の着手時期」の問題が議論の中心を占めている。C同意(嘱託・承諾)殺人の減刑根拠に関する問題(1)は、あまり議論されない。そして、D同意殺人と自殺関与の区別、とりわけ嘱託殺人と自殺幇助の区別は、限界事例においてその区別が微妙であること(2)、及び同一の条文において同一の法定刑のもとで処断されている現行法では、その区別の実益は少ないとして、ドイツと異なり我が国ではあまり重要な争点とはされていない。それに対して、E同意殺人・自殺関与罪と殺人罪の区別に関しては、偽装心中などの事案の処理に関連して、活発に議論されている。

  そこで、Eの問題に関しては次節において検討することにして、本節では、@の問題を中心にAとBの問題を視野に入れて、我が国の議論状況を整理することにする。

    自殺自体が不処罰であるのは、特に自殺未遂に関して「自殺を中止した者は罰せられる、ということは、自殺の実行に着手した者を、死ぬか刑を受けるか、の二者択一に追い込むことになってしまう(3)」という「政策的な理由」が存在するのは確かである。しかし、今日では自殺不処罰の根拠を、このような「政策的理由」のみからではなく、「違法性欠如」あるいは「有責性欠如」といった実質的理由からも基礎づけるのが一般的である。そこで、以下では、自殺適法説(自殺権利説)、自殺放任行為説、自殺可罰的違法性欠如説、自殺責任阻却説に分けて自殺の不処罰根拠を中心にして、我が国の議論状況を考察する。

    まず、「自殺適法(権利)説」の論者の見解を検討する。

  生命の処分は自由であり、自殺を「権利」もしくは「適法」であると明確に主張する論者は必ずしも多くはない。臨死介助(安楽死・尊厳死)の問題や脳死状態からの臓器摘出の問題を論じる際に、行為者の不可罰のために被害者の「生命の自己決定権」が出発点となるとする論者は、自殺(生命処分)一般についておよそ自由であると考えるのか、それとも安楽死などの場合にのみそう考えるのかは明確でない。さらに、「生命の自己決定権」を承認するといっても、自殺者の意思のみで行為者の不可罰が導かれるのか、それとも生命処分意思は行為者の犯罪成立が阻却されるための「一要件」にすぎず、そのほかに被害者が「緊急状態」にあったことなどが適法化のための不可欠の要件とされるのかも問題である。もし後者であるならば、「被害者の承諾」による行為が不可罰を導く通常の場合とは次元の異なる問題となり、完全な意味で「生命の自己決定権」が承認されているとはいえないことになるであろう。なぜならば、ゲーベルも指摘しているように(4)、「被害者の承諾」による違法阻却の特徴は、単なる被害者の意思がそれのみで行為者の不可罰を導く、という点にあるはずだからである。

  この点、谷直之氏は、自殺を適法であると明確に主張する。その理由は、自殺を違法と評価することは人に生存義務を課することになってしまうが、それは憲法の個人主義的価値観と矛盾することになるからであるとする(5)。そして、制限従属性説に従って自殺関与罪の処罰根拠を検討すると、自殺は構成要件該当性と違法性の両者を欠いているため、自殺関与は「共犯」としては捉えられないとする。自殺関与が「正犯」であって「共犯」でないということの理由としては、他に、もし自殺関与が「共犯」であるならば正犯である同意殺人を先に規定すべきであるが、刑法二〇二条の条文は自殺関与を同意殺人より先に規定していること、及び「自殺幇助」に総則上の幇助犯に見られる正犯・教唆犯に対する刑の減軽が認められていないということも指摘している(6)

  たしかに、「自殺関与」罪は、それが「各則上」特別に構成要件化されていなければ処罰されないはずであり、それは一つの「正犯」形態なのだという説明は、その限りでは正当である。しかし、「教唆・幇助」という「共犯形態」での犯罪実行が構成要件化されているのであって、その共犯的=従属的性格は軽視されるべきでなく、とりわけ「自殺幇助」が「同意殺人」と同一の法定刑で処断されていることは、むしろ「立法論的」にそのあり方が疑われるべきなのである。

  また、秋葉助教授は、自殺を自殺意思が自由なものと不自由なものに区別し、不自由な自殺意思に基づく自殺は違法であるとするが自由な自殺意思に基づく自殺は適法であるとしている(7)。その見解を要約すれば次のようになる。

・刑法二〇二条の保護法益は本人が主観的には自由に放棄している生命であり、その法益の価値は法益放棄の意思が全く存在しない刑法一九九条のそれと比べていくらか減殺されたものである。本条の減刑根拠はここに求められる。

・刑法二〇二条は最初から不自由な自殺意思を前提とする犯罪である。

・自殺研究の知見も全ての自殺が不自由なものとはしておらず、自由な自殺意思に基づく自殺があることを認めているので、刑法二〇二条は嫌疑刑の疑いもある。しかし、自殺意思のほとんどが不自由なものであるという事実を考慮するなら、生命法益の重要性にかんがみて、後見的配慮からこのような擬制から出発することも許される。

・自殺意思が自由なものであるときは本条の処罰根拠は失われ、違法阻却が認められる。これは安楽死のような場面にのみ言えることではなく、死期が迫っていなくても自殺意思が真実なものであるときは、その自己決定権の尊重は後退しない。

・不自由な自殺意思は生命という重要な法益に陵駕されるという刑法二〇二条の前提からするなら、不自由な自殺意思に基づく自殺それ自体も原理的には違法である。自殺者本人には刑罰の効果が期待しえないため、謙抑的に刑法の介入が差控えられているにすぎない。

  しかし、この説には次のような疑問が提起されている。第一に、秋葉説は刑法二〇二条の刑の減軽根拠を「不自由な自殺意思の場合」でもその生命は主観的には放棄されているので、その法益価値は刑法一九九条のそれに比べて「いくらか減殺されたもの」であるとしている。それと、「不自由な」自殺決意に基づく自殺者の生命は本人の意思に反しても保護価値を失わないという命題は調和しうるのであろうか。それは放棄意思の存在しない生命法益と「自己答責的に放棄」したそれとその「中間形態」としてのそれというように、生命の質的評価を行うことになるのではないか(8)。それは許されるのであろうか。第二に、刑法二〇二条が最初から「不自由な自殺意思を想定」したものであるならば、それは行為主体が不自由な自殺決意をした行為客体によって規定された一種の「身分犯」であることにならないだろうか(9)

  さらに、自殺自体は適法であることを認め、自殺関与罪の保護法益としては「(本人の)生命」から離れて「他者の利益(10)」を想定する見解がある。林教授は、生命は専ら本人のものであり、従って自殺は違法でないとし、「自殺関与罪」の保護法益を「生命」とするのは無理があるとする。教授は、自殺関与罪の違法性は、「本人以外の、周囲の人々の法益」を侵害することにあるとし、各個人の生命には、「周囲の人々の精神的・経済的利益」が依存していることが少なくないのであって、自殺関与罪はこのような利益を保護しようとするものであるとしている(11)

  自殺関与罪を「生命」に対する罪とは見ずに、「他者の利益」を侵害する罪とするのは、まず第一に「体系性」の観点から批判が加えられるであろう。同規定が置かれている位置からすれば、それを「生命」に対する罪と見ないことには無理がある。さらに、「周囲の人々の精神的・経済的利益」を問題にするのであれば、臨死介助の状況などにおいては、周囲の人々の「看病疲れ」などからむしろ被殺者の死への願いを聞き入れてやることが「周囲の人々の利益」と考えられる場合には、本規定の構成要件該当性が失われるということが安易に認められてしまうのではないかという疑問もある。

    次に、「自殺放任行為説」を検討する。自殺は適法でもなく違法でもない、法的に放任された行為あるいは法的に空虚な領域にある行為と考える見解(12)が存在する。たとえば大谷教授は、「生存の希望を失った人が自らの手で生命を放棄することに法が介入するのは、人格の尊厳に対する侵害であり、自殺によってもたらされる社会や家族に対する有害な事態は、この人格の尊厳を保障するために刑法上放任されている」としている(13)

  この見解に対してはそもそも「法的に空虚な領域」を認めることができるのか(14)が問題になる。通説によれば、ある行為は違法か適法かのいずれかであり、そのどちらでもない行為というものは存在しないと解されているからである。言い換えれば、少なくとも違法でないと判断される行為は適法と解してよいということでもある。もしこの説を採るのであれば、「法的に空虚な領域」の存在を積極的に証明する必要がある。

    このように、「自殺適法説」・「自殺放任行為説」の両説とも、正犯である自殺行為が違法ではないのに、なぜその共犯が可罰的なのかの説明が難しくなる。「自殺関与」も従属共犯たる性格を有する以上、もし自殺が違法でないのならばその教唆・幇助も不可罰になるはずである。ここで現行法が自殺の教唆・幇助を処罰していることとの評価矛盾が生じることになる。

  そこで、この説の論者は、この場合の教唆・幇助は総則でいう教唆・幇助とは違った形態であり、独立の「正犯的」行為形態であるとする。そして、「生命は本人だけが左右しうるのであり、他人の死に干渉し、原因を与えることは違法」である(15)と説明したり、あるいは、「自殺は違法ではないものの好ましくない行為であり、それを助長する行為は禁圧すべき」であるとする(16)のである。

  しかし、それが自殺の「教唆・幇助」という「共犯形式」の行為であると規定されているにもかかわらず、その共犯的性格を無視し、あるいは過小評価し、「正犯」であると説明するのには慎重でなければならない。刑法二〇二条における「自殺教唆・幇助」は、「共犯従属性、制限従属性」の原則からは、そのような特別の規定がなければ不可罰になるはずの、違法な行為への教唆・幇助が、各則上「特別に構成要件化されたもの」と考えられる。その限りでは、たしかに「正犯」である。しかし、その行為形態としては、「共犯形式」の行為が与えられているのであって、共犯は共犯としての当罰性が付与されるべきなのであり、それが「解釈論」及び「立法論」の解釈の指針とされるべきである。

    そこで、自殺を違法と考える説を検討する。まず、「自殺可罰的違法性欠如説」は、自殺は違法ではあるが可罰的違法性がないと考える(17)。たとえば大塚教授は「自殺は自損行為の極端な場合として、可罰的違法性を有しないと見るべきである。すなわち、生存の希望を失った者が、その生命を絶つ行為には、行為者に対する非難を躊躇させるだけでなく、刑法秩序の範囲内においても不問に付してよいとするのが刑法の趣旨である」とする(18)

  しかし、可罰的違法性のない違法な行為に対する共犯は、可罰的であるべきということになるのであろうか。正犯行為自体が可罰的違法性がないまでに違法性が減少し、教唆・幇助行為も一般に正犯行為に比べれば違法性が低いと考えることができる以上、その両者が相まって共犯は不可罰になるまでに違法性が減少するのではないだろうか。「自殺教唆・幇助」が可罰的であるためには、やはり自殺が可罰的違法性のある行為と考えざるを得ないのではないだろうか。

    以上のようにして、自殺は可罰的違法性もある行為であるが、責任が欠けるという「自殺責任阻却説」が残ることになる。ここでは大きく分けて、「自殺責任無能力説」と「自殺期待可能性欠如説」の二説が存在している。

  まず「自殺責任無能力説」は、自殺は可罰的違法性もある行為であるが、自殺者は責任無能力状態にあり責任が欠けると考える。これは自殺者の多くが精神病を患っており、弁識能力又は制御能力が欠けるとの主張であるが、すべての自殺者が責任無能力状態で自殺するとは必ずしも限らない以上、この論理には無理があると思われる。

  この点について、谷直之氏は、自殺意思が不自由なものであり、自殺が責任無能力状態で行われたと主張された根拠として以下のことを指摘している。中世ヨーロッパにおいて、キリスト教の影響のもと、自殺者の財産は没収され、その死体は教会のサービスも受けられず不名誉な埋葬が行われたのだが、それを回避する道が残されていた。それは自殺が正常な精神によって行われたのではなく、精神錯乱あるいは病気の影響により不自由な意思により行われた場合には、財産の没収が免除され、教会のサービスも受けることが可能であったので、自殺が行われた場合、往々にして残された家族らにより、自殺は不自由な自殺意思に基づくものであったとして申請され、処理される傾向が強かったのである、と。そして、自殺の「不自由意思」の問題には、このような歴史的背景の認識が必要である(19)という。

    従って、自殺の責任阻却の根拠は「期待可能性の欠如」に求めるべきであるとする「自殺期待可能性欠如説」がもっとも説得力を有すると思われる。すなわち、自殺は可罰的違法性もある行為であるが、自殺者にとってぎりぎりの選択でなされるものである以上、期待可能性がなく、責任が欠けるため類型的に不可罰となると解するべきなのである。

  なお、このように解しても、自殺は刊法一九九条の殺人罪の構成要件該当性をもつわけではない。刑法一九九条にいう「人」は、通常「他人」のことをさすと考えられているからである。このように、自殺は類型的に有責性が欠如しているので、現実の「犯罪類型(条文)」に該当するわけではない。しかし、自殺は刑法二〇二条が前提としている「可罰的違法類型」としての「構成要件」には該当し、かつそれは可罰的な違法でもある、ただ有責性が欠けるだけであると考えることは可能であり、自殺関与という共犯行為の従属している自殺という正犯行為はそのようなものであると考えることによってはじめて「自殺関与」が特別に構成要件化されていることを説明できるのではないだろうか。

    最後に、自殺関与罪の「実行の着手時期」について検討する。

  自殺関与罪の「正犯」としての独立罪的性格を強調する見解は、自殺関与罪の実行の着手時期を教唆者・幇助者が「自殺を教唆・幇助した時」と考える見解が多数であった(20)

  これに対して、自殺違法説の立場から、自殺関与罪の従属共犯的性格を重視する論者は、本罪の実行の着手時期を「自殺者が自殺に着手したとき」と解していた(21)

  この問題については、従来、いずれにせよ嘱託殺人・承諾殺人の実行の着手時期は行為者が殺害の実行に着手したときに求められることになるが、それとのバランスからいっても「自殺教唆・幇助」について前説のように「教唆・幇助時」に実行の着手を認めるのは、早すぎるのではないかと考えられてきた。

  しかし、近年では、「正犯」としての独立罪的性格を重視する論者からも、本罪の実行の着手時期を「教唆・幇助時」以外に求める見解が有力になってきている。たとえば、団藤博士は、「単なる教唆・幇助の域を越えて、現実に自殺に駆り立てる行為があったとき」にはじめて実行の着手が認められるとしている(22)。また、谷直之氏は、実行の着手時期は構成要件的結果発生の現実的危険の発生時に求められるべきであり、一般に共謀共同正犯に類似する自殺教唆及び自殺行為以前の幇助の場合には「自殺者の自殺行為の開始時」が未遂の成立時期であるとする(23)

  この問題につき、松宮教授は、自殺関与罪の実行の着手時期は、「共犯論」の問題というより「未遂論」の問題であり、他人の犯罪でない行為を介して結果を引き起こす「間接正犯」の着手の問題との類似性から、「独立犯説」から必ずしも「教唆・幇助時」を実行の着手時期としなければならないわけではないとしている(24)

  このように、近年では自殺関与罪の実行の着手時期の問題は、自殺適法説・違法説及び独立犯説・従属犯説の対立を直接反映しないものとなってきている。しかし、たとえば独立犯説の団藤博士の見解に対しては「単なる教唆・幇助を越えて、現実に自殺に駆りたてる行為」という概念は曖昧であるという批判がなされている(25)。いずれにせよ、従属犯説からは、実行の着手時期を自殺者の自殺の着手時に求めることになるが、この見解が最も論理一貫しており、かつ具体的な結論も妥当であるといえるであろう。

(1)  同意(承諾・嘱託)殺人罪が通常の殺人罪に比べて刑が軽いのは、被害者に生命処分についての「同意」があるからであるが、その「根拠」をめぐって@違法性減少説とA違法・責任減少説の対立があるといわれている。芝原邦爾「自殺関与罪・同意殺人罪」法学セミナー一九八三年四号一三二頁以下を参照。

(2)  たとえば、平野博士は、「死にたいといっている病人に頼まれて毒薬を買ってきて渡した場合、その薬を口に入れてやった場合、さらに水と一緒に飲み込ませてやった場合など、どこまでが自殺幇助で、どこからが同意殺かはっきりしない」と述べている。平野龍一「刑法各論の諸問題」法学セミナー一九八号九三頁以下。

(3)  滝川幸辰『刑法各論』(一九五一)三〇頁。

(4)  Alfred A. Go¨bel, Die Einwilligung im Strafrecht als Auspra¨gung des Selbstbestimmungsrechts, 1992, S. 44.

(5)  谷直之「自殺関与罪に関する一考察」同志社法学四四巻六号(一九九四)一九一頁以下。

(6)  谷直之・前掲論文(5)一九二頁。

(7)  秋葉悦子「自殺関与罪に関する考察」上智法学三二巻二、三号(一九九一)一九一頁。

(8)  上田健二「刑事法学の動き  秋葉論文に対する書評」法律時報六四巻五号(一九九二)一〇二頁。

(9)  上田健二・前掲注(8)一〇二頁。

(10)  吉田教授は、林説を「他者の利益」説と名付けている。吉田宣之「自殺教唆・幇助罪の処罰根拠」『刑事法学の新動向・上巻(下村康正先生古稀祝賀論集)』(一九九五)五六三頁以下を参照。

(11)  林幹人「自殺関与罪」法学セミナー四〇二号一〇八頁以下。さらに教授は、殺人罪もこのような利益を保護するものではあるが、そのような利益と比べて、生命があまりに大きな価値を持つために、背後に退いているにすぎないとしている(一〇九頁)。

(12)  平野龍一『刑法概説』(一九七七)一五八頁、斉藤誠二『刑法講義各論T(新版)』(一九七九)九七頁、金澤文雄『刑法とモラル』(一九八四)二一二頁。

(13)  大谷実『刑法各論の重要問題(新版)』(一九九〇)一九頁以下。

(14)  「法的に空虚な領域」をめぐる論考としては以下のものが重要である。金澤文雄「違法と適法及び法的に空虚な領域」『現代の刑事法学(上)(平場安治博士還暦祝賀論文集)』(一九七七)一六六頁以下、山中敬一「『法的に自由な領域』に関する批判的考察」関大法学論集三二巻三、四、五合併号(一九八二)三一頁以下。

(15)  平野龍一・前掲書(12)一五八頁。

(16)  前田雅英『刑法講義各論(第二版)』(一九九五)二六頁。

(17)  中山研一『刑法各論の基本問題』(一九八一)一七頁、大塚仁『刑法概説各論(第三版)』(一九九六)一八頁、大塚仁「自殺関与罪」団藤編『注釈刑法各則(三)』(一九六五)六二頁。

(18)  大塚仁・前掲書(17)(概説各論)一八頁。

(19)  谷直之・前掲論文(5)一七三頁。

(20)  たとえば平野博士は、教唆・幇助が独立の犯罪類型とされ、その未遂が規定されている場合は、教唆・幇助行為があれば、実行の着手があったと解するほかないとされている。平野龍一・前掲論文(2)九四頁。

(21)  中山研一『刑法各論』(一九八四)三七頁、大塚仁・前掲書(17)(概説各論)二一頁など。

(22)  団藤重光『刑法綱要各論(第三版)』(一九九〇)四〇八頁。

(23)  谷直之・前掲論文(5)一九三頁。

(24)  松宮孝明「自殺関与罪と実行の着手」『刑法の諸相(中山研一先生古稀祝賀論文集)第一巻』(一九九七)二四七頁。

(25)  金築誠志「自殺関与・同意殺人罪」大塚=河上=佐藤編『大コンメンタール刑法』(第八巻)一二二頁。

 

第四節  「承諾・自己答責能力」と「意思の瑕疵」について

    第三節において検討したように、我が国では、刑法二〇二条の構成要件該当性の問題に関して、本条の適用は被害者の「不自由な生命処分」に限るとする見解が存在している。たとえば、町野教授は同意殺・自殺関与の処罰は「自殺者の意思はその精神状態からして不自由であり瑕疵を免れないのに、他人が自殺者の後押しをすることは許されない」ということであるから「瑕疵ある自殺意思こそ本条の前提とするもの」であるとし(1)、秋葉助教授も、刑法二〇二条は被害者の生命処分の自己決定は「不自由なものであることを根拠として、これが覆されない以上、原則として生命保護を優先させるべきことを定めた規定」であると説明していた(2)

  しかし、被害者において、「判断(意思)能力」の欠如が認められ、あるいは「欺罔に基づく錯誤」や「強制」によって「意思の瑕疵」が存在するのであれば、もはや行為者に「被害者の事情」による刑の減軽という特典は与えられず、通常の「殺人罪」で処罰される可能性が生じてくる。すなわち、被害者の生命処分意思が「不自由」であったなら、それはもはや刑法二〇二条にいう「同意(承諾・嘱託)」でも「自」殺でもないので、本条の構成要件該当性が失われ、むしろ行為者は道具である被害者自身を利用した「殺人罪」の間接正犯ではないかと考えられることになるのである。

  従って、刑法二〇二条の適用においては、被害者の「生命処分意思」が自己の決定の射程を理解する「判断(意思)能力」の存在のもとで、「意思の瑕疵」が無く為されたものでなくてはならない。むしろ、問題は「判断能力の不十分さの程度」や「意思の瑕疵の程度」が、刑法二〇二条と刑法一九九条(殺人罪)の区別にとって重要な意義を有しているということなのである。

  なお、「被害者の自己答責性」の認定においても、「被害者の内心的決意の自由答責性」は「被害者の自己答責性」の存在にとって、必要条件の一つである(3)のだから、同様に「正常な判断能力(自己答責能力)」の存在と「意思の瑕疵」の不存在が必要とされることになる。但し、ここで注意しなければならないことは、被害者の自己答責性原則は刑法二〇二条の内部において、同意殺人正犯と自殺の共犯を区別する概念であって、刑法二〇二条(特に同意殺人罪)と刑法一九九条の限界を画する概念ではないということである。言いかえるならば、この原則によれば「被害者に自己答責性が認められない場合には、刑法二〇二条ではなく、刑法一九九条が成立する」ということになるのではない。刑法二〇二条は、行為態様や目的に何ら限定をつけず自殺教唆・幇助を処罰し、あわせて被害者の嘱託・承諾が存在したことのみを成立要件としているのであって、この構成要件はある程度幅のある事案を広く捕捉しているものと考えざるを得ないのである。

  そこで、本節では、刑法二〇二条の「承諾殺人・自殺関与罪」の成立について必要とされる「承諾・自己答責能力」と「意思の不瑕疵性」の問題について、検討を加えることにする。

    まず、「能力」の問題から検討することにしよう。

  「能力」の欠如によって、刑法二〇二条の構成要件該当性が失われる場合は、@被害者が「精神障害者」である場合とA被害者が「年少者」である場合が考えられる。

  @の場合に属する我が国の判例としては、最高裁昭和二七年二月二一日決定(4)がある。本件では、加持祈祷者である被告人が、相当強度の精神分裂病患者である被害者の治療を引き受け、加持・祈祷等を行ったけれども治療の見込みが無く、引き取った被害者が毎晩のように大小便をしくじったりしたので、これを持て余した末、被害者が通常の意思能力もなく、自殺のなんたるかも理解せず、しかも被告人の命じることは何でも服従するのを利用して、あらかじめ遺書を書かせて、縊首の方法を教えて死亡させたのであった。最高裁は、「第一審判決は、本件被害者が通常の意思能力もなく、自殺の何たるかも理解しない者であると認定した」のであるから、刑法二〇二条ではなく刑法一九九条を適用したのは正当であると判示した。

  また、Aに関しては、大審院昭和九年八月二七日判決(5)がある。本件は親子心中のケースであるが、子供を道連れにして自殺しようとした父親が実行をためらった際に、子供が「早く死のう」と催促したという事案であった。判決では、被害者は当時五歳十一ヶ月の「幼児」であり、「自殺の何たるかを理解する能力」を有しておらず、従って、自己の殺害を「嘱託」し、又は「承諾」していたと認めることはできないと判示した。

  刑法二〇二条の構成要件該当性における被害者の「能力」の問題にとって、「年齢」が一定の意味を持つことは考えられる。たとえば、ドイツでは、既に第一章第四節において検討したように、「一九八六年臨死介助対案」の第二一五条「自殺不阻止」の問題において、他人の自殺を阻止しない者は、自殺が「自由答責的」であった場合には違法ではないとした上で、「一八歳未満」の者、及び「ドイツ刑法二〇条(責任無能力規定)、二一条(限定責任能力規定)」に照らして自由な意思決定が侵害されている場合には、被害者の自殺は「自由答責的」とは言えないとしていた。ここで「一八歳」という比較的高い年齢が設定されていることが注目に値する。なぜ「一八歳」なのかは明らかではないが、おそらくそれはドイツ民法における無能力者規定と関連があるのであろう。すなわち、ドイツ民法によれば、成人年齢は、我が国と異なり「一八歳」であるが、それ以下の者は「行為無能力者」として、単独での財産処分権限が制限されている。「法秩序の統一性」の観点から、民法で規定された未成年者の財産に関する「処分能力」の欠如は、刑法においても妥当し、彼の処分権が制限される。そして、財産に関してさえ、一八歳未満の者は処分権が制限されるのであるから、財産より重要な「生命」に関しては、やはり彼に「処分権」を認めることはできないのである、と。

  しかし、既に見たように、「心中の生き残り事件(6)」では、被害者は「一六歳」であったが、彼女の自己の生命処分に関する「能力」は肯定され、故殺罪など通常の殺人罪ではなく、「要求による殺人罪」が成立するとされていた。その意味では、対案が目指した立法は、判例において認められていた未成年者の生命処分に関する能力を、さらに引き上げることをも意味していたと考えられる。あるいは、この問題については、「嘱託能力」と「自己答責性能力」を厳密に区別することによって説明が可能であるかもしれない。つまり、「自殺不阻止」の問題領域において、それが被害者の「自己答責的な自殺」であり、関与者が「不可罰」とされるためには、十八歳という高い「自己答責能力」が必要とされるが、刑法二一六条の成立にとって必要とされる「嘱託能力」はそれほど高いものでなくてもかまはない、行為者はいずれにせよ処罰されるのであるから、と考えるわけである。しかし、仮にそうだとしても、それほど高い年齢を要求すべきかには疑問がある。ましてや、前述した論理に従うならば、我が国においては「二〇歳」まで被害者の能力を認めないことになりかねないが、それほど「高い年齢」が必要であるとは思われないのである。

    さらに、「意思の不瑕疵性」の問題のうち、まず「欺罔に基づく錯誤」によって、被害者の生命処分意思が生じた場合に刑法二〇二条の構成要件該当性が失われるかが問題になる。

  そのような事例としては「偽装心中」が特に問題となる。「偽装心中」に関する我が国最初の判例は仙台高裁昭和二七年九月十五日判決(7)であるといわれている(8)。事案は、夫の愛人に対して、同死を装い、自殺を慫慂し、準備していた硝酸ストリキニーネを被害者の口中に差入れ、ついでコップで水を与え嚥下せしめ死亡させたというものであった。原審は「承諾殺人」を認定し、刑法二〇二条後段を適用したが、本判決では原判決を破棄し、殺人罪(刑法一九九条)の成立を認めた。

  また、最高裁昭和三三年一一月二一日判決(9)は、被告人が被害者である女性に別れ話を持ちかけたところ、彼女がそれに応じず心中を申し出たので渋々相談に乗ったものの、被告人は途中から心中する気がなくなったのに、女性が自分を愛して追死してくれると信じ込んでいるのを奇貨とし、追試するごとく装い青酸ソーダを同女に与え、それを飲ませて死亡せしめたという事案であった。判決では、被害者は被告人の欺罔の結果被告人の追死を予期して死を決意したものであり、「その決意は真意に沿わない重大な瑕疵ある意思」であることは明らかであるとした上で、このような場合、被告人の所為は通常の「殺人罪」に該当するとした。

  さらに、名古屋高裁昭和三四年三月二四日判決(10)は、三角関係を清算し、被害者の金品を奪取する目的で同死を装ったところ、被害者が被告人の手によって殺してもらいたいと申出たのを幸いに、マフラーで絞殺し、金品を奪ったという事案において、裁判所は「強盗殺人罪(刑法二四〇条後段)」の成立を認めた。以上のように、我が国の判例は、「偽装心中」の場合に一律に刑法二〇二条の適用を排除している。

  一方、通常の「心中」の未遂の場合には、我が国の判例は刑法二〇二条を認定している。たとえば、福島地裁昭和三四年五月二〇日判決(11)では、妻子のある四三歳の男性が将来を悲観して愛人との心中を決意し、彼女の要求に応じて牛刀でこれを刺殺した。また、前橋地裁高崎支部昭和三四年七月二七日判決(12)では、人妻と駆け落ちした男性が所持金も尽きて心中することとし、被害者の承諾を得てネクタイで絞殺した。これらの事件では、いずれも、刑法二〇二条後段が適用されているのである。

  では、「偽装心中」の場合であっても、通常の「心中」未遂の場合と同様に、被害者の側から見れば「生命処分の意思」を有しているのに、なぜ刑法二〇二条の適用が排除されたのであろうか。松尾教授も指摘しているように(13)、その判断の中に、被告人の責任非難の重さについての評価が背景に潜むことがまず挙げられるであろう。当初はたしかに心中の意思を有していたが、途中で心変わりしてしまった通常の心中(未遂)の場合と異なり、偽装心中の場合には「被害者の同意」という「被害者側の事情」による減刑という特典を行為者に与えるべきではないという考え方である。ここでは、もっぱら「行為者側の事情」が、「偽装心中」と「通常の心中(未遂)」の取扱いを異なったものにするための論拠であることになる。しかしながら、判例の論拠は、偽装心中の場合には、被殺者の死の決意が「真意に沿わない重大な瑕疵ある意思」であることであった。このようなもっぱら「被害者側の事情」に着目し、それが「真意に沿わないものであったかどうか」という基準によるのならば、「通常の心中未遂」の場合であっても追死するはずであった被告人は心変わりして生き延びたのであって、被害者から見れば事象経過に関する錯誤のために、死の決意は「真意に沿わない」ものであったことになるのではないだろうか。判例のいう基準と実際の取扱いには、矛盾があるように思われるのである。

  また、ドイツにおいても、以下のような偽装心中に関する判例が存在する。

  「偽装心中事件」(BGH Urteil vom 3. 12. 1985(14))

  (事実)  被告人である妻は、数ヶ月間姦通を続けていたが、夫の存在がじゃまになり、彼を片づけたいと思うようになった。被告人は、毒物によって夫を片づけようと考え、実行日に、毒物帳簿への記載を避けるために、毒物一瓶を万引きし、調達した。被告人は、密かに夫にその毒物を飲ませるのではなく、彼を説得して毒物を自ら飲むように仕向けようと考えた。被告人は、自分は死ぬ気はなかったが、心中しようと芝居することによって目的を達成しようとした。夫に心中を提案したところ、夫はそれに同意した。二人は車で人里離れたところに行った。夫は自ら毒物を一口のみ、(認定ではそれだけで死に至るものであった)妻に毒物を渡した。彼女は首を激しく振り、毒物を飲むことを拒否した。夫は騙されたと悟り、さらにその毒物を一口飲んだ。夫はその毒物によって死亡し、被告人は原審で下劣な動機による「謀殺」で有罪とされていた。

  (判旨)  裁判所は、被告人の処罰のために必要な行為の「正犯性」について、以下のように述べている。

  原審は、被告人は故意に被害者を殺害したのであって、被害者の自殺に関与したのではないということから出発している。ここで、原審は、被告人がともに死ぬと偽って、被害者を説得して毒物を飲ませたことを決定的なものとして考慮している。当刑事部は、この種の錯誤を惹起することが欺罔者の「正犯」を根拠づけるのに十分であるかについては、未解決なままにしておく。むしろ、事実認定によれば、被告人は欺罔によって被害者を死に追いやったのみならず、計画された事件の経過について「行為支配」を自らの手中に収めることを望み、実際にそうなったのである。被告人は、当該事件の経過を、全ての本質的な些細な点に至るまで決定した。従って、被告人を殺人の正犯と見なした原審の判断は正当である、と。

  この事件では、心中の提案者は被告人自身であり、刑法二一六条の「要求による殺人」ははじめから問題にならない。従って、自殺の関与(教唆)ではなく、被告人行為は「正犯」であったと認定されれば、通常の「殺人罪」が問題になる。では、この事案において、被告人の「正犯性」を認定すべきであったのだろうか。この点につき、「被害者の自己答責性」の観点を重視するウルフリット・ノイマンは、@自殺者は自殺決心の現実化によって惹起された事象について錯誤していることにA背後者は被害者の動機の錯誤について「答責的」であることを付け加えて考慮すると、判旨の認定は適切なものであったと判断している(15)

    「欺罔に基づく錯誤」の問題に関して、以上のような「(偽装)心中」の場合だけが問題になるのではない。以下のような大変興味深い判例がドイツに存在している。

  「シリウス事件」(BGH Urteil vom 5. 7. 1983(16)

  (事実)  被告人は、一九七三年又は一九七四年に、ディスコで一九五一年生まれの証人(被害者)の女性と知り合った。彼女は、当時まだ自立しておらず、コンプレックスを背負っていた。被害者は、被告人と親密な友情を結んでいたが、彼らにとって性的な接触は本質的なことではなく、むしろ関係の対象は、心理学や哲学に関する討論であった。そのような討論を繰り返すことによって、被告人は、被害者を自分に盲目的に信用させることに成功した。

  ある時、被告人は、自分がシリウス星の住人であるといいだし、シリウス星人は哲学的に人間より遙かに高い段階にあるということ、自分は人間の中でも価値のある数名のもの(その中に被害者も含まれているとしていた)を肉体の崩壊の後でその魂を他の惑星かシリウス星で生き続けることができるようにするために、地球に派遣されてきたのだと述べた。

  被害者が、完全に自分を信頼しているということを認識したとき、被告人はそれを利用して儲けようと考えた。彼は、被害者に、自分の知人が修道院で、被害者のために完全な瞑想状態にはいることによって、被害者の肉体が滅びた後、その魂が別の身体に入って生き続けることができるようになると述べた。そして、そのためにはその知人が生活している修道院に三万マルク支払わなければならないとした。被害者は、被告人の言うことを信じ、銀行から借りて必要額を調達した。被告人は、そのお金を自分のために費消した。

  被告人は、なお被害者の自分に対する信頼が持続していることを感じ取ったとき、彼女を利用してさらなる金儲けをしようと考えた。被告人は、彼女に、レマン湖の畔にある赤い部屋に、彼女のための新しい肉体が既に用意されており、もし古い肉体を捨てるならば、芸術家としての新しい出発が可能になるとうそをついた。そして、新しい生活を始めるためにお金が必要になるであろうから、古い肉体を捨てる前に生命保険契約を締結しておき、その受取人を自分にしておけば、自分は受け取ったお金を生まれ変わったあなたに渡すであろうと述べた。

  被害者は、被告人の言うとおりの方法で数回自殺を試みたが失敗し、被告人は彼女に自殺させることを断念した。

  なお、被害者において、「生命が永久に終結する」という意味での「本来の意味における自殺」は、このとき彼女の頭の中に存在しなかった。彼女は、人間は自殺する権利がないと考え、それを拒絶していたのであった。

被告人は、原審において、謀殺未遂、詐欺などによって、七年の自由刑を言い渡されており、上告が棄却された。

  (判旨)  ここでも、「欺罔に基づく錯誤」と可罰・不可罰を分ける「正犯性」の関係が重視され、以下のように判示された。

  「不可罰的な自殺関与と可罰的な殺人正犯」との限界付けの問題は、他人の影響のもとで自殺する者が、刑法二〇条(責任無能力)に挙げられている精神状態にあるとか、刑法三五条(免責的緊急避難)の意味における危難状態にあるのではなく、欺罔されて自殺する気にさせられた場合には、抽象的に答えることはできない。その限界付けは、個別事例において、錯誤の種類と影響範囲に依存する。

  自殺者に対して、その者の死の原因となる事実を隠す場合、錯誤を引き起こし被欺罔者を死に導くことになる事象を、錯誤を利用することによって意識的にかつ故意的に引き起こした者は、優越的な知識によって、未遂又は既遂の殺人正犯である。彼は、その知識を通して自殺者を制御し、自殺者を自分自身に対する道具にするのである。本件は、まさしくそのような事案であった。

  この判決では、被害者は「精神障害者」ではないとされた。本件について、神山教授は、なぜこのような幼稚な手口に被害者は騙されたのか疑問であり、通常の判断能力を備えていたのであればこのような手口で騙されることは尋常では考えられないが、しかし宗教や天体の分野では、いかにばかばかしいと思われるようなことさえも信じ込む者がいるのも確かであるとし、本件の場合は、裁判所の認定通り、被害者は「判断能力」を有していたことを前提として考えざるを得ないとしている(17)

  従って、この判決では、被害者は判断能力は有していたが、しかし「錯誤」はあった。すなわち、「自殺」とは「生命の永久的な放棄」であるが、被害者は自分のしようとしていることはそれではなく、新たな肉体に魂を移行させるための一通過点にしかすぎないと認識していた。また、そもそも被害者は、「自殺」は許されないものであり、人間には「自殺する権利」はないと考えていた。

  このように、「自殺」行為を被害者が行っておりながら、被害者が成人で通常の判断能力を有するにも関わらず「生命の永久的放棄」という意味を分かっていなかったというのは、本件のように「宗教・哲学」などが絡む特殊なケースでない限り、普通は考えられない。我が国でも、大審院昭和八年四月一九日判決(18)は、全然自殺する意思のない愚鈍な被害者を、頸部を縊って一時仮死状態に陥っても、再び蘇生しうるものと誤信させて縊死させた事案であるが、この事件の被害者は、自己の行為の意味を理解しておらず、かつ、そもそも彼は「判断(意思)能力」を有していなかったのではないかと考えられるのである(19)

    以上のような「欺罔」による「意思の瑕疵」と刑法二〇二条の成立如何という問題に関して、我が国の学説においては、大別すると@欺罔の結果得られた承諾は「真意に沿わない重大な瑕疵ある意思」として無効であり、刑法二〇二条は成立せず殺人罪が成立するという見解(20)とA同意の内容と意味についての錯誤があればその同意は無効であるが、死ぬこと自体には錯誤が無く、ただその「動機に錯誤」があるにすぎない場合には刑法二〇二条が成立するという見解(21)に分かれている。また、Aの見解のヴァリエーションとして、B「法益関係的錯誤」か否かで同意意思の有効無効を決し、たとえば偽装心中については、他人の生命に関する錯誤であって、それは被害者の生命と無関係な事情についての錯誤にすぎないからなお刑法二〇二条が成立するという見解(22)と、さらにC「法益関係的錯誤説」を基調として、「法益関係的錯誤」以外に「他人の利益のために法益を犠牲にしようとする」目的について欺罔がある場合と「危害を避けるつもりで法益を犠牲にしようとした」目的について欺罔がある場合には、承諾は無効であると考える見解(23)がある。

  「欺罔による意思の瑕疵」と「被害者の承諾の有効性」という場合、「自由」や「財産」などの法益の場合には、それがまさしく可罰・不可罰の限界を意味しているが、「生命」の場合には、刑法一九九条と二〇二条の限界であるにすぎず、いずれにせよ処罰されることにかわりがない。問題は具体的事案がいずれの条文で捕捉されるのがふさわしいのかということに尽きる。この点、刑法二〇二条は、自殺関与につき「教唆・幇助」の方法になんら限定をつけておらず、また、単に「嘱託・承諾」の存在のみを減軽類型である刑法二〇二条成立の必要条件としているにすぎない。従って、被害者がおよそ「死」の意味を理解して承諾している場合には、行為者の目的・行為態様等にかかわらず刑法二〇二条の成立を認めるべきであろう。AないしBの説が妥当なように思われる。

    さらに、「強制」(威迫)による「意思の瑕疵」が刑法二〇二条の成立に与える影響について検討する。

  我が国で、被告人の「威迫」によって被害者に自殺意思が生じた場合に、なお刑法二〇二条の成立を認めた判例が存在する。広島高裁昭和二九年六月三〇日判決(24)は、被告人である夫が妻に不貞があるものと邪推し、妻が自殺するであろうことを予見しながら暴行・脅迫を繰り返した結果、妻が縊死して自殺した事案であった。裁判所は、「犯人が威迫によって他人を自殺するに至らしめた場合、自殺の決意が自殺者の自由意思によるときは自殺教唆罪を構成し、進んで自殺者の意思決定の自由を阻却する程度の威迫を加えて自殺せしめたときは、もはや自殺関与罪ではなく、殺人罪をもって論ずべきである」としつつ、本件では被告人の威迫は被害者の意思決定の自由を失わしめる程度のものであったと認定する確証がないとして、自殺教唆罪を肯定したのである。

  他方、最高裁昭和五九年三月二七日決定(25)は、厳寒の深夜、酩酊しかつ暴行を受けて衰弱している被害者を堤防上に連行し、未必の殺意をもって、着衣を脱がせた上、脅迫的言動を用いて同人を川岸まで追いつめ、逃げ場を失った同人を川に転落するのやむなきに至らせて溺死させた行為を「殺人罪」にあたると判断した。

  両事案からは、「被害者の意思決定の自由を失わせる程度の威迫(強制)」が被告人から加えられたかが、殺人罪と自殺関与罪を区別するメルクマールということになる。ここで、自殺関与罪が排除され、殺人罪が成立するためには、そのような威迫が@意思決定の自由を「完全に」失わせる程度まで必要か、あるいはA自殺を選択することが無理もないと考えられる程度で足りるかが問題になる。この点につき、振津教授は、たとえば、自殺しなければ拷問して殺すと脅して、より苦痛の少ない自殺を選択させる場合など、意思決定の自由を奪うに足る「相当強度の威迫」がなければ、死ぬことの認識のある被害者の行為を利用した「殺人罪」を認めることはできないとされている(26)。これに対して、金築氏は、Aの場合で足りるとし、前掲広島高裁昭和二九年六月三〇日判決は、意思決定の自由が完全には失われていなかったとしても、被害者が自殺を選択したことは誠に無理もないと考えられるのであって、普通殺人罪の成立を認めてもよい事案だったのではあるまいかとしている(27)。この問題については、前述したように刑法二〇二条の条文はある程度幅のある「情状の悪い」事案まで捕捉しているのであり、殺人罪の間接正犯を認定するのは慎重でなければならない。前者の解決法が妥当であろうと思われる。

    最後に、被害者の「意思の瑕疵」が刑法二〇二条の成立に影響を与える問題として、「欺罔による錯誤」と「威迫」が入り交じった興味深い判例が存在する。福岡高裁宮崎支部平成元年三月二四日判決(28)は、当時六六歳の一人暮らしの被害者の女性から七五〇万円の金員を欺罔手段を用いて借りて、その返済のめどが立たなかったので彼女を自殺するよう仕向けることを企て、彼女が他人に金員を貸していたことを「出資法違反で刑務所に入ることになる」などと虚偽の事実を述べて脅迫し、さらに警察の追求を逃れるためといって諸処を連れ回ったり、自宅や空き家に一人で住まわせ、彼女にもはや逃げ場はないと思いこませ、身内に迷惑がかかるのを避けるためにも自殺するほか道はないと執拗に慫慂し、彼女をして農薬を嚥下させて自殺せしめたという事案であった。裁判所は、「自殺者の意思決定に重大な瑕疵を生ぜしめ、自殺者の自由な意思に基づくものと認められないときには、もはや自殺教唆とはいえず、殺人罪に該当する」とした上で、本件では「被害者の自殺の決意は真意に沿わない重大な瑕疵のある意思であるというべき」であって、「被害者の自由な意思に基づくもの」とはいえず、被告人の所為は「自殺教唆」ではなく「被害者の行為を利用した殺人行為」に該当すると判示したのであった。

  本件の場合は、まず被害者には死ぬこと自体に錯誤があったわけではない。しかし、被告人の自殺慫慂行為は長期にわたりかつ執拗であったのであり、加えてその方法も欺罔を中心としながらそれを越えて威迫的態様にまで及んだのであるから結局その自殺は自由な意思決定に基づくものとみることはできないとして、判旨に賛成する見解が多数である(29)。しかし、「警察の追及が間近に迫っている」という「威迫」で、意思決定の自由を「完全に」失わせるといってよいのかは検討の余地があるようにも思われる。

(1)  町野朔『犯罪各論の現在』(一九九六)二〇頁。

(2)  秋葉悦子「自殺関与罪に関する考察」上智法学論集三二巻二、三号一八八頁。

(3)  Vgl. Ralf Hohmann und Pia Ko¨nig, Zur Begru¨ndung der strafrechtlichen Verantwortlichkeit in den Fa¨llen der aktiven Suizidteilnahme, NStZ 1989, S. 308.

(4)  刑集六巻二号二七五頁。

(5)  刑集一三巻一〇八六頁。

(6)  BGHSt 19, 135ff.

(7)  高刑集五巻一一号一八二〇頁。

(8)  宮野彬「殺人−偽装心中と殺人罪」『判例刑法研究5』(一九八〇)一八頁。

(9)  刑集一二巻一五号三五一九頁。

(10)  下刑集一巻三号五二九頁。

(11)  下刑集一巻五号一二六九頁。

(12)  下刑集一巻七号一七〇七頁。

(13)  松尾浩也「偽装心中と殺人罪」刑法判例百選U(各論)(第三版)七頁。

(14)  BGH GA 1986, 508f.  なお、本判決に関する我が国の文献として、以下のものを参照。神山敏雄「自殺関与をめぐる正犯と共犯の限界」岡山法学三九巻四号五五一頁以下。

(15)  Ulfrid Neumann, Die Strafbarkeit der Suizidbeteiligung als Problem der Eigenverantwortlichkeit des”Opfers, JA 1987, S. 254.

(16)  BGHSt 32, 38ff=BGH NStZ 1984, 70ff.  なお、本判決に関する我が国の文献として、以下のものを参照。神山敏雄・前掲論文(14)五四六頁以下、橋本正博「『行為支配論』の構造と展開」一橋大学研究年報法学研究一八号二七五頁以下。

(17)  神山敏雄・前掲論文(14)五五〇頁。

(18)  刑集一二巻四七一頁。

(19)  振津隆行「自殺関与罪と殺人罪の限界」刑法判例百選U(各論)(第四版)六頁。

(20)  団藤重光『刑法綱要各論(第三版)』(一九九〇)四〇〇頁、大塚仁『刑法概説各論(第三版)』(一九九六)二〇頁。

(21)  平野龍一『刑法総論U』(一九七五)二五六頁、中山研一『刑法各論』(一九八四)三六頁、内藤謙『刑法講義総論(中)』(一九八六)五九二頁。

(22)  山中敬一「被害者の同意における意思の欠缺」関西大学法学論集三三巻(一九八三)三、四、五号合併号三三一頁以下、佐伯仁志「被害者の錯誤について」神戸法学年報一号(一九八五)六六頁以下。

(23)  斉藤誠二「欺罔に基づく承諾」『特別講義刑法』一〇一頁以下。

(24)  高刑集七巻六号九四四頁。

(25)  刑集三八巻五号二〇六四頁。

(26)  振津隆行・前掲判例評釈(19)七頁。

(27)  金築誠志「自殺関与・同意殺人罪」大塚=河上=佐藤編『大コンメンタール刑法』八巻一一七頁。

(28)  高刑集四二巻二号一〇三頁、判例タイムズ七一八号二二六頁。

(29)  振津隆行・前掲判例評釈(19)七頁、曽根威彦「自殺教唆と殺人の限界」法学セミナー四三〇号一一七頁など。

 

第五節  小    括

    以上、見てきたように、ドイツの刑法二一六条と我が国の刑法二〇二条は、@「自殺関与」の可罰・不可罰およびA「承諾殺人」の刑罰減刑の有無、さらにB「要求による殺人」と「嘱託殺人」の射程範囲の点で相違がある。

  このうち、特に@の「自殺関与の可罰・不可罰」という相違が重要である。

  ドイツにおいては、自殺の「構成要件不該当性」と「制限従属性」の観点が重視され、いくつかの少数説(1)をのぞき、自殺関与が「共犯」として「不可罰」であることは何ら疑問視されていないように見える(2)。そこで、むしろ関心は、どのような「基準」で「可罰的な要求による殺人正犯」と「不可罰の自殺共犯」を区別するのかという点に集中しているのである(3)

  そして、この点について、BGH判例は「行為支配」の観点に着目することによって、行為者の積極的な作為による場合はもちろん、「自殺不阻止」のような不作為の場合にまで、特に被害者が意識喪失の状態に陥った後は、行為者にのみ結果発生へと至る因果経過を変更する可能性が残るとして「行為支配性」=「正犯性」を肯定してきた。それに対して、学説においては、そのような判例の傾向を批判し、「正犯性=可罰性」を「制限」するための原則として、「被害者の自己答責性」原則が生まれたのである。

    それに対して、我が国の刑法二〇二条に関する議論においては、「自殺関与」が「同意殺人」と同一の条文で、同一の法定刑のもとで処断されているという立法状況を前提とし、議論の関心は「自殺教唆・幇助」の可罰性の根拠付けとその実行の着手時期をどのように合理的に説明するかに集中していたように思われる。そこでは、共犯形式で規定されている「自殺関与」と正犯形式で規定されている「同意殺人」の区別を行うことの実益が少ないことが指摘されたり(4)、また、「自殺関与」は「教唆・幇助」という行為形式が与えられているにもかかわらず、その「共犯的性格」を過小評価し、「独立した正犯形式」の犯罪であるとの説明(5)が有力になったりもしたのである。

  しかし、問題は自殺関与罪がどういう意味で「正犯」であり「独立罪」であるのかということである。たしかに、自殺関与は各則に特別に構成要件化されていることによってはじめて処罰が可能になっているのであり、純粋惹起説の論者(6)がいうように「殺人罪の共犯」でもあると見るのは正当ではない。そのように見ると、仮に「自殺関与罪」が非犯罪化された場合、原則にかえって「殺人罪の共犯」として処罰することになってしまいかねないからである。しかし、自殺関与罪が自殺の「教唆・幇助」という「共犯形式」の行為であると規定されているにもかかわらず、その「従属共犯的性格」を無視し、あるいは過小評価し、「正犯」であると説明するのは慎重でなければならない。それらの説の論者は、自殺適法説もしくは自殺放任行為説を支持することが多いのであるが、「生命」の処分をそのように「適法」あるいは「放任行為」であると見るのは問題があるように思われる。個人の「自己決定権」尊重の利益は、個人の棄滅を意味する「生命処分」の場合にまで貫徹されるべきであるとは思われない。

  さらに、自殺関与罪の「実行の着手時期」の問題について、「独立犯説」はその帰結として自殺の「教唆・幇助時」に未遂の成立を肯定することが多い。しかし、これでは「同意殺人罪」の実行の着手時期との間でバランスが悪く、そもそも未遂の成立範囲が広がりすぎるとの批判が向けられることになる(7)

  このように、「自殺関与」は、あくまで「共犯形式」の行為が特別に構成要件化されているだけであり、その「当罰性」にふさわしい行為が捕捉されるように解釈論を展開すべきであるように思われる。

    従って、自殺と自殺関与の法的性質についていえば、以下のように説明すべきであろう。

  「自殺」は、それがたとえ「自己答責的な」ものであったとしても、なお「違法」な行為といわざるを得ない。このように「自己答責的な自殺」でさえ違法であると考える理由は、被害者の「生命処分」が全く適法なものであったならば、その阻止行為は「強要罪」に該当し得るはずですが、自殺の阻止行為は自殺が「自己答責的」であるか否かに関わりなく、現実に「正当な」行為と見なされている。その限りで、被害者の生命処分はそれが「自己答責的」であろうとも、なお「違法」なものと解さざるを得ないのである。

  従って、刑法二〇二条における「自殺教唆・幇助」は、「共犯従属性、制限従属性」の原則からは、そのような特別の規定がなければ不可罰になるはずの、違法な行為への教唆・幇助が、特別に構成要件化されたものと考えるべきことになる。

(1)  Eberhard Schmidha¨user, Selbstmord und Beteiligung am Selbstmord in strafrechtlicher Sicht, Festschrift fu¨r H. Welzel, 1974, S. 812ff.,

  Peter Bringewat, Die Strafbarkeit der Beteiligung an fremder Selbstto¨tung als Grenzproblem der Strafrechtsdogmatik, ZStW 87(1975), S. 623ff.

(2)  もちろん、前述したように(第一章第二節参照)、ドイツの判例では「自殺不阻止」の場合のように、自殺の不作為的「共犯」と見られる場合を不作為の殺人「正犯」として処罰してきたのではないかという問題がある。

(3)  Vgl. Friedrich Cristian Schroeder, Beihilfe zum Selbstmord und To¨tung auf Verlangen, ZStW 106, 1994, S. 566f.

(4)  前田雅英『刑法各論(第二版)』(一九九五)二七頁。

(5)  谷直之「自殺関与罪に関する一考察」同志社法学四四巻六号(一九九四)一九二頁を参照。そこでは、制限従属性説によれば、共犯の処罰には正犯が「構成要件該当的」な「違法」であることが必要とされるが、自殺はこの「両方」を欠くものであるので、自殺関与は「共犯」としては捉えられず、刑法二〇二条における規定の順序や「幇助」に「正犯・教唆犯」に対する刑の軽減が認められていないことから、それは「正犯として独立した犯罪類型」であるとされている。しかし、規定の順序や「幇助」の減刑のない処罰については、立法論的にまさにそこに問題があると考えられるのである。

(6)  Vgl. Eberhard Schmidha¨user, a. a. O. (1), S. 814f.

(7)  もっとも、本罪の「実行の着手時期」の問題は、「共犯論」ではなく、あくまで「未遂論」の問題であり、「独立犯説」から「自殺行為の着手時」にそれを求めることは可能であるとの指摘が為されている。松宮孝明「自殺関与罪と実行の着手」『刑法の諸相(中山研一先生古稀祝賀論文集)第一巻』(一九九七)二四七頁参照。

 

むすびにかえて

    以上の考察から得られた結論をここでまとめてみよう。

  「被害者の自己答責性原則」は、ドイツの判例及び学説で発展してきた原則であるが、この理論は、ドイツの一九八〇年代の重要な四つの判例を契機として、ここ十数年の間に議論が深まってきているといえよう。その四つの重要判例とは、自殺関与事例における@「意識喪失後の積極的臨死介助事件(1)」とA「ヴィティヒ事件(2)」であり、広義の自己危殆化事例におけるB「ヘロイン注射事件(3)」とC「エイズ感染事件(4)」である。

  自殺関与事例においては、@とAの判例に見られるように、BGHは「被害者の自己答責性」の思想を働かせず、「行為支配」の観点から行為者の正犯性=可罰性を認めている。これに対して、広義の自己危殆化事例においては、BGHは「被害者の自己答責性」の観点から、被告人の正犯性の否定=不可罰を導いており、BとCの判例がその代表的なものなのである(5)。一方、学説においては、自殺関与事例においても同様に「被害者の自己答責性」の観点から被告人の正犯性(可罰性)を制限できるのではないかと考えられてきているのである(6)

    では、「被害者の自己答責性」はどのような思想によって支えられており、それは刑法解釈論においてどのような意味を持つものなのであろうか。

  まず、「被害者の自己答責性」の基礎にある根本思想は、ウルフリット・ノイマンの言葉を借りれば、「パターナリスティックにではなく自由主義的に構成された法秩序においては、法益を保持し危殆化しないことの第一次的な管轄は、法益主体である被害者自身にある(7)」ということである。人は、自分にのみ属する法益(個人的法益)に対して、他人に危害を加えない限り、少なくとも結果発生に対して自分が第一次的に責任を負うという態様で、自由に処分し、あるいは危殆化することができる。それは、「生命」以外の個人的法益においては、その「処分可能性」が肯定され(8)、被害者の「法益処分意思」のみによって行為者は犯罪成立が阻却される(いわゆる「被害者の承諾」)。しかし、「生命」法益に対しては、刑法は被害者に法益処分意思の存する場合でもなお行為者を処罰する特別な構成要件を設けている。それ故、被害者の法益処分意思のみではなく、彼の意思と態度(行為)の統合体が事象経過と結果発生に対してどのような役割を果たしたのか、行為者と被害者の答責領域如何という「被害者の自己答責性」という新たな観点が注目されることになるのである。

  このように、被害者が「攻撃が向けられる客体」として存在する「通常」の場合とは異なり、本稿で扱った事例のように、被害者が特別な態様で行為者と結果発生に向けて「共働」する場合には、ある一定の条件のもとにおいては、生じた結果は第一次的に被害者自身の決断と行為の「仕業」であるとされうるのである。そして、このことは、被害者自身が「排他的に」結果発生に対しての「正犯的答責性」を担っているのであり、つまり、被害者の正犯的な「広い意味での自損行為」が行われたということを意味しており、その結果、行為者は被害者の自損行為に「関与」しただけであったと評価されるべきことになる。このことを、ホーマン/ケーニヒは、「被害者の自己答責性」とは被害者において「規範的管轄の独占化」が行われたことを意味しているのだと表現している(9)。そのような「被害者の規範的管轄の独占化」は、生じた結果が被害者の「管轄(答責)領域」に第一次的に帰属され、行為者の行為は被害者の広義の自己侵害への単なる「関与」を意味することになるのである。また、彼らは、被害者が少なくとも肉体的に自分で自殺行為をすることが可能であるにもかかわらず、自分の手で自殺せず、単に自己の殺害を他人に「嘱託」するのみでは、未だ被害者において「規範的管轄の独占化」が行われたとすることはできないとしている(10)

  なお、「被害者の自己答責性」という概念の使用について、注意しなければならないことがある。それは、この概念を「被害者がイニシアチブをとること」と置き換えれば、議論に混乱が生じかねないということである。なぜなら、我が国において、刑法二〇二条の四類型について、「イニシアチブ」という言葉を「先に誰が言い出したのか」という意味でのみ用いて、嘱託殺人と自殺幇助を「被害者がイニシアチブ」をとった類型、承諾殺人と自殺教唆を「行為者がイニシアチブ」をとった類型と分けることがあるからである(11)。この点、「被害者の自己答責性」はあくまで「正犯・共犯論」であって、「同意(承諾・嘱託)殺人」と「自殺関与(教唆・幇助)」を区別する概念なのである。

    それでは、自殺は被害者が自己答責的に行ったのであれば、「適法」なのであろうか。この点、「自殺」はそれがたとえ「自己答責的な」ものであったとしても、なお「違法」な行為といわざるを得ないであろうと思われる。すなわち、「被害者の自己答責性」は「被害者の承諾」の単なるヴァリエーションではなく、従って一般的な「違法阻却事由」の一つではなく、「被害者と行為者の特別な形態での共働」である全体事象において、行為者の「正犯性」だけに影響を与えうる観点であるといわなければならないのである。

  このように「自己答責的な自殺」でさえ違法であると考える理由は、被害者の「生命処分」が全く適法なものであったならば、その阻止行為は「強要罪」に該当し得るはずであるが、自殺の阻止行為は自殺が「自己答責的」であるか否かに関わりなく、現実に「正当な」行為と見なされている。その限りで、被害者の生命処分はそれが「自己答責的」であろうとも、なお「違法」なものと解さざるを得ないのである。

  それ故、刑法二〇二条における「自殺教唆・幇助」は、「共犯従属性」および「制限従属性」の原則からはそれがなければ不可罰になるはずの、違法な行為への教唆・幇助が、特別に構成要件化されたものということになる。また、狭義の共犯の対象となる正犯行為は、必ずしも条文として犯罪類型化されている必要はないが、可罰的な違法行為でなくてはならず、共犯行為はそのような違法行為に従属するものなのである。

  以上のように、「被害者の自己答責性」はあくまで「正犯・共犯」という行為の構造及び性質に影響を与える観点と考えるべきであるから、我が国においては、行為者の関与行為は、たとえ被害者が「自己答責的な自殺」を行ったとしても、なお「自殺教唆・幇助」ではあり得るので、刑法二〇二条の構成要件該当性は肯定せざるを得ないことになる。従って、「立法論」的にはともかく、現行法の「解釈論」としては、「自殺関与事例」における「被害者の自己答責性」の認定が持つ意味は、同一構成要件内における行為構造を重視した「差別的な取り扱い」を行うべき根拠であるということになるのである。

    このようにして得られた自殺関与事例における「被害者の自己答責性」による正犯・共犯の区別は、具体的事例において、どのような結論を導くのであろうか。

  これについて、神山教授は、既に「自殺関与における正犯・共犯の限界事例」として、以下のような場合を論じておられる(12)

  以下の場合は、行為者は「嘱託殺人(正犯)」なのか「自殺幇助(共犯)」なのか。

@  自殺者が「致死量」の毒物を自分で服用して意識不明に陥り、その段階で第三者が事前の打ち合わせによって被害者の首を絞めて殺した、あるいはピストルで撃ち殺した。

A  自殺者が「致死量」の毒薬を自分で注射した後、第三者が事前の打ち合わせ通りに「さらに毒薬を注射」して、それが被害者の死を早める役割を果たした。

B  自殺者が「致死量の半分程度」の毒薬を服用して意識不明に陥り、その段階で第三者が事前の打ち合わせ通りに「残りの毒薬を注射して」被害者を死に至らしめた。

C  第三者が「致死量の半分程度」の毒薬を注射した後、自殺者が自ら「残りの半分」の毒薬を注射して死亡した。

  これらに対して、神山教授御自身の解決は以下の通りである。

@  「因果関係の中断」によって、第三者の行為と死との間に因果関係が認められるので、全部実行を認めるのが妥当である(第三者は「嘱託殺人正犯」)。

A  ここでは、自殺者の行為だけでも死を導きうる状態にあり、第三者は死を促進しているにすぎないので、自殺者が因果的に決定的役割を果たしている(「自殺幇助」)。

B  ここでは、第三者が全部実行をしたとは言えず、自殺者も第三者も一部実行をし、因果関係も継続していると考えられる。そこで、事象経過において、両者のうちで、誰が「因果的に決定的役割」を果たしているかによって決定すべきである。第三者は、自殺者が引き起こした事態を前提にしても、なお最終的に自殺者の生命を決定しうる立場にある以上、第三者が因果的に決定的役割を果たしているものと判断される(「嘱託殺人正犯」)。

C  ここでは、自殺者が自己の生命の最終的処分について決定しうる立場にある以上、彼が因果的に決定的な役割を果たしている(従って、第三者は「自殺幇助」)。

  しかしながら、神山教授の解決方法に対しては、以下のような疑問がある。それは、教授の「因果的に決定的な役割」という基準によれば、@とAの区別は本当にできるのであろうかということである。すなわち、「因果主義的な理解」を重視するならば、Aの場合にも、第三者の行為によって早められた実際に具体的に生じた「死」との関連では、第三者の行為も因果的に決定的であったことになるのであり、第三者は「嘱託殺人(正犯)」になるのではないだろうか。なぜ、「被害者の自己答責性」の思想を拒絶される教授が(13)、Aの場合に、自殺者の行為はそれだけでも死を導きうるものであることを重視されるのであろうか。

    では、「被害者の自己答責性」の観点からは、これらの事例はどのように解決されるのであろうか。

  @の場合、自殺者の「自殺行為」が「自己答責的に」行われ、すなわち、自殺者が自己の決定の意義と射程を適切に判断しうる「能力」を保持した状態で、「自由な意思決定」によって自殺の実行を決断し、自殺が成功する態様で自らの手で「自殺行為を行った」場合、彼が自殺の成功をより確実ならしめるために第三者の行為を借り、第三者が事前の打ち合わせ通りに行為したのであれば、その第三者の行為が「直接に」あるいは「自手的に」、そして「即効性のある態様で」死を発生させたとしても、なお「(自己答責的な)自殺への幇助」にすぎないのである。

  なお、このような場合の格好の例として、古来の日本の風習であった「切腹と介錯」が考えられる。そこでは、切腹する者は、誰かにそうするように強いられて、すなわち「不自由な意思決定」のもとで切腹するのでない限りは、自らの不手際のため、被った「恥」を注ぐため、自ら「自殺」するのであり、介錯人は苦しみが長引かないために彼の切腹を援助しているにすぎない。事象を全体として評価し、両者の結果発生に対して果たす役割を実質的に評価するなら、以上のような解釈が正当とされるべきである。「切腹と介錯」という事象は、自殺者が単に自己の殺害を要求するのみである典型的な「嘱託殺人」とは異なり、まさに自らの手で自殺しているのである。「介錯」という行為は、「頼まれて殺してあげている」というよりも、切腹という自殺行為を「援助」していると考える方が自然である。

  Aのような場合も、基本的に@の場合と変わりはない。自殺関与事例における正犯・共犯の確定において、決定的なのは「被害者」の側の事情であって、それが「自己答責的」であるならば、第三者は「自殺幇助」である。

  B自殺者の自殺行為は、判断「能力」を保持した状態で「自由な意思決定」によって決断され実行に移されたものであったとしても、なおその行為は単独で自殺を成功させうるものとしては不十分にとどまったのであり、従って「自殺者の自己答責性」とそれによる自殺者の「規範的管轄(答責領域)への結果の帰属」を認めることはできない。従って、原則に帰って、通常の因果主義・形式主義的な理解のもとで、第三者は「嘱託殺人正犯」である。

  Cたとえ、第三者の助けを一部借りたとしても、自殺者は「自己答責的な決意」のもとで、「自己答責的に自己の死を導く最終的な行為」を自らの手で行っているのであれば、それはやはり自殺者の「自殺」なのであり、第三者は「自殺の幇助」にとどまるのである。

    以上のように、「被害者の自己答責性」は、偽装心中などにおいて刑法一九九条と二〇二条を画するような概念ではなく、また一般的な違法阻却事由でもなく、あくまで正犯・共犯論として展開されていることに注意すべきであろう。この観点は、刑法二〇二条において、当罰性の明確に異なる態度が同様に取扱われていることに疑問を投げかけ、とりわけ「自殺幇助」を犯罪類型化して処罰する必要があるのかということについて再考する契機となりうるように思われるのである。

(1)  BGH Urteil vom 25. 11. 1986., BGH NStZ 1987, 365ff.  本判決については、第一章第二節を参照。

(2)  BGH Urteil vom 4. 7. 1984., BGHSt 32, 367ff.  本判決については、第一章第二節を参照。

(3)  BGH Urteil vom 14. 2. 1984., BGHSt 32, 262ff.  本判決については、拙稿「自己危殆化への関与と合意による他者危殆化について(一)」立命館法学二四六号一〇九頁以下を参照。

(4)  Urteil des BayObLG vom 15. 9. 1989., NStZ1990, 81f.  本判決については、拙稿・前掲論文(3)九八頁以下を参照。

(5)  Vgl. Rainer Zaczyk, Strafrechtliches Unrecht und die Selbstverantwortung des Verletzten, 1993, S. 6ff.

(6)  第一章第三節を参照。

(7)  Ulfrid Neumann, Die Strafbarkeit der Suizidbeteiligung als Problem der Eigenverantwortlichkeit des”Opfers, JA 1987, S. 248.

(8)  ただし、「身体法益」が問題になる場合には、@「重大な傷害」やA「生命に危険のある傷害」の場合には、処分権が制限されると考える見解が有力である。

(9)  Ralf Hohmann/ Pia Ko¨nig, Zur Begrundung der strafrechtlichen Verantwortlichkeit in den Fa¨llen der aktiven Suizidteilnahme, NStZ 1987, S. 308.

(10)  Ralf Hohmann/ Pia Ko¨nig, a. a. O. (9), S. 309.

(11)  たとえば、芝原邦爾「自殺関与罪・同意殺人罪」法学セミナー一九八三年四号一三二頁など。

(12)  神山敏雄「自殺関与をめぐる正犯と共犯の限界」岡山法学第三九巻四号五八九頁以下。

(13)  神山敏雄・前掲論文(12)五六〇頁、五六七頁など。