立命館法学  一九九八年五号(二六一号)


公害・環境私法史研究序説(一)

吉村 良一




は じ め に

第一章  わが国における公害・環境法の展開と特質
  一  時期区分
  二  前史(戦前−戦後復興期)
  三  公害法制の成立と発展
  四  環境問題の広がりと環境政策・法の停滞
  五  一九九〇年代における変化
  六  小括                                  (以上、本号)

第二章  公害・環境私法理論・前史(戦前〜高度成長・前期)

お わ り に

 

 

は  じ  め  に

  公害問題、環境問題とは何かについては様々の議論がありうる。しかしここではその議論に立ち入ることなく、さしあたり、一九九三年に制定された環境基本法の定義に従っておくことにしたい。すなわち、同法二条によれば、「環境への負荷」(環境問題)とは、「人の活動により環境に加えられる影響であって、環境の保全上の支障の原因となるおそれのあるもの」(一項)であり、「公害」とは、「環境保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下及び悪臭によって、人の健康又は生活環境に係る被害が発生すること」(三項)をいう(1)。このような意味での公害・環境問題の発生は、わが国の場合、明治時代の殖産興業政策による近代的鉱工業の勃興期にさかのぼる。しかし、それに対する法(公害法・環境法)が整備されてくるのは、後に詳しく検討するように、戦後、それも、高度経済成長政策の進展の中で問題が深刻化した一九六〇年代半ば以降である。

  それ以後、様々の法が制定され、判例や学説の蓄積とも相まって、今日では、公害・環境法は独自の法分野を形成するにいたっているが、その発展の道はこれまで決して平坦なものではなかったし、今後もそうではない。今日の状況について見れば、一方では、地球環境問題や自然保護に対する関心が高まり、それを背景に、前述の環境基本法や環境アセスメント法(一九九七年)などの重要な法律の制定が見られるが、他方では、「規制緩和」が声高に主張される中、「社会的規制」としての環境規制を「自己責任」を原則に「必要最小限」のものにとどめようとする動き(2)があり、また、経済不況の克服のために大型公共事業が計画・実施されているが、それらの事業と環境保全との矛盾も拡大してきている。さらに、前述のように法が定義した公害問題と環境問題の関係についても、一九六〇−七〇年代に深刻な問題となった公害問題においては加害者・被害者が明確であったが、地球環境問題に代表される今日的な環境問題においては「みんなが加害者であり、みんなが被害者である(3)」として、両者を切り離して、従来の公害問題への対策や法・法理論がもはや時代遅れであるかのごとき認識が語られる一方で、「公害」というとらえ方には原因と結果、すなわち、公害発生のメカニズムの分析とそれに対応した対策というアプローチが必然的に含まれており、このような「原因・結果的発想」は地球環境時代にも生かされる必要があるとして、これまでの公害問題への対策や法・法理論の今日的な意義を指摘する主張(4)も存在する。要するに、現在の公害・環境問題とそれに関する法をめぐっては、このような複雑なファクターが、新しい世紀における公害・環境法のあり方に向けて激しくせめぎ合っていると言うことができよう。このような状況にあって、わが国の公害・環境法を二一世紀にふさわしいものに発展させていくためには、公害・環境法学に対して様々の理論的営為が求められているが(5)、その中の一つとして、これまでの公害・環境法の歴史的展開の特質や到達点、その成果と限界を明らかにし、その基礎の上に立って今後の発展方向を探るという課題がある。すなわち、公害・環境法史の研究である(6)。この研究を、私法(特に不法行為法(民事差止めに関する議論を含む−以下同じ))に重点を置いて行おうとするのが筆者の課題意識だが、そのような研究の必要性は、例えば、次のような事情からも明らかであろう。すなわち、近時、以下のような主張が有力になされている。それは、従来のわが国の判例・学説は被害者救済を強調してきたがそこには行き過ぎもあったのではないか、賠償が広く厚く認められるようになった今日では、被害者救済の立場に偏ることなく、被害者、加害者双方にとっての「公正な賠償」を目指すべきであるとの主張である(7)。これはもちろん、公害・環境問題のみを念頭においた主張ではないが、そこにおいて、従来の公害に関する不法行為法理論が、「行き過ぎ」是正という視点から再検討すべき対象の一つとして数えられていることは疑いのないところである。これに対し他方では、「現在の法学全体の状況を考えるとき、法学にとって水俣病事件はいったいなんであったのだろうかという思いにとらわれざるをえない。水俣病関係の諸判例は、いとも手際よく民法その他の解説書のなかに取り入れられ、ひな人形のように飾られている」と述べて、水俣病事件に代表される公害事件において確立されてきた法理が、それを生み出してきた多くの人々の努力(苦闘)を没却し、現代的意義を失った過ぎ去った時代のものとして(場合によれば「行き過ぎ」として)語られることに対する厳しい批判がある(8)。このような、過去の法理論についての異なった見方の存在は、過去の法理論の内容を再確認し、それを生み出してきたものは何であったかにも目を配りつつ、その意義と限界を検討し直すことが必要であることを示しているのではなかろうか。すなわち、右の水俣病事件に関する発言に即して言えば、水俣病を始めとする公害裁判では何が問われたのか、法理論上そこでは何が獲得されそれは今日どのような意味を持っているかを、その限界も含めて、今日的視点からあらためて明らかにすることが重要な課題となるのである。

(1)  ここでの留意点は、環境問題が環境悪化一般ではなく「人の活動」によるものとされていること(したがって、そこでは直接間接の原因者が想定されている)、公害がそのうち「人の健康又は生活環境に係る被害」とされていること(したがって、そこでは何らかの意味での被害者が想定されている)である。ただし、この定義が公害をいわゆる典型七公害に限っていることや、「相当範囲にわたる・・・被害」に限定していることには問題もある。

(2)  一九九三年一一月八日の経済改革研究会「規制緩和について(中間報告)」以来の一連の「規制緩和」関連文書参照。

(3)  座談会「地球サミットを終えて」における中村環境庁長官(当時)の発言(ジュリスト一〇一五号二五頁)。

(4)  淡路剛久「いまなお有効『公害』概念」朝日新聞一九九二年九月二一日付夕刊。さらに、公害概念の意義に関しては、環境倫理学においても、「単純に自然ではないし、単純に社会でもな」い「『自然と社会』の二元論の手前にある生活世界」における環境問題を考える上で、「生活環境破壊」を意味する「公害」はきわめて有効な意味を備えているとの指摘がある(加藤尚武編『環境と倫理』(有斐閣一九九八年)二四頁以下(加藤筆))。

(5)  例えば、わが国の公害・環境法の特質を他の国との比較において明らかにするということも必要である。筆者は以前、環境政策における先進国とされるドイツの法との簡単な対比を行い、わが国の公害・環境法のいくつかの特徴を指摘したことがある(拙稿「公害・環境法の展開と新しい課題」生田勝義=大河純夫編『法の構造変化と人間の権利』(法律文化社一九九六年)一八一頁以下、Die Entwicklung der Umweltproblematik und des Umweltrechtes in Japan, Ritsumeikan Law Review NO. 12, S. 97)が、なお極めて不十分な分析にとどまっており、近時のドイツにおける環境法の急速な発展をも視野に入れた比較研究が必要である。また、近時、ドイツの側からする日本の環境政策や法に対する分析もなされており(例えば、Helumut Weidner, Basiselemente einer erfolgreichen Umweltpolitik−Eine Analyse und Evaluation der Instrumente der japanischen Umweltpolitik(1996) や、ヘルムート・ヴァイトナー「日本における煤煙発生施設からの二酸化イオウと二酸化窒素の排出削減」イェニッケ=ヴァイトナー編『成功した環境政策』(一九九八年有斐閣)所収等)、それらとの突き合わせからも有益な示唆が得られよう。

(6)  わが国の公害・環境法の出発点をどこに置くかについては議論があるにしても、それが一定の体系性を備えるにいたった一九六七年の公害対策基本法制定からでもすでに三〇年以上を経過し、その歴史を検討するにふさわしい素材を蓄積していることは疑いのないところである。澤井裕教授は一九七八年にすでに公害法理論史研究の必要性を指摘し、その作業に着手している(「公害・環境法理論の位相」法律時報臨時増刊『昭和の法と法学』(一九七八年)一七三頁)。

(7)  加藤一郎「戦後不法行為法の展開」法学教室七六号六頁。なお、最近、大塚直教授も、一九八〇年代以降の民事救済(損害賠償と特定的救済)の政策的特徴として、「過度の被害者救済への反省の傾向」が現れていることを指摘する(「政策実現の手段」『岩波講座現代の法4』(岩波書店一九九八年)一八七頁)。

(8)  清水誠『時代に挑む法律学』(日本評論社一九九二年)三三六頁。

 

第一章  わが国の公害・環境法の展開と特質


一  時期区分

  公害・環境問題における法理論(とりわけ私法理論)の展開を検討する前提として、公害・環境問題に対する政策や法の展開を大づかみに整理しておきたい。わが国の公害・環境法の歴史は、関連する法規の制定や判例・学説の状況に加えて、公害・環境問題の実態とそれに対する国や自治体の政策、住民運動の取り組み等を総合的に見れば、以下の四ないし五つの時期に区分できる(1)

  @  戦前−戦後復興期(一九五〇年代半ばまで)  公害・環境法生成の前史とも言うべき時期であり、様々の公害・環境問題とそれによる深刻な被害の発生にもかかわらず、まとまった形での法的対応はなされなかった。

  A  高度成長期(一九五〇年代後半−七〇年代前半期)  公害問題の深刻化の中で様々の法が制定され、それが、独自の法体系へと発展していく時期であり、同時に、判例や学説において様々の内容の公害法理論が展開されたという点でも、わが国の公害・環境法の発展の中で重要な時期であるが、さらに二つに区分することができる。

  a.前期(一九六〇年代半ばまで)  公害問題が深刻化し紛争が発生する中でそれに対する対策がなされ始めるが、なお対療法的な対応を脱しきれなかった時期。

  b.後期(一九七〇年代前半まで)  公害問題の一層の深刻化と公害反対運動の高まりや地方自治体での取り組みの前進等を背景に法整備が行われ、公害対策が前進する時期。法理論面で重要なことは、四大公害訴訟を始めとする公害訴訟が提起され、それをめぐって損害賠償論や差止め論などが活発に展開されたことである(2)

  B  一九七〇年代半ば−八〇年代    この時期には、環境汚染に対する様々な対策が一定の効果をおさめる一方で自然環境の保全や生活のアメニティの向上といった問題への広がりが見られるようになる。ただし、窒素酸化物による大気汚染のように、環境汚染の生活や健康への影響という問題は決して無くなったわけではない。同時にこの時期は、オイル・ショックを契機として経済成長が鈍化する中で、再び経済成長重視の考え方が強まり、公害・環境政策が停滞ないし後退する時期でもある。

  C  一九九〇年代以降    環境問題の国際化の中で環境法の新たな広がりと発展が始まった時期である。国内的にも、環境基本法や環境アセスメント法の制定等の新しい動きが見られる。

  以下、これら各時期の公害・環境問題と、それに対する法や政策の動きをもう少し詳しく見た上で、その全般的特徴についても整理してみよう。

(1)  阿部泰隆・淡路剛久編『環境法(第二版)』(有斐閣一九九八年)は、わが国の環境法の展開を、@前史(有効な公害対策も公害法も存在していなかった戦前と公害法の萌芽期である一九六〇年代中頃まで)、A公害法体系の成立期(公害対策基本法が成立し公害・環境訴訟の展開や関連法の制定と改正が見られる一九六七年−七〇年代中頃)、B停滞の時期(二酸化窒素の環境規準緩和等に象徴される一九七〇年代中頃−八〇年代末)、C環境法の進展期(地球環境問題を契機にした新たな展開が始まった一九八〇年代末以降)の四つの時期に区分している(同書一頁以下)。筆者も、これにならって、@一九六〇年代半ばまで、A一九六〇年代後半−七〇年代前半、B一九七〇年代後半−八〇年代、C一九八〇年代末以降の四つの時期区分を行ったことがある(拙稿「公害における損害賠償理論の展開と特質」『新・現代損害賠償法講座四巻』(日本評論社一九九七年)二一〇頁以下)。本稿での時期区分も基本的にはこれらと共通しているが、一九五〇年代後半から六〇年代前半を前史ではなく公害・環境法生成の前期としたのは、この時期、内容的には極めて不十分なものではあるが、水質二法(一九五八年)や煤煙規制法(一九六二年)のような国レベルでの公害規制法が制定されるようになったこと、さらに、特に一九六〇年代前半に公害反対運動が高まりを見せていったことを重視したからである。

(2)  公害法の発展に大きな役割を果たした二つの研究グループ、すなわち、「ニューサンス研究会」と「民科公害研(民主主義科学者協会法律部会公害研究会)」が研究活動を開始するのもこの時期であり、一九六七年には私法学会が公害をテーマにシンポジウムを開いている(私法三〇号参照)。


二  前史(戦前−戦後復興期)

  (1)  戦前の環境問題と法

  わが国の近代産業は、その揺籃期からすでに深刻な公害・環境問題を引き起こした。最も早い段階で問題となったのは、鉱山から排出される有害物質によるいわゆる鉱毒事件であり、さらに、わが国の産業が発展するにつれて、戦前の公害・環境問題もその広がりと深刻さを増し、特に、第一次世界大戦を契機とする重化学工業の発展にともない、大都市の煤煙問題などの大気汚染や化学工場による水質汚濁等、多様な被害は全国に広がっていく(3)。このような深刻な問題の発生に対し、この時期、産業活動に規制を加えて環境破壊を防止するための法制度や、発生した被害を救済する法制度において見るべきものは存在せず、わずかに、大阪府の煤煙防止規則(一九三二年)などの地方ベルでの法令や鉱業法における無過失賠償規定の導入(一九三九年)等が目につくのみであり、むしろ、足尾鉱毒事件に典型的なように、国の側は、公害反対の住民運動に弾圧を加え、あるいは、被害者の補償要求に介入し、わずかな金銭と引き換えに将来の権利主張を放棄させるという形の「解決」を強要するというのが現実であった(4)

  しかし、戦前においても、民法上の不法行為規定に基づいて被害の救済を求めた紛争事例や、被害者の救済を認めた先駆的判決も存在する。公害・環境法史、とりわけ私法史にとってこれらの事例の分析は極めて重要な意味を有するが、その詳細は次章に譲り、ここでは代表的な二つの事例につき、その概略を見ておくことにしよう(5)。まず、工場から排出される亜硫酸ガス等のために農作物に大きな被害を受けた付近の農民が、民法七〇九条の不法行為による損害賠償を請求した大阪アルカリ事件がある。この請求に対し大阪控訴院は、工場側の過失を認め損害賠償を認容した(大阪控判大正四・七・二九新聞一〇四七・二五)。しかし、大審院は、たとえ被害の発生が予測できたとしても被告会社が「事業ノ性質ニ従ヒ相当ナル設備ヲ施シタル以上ハ」過失はないとしてこれを破棄し大阪控訴院に差し戻した(大判大正五・一二・二二民集二二・二四七四)。大審院のこの過失論は、「相当ナル設備」としてどの程度のものを要求するかにより現実に果たす役割は異なってくるが、理論の枠組みとしては、過失の認定に被害発生の予測可能性に加えて「相当ナル設備」の欠如という枠をかぶせる点で、企業活動の自由を拡大し過失の成立をかなり狭めることができる考え方であった。ただしこの事件において、差戻された大阪控訴院は、被告は「相当ナル設備」をしていないとして再び損害賠償を認めており(大阪控判大正八・一二・二七新聞一六五九・一一)、事件の経過を全体として見れば、工場の賠償責任を肯定した点で重要な意味を持っている。

  第二のケースは、鉄道の煙害により沿線の由緒ある松(「信玄公旗掛松」)が枯死したとして、松の持ち主が鉄道(国)を相手に損害賠償を請求した事件である。この事件で大審院は、予防のための設備を講ぜずにこのような被害を発生させた被告の行為を権利濫用とした原審(東京控判大正七・七・二六新聞一四六一・一八)を受けて、被告の行為は社会観念上認容すべき範囲を越えるとして損害賠償を認めた(大判大正八・三・三民録二五・三五六)。この判決が、戦前において、鉄道という公共的な事業による被害に損害賠償を認めた点は画期的な意義を有している。しかし同時に、本判決が、鉄道の操業それ自体は適法な権利行使であり、その活動の重要性から見て、「適当ナル範囲ヲ超越」しなければ沿線住民に損害を発生させても不法な権利侵害とはならないとして、環境を汚染して他人に被害を発生させても直ちに賠償責任が発生するのではないという判断枠組みをとっていることに注意する必要がある(6)

  (2)  戦後復興期の環境問題

敗戦によって壊滅的な打撃を受けたわが国の産業は、戦後、早い時期に急速な復興を示す。しかしそれは同時に、公害・環境問題の再発生と拡大をも意味した。この時期の特徴は、例えば、足尾鉱毒事件や水俣湾の水質汚濁のように、戦前から継続した問題が未解決のまま(あるいは被害を拡大させつつ)存在したこと、そしてその一方で、例えばパルプ産業の発展にともなう水質汚濁などのような新しい問題も発生するようになったことである。これらの事実は、産業優先の思想やそれに基づく施策の推進と公害・環境法の不在という状態が、戦後になっても基本的な変化を示さなかったことを意味している。

  もちろん、だからといって戦後改革が公害・環境法の発展にとって意味を持たなかったというわけではない。戦後改革とその中において定められた日本国憲法は、戦後の公害・環境法の展開にとっても重要な意義を有した。その第一は、地方自治原則の確立である。これによって、住民にとってより身近な行政である地方自治体が条例の制定等による対策を進めることが可能となり、いくつかの先駆的な事例が見られるようになった。例えば、東京都は一九四九年に地方自治体としては初めて「工場公害防止条例」を制定し、さらにこれに続いて、大阪府、神奈川県、福岡県でも同様の条例が制定されている。また、公害問題の一つである騒音問題についても、一九五三年に横浜市が「騒音防止条例」を定めたことが注目される。さらに、地方自治の確立は、一九六〇年代のわが国の公害・環境政策において、後に述べるように、地方自治体が先進的な取り組みを行い、それが国の政策にも影響を与えるという展開の基盤となった(7)。第二に、日本国憲法に掲げられた人間の尊厳や基本的人権の保障、特に、憲法一三条の幸福追求権や二五条の生存権規定は、人の生命・健康・生活を侵害する公害・環境汚染に対する住民の権利(人格権や環境権)確立の手がかりとなった。第三には、戦後改革で認められるようになった言論の自由や様々の政治的権利は、後述のような公害被害者や住民の運動が、わが国の公害・環境政策の転換の原動力となる上で何よりも重要なものであった。なお、これに関連して、民法典制定以後の不法行為特別法の立法状況を分析して、危険な活動から発生した被害に対する「危険責任立法の制定が促進されるためには、個人の損害の放置は許されないという意識の一般化(それには言論の自由が不可欠)及びそれが国家による対応に結び付きうる状況が現憲法下で現れることが必要であった」とする指摘がある(8)が、同様のことが、公害・環境法全般についても言えるのではないか。

  しかし、残念ながら、これらの点は、公害・環境法発展のいわば基盤・土台を作ったにとどまり、具体的な発展は、この基盤の上で住民運動や公害裁判等が展開される一九六〇年代(とりわけ後半)を待たなければならず、戦後しばらくの間、国レベルでの公害・環境問題に関する法律や対策には見るべきものは存在しない状態が続いた。そしてこのことが、その後の高度成長期に深刻な公害被害を発生させる一因となったのである。

(3)  戦前の公害問題については次章であらためて検討するが、さしあたりは、神岡浪子「日本資本主義の発展と公害問題」ジュリスト臨時増刊一九七〇年八月一〇日号『特集公害』八頁参照。

(4)  例えば、足尾鉱毒事件の場合、鉱山側は、有効な対策をとらないまま、被害農民との間でわずかの示談金と引き換えに子々孫々にいたるまで一切補償請求をしないといういわゆる「永久示談契約」を結んで紛争を「解決」しようとし、国も、被害者らの集団請願行動(いわゆる「押出し」)を官憲により弾圧し(「川俣事件」)、さらに、汚染の中心であった谷中村を廃村にし遊水池にするという措置をとった。もちろんこの時期においても、日立煙害事件のように、鉱業側と住民側の努力により被害を最小限に押さえることに成功した事例があることも忘れてはならない(阿部・淡路前出注(1)七頁以下参照)。ただし、富井利安『公害賠償責任の研究』(日本評論社一九八六年)は、日立煙害事件においても補償の内容は近代法的意味における損害賠償とは相当に異なったものであったとしている(同書二〇〇頁以下)。

(5)  戦前の公害に関する民事紛争事例については沢井裕『公害の私法的研究』(一粒社一九六九年)二五三頁以下や、富井前出注(4)四六頁以下等が分析を加えている。特に前者の分析は詳細である。

(6)  全体として見れば、両判決は、公害・環境問題を不法行為の問題として位置づけて被害者の救済をはかったという面と、工場や鉄道の操業については「相当ナル設備」がなされておれば、あるいは「適当ナル範囲」を越えなければ、他人(周辺住民)の権利を侵害しても不法行為とは言えないとして、産業優先思想から賠償責任の成立を限定するという二つの側面を持っていたのである。両側面の関係、あるいは、どちらがその後の公害・環境法理論の中で主要な役割を果たしたかといった点については次章であらためて検討することにしたい。

(7)  磯野弥生「行政法学説史にみる公害行政3」法律時報四四巻六号一二三頁は、これらに加えて、内務省が解体され、内務省=警察によってになわれていた戦前の公害行政の多くが自治体の役割になったことの意義を指摘している。

(8)  中村哲也「日本民法の展開(2)特別法の形成−不法行為法」広中俊雄=星野英一編『民法典の百年T』(有斐閣一九九八年)二八〇頁。


三  公害法制の成立と発展

  (1)  公害法制の生成

  わが国の公害・環境問題が、その規模においても被害の程度においても、一層深刻化するのは、一九五〇年代半ば以降に始まる、高度経済成長期である。この時期の汚染は、大気汚染を例にとるならば、大阪市西淀川区の観測点では一九六六年に一日の亜硫酸ガス平均濃度〇・一八九ppm、最高〇・三二一ppmを記録するほどであった(9)。現在の亜硫酸ガスの環境基準である一日平均〇・〇四ppmと比較するならば、この数値がいかに深刻な汚染を示しているかは容易に理解できよう。高度成長期におけるこのような深刻な公害問題発生の原因は次の点にあるとされている(10)。第一は、この時期、企業が生産力を拡大するための高度の資本蓄積を行う一方で、環境保全のための設備投資や安全対策の費用を節約したことである。加えて、公共投資も、下水道の整備や公園・緑地帯の整備といった環境保全に役立つものよりも、道路建設等の、むしろ汚染源を増やすものに集中した。第二は、この時期に形作られたわが国の産業構造が重化学工業を中心とする資源浪費型環境破壊型であったことである。第三の原因は大都市化にある。すなわち、高度成長期に企業は「集積の利益」を求めて大都市圏に工場や事業所の集中立地を行った。その結果、人口ならびに重化学工業や交通量は大都市圏に集中し、結果として、この地域における汚染を深刻なものとした。さらに第四に、大量消費生活様式が無計画にかつ急速に普及したことも大きな原因の一つである。

  それに対し、この時期の公害・環境問題への法的対応の特徴は、端的に言えば、対症療法的であり、同時に、経済成長と融和的であり、その意味で、戦前以来の産業優先の思想を克服しきれていなかった。例えば、一九五八年に制定されたわが国における最初の国レベルでの本格的な公害規制法である水質二法(「公共用水域の水質保全に関する法律」「工場排水等の規制に関する法律」)も、指定水域制をとっていたため、様々の利害対立の中で指定が進まず、例えば、水俣湾の汚染にようやく水質二法を適用したのが、原因となったアセトアルデヒドの生産がすでに中止されていた時期になってからであったことに象徴的に示されているように、水質汚濁による深刻な被害に対する有効な対策たりえなかったのである。さらに、一九六二年には煤煙規制法が制定されたが、この法律はその目的として「産業の健全な発展との調和」という、後の公害対策基本法に持ち込まれる「経済との調和条項」の原型となる文言を有していた。

  深刻な公害問題の発生とそれにもかかわらず遅々として進まない対策の中で、公害に苦しむ被害者や良好な環境を維持したいと考える地域住民は、公害被害の救済、公害の防止を目指して住民運動を展開することになる。特に大きな転機となったのが、一九六三−六四年の三島・沼津・清水二市一町のコンビナート誘致反対運動である。この運動の最大の意義は、政府や自治体が進める企業誘致に対し、地元住民自身が環境に与える影響を調査し、その結果に基づいてノーの声を上げ、しかもその要求が地元自治体を動かしてコンビナート建設の阻止に成功したことである(11)。この運動の成果は全国における公害反対運動に引き継がれていく。そして、このような公害反対運動の盛り上がりに押される形で、国および自治体レベルでの公害対策が前進する。国のレベルで言えば、一九六七年には公害対策基本法が制定され、公害対策の基本方針が定められる。同法は、公害を大気汚染、水質汚濁、騒音、振動、地盤沈下、悪臭の六つの典型公害(一九七〇年に土壌汚染が加えられた)として定義し(同法二条)、これに対する、事業者、国、地方公共団体、住民の責務を明らかにし(三−六条)、さらに、人の健康を保護し生活環境を保全するうえで維持されることが「望ましい」基準として環境基準を導入する(九条)という、わが国の公害対策の基本構造を形作る重要なものであった。さらに、これを受けて、翌一九六八年には大気汚染防止法と騒音規制法が定められ、水質二法とあわせて、大気汚染・水質汚濁・騒音という代表的な公害に対する規制法が出そろうことになる。

  しかし、この段階ではなお規制基準そのものが緩やかであったことや、規制が対症療法的でそれぞれの公害についてバラバラの規制がなされていたため複合的な汚染に有効に対応できないなどの問題点を有していた。このような不十分さの要因として、産業優先、経済成長第一主義がなお完全には克服されていなかったことを指摘しなければならない。それを象徴するのが、公害対策基本法に盛り込まれた、「経済との調和条項」である。すなわち、公害対策基本法の制定においては、「経済の健全な発展との調和」を公害対策全般の原則にすべきであるという経済界や通産省等の主張と、このような条項は不適切とする住民運動や厚生省の主張が対立し、結果として、国民の健康と生活を区別し、調和条項は生活環境に関してのみであり人の健康の保護は対象とならないという限定を付する形での妥協がなされたと言われているが、たとえそのような限定つきではあっても、やはりそれは、高度成長期における経済成長優先思想の表われであり、ひいては、戦前の大阪アルカリ大審院判決が有した、「相当ナル設備」をしておれば他人に被害を与えても免責されるという考え方の基礎にある思想ともあい通ずる、その意味で、公害対策の基本を定める法律の理念としてはふさわしくないものであった(12)

  (2)  環境政策の前進と法整備

  以上のような問題点が克服され、わが国の公害法が形式的にも内容的にも整備されるのは、一九六〇年代末から七〇年代初頭の時期である。一九七〇年のいわゆる公害国会では一四の法制定・改正が行われている。そして、この国会において、公害対策基本法から「経済との調和条項」が削除された。このことは、国民の健康と生活環境の保全という観点に立って公害対策を進めるべきことが明示された点で大きな意義を有するものであった。また、水質二法が廃止され、代わって水質汚濁防止法が制定されたが、そこでは指定水域制が廃止され、あわせて、大気汚染防止法でも指定地域制が廃止された。被害救済の面では、一九七二年に大気汚染防止法と水質汚濁防止法に無過失賠償規定が導入されたこと、一九七三年に公害健康被害補償制度が設けられたことが注目される。さらに、自然環境の保全についても、一九七〇年の公害国会で公害対策基本法に自然環境保護の規定(同一七条の二)が設けられ、一九七二年には自然環境保全法が制定された。以上のような個別の法制度に加えて大きな意義を有するのは、一九七一年に、環境行政を総合的に推進するために環境庁が設置されたことである。

  それでは、この時期のこのような変化の要因は何であったのだろうか。その主要な要因はやはり、一九六〇年代以降、公害問題の深刻化に対応して大きく盛り上がった公害反対運動とそれを支持した被害救済・公害防止・環境保全を望む広範な世論の形成に求めるべきであろう。わが国のこの時期の公害反対の世論と運動は二つの方向で公害・環境政策を前進させていったとの指摘がある(13)。すなわち、第一は、公害反対の世論が多数派を占める地域で環境保全派のいわゆる「革新首長」を誕生させ、地方自治体レベルで厳しい公害対策を進めて行く方向であり、国の規制基準よりも厳しい規制内容を盛り込んだ一九六九年の東京都の公害防止条例や、自治体が企業と公害防止協定を締結し公害対策を行わせる手法などが重要である。もう一つの方向としては、公害反対の世論が相対的に弱く公害被害者が孤立を余儀なくされているような地域において、企業の責任(民事責任)を追及する民事訴訟の提起という道が選択されたのである。その代表が四大公害訴訟である。

  公害・環境私法の視点からは、この、公害訴訟という形態をとって展開した運動が特に注目される。これらの公害訴訟は、その被害の悲惨さや、裁判の過程を通して明らかになっていった被告側の対策の不備等からして、今日の目から見れば損害賠償が認められることに何の不思議もないように思われるかもしれないが、当時の状況において、裁判の提起までには長い年月と被害者らの苦しい運動があった。例えば熊本水俣病事件の場合、チッソ工場の操業にともなう水俣湾の汚染は戦前からのものであり、一九五六年の患者の公式発見からでも一九六九年の提訴まで一三年の期間が経過している。この間、被害者やその家族らは、チッソの企業城下町といわれた水俣において、孤立させられ放置されてきた。補償の問題について言えば、被害者らが一九五八年に患者家庭互助会を結成し補償を求めて立ち上がった際にも、熊本県知事や水俣市長を中心に構成された調停委員会によって、水俣病の原因が不明であることを前提に、死者への和解金がわずか三〇万円などという超低額の「見舞金」と引き換えに、「将来水俣病が水俣工場の工場排水に起因することが決定しても、新たな補償金の要求は一切行わない」(見舞金契約五条)ことを約束させられるという、戦前の足尾鉱毒事件等における「永久示談契約」と変わらない、その意味で、わが国の公害問題における「伝統的」な処理方式が押しつけられ、さらには、一九六八年に原因はチッソ工場で生成されたメチル水銀化合物であるとした政府見解が発表された後にも、国・厚生省による低額の和解斡旋がなされるという経験をしている。したがって、被害者らの提訴は、いわばギリギリに追い詰められた段階での最後の手段だったのである(14)

  日本の裁判所と法理論は、被害者らがいわば最後の権利実現の場として選択した損害賠償請求訴訟にどう応えるかが問われることになったのであるが、四大公害訴訟は、一九七一年のイタイイタイ病訴訟第一審判決(富山地判昭和四六・六・三〇下民二二・五=六・別冊一頁)以降、一九七三年の熊本水俣病判決(熊本地判昭和四八・三・二〇判時六九六・一五)までの五つの判決の全てにおいて企業の責任を認め損害賠償を認容する判断を示した。すなわち、全体として日本の裁判所は被害者らの期待に応え、その権利実現の場として機能したのである。これらの判決とそれをめぐる法理論の内容的な分析は公害・環境私法史の研究にとって決定的に重要だが、それについては別の機会に譲り(15)、ここでは、公害・環境法の発展にとって特に重要な、次の三点のみを指摘しておきたい。

  まず何より重要なことは、これまで放置され、あるいは熊本水俣病のように僅かの「見舞金」で泣き寝入りを余儀なくされていた被害者に権利救済の道が開かれたことであり、同時にこのことは、被害者の権利や加害者の責任を曖昧にしたまま僅かの補償で済ますという公害被害に対する戦前以来の「伝統的」な処理方法が克服され、汚染者が自らの発生させた被害を補償する責任を負うという考え方が確立したことをも意味する(16)。第二に重要な点は、大阪アルカリ事件等の戦前の公害訴訟の中で判例理論が示した一面である産業活動優位思想の表れとしての、「相当ナル設備」をしておれば企業等は賠償責任を負うことはないとする考え方が修正されたことである。例えば新潟水俣病判決は、生物・人体等に重大な危害を加える物質を発生させるおそれのある化学工場の操業にあたっては最高の分析検知の技術を用いて調査すべき義務があり、「最高技術の設備をもってしてもなお人の生命、身体に危害が及ぶおそれがあるような場合には、企業の操業短縮はもちろん操業停止までが要請されることもある」、「生命、健康を犠牲にしてまで企業の利益を保護しなければならない理由はない」と述べている(新潟地判昭和四六・九・二九判時六四二・九六)。第三に、四日市判決が、コンビナートの立地上の過失を認定したこと(津地裁四日市支判昭和四七・七・二四判時六七二・三〇)も重要である。すなわち、四日市の石油コンビナートは、石炭から石油へのエネルギー転換をはかる国の産業政策の一環として、しかも県や市の誘致により作られたものであることから、この裁判所の指摘は、国や自治体の政策に対する厳しい批判にもなっているのである。その意味で、本判決が国の政策に与えた影響は大きく、判決後、当時の環境庁長官は談話を発表し、その中で、@公害対策に全力をあげて取り組むこと、A被害者救済制度の検討を進めること、B事前チェックのための制度の必要性の三点を指摘している。そしてこれらの点は、Bの事前チェックの制度化(アセスメント法の制定)が大きく遅れたことを除けば、一九七〇年代前半における環境基準の改定や排出規制の強化、公害健康被害補償法の制定等により実現していく。

  一九七〇年代に入って、公害裁判において、損害賠償による公害被害の事後的救済にとどまらず、継続して発生している公害被害の停止や発生の防止(いわゆる差止め)を求める訴訟が増加する。これは、四大公害訴訟において公害に対する企業の法的責任が明確化されたことを踏まえて、より抜本的な対策である差止めへ公害裁判の重点が移行したことを意味する。その転機は大阪空港訴訟である。この訴訟で空港周辺の住民は大阪国際空港を離着陸する航空機による騒音・振動等の差止めを求めたが、大阪高裁は一九七五年にその請求(夜九時−朝七時までの空港の使用禁止)を全面的に認める判断を示した(大阪高判昭和五〇・一一・二七判時七九七・三六)。さらにこの判決は、騒音等による被害という、四大公害事件などとは異なるタイプの被害について損害賠償を認めた点でも注目される。法理論面においては、この訴訟の過程で、差止めの根拠としてまず人格権が主張され、ついで、良好な環境を享受したいという住民の要求を実現するものとして、環境権論が登場したことが重要である。環境権とは、われわれには環境を支配し良き環境を享受しうる権利(=環境権)があり、それは憲法一三条(幸福追求権)や二五条(生存権)に基礎づけられるが、同時に、私法上の権利として、みだりに環境を汚染しわれわれの快適な生活を妨げあるいは妨げようとする者に対しては、この権利に基づいて、その妨害の排除または予防(=差止め)を請求できるとの主張である(17)。しかも、このような、公害を住民の権利の侵害としてとらえ、その救済や侵害防止(差止め)を求める考え方は、単に法理論として主張されただけではなく、住民運動を通じて市民の法意識の中に定着していったのである。

(9)  宮本憲一『日本の環境政策』(大月書店一九八七年)一八頁。

(10)  宮本前出注(9)二五頁以下。

(11)  この運動について詳しくは、宮本憲一=遠藤晃編『講座  現代日本の都市問題八巻』(汐文社一九七一年)参照。

(12)  公害対策基本法の制定過程における調和条項挿入の顛末については、橋本道夫『私史環境行政』(朝日新聞社一九八八年)一一一頁以下参照。

(13)  日本環境会議編『アジア環境白書一九九七/九八』(東洋経済新報社一九九七年)八七頁以下。

(14)  複雑な経過の後、提訴に踏み切った二九世帯、一一二名の原告らの原告団結団式における、「今日ただいまより国家権力に立ち向かうことに相成りました」という代表の決意表明に、当時の原告らの置かれていた状況が率直に示されている。水俣病裁判については、水俣病被害者・弁護団全国連絡会議『水俣病裁判』(かもがわ出版一九九七年)参照。

(15)  さしあたりは拙稿前出注(1)参照。また、中山充「公害の民事責任と権利侵害・違法性・過失」奥田還暦『民事法理論の諸問題(上)』(成文堂一九九二年)四一三頁もこの時期の理論を検討している。

(16)  熊本水俣病判決は、見舞金契約の権利放棄条項に関して、被害者の無知窮迫に乗じて低額の補償をするのとひきかえに被害者の正当な損害賠償請求権を放棄させるような場合にはその契約は公序良俗に違反するから無効だと明言している(熊本地判昭和四八・三・二〇判時六九六・一五)。また、この点に関して牛山積『公害裁判の展開と法理論』(日本評論社一九七六年)は、四大公害訴訟によって公害事件の「近代的・合理的」処理方式確立の途が開けたとする(同書二三八頁)。

(17)  環境権の主張については、大阪弁護士会環境権研究会『環境権』(日本評論社一九七三年)参照。なお、裁判上、環境権を正面から認めたものはないが、人格権は、大阪空港事件控訴審判決をはじめとして、多くのケースにおいて差止めの根拠たりうることが認められている。


四  環境問題の広がりと環境政策・法の停滞

  (1)  環境問題の広がり

  一九七〇年代半ば以降、わが国の公害・環境問題は新たな展開を示すようになる。すなわち、この時期までに成立した公害法制による対策の進展の結果、四大公害事件のような激甚な被害は目立たなくなったが、それに代わって、汚染源の種類や汚染の形態が多様なものに広がっていく。例えば、大気汚染についても、石油コンビナート等のいわゆる固定発生源からの汚染物に加えて、自動車排ガスによる汚染が深刻な問題となる。自動車排ガスの場合、個々の汚染源は市民が運転する自動車であることから、自動車メーカーの排ガス対策や国の交通政策とならんで、車に依存した市民生活のあり方も問題となってくる。被害の面でも、大気汚染による呼吸器系疾患のような重大な健康被害がなくなったわけではないが、加えて、騒音・振動被害によるイライラなどの情緒的障害や、耳なり・頭痛・肩こり・めまい等被害者の訴え(自覚症状)を重視することが必要な被害にまで問題が拡大していく。同時に重要なことは、この時期、人身被害の防止や救済といった最低限の課題から、良好な環境の中で暮らす権利を確立し、人身被害が発生する以前の段階で環境悪化そのものを防止しようとする意識、生活のアメニティを求める動きが強まって来ることである。すなわち、自然環境の保全を含むより広いものに課題領域が広がっていったのである。

  このような環境問題の状況変化は、当然のことながら、従来の、公害被害の防止と人身被害救済を中心とした公害法制だけでは十分に対応できないという事態を招来する。一方で、大気汚染に代表されるような深刻な健康被害の問題がなお未解決であり、他方で、以上のような新しい問題状況が登場してきた場合、本来とるべき道は、従来からの問題の解決に努めつつ広がりを持った問題にどのように対処していくかをさぐること、すなわち、公害法の到達点を踏まえた上で、新たな環境問題に対応した公害・環境法の発展をはかることであったはずである。しかし、わが国の公害・環境政策や法の展開は、以下述べるように、そのような方向ではなく、一九七〇年代後半以降、停滞ないし重大な後退を経験することになる。

  (2)  環境政策と環境法の停滞ないし後退

  この時期、日本と世界の先進工業国の経済は、オイル・ショックを契機に高度成長期から低成長時代に入る。その中で、公害規制が厳しすぎては低成長時代を乗り切れないという経済界サイドの主張も強まり、国の政策は、公害・環境対策よりも経済の成長・安定化を重視する方向に変化する。さらに、激甚な被害の沈静化と問題の広がりの中で、「公害は終わった」として、それまでの到達点を過去のものと見る動きも出てくる。このような動向、さらには、一九六〇年代末から七〇年代始めにかけてわが国の公害政策と法の発展の原動力となった住民運動とそれに支えられた「革新自治体」が停滞ないし後退する中で(18)、公害・環境政策と法の上でのいくつかの重大な停滞ないし後退現象が表れてくる。まず第一に、二酸化窒素の環境基準の緩和がある。すなわち、一九七三年に定められた一時間値の一日平均〇・〇二ppmという環境基準が、産業界からの要請もあって、一九七八年に〇・〇四−〇・〇六ppmの間という大幅に緩和された基準にあらためられたのである(19)。さらに大きな問題は、公害健康被害補償法上の第一種地域の指定が一九八八年に全面解除されたことである。この制度では、指定地域において大気汚染に曝され喘息等の指定疾病に罹患したことが補償を受ける要件となっているので、指定地域が解除されたということは、以後、大気汚染公害患者の新たな認定はしないことを意味する。

  それではこの時期、裁判はどのように推移していたのであろうか。前述したように、一九七五年には大阪高裁が差止請求を認める判決を下し、これに勇気づけられ差止請求訴訟が増加するが、一九七〇年代後半以降、公害差止訴訟も住民側に厳しい状況に入る。そのターニングポイントとなったのが大阪空港最高裁大法廷判決(昭和五六・一二・一六民集三五・一〇・一三六九)である。すなわち、最高裁多数意見は、大阪空港は国営空港であり、運輸大臣には「航空行政権」と空港の管理権という二つの権限が帰属しており、両者は不可分一体のものであるため、被害者は民事訴訟により空港の(一定時間帯の)使用禁止を請求することはできないとして、差止請求を却下したのである。最高裁の多数意見の判断は、その他の公共的な活動による公害の差止めが問題となったケースにも大きな影響を与え、これ以後、道路公害を問題とした国道四三号線訴訟、新幹線による騒音振動の差止めが問題となった名古屋新幹線訴訟、航空機の騒音振動等が問題となる横田や厚木の基地公害訴訟等、理由づけは異なるものの、その全てにおいて差止請求が棄却ないし却下されている(20)。もちろん、差止請求をしりぞけたこれらの判決はいずれも、公害発生源の違法性と損害賠償責任を認めており(21)、被害者への補償を含めた全面的な後退現象が起こったわけではない。しかし同時に、「はじめに」で指摘した「被害者救済から公正な賠償へ」というスローガンが現実的な意味を持ち始めるのもこの時期である。

(18)  都道府県レベルで言えば、一九七八年に沖縄と京都で、一九七九年には東京と大阪で、保守系の知事への交代が起こっている。

(19)  この経過については、橋本前出注(12)二七九頁以下参照。また、その背景と改訂の問題点については、宮本前出注(9)一五三頁以下参照。

(20)  例えば、国道四三号線訴訟において第一審は、一定以上の騒音や汚染物質を事故の居住地に進入させないという請求(いわゆる抽象的不作為請求)は請求内容の特定性を欠くとして訴えを却下し(神戸地判昭和六一・七・一七判時一二〇三・一)、第二審は、このような請求方法も適法だとしつつ、道路の公共性を重視して差止めを棄却した(大阪高判平成四・二・二〇判時一四一五・三)。

(21)  例外は、基地の公共性を重視し損害賠償をも否定した厚木基地公害訴訟控訴審判決(東京高判昭和六一・四・九判時一一九二・一)だが、この判決は、最高裁により、公共性を重視するあまり受忍限度の判断を誤ったものとして破棄されている(最判平成五・二・二五民集四七・二・六四三)。


五  一九九〇年代における変化

  (1)  環境問題の「国際化」

  一九七〇年代以降、とりわけ八〇年代に入って、環境問題の「国際化」が顕著になってきた。ここでいう環境問題の「国際化」とは、環境汚染が一国レベルでは対応できないものになってきたことを意味するが、それには様々のものがある。まず第一に、汚染が国境を越えて広がっていく問題であり、例えば、国境を越える大気汚染による酸性雨問題や、一九八六年に発生したスイスのバーゼルでの化学工場の火災により流出した化学物質がライン河を汚染し被害が下流のオランダにまで広がった、いわゆるサンド事件が著名である(22)。第二に、先進国と発展途上国の関係で様々な問題が生じている。例えば「公害輸出」と呼ばれる問題がある。すなわち、先進国の環境規制が厳しくなるにともない、それを避けるために、規制の緩やかな発展途上国へ工場を移転し、現地で環境汚染を引き起こす例が見られるのである(23)。第三に、フロンガスによるオゾン層の破壊や地球温暖化のような地球規模の環境問題も、今日、深刻になっている。

  このような環境問題の国際化の中で、国際的な取り組みが近時進みつつある。例えば、一九九二年にはリオで「環境と開発に関する国連会議」が開催され、そこでは、二一世紀に向けた行動計画「アジェンダ21」が定められ、さらに、一九八〇年代に提起されるようになってきた「持続可能な発展(sustainable development)」の理念を盛り込んだ「リオ宣言」が採択されている。さらに注目すべきは、このような国際的な取り組みの進展において、環境保護のための各種のNGOが大きな役割を果たすようになって来ていることである。一九九七年に京都で開催された地球温暖化防止のための会議(いわゆるCOP3)でも、内外のNGOが活躍している。このような国際的な動向は、当然わが国にも大きな影響を与える。特に注意すべきは、国際的な環境保護への関心やそのための取り組みの進展は、各種の条約とその国内法化という形で国の政策や法に対し直接影響を与えるだけでなく、市民の意識やさらには国際的に展開している企業の行動にも少なからぬ影響を及ぼすことである。以下で述べるわが国における環境政策と法の新しい展開の重要な背景の一つが、この国際的な環境問題とそれに対する取り組みの進展にあったことは否定できない。

  (2)  わが国における新たな動き

  前述したように、わが国の公害・環境政策と法は一九七〇年代後半以降、停滞ないし後退傾向を示した。しかし、以上のような国際的動向の中で、わが国においても、一九九〇年代に入って、新たな発展の動きが見られるようになる。この時期になって制定された法の中で最も重要なものは環境基本法である。この法律は、以下の点において、今後の日本の環境政策と法にとって重要な意義を有している。第一は、公害対策基本法を中心とする法体系と自然環境保護法を中心とする法体系の二つに分かれていた従来の日本の公害・環境法を統合したことである。両者は相対的に独自の問題を有するとはいえ、自然環境の悪化がやがては人々の生活環境の悪化につながっていくことから見ても、本質的には共通の問題である。したがって、これまで相互の関連性が十分とは言えなかったこの両者が、新しい環境基本法の中で統合されたことは重要である。第二に、これまでの日本における環境保護の手法は、汚染物質の排出規制と民事責任や補償制度による被害者に対する補償が中心であったが、このような手法だけでは環境問題の複雑化に対応できなくなって来ており、その点で、本法が、環境基本計画の策定(一五条)、経済的手法の導入(二二条)等の多様な手段の必要性を指摘したことも意義がある。第三に重要なことは、本法が、環境への負荷が少ない持続的な発展が可能な社会の構築を目指すとして、sustainable development の理念を実質的に取り入れたこと(四条)である。しかし、環境基本法は環境保全のあり方や枠組みを示すものであり、その理念の実現のためには、具体的な個別立法や行政上の措置が必要である。その点では、一九九七年になってようやく環境アセスメント法が成立したこと、また、一九九〇年代に入って、廃棄物に関する重要な法改正・制定が進められていること等が重要である。

  さらに、一九九〇年代に入っての注目すべき動きとして、大気汚染公害訴訟をめぐる新たな展開が指摘できる。すなわち、一九七〇年代後半以降、公害・環境対策の後退の中で被害者らは、再び、損害賠償と差止めを求める大規模な民事訴訟を提起するようになったが、それらの事件において、一九八〇年代末から九〇年代に入って新しい動きが見られるのである。まず、千葉訴訟判決(千葉地判昭和六三・一一・一七日判時平成元年八月五日号一六一)以降、企業の民事責任を認める判決が定着する。特に、西淀川第一次訴訟判決(大阪地判平成三・三・二九判時一三八三・二二)や川崎第一次訴訟判決(横浜地裁川崎支判平成六・一・二五判時一四八一・一九)において、コンビナートを形成していない複数の汚染源による複合的な大気汚染公害において企業の責任が肯定されたことは大きな意味を持っている。また、一九九五年三月には西淀川事件において、一九九六年一二月には川崎事件と倉敷事件において、被告企業と被害者の和解が成立したが、その中で被害者の救済とならんで、汚染地域の環境の再生のための費用としての解決金が支払われたことは、今後の公害・環境問題の解決の一つの方向として注目される(24)。また、自動車排ガスによる大気汚染についても、自動車排ガスと健康被害の因果関係を認めた上で国や公団の責任を肯定する判決が西淀川第二−四次訴訟(大阪地判平成七・七・五判時一五三八・一七)や川崎第二−四次訴訟(横浜地裁川崎支判平成一〇・八・五判時一六五八・三)で下され、さらに西淀川事件では、国や公団と原告の間で、様々の対策の実施や住民と行政との協議の場の設定等を内容とする和解が一九九八年七月に成立している(25)。これらの一連の動きや、さらには、国道四三号線訴訟において国や公団の賠償責任を確定させた最高裁判決(平成七・七・七民集四九・七・二五九九)等を重ね合わせれば、公害問題を克服し、そのことを基礎にして新しい環境問題に挑戦しようとする動向が表れて来ているのではないかと思われる(26)

  ただし、以上のように述べたからといって、公害問題がすでに過去のものとなったという理解は誤りである。例えば、二酸化窒素による大気汚染について言えば、一九九二年に大都市地域における深刻な窒素酸化物汚染に対応するための自動車NOx法が制定されたにもかかわらず、自動車交通量の増加等により、「大都市地域を中心に環境基準の達成状況は依然低い水準で推移しており、一層強力な対策の推進が必要となっている(27)」状態にある。このような大気汚染の健康に対する危険性は一九九八年八月の川崎訴訟判決が明確に指摘しているところであり、この意味で、道路管理者に加えて、汚染物質の排出が多いディーゼル車を大量に製造販売している自動車メーカーの責任をも追及している東京大気汚染訴訟の行方が注目される。

(22)  この事件については、石黒一憲『国境を越える環境汚染』(木鐸社一九九一年)参照。

(23)  この問題については、日本弁護士連合会『日本の公害輸出と環境破壊』(日本評論社一九九一年)が詳しい。

(24)  その後、西淀川では、地域の環境再生を目指す運動が財団(「あおぞら財団」)を作って進められている。

(25)  これらの事件における和解は、すでにいくつかの判決で責任が明確になった段階でそれを踏まえたものであることや、その内容(例えば、西淀川事件や川崎事件の企業との和解における解決金の額は、それ以前に判決で認められた賠償額を上回っている)から見て、責任を曖昧にしたまま少額の「見舞金」でことを処理してきた戦前から四大公害訴訟にいたるまでのものとは根本的に異なっている。

(26)  大気汚染訴訟や道路公害の現在の局面については、拙稿「道路公害問題の新たな局面」法律時報七〇巻一三号二頁参照。ただし、最近になって、騒音の環境基準の「後退」が報道されており(朝日新聞一九九九年三月四日付朝刊等)、ここでも事態の推移は単純ではない。

(27)  平成一〇年版『環境白書』総説四一六頁。


六  小      括

  これまで概観してきたわが国の公害・環境法の歴史的展開の中から、その特徴を整理すれば、次の点が指摘できよう。

  @  環境汚染の問題がまず何よりも健康被害を中心とする人の生活や生命・健康を含む利益に対する侵害として現れ、対策も、そのような被害の救済と防止に力点が置かれたこと。これは、それだけわが国の公害・環境問題が深刻であったことのあらわれであるが、これらの利益は私法上保護される権利ないし法益であるため、その救済において私法が大きな役割を占める一因となった。

  A  右のような被害のあらわれ方の結果、わが国の公害・環境問題に関する住民運動は、公害により生命・健康等に被害を受けた住民とそれを支援する人々の運動を中心として展開されていったこと。

  B  立法や行政が十分な対応をとらない中で、司法(とりわけ民事訴訟)が大きな役割を果たしたこと。すなわち、わが国の公害反対運動は裁判(主として損害賠償や差止めを求める民事訴訟)により被告企業や国・行政の民事責任を追及し、そのことを通して、被害救済の前進や規制の強化を求めていったのである。このような傾向は、特に一九六〇年代後半から七〇年代に顕著であったが、その後も、大気汚染公害における民事訴訟などが提起されている。

  C  これらの運動やそれに応えた判決例(特に一九七〇年代前半における)の中で、公害により被害を受けた住民の権利(人格権等)と汚染原因者の法的責任(民事責任)が明らかになっていったこと。

  D  他方において地方自治体が大きな役割を果たしたこと。公害防止条例による厳しい規制や健康被害者救済制度の創設等、少なくとも一九七〇年頃までは、地方自治体における対策が国の対策に先行したのである。

  E  以上のような様々の運動・政策・法を背景として、一九七〇年代半ばまでに、規制の厳格化とそれに促された様々の汚染除去・環境保護技術の発達等により大きな成果が上がったが、七〇年代後半以降、環境政策と法における停滞ないし後退が見られ、新たな発展は、九〇年代を待たなければならなかったこと。

  これらの特徴のうち本稿の立場から特に注目すべきは、問題がまず生命・健康を含む人格的利益や生活上の利益に被害をもたらす公害問題として登場し、それらの法益侵害に対する救済が重要な課題となったこと(特徴@)、さらに、そのような公害に対する反対運動において民事訴訟が大きな役割を持ったこと(特徴B)、そして、公害問題を権利侵害による法的責任の問題ととらえる考え方が定着していったこと(特徴C)である。なぜなら、これらの特徴は、わが国の公害・環境法の発展において、人の健康や生活に関する様々の権利ないし利益を保護し損害賠償や差止めの根拠となる民法とりわけ不法行為法が重要な役割を果たしたことを意味するからである。この点に関して、公害への他の法的対策が十分な効果を挙げえなかった中にあって、一見予想外とも見える健闘を示しているのが司法的救済の分野であり、しかも、昔ながらの民法やせいぜい鉱業法などの諸規定に基づいて、すでに発生した損害の事後的な填補をめぐって争われた裁判が、公害発生者を攻撃する闘争を支援し、あるいはこれを促進する役割をある程度果たしてきた、その結果、「公害法といえばまず民法、それも損害賠償法を想起」するといった状況さえ存在するようになったとの指摘が、一九七〇年代になされている(28)。さらに、一九六〇年代後半から一九七〇年代前半に、立法・判例・学説上の大きな発展があったこと(特徴E)にも留意しなければならない。

  以上のことは、日本の公害・環境法発展の特質の解明にとって、不法行為法を中心として発展してきた公害私法理論、とりわけ、公害・環境法発展の画期ともいうべき一九六〇年代後半から七〇年代前半におけるそれらの分析が重要な課題となることを意味している。ただし、このことは、わが国の公害・環境法において今日なお私法が優位を占めている(あるいは占めるべきである)という主張をすることにつながるわけではない。むしろこれらの分析は、公害・環境問題における私法の意義とともにその限界を明らかにし、それを補うものとしての公法の重要性、あるいは、両者を総合した公害・環境法の今後のあり方を考察することにもつながっていくはずである(29)。何より必要なことは、この時期に、私法(不法行為法)が優位する形で形成されたわが国の公害・環境法理論は、その結果どのような特質を有するものとなったか、また、その特質はどのような点で、当時の状況に規定された特殊性ないし限界と今日あるいは将来に向って継承すべき普遍性ないし意義を有しているかを明らかにすることである。

  同時にこの時期の公害・環境問題における不法行為法理論の分析は、不法行為法の理論史研究にとっても重要である。なぜなら、戦後のわが国の不法行為法理論は、様々の現代的な被害への対応の中で大きな発展を見せたが、最も大きなインパクトを与え今日の理論状況を規定した事象として、交通事故とならんで公害をあげることに大きな異論はないと思われるからである。しかも、交通事故の場合は、一九五五年にすでに自動車損害賠償保障法が制定され、そこでは人身損害について特別の要件が規定されていた(同法三条の「運行供用者責任」)のに対し、公害においては、特別法の不備という理由もあり、問題がもっぱら民法の不法行為法の問題として論じられたため、民法七〇九条を中心とする不法行為法理論への影響はより大きいといっても過言ではない(30)

  以上のように、公害私法(特に不法行為法)理論史の研究には、単に歴史としてそれを見るという意味にとどまらず、公害・環境法理論と不法行為法理論の両面において、その新たな発展を目指すための基礎を確かにするという意義があると思われる。そこで、本稿の次章においては、以上のような研究の第一歩ないし予備的作業として、一九六〇年代後半以降の公害不法行為法論の前史、すなわち、六〇年代後半に公害問題に本格的に対処することになる段階までのわが国の不法行為法論がどのようなものであったのかを、明治期以降の展開過程にも視野を広げつつ検討してみたい。そしてそのことによって、六〇年代前半までのわが国の不法行為法論には公害問題に対処する上でどのような克服すべき限界があったのか、しかし、とにもかくにも当時の状況に対応して前述のような大きな役割を果たせたのはどのような特質のゆえかを明らかにすることが、そこでの課題となる(31)。およそ一般的に言って、法理論の発展はそれ以前の到達点を踏まえてなされるものである以上、六〇年代後半以降の理論にはそれまでの理論の特質が何らかの意味で刻印されているはずであり、したがって、この作業は、間接的にではあるが、六〇年代後半から七〇年代前半の公害不法行為論の特質を明らかにすることにつながり、ひいては、その後の理論展開を分析する上でも有意義だと思われるからである。ただし、本稿は不法行為法理論史の全面的な考察を企図するものではなく、あくまで公害・環境法史研究の一環として行うものであるから、明治期以降の分析も、その主要な対象は、公害・環境問題やそれに類似した性格を持つ近代的な産業や技術が発生させる被害に対応して、民法やその他の民事特別法上の規定とそれらについての判例や学説がどう展開していったかに置かれることになる。

(28)  西原道雄「公害賠償法の体系的地位」『現代損害賠償法講座五巻』(日本評論社一九七三年)二頁以下。

(29)  公害・環境問題における私法と公法の関係についてはさしあたり、拙稿「公害・環境法理論でなにが課題か」法律時報六七巻四号四頁以下参照。また、藤岡康弘「環境法の基本構造」判例評論二二七−二二九号が、差止請求を中心に、ドイツ法との対比を行いつつ、この点で興味深い検討を行っている。

(30)  瀬川信久「民法七〇九条」広中俊雄=星野英一編『民法典の百年V』(有斐閣一九九八年)五七六頁は、「自動車事故の増加とその責任の拡大は、七〇九条の過失概念を改変する原動力にならなかった」とする。

(31)  原島重義「わが国における権利論の推移」法の科学四号六七頁以下が、権利論の視点から、この時期を含むわが国の公害法理論に鋭い分析を加えており、また、中山充「公害の賠償と差止に関する法的構成の変遷」磯村還暦『市民法学の形成と展開(下)』(有斐閣一九八〇年)二一九頁や、富井前出注(4)三頁以下も、この時期の理論の検討を行っている。さらに、差止めに力点を置いたものではあるが、神戸秀彦「公害差止の法的構成の史的変遷に関する考察(一)」都立大法学会雑誌二九巻二号九一頁や、大塚直「生活妨害の差止に関する基礎的考察(一)」法学協会雑誌一〇三巻四号六〇九頁も、この時期の判例や学説に検討を加えている。本稿の次章は、このような業績を踏まえ、前述の時期区分における「高度成長・前期」(一九六〇年代前半)までの公害・環境私法理論の特質を浮き彫りにしようとするものである。