立命館法学 1999年1号(263号) 60頁(60頁)




英国政治における戦後コンセンサスと政治意識(二)
- 1960年代から90年代にかけての有権者の争点選考の変動を中心に -


小 堀 眞 裕


 

第一章  問題の所在

第二章  先行研究に関して
    (一)  リチャード・ローズの主張
    (二)  アンソニー・ダウンズの仮説(以上、一九九六年第六号)

第三章  戦後コンセンサスをめぐる議論
  第一節  戦後コンセンサスの内容に関する議論
    (一)  ケインズ主義的福祉国家をコンセンサスの内容として重視する見方
    (二)  政権間の政策的連続性をコンセンサスとして重視する見方
  第二節  戦後コンセンサス論に対する批判
  第三節  戦後コンセンサス−いつから始まるのか。
  第四節  戦後コンセンサス−いつ終わるのか。
  第五節  小括                    (以上、本号)



第三章  戦後コンセンサスをめぐる議論


  ここでは、英国における戦後コンセンサスの問題をめぐるさまざまな議論の整理を行う(1)。というのも、英国政治において戦後コンセンサスないしはコンセンサス・ポリティクスと呼ばれているものは、その論者によって内容がさまざまに異なるし、またそもそも、そうしたコンセンサスそのものの存在に関しても、かなりの異論が存在するからである。そこでここでは、そうした議論の整理をするのであるが、そうした作業は、第四章以降のコンセンサスと政治意識の関係を把握していく上での重要な予備的作業となる。つまり、第四章以降での分析の前に、コンセンサスの定義を明らかにしておくことが、この章の課題である。なお、本論文の対象は、一九六四年から一九九二年までであることを、第一章でお断りしてあるが、このコンセンサスの議論の整理、および定義に関する章においては、その限りでないことをあらかじめ断っておく。

 第一節  戦後コンセンサスの内容に関する議論

  英国戦後政治におけるコンセンサスに関する定義自体にも様々あるが、それを二つに大きく区別できると考える。一つは、コンセンサスの内容をケインズ主義的経済政策とベヴァリッジの包括的社会保障構想を土台とした福祉国家構想であるとする考えであり、これはデニス・カバナーとピーター・モリスらに代表される考え方である。彼らによれば、戦後英国政治のコンセンサスは、アトリー政権期に始まるが、サッチャリズムによってそれは終焉を迎えるとしている。そしてもう一つは、コンセンサスの内容ではなく、結果としての政権の政策の連続性に着目した考え方である。これは、リチャード・ローズが明らかにした考え方で、そうした視点からすると、彼は戦後政治全体を通じてコンセンサスが支配しており、それはサッチャー政権期においても変わりないとしている(2)
  もちろん、カバナー=モリスも、政権の政策の連続性をコンセンサスの一つのメルクマールとしているが、後にもみるように、彼らが七〇年代後半においてコンセンサスの終焉を見出す理由は、ケインズ主義的福祉国家が終焉したと判断したからであり、その点では、政権間での政策の連続性よりも内容としてのコンセンサスを重視しているといえよう。逆にローズにあっては、福祉国家の変容ないしは再編の試みはサッチャー政権以前から始まっていたし(例えば、ヒースやヒーリーの諸政策)、その意味では軸点を移しながらもコンセンサスは継続していくという形式を重視したのである。以下両者の意見を若干詳しく見ていくこととする。

(一)  ケインズ主義的福祉国家をコンセンサスの内容として重視する見方

  カバナー=モリスらの説は、一九八九年の著作『コンセンサス・ポリティクス』Consensus Politics:From Attlee to Thatcher とその第二版 Consensus Politics:From Attlee to Major で主として述べられている。彼らは、コンセンサスを「上級政治家や官僚たちが、執行可能で、経済的にも政治的にも受容できるとみなす一連の政策と考えるのが、より適切である(3)」としている。そして、その政策とは、混合経済、完全雇用、労働組合との協調、福祉、帝国からの撤退である。この場合、これらの政策は基本的にケインズ主義的経済政策とそれを土台としたベヴァリッジ報告以降の福祉国家構想と結び付けられている。これが、カバナー=モリスたちの戦後コンセンサスに対する基本的な定義であるが、英国政治学におけるコンセンサスの定義としては、近年もっともよく参照されている。
  ただし、これらの政策をめぐっても、保守党、労働党双方ともが完全に一致しているのではない。両者の間には、ある程度の対立や、レトリックや強調点の違いが存在していたことを認めている。また、彼らのコンセンサスの把握では、その存在は有権者レベルのものではなく、あくまでもエリート・レベルのものであったと考えられている(4)。すなわち、「コンセンサス・ポリティクスとは、エリートの過程−上級大臣、官僚、生産者利益集団、関係者たちが実行する−と権威を有する政府の存在とに不可避に結び付けられている(5)」。さらに、彼らがコンセンサスと考えているものは、政治家や官僚たちの主観的な意図ではなく、結果としての政策の収斂や連続性である。したがって、彼らの言うコンセンサスとは、基本政策の収斂や連続性を阻害しない程度のエリート間での対立の存在をも排除していない。
  したがって、彼らによると、コンセンサス・ポリティクスの要因も、客観的なものが重視される。その一つは、第二次世界大戦の影響であり、戦時中から戦後の再構成 reconstruction への試みが活発になされていたことをあげている。この点は後述するポール・アディスンの主張を基本的に踏襲している(6)。そして、そうした試みは、有権者レベルでの期待をも加速させ、そうした有権者の期待が、コンセンサスの形成に大きく貢献したことを認めている。先述したように、カバナー=モリスは、コンセンサスをエリート・レベルでの政策的収斂と考えているが、そのコンセンサスの形成に限っては、有権者が「コンセンサスによって表される『ミッド・グラウンド』の観念」を望んだことを認めている。また、その外の要因としては、官僚による政策の実現性と継続性の自覚や、経済・金融情勢などの外的要因もあげられている(7)
  ただし、この彼らの著作は、非常に短いことから、一方で不鮮明な点も含んでいる。その一つは、そのコンセンサスが誰の、どういう場合のコンセンサスであるかという点である。右記のように、彼らはコンセンサスの要因として、官僚による政策の実現性や継続性の追求や経済・金融情勢等があげられているが、著作全体のウエイトとしては、保守党・労働党両党のエリートの行動に重点が置かれていることは明らかである。そして、そうであるならば、当然そうした政党エリートと官僚エリートや経済・金融情勢との関連や、それぞれのファクター間の優劣が論じられる必要があるが、そうした点に関しては明らかにされているとは言い難い(8)。また、どういう場合のコンセンサスであるのかという問題に関しては、カバナー=モリスたちは「政権間の政策の継続性」であると明言している箇所がある一方で、与野党間の政策的収斂にも言及している。例えば、カバナー=モリスたちは、アトリー労働党政権下での保守党の産業憲章に関心を示したことなどをはじめ、著作全体として与野党間での政策的収斂が検討されている。彼らにとっては、両方のケースをコンセンサスとして捉えていると考えられるが、この点においては、後述のように、リチャード・ローズの場合は、かなりの程度政権間の政策の収斂に重点を置いていることが明瞭なのとは、対照的である。
  さらに、ローズとの違いという点では、カバナー=モリスは、コンセンサスをとりわけケインズ主義的経済政策とベヴァリッジ以来の包括的社会保障と結び付けたことから、アトリー政権から七〇年代後半までのものとしており、サッチャー政権期にはそれは崩壊するとしている。この点は、後に見るローズの主張が「政党に違いはあるのか?」という問いを自問することによって、英国政治における二党制は政策的には根本的に違いがないし、したがってサッチャー政権中も以後も、コンセンサスは続いていると主張したのとは好対照を成す。カバナー=モリスによれば、「政党は相違をなす。すなわち、違いは、戦後コンセンサスの形成とその部分的破壊において見られる(9)」と考えられているのである。
  カバナー=モリス以外にも、戦後コンセンサスの内容を重視する主張がある。例えば、独自の主張で特徴的なのは、ロバート・ガーナーとリチャード・ケリーである。彼らの主張の特色の一つは、戦後コンセンサスを、「社会民主主義的コンセンサス」と呼んでいるところである。彼らによれば、戦後のコンセンサスは、社会民主主義の理論を基礎に、そこに保守党の妥協が成立して出来上がったものであるとしている(10)。彼らが言う社会民主主義的コンセンサスの特徴は、平等主義とコレクティヴィズム、国家主義、ケインズ主義、コーポラティズム、混合経済、福祉国家からなり、もちろん保守党・労働党両党内にも根強い反対論があったことが認められてはいるが、基本的に両党は右の点について一致してきたと論じる(11)。これ自体は呼称を除けば、カバナー=モリスのコンセンサスとさほど違いはない。しかし、彼らの社会民主主義的コンセンサス論のもう一つの特徴は、その起源を一九世紀にまでさかのぼっていることである。とくに、彼らの主張によると、保守党が戦後の社会民主主義的コンセンサスを受け入れることになったのは、それがディズレイリ以来の「一つの国民」的伝統によるものであったことを指摘している。詳しくは後述する。

(二)  政権間の政策的連続性をコンセンサスとして重視する見方

  同じく、戦後政治におけるコンセンサスの存在を肯定しつつも、カバナー=モリスとは異なった主張を展開しているのが、リチャード・ローズである。ローズの主張の特徴点は、英国政治においては、レトリックと現実は必ずしも同じではなく、レトリックの部分においては、対決の政治が展開されることがあっても、現実の部分においては、ほとんど常にコンセンサス・ポリティクスが展開されると主張する点にある。より具体的には、政党は野党期においては、与党との対決色を強めるために、レトリックにおいて対決色を鮮明にするが、その後与党として実際に政権を担当するようになると、その前政権の政策を踏襲していく傾向が強いということを主張しているのである。もちろん、ローズの場合においても、常に与野党間やその支持者の間で不一致があって当然とは考えられていない。逆に、マニフェストの内容や表題、そして個々の政策の採決などにおいても、与野党間の間でコンセンサスが存在していたケースが多いとされている(12)。第一章では、ローズの有権者意識の見方を紹介したが、そこでもローズは基本的には、保守党・労働党の支持者の間でコンセンサスがあったと考えているのである。しかしながら、カバナー=モリスらの場合と比べると、レトリックと現実との違い、野党期と与党期の違い等を強調している点で、ローズのコンセンサス理解は、与野党間ではなく、政権間に重点を置いていることは明らかである。
  そして、具体的にはそうした政権間での政策の連続性をムービング・コンセンサス Moving Consensus という言葉で表現する。ローズのムービング・コンセンサスの定義がよく示されているいくつかの箇所を引用しておく。

  「長期間のパースペクティブで検討すると、英国政治における政党政府は、ムービング・コンセンサスのダイナミクスによって、最もよく特徴づけられる。動きは政党の優先順位の違いや、したがって生ずる不同意から生じうる。同様に、それは、保守党ないしは労働党政府の世間の動向に対する対応から生じうる。コンセンサスのイニシアをとろうとするのである。ある政党が動いて、以前反対党が占めていた場所に動くこともありえる(13)」。
  「政策過程において一度”動いたb20c要素は、不動の議会の法として安定したコンセンサスの一部分になる。もし、ある政策が、以前野党によって反対されていたならば、その政策はその野党が政権に復帰する時、最後のコンセンサスのテストを受けることになる。その時、その党は一度反対した法を執行するか、廃止するかの選択を迫られる。大多数の場合、以前の敵対者はその法を受容する。政党を一度分け隔てた一つの手段が、幾千の議会立法に加えられ、それらの起源が何であれ、政治的コンセンサスの部分と今なるのである(14)」。

  つまり、コンセンサスを形成する二大政党のうち、いずれかが政策面で離れていったとしても、その後の政権交代を通じて、いずれはもう一方の政党も軌道修正して、結果的にコンセンサスは維持されていくという考え方である。もちろん、この過程は、純粋に政党政治自体の作用の結果だけで起こるのではなく、党内外の既得権益や官僚サイドによる政策継続性の要求などにより引き起こされる場合も、ローズは指摘している。
  ただ、ムービング・コンセンサスという考え方については、次のように矛盾を指摘することもできる。つまり、この考え方は、一時的であるにせよ政策転換を前提としているので、ローズのコンセンサス論があくまでも政権間の政策的連続性に重点を置いていることと、矛盾している。しかし、それに対するローズの考えは、そうした政策転換は、様々な理由から偶発的に引き起こされているもので、ある程度の政策転換は、どの政権にも不可避で普遍的な現象として受け止められている。したがって、ローズはそうしたある程度の偶発的政策転換をコンセンサスに対する否定的な現象としてみるのではなく、むしろ、そうした政策的断絶が新たなコンセンサスの一部となり、その軸点を形成していくことを重視している。つまり、政策転換による何らかのコンセンサスからの逸脱があったとしても、その後の政権交代によって、コンセンサスはその軸点を移動させながらも維持されていくというのが、ムービング・コンセンサスという議論の核心である。
  ローズの関心は、その著書の表題にあるように、主として「政党に違いはあるのか」という普遍的な問題設定にある。したがって、戦後の英国という特定の状況よりも、選挙制度の影響や政権交代の効果などに議論の重点が置かれている。それゆえ、カバナー=モリスらとは違って、ローズのコンセンサス議論にあっては、ケインズ主義的経済政策やベヴァリッジ以来の包括的社会保障は、コンセンサスの継続を判断する際の主たるメルクマールとはなっていない。ムービング・コンセンサスの議論からもわかるように、ローズにとってはコンセンサスの内容−何を土台としたコンセンサスか−が重要なのではなく、コンセンサスの形式−異なる政党間での政権交代を通じた政策的連続性−が重要なのである。
  こうした観点から、ローズは、カバナー=モリスたちがコンセンサスの崩壊の時期として捉えているサッチャー政権期も、コンセンサスの枠内にあるとしている。詳細は、第四節に譲るが、サッチャー自身も、レトリックと現実の政策においては乖離していることを指摘している。また近年、ブレア政権に対しては、それまでの保守党政権とほとんど政策的に変わらないという評価があるが、そうした評価は、八〇年代前半に左傾化していた労働党が政権を取るころには、かなりの程度中道化していたことを表しているし、その点で、まさにローズのいうムービング・コンセンサスのテーゼが妥当しているとも言える。
  さて、ローズのコンセンサスの問題設定はきわめて普遍的なものとなっていると先述したが、ローズがコンセンサスの要因と考えるのは、次の二点である。
  その一つは、英国政治が採用している小選挙区制の制度的要因である。小選挙区制の制度的特徴の一つとして、得票率にして数%の変動でも議席数を大きく変動させるということがある。こうした小選挙区制の制度的特徴によって、各政党は自分たちのイデオロギー的立場を守るよりも、そのことによって失う票の方を恐れるのである。また、第一章で紹介したダウンズの単峰型の有権者分布を考えるならば、小選挙区制の下ではどうしても多くの有権者をひきつけるために、中道よりにならざるえない。
  またもう一つは、小選挙区制にも関わるが、そうした制度の上で二大政党による政権交代がある程度の期間を置いて行われることにある。こうした政権交代は、かえって政権党の本質的な目的を完全に成し遂げさせるというよりは、それを我慢させることになる。なぜならば、政権交代の度ごとにラディカルな改革を全面的に敢行することは事実上不可能であり、先述のような失点を恐れる姿勢からは、そうした大きな改革を断行する発想は出てこず、かえってそれまでの既得権益を保護する傾向が強くなるからである(15)
  また、付言するならば、右の原因論は、一九八四年におけるローズの主張であるが、一九九四年の彼の主張によれば、「相続されたプログラムのコミットメントを各々の新しい政権が受け入れる理由は、あらゆる大陸の政府にとって共通である(16)」とされている。つまり、こうしたコンセンサス(言いかえれば、政策の相続)は、英国以外にも妥当するという意味で、その普遍性についての言及をさらに一歩進めている。

 第二節  戦後コンセンサス論に対する批判

  こうした戦後コンセンサスないしは、コンセンサス・ポリティクスと呼ばれるものが存在したのかということについては、先述のように、八〇年代後半以降、広範な議論を呼んでいる。とりわけ、そうした中で活発な議論をしているのが、現代史歴史家たちである。ここでは、幾人かの論者をとりあげつつ、コンセンサスに対する批判論を紹介したい。
  コンセンサスに関する批判論には、一つの傾向がある。それは、それがコンセンサスと呼ぶに値するものかということであり、その際のメルクマールとして考えられているのが、コンセンサスを形成する政治家や官僚たちの間での合意が、すすんでのものであるのか、不承不承のものであるのかということである。また、その合意の範囲がどこまでを含むものか−エリート・レベルか、それを超えるのか、あるいは政党政治家のみか、官僚も含むのか−ということである。いくつかの議論を紹介していくが、そうした視点での研究がきわめて多いのが、傾向である。もちろん、歴史学的にも政治学的にも、その時々の具体的な合意が進んでのものであったか、そうでなかったか、またそれぞれの合意がどこまでの範囲を含んでいるのか、いないのかは、たとえその合意をコンセンサスと呼ぼうと呼ぶまいとに関わらず、極めて重要なことである。後に紹介する戦時期や戦後直後をめぐるコンセンサス論争は、そういう意味では、歴史学的にも政治学的にも極めて重要でかつ、興味深い。しかしながら、逆説的にいえば、何らかの形で二大政党間において、政策的収斂や政策的連続性があったということに関しては、有力な批判が存在していないというのが、現在までの議論の状況である。
  戦後英国政治におけるコンセンサスの存在に対しての有力な批判が登場してくるのは、八〇年代後半に入ってからである。戦後コンセンサスに対して、最初に正面から異議を唱えたのは、現代史研究家ベン・ピムロットである。ピムロットによれば、Consensus の原義とは、合意という意味のラテン語であり、他の多くのラテン語がそうであったように、英語における最初の使われ方は科学的な意味であった。生理学者はコンセンサスを、体の諸器官の調和を描くために用いた。一九世紀の中頃、その用語は国家や政治に言及するために使われ始めたが、それでもなお解剖学的な用法が念頭におかれていたという。
  ピムロットによれば、そういう意味や経緯はやがて忘れ去られ、極めて一般的な意味においても使われるようになった結果、戦後コンセンサスという表現が使われるようになったという。しかしながら、ピムロットによれば、それでもなお、コンセンサスという用語は単なる合意(agreement)よりは強い意味であり、コンセンサスとは、人々が単に合意するときには存在しているというのではなく、彼らが喜んで合意する時、合意することを強制されていない時、そして、そういう合意がなされる場合に、ほとんど彼らの中に異論がない状態の時にのみ使用されるべきであると主張する(17)
  そして、そういう意味でいえば、戦後の英国政治は二つの意味で、コンセンサスを持っていたとはいえないという。
  その理由として第一に、結果的にはコンセンサスがあったと思われるケースなどでも、保守党・労働党の両党の中には深刻な対立があったという点があげられる。ピムロットはいう。

  「保守党の大臣が労働党の前任者の確立した政策を継続した時期、いわゆるバッケリズムの一九五〇年代も取り上げてみよう。ここでは二つの政党のフロント・ベンチと大蔵省の間に一種の合意があったが、それはほとんど”コンセンサス”と呼べるものではなかった。両政党の間には巨大な相違が残っていた。アンソニー・クロスランドの大いなる社会的平等に対する情熱的な嘆願−『社会主義の将来』一九五一年刊行−には、ミートゥーイズムの要素はなかったのはたしかであった。そこでは、中道・コンセンサス志向ではなく、先行するトーリー的態度に対する根本的なオルターナティブが考えられていた(18)。」

  そして第二に、有権者においては、この時期ミドル・クラスと労働者階級の間で、際だった投票行動の違いがあった。ミドル・クラスは保守党に、労働者階級は労働党にという棲み分けがはっきりしていた。つまり、有権者のレベルではコンセンサスはなかったのではないか、ということである。彼によれば、第一章でも引用したように、「トップにおいて連続性や非連続性があろうとも、普通の投票者おいては、いわゆるコンセンサスの時代においての方がより分裂的であったように思われる」。また、ピムロットによれば、そうしたコンセンサスが存在するのであれば、保守党・労働党の間の中道政党がなぜ存在しなかったのかということも主張している。
  このピムロットの批判は、主としてカバナー=モリスの主張に対するものであった。こうしたピムロットの批判に対しては、カバナー=モリスたちは、あくまでも自分たちがコンセンサスと定義しているものは、「政権間の政策の連続性(19)」であるとして反論している。カバナー=モリスのコンセンサスの定義によれば、政策決定過程における不同意や対立もコンセンサスの存在とは矛盾しないとされる。コンセンサスが最も安定的であった時期でさえ、党内外において反対派が存在したことが認められているし、コンセンサスには、「政党エリート間での不同意をも含む」とされている(20)。また、さらに、ピムロットがコンセンサスの存在に対する反証としてあげた有権者の問題などは、そうした定義からすれば、まったく別の問題であるとされている。
  ただ、カバナー=モリスの主張には、他にもいくつかの批判がある。例えば、イアン・ウィルトンによれば、カバナー=モリスは、このコンセンサスが他党派の寛容を暴力的に制限しないという暗黙のルールに基づいている点や、七〇年代半ば以後のコンセンサスの崩壊の中でもいくつかの点は、コンセンサスとして継続している理由などを十分考察していないという点で批判している。さらに、カバナー=モリスのコンセンサス論が戦後コンセンサスの起源を第二次大戦期の戦時内閣に求めたことを批判し、それは「戦時中の出来事よりむしろ、戦後決着 Postwar settlement」によるものであるとしている(21)
  しかし、これらの批判はいずれも、戦後英国政治をトータルに検討した上での批判ではない。それに対して、近年戦後英国政治のトータルな検討の上で、カバナー=モリスらに代表されるコンセンサス・ポリティクス論を批判した研究として、ジェームス・D・マーロウの議論がある。ここでは彼の議論を紹介しておくが、彼の議論の焦点は、戦後英国政治のアクターの意図に絞られている点で、先に述べたような意識を重視する傾向がもっとも強い。
  マーロウは、カバナー=モリスらが「政策的収斂とコンセンサスを同一視している」点を批判する。彼は、デヴィット・ヘルドを引きながら、いわゆる政治的合意と呼ばれるものの中には規範的合意 normative agreement、機械的受容 instrumental acceptance、実利的服従 pragmatic acquiescence の種類があるが、このうち真にコンセンサスと呼ぶに相応しいのは、規範的合意だけであるという。しかしながら、実際にカバナー=モリスたちがコンセンサスと定義しているのは、機械的受容や実利的服従に該当するものであるという。マーロウ自身の定義によれば、これら3つの概念は次のとおりである。なお、太字部分は、原文表記においても太字である。

「規範的合意
  われわれの前の状況において、また現在われわれにとって利用できる情報において、個人として、あるいは集団の一員として、「正しく」、「正解で」「適当な」であると結論できる。われわれが純粋にそうすべきであり、そうするのが当然であることが、それである。
機械的受容
  われわれはそのような事柄には不満であるが、にもかかわらず、目的を達成するためにはそれらの事柄に従う。われわれは結局、それが自分にとって有利であるので服従する。
実利的服従
  われわれはその状況を好んでいない。それには満足できるものではないし、決して理想的でもない。しかし、われわれは(見通しうる将来に)事態が異なるのを想像できない。だから、われわれは、重大な反対はせず、それに同意する(22)。」

  こうした三つの合意ないしは応諾のモデルを使いながら、マーロウは戦後英国の政治過程を検証していく。そして、具体的に彼が検証の対象としたのは、一九四五年七月から一九五一年一〇月までの野党保守党の政治過程、一九五〇年代と六〇年代の野党労働党の政治過程、そして一九六〇年代から七〇年代半ばまでの保守党の政治過程である。マーロウは、カバナー=モリスに代表されるこれまでのコンセンサスに肯定的な研究がいずれも、キー・エージェントの行動や意識を重視してこなかったとして、そうしたキー・エージェントの問題に絞って検討を進めていくと述べた。そして、その結果、バトラーのニュー・コンサーバティズムは当時の情勢、とりわけ有権者の情勢に対する実利的ないしは機械的対応であり、ハーバート・モリソンの統合主義は時代に対する便法であり、リヴィジョニズムは明らかにその根っこに社会主義的意図があったが、一方で実利主義服従の傾向をもっていたと論じる。ヒースの中道主義への実際の動きは、結局情勢の直接的圧力の結果であると論じられている。つまり、いずれも規範的合意ではなく、コンセンサスとは言い難いものであり、それゆえ、いわゆるコンセンサスと呼ばれるものは、すべてメタファーであると結論づけている(23)
  こうしたマーロウの主張自体は、アクターの意志を重視している点において、先述したピムロットの議論と基本的に共通した着想を持っている。しかし一方で、実態としての「政策の収斂ないしは連続性」自体を両者とも否定していないのは事実である。
  こうしたマーロウの主張は、先述のピムロットの主張が政治過程の詳細な検討をした上での言及ではないのに対して、当時の政治家の言動を検討しながら議論を進めていった研究である点は評価できる。しかし同時に、彼のあまりに政治家の意図に特化した分析方法に関しては疑問が残る。特に、規範的合意、すなわち周囲の状況による影響をまったく受けない、純粋に最善の合意というものが、果たして政治の世界においてどれほど可能であろうか。個人的願望であればともかく、何らかの形でも他者を相手にする合意である以上、よほどのことがない限りマーロウのいう規範的合意が達成されるとは考えがたい。また、そもそもダウンズなどの合理的選択論の立場からすれば、政治家が選挙に勝とうとすることは政治家の本質である。さらに、保守党は特定のイデオロギーを持つことよりも、選挙に勝つためや国民的統一を維持するために、周囲の情勢に適合することを優先させる傾向があるし、それが保守党の本来の性質であるとされることも多い(24)。そして、そうであるならば、特に保守党の政治家の意識に関して、それが規範的合意であるか、機械的受容又は実利的服従あるかを厳密に線引きすることは困難を極めるであろう。
  さらに、彼の場合、そういう意識の問題を、一九四五ー五一年の野党期の保守党やアトリー政権期後期からその後の野党期にかけての労働党、そしてヒース期の保守党など合意の片方に限定して分析している点で、合意の質を検討する方法として問題がある。また、世論の影響を強調しているが、それがどの程度の範囲の政治家や官僚に影響を与えたのかという点も詳細ではない。後に見るように、ジェフリーとアディスンの間の論争のように、誰が同意し、誰が反対したのか、また彼らが何に同意し、何に反対したのか、詳細に明確にしようとする方向性があるならば、それが政治家の意図に特化していようといまいと、浮かび上がってくる政治史像は興味深い。
  また、史料的に見ても疑問となる点も多い。例えば、一つをあげるならば、マーロウは、エドワード・ヒースが根本的には、市場原理を崇拝する反コンセンサス的な政治家であると主張し、一九六〇年代中ごろから一九七〇年代前半までの彼の発言に即してそれを説明しているが、肝心のUターンを前後する時期の文献的な根拠が薄弱である(25)。この点、ヒースはもともと実務化肌の人物であり、彼が当初コーポラティズム的手法を拒否したり、マネタリズム的方法をとろうとしたことも、彼の価値観というより、当時の情勢や実務からの合理的判断の故であるという主張や(26)、それらは従来のコンセンサスの枠内での変化であったにすぎない、という主張(27)に有効に反論できていない。
  また、戦後コンセンサス論に対する歴史家たちの反論という点では、一九九六年に出版された『コンセンサスの神話』という論文集について言及しておく必要があるであろう。これは、ハリエット・ジョーンズとマイケル・カンディーをはじめとした若い歴史家たちによって書かれた著作である。著作の題名からも知れるように、論文集全体として戦後コンセンサスの存在に疑義を投げかけている。その中には、コンセンサスが登場する原因として、国際情勢に対する自国政府の限界を指摘したヘレン・マーサーの論文があったり、五〇年代の保守党内左派グループであったトーリー改革委員会の有力メンバーであり、閣僚の一人であったクィンティン・ホッグが社会主義や福祉への依存に拒絶反応を持っていたことを論じているジョーンズの論文があるなど、注目すべき点は存在している(28)
  しかし同時に、ここに集められた諸説全体としては、結論から言うと、これまで論じてきた諸傾向を脱することはできていない。さらに、幾人かの著者は、そう言う問題のある諸傾向をすでに自覚していることをも言及している。例えば、ニック・エリソンは、コンセンサスとして考えられるものとして、手続き的なコンセンサスと実質的なコンセンサスという二種類を提示し、前者を「政策形成の基礎的方向についての政治エリートによる広範な合意」とし、後者を「特定の政策の狙いと目的に関する深いイデオロギー的自己同一性」と置いている(29)。前者の手続き的コンセンサスに関しては、その内容はこれまで見たカバナー=モリスたちのコンセンサス定義とほとんど変わらない。しかし、エリソンはその手続的コンセンサスの存在を認めている。また、ニール・ローリングスは、いわゆるバッケリズムをめぐって、ある事柄はコンセンサスに合致し、ある事柄はコンセンサスに合致しないという細かい議論が必要であると主張しながらも、一方でこうした議論は決して「木を見て森を見ない」議論ではないと予防線を張らざるをえない状況に追い込まれている(30)。こうした彼らの主張は、戦後英国政治の諸政策の大局に関してはコンセンサスがあったことを容易には否定できないことを、計らずも露呈しているように思われる。
  コンセンサスに対する反論という意味では、右のように、当時の政治家の意図をめぐっての批判とは別に、戦後の英国政治を正面から「敵対の政治」Adversary Politics と描く人々もいた。その代表的な論者は、S・E・ファイナーである。ファイナーは、第一に、戦後の英国政治における二大政党制の下で、保守・労働両党は内部の左派・右派に引っ張られた結果、政権獲得時には、極端な方向に引っ張られていき、民意の中心から遠ざかってしまう。第二に、政権与党は、小選挙区制の下でせいぜい四〇%程度で政権についてしまう。第三に、政権交代のたびに、政策の大きな断絶が生まれてしまう。第四に、政党の権限が強大であるため、議会での討論が用を成さない。そして、第五に、結果として、政治に不安定性が増すというのである(31)。ただし、この主張は、その後いくつかの批判を巻き起こすことになり、とくに先述のローズの『政党に違いはあるか』で、実証的にかつ鋭く批判されることになる。
  ファイナーの危惧は、理論上起こりうることであるし、実際、一九七〇年代以降、いくつかでの政策分野では、政策の転換がたびたび起こった。また、サッチャー政権期には、サッチャー自身のレトリックともあいまって、保守党と労働党の間にかなり敵対的な時期もあった。しかし、政策の転換それ自体は、ただ異なる政党間での政権交代だけによるものではなく、政権交代とは無関係なものもあった。その典型例は、ヒースのUターンである。また、サッチャー政権期における敵対的な政党間競合も、結局実際に、その後政権交代が起こった一九九七年の時期には、労働党自体がそれまでと比べると各段に中道化し、ムービング・コンセンサスのテーゼが妥当すると考えられることは先述のとおりである。
  ファイナーの主張と同じく、英国政治における『敵対の政治』の側面を指摘しているのが、元ロンドン大学の森嶋通夫である。森嶋氏の主張は、同じ敵対の政治の側面の指摘ではあっても、二大政党による政権交代と、それに伴う政策転換が、英国経済に悪影響をもたらしていると指摘している点で、特徴的である。

  「私はイギリスが経済的にうまく行かないのは、イギリスが二大政党の国で、政権が数年ごとに二つの政党の間を右往左往するからだと思います。もちろんこれだけが原因でなく、他にもいろいろ原因がありますが、それらの諸原因の中でも、この民主的政権交替は、非常に大きいマイナスの影響を経済に与えていると思います(32)。」

  彼は、実際に政権交代の年に様々な経済指標が落ち込むことを指摘しており、そのこと自体は事実である(33)。ただ、それが敵対的経済政策によって引き起こされていることを確かめるためには、別個に詳細な検討が必要となろう。実際、六〇年代までは、政権交代が異なる政党間で起こったとしても、それが政策の大きな振幅を起こさなかったのもまた事実である。
  また、これらの主張が、七〇年代半ばから八〇年代にかけてのことであることも、一考を要することであるといえる。というのは、この時期の英国政治は労働運動とのかかわりではまさしく激動であったからである。そして、こうした労働運動の政治に対する突き上げが、政党政治における政策の振幅を大きくしていたことは事実であり、またそれが政権交代時における政策転換(例えば、ヒース政権初期やサッチャー政権期における)を意味したことがあったのも事実であったからである。しかし、それは先述のように、必ずしも政権交代によって起こった場合だけではないことからも、そこから英国における二大政党政治を基本的に「敵対の政治」と置くことが妥当であるとまでは言えない。ある意味では、ファイナーたちのような「敵対の政治」論は、こうした時期の情勢を反映しているともいえよう。また、先に述べたローズのムービング・コンセンサスという立場に立つなら、より広い視野で二大政党政治下での政策変動を見るべきであり、そうして九七年にまで視野を広げるならば、一見すると与野党間の政策距離が大きかったヒースやサッチャー政権期も、ムービング・コンセンサスの枠内であったといえる(34)
  最後に、この戦後コンセンサスに議論に関するイデオロギー性の指摘について言及して、本節をしめたい。
  ここでいうイデオロギー性とは、戦後コンセンサスの存在を主張する人々は、労働党左派ないしは共産主義者や、保守党右派など、左右の両極のメインストリームから外れた人々に多く、彼らは互いに左右の両極から、保守党・労働党のメインストリームを宥和的であると批判する意図から、戦後コンセンサスの存在を主張した傾向があることである。もちろん、そういう人々だけが戦後コンセンサスの存在を唱えているわけではないが、左右両極から戦後政治のメインストリームを攻撃する際に使われつづけたことも事実である。例えば、保守党右派からはサッチャーのコンセンサス批判は有名であるし、また左からは、左派で有名なトニー・ベンや、古くは、政治学者ラルフ・ミリバンドも、労働党政治をコンセンサスの枠内に捉えて攻撃した(35)
  そして、こうしたイデオロギー性の指摘は、ピーター・ジェンキンスの議論に特徴的に現れており、彼が指摘する内容は、五〇年代以降のコンセンサスとは実際には存在していない、意図的に作られたものであるというニュアンスを含んでいる(36)。ただし、こうしたイデオロギー性を指摘する議論が常に、戦後コンセンサスへの疑念を狙ったものであるわけではない。先述の戦後コンセンサスの提唱者カバナーは、ジェンキンスよりさらに体系的にこうした左右の論客による戦後コンセンサス論を紹介している(37)

 第三節  戦後コンセンサス−いつから始まるのか。

  戦後英国政治におけるコンセンサスについては、その存在の肯定論と否定論については以上のとおりであるが、その始まりと終わりに関わっても、いくつかの議論が存在している。とりわけ、戦後政治全体を通じてのコンセンサスの存在には直接言及しないが、少なくとも戦時期や戦後直後にはコンセンサスは存在しなかったとする議論も多い。ここでは、そうした議論をコンセンサスの始まりの時期に関わって整理していきたい。
  まず、コンセンサスの開始の時期に関わっては、一九七五年に出版されたポール・アディスンの『一九四五年への道』The Road to 1945 の中で、第二次大戦期の挙国一致内閣時におけるベヴァリッジ報告やその後の諸政策にその始まりを見る議論が出されていた。このアディスンの著作は、コンセンサスの問題に初めて本格的に言及した文献として、コンセンサス研究の際には必ず参照されるものである。その文献の基本的な論調は、次の引用によく表れている。

  「戦争期の新しいコンセンサスは積極的で目的のあるものであった。本質的に諸政党は強調の違いを表し、なお国有化の問題では強い不同意があった。演説会では、国家社会主義とレッセ・フェール資本主義のレトリック上の討論は辛辣に繰り返された。実際には、保守党と労働党のリーダーは、混合経済下でのプラグマティックな改革を支持して、それらの大部分の困難を回避した。労働党が一九四五年に選挙で大勝した時、新しいコンセンサスは、熟したプラムのようにアトリーのひざの上に落ちたのである(38)」。

  つまり、アディスンによれば、第二次大戦期の戦時内閣の中で保守党・労働党・自由党、そして官僚たちの間では、基本的な政策の方向で一致があったと論じたのであった。ただし、右の引用でもあるように、諸政党の間には強調点の違いがあったし、一定の政策では根本的な差違があったことも認めており、コンセンサスの範囲は、リーダーたちの間に限られている。
  しかしながら、こうしたアディスンの議論に対しては、一九八〇年代後半から有力な批判が次々と現れている。そのうちのいくつかをここで紹介するが、その第一は、ケビン・ジェフリーの主張である。
  彼によれば、戦時連立内閣はかなりの程度、社会政策を進めたが、それは議会で多数を占めていた保守党がイニシアを握って進め、戦前の社会政策と比べて前進した内容ではなかったということ、それゆえ、そうした政策をすすめる保守党と労働党の間には深い相違があったこと、さらに、そういう意味では、コンセンサスという表現を戦時連立内閣に当てはめることは「言いすぎ」であるということであった。戦時中のベヴァリッジ報告や白書をめぐる政治過程でも、全体としては、労働党がその実現に積極的であり、保守党はきわめて消極的で、白書や法案を骨抜きにしたり、作成をサボタージュすることもあったと述べている(39)
  個別の論点に入り、具体的に言えば、まず第一に、欧州戦争の戦線の好転やベヴァリッジ報告の好評などを通じて、保守党が戦後の再構成(reconstruction)に乗り出すのは、一九四三年になってからのことであり、また、それ以後も、保守党内で改革に積極的であったのは、「トーリー改革委員会」という四〇人ほどの若手議員によるグループのみであり、多くの議員は戦前の社会保障の枠組みを出ない一九四四年白書の支持さえ危うかったという。
  ベヴァリッジ報告が出てからも、労働党議員はそれを推し進めることを熱狂的に支持していたが、大蔵大臣キングスレー・ウッドは戦時中であるとして冷淡な態度を取っていたし、またバックベンチャーからは社会保障構想全体を攻撃するレポートが秘密裏に首相に提出されていた。しかも、バトラーの日記には党内に「ベヴァリッジは他人の金を奪い取っていく、不吉な男」という見方があったという。
  したがって、第二に、その結果出された一九四四年の白書も「必要最低限の収入を支給することを強調したベヴァリッジの主張は捨て去られ、実際には『社会保障』という用語は『国民保険』という象徴に取って代えられた(40)」。保守党は、予想される総選挙に向けて有権者に好印象を与えるためにのみ、改革に積極的な姿勢を見せたが、実際のその内容はベヴァリッジ報告を換骨奪胎するものであったというのである。そして、この点では、保守党内最左派であったトーリー改革委員会も同意していたのである。いわんや、彼ら以外の保守党議員の大多数は、『国民保険』の考えにさえ批判を持っていたという。したがって、この白書は、戦前の保険制度の統合と拡大を意図したものであったが、戦前の政策の転換ではなかったし、政党間の新しいコンセンサスもなかったと、ジェフリーは結論づける(41)。つまり、

  「保守党全体は、実際国民保険の理念を抱くのでさえ嫌々であったし、両政党は一九四五年の選挙の際には、白書を実行する約束をしたが、彼らは改革の基底的目標をめぐっては隔たったままであった。\\保守党の意欲はせいぜい戦前のパターンのサービスを拡大することであり、労働党の狙いとはなお鋭いコントラストを為していた。労働党は、福祉国家の一つの本質的構成要素を形作ることを通じて、根本的に新しいシステムを求めていた(42)」。

  また第三に、一九四四年に白書が出される国民医療サービス(NHS)の問題でも、事態は同じであった。アディスンによれば、医者の収入を国や地方が出すという形にするのかどうかなどの争点で、主として反対に回ったのは、政党の政治家ではなく、医師の団体である the British Medical Associations(BMA)であるとされている。また、アディスンは、この白書の作成にあたっては、労働党の政治家の発言が効果的であったし、そうした労働党の政治家と保健相であったウィリンク(保守党)との間では基本的な合意があると述べていた(43)
  それに対して、ジェフリーは、白書の作成に関わっては労働党の政治家の意見はほとんど効果をもたなかったし、医師団体の抵抗だけでなく、政治家と政党の抵抗によって、白書は医療の無料化や医師の地方自治体への帰属などまで踏み込めなかったとしている。結局、「労働党は、未だ政策、とりわけ病院をめぐる政策の中にある一定の曖昧さを解決しなければならなかったが、無料でかつ包括的な医療サービスを福祉国家の本質的要素としてみなし続けた。対照的に、保守党は、BMAが医療改革反対の矢面に立つように仕向けながら、一九四四年白書にも満たないプランに重点を置いていた。こうしたアプローチの本質は、福祉国家の根本的拡大ではなく、戦前のサービスの漸進的発展であった(44)」と、ジェフリーは結論づける。
  さらに第四に、雇用問題をめぐっても、コンセンサスはなかったという。雇用問題でも一九四四年六月に白書が出されるが、この白書は、”完全雇用”という言葉をさけ、「高く安定した雇用のレベル」という表現にとどめるとともに、失業対策としては通貨安定、輸出の復活と拡大、企業の活性化という伝統的な手法に留め、私企業経済という枠組みを維持した。したがって、社会保険や医療サービスの場合とは違って、保守党議員たちは「心から受け入れ」たと、ジェフリーは論じる。もちろん、そうした白書の内容に対しては、労働党は不満をもった。一応の支持はしたものの、アナイリン・ベヴァンはその内容に痛烈な批判を浴びせた(45)
  このように、ジェフリーはアディスンの戦時連立内閣の分析を批判するのであるが、ただしその批判はコンセンサス・ポリティクス一般に対する批判ではない。ジェフリーは、戦時連立内閣におけるコンセンサスという認識は明確に拒否したものの、戦後コンセンサスの存在自体は否定せずに、「英国政治における福祉国家の創造とバッケリズムの出現をさらに十分理解するためには、より多くの注意を、一九四五年以後の道、すなわち戦時内閣の終焉の前ではなく、その後に続く出来事に払わねばならない(46)」と述べたし、また、一九九一年の著作では、労働党の内紛と保守党の『産業憲章』の具体化により、一九四七年以後に両政党の政策が接近し、「コンセンサスは、一九五〇年代の英国政治にとって適切なラベルになった」と述べている(47)
  また同じく、若手の歴史学者ステファン・ブルークも、アディスンを批判する。彼の主張によれば、戦時内閣期において労働党は保守党とが、いくつかのキー・ポイントにおいて乖離していたという。教育においては、グラマー、テクニカル、モダンの三制度ではなく、コンプリヘンシブ・スクールの初期的構想であるマルティラテラル・スクーリングの導入を目指し、社会政策においては、最低限生活保障の原理を支持して、保守党と対立していた。そして、医療の分野では、伝統的な家庭医を、常勤の医師が地方当局の民主的管理の下で勤務する保険センターにとって代えることを望んで、保守党と対立していたのである。そして、こうした労働党の主張は、戦時内閣時においてではなく、戦後において実践されたのであり、そこに戦時内閣期のコンセンサス論の限界があると論じる(48)
  なお、彼の場合においてもジェフリーと同じく、戦後コンセンサス一般の批判ではなく、戦時内閣期のコンセンサスの存在に限定した批判となっている。ただし、彼の場合は、一九四七年以降に関しても、コンセンサスがあったとしても一時的かつ突発的なものであるという認識を示している点で、ジェフリーよりもなお戦後コンセンサスの存在に関して消極的といえよう(49)
  これらの批判に対して、アディスンは一九八八年の論文で、「政治論争の範囲を狭め、異論を周辺化させることに成功した」という意味で、「エリート・コンセンサス」が存在したことを再確認しているが、同時にその「コンセンサス」という言葉がしばしば、「闘争から開放された社会や、二つの政党の底辺での本質的調和」と混同されることから、曖昧さを避けるため、「”戦後コンセンサス”よりむしろ、”戦後決着”postwar settlement」という用語を使うと述べてる(50)。さらに、アディスンは、ジェフリーの著作の書評という形で、一九九三年にこう答えている。

  「近年、私は大きく意見を変えている。そして、もし今日、本を書いていたなら、エリート・コンセンサスないしは戦後決着 Postwar Settlement は、一九四〇年五月連立内閣の形成から一九五二年のロボット事件に至る一連の葛藤や転換点の結果として発展してきたと論ずるであろう。『一九四五年への道』においては、たしかに”中道的意見”が一九四五年のフロント・ベンチですでに一般化していた程度を誇張していた。したがって、一般的には、私はジェフリー博士の分析に大変同意していることを認める。しかし、戦時コンセンサスを、こんなにもやっきになって告発していることに関して、彼もまた誇張しがちであるように、私には思われる(51)」。

  しかし、最終的には、一九九四年の『一九四五年への道』の改訂版の中でややトータルな反論および、持論の整理を行っている。
  そこでは、九三年の書評においてと同様に、七五年当時の叙述に対して変更の必要性を認めているが、それでもなお、「社会的コンセンサスや、党活動家間のコンセンサスでもなく、ホワイト・ホールのコンセンサス」の存在に対して明確に再確認している(52)。また、この改訂版では、戦後決着という言葉とともに、コンセンサスという言葉を再び使っている。
  そして、ここでいうホワイト・ホールのコンセンサスとは、まさにホワイト・ホールの官僚たちによるコンセンサスである。つまり、アディスンは、当時の連立内閣時の政党リーダーたちや官僚らのコンセンサスを七五年当時に書いたのであって、それ以外の部分において深刻な対立があったことは、もとより折込済みであると論じている。そして、そういう対立的な状況において、コンセンサスを作る役割を果たしたのが、二大政党の外からの官僚たちの動きであったと述べている。そして、アディスンは、そういう官僚たちをホィッグ、つまり自由党支持者であるとし、ベヴァリッジやケインズの思想がコンセンサスのバックボーンとなったのも、その意味では偶然ではないとしている。
  ただ、同時に、アディスンは、九四年の改訂版では、七五年当時に「一九四〇年に始まった二大政党の収斂が、主に一九四〇年代の後半に完成した(53)」と第十章で書いたことが誤りであったことを認めている。
  経済政策の分野においては、一九四五年の段階では、保守党や大蔵官僚は政府による失業対策の効果に対して悲観的である一方、戦時内閣の経済部門のケインジアンや労働党の政治家は、政府の需要管理による完全雇用の実現に楽観的であった。また、四〇年代末の東西冷戦の緊張の緊張の高まりまで、アトリー政権は、産業国有化と物価や商品の統制という戦時的手法から抜け出ていなかった。したがって、この経済政策の分野におけるエリート・コンセンサスは、一九四〇年代末までったと認めている。しかし一方で、アディスンは一九四〇年代以降にはコンセンサスが存ォッ01在していたと主張している。ただし、この一九四〇年代後半から五〇年代にかけてにおいても、保守・労働両党の間には、バトラーによる財政的手法に重点をおくケインズ主義と、ゲイッケルによる輸出入規制などの物理的規制に重点をおくケインズ主義との、力点の違いが存在したと述べている。アディスンは、こうした政策の収斂がコンセンサスという言葉の厳密な語源には反することを認めつつも、その当時において、保守党・労働党両者のイデオロギー的乖離を埋める積極的な役割を果たしているとして、この時期の政党政治にコンセンサスがあったことを認めている。ャッ
  また、社会政策の部分においては、戦時内閣期からコンセンサスが存在していたことを、改訂版のエピローグで明確に再主張している。先のブルークの批判に対しては、社会保障、教育、医療のいずれの分野においても、たしかに保守党と労働党の方向性に違いはあったが、一九四五年以後の労働党政権も、その違いを実行に移さなかったところに重要な点があるとしている。つまり、社会保障の分野では、最低限生活保障という方向には向かわなかったし、教育の分野では、労働党の提唱したマルティラテラル・スクールは実践に移されなかったし、医療の分野でもベヴァンの望んだ地方による医療の管理は、ほとんど実行に移されなかったことを指摘している。つまり、コンセンサスを考える際には、ブルークが指摘したような相違点や論争点の範囲よりも、達成された合意の範囲を重視すべきであると指摘している。その達成された合意とは、「戦時社会政策における目立った発展は、人口全体に対する普遍的給付を支持して選択的給付を排除した(54)」ということである(55)
  この点、つまり戦時内閣期の合意の意義を強調する点では、ロドニー・ロウもアディスンを支持する。ロウによれば、コンセンサスの程度は誇張されてはならないが、たしかに一九四〇年代に、コンセンサスー歴史的に通常でないレベルの合意ーが存在していることを認めている。彼は、「過去の政策の失敗に対する一般的な戦時認識から、特定の政策への二党的合意、そして将来の福祉政策が発展すべき必要な枠組みに関わるプラグマティックな思想的収斂に至るまで」コンセンサスが存在したと論じ、ジェフリーのような戦時連立内閣時における福祉政策議論の過小評価を諌めている。ただし、同時に、新しい福祉政策に対する政党レベルでのイデオロギー的相違、官僚レベルでのケインズ主義的政策−特に雇用政策−への疑念など、深刻な不協和音が内包されていた点も指摘している(56)
  一方、ガーナー=ケリーのように、こうしたコンセンサスに関する厳密な時期区分そのものに意義を唱えている論者もいる。彼らによれば、コンセンサスの起源は一九世紀にまでさかのぼることができるし、いくつかの出来事によってコンセンサスは形成されていくと主張している。彼らのいう出来事とは、アトリー政権、トーリー・パターナリズム(ディズレイリ以来の「一つの国民」の伝統)、ニュー・リベラリズム(福祉国家の基礎を作った一九一〇年前後の自由党思想)、戦間期、第二次大戦である。つまり、コンセンサスはこれらの出来事によって徐々に作られていくといい、アトリー政権期のみにその始まりを求める意見を批判している(57)
  こうした戦時連立内閣におけるコンセンサスの有無や、コンセンサスがいつ始まったのかという問題に関しては、他にもいくつかの意見がある。例えば、ジェンキンスの意見は、そのコンセンサスを一時的なものとして見た点で、特徴的である。彼の主張によれば、コンセンサスは戦時中に形成されたが、戦後直後まで続いただけであり、その後五〇年代に入るともはやコンセンサスとはいえない状態になったとしている。ジェフリーが戦時中から戦後直後にかけてコンセンサスの存在に関して否定的で、一九五〇年代以後の時期に戦後コンセンサスの可能性に関して同意してきたのとは、対照的である。ジェンキンスによれば、「戦時コンセンサスのいくつかは−その程度には誇張があるともいえるが−、直接の戦後まで続くが、長くは続かなかった」という。そして、一九四五年総選挙では労働党を支持していたミドルクラスが、五〇年代には保守党支持に復帰するなどして、階級政治が復活するという。さらに、その後も、完全雇用や合衆国との外交的緊密さの維持など、政策的に一致する局面が存在はするが、そうしたものは回りの情勢からの必然的な選択肢であり、逆につねに保守・労働両党内部に反対派を抱えていた点で、「戦後コンセンサスは、大したコンセンサスではない」と述べられている。そして、最終的には、そうしたものは「コンセンサスというよりは、戦時中の短期間の間の政党政治の停止から生まれた戦後決着 postwar settlement である」と述べている(58)
  また、チャールズ・ウェブスターは、戦後英国政治の中で積極的に評価されつづけてきたNHSに関しても、コンセンサスに関わって論じる。彼によれば、医療業界や医者、官僚組織、そして労働党の緊張関係の中で生まれてきたNHSを、純粋なコンセンサスの産物として描いてきたため、単に歴史的叙述として誤っただけでなく、当時からすでに内在していた様々な問題点が真剣に取り組まれることなく、なおざりにされてきたと論じている(59)
  このコンセンサスがいつ始まるのかという議論には、その他にもいくつかバリエーションがある。例えば、マーウィックは一九四五年から一九五六年の期間の間のみ存在したと述べているし、(60)クローアム卿は、一九五〇年代の半ばから始まると言及し、(61)また、ミンキンは、一九四七年から始まるとしている(62)。サミエル・ビアは、一九五〇年代から六〇年代の間にコンセンサスは存在したと述べている(63)
  しかし、戦後英国政治に何らかの形で、コンセンサスが存在したという論者の間では、少なくとも戦後のアトリー労働党政権期にコンセンサスが確立したという見方が大勢であるといってよい。その点では、デビッド・ダットンが言うように、「最も安全な結論は、おそらくコンセンサスは一九四五年には十分に形成されなかったが、その根っこはしっかりと植えられていた(64)」と言えよう。
  最後に、マーティン・ホームズの戦後コンセンサスの始まりに関する、ユニークな見方があるので紹介しておく。彼によれば、「戦後コンセンサスは、主としてその名前においては、一九四五年から一九七二年まで存在したが、その論理的帰結−破滅的な結果−まで追求したのは、一九七二年から一九七六年のIMF危機の時であった(65)」。つまり、戦後コンセンサスが実質的に始まったのは、一九七二年のヒースのUターンの時からであるというのである。彼は、戦後コンセンサスとして、福祉国家、労働組合権力の増大、国有化、完全雇用の追及、市場経済批判をあげているが、それら五つの要素が全面的に追及されるのは、Uターン以後のヒース政権下においてであり、それは彼が破滅的結果と述べていることから分かるように、非常に否定的な評価をもつものであった。そしたまた、彼は、その否定的影響はキャラハン政権やサッチャー政権にまで尾を引くとしている。ちなみに、彼のこの主張は、ヒースこそ労働党以上にコンセンサスの守護者であるとする点で、極めて皮肉に満ちている点を注意しておく必要がある(66)

 第四節  戦後コンセンサス−いつ終わるのか。

  戦後コンセンサスがいつ終わるのかについては、その始まりの時期と比べるならば、そう明確な論争は存在していない。むしろ、それが終わるのかどうかに関して多くの議論が集中している。ここでは、コンセンサスの終焉を主張する議論から紹介していく。
  コンセンサスの終焉を主張する議論のほとんどは、一九七九年のサッチャー保守党政権の誕生までにはコンセンサスが終焉したと論じている。また、もちろん、一九七〇年代以前に戦後コンセンサスの終焉を指摘する意見も少数であるが、存在している。例えば、先述のジェンキンスやビアの議論が、そうである。
  ここでは、まず、近年の議論に大きな影響を与えたカバナー=モリスの議論を紹介していくことから始めたい。
  カバナー=モリスの主張によれば、戦後コンセンサスは一九七〇年代の半ばから崩壊過程に入り、一九七九年のサッチャー保守党政権の誕生を持って最終的に崩壊したとされている。そして、その崩壊の際に、彼らが重視した変数が「思想、環境、個人」である。これら三つの変数の相互作用によって、コンセンサスの終焉という変化が起こるとされている。
  思想という点では、まずカバナー=モリスが指摘しているところは、保守党・労働党ともに、従来の戦後コンセンサスの諸要素からの離反が見られていくことをあげている。つまり、「顕著であるのは、サッチャーリズムに結び付けられてきた多くの価値や政策が、いかに、すでに労働党政権におけるキー的な人物にによって受け入れられてきたかであった」と指摘していることである。マネタリズムは、すでに一九七六年のデニス・ヒーリー蔵相によって採用されているし、同じ年に支出の削減やブリティッシュ・ペトローリアムの民営化などが打ち出されていることが指摘されている。また、公営住宅の売却も、キャラハンの政策の中に存在していたと指摘する。つまり、「戦後コンセンサスの重要な特徴が、労働党の思想の多くはすでに一九五〇年までに保守党に吸収されていたことであるなら、同様のことは、サッチャー的な思想の労働党政権による吸収についても言い得る」のである。彼らによれば、こうした思想はそれ自体自ずと台頭してきたのではなく、それまでのシンクタンクの活動や、ハイエクやフリードマン、そしてキース・ジョゼフなどの英国内外の傾向の反映であるとしている。
  そして、こうした思想的な変化とともに、重要であると指摘されている環境とは、「古いコンセンサスがうまく機能していなかったという事実」である。ここで指摘されている事実とは、一九七九年の”不満の冬”以来、労働組合への幻滅やその過剰な強さへの批判が強まってきたことや、高い失業や高インフレによるいわゆる”スタッグフレーション”の展開である。それらは、オイルショックなどの国際的要因ともあいまって、英国経済に深刻な影響を与え、それらを通じて、ケインズ主義的経済政策全般への疑念が深まったことが指摘されている。
  個人の要因としては、サッチャー、キース・ジョゼフ、トニー・ベンの三人が言及されている。このうち、保守党におけるサッチャーとキース・ジョゼフ、労働党におけるトニー・ベン、両者とも、両党内の”エスタブリッシュメント”ではなく、そういう両者がコンセンサスを破壊しようとしたことを指摘している。彼らの言葉を借りるなら、「ベン氏と労働党左派は、キース・ジョゼフ氏とサッチャー夫人に同意している。コンセンサスが失敗したという点で」というのである(67)
  こうした三変数の相互作用によって、一九七九年のサッチャー政権までに戦後コンセンサスが終焉したというのが、カバナー=モリスの主張である。しかし一方で、彼らは、サッチャーからメージャー、そして労働党ブレア政権にいたる過程についての評価に関しては、慎重である。つまり、それが新しいコンセンサスであるということは言っていないのである。
  それがよく表れているのが、彼らのブレア労働党政権に対する評価である。前保守党政権との幾多の政策的類似性が指摘されているブレア政権も、彼らによれば、戦後コンセンサスの範疇には属していないのである。一九九八年にカバナーが書いたところによると、次のように、ブレア政権と前保守党政権との政策的類似は、コンセンサスではなく、単なる「収斂」としてとらえられている。

  「ニュー・レイバーは今、所得税の現在の率と、インフレ抑制のためにタフな目標に設定された公的支出の現在のレベル−両者はともに国民所得の中のシェアとしては、大部分のヨーロッパ諸国より低いレベルにある−を受け入れ、公的債務を減らすことを約束している。また、大部分の労働組合改革と、民営化措置全般、そして福祉に対するより選択的なアプローチを受け入れており、それらは、人々を仕事に戻し、サービスをより私的な供給に依拠したものにすることを意図している。たとえば、高等教育における授業料無料化の終焉などがその例である。労働党は、公的所有を捨てただけでなく、税のシステムを通じての所得再配分をも捨てたようであった。多くの政策において、かなりの収斂があったのである。(68)

  このように、カバナーたちがブレア政権を戦後コンセンサスの枠内に入れることに慎重になるのは、おそらく彼らがこれまでの著作において、戦後コンセンサスをケインズ主義的福祉国家とそれに関わる政策と同一視してきたためであろう。また、カバナーは、彼の別の著作の中では、コンセンサスが再び現れたと論じるためには、労働党政権全体を評価してからでないと本当に判断できないであろうと述べている(69)
  七〇年代に戦後コンセンサスが終焉したという議論で、印象的な主張を展開しているのが、デビッド・マーカンドである。彼は、不正確な表現であるとしながらも、戦後コンセンサスの存在自体は肯定するし、その内容は、ケインズ主義とベヴァリッジを基点と見ている点でカバナー=モリスに近い。ただ彼の主張で興味深いのは、コンセンサス崩壊の原因論である。
  彼によれば、コンセンサスの経済理論は、ケインズ主義的なコレクティヴィズムであったのに、その政治と倫理は個人主義的であったところが弱点であったとしている。戦時期から戦後直後にかけてのコンセンサスの成立期に、その哲学が形成されなかったがために、その後、快楽主義的個人主義が蔓延していってしまうことになる。それによって、労組も個人も自らのことのみを省みるようになり、労働運動自身もそうした哲学なき状態に陥ると論じる。つまり、社会全体や経済全体を考えずに、職場における賃金値上げに邁進し、まったく抑制が効かなくなった状態のことを指摘しているのである。その結果、労働党や保守党穏健派の政治家も、福祉国家を擁護するにも、哲学なき防衛戦になってしまうとマーカンドは述べる。そして、そういう快楽的個人主義が蔓延し、福祉国家が哲学を失っているところに、個人主義を本領にするニュー・ライトが台頭し、サッチャー政権の登場を許すことになると述べている(70)
  本論文の冒頭で、ギャンブルがサッチャー政権以後の展開の中に、新しいコンセンサスの可能性を示唆していることを紹介したが、一方でより踏み込んで、新しいコンセンサスの展開を説く論者もいる。そういう論者の幾人かを、ここで紹介する。
  その最初は、先述のダットンである。ダットンは、サッチャー政権からメージャー政権への展開を、新しいコンセンサスの展開として説いている。彼によれば、戦後コンセンサスは、一九七〇年から一九七九年の従来のコンセンサスの動揺期を経て、サッチャー政権期までに一旦は崩壊すると論じている。そして、そうした崩壊の後、八〇年代の保守・労働両党の対立的時期を経て、「一九九〇年代の政治を新しいコンセンサスが形作っている」と論じている。さらに、彼は、「少なくとも、その新しいコンセンサスは、第一のものよりもより緊密であると、論じることができる」と述べている。ダットンによると、第一のコンセンサスは保守・労働両党の間に、根本的な理念の対立を内包していたが、この九〇年代の第二のコンセンサスは、そうした対立を比較的内包しておらず、はるかに安定的であるという(71)
  さらに、九七年以後のブレア労働党政権をめぐっては、明確にそれを戦後コンセンサスの中に位置付けようとする議論がいくつか出てきている。ブレア政権に関しては、総選挙以前からメージャー・サッチャー前保守党政権との政策的類似が指摘されているし、また野党保守党との間でも、単一通貨への対応以外の部分では基本政策のかなりの部分で共通性があることがすでに指摘されてきた(72)。これらの議論の特徴は、そうしたブレア政権への評価を受けて、ブレア政権においてサッチャー政権以前までの古いコンセンサスが新しいコンセンサスに転換したという点で共通している。
  まず、ガーナー=ケリーは、サッチャー政権によってそれまでの古いコンセンサスが崩壊した後、その下で新しいコンセンサスの形成が進みつつあったと論じる。サッチャー政権下における労働党は、八三年総選挙での大敗以後断続的に右よりに軌道修正を計ったが、その一方でサッチャー保守党も、実際には公的支出の削減を十分に実行できないなど、実際上はその主張とは裏腹に左方向へと軌道修正されつつあった、と述べる。そして、それを受け継いだメージャー政権も、同様の路線を踏襲し、結局、「ポスト・サッチャライトは、ある意味では、間違いなく一九九二年までに現れたコンセンサスを叙述していく上で、一つの正しい方法のように思われる。それは、サッチャリズムの人気のある要素(低インフレ、比較的低い直接税、広い家と株式所有、経済における公的所有の抑制)と、社会民主主義において未だなお人気のある特徴(国家による医療・福祉サービスの拡大、比較的高いレベルの公的支出)を融合させたものである」と論じる(73)
  そして、一九九八年の著作では、ブレア政権においては、英国政治が五〇年代と同様、再びコンセンサスの初期に戻ったという意味で、「振り出しにもどった」と述べ、その新しいコンセンサスを「社会的市場コンセンサス」と呼ぶことができると主張している。彼らによれば、その新しいコンセンサスは、個人的自由の受容、市場実践と消費者選択の受容、私企業精神志向の混合経済の受容、個人重視の労働組合の受容、公的サービスにおける消費者選択と効率性の受容、EU統合と経済の国際化による政策的制限の受容、八〇年代に失われた社会的連帯の再生の受容という七つの受容によって特徴付けられるとしている。また、この新しいコンセンサスに関しては、九七年総選挙における保守党・労働党のマニフェストを比較してみたところ、ダットンと同様に、五〇年代よりもさらにコンセンサスの度合いは高まっているとも述べている(74)
  また、コリン・クラウチは、「世界的にもっとも新自由主義的な政府のもっとも劇的な破滅が、新自由主義的なコンセンサスの到来を告げた」と、メージャー保守党政権からブレア労働党政権への移行を評しただけでなく、「新しい政治の境界線は、二〇世紀のはじめから馴染みの深いしるしによって仕切られていた、すなわち、コンセンサスのスペクトルは、右におけるナショナリスト新自由主義から、左における社会的新自由主義へと移行したのである」と、この政権交代を戦後史の大きな流れの中で把握しようとしている(75)
  さらに、コリン・ヘイは、このブレア労働党政権を、戦後のコンセンサスを確立したと言われるチャーチル保守党政権(一九五一ー五五年)になぞらえ、また、メージャーからブレアへの政策的継続を、バトラーからゲイッケルへの政策的継続になぞらえて、「ブレージャーリズム」という言葉まで作り出している(76)
  ブレア政権をコンセンサスの中に位置付けようとするこれらの主張は、サッチャー政権期を一つの区切りと見る点では、カバナー=モリスと同じ主張であるが、コンセンサスがある意味では変動しつつもブレア政権期にまで続いているという点では、ムービング・コンセンサスというテーゼを補強しているとも言えよう。
  しかし一方、ムービング・コンセンサスの主唱者であるローズは、戦後のコンセンサスは一度も終焉せずに続いているという。彼は、戦後を通じてコンセンサスの軸点が動くことは認めるが、そのコンセンサスが断絶することは認めていない。
  具体的に見ていくと、まず、レトリックと現実的態度の分離を認めるローズにとっては、サッチャーのいわゆる「確信の政治」も、単なるレトリックだけであり、現実の政策においては、コンセンサスが貫かれていると理解されている。一九八三年総選挙前に、サッチャーがNHSの成果や年金政策の成果(サッチャライトな根本的な理念には反する)も、選挙戦の中で強調せよと命じたことに対して、ローズは次のように評価する。

  「彼女の確信からは一貫しているが、有権者には人気のないフリー・マーケットのレトリックを再び主張するか、有権者に人気があり、保守党政府の支出で支えられている福祉国家のプログラムを擁護するかの選択に直面したとき、サッチャーは選挙上のコンセンサスを支持した(77)」。

  さらに、コンセンサスの内容ではなく、異なる政党が担当した各々の政権間で政策的連続性があったという形式的事実に重点を置くローズの理解からすれば、サッチャー政権もそれ以前の政権と何ら変わるところがないとされる。つまり、コンセンサスを中断させるほどに、サッチャー政権は、特別改革的ではなかったと論じられている。こうした観点は、九四年にローズが共著で書いた『公共政策における相続性』Inheritance in Public Policy において、とくに顕著である。
  ローズらは、保守党政権下において一九五一年から一九八三年まで、労働党が保守党の法案に反対したのは、たった二〇%であり、また、労働党政権下において一九四五年から一九七九年まで、保守党が労働党政府の法案に反対したのは、たった一六%であることをあげ、サッチャー政権期にいたるまで両政党の政権に政策的な差異はほとんどないと強調している(78)
  さらに、ローズは、表3ー1のように政党が出した政策プログラム(一つの政策を実現するための諸法案)の消長を検討することで、労働党の方が、あるいは保守党の方がより改革的であるという議論を退けようとしている。表3ー1によれば、労働党政権下でも、保守党政権下でも、政策プログラムを終了させることに関しては、差がないと結論付けられている。つまり、保守党政権下でも、労働党政権下でも、ある政権党が自党の政策プログラムを終了させるのと、ある政権党が他党の政策プログラムを終了させるのは、比率として同じであると言うのである。そして、ここでは、サッチャー政権期の末期にあたる一九八九年までが視野に入れられているが、その時期もそれ以前の時期と同様に、コンセンサスの枠内として捉えられている。

 

 

 

  表3ー2は、逆に新しい政策プログラムが導入されたケースを、保守党政権下と労働党政権下で比較したものであるが、ここでも保守党政権による新しい政策プログラムの導入と労働党政権によるそれとでは、大した差がないと結論付けられている。もちろん、サッチャー政権期も含めてである(79)
  このように、ローズの主張においては、コンセンサスのあり方に関しては、サッチャー政権期を一つの時期区分としては、まったく考慮していないし、特別に改革的であったとも考えられていないのが特徴である。彼にとっては、コンセンサスは英国政治に見られる極めて普遍的なものであり、ある意味では、合衆国における政治とのアナロジーで考えられているともいえよう。
  ただし、ローズのここでの検討の方法には、若干の疑問もあるので、一言言及しておきたい。この点に関しては、第二章で指摘したことと、同様の問題点がある。というのは、表3ー1や表3ー2にあるように、数字の上から見ても、やはりサッチャー政権期に特別の大きな動きがあったことが、彼の分析によってはほとんど省みられていないからである。二つの表にあるように、政策プログラムの終了についても、新しい政策プログラムの導入についても、サッチャー政権期は明らかに数的な増加があるのである。例えば、政策プログラムの終了に関しては、たしかに、サッチャー保守党政権が一方的に労働党政権期の政策プログラムを廃止したのではなく、自ら作り廃止したものも多かったというのは、事実である。したがって、サッチャー政権期における、自党の政策プログラムを廃止した率と、他党の政策プログラムを廃止した率の比率は、変わらないかもしれない。しかし、その絶対数の増加自体は、サッチャー政権期におけるケインズ主義的福祉国家の動揺を、反映しているのではないであろうか。そして、そのことに無自覚であるがゆえに、第二章で指摘したように、カバナー=モリスがコンセンサスの終焉ととらえた時期の有権者のクロス・ボーティングをとらえて、有権者レベルでもコンセンサスがあるかのような議論を展開するのではないだろうか(ちなみに、ローズ自身もサッチャー政権期には「騒々しい政策環境」があったことは認めているが、それをコンセンサスにおける質的相違とはとらえていない(80))。

  第五節  小      括

  ここまで、戦後コンセンサスに関するさまざまな主張について、紹介および検討してきた。もちろん、ここに紹介できたものがすべてというわけではないし、言及しなかったものもあった。しかし、できうる限り多くの文献にわたって検討を行い、主なものに関しては言及できたつもりである。
  本章は、冒頭に述べたように、第四章以降における戦後コンセンサスと政治意識の関係を分析していく上での予備的作業であったが、一方で、これまで紹介してきたように、戦後コンセンサスに関わっては、英国本国においてもかなりの蓄積が存在している。特に、現代史や政治史の分野においては、特に戦時期と戦後直後にかんして近年目覚しい研究の進展があるし、今後もそれが続くと思われる。というのは、ここ一〇年あまり、英国の戦時期や戦後直後の文献史料が利用可能になり、幾多の研究が取り組まれつつあるからである。本章で紹介したジェフリーの主張はまさにその典型である。
  したがって、戦後コンセンサスとは何かということに関して、厳密な定義をなすことは、本来、地道に史料にあたるという手続きが不可欠であることはいうまでもない。しかし、同時に、本論の目的でもある戦後コンセンサスと政治意識との関連を考える上で、戦後コンセンサスに関しての一応の定義を行っていくことも、さしあたり必要である。そういうことで不充分さを認識しながらも、以下私なりに、戦後コンセンサスに関する議論の交通整理と、定義を行っていきたい。
  まず、議論の整理であるが、戦後のコンセンサスはローズが言うように、崩壊をせずに今日に至るまでも継続していると考える。ただし、その間には二つの時期があったと考えるのが妥当ではないであろうかと考えている。その第一の時期は、アトリー政権期から一九六〇年代終わりまでのコンセンサスがある程度安定的であった時期であり、そこではコンセンサスの内容として、ケインズ主義やベヴァリッジ報告を土台とした福祉国家の路線の維持が努力された。また、この時期は連続する政権間での政策的連続性だけでなく、与党と野党の間でも比較的政策的な収斂があった。第二の時期は、一九七〇年の保守党ヒース政権以降から今日にかけてのコンセンサスの動揺期である。その時期には、福祉国家を問い直す動きが次々と起こっていき、最終的にはサッチャー政権によって、その福祉国家路線は差別化・選別化によってそれ以前のものとは明確に異なっていく。その意味では、コンセンサスの内容は、福祉国家の維持から福祉国家の見直し・再編に変化したといって良いであろう。また、ヒース政権期からサッチャー政権期にかけてのように、与党と野党の間でのコンセンサスは崩壊することが出てくる。しかし、一方で政権ごとの政策の連続性という点でのコンセンサスは、軸点は移りながらも結果的に維持されていくのである。
  筆者のこうした整理は、基本的にはコンセンサスに関するリチャード・ローズの考え方を支持するものであるが、一方で筆者は、七〇年代はじめ以降コンセンサスの内容自体が変化していく過程や、五〇年代・六〇年代と比較して、七〇年代以降保守・労働両党の間で明確に基本政策で不一致が出てくる事態に関して、ほとんどローズが考慮を払っていない点に不満を持っている。そこで、先述のように、コンセンサスを二つの時期に分けて考えていきたいのである。つまり、ローズのムービング・コンセンサスのテーゼを受け入れながらも、なぜ、いつ、コンセンサスが移動するのかを考え、そしてそういうケースが七〇年代以後に集中していることを考えるならば、戦後コンセンサス全体を二つの時期に分けるべきではないだろうかと考えるのである。
  その上で、本論文においては、戦後コンセンサスを、異なる政党の政権間における基本政策の連続性と、保守党・労働党間の基本政策の収斂と定義しておきたい。基本政策の範囲であるが、これについては経済政策と、それが強い影響力を与える教育・NHS等の分野と考えておく。したがって、その時々の政党の全体(党員やバックベンチャー)や有権者レベルでの意識は、戦後コンセンサスの射程外と考える。また、政党指導者のレベルにおいても、その意識ではなく、結果的な政策的収斂および連続性を戦後コンセンサスと考えることにしたい。つまり、いかなる主観主義的なスタンスも採らないで、ひたすらに客観的な政策的収斂および連続性のみを戦後コンセンサスとして定義していきたい。
  ところで、なぜ政権間における基本政策の連続性と、二大政党間での政策的収斂の二つの要素を戦後コンセンサスと見るかであるが、これは、戦後コンセンサスに先述のように二つの時期区分を持ち込むことと関係している。つまり、七〇年代以後には、後者の二大政党間での政策的収斂が失われることが比較的多くなるが、この二大政党間での政策的収斂も第四章での分析の関係上視野に入れておきたいからである。
  ところで、こうした定義は、したがって、これまで見てきたいくつかの主張からすると、とるべきではないということも言える。というのは、客観的な政策の連続性や収斂をコンセンサスと呼ぶことは、コンセンサスという英語の語源からすると、正しくないかもしれないからである。しかし一方で、比較政治研究において重要となってくるのは、客観的な政策的および連続性である。そういう意味では、単なる政策的収斂および連続性を戦後コンセンサスとして定義していきたい。
  そして最後に、こうした戦後コンセンサスを理解する上で、私自身が感じ、またいましめなければならないと思っている、一つの注意点について言及したい。それは、ある意味では今までの議論の紹介で語り尽くされているともいえるが、戦後コンセンサスの意味するところが、戦後政治を極めて平坦なものとして描くものであると理解してはならないというものである。そして、この点では、ファイナーや森嶋が「敵対の政治」という主張をしたこと自体も、ある程度的を得ているといえる。
  実際、戦後コンセンサスというエリート・レベルの政策の継続性以外の部分では、英国戦後政治は激動の政治であったといえる。とりわけ、六〇年代後半から八〇年代中ごろまで顕著であった、いわゆる「強すぎる労働組合」という外観をもった労働運動は、つねにその激動の根源を作り上げてきた。ヒースが「国を統治しているのは、政府か、それとも炭坑労組か」というスローガンを掲げて、一九七四年二月の総選挙をたたかったのはその典型であった。むしろ、戦後コンセンサスは、こうした労働運動の突き上げを何とかして食い止めようとした結果の産物ともいえるであろう。それだけに、その戦後コンセンサスを平坦な道のりとして理解してはならないのである。


(1)  戦後コンセンサスの英国における議論に言及した文献としては、梅川正美『サッチャーと英国政治1』(成文堂、一九九七年)がある。この文献は、多岐にわたる英国文献を手際よくまとめた労作であるが、戦後コンセンサス論議の理解に関しては本論文と異なるところも多い。
(2)  なお、第二章部分においては、ローズが一九七九年までコンセンサスの存在を肯定していたと書いたが、それは一九七九年のサッチャー政権期を含んでいる。加えて、そういう書き方は、ローズが七九年を何かの節目としているということではなくて、単に彼の初版本の対象が七九年までであったためである。
(3)  Dennis Kavanagh & Peter Morris, Consensus Politics:From Attlee to Major (Blackwell, 1994), p. 13.
(4)  ibid., pp. 10-4.
(5)  ibid., p. 14.
(6)  ibid., p. 16.
(7)  ibid., p. 7.
(8)  Iain Wilton,”Postwar Consensus:Some Issues Re−examined, in Contemporary Record, Vol. 3, No. 4, April 1990, pp. 27-8.
(9)  Dennis Kavanagh & Peter Morris, op cit., p. 128.
(10)  Robert Garner & Richard Kelly, British Political Parties Today (Manchester University Press, 1993), pp. 33-43.
(11)  Robert Garner & Richard Kelly, British Political Parties Today:Second Edition (Manchester University Press, 1998), pp. 14-7.
(12)  Richard Rose, Do Parties Make a Difference? (Macmillan, 1984), pp. 33-91.
(13)  ibid., pp. 152-3.
(14)  ibid., p. 155.
(15)  ibid., pp. 143-58.
(16)  Richard Rose & Phillip L. Davies, Inheritance in Public Policy:Change without choice in Britain (Yale University Press, 1994), p. 238.
(17)  Ben Pimlott,”The Myth of Consensus, in L.M. Smith (ed), The Making of Britain:Echoes of Greatness (London:Macmillan, 1988), p. 130.
(18)  ibid., p. 139.
(19)  Dennis Kavanagh & Peter Morris, op cit., p. 12.
(20)  Dennis Kavanagh & Peter Morris, op cit., p. 13.
(21)  Iain Wilton op cit., pp. 27-8. なお、この Postwar settlement という単語は、ウィルトン以外にも、後に言及するようにかなりの論者が使っている用語であるが、この文脈において日本語として翻訳する場合にあまり容易なものではない。この単語の根本的な意味は、物事があるところに落ち着くということを示している。したがって、この場合は、NHSや失業対策、社会保険制度の整備や混合経済などが、コンセンサスという強い合意の結果としてできたのではなく、戦中から戦後直後にかけて諸勢力によるいくつかの政治過程を経ながら落ち着いてきた(settle)という意味で、まさに決着してしてできたものであるという意味を含んでいる。したがって、ここでは、この settlement という単語を、”決着”という言葉に訳しておく。settlement のこうした意味をはっきり表しているのは、ピーター・ジェンキンスの言及である。彼の主張の特徴は、第三節でみるように、コンセンサスは戦後直後にのみ存在したが、それはすぐに終わってしまうので、コンセンサスはむしろ postwar settlement と呼ぶに相応しいと言うものである。つまり、第三節で引用するように、postwar settlement は、「戦時中の短期間の間の政党政治の停止から生まれた戦後決着 postwar settlement」であり、そこで意味されていることは、従来コンセンサスと呼ばれていたものは戦時中の特殊な条件から生み出された単なる一時的決着であり、それを普遍化したり、戦後政治全体を覆うようなものとして把握してはならないというものである。
(22)  James D. Marlow, Questioning the Postwar Consensus Thesis:Towards an Alternative Account (Dartmouth, 1996) pp. 23-4.
(23)  ibid., pp. 158-163.
(24)  Philip Norton, The Conservative party (Prentice Hall/Harvester Wheatsheaf, 1996), pp. 68-82;Alan R. Ball, British Political Parties:the Emergence of a Modern Party System (Macmillan, 1987), pp. 39-41;T.F. Lindsay & Michael Harrington, The Conservative Party 1918-1979 (Macmillan, 1974), pp. 3-4. この点だけが、保守党の思想的性質のすべてではないが、保守党イデオロギーに関する文献では必ずといっていいほど、言及されている。
(25)  James D. Marlow, op cit., pp. 129-57.
(26)  Dennis Kavanagh,”The Heath Government, 1970-1974, in Peter Hennessy & Anthony Seldon (eds), Ruling Performance:British Governments from Attlee to Thatcher (Basil Blackwell, 1987), p. 217.
(27)  John Campbell, Edward Heath (Jonathan Cape, 1993), p. 203.
(28)  Helen Mercer,”Industrial Organisation and Ownership, and a New Definition of the Postwar ‘Consensus’, in Harriet Jones & Michael Kandiah, The Myth of Consensus:New Views on British History, 1945-ォュ0264 (Macmillan Press LTD, 1996);Harriet Jones,”A Bloodless Counter−Revolution:The Conservative Party and the Defence of Inequality, 1945-51 in H. Jones & M. Kandiah, (ed.), op. cit.
(29)  Nick Ellison,”Consensus Here, Consensus There\but not Consensus Everywhere:The Labour Party, Equality and Social Policy in the 1950s in H. Jones & M. Kandiah, (ed.), op cit., p. 17.
(30)  Neil Rollings,”Butskellism the Postwar Consensus and the Managed Economy H. Jones & M. Kandiah, (ed.), op. cit, p. 114.
(31)  S.E. Finer (ed), Adversary Politics and Electoral Reform (Anthony Wigram, 1975), pp. 3-14.
(32)  森嶋通夫『続イギリスと日本』(岩波新書、一九七八年)一一九ページ
(33)  森嶋通夫『サッチャー時代のイギリス』(岩波新書、一九八八年)一七八ページ
(34)  なお、その他、戦後コンセンサスに対する反論ではないが、それを極めて否定的にとらえ、戦後の英国経済に深刻な負の影響を与えたと論じているコレリー・バーネットがいる。彼の主張は、キース・ジョゼフやナイジェル・ローソンをはじめ保守党内の人々に多大な影響を与えた。彼の主張によるならば、福祉国家の確立という”新しいエルサレム”の建設へのコストは、英国の産業・経済衰退を転換させるために使われるべきであったとされる。Correlli Barnett, The Audit of War:The Illusion & Reality of Britain as a Great Nation (PaperMac, 1986)
(35)  Ralph Miliband, The State and Capitalist Society (London, 1969), pp. 46-69.
(36)  Peter Jenkins, Mrs. Thatcher’s Revolution:the Ending of the Socialist Era (Harvard University Press, 1988), p. 50-65.
(37)  Dennis Kavanagh,”The Postwar Consensus, in Twentieth Century British History, Vol. 3, No. 2, 1992, p. 183.
(38)  Paul Addison, The Road to 1945:British Politics and the Second World War (Jonathan Cape, 1975), p. 14.
(39)  Kevin Jefferys,”British Politics and Social Policy during the Second World War in The Historical Journal, Vol. 30, No. 1, 1987, p. 124.
(40)  ibid., p. 131
(41)  ibid., pp. 129-33.
(42)  ibid., p. 132
(43)  Paul Addison, op cit., p. 241.
(44)  Kevin Jefferys, op cit., p. 136.
(45)  ibid., pp. 137-9.
(46)  Ibid., p. 144.
(47)  Kevin Jefferys, The Churchill Coalition and Wartime Politics, 1940-1945 (Manchester University Press, 1991), pp. 214-5.
(48)  Stephen Brooke, Labour’s War:Labour Party during the Second World War (Oxford University Press, 1992), pp. 229-30.
(49)  ibid., p. 342.
(50)  Paul Addison,”The Road from 1945 in Peter Hennessy & Anthony Seldon (eds), op cit., p. 4.
(51)  Paul Addison,”Consensus Revisited in Twentieth Century British History, Vol. 4, No. 1, 1993, p. 93.
(52)  Paul Addison, The Road to 1945:The Revised Edition (Pimlico, 1994), p. 281. なお、このエピローグにおいては、アディスンが、コンセンサス自体の戦後史において果たしてきた役割を、当時積極的に評価していたことを述懐しているが、同時に、この改訂版を執筆している時期当時においては、戦後コンセンサスにはより懐疑的で、より悲観的になっていると述べている。
(53)  Paul Addison, First Edition, p. 275.
(54)  Paul Addison, Revised Edition, p. 288.
(55)  ibid., pp. 279-94.
(56)  Rodney Lowe,”The Second World War, Consensus, and the Foundation of the Welfare State, in Twentieth Century British History, Vol. 1, 1990.
(57)  Robert Garner & Richard Kelly, Second Edition, pp. 17-9.
(58)  Peter Jenkins, op cit., pp. 3-5.
(59)  Charles Webster,”Conflict and Consensus:Explaining the British Health Service, in Twentieth Century British History, Vol. 1, No. 2, 1990, pp. 115-51.
(60)  Aurthur Marwick, British Society since 1945 (Harmondsworth, 1982), part 1.
(61)  Lord Croham,”The IEA as Seen from the Civil Service, in Arthur Seldon (ed), The Emerging Consensus (London, 1981), p. 210.
(62)  ミンキンの著作に関しては、出版されたものではないので、出典を記す事はできないが、その内容に関しては、いくつかの文献で言及されている。例えば、Rodney Lowe, op cit., p. 156.
(63)  Samuel H. Beer, Britain against Itself:The Political Contradictions of Collectivism (Faber and Faber, 1982), pp. 8-10.
(64)  David Dutton, British Politics since 1945:Second Edition (Blackwell, 1997), p. 26.
(65)  Martin Holmes,”The Postwar Consensus, in Contemporary Record, Vol. 2, No. 2, 1988, p. 24.
(66)  ibid., p. 25.
(67)  Dennis Kavanagh & Peter Morris, op cit., pp. 116-21.
(68)  Bill Jones & Dennis Kavanagh, British politics today:the sixth edition (Manchester University Press, 1998), p. 8.
(69)  Dennis Kavanagh, The Reordering of British Politics:Politics after Thatcher (Oxford University Press, 1997), p. 228.
(70)  David Marquand,”British Politics, 1945-1987, in Peter Hennessy & Anthony Seldon (eds), op cit., pp. 317-24;”The Decline of Post−War Consensus, in Contemporary Record, Vol. 2, No. 3, 1988;Unprincipled Society:New Demands and Old Politics (Fontana Press, 1988), p. 319.
(71)  David Dutton, op cit., pp. 86-162.
(72)  ブレア政権の政策とメージャー前保守党政権との政策的類似性に関しては、拙著「一九九七年英国総選挙に関する一考察−ニュー・レイバーと戦後コンセンサスについて−」(『立命館法学』一九九七年第三号)を参照。率直に言って、経済政策の基本においては、保守党と変わらないため、他の政策の部分でも選択肢が限られているといえよう。ただ、しかし、そういう限られた範囲の中であるが、いわゆる「第三の道」を探ろうとする動きがあることも事実である。それがもっとも典型的に現れているのは、周知のように権限委譲 devolution、すなわちスコットランド・ウェールズ・北アイルランド、さらにはロンドンなどの都市への自治権の拡大であるが、それはNHS改革や教育改革、そしてクァンゴ改廃などとも連動している。この分野の成功如何が「第三の道」の命運を握っているといえよう。この点については、拙著「英国における政府の『説明責任』と特殊法人」(基礎経済科学研究所編『新世紀市民社会論−ポスト福祉国家政治への課題』大月書店、一九九九年、所収)を参照。
(73)  Robert Garner & Richard Kelly, First Edition, pp. 58-65. ただし、一方で、ガーナー=ケリーは、この状態には、保守党・労働党両党における深刻な理念的対立も同時に存在していることを指摘している。
(74)  Robert Garner & Richard Kelly, Second Edition, pp. 33-4. 本文のとおり、ダットンとガーナー=ケリーは、この新しいコンセンサスは、五〇年代と比べても安定的であると述べているわけであるが、今日ブレア政権下における政策の展開を見るにつけて、いよいよこれらダットンやガーナー=ケリーの主張の妥当性が増しているように筆者は考えている。実際、賃金の「比較性原理」の下、賃上げ闘争で強力な力を労働組合が発揮した七〇年代と比較すれば、九〇年代半ばから九九年にかけての方が、労働党やTUCにおける政府の方向性に対する反抗は、はるかに弱い。むしろ、ブレア政権と今後鋭く対立することが予想されるのは、単一通貨に関する保守党の動向の方であろう。しかし、議席の差が大きいこともあって、保守党の動きは基本的に政権に影響をもたらすことはないし、また、他の政策分野ではそう大した違いはない。
(75)  Colin Crouch,”The Terms of the Neo−Liberal Consensus in The Political Quarterly, Vol. 168, No. 4, 1997, p. 352.
(76)  Colin Hay,”Blaijorism:Towards a One−Vision Polity?, in The Political Quarterly, Vol. 168, No. 4, 1997, p. 373.
(77)  Richard Rose op cit., p. 167.
(78)   Richard Rose & Phillip L. Davies, op cit., p. 132.
(79)  ibid., pp. 135-41.
(80)  ibid., p. 136.