目 次
は じ め に
第一章 「保障人説」の歴史的意義
第二章 「保障人説」の展開と限界
第一節 総則規定施行前の展開−「同価値性」要件をめぐって(以上第二六三号)
第二節 総則規定施行後の展開−「保障人的地位」をめぐって
第三節 他人の犯罪の不阻止と作為との同置性について
第四節 小 括−「保障人説」の限界(以上本号)
第三章 不真正不作為犯論の再構成
第一節 作為および不作為の統一的負責根拠としての「保障人的地位」
第二節 あらたな課題
むすびにかえて
第二節 総則規定施行後の展開−「保障人的地位」をめぐって
一 一九七五年に「保障人説」にもとづく総則規定が施行されたことによって、罪刑法定原則のうちの法律主義との抵触を回避した不真正不作為犯論は、明確性の観点から、さらにその成立根拠と範囲が問題とされるようになった。総則規定制定後の議論は、「保障人的地位」にもとづく同置の条件、すなわち、総則一三条一項のいう、しかしそこからは具体的基準の読み取れない、作為「同価値」の不作為を基礎づける「保障人的地位(義務)」が、どのような場合に認められるのかをめぐって展開されたといってよいだろう(1)。そこでは、多くの学説が「不真正不作為犯は書かれざる不作為構成要件に該当し、命令規範に違反する」というアルミン・カウフマンの見解を基礎に、総則一三条を「作為犯の構成要件と合体し、それを不作為犯の構成要件につくりかえるための類推許容規定である」と解した(2)。そして、アルミン・カウフマンが書かれざる不作為構成要件の内容をなす「保障人的地位(義務)」を、(1)あらゆる侵害に対する一定の法益の保護を内容とする類型と、(2)一定の危険源を監視し、そこから生ずるあらゆる侵害からの保護を内容とする類型とに分類した(3)ことを支持した。このような「保障人的地位」ないし「保障人的義務」の二元的な説明は、「機能説」と呼ばれ、「保障人的義務」をめぐる今日の議論の基礎となっている。
そこで、本節では、アルミン・カウフマンの「機能説」を起点に、「保障人的地位」ないし「保障人的義務」の発生根拠をめぐる今日までの議論を概観することにしたい。
二 アルミン・カウフマンは、すでに引用した一九五九年の論文において、「保障人的地位(義務)」を、その内容たる保護の目的ないし機能に応じて、つぎの二つの類型に分類した。第一は、侵害のよってくる方向に関係なく、すべての侵害に対して具体的な法益を保護すべき類型(保護的保障)であり、第二は、どのような具体的法益がそれにより危険にさらされるかに関係なく、具体的な危険源を監視すべき類型(監視的保障)である。そして、たとえば、法律や契約にもとづく「保障人的義務」は前者に当たり、先行行為にもとづくそれは後者に当たるとした(4)。
このような「保障人的地位(義務)」の類型化は、すでに示した不真正不作為犯処罰規定の立法化作業において、「保障人的地位」ないし「保障人的義務」の内容を明確化し、処罰範囲を画定することが求められていたという事情を背景に主張されたものである。すなわち、従来、「保障人的地位」ないし「保障人的義務」は、その法形式に従い、「法律、契約、慣習法(=先行行為)」によって基礎づけられると考えられていた。しかし、具体的な事案の処理をみるかぎり、これらの事由を認めうるような事案であっても、かならずしも義務が基礎づけられていたわけではなかったし、これらの事由が認められないような事案であっても、義務が基礎づけられている場合があった。たとえば、「法律」については、別居離婚状態にある夫婦間では、民法一三五三条、つまり、法律にもとづく配偶者相互の義務が存在するにもかかわらず、そのような義務は「婚姻生活共同体」にもとづく義務ではないとして、妻の偽証を防止すべき夫の義務が否定されたり(BGHSt.
6, 322)、姑の自殺を傍観していた婿について、自殺を阻止すべき法律上の義務は存在しないにもかかわらず、「生活共同体」にもとづく「保障人的義務」が存在するとして、もっぱら「正犯者意思」の有無によって不真正不作為犯の成否が論じられたり(BGHSt.
13, 162)していた(5)。そして、右のような場合に、いわゆる「緊密な生活共同体」を「保障人的義務」の直接的な根拠とすることについては、「緊密な生活共同体」は倫理的義務を内容とするものであって法的義務を基礎づけるものではないという批判が、常に向けられていた。それ故、不真正不作為犯総則規定の立法化作業においては、判例の認める処罰範囲を無理なく説明しうる「保障人的地位(義務)」の根拠ないし範囲の明確化が求められていたのである(6)。
このような要求に対して、アルミン・カウフマンによる「保障人的地位(義務)」の類型化の意義は、つぎの点にあった。すなわち、保護の対象と侵害との関係に注目することにより、形式的な義務発生根拠では表現されない罪質の異同を示すことで、判例の処罰範囲を説明することができた点である。たとえば、さきに挙げた
BGHSt. 6, 322 では、夫は、別居中の妻に対して「法律」(民法一三五三条)にもとづく義務を負うとしても、その義務は「保護的保障」を内容とする義務であって、妻を監視し、妻によって危険にさらされた法益を保護すべき義務、すなわち「監視的保障」を内容とする義務ではないとして、婚姻共同体にもとづく相互援助義務を否定することなく、別居中の妻の犯罪行為を阻止すべき夫の「保障人的義務」を否定することができたのである(7)。
三 このような「機能説」の有効性は、法源にしたがった形式的な「保障人的義務」論への批判と結びついて、多くの支持を集めた(8)。もっとも、「機能説」は、あくまで「保障人的地位(義務)」の機能ないし目的にしたがった区分を示すだけであって、その根拠についての説明を与えるものではなかった。そこで、学説では、危険、信頼などの事実的概念を用いて、二種の「保障人的地位(義務)」の根拠を実質的に説明しようとする試みがなされた。
まず、アルツトやシュトレーは、すべての「保障人的義務」にとって重要なのは、不作為者による危険の創出であり、それは、不作為者が危険を監視し、場合によっては、被害者を保護することを他者が信頼して何もしないということから、また、その限りで負責の根拠となりうる、とした(9)。他方、ヴォルフやルドルフィは、構成要件の実現にとって重要なのは、行為者によって危険な行為がなされないことへの被害者の依存性であり、それは行為者と被害者との信頼関係によって基礎づけられるとした。そして、「機能説」のいう危険源を監視すべき義務については、他者はその危険源に手だしできないので、保障人がそれを監視することに依存していると説明し、一定の法益を保護すべき義務については、保障人は、特殊な依存関係や保護関係にもとづいて、無保護の被害者を危険から保護しているのであると説明した(10)。
しかし、前者では、不作為者が危険を創出したことが重要であるところ、被害者の信頼を裏切ったという場合については、不作為者が被害者の期待を得ることが危険の創出と同視されるが、そうなると「危険の創出」という基準は定かなものではなくなってしまうという問題があった(11)。逆に、後者のように、すべての「保障人的義務」を信頼によって根拠づけようとすることには、危険源の監視義務が問題となるような場合、危険の創出によって信頼が基礎づけられたと想定されることになるが、それでは「信頼」という基準もその確かな輪郭を失ってしまうという批判が向けられた(12)。
それ故、学説では、「危険の創出」を根拠に「監視的保障」を、「信頼」を根拠に「保護的保障」を基礎づけ、その下位事例として「法律、契約、先行行為」にもとづく不作為犯を扱う説明がもたらされるようになった。すなわち、自己の先行行為によって危険を創出した者は、その危険を監視すべき「保障人的義務」を負わねばならないし、法律や契約によって特別な信頼を得た者は、彼を信頼する被害者を保護すべき「保障人的義務」を負う、との説明がなされたのである(13)。
四 しかしながら、このような説明には問題があった。たとえば、法律によって基礎づけられる親の子供に対する「保障人的義務」は、子供の保護に関する面では「保護的保障」を内容とする義務に分類されるが、子供の行為の監視については「監視的保障」義務に属するというように、上位に置かれた二種の義務は、かならずしも明確な類型化を導きうるものではなかった(14)。また、以下で見るように、「危険の創出」や「信頼」といった根拠も、けして「保障人的義務」のそれとして十分なものではなかった。それ故、たとえ「機能説」のもとで義務発生事由を類型化したとしても、それらの事由は不真正不作為犯の成立を基礎づける十分な根拠とはなりえなかった(15)。
この問題は、とりわけ、先行行為にもとづく不作為犯の成立範囲に関して明らかとなった。というのも、先行行為にもとづく不作為犯については、戦前より、先行行為が正当防衛に当たる場合、不真正不作為犯は成立しないと考えられていたように、危険を創出した先行行為すべてが「保障人的義務」の根拠となるわけではなく、先行行為による「危険の創出」が認められる、ということ以上の説明が求められていたからである。もっとも、この問題は、後述するように、一九七三年以降は、先行行為の「義務違反性」を「保障人的義務」の要件とすることで、一応の決着がついたかのようにおもわれていた(16)。しかし、一九九〇年七月六日のいわゆる革スプレー判決(BGHSt.
37, 106)の出現によって、「義務違反性」を先行行為にもとづく「保障人的義務」の要件とすることに対して疑問がむけられるとともに、そもそも先行行為が不作為への負責を基礎づけうるのはなぜなのか、「保障人的義務」の根拠そのものが再度、問いなおされねばならなくなったのである。
以下では、そのような先行行為にもとづく不作為犯の成立範囲をめぐる議論を概観することによって、右で指摘したような問題がどのように浮上したのかを示すことにしよう。
五 本章第一節でも示したように、一九五〇年代までの判例は、結果に対する何らかの条件行為を行った者について、先行行為にもとづく「保障人的義務」を広く認める傾向にあった。しかし、こうした判例の態度に対しては、先行行為が法益侵害の蓋然性を惹起した場合であっても、何らかの補足的な基準によって「保障人的義務」を制限することが求められていた(17)。
こうした文脈からヴェルツェルは、構成要件に該当する結果発生の危険が誰の社会的支配領域において生じているかという視点が重要であると指摘し、実際的には、かつての「遡及禁止論」ないし「社会的相当性論」が保障人的義務の限界として意義を有すると述べた(18)。このようなヴェルツェルの見解は、支持を集め、判例において「保障人的義務」の制限に「遡及禁止論」ないし「社会的相当性論」が使用されるようになった。
まず、一九六三年一一月一三日の判決(BGHSt. 19, 152)では、飲食店主が自動車運転手にアルコールを販売した結果、当該運転手の飲酒運転により交通人身事故が生じたという事案について、飲食店主に、アルコールを販売したという先行行為にもとづいて結果を回避するよう介入すべき「保障人的義務」が認められるかが問題となった。その際、連9845裁判所はおおむねつぎのよう述べて、そのような「保障人的義務」の存在を否定した。すなわち、まず、自己の行為または共同で結果発生の危険を創出した者はその損害発生をできるかぎり回避すべき法的義務を有するという法思想には、原則として賛成しなければならないが、このことはあらゆる社会的に相当で一般的に是認せられた行為についても妥当せねばならないという意味ではないとした。そして、飲食店でアルコール飲料を売ることは、一般に社会的に相当と認められた行為に属するとし、もし飲食店主が客の過失的態度より生ずる結果について一般に刑法上の責任を負わなければならないとすれば、彼は多くの場合、刑法的意味で、客に対して後見人または監視者の地位に立たされることになるとした。それ故、飲食店主の許された営業と刑法上の責任との境界も、酩酊者へのアルコール飲料の販売を禁止する飲食店法一六条一項三号の規定と同様に設定されるべきであって、飲食店主は、客がなお自己答責的に行為しうるということを合理的に認識することが許されるかぎり、客の作為や不作為に干渉する必要はないとした(19)。
このように、本判決では、結果発生の危険を創出した先行行為が社会的に相当な行為であることを理由に「保障人的義務」の存在が否定された。そして、先行行為が社会的に相当であるといえるためには、それが適法とされる場合と同様に、侵害結果についての答責性を先行行為者が有さないことが必要であるとされた。もっとも、以後の判例では、本判決が結果についての答責性を問題としている点ではなく、結論として、適法ないし社会的に相当な先行行為から「保障人的義務」は生じないとした点のみが強調されていった。
たとえば、一九七〇年七月二九日の判決は、正当防衛における防衛者が防衛行為により侵害者を生命の危険に曝したという事案について、「保障人的義務」を否定して一般的救助義務違反である不救助罪のみを成立させるにあたり、つぎのように説明している。すなわち、本件では、被侵害者の危険行為、つまり、侵害者に対する防衛行為は、侵害者の違法な態度により誘発され解き放たれたものであり、このような特別な事情は、防衛行為により危殆化された侵害者の法的地位に影響せねばならない、正当防衛により行為する者は、危険な状況を惹起する者一般とは異った状態にある、とする。そして、それ故に、違法な侵害により自分自身を危険にさらす者は、侵害の相手方に対し、保障人として自己を保護するよう強いることはできないと説明する(20)。
また、一九七三年七月一九日の判決では、交通法規を遵守した被告人による轢き逃げの事案について、BGHSt. 19, 152が引用された。その際、BGHSt.
19, 152 は、「飲食店主による酒類の提供が義務に適合していたかどうかに着目した」ものとして位置づけられ、この基準は、道路交通における行為(「許された危険」な行為)にも当てはまるとして、「保障人的義務」の存在が否定された。すなわち、本判決では、BGHSt.
19, 152 は、飲食店でのアルコール飲料の提供のような社会的に是認される行為によって「保障人的地位」を根拠づけることはできないという考慮にもとづき、飲食店主が客の飲酒の結果について一般的に責任を負う必要はないという判断を正当化することにより、実際には、飲食店主による酒類の提供が義務に適合していたかどうかに着目したものであるとされた。そして、この考えが道路交通における行為に適用されるべきでないとする理由は見当たらず、したがって、規則を守って運転し、また、他の交通関与者の保護に資するその他の規則にも違反しなかった運転手は、事故に至るすべての行動の中で非難されうるようなものはないとされた(21)。
こうして、本判決では BGHSt. 19, 152 が引用されるとともに、先行行為にもとづく「保障人的義務」の判断にとって重要なのは、「先行行為が義務に適合しているか否か」であるとされたのである。この「義務に適合しているか否か」による負責の制限は、もともと、一九六〇年頃から有力に主張されるようになった客観的帰属論において、とくに過失犯の成立範囲を限定するために用いられているものであった(22)。しかし、一九六六年にルドルフィが適法な先行行為にもとづく「保障人的義務」の排除をこれによって説明して以来(23)、先行行為にもとづく不作為犯の成立要件としても支持を集めていた。本判決は、そうした状況のもとで下されたものであり、それ故、先行行為にもとづく「保障人的義務」に関する一連の判例について一応の決着をつけるものであると評価された(24)。
もっとも、この一九七三年七月一九日の判決が「義務に適合しているか否か」の基準を何らかの法規定に違反することなく適法であるかどうかに求めたことは、かならずしも学説における「義務違反性」の理解と一致するものではなかった。そのため、先行行為にもとづく「保障人的義務」の範囲については、その後も、判例と学説との間で対立がみられた。
たとえば、一九八一年一二月二二日の判決(BGH StV 1982, 218)や一九八四年九月一二日判決(BGH, JA 1985,
364)では、共同の強盗行為の後、ある行為者が行為を隠蔽するために被害者を殺害したという事案について、共同で強盗行為をおこなった他の行為者に、先行する「違法な」関与行為にもとづく「保障人的義務」が認められた。また、一九八四年六月二七日判決(BGH,
NStZ 1984, 452)や一九八四年一一月九日判決(BGH, NStZ 1985, 319)では、被告人の譲渡したヘロインを使用した被害者が意識を失ったにもかかわらず、被告人が救護措置をとらなかったために被害者が死亡したという事案について、自己答責的な被害者への関与自体によって被告人が過失致死罪で処罰されることはないが、被害者が意識を喪失した後の被告人には、ヘロインの譲渡という麻薬法二九条一項より可罰的で義務に違反した先行行為にもとづいて、被害者の死を回避すべき「保障人的義務」が認められる、との考えが示された。
これに対して、学説では、右のような事案では「義務違反性」は認められず、「保障人的義務」は否定されるべきであるとの主張がなされた。前者の事案に関しては、シュトレーが、先行行為にもとづく「保障人的義務」は危険状況について責任を負う者に課されるべきであり、「義務違反性」によって制限されねばならないとした上で、おおむね、つぎのように述べた。すなわち、先行行為の「義務違反性」という場合、何らかの義務違反が存在すればよいのではなく、先行行為による結果を阻止するための規定の違反がなければならず、それ故、行為者による当初の取り決めのない殺人行為に関し義務違反を犯しているのではない他の行為者の先行行為について、「保障人的義務」は認められないと述べた(25)。また、ロクシンは、後者の事案について、ヘロインの譲渡が麻薬法二九条一項より可罰的であるという事情にもとづいてBGHが「保障人的地位」を根拠づけようとしているのは適切ではない、と批判した。そして、「危険を発生させる行為」の義務違反性が重要なのではなく、「危険の惹起」が義務違反であったか否かが重要なのであって、刑法二二二条の保護目的は故意により答責的に行われる自己危殆化の回避には向けられていないので、ヘロインの譲渡に義務違反は認められないと述べた(26)。
このように、先行行為にもとづく「保障人的義務」の要件としての「義務違反性」がいかなる場合に認められるかについては、判例と学説との間で対立がみられた。とはいえ、この対立は、先行行為にもとづく「保障人的義務」の基礎づけの際、先行行為に何らかの義務違反が認められれば足りるのか、それとも、結果についての義務違反が認められねばならないのかについての対立であった。それ故、先行行為に何ら義務違反が認められないような場合、すなわち、先行行為が何ら客観的注意義務に違反することなく適法に行われた場合には、「義務違反性」が認められず、「保障人的義務」は基礎づけられない、という点では、少なくとも意見は一致していた。
しかし、そうした意見の一致も、一九九〇年七月六日のいわゆる革スプレー判決(27)によって揺るがされることとなった。すでに述べたように、本判決では、無過失でなされた製品の製造・販売行為についても「義務違反性」が認められるとして、それを根拠に出回った製品による被害を回避すべき「保障人的義務」が肯定されたのである。もっとも、本判決が結論として「保障人的義務」を認めたことは、学説でもおおむね好意的に受けとめられた。要するに、問題は、従来の判例および学説の理解によれば本件の先行行為(製品の製造・販売行為)に「義務違反性」は認められず、それを根拠に「保障人的義務」を基礎づけることはできないと考えられるところ、本判決では、なお「義務違反性」が認定されて、適法な先行行為を根拠に「保障人的義務」が基礎づけられた点に見いだされた。すなわち、本判決が、結局は、適法な先行行為にも「義務違反性」が認められる場合があると示したことによって、先行行為にもとづく「保障人的義務」を「義務違反性」によって制限することがはたして妥当なのか、換言すれば、先行行為にもとづく「保障人的義務」とは、いかなる根拠にもとづいて、どのような範囲で認められるものなのかが、再度、問いなおされねばならなくなったのである。
以下では、右のような文脈から重要な意味を持つ本判決の事案を概観した上で、「欠陥製品回収のための保障人的地位(義務)」に関する本判決の判決理由と、それをめぐる議論について見てみることにしよう。
まず、本件の事案(28)は、おおむね、つぎのようなものであった。本件の被告人は、革製品手入れ用スプレーを製造する有限会社 W.u.M
社(以下、同社と呼ぶ)の取締役S、Dr. Sch、同会社グループの中央研究所所長 Dr. B および同社の子会社で同社の革スプレー販売元であるS社の取締役W、E社の取締役Dであるところ、一九八〇年九月後半頃から、同社で製造し、子会社を通じて販売していた革製品手入れ用スプレーを使用した消費者の中から、製品の使用にともない身体的被害が生じたという報告が、次々に寄せられた。それ故、同社では内部調査および研究が行われたが、製造ミスは発見されず、被害の原因物質の化学的証明はできなかった。しかしその間も、製品使用による被害報告は寄せられていた。そこで、被害への対応を検討するために、被告人らは一九八一年五月一二日に臨時取締役会を開いた。その際、研究所所長
Dr. B は、調査の結果、製品の有毒な性質とその危険性を根拠づける手掛かりはなく、製品を回収する理由は存在しないと指摘した。そして、原因究明のために外部機関に調査を依頼し、さらに、全製品に警告表示を付け加えるか、警告表示を改めることを提案した。取締役会はこの提案を受け入れ、以後の調査で製品の欠陥あるいは消費者に対する危険が実際に判明するまでは、販売停止、製品回収命令および警告活動は行わないという点で合意した。この決定は、S、E社の取締役WとEにも報告され、彼らはそれを承認した。その後も被害報告は続いたが、しかし、再調査によっても、原因物質を突き止めることはできなかった。そのうちに、一九八三年九月二〇日に所轄官庁が介入し、それに応じて、同社は製品の販売中止と回収を開始した。しかし、回収した製品からは、その後も原因物質は明らかにならなかった。
以上のような事案について、原審は、被告人S、Dr. Sch、W、Dに対して、一部は市場にある製品の回収を怠ったことについて、一部は製品の製造および販売を継続したことについて、一九八一年二月一四日以後に生じた被害についてはドイツ刑法二三〇条の過失傷害罪の併合罪、同年五月一二日の臨時取締役会以後に生じた被害については、二二三条aの故意の危険な身体傷害罪の観念的競合を認めた。また、被告人
Dr. B に対しては、一九八一年五月一二日の臨時取締役会にて不適切な報告および助言を行ったものとして、危険傷害罪の幇助を認めた。こうした原審の判断に対し被告人らが上告したところ、本判決は、併合罪の部分を観念的競合に改めるとともに、研究所所長
Dr. B に無罪を言い渡した。しかし、これ以外の部分、すなわち、「製品と被害との因果関係の証明」、「製品回収のための保障人的地位と義務」および「各取締役の回収決定成立への努力の不作為と回収決定不成立との仮定的因果関係」については、被告人らの上告を棄却した。つまり、本判決は、臨時取締役会の後に製造または販売された製品による一〇件以外の被害、すなわち、故意犯二八件および過失犯四件については、いずれもすでに出荷されていたがまだ消費者の手元に届いていなかったと見られるスプレーによる被害として、製品回収の不作為について不真正不作為犯の責任を認めたのである。
そこでつぎに、右のような不真正不作為犯の成立に関する本判決の判決理由について見てみると、まず、スプレーの使用により発生した傷害に対する被告人らの刑法的責任は、各々の会社の取締役としての地位から生じ、それは、被告人らの会社が傷害を惹起する製品を流通させたことから基礎づけられている。そして、原審では、傷害の結果を回避すべき義務(結果回避義務)を民法上の社会安全義務、とりわけ製品監視義務から根拠づけているが、本判決によれば、民法の損害賠償を導く責任原理がただちに刑法上の責任を確定するために用いられてはならない。それ故、被告人らは、刑法上の原則によっても保障人的地位にあり、それは、先行する義務に反した危険な態度から生じたとされる。つまり、全被告人の危険な先行行為は、当該会社の取締役として、用法通りに使用しても使用者に健康上の被害をもたらす恐れのあるスプレーを市場に出回らせた点に認められ、先行行為の客観的義務違反性は、先行行為者がすでにそれにより注意義務に違反したこと、すなわち、過失により行為したことを前提とはしない。その限りで危険な結果が法的に非難されることで十分なのであるとされた。さらに、危険を惹起した態度が個人責任の意味で非難可能か否かは問題ではないとされ、危険状況の創出は、たとえ創出の点に何ら注意違反が存しなくとも損害回避のために義務づけられた保障人的義務を基礎づけるのであって、保障人の義務に反した先行行為は有責である必要はないとされた。
以上のような判決理由によって、本判決は、最初の被害報告が寄せられてから臨時取締役会が開かれるまでの間に生じた四件の被害についても、不真正不作為犯としての責任が問われうるとした。つまり、本判決は、先行行為の客観的義務違反性を「法的に非とされる危険結果で足りる」とし、さらに「保障人の義務違反的先行行為は有責である必要はない」とすることによって、先行行為の「義務違反性」を認めたのである。換言すれば、本判決では、「流通過程にある製品の危険性」が、製品の製造・販売という先行行為の「義務違反性」を構成したのである。
しかしながら、このように、本判決が先行行為によって創出された危険性と先行行為の客観的義務違反性を同視することによって「義務違反性」要件を肯定したことは、多くの学説によって批判された。たとえば、ザムゾンは、本判決が保障人の先行行為は「有責である必要はない」あるいは「法的に非とされる危険結果で足りる」としたことは、実際には違法性要件の放棄を意味し、このことは、製造物責任以外の分野で好ましくない効果をもたらすと述べた(29)。また、プッペは、回収義務の前提として、先行行為の「義務違反性」を客観的危険性の中に読み込むのであれば、危険性と並んで「義務違反性」を要求することに、どのような機能と意味があるのか疑問が生ずると述べた(30)。
こうした批判は、クーレンなど本件での「保障人的義務」を積極的に肯定しようとする立場では、先行行為にもとづく負責に「義務違反性」要件は不要であるとする考えに結びついた。この立場では、本判決は判例変更もせずに先行行為の「義務違反性」要件を放棄しているとの批判がなされた。また、製品の製造および販売は、現代社会では当該製品の不相応な危険性が販売時に認識できたか否かにかかわらず、製造業者および販売業者の「保障人的義務」を生ぜしめる危険な行為であるとして、「義務違反性」要件のかわりに、たとえば「日常行為よりも高い危険を有する行為によって創出された危険状態」を作為義務の要件とするなど、より客観的な危険創出要件に置き換えることが主張された(31)。
しかし、このような「義務違反性」を不要とする見解に対しては、「義務違反性」の最低条件が守られなければ、必然的に負責の拡大へと至ってしまうとの批判がむけられた(32)。もっとも、こうした批判は、かならずしも本件での「保障人的義務」の否定を意図するものではなく、先行行為にもとづく「保障人的義務」という理論構成自体を疑問視するものであった。そこでは、とりわけ、先行行為にもとづく「保障人的義務」の範囲を先行行為の「義務違反性」によって画することについて、なぜ先行行為そのものへの負責要件が後続の不作為への負責要件となるのか疑問が持たれた。と同時に、どのような場合であれば先行行為と後続の不作為とが一体として評価されうるかが問題とされた(33)。
六 すでに述べたように、先行行為にもとづく「保障人的義務」は「監視的保障」の下位事例であり、先行行為者は、自己の創出した危険源を監視すべき義務を負わねばならないが故に、後続の不作為について責任が問われうるとされる。すなわち、そのかぎりで、先行行為と後続の不作為とは一体として評価されうるというのである。しかし、危険を創出した先行行為すべてがその危険から生じた被害についての責任を基礎づけるわけではないとすれば、重要なのは、危険を創出した先行行為そのものではない。そうではなくて、危険を創出した先行行為者に彼の創出した危険を監視すべき義務を負わせうるか、つまり、先行行為者の態度全体が問題なのである。換言すれば、先行行為者の責任、すなわち、先行行為によって創出された危険の「監視」が先行行為者の「保障人的義務」となるのかどうか、それはなぜなのかが問われているのである。
それ故、学説では、そもそも「機能説」において、「監視的保障」および「保護的保障」がどのような理由によって「保障人的義務」を形成しているのか、すなわち、「保障人的義務」の内容(種類)ではなくて、発生根拠そのものに関心がむけられた。すでに述べたように、「機能説」ではこの点の説明は、なされていないからである(34)。
この点、たとえばシューネマンは、作為による構成要件の実現が認められる場合の実質的根拠が右のような「保障人的義務」の根拠であり、それは作為および不作為に共通する帰属原理であると説明する(35)。具体的には、最も重要な類型である作為結果犯が「結果の原因に対する支配」によって特徴づけられることから、「結果の原因に対する支配」が作為および不作為に共通する帰属原理であり、「保障人的義務」の根拠であるという。それ故、シューネマンによれば、「監視的保障」は本質的結果原因に対する支配によって、また、「保護的保障」は被害者の脆弱性に対する支配によって基礎づけられる。そして、これらの支配は、現実の事実的な支配でなければならないとされる。というのも、シューネマンによれば、「支配」概念は、作為犯における帰属根拠である自己の身体挙動に対する事実的支配に近接する種類のものとして導入されるからであり、それ故、たとえば危険物の支配や被害者の脆弱性をもたらす保護の引き受け等が、「保障人的義務」の根拠となりうるとされる(36)。
しかし、以上のようなシューネマンの説明に対しては、そもそも「結果の原因に対する支配」が作為犯および不作為犯の責任に関する基準として妥当しうるのか、疑問が持たれている(37)。シューネマンが主張するように、最も重要な類型である作為結果犯が「結果の原因に対する支配」によって特徴づけられるとしても、それは「結果の原因に対する支配」によって可罰的作為および不作為が論じ尽くされたことを意味しないし、また、「保護的保障」が問題となるような場合、「結果の原因に対する支配」は重要ではないのである。
もっとも、シューネマンが「保障人的地位(義務)」を作為および不作為に共通する帰属原理によって基礎づけようとした点は注目に値する。というのも、従来の議論のように、作為同置の要件である「保障人的地位(義務)」を不作為犯の特殊な要件として扱うとすれば、さらに上位に作為犯と不作為犯とを統一的に説明する原理を必要とせねばならなくなるし、不真正不作為犯の処罰根拠であるならば、作為犯にも共通しなければ、両者の同置を基礎づけることはできないはずだからである。そして、「保障人的地位(義務)」の捉えなおしによって作為および不作為の処罰が統一的に説明されうるのであれば、作為犯と不作為犯との構造的差異は両者の負責にとっては重要ではなくなるが、そうなれば、両者の構造的差異を前提とした問題への対応も異なりうるからである。
具体的には、前節で言及した不作為による共犯の成立範囲の問題、とりわけ、他人の犯罪行為を阻止しなかった者の責任が正犯のものなのか、共犯のものなのかという問題が関係する。たとえば、毒物の管理者が殺人犯人による毒薬の持ち出しを黙認するという場合、毒薬を渡すという作為であれば幇助にとどまる役割であっても、不作為であれば正犯になるのかどうかという問題である。ここで、あくまで不作為の共犯の成立は否定して刑の軽減にとどめるべきであるとの主張が不作為犯の構造的独自性を強調する立場からなされているように(38)、この問題は、作為犯と不作為犯との構造的差異を考慮した場合、作為犯において展開されている正犯と共犯の区別基準が不作為犯には当てはまらず、不作為による共犯は成立しえないのではないか、との考えから生ずるものだからである。
しかし、作為と不作為との構造的差異を考慮して不作為による共犯の成立を否定することは、不作為犯について通常の作為犯と異なる正犯概念を認めることを意味するが、そうなると、作為と不作為との同置ないし同価値という要件を無視することになってしまう。なぜなら、不真正不作為は作為と同価値で同置できるがゆえに作為犯規定の適用を受けるはずだからである。それ故、この問題は、「保障人的地位(義務)」を不作為犯に特殊な要件として位置づけてきた従来の議論の限界を示すものとして位置づけられる。というのも、この問題では、いかにして作為と不作為との構造的差異を乗り越えて、両者に妥当する正犯と共犯の区別基準を示すかが重要となるが、もし「保障人的地位」が作為および不作為に共通する帰属根拠であり、作為および不作為の構造的差異が両者への負責にとって重要ではないのだとすれば問題は解決されるし、また逆に、そのように「保障人的地位」を捉えなおすことでしか問題が解決されないとすれば、「保障人的地位(義務)」の捉えなおしは、いよいよ必要であるといえるからである。
そこで次節では、右のような意味で重要な不作為による共犯の成立範囲の問題、とりわけ、他人の犯罪を阻止すべき保障人的義務をめぐる近年ドイツの議論について、見てみることにしたい。「S50,0」
(1) Vgl. G. Freund, Erfolgsdelikt und Unterlassen, 1992. S. 1f., 42ff.
(2) Vgl. Jeschck, in:LK, 11. Aufl., 1993, § 13 Rm. 5.
(3) Armin Kaufmann, Die Dogmatik der Unterlassungsdelikte, 1959, S.
283f.
(4) a. a. O., S. 283f.
(5) なお、契約に関しては、Tro¨ndle/Fischer, StGB, 49. Aufl., 1999, § 13 Rn. 8.
(6) このような状況について言及しているのは、Kurt Seelmann, Opferinteressen und Handlungsverantwortung
in der Garantenpflichtdogmatik, GA 1989, S. 242f.
(7) Vgl. Jakobs, Strafrecht Allgemeiner Teil, 2. Aufl., 1991, S. 799,
Rudolphi, Die Gleichstellungsproblematik der unechten Unterlassungsdelikte
und der Ingerenz, 1966, S. 105.
(8) H. Henkel, Das methodenproblem bei den unechten Unrterlassungsdelikte,
Mschr Krim 1961, S. 190f., Rudolphi, a. a. O., S. 53f., 101ff.サ
Vgl. Jeschek Weigend, Lehrbuch des Strafrechts Allgemeiner Teil, 5.
Aufl., S. 621f.
(9) Arzt, JA 1980, S. 553, 560, 714ff., Stree, Garantenstellung kraft
U¨bernahme, in:FS H. Mayer, 1966, S. 158. さらに、類似の視点を示すものとして、Schultz,
JuS 1985, S. 271ff.
(10) E.A. Wolff, Kausalita¨t von Tun und Unterlassen, 1965, S. 43,
Rudolphi, NStZ 1984, S. 150ff. さらに、Welp, Vorangegangenes Tun als Grundlage
einer Handlungsa¨quiralenz der Unterlassung, 1968, S. 172ff.
(11) Blei, FS H. Mayer, 1966, S. 137. さらに、Vogel, Norm und Pflicht bei
den unechten Unterlassungsdelikten, 1993, S. 343.
(12) Vgl. Schumemann, Grund und Grenzen der Unterlassungsdelikte, 1971,
S. 299ff.
(13) 総則規定(ドイツ刑法一三条)施行後の保障人的義務をめぐる議論をこのように整理するものとして、Seelmann, a. a.
O., S. 244.
(14) Vgl. Jakobs, a. a. O., S. 799.
(15) Freund, a. a. O., S. 3, S. 42ff.
(16) Vgl. Jescheck, in:LK, 10. Aufl., 1993, § 13 Rn. 33.
(17) Welzel, Zur Problematik der Unterlassungsdelikte, JZ 1958, S.
494f. また、岩間康夫「先行行為に基づく保障人的義務の成立範囲について−(西)ドイツにおける議論を素材に−」犯罪と刑罰四号(一九八八)九九頁参照。
(18) Welzel, Das Deutsche Strafrecht 11 Aufl., 1959, S. 217.
(19) BGHSt. 19, 152. なお、この判例について言及している日本語文献としては、堀内捷三・町野朔・西田典之編『判例によるドイツ刑法(総論)』(一九八七)二七頁以下、岩間・前掲注(17)一二一頁以下などが挙げられる。
(20) BGHSt. 23, 327.
(21) BGHSt. 25, 218.
(22) Vgl. Rudolphi, JR 1974, S. 160f. Stree, Ingerenzproblem, in:FS
Klug, 1983, S. 395.
(23) Rudolphi, Gleichstellungsproblematik, S. 163ff.
(24) Jescheck, LK, 10, Aufl., 1979, § 13 Rn. 33.
(25) Stree, a. a. O., S. 398ff.
(26) Roxin, NStZ 1985, S. 321.
(27) BGHSt. 37, 106. なお、本判決に関する主な文献として、Schmidt−Salzer, Strafrechtliche
Produktverantwortung, Das Lederspray−Urteil des BGH, NJW 1990, S. 2966ff.;Kuhlen,
Strafhaftung bei Unterlassenem Ru¨ckruf gesundheitsgefa¨hrdender Produkte−zugleich
Urteilsanmerkung”Lederspray− Entscheidung, NStZ 1990, S. 566ff.;ders.,
Fragen einer strafrechtlichen Produkthaftung, 1989;ders., Zum Strafrecht
der Risikogesellschaft, GA 1994, S. 348ff.;ders., Grundfragen der strafrechtlichen
Produkthaftung, JZ 1994, S. 1142ff.;Samson, Probleme strafrechtlicher
Produkthaftung, StrV 1991, S. 182ff.;Brammsen, Strafrechtliche Ru¨ckrufpflichten
bei Fehlerhaften Produkten?, GA 1993, S. 97ff.;Otto, Ta¨terschaft und
Teilnahme im Fahla¨ssigkeitsbereich, in:FS G. Spendel, 1992, S. 271ff.;Hassemer,
Produkthaftung im modernen Strafrecht, 1994, Ku¨hne, Strafrechtliche
Produkthaftung in Deutschland, NJW 1997, S. 1951ff., 日本語文献として、岩間康夫「刑法上の製造物責任と先行行為に基づく保障人的義務−近時のドイツにおける判例及び学説から−」愛媛法学会雑誌一八巻四号(一九九二)四一頁以下、同「欠陥製造物を回収すべき刑法的義務の発生根拠について−ブラムゼン説の検討−」愛媛法学会雑誌二〇巻三・四合併号(一九九四)二〇一頁以下、同「製造物責任の事例における取締役の刑事責任−集団的決定に関与した者の答責性」愛媛法学会雑誌二二巻一号(一九九五)四五頁以下、同「刑法上の製造物責任に関するヤコブスの見解について」愛媛法学会雑誌二三巻二号(一九九六)五五頁以下、同「刑法上の製造物責任に関するホイヤーの見解−因果関係と先行行為に基づく保障人的義務に関して」愛媛法学会雑誌二三巻四号(一九九七)五七頁以下、内田文昭「最近の過失共同正犯論について」研修五四二号(一九九二)二三頁以下、松宮孝明「ドイツにおける『管理・監督責任』論」中山・米田編著『火災と刑事責任』所収(一九九三)一八九頁以下、堀内捷三「製造物の欠陥と刑事責任」研修五四六号(一九九三)三頁以下、ヴァルター・ペロン、高橋則夫訳「刑法における製造物責任−ドイツ連9845通常裁判所『皮革用スプレー判決』をめぐって−」比較法三一号(一九九四)一頁以下、北川佳世子「製造物責任をめぐる刑法上の問題点−ドイツ連9845通常裁判所の皮革用スプレー判決をめぐる議論を手掛かりに−」早稲田法学七一巻二号(一九九六)一七一頁以下。
(28) これに関しては、岩間・前掲・愛媛法学会雑誌一八巻四号四一頁以下において、とりわけくわしくで紹介されている。
(29) E. Samson, Problem strafrechtlicher Produkthaftung, StV, 1991,
S. 184.
(30) I. Puppe, Anmerkung, JR 1992, S. 30
(31) Kuhlen, Fragen einer strafrechtlichen Produkthaftung, 1989, S.
567ff.
(32) Brammsen, Strafrechtliche Ru¨ckrufpflichten bei Fehlerhaften Produkten?,
GA 1993, S. 105ff.
(33) もっとも、このような問題は、すでに、Otto, NJW 1974, S. 534, Stratenwerth, Strafrecht
AT 3. Aufl., 1981, Rn. 1011, Herzberg, JZ 1986, S. 988 などで指摘されていた。
(34) Vgl. Seelmann, a. a. O., S. 242, Jakobs, a. a. O., S. 799.
(35) Schu¨nemann, Zur Kritik der Ingerenz−Garantenstellung, GA 1974,
S. 232ff., ders., Grund und Grenzen der unechten Unterlassungsdelikte,
1971, S. 236.
(36) Schu¨nemann, GA 1974, S. 234ff., ders., Grund und Grenzen, S.
241.
(37) Otto, a. a. O., S. 531.
(38) Vgl. Armin Kaufmann, a. a. O., S. 300ff., Welzel, a. a. O., S.
222.
第三節 他人の犯罪の不阻止と作為との同置性について
一 本節では、他人の犯罪(作為の故意犯)の不阻止が不作為犯として可罰的であるか、それも正犯としてか共犯としてか、またその場合、作為との構造的差異はどのように乗り越えられ、作為との同置が可能とされているのかという問題に関する近年ドイツの主要な学説に視線を向けることによって(1)、「保障人的地位」ないし「保障人的義務」を不作為犯独自の負責要件とする従来の議論の限界を探ることにしたい。
すでに述べたように、他人の犯罪の不阻止を不作為犯として処罰する場合、正犯として処罰すべきか共犯として処罰すべきかという問題は、新総則規定(刑法一三条)の立法化作業において、自殺の不阻止につき正犯の責任を認めた判例などをめぐり議論されてきたものである(2)。最終的に、刑法一三条二項で刑の裁量的減軽が規定されたことからすれば、本条は、不作為による共犯の成立を否定しつつ、作為正犯に比べて当罰性の低い不作為についてはその刑を制限しようとするヴェルツェルやアルミン・カウフマンら目的的行為論者の主張(3)にしたがったものとも考えられる。しかし、刑法一三条に関する刑法特別委員会の「報告書」では、不作為犯において正犯と共犯との区別が可能であるかどうかという学説上の論争問題には立ち入らないとの記述がある(4)ことからしても、右の点が刑法一三条への共犯規定の適用を排除する根拠とまでなりえないことは明らかである。それ故、本規定制定後も、判例および多くの学説は、作為による故意犯に不作為によって関与する場合について、不作為による共犯が成立しうると解した(5)。とはいえ、不作為犯と作為犯との構造的差異に着目すれば、作為犯における正犯と共犯の区別基準をそのまま不作為犯に当てはめることはできない、あるいは、不作為による共犯の成立はありえないという主張にまったく意義を見いだせないわけではない。そのような主張がきっかけとなって、不作為による共犯の成立範囲の問題−とりわけ、作為の故意犯に不作為で関与した者の罪責が、不作為犯論としても真剣に論ぜられるようになったのである。
以下では、不作為による共犯の成立を認める従来の見解に対して不作為による共犯はありえないと主張したヴェルツェルやアルミン・カウフマンらの見解を出発点に、他人の犯罪に不作為で関与した者の取扱に関する主要な見解を概観する。その上で、冒頭に掲げた問題についてあらためて検討することにしたい。
二 (1) くり返し述べるように、目的的行為論が有力に主張されるまでの間、ドイツの判例および通説的見解では、さほど争われることもなく、他人の犯罪(作為の故意犯)に不作為で関与した者には不作為による共犯が成立しうると考えられていた。判例では、行為者が正犯者意思で行為したか共犯者意思で行為したか、あるいは行為結果に対し自身の利益を有していたか否かによって正犯と共犯とを区別するいわゆる主観説(6)が採用されていた。また、学説では、作為犯の場合と同様、行為支配を正犯か共犯かの区別基準とし、不作為者の正犯結果に対する寄与の程度が作為者よりも小さいことを理由に、あるいは、故意正犯の背後には正犯は存在しないという遡及禁止論にもとづいて、不作為による共犯の成立が認められていた(7)。そのため、不作為犯論の領域において不作為による共犯の成立を論じた場合、その可罰性を基礎づける義務の内容や根拠、作為同置性がどのように基礎づけられるのかについては、あまり注意が払われずにいた。
(2) こうした状況に対して、ヴェルツェルやアルミン・カウフマン、グリュンヴァルトら目的的行為論者は、他人の犯罪を傍観しつつ阻止しなかった場合、結果回避義務を負う保障人の不作為は不作為正犯の前提条件をすべて充たしているのであって、故意の作為正犯が存在しても幇助となることはないと主張した(8)。このような主張の基礎には、いうまでもなく、過失および不作為は故意の作為とは異なり目的的行為ではなく、それ故、行為に対してしか成立しない共犯現象は起こりえない、との考えがある。もっとも、この考えは、不作為犯に関しては明文上の根拠を欠いていたため通説とはなりえなかった。しかし、不作為犯の構造に着目した場合に生じうるつぎのような問題を指摘することによって、不作為による共犯の問題が不作為犯論において論ぜられる引き金となった。
まず、アルミン・カウフマンやグリュンヴァルトは、およそ因果力の欠如した不作為によって作為犯を促進することはできず、また、不作為による関与者に現実の事象に対する影響力の行使は認められないため、不作為犯では正犯結果に対する寄与の大小によって正犯か共犯かを区別することはできないし、そもそも共犯は成立しえないとした(9)。
カウフマンによれば、不真正不作為犯は保障命令の構成要件に該当するのであり、禁止、すなわち作為の構成要件に該当するのではない。そして、不作為は原因とはなりえず、それによって作為犯を促進しえないのだから、「不作為による作為犯への幇助」という形態もありえない(10)。また、不作為者にとっては、法益侵害が第三者の故意行為によって生じたか、それとも第三者の過失行為ないし偶然の事故によって生じたかは同じことであって、両者を区別して扱う理由も存在しない。たとえば、水泳場の監視人が溺れている子供を救助しなかった場合、この子供が第三者によって故意に突き落とされたか、第三者の過失または事故によって水に落ちたかは監視人の不作為の評価とは関係なく、それ故、前者の場合にかぎって不作為による幇助を認めるのは適切ではないというのである(11)。
同様の批判は、グリュンヴァルトによってもなされている。すなわち、従来の理解にしたがえば、自分の子が他人によって命の危険にさらされていると誤信した場合と事故によって危険にさらされていると誤信した場合とで、何もしなかった親の責任は、前者では不可罰の共犯未遂、後者では可罰的な正犯未遂と異なる。しかし、そのように結論を分ける合理性はないというのである(12)。
(3) このように、不作為犯の構造的独自性を強調することで不作為による共犯の成立を否定した見解に対し、やはり不作為犯と作為犯とでは正犯原理が異なり、不作為犯では正犯と共犯とを寄与の外的な種類によって区別することはできないとして賛意を示しつつ、しかし、結果を回避すべき保障人的義務があっても正犯性が基礎づけられず、共犯が成立しうる場合があるとして修正を加えたのは、ロクシンであった。
ロクシンは、行為者に特別な義務が課されており、正犯が成立するためには行為者がその義務に違反したことを必要とする犯罪を「義務犯」と名付け、行為支配によって正犯と共犯とが区別される「支配犯」と区別する(13)。そして、不作為犯は「義務犯」であり、「支配犯」において妥当していた行為支配の有無によって正犯と共犯とを区別することはできず、したがって、保障人的義務のある者の不作為は原則正犯として扱われると述べる。また、作為行為者の行為支配が不作為関与者の正犯性を排除するという通説的見解については、作為義務に違反し同価値性を備えることですでに獲得された不作為者の正犯性が他人の行為によって変更を被るのはなぜか、根拠が示されていないと批判する(14)。
しかし、ロクシンは、だからといって不作為による共犯の成立しうる余地がまったくないわけではないとする。ロクシンによれば、不真正不作為犯は作為の構成要件に該当するのではないから「不作為による作為犯への幇助」という形態もありえないとのカウフマンの主張は、従犯がつねに正犯の構成要件に該当するという前提に立ってはじめて導きうる結論であり、通説的な限縮的正犯概念と抵触する。すなわち、構成要件は当該犯罪の正犯のみを表しており、共犯形式は刑罰拡張事由なのだから、不作為による共犯を認めても支障はないというのである。また、「促進」という概念は、かならずしも因果性を要求するものとは限らず、義務に反して事象をそのままに経過させることを、法的に他人の行為を促進するものと考えてはならない理由は存在しないとする(15)。
そこで、問題は、ロクシンがいかなる場合に不作為による正犯の成立を否定し、共犯の成立を認めるかである。この点についてロクシンは、結果回避義務が存在しても構成要件が不作為によって実現されえない場合、正犯とは構成要件の実現なのだから、義務違反であるが構成要件該当的でない不作為は共犯としてのみ処罰されうるとする。それ故、作為構成要件に対応するような不作為構成要件が欠如する場合にも、保障人的義務に反する不作為は可罰的であり、なお共犯として処罰されうる余地があるというのである。
さらに、保障人的義務が存在しても正犯とはならないことに加えて、なぜ不作為による共犯が成立するのかについてはつぎのように説明される。すなわち、ロクシンによれば、行為支配を有する作為の行為者を義務に反して阻止しなかったという場合、そこには作為者に帰せられる支配という観点と不作為者を正犯者としうる義務という観点とがあり、不作為者の関与は、前者の観点では支配なき加功として幇助と評価され、後者の観点では正犯と評価される。また、ここで不作為関与者は、不作為の正犯であると同時に作為犯との関係では共犯(幇助)であるが、共犯としての性質は、通常、競合原理にしたがって正犯の背後に退いているとされる(16)。
要するに、ロクシンの場合、結果回避義務を負う保障人の不作為は原則正犯として扱われるべきであるが、身分犯や目的犯、自手犯など、正犯が成立するために特別の身分や目的、自手実行がなければならない犯罪については、不作為者が正犯要件をみたさなければ、例外的に不作為による幇助が成立するとされるのである(17)。
(4) しかし、以上のように不作為犯について作為犯とは異なる正犯概念を認める考え方では、不真正不作為犯は作為犯と同価値で同置できるがゆえに作為犯規定の適用をうけるはずなのに、作為犯との同置を無視することになってしまうのではないかという問題がある。この問題は、具体的にはつぎのような不作為への評価矛盾として顕在化する。すなわち、たとえば毒薬の管理人が殺人犯人による毒薬の持ち出しを黙認するという場合、不作為による関与は原則的に正犯として評価されると考えると、毒薬を手渡すという作為であれば幇助にとどまる役割が、不作為であるがゆえに正犯になってしまうという矛盾が生ずるのである。
それ故、学説では、不作為犯の構造と性質に着目しつつ、右のような矛盾を回避して、不作為による共犯の成立を基礎づけることが試みられた。具体的には、保障人的義務の内容・性質の相違によって不作為による正犯と共犯との区別を基礎づけるという見解が、クラマーやヘルツベルク、シューネマン等によって主張されるようになった。その基本的に一致している考えによれば、保護される法益との特別の関係にもとづきあらゆる侵害からそれを保護すべき保障人的義務(保護的保障)の違反は正犯であり、監視すべき一定の危険源から生ずるあらゆる侵害を阻止することにつくされる保障人的義務(監視的保障)の違反は原則として幇助にとどまる(18)。それ故、たとえば右の毒薬の管理人については、その保障人的義務は、毒薬を管理し、それによる犯罪行為を阻止すること(監視的保障)を内容とするので、その不作為は幇助にとどまると説明されるのである。
しかし、このように保障人的義務の内容が保護的保障であるか監視的保障であるかにしたがって不作為関与が正犯か共犯かを論ずる見解に対しては、とりわけ、機能説の場合と同じ批判がむけられている。すなわち、保障人的義務を保護的保障と監視的保障とに区分すること自体、貫徹できることではないと批判されるのである(19)。すでに述べたように、ある者の保護は、その者に迫ってくる危険をその者のために監督することであり、危険源の監督は、それぞれの場合に危殆化されている者の保護であるように、同じ保護が保護的保障でも監視的保障でもありうるからである。そして、たとえば、他人の財産の管理人が窃盗犯人による財産の持ち出しを黙認したような場合、管理人には不作為による窃盗幇助のほかに不作為による背任罪の正犯が成立しうる。つまり、同じ保護的保障なのに、窃盗罪では従犯が、背任罪では正犯が成立するという矛盾が生ずるのである。
三 以上が不作為による共犯、とりわけ、他人の犯罪を阻止しなかった者の取扱と正犯・共犯の区別基準をめぐる近年ドイツの主要な見解である。この問題では、作為犯と不作為犯との構造的差異を考慮した場合、作為犯において展開されている正犯と共犯の区別基準が不作為犯においては当てはまりえないと考えられる。しかし、その一方で、不作為犯論として論ずる場合、作為犯と不作為犯との構造的差異を考慮して不作為犯について作為犯と異なる正犯概念を認めてしまうと、作為と不作為との同置ないし同価値という要件を無視することになってしまうとも考えられる。それ故、何らかの形で作為と不作為との構造的差異を乗り越えて、両者に妥当する正犯と共犯の区別基準を示されねばならない。この点で、作為犯と不作為犯との構造的差異を無視して作為犯における区別基準である行為支配をそのまま不作為犯に転用しようとする見解も、作為犯と不作為犯とで異なった正犯概念を認める見解も、とりあえず適切ではないということができる。
もっとも、ロクシンが不真正不作為犯は「義務犯」であるがゆえに作為犯とは異なる正犯概念が妥当するとしたことは、重要である。注目されるべきは、この見解の場合、犯罪の不阻止が正犯と評価されるか共犯と評価されるかにおいて重要なのは、それが「義務犯」かどうかということであって、作為犯か不作為犯かということではないという点である。ロクシンによれば、作為犯においても「義務犯」と呼ばれるものが存在し、正犯の意思を客観化した犯行への寄与、すなわち、行為支配(20)は、作為犯においても統一的な正犯と共犯の区別基準ではない。たとえば、会社の経営者による背任行為に同意した監査役について、判例では、背任罪の共同正犯の成立が認められているが(BGHSt
9, 203)、背任罪の結果である財産侵害は経営者の背任行為によってもたらされたのであるから、監査役に行為支配は認められない。つまり、ここで監査役も正犯と評価されるべきであるというのであれば、その根拠は、ロクシンによれば義務の違反に求められる。それは、行為支配という基準には馴染まず、別の正犯基準が妥当するものである。つまり、ロクシンの場合、そのような別の基準が妥当する犯罪が義務犯、すなわち、行為者に特別の義務が課されており、彼がその義務に違反したことを正犯の要件とする犯罪であって、作為犯内部においても行為支配という基準の妥当する「支配犯」とは区別されるのである(21)。
それ故、つぎのように考えることができる。すなわち、もし不作為犯においても一元的な正犯基準が妥当せず、そこでの区別された正犯基準が作為犯におけるそれに対応するとすれば、作為犯および不作為犯の正犯原理ないし概念を統一的に説明することも可能であると考えられる。
つまり、ロクシンによれば、何を正犯の基準とするかにとって重要なのは、何が(正犯としての)負責にとって重要な要素なのかである。そして、不作為犯の場合、負責にとって重要な要素とは、「保障人的地位」ないし「保障人的義務」の内容である。それ故、不作為犯の場合、「保障人的義務」の種類ないし内容によって正犯基準を区別することが考えられるが、その場合、「保障人的地位」ないし「保障人的義務」は、作為犯にも妥当する負責根拠となってなければならない。もし、従来のように「保障人的地位(義務)」を不作為犯に特殊な要件として理解するならば、作為と「保障人的義務」に反する不作為とを統括する負責の根拠がさらに必要となるし、そうでないならば、「保障人的地位」ないし「保障人的義務」を不作為犯および作為犯に共通する負責根拠と理解しなければ、両者の正犯概念の一致を説明することはできないからである。
要するに、作為か不作為かという行為の構造を負責にとって重要な要素とするのではなく、両者を横断する負責の根拠を明らかにすることが−したがって、作為および不作為に共通する負責根拠としての「保障人的地位」ないし「保障人的義務」の根拠を示すことが、両者の構造上の差異を乗り越え、両者の同置を徹底するにあたって有益であると考えられる。このように、行為の構造を負責判断の決定的な要素とせずに、価値(評価)的視点を導入して説明する方法は、一九六〇年頃から有力に展開されている客観的帰属論に見られるものである。これによれば、重要なのは「刑法上重要な社会的変化が誰の責任として帰属されるか」という点である。そのため、これに依拠すれば、「保障人が人間の行為を阻止しなかった場合と自然現象を阻止しなかった場合とで法的評価は異ならない」という目的的行為論者らの批判も回避することができる。というのも、「誰の責任か」という帰属判断の際、保障人が侵害結果に対して唯一答責的な存在である場合と、保障人の責任が他の人間のそれと競合している場合とでは、判断は異なりうるといえるからである(22)。
四 以上、他人の犯罪の不阻止が不作為犯として可罰的であるか、それも正犯としてか共犯としてかという問題について見てみれば、作為犯と不作為犯との構造上の差異を前提に、「保障人的地位(義務)」を不作為犯の特殊な要件として理解する伝統的な「保障人説」では作為同置性という不真正不作為犯論の課題を十分に説明できないこと、そして、不真正不作為犯論へのあらたなアプローチとして、客観的帰属論にもとづくそれに注目しうることが導かれた。それ故、本稿がつぎに取り組むべき作業としては、近時、そのようなあらたなアプローチによって、どのように不作為と作為の同置性が説明され、どのように不作為の可罰性が基礎づけられるのか、また、前節で扱った先行行為にもとづく不作為犯の問題や、本節が取りあげた他人の犯罪の不阻止をめぐる問題がどのように処理されるのかを検討することが有益である。しかし次節では、そのような作業に移る前に、本章を総括し、これらの問題に対する従来のアプローチ、すなわち、目的的行為論を中心とした、従来の「保障人説」をめぐる議論の展開と限界を再度確認することにしたい。「S50,0」
(1) もっとも、不作為による共犯の成立範囲に関するドイツの主要な見解については、中義勝『刑法上の諸問題』(一九九一)、神山敏夫『不作為をめぐる共犯論』(一九九四)、大野平吉「不作為と共犯」刑法基本講座第四巻(一九九二)一〇九頁以下、阿部純二「不作為による従犯(上)(下)」刑法雑誌一七巻三・四号一頁以下、一八巻一・二号七八頁以下、松生光正「不作為による関与と犯罪阻止義務」刑法雑誌三六巻一号(一九九六)一四二頁以下などですでに紹介されている。また、不作為による共犯に関する諸見解を整理しているドイツ語文献のうち比較的新しいものとして、Hans−Jo¨rg
Schwab, Ta¨terschaft und Teilnahme bei Unterlassungen, Criminalia 12Bd.,
1996 がある。
(2) 本章第一節参照。
(3) Vgl. Armin Kaufmann, Die Dogmatik der Unterlassungsdelikte, 1959,
S. 300ff., Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl., 1969, S. 222.
(4) Vgl. Zweiter Schriftlicher Bericht des Sonderausschusses fu¨r die
Strafrechtsreform, Drucksache V/4095, S. 8.
(5) Vgl. Roxin, Ta¨terschaft und Tatherschaft, 6. Aufl., 1994, S. 483ff.
(6) 不作為者の内心的態度にもとづき、正犯が成立するか共犯が成立するかを判断したと考えられる判例としては、RGSt. 64. 273;73.
53;66. 71;BGHSt. 2. 150;13. 162;NJW 1966, 1763;MDR 1960, 939;NStZ 1992,
31;StrV 1986, 59;NStZ 1985, 24 などが挙げられる。また、学説では、Arzt, JA 1980, S. 558.,
ders., StV 1986, S. 338, Baumann/Weber, Strafrecht AT. 9. Aufl., 1985,
S. 535ff., 538 などがある。
(7) Vgl. Gallas, Strafbares Unterlassen im Fall einer Selbstto¨tung,
JZ 1960, S. 687.
(8) Armin Kaufmann, a. a. O., S. 294f., Welzel, a. a. O., S. 221f.,
Gru¨nward, Die Beteiligung durch Unterlassungen, GA 1959, S. 111f.
(9) Armin Kaufmann, a. a. O., S. 295, Gru¨nward, a. a. O., S. 111f.
(10) Armin Kaufmann, a. a. O., S. 295f.
(11) Armin Kaufmann, a. a. O., S. 296f.
(12) Gru¨nward, a. a. O., S. 117f.
(13) Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, § 25, Rn. 36, ders., Ta¨terschaft,
S. 25ff. 108, 335ff., 463. なお、ロクシンの義務犯構想およびその問題点等については、Javier S’anchez−Vera,
Pflichtdelikt und Beteiligung, 1999, S. 22ff., 38ff., 51ff. が詳しいほか、日本語文献では、中義勝「いわゆる義務犯の正犯性」佐伯千仭博士還暦祝賀『犯罪と刑罰(上)』(一九六八)四六三頁以下などが参考になる。
(14) Roxin, Ta¨terschaft, S. 497.
(15) Roxin, a. a. O., S. 476ff., 493ff.
(16) Roxin, Ta¨terschaft., S. 483ff.
(17) Roxin, LK, § 25, Rn. 209f., ders., Ta¨terschaft., S. 476ff.
(18) Scho¨nke/Schro¨der/Cramer, Strafgesetzbuch, 25. Aufl., 1999, §
25ff., Rn. 98ff. Herzberg, Die Unterlassung im Strafrecht und Garantenprinzip,
1972, S. 259ff., ders, Ta¨terschaft und Teilnahme, 1977, S. 82ff., Schu¨nemann,
Grund und Grenzen der unechten Unterlassungsdelikt , 1971, S. 277.
(19) Vgl. Jakobs, Strafrecht AT, 2. Aufl., 1991, S. 799.
(20) Vgl. Welzel, Das Deutsche Strafrecht, 11. Aufl., 1969, S. 100.
(21) Vgl. Roxin, Ta¨terschaft, 6. Aufl., 1994, S. 356f.
(22) Vgl. Freund, Erforgsdelikt und Unterlassen, 1992, S. 227ff.
第四節 小括−「保障人説」の限界
一 本章では、「保障人説」をめぐる議論の展開を追跡し、現在、「保障人説」を構成する二つの要件、すなわち「同価値性」および「保障人的地位」の要件がいかなる役割を果たしいかなる困難に遭遇したのか、「保障人説」の展開と限界を明らかにしようと試みた。まず、第一節では、「同価値性」要件について、それがいかなる理由からつけ加えられたのか、また、それによって「保障人説」にもとづく不作為犯論に何がもたらされたのかを検討した。つぎに第二節では、第一節で明らかにした問題状況を前提に、「保障人的地位」ないし「保障人的義務」をめぐる今日までの議論の整理を行い、「保障人説」のかかえる困難は何であり、それはいかなる具体的問題となってあらわれるのかを検討した。そして第三節では、第二節で示された具体的問題をめぐる主要な見解を概観し、解決の方向を探ることによって、それが従来の「保障人説」によっては乗り越えられない問題であること、すなわち、「保障人説」の限界であることを明らかにしようと試みた。以下は、その概略である。
まず、「同価値性」要件は、「保障人説」の明確性や類推的な方法にむけられた批判に対抗して主張されたものであった。すなわち、「保障人説」は、刑法各則の構成要件が「保障人の不作為」と作為の実行行為とを法的に同等に扱っていることを根拠に、「保障人の不作為」であれば処罰の対象となり、また、因果力が証明されなくても作為と同置できると考えるものであった(第一章)。それ故、戦後、罪刑法定原則の観点からその類推的な方法や明確性について批判がむけられたところ、「保障人説」を支持する目的的行為論者によってあらたに主張されたのが「同価値性」要件であった。
目的的行為論の立場から「不真正不作為は命令規範に違反する」として「保障人説」を修正するとともに、「同価値性」要件を明確に主張したのは、アルミン・カウフマンであった。カウフマンは、ナーグラーが「保障人的地位」の存否に一括した二つの機能、すなわち、(1)「可罰的不作為」の根拠を示す機能と、(2)「作為同置性」の根拠を示す機能とを、「保障人的地位」および「同価値性」という二つの要件にふり分けた。そして、「保障人的地位」にあるか否かによって当該不作為が処罰の対象となるかどうかを判断することとは区別して、当該不作為の当罰性ないし可罰性の程度が作為と同等であるかどうかを判断することによって、「保障人的地位」の類推にもとづく処罰を、その不作為が作為と同等に当罰的である場合、すなわち、「同価値」である場合に制限しようとした。それ故、「同価値性」は、「保障人説」による同置の基準であり、また、許される類推の範囲を示す基準であった。
このような「同価値性」要件には、「保障人的地位」にもとづく同置の基準を示すことで、明確性および法律主義という罪刑法定原則の要請に対応しうる点、さらに、この要件によって同置を徹底することで、不作為による正犯と共犯とを区別し、不作為正犯の成立範囲を制限しうる点に意義が見いだされようとされた。
しかし、いずれの機能にも問題があった。まず、「同価値性」要件は「保障人的地位」にもとづく同置の明確な基準を十分に示すものではなかった。また、不作為による正犯と共犯を区別することについては、「保障人説」を支持する目的的行為論者が不作為による共犯の成立を否定するように、不作為犯において正犯と共犯とを区別すること自体が争われていた。
もっとも、「同価値性」要件は、そもそも法律主義からの批判を緩和すべく主張されたものであるところ、「保障人説」にもとづく総則規定が施行されたことによって一定限度での類推が許容されることについては、もはや争う必要がなくなった。その意味で、総則規定の施行によって、不真正不作為犯論が法律主義からの疑問を回避しえた点には「保障人説」の成果を見いだせた。しかしそうであったとしても、総則規定によって許容される類推の範囲は不明なままであった。それ故、総則規定施行後も、不真正不作為犯論は、明確性原則の観点から、いぜんとしてその成立根拠と範囲の問題に悩み続けることになった(第一節)。
そこで、総則規定制定後の議論は、もっぱら「保障人的地位」にもとづく同置の条件、すなわち、作為「同価値」の不作為を基礎づける「保障人的義務」はいかなる場合に認められるかという問題をめぐって展開した。そこでは、多くの学説が「不真正不作為犯は書かれざる不作為構成要件に該当し、命令規範に違反する」というアルミン・カウフマンの見解を基礎に、総則一三条を「作為犯の構成要件と合体し、それを不作為犯の構成要件につくりかえるための類推許容規定である」と解した。そして、アルミン・カウフマンが書かれざる不作為構成要件を確定する「保障人的地位」ないし「保障人的義務」を、(1)あらゆる侵害に対する一定の法益の保護を内容とする類型(保護的保障)と(2)一定の危険源を監視し、そこから生ずるあらゆる侵害からの保護を内容とする類型(監視的保障)とに分類したことを支持した。この説明は「機能説」とよばれるが、不真正不作為犯処罰規定の立法化作業において「保障人的地位(義務)」の内容を明確化し、処罰範囲を画定することが求められていたことを背景に主張されたものであった。というのも、判例では、基本的には「法律、契約、先行行為」などの法形式にしたがって「保障人的義務」が基礎づけられていたが、右の事由がつねに義務の根拠となっていたわけではなかったし、場合によっては、倫理的義務を内容とする「緊密な生活共同体」が「保障人的義務」の根拠となっていたからである。それ故、保護の対象と侵害との関係に注目することにより、形式的な義務発生根拠では表現されない罪質の異同を示すことで、判例の処罰範囲を無理なく説明しうる「機能説」は多くの支持を集めた。
しかしながら、このような説明には、二種の義務がかならずしも明確な類型化を導きうるものではないという問題があった。また、区分された二つの「保障人的義務」が何によって基礎づけられるのか、その根拠が示されていなかった。そこで学説では、「危険の創出」を監視的保障を内容とする義務、「信頼」を保護的保障を内容とする義務の根拠とし、法律や契約、先行行為にもとづく義務の場合をその下位事例として扱う考えがもたらされた。しかし、右の根拠は二つの「保障人的義務」について十分な説明を与えうるものではなかった。
このことは、とりわけ、先行行為にもとづく不作為犯の成立範囲の問題に関して明らかとなった。というのも、危険を創出した先行行為が常に「保障人的義務」を基礎づけるわけではなく、「危険の創出」ということ以上の説明が必要だったからである。もっとも、この問題は、先行行為にもとづく「保障人的義務」の範囲を先行行為が「義務違反性」を備えた場合に画することで、一応の決着がついたかのようにおもわれていた。しかし、一九九〇年七月六日のいわゆる革スプレー判決(BGHSt.
37, 106.)が無過失でなされた製品の製造・販売行為についても「義務違反性」が認められるとして、それを根拠に出回った製品による被害を回避すべき「保障人的義務」を認めたことによって、先行行為にもとづく「保障人的義務」の範囲を先行行為の「義務違反性」によって画することについても、先行行為にもとづく「保障人的義務」そのものについても疑問が持たれたのである。
そもそも、「機能説」によれば、先行行為にもとづく「保障人的義務」は「監視的保障」を内容とするそれであり、先行行為者は、自己の創出した危険源を監視すべき義務を負わねばならないが故に後続の不作為について責任が問われうる、と考えられた。しかし、危険を創出した先行行為すべてがその危険から生じた被害についての責任を基礎づけるわけではないのだから、危険の創出それ自体が重要なのではない。そうではなくて、危険を創出した先行行為者に彼が創出した危険を監視すべき義務を負わせうるかが重要なのである。
それ故、学説では、そもそも「機能説」において、どのようにして「監視的保障」および「保護的保障」が「保障人的義務」として基礎づけられるのか、換言すれば、その違反が可罰的であり、作為と同置の不作為を基礎づける義務であることの根拠について関心がむけられた。この点、従来の議論は、「保障人的地位(義務)」を不作為犯の特殊な要件とし、作為犯との構造的差異を埋める事実的要素によってそれを根拠づけようとしていたために、それが法的義務の発生根拠であることを十分に説明しうるものではなかった。また、作為同置の要件である「保障人的地位(義務)」を不作為犯の特殊な要件として扱うとすれば、さらに上位に作為犯と不作為犯とを統一的に説明する原理を必要とせねばならなくなるという点を見過ごしていた。
後者の点は、とりわけ、他人の犯罪行為を阻止しなかった者の責任が正犯のものなのか、共犯のものなのかという問題に関係した。というのも、この問題は、作為犯と不作為犯との構造的差異を考慮した場合、作為犯において展開されている正犯と共犯の区別基準が不作為犯においては当てはまらず、不作為による共犯は成立しえないのではないかとの考えから生ずるものだからである。
すなわち、作為犯と不作為犯との構造的差異を考慮して不作為による共犯の成立を否定することは、不作為犯について通常の作為犯と異なる正犯概念を認めることを意味するが、そのように考えると、作為と不作為との同置ないし同価値という要件を無視することになる。というのも、不真正不作為犯は作為犯と同価値で同置できるがゆえに作為犯規定の適用を受けるはずだからである。それ故、この問題は、「保障人的地位」を不作為犯に特殊な要件として位置づけてきた従来の議論の限界を示すものとして位置づけられる。もし「保障人的地位」が作為および不作為に共通する帰属根拠であり、作為および不作為の構造的差異が両者の負責にとって重要ではないのだとすれば、この問題を解決しうるかもしれないし、また逆に、そのように「保障人的地位」を捉えなおすことでしかこの問題の解決を見いだしえないとすれば、「保障人的地位」の捉えなおしは、いよいよ必要であるといえるからである(第二節)。
そこで、他人の犯罪を阻止すべき「保障人的義務」をめぐる近年ドイツの議論を概観すれば、つぎのとおりであった。かつて、他人の犯罪を阻止しなかった者は、不作為による共犯として扱われると考えられていた。不作為犯の構造的独自性が不作為による共犯の成立においてどのように考慮されるべきかという問題には注意が払われずにいたのである。こうした状況に対して、目的的行為論者は、他人の犯罪を傍観しつつ阻止しなかった場合、結果回避義務を負う保障人の不作為は不作為正犯の前提条件をすべて充たしているのであって、故意の作為正犯が存在しても幇助となることはないと主張した。そこでは、およそ因果力の欠如した不作為は作為犯を促進することはできないため、およそ不作為による共犯(幇助)は成立しえないし、また、不作為者にとっては、法益侵害が第三者の故意行為によって生じたが、それとも第三者の過失行為ないし偶然の事故によって生じたかは同じことであって、両者を区別して扱う理由も存在しないとされた。このような主張は、不作為による共犯の問題が不作為犯論において論ぜられる引き金となった。学説ではこの主張を受けて、不作為犯と作為犯とは異なった正犯原理が妥当するとして両者を区別しつつ、しかし、不作為により作為犯を「促進しえない」とはかならずしもいえず、結果を回避すべき保障人的義務があっても、身分犯や目的犯、自手犯など、正犯が成立するために特別の身分や目的、自手実行がなければならない犯罪については、不作為者が正犯要件をみたさない場合、例外的に不作為による共犯が成立しうるとの主張や、保障人的義務の内容・性質の相違によって不作為による正犯と共犯との区別を基礎づけるという見解が有力に主張されるようになった。
しかし、前者のように不作為犯について作為犯とは異なる正犯概念を認めると、両者の同置を無視することになるし、後者についても、「保障人的義務」が不作為犯の特殊な要件であるとすれば、それによって基礎づけられる正犯、共犯の概念も作為犯におけるそれらとは異なったものであるといえる。となれば、やはり、作為犯との同置を無視することになってしまう。しかし、だからといって作為犯の領域で妥当するとされる行為支配という基準を不作為犯の領域にそのまま転用することには無理がある。
それ故、重要なのは、作為犯および不作為犯に共通する正犯原理(概念)は、どのようにすれば導かれるかである。ここで、行為支配がすべての作為犯について妥当する正犯基準というわけではないとする見解から明らかなように、何を正犯の基準にするかにとって重要なのは、何が負責にとって重要な要素なのかである。したがって、不作為犯の負責根拠が「保障人的地位」であり、その内容によって正犯基準が決まるというのであれば、「保障人的地位」は作為犯にも共通する負責の根拠でなければならず、そうでなければ、作為犯および不作為犯に共通する正犯原理(概念)を示すことはできない(第三節)。
二 以上が本章の概略である。ここで、不真正不作為犯論のかかえる二つの課題、つまり、可罰的不作為の画定と、不作為の作為同置性問題とに対し、「保障人説」がどのように取り組み、どのような問題を残したのか、また、どこにその限界があるのかについてくり返すならば、つぎのとおりである。すなわち、「保障人説」は、戦後、アルミン・カウフマンらによって、「保障人的地位」にある者の不作為の可罰性を基礎づけ、またそれが作為と同等に当罰的である場合、すなわち、作為犯と「同価値」である場合には、作為との同置を基礎づける、つまり、作為犯規定による処罰を可能とするものとされたために、学説では、作為同価値の不作為の要件である「保障人的地位」がどのように基礎づけられるかが問題とされた。そこでは、「保障人的地位」が作為犯と不作為犯との構造的差異を補填し、不作為による作為犯の実現を根拠づけるための特殊要件として捉えられたため、結局は、不作為によって作為犯が実現されたと考えられる場合の事実的側面ばかりが「保障人的地位」の内容として注目され、それがなぜ法的義務の発生を基礎づけるかについての説明が蔑ろにされてしまったし、また、他人の犯罪に作為または不作為で関与した者については、作為犯と不作為犯とで異なった正犯概念を認めることになってしまい、両者の同置性の説明に窮したのである。
要するに、「保障人説」では、作為と不作為との構造的差異を「保障人的地位」という要件によって補填し、両者の構造的区別を正面から認めつつ、価値的区別を解消することで両者の同置を基礎づけることが目指されたが、「保障人的地位」を特殊要件とするこの方法は、一方では、作為義務の発生事由のカズイスティックな検討にとどまり法的義務の説明に窮する事態を生ぜしめ、他方では、作為犯と不作為犯とで異なった正犯概念を導くことになったのである。
三 このような「保障人説」の限界にかんがみると、不真正不作為犯論において、作為犯と不作為犯との同置を両者の構造的差異ないし区別を解消することで基礎づけることの限界が見いだされる。そもそも、作為と不作為との差異が因果力の有無にあるのだとすれば、不作為の因果力の証明によらずに両者の区別を解消することはできないし、因果力以外の特殊な要件を備えた不作為と作為との構造的同置も考えられない(1)。とすれば、作為と不作為との同置は、両者の構造的差異とは無関係に基礎づけるしかない。そこで問題は、両者の同置が何に求められねばならないかであるが、これは、そもそもなぜ作為犯と不作為犯との構造的差異が問題となったのかということの裏返しでしかない。この点、作為か不作為かという行為の構造が重視されたのは、そのような構造が、負責の判断において重要な要素と考えられたからにほかならない。しかし、すでに幾分示されたように、作為なのか不作為なのかという行為の構造は、負責判断にとってかならずしも決定的ではないのである(2)。
結局のところ、作為犯と不作為犯との同置は、両者の負責根拠における同置、つまり、共通の負責根拠によって基礎づけられねばならず、「保障人的地位」が不作為犯の負責根拠であることを前提とすれば、それは、作為犯の負責根拠でもなければならないのである。
このように考えた場合、不真正不作為犯論の二つの課題、すなわち、可罰的不作為を基礎づける法的作為義務の画定という問題と、不作為の作為同置性の問題とは、つぎの一つの問題として捉えなおすことができる。すなわち、可罰的作為および不作為の負責根拠としての「保障人的地位(義務)」をどのように説明するか、という問題である。
そこで注目できるのは、近時、客観的帰属論の立場から、「保障人的地位」を作為および不作為に共通する負責根拠として捉えなおした上で、そこに法的根拠としての説明を与えるヤコブスらの見解である。そこには、作為と不作為との構造的な差異の補填を決定的としたために義務発生事由のカズイスティクな検討にとどまっていた従来の議論に加えられるべき法的レベルでの説得力を見いだすことができる。それ故、次章では、そのような近時の見解を明らかにし、また、それによって、従来の「保障人説」では対処しきれなかった幾つかの問題、たとえば、革スプレー判決における欠陥製品の回収の不作為の問題や、他人の犯罪を阻止しなかった者の取扱をめぐる問題が、どのように処理されるのかを検討することで、不真正不作為犯論のあらたな方向性と課題を探ることにしたい。
(1) Vgl. Freund, Erforgsdelikt und Unterlassen, 1992, S. 19.
(2) Vgl. G. Jakobs, Die strafrechtliche Zurechnung von Tun und Unterlassen,
1996, S. 19, 36ff.
本稿は、平成一〇年度(一九九八年度)および平成一一年度(一九九九年度)文部省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。
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