立命館法学 1999年2号(264号) 1頁




文書偽造罪における作成者と名義人について


松 宮 孝 明


 

目    次

1 問題の所在

2 ふたつの裁判例

3 「偽造」概念と偽名使用

4 名義使用の承諾と自署性

5 冒用を承諾した名義人の正犯性

6 むすびにかえて

 

 問題の所在

    刑法第一七章は、「文書偽造の罪」と題して、詔書・公文書・私文書の偽造および行使のほか、虚偽公文書作成、公正証書原本不実記載、虚偽診断書作成などを処罰している。また、一九八七年には、第一六一条の二として、これに電磁的記録の不正作出および供用が加えられた。これらの罪の行為態様は、第一六一条の二を除けば、大きく「偽造」「変造」「虚偽作成」「不実記載」「虚偽記載」と、これらの行為によって作られた文書の「行使」に分けられる。このうち、「偽造」「変造」はすべての公文書および私文書について処罰されるが、「虚偽作成」「不実記載」「虚偽記載」といった行為は、公文書および公文書に属する特定の公正証書や公務所等に提出する診断書などを対象とするものに限って処罰される。つまり、ほとんどの私文書については、その虚偽作成ないし虚偽記載は、それ自体としては、処罰されないものとされているのである。
    したがって、とくに私文書の場合には、「偽造」ないし「変造」が行われたのかそれとも単なる「虚偽作成」「不実記載」「虚偽記載」が行われたにすぎないのかによって、犯罪の成否が大きく左右されることになる。そこで、問題はここにいう「偽造」「変造」とは一体どういう行為を意味するのかということに移ることになる。このうち、本稿では、とくに「偽造」という概念について、偽名の使用や名義使用の承諾のケースに関する近年の裁判例を素材としながら、若干の考察を加えたいと思う。
  その際問題となるのは、文書の作成者として書面に記載された名前、つまり作成名義人の名前が誰を指し示しているのか、そしてまた、その文書は実際にその名義人によって作成されたものか否かにある。

2 ふたつの裁判例


    本稿では主に、ふたつの裁判例を扱う。第一のものは偽名使用に関するものである。そこでは、被告人本人の顔写真が貼付されたうえ偽名および虚偽の住所等が記載された履歴書等が偽造文書とされた(1)。その事実の概要はつぎのとおりである。すなわち、被告人Xは、別件の嫌疑で指名手配を受け潜伏中、生活費等に窮したところから、偽名で就職して生活費を得ようと考え、履歴書に偽名Yと虚偽の現住所、生年月日を記載して自分の顔写真を貼付し、これをホテルの総務課に送付して面接を受け、採用されて約一年稼働した。その後さらに別の就職先のあっせんを受けるため、Yという名と虚偽の生年月日を記載し自分の顔写真を貼付した履歴書を作成・行使し、さらに紹介された就職先で面接を受けた際、同じY名で虚偽の現住所、生年月日を記載した雇用契約書等を作成して提出し、約二ヶ月間稼働した。
  これが私文書偽造に当たるとする理由として、裁判所はまず、最判昭和五九年二月一七日刑集三八巻三号三三六頁、最決平成五年一〇月五日刑集四七巻八号七頁の定義に従い、偽造とは文書の名義人と作成者との間にそごを生じさせたことであると解した上で、「作成者が名義人の名義を用いて文書を作成する権限を与えられていれば公共的信用を損なわないと解されるような文書の場合には、作成者にその権限があったか否かによりそごの有無を判断するのが相当であるのに対し、作成者本人が名義人本人であることを前提として作成される文書であるためその間に相異があることにより公共的信用が損なわれるような文書の場合には、氏名、生年月日等の人格を特定する事項から認識される名義人の人格が作成者本人を指し示しているか否かによりそごの有無を判断するのが相当である。」という一般的判断を示し、ついで、被告人の作成した履歴書等は本名で作成されることが予定されている文書であるとして、本件偽名Yの指し示す名義人の人格と被告人本人の人格は全くそごしていると述べた。さらに、顔写真貼付については、それだけでは履歴書の名義人が被告人本人を指し示すものとして十分とはいえないと判示した。
    第二の裁判例は、他人名義の旅券の取得を企てた者に、旅券発給申請書に自己の名義を使用することを承諾した上、自己の印鑑、戸籍謄本、住民票、印鑑登録証明書を交付した者を、有印私文書偽造・行使の共謀共同正犯としたものである(2)。その事案の概要はつぎのとおりである。すなわち、被告人Dは、C(中国人)のために不正に日本人名義の旅券を得ようと企てたA、Bらの依頼を受け、同人らに対し、報酬金の支払いを条件に自己の名義の使用を承諾した上、旅券発給申請に必要な被告人の印鑑、戸籍謄本、住民票の写し、印鑑登録証明書を交付し、A、Cおよび同人らにおいてD名義かつCの顔写真を貼付した一般旅券発給申請書を作成・行使するなどして、旅券の交付を受けたというものである。
  このような事実関係に対して裁判所は、「なるほど本件一般旅券発給申請書は被告人名義であるが、一般旅券発給申請書は、その性質上名義人たる署名者本人の自署を必要とする文書であるから、例え名義人である被告人が右申請書を自己名義で作成することを承諾していたとしても、他人である共犯者が被告人名義で文書を作成しこれを行使すれば、右申請書を偽造してこれを行使したものというべきである。」と判示し、さらに「被告人は文書偽造及び同行使の実行行為自体は行っていないものの、前記認定した事実、殊に、本件犯行の実現のためには被告人の関与が不可欠であったこと、六五万円という多額の報酬を受領していることなどに照らせば、被告人は自己の犯罪として右犯行に関与したものというべきであって、共謀共同正犯としての責任を負うものである(被告人が右偽造文書の名義人であり、単独では正犯にはなり得ないことは右結論には影響しない。)。」と述べて、名義人を私文書偽造の共謀共同「正犯」とした。
    このふたつの裁判例で検討すべき問題は、第一の裁判例に関していえば、(一)偽名を用いた履歴書は、たとえ履歴書に自己の顔写真が貼付されていたとしても、作成者と名義人の人格の同一性を偽った文書=偽造文書であるといえるかであり、第二の裁判例に関していえば、(二)自己名義使用の承諾があっても私文書「偽造」が成立するか、および(三)自己名義使用を承諾した者が「偽造」の共犯とくに共同「正犯」となりうるかである。しかし、これらの問題を検討する前に、その共通の前提問題として、「偽造」の定義にも触れておこう。

(1)  東京高判平成九・一〇・二〇高刑集五〇巻三号一四九頁(控訴棄却・上告)、判時一六二八号一四二頁、判タ九六五号二六七頁。本判決の評釈として、三浦  守・警察学論集五一巻一一号(一九九八年)一七四頁、片山  巌・研修六〇〇号(一九九八年)四三頁、松宮孝明・判例セレクト’98(一九九九)三二頁。
(2)  東京地判平成一〇・八・一九判時一六五三号一五四頁(有罪・確定)。本判決の評釈として山火正則「私文書偽造罪において名義の使用を承諾した本人の罪責」『平成一〇年度重要判例解説』(一九九九)一五六頁、松宮孝明・法学セミナー五三五号(一九九九)一〇二頁。


3 「偽造」概念と偽名使用


    最初の問題は、右の第一の裁判例が、偽造とは文書の名義人と作成者との間にそごを生じさせたことであると解した上で、「作成者が名義人の名義を用いて文書を作成する権限を与えられていれば公共的信用を損なわないと解されるような文書の場合には、作成者にその権限があったか否かによりそごの有無を判断するのが相当である」と述べたことである。そこでは、作成者が名義人とは別人であっても、作成権限を与えられていれば、一定の文書については作成者と名義人との間にそごはないという判断が示されている。しかし、「作成者が名義人と別人なのにそごはない」とか「他人が作成しても偽造でない」という理屈は妥当なのであろうか。
    刑法一五四条、一五五条、一五九条等の「偽造」は、虚偽作成を「無形偽造」と呼ぶことと対比して「有形偽造」とも呼ばれる。これは、伝統的には、「作成権限がないのに他人名義の文書を作成すること」と定義されてきた(1)。最近では、「作成者と名義人の人格の同一性を偽ること」という定義も用いられているが(2)、それは一般に、前者の定義と同義だと解されている(3)
  とくに後者の定義は、ドイツ刑法における Ta¨uschung u¨ber die Identita¨t der Person に従ったものと解され、そこにいう「作成者」は、ドイツ語ではwirklicher Ausstellerに対応し、「名義人」は scheinbarer Aussteller に対応するものとされている(4)。つまり、現実の Aussteller が「作成者」であり、文書から Aussteller と見られる者が「名義人」なのである。したがって、両者の人格の同一性に関する欺罔を「偽造」と定義するのであれば、そこでのキー概念は Aussteller であり、そしてその動詞である ausstellen だということになる。まさに、現実に ausstellen した人が「作成者」であり、文書から ausstellen したと見られる人が「名義人」なのである。
    そこで問題は、Aussteller=「作成者」とはどういう意味かということに移る。これについては、一般に、「作成者」とは、文書に表示された意思ないし観念の主体であるとする「観念説」ないし「意思説」「精神性説」が通説と解されている(5)。これによれば、代筆や口述筆記の場合は、筆記した人ではなく筆記させた人が作成者である。同様に、代理・代表文書の場合は、代理人ないし代表者ではなく本人が作成者である。そして、文書に作成者として名前の出ている人が「作成名義人」ないし「名義人」である。したがって、「偽造文書」とは、文書に示された意思ないし観念の現実の主体と、そのような主体として文書から読み取れる人とが一致しない文書をいうことになる。
  これに対し、署名のみ自筆の場合を含めて、文書を自らの手で書いた者を Aussteller=「作成者」とする見解を「事実説」ないし「身体説」「行為説」という。これによれば、たとえば代理文書では代理人が作成者であるから、とくに代理人名を省略した「隠された代理文書」の場合には、一応「偽造」に当たることになるが、本人から代理文書を書く権限を与えられていることによって、その「偽造」が正当化されることになる(6)。しかし、現在、このような見解を正面から唱えるものはない。
  そこで、Aussteller=「作成者」概念を一応「観念説」の考え方で理解するとして、それは文書内容の形成がある人の意思に基づいている場合に、その人を「作成者」とする趣旨であろうか、それとも、文書に表示された意思がある人のものである場合に、その人を「作成者」とする趣旨であろうか。たとえば、幼児の法定代理人が代理権の範囲内で本人名義の契約書にサインする場合、その幼児に複雑な契約を理解し締結する意思能力がなく、代理人が本人のために契約すると決断したのであれば、前者の理解なら代理人が「作成者」であり後者の理解なら本人が「作成者」ということになる。また、文書を起案する部下が上司を欺いて虚偽内容の書面に判を押させた場合、前者であればこれは部下が上司の名をかたって作成した偽造文書であり、後者であれば上司が内容を確認せずに作成した真正の虚偽文書である(7)
  この点では、ドイツの「観念説」は、後者の理解に立っているように思われる。というのも、作成者とされるのは「そのような内容での表示を形成した者ではなく、書面のテキストが取引においてその者の表示とみなされる者」であり(8)、そこでは「文書は、その内容が、そこに Aussteller(=『作成者』)として表示された者に由来しない場合に不真正(=『偽造』)となる」からである(9)。言い換えれば、「観念説」とは、その文書が事実として誰の意思に基づいて作られたものかを基準とするものではなくて、その文書に表示されている意思は事実として誰のものかを基準とするものなのである。そして、その判断は、意思表示に関する民法の基本原則に従うことになる(10)。それによって、その文書に表示されている意思が「作成者として表示されている者」=「名義人」のものであると判断されるなら、その文書は「真正文書」であり、そうでないなら、その文書は「不真正文書」=「偽造文書」となるのである。
    これに対し、わが国には、「観念説」を「事実的」なものと「規範的」なものに分け、文書の「作成」が名義人の表示意思に基づいている場合には、その文書は「真正」であるとする「事実的意思説」によるべきだとする見解がある。そこでは、「A自身が自分の手で作成したのではなく、他人の手によって作成されたのであっても、確かにAの表示意思が反映されているのであれば、その文書は真正と解してよい」とされるのである(11)。しかし、「他人の手によって作成された」文書なら「作成者」は表示意思の主体であるAとは別人であって、そのような文書は「偽造」文書のはずである。逆に、この文書が「真正」であるためには、「表示内容を形成した意思主体」がAであるか否かは決定的ではなく、「表示された意思」がAのものであることが必要である。そしてその判定は、民法の意思表示のルール=規範にしたがう。その意味では、「観念説」はもともと「規範的」である(12)
  しかし、この「規範」の意味を誇張してはならない。それは、ドイツの議論を見ればわかるように、あくまで「表示された意思が誰のものとみなされるか」に関する意思表示のルールであって、「表示された意思の効果が名義人に帰属するか否か」に関するルールではないからである。言い換えれば、それはあくまで Aussteller を決定するルールにとどまる。したがって、名義人が文書から生ずる法的責任を負うかどうかは、「偽造」の判定には無関係である。また、そうでないと、「無権代理」の一種である「表見代理」のルールにしたがって名義人が責任を負わされる場合には、その文書は「真正」な文書だということになってしまうし(13)、民法九〇条の「公序良俗」に反する内容の契約書は、名義人が自分でサインしても、その契約から生じる法的な義務を負わないので「偽造」文書だということになってしまう(14)
    偽りの対象とされる「人格」についても混乱がある。ここにいう「人格」とは、「あの人」「この人」という程度の意味であって、その人の経歴や属性はその特定の参考資料にすぎない。したがって、人格の特定に使われる「名前」は、戸籍や住民票上のものである必要はなく通称や偽名でもかまわない。たとえば、大阪府知事名は「横山ノック」でよいし、西ドイツの元首相「ヴィリー・ブラント」はレジスタンス時代からのペンネームである。また、大学入試などで使われる受験番号も作成者を特定する名前である。
  ゆえに、偽名一般は「人格の同一性」の偽りではない。この定義の母国であるドイツの判例では、一般的にであれ一定の範囲でであれ、あるいは特定の事情の下でであれ、文書の作成者が偽名を用いた場合でも、この作成者が作成したことが明らかであれば、文書偽造にはならないとされている(15)。この偽名は「この作成者」を指し示しているからである。
  さらに、比較的最近のドイツの判例では、同棲していた男性の姓と自分の名とを組み合わせた名前で小切手を振り出していた女性に対して、「彼女は本名を使いたくなかっただけで、この名前で他人を指し示すつもりはなかった」として文書偽造罪の成立を否定したものもある(16)
    以上の検討をまとめると、「作成者」とは、「観念説」によれば、文書に表示された意思ないし観念の主体である。代筆や口述筆記の場合は、筆記した人ではなく筆記された意思ないし観念の主体が作成者である。同様に、代理・代表文書の場合は、代理人ないし代表者ではなく本人が作成者である。そして、文書に作成者として名前の出ている人が「作成名義人」ないし「名義人」である。したがって、「偽造文書」とは、文書に示された意思ないし観念の現実の主体と、そのような主体として文書から読み取れる人とが一致しない文書をいう。
  ゆえに、第一の裁判例とは異なり、どのような文書においても作成者と名義人が一致していなければ、それは偽造文書である。また、真正文書であれば名義人が「作成」した文書のはずであって、その意味で作成者と名義人との間にそごは生じない。
    ところで、第一の裁判例の事案では、各文書の作成者が被告人であることに疑いはない。問題は、被告人の使用した偽名が、架空人を含めて、被告人以外の者を指し示すものであったか否かにある。類似の問題に関する裁判例には、官庁の求人に対して前科を隠すために知人の名前で書いた履歴書を偽造文書としたものがあるが(17)、これは、変名使用は文書偽造でないことを前提に、現に別人が存在し、しかも官庁が採用に当たって前科照会をする可能性があることを重視して、他人の氏名の冒用になると判断したものであった。
  これに対して、関係者に架空人も含めて別人の存在が観念されておらず、民間会社のアルバイト的な雇用で前科照会の可能性も考えられない上(18)、被告人の顔写真まで貼付されていた本件履歴書等では、被告人の使用した偽名が「人格の同一性」を偽ったものとは考えにくい。本判決自身、判決書の被告人欄に「Y(=偽名)ことX(=戸籍名)」と記して、この偽名を被告人を指し示す名として用いているのである。「語るに落ちた」というべきであろうか。

(1)  最判昭和五一・五・六刑集三〇巻四号五九一頁など。
(2)  最判昭和五九・二・一七刑集三八巻三号三三六頁、最決平成五・一〇・五刑集四七巻八号七頁。
(3)  最近の教科書では西田典之『刑法各論』(一九九九)三三五頁。そこでは、「後者のような定義が登場したのは、一定範囲で通用している通称名で文書を作成した場合などには、作成名義の冒用という判断よりも、作成者が自己と異なる人格を名義人(文書作成の責任主体)として認識させようとしたか否かを問題とするほうが理解が容易だからである。」と説明されている。
(4)  E. Samson, SK, 5. bzw. 6. Aufl. 1997, § 267 Rn. 42, 48; 林  幹人『現代の経済犯罪ーその法的規制の研究ー』(一九八九)一一〇頁、中川武隆「判解」『昭和五九年度最高裁判所判例解説刑事篇』七一頁以下参照。
(5)  浅田和茂ほか『刑法各論』(一九九五)二八五頁以下〔松宮孝明〕参照。もっとも、そこで、その前提となる文書偽造罪の保護法益を文書の「証拠価値」とした(浅田ほか前掲書・二八三頁以下。なお、川端  博『新版文書偽造罪の理論』(一九九九)四三頁以下も文書の「証拠価値」に対する一般の信頼を保護法益とする。)のは誤りである。「証拠価値」(Beweiswert)という言葉は、ドイツ語では「証明力」(Beweiskraft)と同義である。しかし、有形偽造は名義人でない者が文書を作成すること、つまり名義人でない者の意思ないし観念が文書上に、名義人の意思ないし観念として表示されることで、名義人の意思ないし観念を証明する手段としての文書の「証拠能力」(Beweisfa¨higkeit)を害する行為なのである。したがって、文書に表示された事実の真実性について偽る虚偽作成ーこの場合には、「証拠価値」が害されるーとは、その保護法益を異にする。なお、形式主義における保護法益概念の発展については、成瀬幸典「文書偽造罪の史的考察(一)(二)(三・完)」法学六〇巻一号一二三頁、二号九四頁、五号一一〇頁(一九九六)が有益である。
(6)  林・前掲書一一二頁以下参照。
(7)  なお、このような場合、わが国の判例が部下に、文書偽造罪でなく虚偽公文書作成罪を認めるのも、文書内容が部下によって形成されていても、上司が文書の性格を認識して決済している場合は偽造文書でないという理解を、暗黙のうちに、前提としたものである。最判昭和三二・一〇・四刑集一一巻一〇号二四六四頁。もちろん、最判昭和二七・一二・二五刑集六巻一二号一三八七頁が非公務員に、虚偽公文書作成罪ばかりでなく、公文書偽造罪の間接正犯を認めなかったこともまた、同じように解されるべきである。
(8)  I. Puppe, Unzula¨ssiges Handeln unter fremden Namen als Urkundenfa¨lschung, JR 1981, S. 441;ders., Die Bedeutung der Geistigkeitstheorie fu¨r die Feststellung des Urkundenausstellers bei offengelegtem Handeln fu¨r einen anderen, NJW 1973, S. 1871.
(9)  Scho¨nke / Schro¨der / Cramer, StGB 25. Aufl. 1997, § 267 Rn. 48.
(10)  I. Puppe, NJW 1973, S. 1871;ders., Urkundenfa¨lschung, Jura 1979, S. 638f.;ders., Urkundenechtheit bei Handeln unter fremden Namen und Betrug in mittelbarer Ta¨terschaft − BayObLG, NJW 1988, 1401, JuS 1989, S. 361;F.C. Schroeder, Die Herbeifu¨hrung einer Unterschrift durch Ta¨uschung oder Zwang, GA 1974, S. 230. もっとも、最後のシュレーダー論文の意図は、従来「偽造」にはならないとされてきた、文書の内容をよく読まないでサインをしようとする名義人に、内容について欺罔することでサインをさせる行為なども、事実の錯誤を利用する間接正犯の考え方を用いて、「作成者」は欺罔した者だと解することで「偽造」を認めようとすることにある。しかしこれに対しては、「観念説」の狙いとする帰結が必ずしもすべて間接正犯で解決されるわけではないことを見落としたものだとする批判がある。Scho¨nke/Schro¨der/ Cramer, StGB 25. Aufl. § 267 Rn. 55.
「゙50」(11)  林・前掲書一四二頁以下。伊東研祐「偽造罪」芝原9845爾ほか編『刑法理論の現代的展開各論』(一九九六)三一七頁以下、町野 朔『犯罪各論の現在』(一九九六)三一一頁も、観念説を「規範的」なものと「事実的」なものとに分類している。
(12)  Puppe, JuS 1989, S. 361 は、名義人と共謀して損害保険金を騙し取るために名義人の名で小切手を振り出したケースに関するコメントの中で、「他人の名のもとでの行為(Handeln unter fremdem Namen)という制度は、代理という制度が、そしてまた意思表示という制度全体がそうであるように、民事法に属するものであって、ある意思表示がある人格に効果をもたらすかどうかは、唯一、民事法上のルールが決定する。刑法は第二六七条(=文書偽造罪)によって表示と表示者との間のこのような関係の外枠を保護するものであるから、その際に刑法は民事法上の事前決定に拘束される。」と述べて、有効な代理か単なる名義使用承諾かは、民事法の意思表示に関する規定に従って判断されるべきことを明言している。その意味で、林教授が「事実的意思説」の典型として挙げる(林・前掲書一五四頁以下)彼女の見解もまた「規範的」である。真の問題は、そこにいう「規範」の中身である。
(13)  にもかかわらず、町野・前掲書三一三頁は、「名義人がその文書について責任を負うという結果が生じていれば有形偽造は存在しない」と明言する。これに対する批判として、浅田ほか『刑法各論』二八六頁〔松宮〕。
(14)  林・前掲書一三五頁以下参照。もちろん、本来の「観念説」は、そのような内容のものではない。
(15)  BGHSt 1, 121;33, 160;NJW 1953, 1358. この点で、最判昭和五九・二・一七刑集三八巻三号三三六頁には疑問がある。
(16)  OLG Celle, NJW 1986, S. 2772. もっとも、プッペは、この名前で他人が観念される可能性はあったとして、判決の結論には批判的である。Puppe, Namensta¨uschung und Identita¨tsta¨uschung − OLG Celle, NJW 1986, S. 2772, JuS 1987, S. 275.
(17)  大判大正一四・一二・五刑集四巻七〇九頁。この判決は、就職の際、自己の前科を隠すために、前科のない知人の名前で履歴書を作成し、求人先の官庁等に提出した事案について、「前科を有する被告人が判示の場合に前科なき他人の氏名を冒用し判示の如き文書を作成行使するは自己の何人なるやを隠蔽する為になす単純なる氏名詐称に止まるものに非ずして、判示文書の名義人に該当する前科なき者の作成せる文書が成立せる如く作為し之を利用して判示の官庁其の他をして其の交渉の対手者は右前科なき名義人なりと誤信せしめ、以て判示の雇入其の他の契約を為さしめんとするものなれば、文書の真正を詐り公の信用を害する点に於て他の文書偽造行使と何等異な処なし。固より雅号、通称又は変名を使用する場合は自己の人格を表明するに過ぎざるを以て文書の偽造行使罪を構成せずと雖も、本件に於けるが如く他人の資格を利用する為其の氏名を冒用する場合に於ては同罪の成立せるものと謂ふべし。」と述べている。なお、片仮名は平仮名に直し句読点を補った。
(18)  その点で、第一の裁判例の事案は、友人名を通称としていた被告人が交通切符にその友人の名前を書いた最決昭和五六・一二・二二刑集三五巻九号九五三頁や、再入国許可申請書に関する先の最判昭和五九・二・一七刑集三八巻三号三三六頁とは異なる。念のために言えば、これは架空人名義の場合に偽造が否定されるという趣旨ではない。あくまで、名義人として作成者とは別の人格が想起されるかどうかが重要なのである。


 名義使用の承諾と自署性


  観念説の母国ドイツでは、第一次大戦前から、代筆や代理権授与のケースと単なる名義使用の許可とは区別されてきた。観念説では、前者では作成者は名義人自身であるが、後者では作成者は名義使用者であって名義人との人格の同一性がないからである。したがって、一般的に、「名義人の承諾がある場合は偽造でない」とされているわけではないことに注意を要する(1)。その際重要なのは、(一)名義人に代筆ないし代理させる意思があり、(二)筆記者に代筆ないし代理する意思と(三)その権限があること、である。
  たとえば、一九〇四年六月六日のライヒ裁判所判決(2)では、破産している父親が会社経営について息子から包括的な名義使用の権限を得つつ、取引業者には息子の名を自分を指し示す名として用いて契約書や手形引き受けにサインをしていたケースについて、父親はこの名で信用のある第三者名義の文書を作成したのであるから偽造に当たると判示されている。また、一九四二年四月二八日のライヒ裁判所判決(3)では、他人の承諾を得て配給物資の引換証申請書にその他人の名を書いたが、被告人にもその他人にも代理の意思はなかったというケースについて、他人の名で文書に署名しても犯罪にならないのは、名義人に代理してもらう意思があり、署名者にこの名義人を代理する意思があって、かつ署名者に代理権が認められる場合であると判示されている。さらに最近では、名義人が他人に自己名義の小切手を振り出させ、同時に銀行に小切手帳の紛失届を出して、小切手を換金した金額と損害保険で得た金額を山分けしようとしたという事案について、名義人には代理をさせる意思がなく他人にも代理をする意思がなかったとして文書偽造罪が認められている(4)
  実際、単なる名義使用の承諾では、特殊な文書でなくありふれた領収書でも、偽造を否定することはできない。たとえば、債権者AがBに、Aになりすまして債務の支払を受けAの名で領収書を書くことを許したとしても、BがAの代理人でないならば、この領収書はA名義でBが作成した偽造文書である。
    注意すべきは、このように名義使用の承諾のある文書が偽造となるのは、自署を要する文書だとか戸籍名を書くべき文書だといった意味での文書の性質によるのではなく、文書を行使される第三者に対して名義人と作成者の同一性を欺罔する文書だからである(5)。同時に、そうであれば名義人と作成者が一致しない文書はすべて偽造文書である。
  たしかに、ドイツにも、自筆遺言については、代筆や代理人による起案を偽造とする見解があるが(6)、これに対しては、自筆が要求される遺言書でも、それは遺言を証明する力(Beweiskraft)が認められないだけで文書の作成者については一般的なルールが妥当するのであり、またそうでないと、文章内容については口述筆記してもらって署名だけを自分で書いた場合でも偽造文書であることになってしまうとして、学説では反対説が有力である(7)
  したがって、旅券や遺言書のように、その有効性について自署が要求されている文書でも、自署でない場合に必ず偽造となるわけではない。その場合には、法律上、その文書の効力が否定されるだけで、代筆や代理であることが文書を行使される関係者に明らかである場合には、やはりそれは真正文書である。ただ、自署でないと無効であるから、他人は通常、署名している人物が名義人本人だと考えるというだけである。
  この点、わが国の近年の学説や裁判例は、名義人の承諾がある場合には偽造とならないことを原則としつつ、交通切符や再入国許可申請書などの特殊な文書については、「文書の性質」を理由に例外的に「名義人以外の者」が「作成」することは許されないとするのであるが(8)、これは「偽造」の統一的な理解を妨げると同時に、「作成」概念を混乱させ「名義人」が指し示す人物についての恣意的な判断を許すものとなっている。
  そうではなくて、第二の裁判例のように、署名された名前は被告人を指し示しているのに旅券を申請する意思をもっていたのは別人のCだという場合には、「偽造」の一般的定義から当然に、この文書は作成者(C)と名義人(D)の一致しない偽造文書ということになる。それは、いうまでもなく、自署を要する文書の「偽造」概念について特別のルールが妥当するという意味ではない。
    なお、自署性の要求は、本名(戸籍名など)の要求と同義ではない(歌手のサインを考えよ。自署だが本名でないことが多い)。したがって、第一の裁判例で「Y」が「X」を指し示し第二の裁判例で「D」が「C」を指し示すと主張されたなら、この場合には自署性の要求は満たされているのだから、いずれにせよ自署でないとして偽造を認めることはできない。この主張に対して偽造を認めるには、YやDがそれぞれXやCを指し示す名ではないということを論証しなければならないのである。

(1)  にもかかわらず、林・前掲書一五一頁、伊東・前掲三二〇頁、佐伯仁志「名義人の承諾と私文書偽造罪の成否」松尾浩也ほか編『刑法判例百選U各論(第四版)』(一九九七)一七七頁等は、名義使用の承諾がある場合は名義人の意思に基づいて作成された文書だから、観念説では偽造にならないと解している。さらに、西田『刑法各論』三五三頁も、単なる名義使用の承諾の場合に、承諾者が作成者であると解している。
(2)  RGSt 37, 196.
(3)  RGSt 76, 125.
(4)  BayObLG NJW 1988, 1401. 逆に、夫が正規雇用されているのに夫でなく妻が臨時雇用されているように装うために、妻の了解を得て夫が妻の名前で臨時雇用の給与の領収書を書いた事案について、BayObLG NJW 1989, 2142 は、両者に代理関係があった可能性を理由に、偽造を認めた原判決を破棄して差し戻した。
(5)  幾代  聡「有形偽造の一考察(二)」東京都立法学会雑誌三三巻一号(一九九二)二一四頁は、ドイツの判例も「文書の性質」という観点で、名義使用の承諾のある文書の偽造の有無を判断するものとしているが、それは誤解を招く評価である。実際には、ドイツの判例において、「名義人と作成者の人格の同一性を偽る」という基準を超えて「文書の性質」という曖昧な基準で、単なる名義使用承諾のケースについて偽造の成否を判定したものはない。なお、ドイツの学説および判例分析として、園田  寿「文書偽造罪における『偽造』の概念と精神性説」『法と政治の理論と現実(上)』(一九九一)三四五頁以下も参照されたい。
(6)  RGSt 57, 235. この事案では、被告人は遺言者に委任されて遺言者の名前で、被告人の夫または夫死亡の場合には被告人本人に財産を相続させるとする内容の遺言証書を記載したと主張した。これについてライヒ裁判所は、自筆であることが要求される遺言証書では、被告人に遺言者を代理して遺言書を記載する権限はないとして、証書に表示された意思の作成者と名義人の不一致を認めた。わが国でも、自筆証書、公正証書または秘密証書という形で民法が遺言に厳格な方式を要求するのは(民法九六七条)遺言者の真意を確保するためであり、実際、遺言者本人が死亡していて、生存者と同じ方法ではその真意を確かめることができないのに、財産権の移転という重大な効果を生み出す遺言では、特別な方式を要求して遺言者の真意を確保する政策的必要性は大きい。もっとも、次に述べるように、それは偽造の定義に直結するわけではない。
(7)  OLG Du¨sseldorf NJW 1966, S. 749 は、このようなケースでも文書偽造を認めたため、学説の激しい批判を浴びた。Mohrbotter, NJW 1966, S. 1421;Puppe, JR 1981, S. 441ff.;Scho¨nke/Schro¨der/Cramer, StGB 25. Aufl. § 267 Rn. 59. プッペは、このような立場を「修正された事実説」(modifizierte Ko¨rperlichkeitstheorie)と呼んで批判している。たしかに、わが国の遺言証書では、自筆証書のほかに、公正証書や秘密証書という方式も認められているように、重要なのは遺言者の真意であることを確保することであって、自筆性そのものではない。したがって、「偽造」であるか否かは一般の民事法のルールに従って判定すべきであり、方式を遵守していなくても代理や代筆であることが第三者に明らかである場合には、「偽造」は否定されるべきであろう。
(8)  交通切符について最決昭和五六・四・八刑集三五巻三号六三頁、反則切符について最決昭和五六・四・一六刑集三五巻三号一〇七頁、運転免許申請書について大阪地判昭和五四・八・一四刑月一一巻七=八号八一六頁、一般旅券発給申請書について大阪高判平成二・四・二六大阪高検速報平成二年二号、入試答案について東京地判平成四・五・二八判タ八〇六号二三〇頁、東京高判平成五・四・五判タ八二八号二七五頁、最決平成六・一一・二九刑集四八巻七号四五三頁。学説では、前田雅英『刑法各論講義(第二版)』(一九九五)四四一頁以下、同「他人名義の履歴書の作成と私文書偽造」警察学論集五二巻三号(一九九九)一八四頁、大谷  實『刑法講義各論(第四版補正版)』(一九九五)四一八頁など。


 冒用を承諾した名義人の正犯性


    この問題については、まず、名義の真正性は名義人に対しては保護されていないといえるかが問題である。共犯の処罰根拠に関するドイツの「惹起説」によれば、たとえば、自己の刑事事件の証拠を隠滅することは「処罰妨害罪」(§ 258 StGB:Strafvereitelung)としては処罰されない。これは、同罪の構成要件が「他人が」処罰されまたは処分を受けることを妨害するという内容のものだからである。このような場合には、たとえ他人の手を介したとしても、自己の刑事事件の証拠隠滅は「他人の処罰」を妨害するものとはならない。犯人自身が同罪の構成要件結果を惹起することは、論理的に不可能なのである(1)。惹起説を採るなら、同じことが、日本刑法の一〇三条、一〇四条にも当てはまる。
  もっとも、惹起説を採用しても、真正身分犯に対する非身分者の場合は、事情が異なる。この場合には、たしかに非身分者は身分者なしでは構成要件を実現できないが、それは事実上不可能というだけであって、処罰妨害罪のように、自己庇護がおよそ構成要件から除外されているので構成要件結果惹起が「論理的に不可能」というものではない。そこで、惹起説に立つリューダーセンなどは、身分犯の構成要件とこれに対する非身分者の共犯を認める総則規定ー日本では六一条、六二条および六五条一項ーとから、身分者の犯行の誘発・促進を内容とする特別の構成要件が作り出されるのだというふうに説明する(2)
    名義人と偽造との関係は、どちらかといえば身分犯の共犯の問題に似ている。名義人は単独では、自己の名で偽造文書を作成することはできないが、他人に文書を「作成」させることによって、作成者と名義人の一致しない自己名義の文書の成立を惹起することは可能だと解する余地はある。
  ただ、それによって論証されているのは、名義人も文書偽造の「共犯」(Beteiligte)たりうるという結論であって、共同「正犯」(Ta¨ter)たりうるか否かまでは論証されていない。この問題に答えるには、したがって、文書偽造罪の「正犯」要件が何で、名義人がこれを充たすことができるか、さらにそれが肯定されれば、本件がそれに当たるか、といった問いが検討されなければならない。
  仮に、この正犯要件を、「他人を自己の犯罪の手段として利用した」ところに求めるのであれば、それは同時に、他人を手段として自己の文書を作成する場合(「観念説」がまさに背後者に「作成」を認めるケース)とは異なることを論証しなければならないであろう。というのも、後者のケースであれば、出来上がった文書は背後者である名義人が作成した真正文書であって、この場合にはそもそも偽造は認められないからである。
  この点、第二の裁判例は、「自己の犯罪として関与した」ことを正犯の根拠としている。しかし、一体、「自己の文書を作成した」のではないが「自己の犯罪(=文書偽造罪)として関与した」から正犯だという論理がすんなり成り立つものであろうか。むしろ、この場合には、「自己の犯罪」としての正犯性がないからこそ、名義人でも偽造に関与したといえるように思われる(3)。したがって、名義人は教唆犯・従犯にはなりうるが、共同正犯にはなりえないと解される。
    もっとも、文書偽造罪の正犯性については、詐欺罪の間接正犯などの場合に用いられる基準がそのまま妥当するわけではない。前述のように、文書の性格について名義人が錯誤に陥っていなければ、その内容について欺罔されて判を押した場合でも、その文書を作成したのは名義人であり、したがって、欺いた者は文書偽、造、の間接正犯ではない。また、名義人が文書作成を脅迫された場合でも、抵抗不能な強制による場合でない限り、「作成者」はあくまで名義人であるから、脅迫者の作成した「偽造」文書が成立するわけではない(4)。せいぜい強要罪などが成立しうるにとどまる。その意味では、文書偽造罪の正犯性は、この犯罪の形式的性格、つまり名義の真正性という文書の形式を保護するという「形式主義」を前提にして決定されるものである。

(1)  K. Liiderssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 169. そこでは、国家の刑罰請求権は、犯人自身に対しては保護されていないのだと説明されている。
(2)  Liiderssen, a. a. O., S. 137f. なお、ここにいう身分犯に対する共犯の特別構成要件は、わが国の一部で、総則共犯一般の成立要件を指す意味で用いられている「修正された構成要件」とは異なる。リューダーセンのいう共犯用の特別な構成要件は、はあくまで真正身分犯にのみ関わるものであり、しかもそれは「身分者の犯行の誘発・促進」という新たな構成要件結果を内容とする「共犯という名の」各則構成要件なのである。
(3)  惹起説とは異なるが、角田正紀「名義人の承諾と私文書偽造罪の成否」原田國男ほか編『刑事裁判の理論と実務・中山善房判事退官記念』(一九九八)五一二頁以下は、被告人に偽証教唆の成立がありうることを根拠に、名義人にも文書偽造罪の教唆・幇助の成立可能性を認めつつ、偽造罪では名義人による文書作成の分担はありえないことを理由に実行共同正犯の成立可能性を否定するとともに、共謀共同正犯も、「それが規範的にみれば実行行為と同価値にあると評価されればこそ正犯としての責任を問われるものだ」として、「名義人が正犯となることは共謀共同正犯を含めて一切否定すべきであろう。」とする。これに対して、山火・前掲『平成一〇年度重要判例解説』一五七頁は、文書偽造罪を名義人でない者が犯す「消極的」身分犯と見て、刑法六五条一項の適用により共同正犯を認める方向を示唆する。しかし、仮に刑法六五条一項の適用がありうるとしても、判例と異なり、立法者は刑法六五条一項に共同正犯を含めない趣旨で、「身分によりて構成すべき犯罪に加功したる者は」という文言を用いたのである。倉富勇三郎ほか編『増補刑法沿革綜覧』(一九九一)九四四頁以下参照。さらに、西田『刑法各論』三五二頁は、旅券の申請書などは公務所などの一定の場所的状況において作成されることが予定されているから、これらの文書の名義人は「単なる乙ではなく、警察官により違反者と認定された乙、実際に受験した乙、公務所に出頭した乙」だとする。したがって、観念説では名義使用を承諾した乙が作成者であるとしても、名義人と作成者の同一性が偽られているから偽造であるとするのである。そして、このように考えることで、乙は名義人である「公務所に出頭した乙」とは別人だから共同正犯も成立しうると解する。しかし、それでは、甲が乙の代理人であることを申請書に明記した場合にまで偽造を認めることになろう。なぜなら、「乙代理人甲」名義での代理文書の名義人は、最決昭和四五・九・四刑集二四巻一〇号一三一九頁などの判例によれば乙のはずであるが、右のような見解によれば、甲が乙から現に代理権を与えられており、ゆえに観念説では乙が作成者であったとしても、公務所で作成すべき旅券発給申請書に記載されている名義人は「公務所に出頭した乙」となって、出頭していない乙とは別人となるからである。それは不当な結論であって、旅券発給においては、代理文書では申請を受け付けないというだけのことであろう。そうではなくて、これが単なる名義使用の承諾なのかそれとも代理ないし代筆に当たるのかという区別が重要であり、かつ、この問題の処理にはそれで足りる。
(4)  Vgl., Scho¨nke / Schro¨der / Cramer, StGB 25. Aufl. § 267 Rn. 98.


 むすびにかえて


    以上の考察を簡単にまとめると、つぎのようになる。まず、文書の「偽造」とは、文書の現実の作成者と文書から読み取れる文書作成者=(作成)名義人との人格の同一性を偽ることである。この場合の鍵は「作成者」という概念であるが、これは観念説にしたがい「文書に表示された意思の主体」と解すべきであって、それは、その表示内容を形成した人物と必ずしも一致するわけではない。虚偽内容の起案をして上司を騙して判を押させた場合には、表示内容を形成したのは部下であるが、そこで成立するのは(部下と共同作成の場合も含めて)上司の作成した虚偽文書であって偽造文書ではない。
  つぎに、したがって、このように理解された「作成者」と「名義人」の人格が一致しない場合には常に「偽造」であって、別人なのに偽造でないという場合はありえない。同時に、「人格」の一致は文書に表記された名前が現実の作成者を指し示しているか否かにより判断され、その人物の肩書き・属性などに虚偽があっても、それだけでは「人格」の不一致があるとはいえない。ゆえに、「甲(=偽名)こと乙(=戸籍名)」というように、偽名使用の場合も、偽名(甲)が作成者本人(乙)を指し示している場合には、偽造ではない。
  さらに、他人の名前を文書に記載しても偽造にならないのは、観念説の母国ドイツの判例や学説によれば、それが代理や代筆を意味し、したがって民事法のルールにより名義人の意思が表示されているとみなされる場合に限られる。これ以外の、代理や代筆の意思が双方にない単なる名義使用の承諾の場合には、作成者と名義人の人格の同一性は否定される。その意味で、観念説とは名義使用の承諾者一般を「作成者」とするものではない。同時に、このように考えれば、「文書の性質」や「自署性」は偽造の成否とは無関係であることが明らかとなる。ありふれた領収書でさえ、債権者と他人が共謀して、他人が債権者になりすまして弁済を受け取り、債権者の名前でそれを書いた場合には、私文書偽造罪が成立する。逆に、自筆遺言証書でも、口述筆記であることが明らかなときは代筆であって偽造ではなく、ただ自筆遺言証書としての効力を否定されるだけである。
  最後に、名義使用を承諾した名義人は、偽造罪の共犯とはなりうるが、観念説の意味でみずから文書を作成したわけではないから、「正犯」とはなりえないと解すべきである。もっとも、名義人が錯誤や脅迫によって文書を作成した場合でも、文書の形式について錯誤があったり絶対的強制を受けたりしたのでない限り、「作成者」はあくまで名義人であって偽造ではない。この場合はせいぜい強要罪などが成立しうるにすぎない。
    最後に、いずれにせよ、文書偽造罪における困難な諸問題を筋の通った形で適切に解決するためには、「偽造」概念における「観念説」の理解を、その母国ドイツでの展開を素材にして、いっそう深める必要があるように思われる(1)

(1)  今井猛嘉「文書偽造罪の一考察(四)」法学協会雑誌一一六巻六号(一九九九)九四八頁以下は、「精神性説の適用範囲、ひいては精神性説の理解自体が大きな争点となっている。」として「名義人が誰かを確認する作業」が重用だとする。それは、虚心に見れば、「作成者とは誰のことなのか」という問題であり、本稿で扱ったふたつの裁判例のような、「名義人」と「作成者」が別人でもあっても偽造ではない文書があるとか、文書の自署性が名義使用承諾文書を偽造とする根拠となるという意味での「文書の性質論」に反省を迫るものである。