立命館法学 1999年3号(265号) 61頁




必要的共犯についての一考察(3)

豊 田 兼 彦


 

目    次

は じ め に

第一章  必要的共犯学説の検討
  第一節  わが国の必要的共犯論
  第二節  最近のドイツにおける必要的共犯論の概観
  第三節  小    括  (以上二六三号)

第二章  法益保護の欠如により特定の者の関与行為が不可
    罰とされる犯罪
  第一節  問題の所在
  第二節  被害者の関与をともなう犯罪
  第三節  特定の者を構成要件から除外している犯罪
         −犯人蔵匿罪・証拠隠滅罪−
  第四節  小    括

第三章  周辺的な関与行為が不可罰とされる犯罪
  第一節  問題の所在
  第二節  ドイツにおける「必要的共犯の理論」  (以上二六四号)
  第三節  あらたな解決
    一  考察の方法
    二  正犯不法の「質」
    三  不処罰の理論的根拠と範囲
    四  個別的検討
  第四節  小    括  (以上本号)

第四章  第三者的共犯
  第一節  問題の提起
  第二節  解決の方法

むすびにかえて





第三章  周辺的な関与行為が不可罰とされる犯罪

第三節  あらたな解決

  一  考察の方法
  問題解決の方法として、共犯の処罰根拠をめぐるこれまでの議論によるだけでは不十分であることは、すでに明らかにしたとおりである(1)。また、前節における検討から、形式的な「必要的共犯の理論」(立法者意思説)に依拠することも妥当でないことが示された。したがって、残された方法としてさしあたり考えられるのは、共犯理論から離れて完全に個別的、各論的に解決する方法と、共犯理論を基礎にしながら各論的検討をも加味する方法である。
  前者の方法を徹底した最近の研究として、ゾヴァダの研究(2)をあげることができる。しかし、そのような方法は、相当な数が予想される特別刑法上の必要的共犯を十分にフォローしえないところに根本的な限界があるように思われる。したがって、共犯理論、とりわけ前章で採用した「惹起説」を出発点としつつ、各論的検討(各則構成要件の分析)を行っていくという方法こそ、まずは試みられるべきであろう。以下では、このような視点から、検討をはじめることにする。


  (1)  正犯不法の「質」による共犯処罰の限定    「惹起説」は、前章で明らかにしたように、構成要件該当結果の他人性(構成要件によって保護された法益が共犯者の攻撃からは保護されていないこと)に着目し、これによって被害者の関与や犯人による犯人蔵匿・証拠隠滅の教唆の不処罰を導く見解であるが、当然のことながら、この構成要件該当結果の他人性は、各則の構成要件の分析、つまり個々の犯罪の正犯不法の「質」の解明が行われてはじめて明らかになるものである。たとえば、嘱託殺人の被殺者の不処罰は、被殺者は嘱託殺人の構成要件該当結果である「他人の死」を実現していないことによって説明されるが、その前提には、同罪の構成要件および自殺構成要件の欠如から引き出される、同罪の構成要件該当結果は人の死一般ではなく「他人の死」であるという各論的な解釈(正犯不法の「質」の解明)がある。このことは、見方をかえれば、「他人の死」の実現という正犯不法の「質」が、被殺者の共犯としての可罰性を否定する働きをもっている、ということである。
  この例からも明らかなように、「共犯者からみた構成要件該当結果の惹起」を共犯の処罰根拠とする「惹起説」からは、共犯の処罰は、問題となる各則構成要件の解釈から明らかとなる正犯不法の「質」によって限定されるものなのである(3)。このことを共犯自身の不法という観点からみれば、共犯が処罰されるためには、共犯自身が「正犯不法と質的に合致した不法」を実現しなければならないということである(4)(5)

  (2)  正犯不法の「質」の解明の必要性・有効性    このように、正犯不法の「質」が共犯処罰を限定する働きをもつものだとすると、個々の犯罪について正犯不法の「質」を解明することは、必要的共犯の処罰の限界を考えるうえで、有益な作業となりそうである。そこで、この点について、もう少し詳しく見てみることにしよう。
  「惹起説」の着目する構成要件該当結果の他人性は、たしかに正犯不法の質的特徴の一つである。つまり、従来の「惹起説」は、少なくとも必要的共犯の問題に関する限り、正犯不法の質的特徴のうち構成要件該当結果の他人性に着目した理論だといってよい。しかし、正犯不法の「質」を構成する要素は、構成要件該当結果の単なる惹起(法益侵害)に尽きるものではない。というのも、構成要件該当結果の惹起といっても、そこにはさまざまな態様がありうるのであって、立法者がそのうちの一部のみを可罰的と評価している場合も十分に考えられるからである。たとえば、必要的共犯(片面的対向犯)の形態をとることが多い、危険な物や文書の「頒布」(わいせつ文書の頒布など)は、それによって対象物が全方向にばらまかれ、どんどん広がっていく(少なくともその可能性がある)がゆえに、そしてそのような行為が反復される可能性が高いがゆえに、社会にとって危険なのであり、立法者はそのような「頒布」の質的な特徴に着目してこれを可罰的と評価し、犯罪類型化するのである。このように、正犯不法の質的な特徴には、構成要件該当結果の他人性とは別のものも、十分にありうるのである。
  このように考えると、構成要件該当結果の他人性のほかに、正犯不法の質的特徴がないかを探り、そこから明らかになった正犯不法の「質」によって共犯の成立を限界づけるという方法が、ここで問題となる他者侵害的な片面的対向犯の不処罰の根拠および範囲の解明にとって、必要かつ有益なものとなりそうである。そこで、以下では、ここで扱われるべき諸犯罪の正犯不法の質的特徴を探る作業を行ったうえで、不処罰の理論的根拠と範囲の問題に迫ることにしよう。

(1)  第一章第一節二、および第一章第二節二を参照。
(2)  Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahme als funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992. ゾヴァダは、たとえば、ポルノ文書の頒布を処罰するドイツ刑法一八四条について、つぎのように説明する(S. 223f.)。彼はまず、一八四条一項八号および三項三号において買い手の行為がとくに類型化されていることに注目する。一八四条一項八号は、ポルノ文書もしくはそこから得られた一部を、第一号から第七号の意味において用いるために、もしくは他人にそのような使用を可能にするために、製作、供給、貯蔵する行為等のほか、「注文する」行為をも禁止している(三項三号もほぼ同じである)。彼によれば、一八四条一項八号および三項三号は、ここに記述された一定の目的をもった買い手のみを正犯として処罰し、それ以外の買い手はいっさい処罰しない趣旨であると解される。つまり、これらの規定は、買い手の行為を「規範的に特権化したことの表れ」である。その意味で、一八四条の規範構造は、一定の要件のもとに贈賄者を処罰する賄賂罪(ドイツ刑法三三一条以下)のそれと同視できる。かくして、ゾヴァダは、買い手が主観的要件である特定の目的を欠く場合は、役割の範囲(関与の程度)とは無関係に、買い手はいっさい不可罰である、との結論にいたる。サ
  以上のように、ゾヴァダは、個々の構成要件の規範構造を分析することによって、問題となる必要的関与者に「特権化」(不処罰の領域)が認められるかどうかを個別的に明らかにするという方法をとる。そして、右に紹介したポルノ文書の頒布のように「特権化」が認められる犯罪については、必要的関与者は(「特権化」された範囲で)不可罰であるが、債権者庇護罪(ドイツ刑法二八三条c)のように「特権化」の認められない犯罪については、必要的関与者は共犯の一般ルールにしたがってつねに可罰的であると主張するにいたる。債権者庇護罪に関する彼の説明については、Sowada, aaO (Anm.2) S. 172f.;ders., Der begu¨nstigte Gla¨ubiger als strafbarer 》notwendiger《 Teilnehmer im Rahmen des § 283c StGB?, GA 1995, S. 70f.;曲田統「特定債権者庇護罪への関与」比較法雑誌二九巻二号(一九九五年)一七六頁を参照。サ
  なお、個別的解決をめざす論稿としては、ほかに、Harro Otto, Straflose Teilnahme?, in:Festschrift fu¨r Richard Lange, 1967, S. 197;Ju¨rgen Wolter, Notwendige Teilnahme und straflose Beteiligung, JuS 1982, S. 343 をあげることができよう。
(3)  正犯不法の「質」による共犯処罰の限定というとき、そこでの「質」には、身分犯−必要的共犯に多くみられる−の特別義務違反の要素は含まれないものと考えておかなければならない。というのも、身分犯の正犯不法の要素として特別義務違反を認めたとしても、それだけでは、いずれにせよ刑法六五条により、原則として、共犯の成立は否定できないからである。したがって、問題となる必要的共犯がたとえ身分犯であったとしても、身分犯の特別義務違反とは別の正犯不法の「質」を解明する必要がある。
(4)  Vgl. Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 73ff.;ders., Strafrecht, Allgemainer Teil, 1998, S. 327;Klaus Lu¨derssen, Zum Strafgrund der Teilnahme, 1967, S. 25f.;Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 1ff.;ders., Zum Strafgrund der Teilnahme, in Festschrift fu¨r Stree und Wessels, 1993, S. 370ff. なお、大越教授は、惹起説からは、正犯と共犯の「犯罪性格」は質的には異ならないことになる、と指摘されている。大越義久『共犯論再考』(一九八九年)一一六頁、一七六頁。
(5)  このような理解によれば、構成的身分犯に対する共犯の問題において身分者と非身分者とで不法に質的な相違(たとえば特別義務違反の有無)があると解した場合、非身分者に共犯の成立をみとめる刑法六五条一項は、自明の原理の確認ではなく、特別の政策的理由による規定と解することになろう。このように解すると、その政策的理由が何であるかが問題となるが、これは本稿の射程をこえる問題なので、今後の検討課題としておきたい。

  二  正犯不法の「質」
  (1)  ランゲの「行為者性」の理論    右のような意味での正犯不法の「質」を解明する研究の発端は、ランゲの『必要的共犯』と題する著書(一九四〇年(1))のなかに見いだすことがきる。彼の見解は、必要的共犯の不処罰の根拠は従来の行為要件、すなわち構成要件該当性、違法性、有責性の欠如にではなく、むしろ、それらの要件とならぶ「行為者性」(Ta¨terschaftsma¨ssigkeit)の欠如に求めるべきだとする「行為者性」の理論から出発する(2)。彼によれば、可罰性の要件には、構成要件該当性、違法性、責任だけでなく、そのような行為の属性には還元できない「行為者性」の要件がある(3)。それは、行為とではなく、むしろ行為者の一身(Person)と何らかの仕方で関係する犯罪要素である(4)。もっとも、それは、責任阻却事由のように、個々の場合に特別の理由から一般的に存在する責任を欠如させるものではなく、むしろ一般的、類型的にその行為者は答責的な人の範囲から除外されているという意味において行為者該当的(Ta¨terschaftsma¨ssig)でないということである(5)。これを必要的共犯の領域についてみると、たとえば、近親相姦における一八歳未満の卑属、誘拐罪における被誘拐者などが処罰されないのは、彼らが特別な行為支配をもたないというだけでなく、むしろ、相手方の行為支配に対応する劣弱な地位にあって、他人の活動の客体、目的物として現れるからである(6)
  さて、本章との関連で注目されるのは、わいせつ文書販売罪に関するランゲの説明である。彼は大要つぎのように述べる。法律はわいせつ文書を買った者を処罰していないが、この購入者には右に述べたような劣弱性または客体的地位は認められない。しかし、購入者の行為は多くは一回きりでそれ自体として可罰性がないのに対して、販売者はその販売行為を反復するのが常であって、彼は「絶えない危険の源泉」(sta¨ndige Gefahrenquelle)となるものである。その行為はこのような特別の行為者性の要素と結合するときにはじめて処罰の必要な程度に達するのであって、購入者はこの要素をもたないから処罰されないと解されるのである、と(7)
  このランゲの見解は、わいせつ文書販売罪における販売者が「絶えない危険の源泉」となることに着目して、そのような特徴をもたない購入者の不可罰性を説明しようとした点で注目される。そこには、正犯(者)の質的特徴を明らかにすることによって共犯処罰を限定するアプローチの萌芽が見られるといってよい。
  もっとも、ランゲの見解は、その背後にナチスの義務犯思想がある(8)ことはいったん置くとしても、なお検討すべき点を残している。まず、彼は、販売者が「絶えない危険の源泉」となることを行為の属性でなく行為者の属性とするが、あえてそのように解する必然性はない。「絶えない危険の源泉」の要素は、行為の属性(不法の「質」)として理解することができるはずである(9)。また、わいせつ文書販売罪における販売者が「絶えない危険の源泉」であるというのであれば、その他の風俗犯の正犯、たとえば売春仲介罪における仲介者についても、同様のことがいえそうである。
  そこで、つぎに、以上のランゲの研究をふまえて展開された佐伯博士の見解を、本章の問題領域と関連するかぎりで見てみることにしよう。

  (2)  佐伯博士の見解    佐伯博士は、右にみたランゲの見解のほか、ベーリング、クリース、フロイデンタールらの見解を詳細に分析・検討したうえで、必要的共犯に関する一般原則として、つぎのような考え方を提唱される(10)。まず、「不可罰的な必要的加担者の不処罰の理由は、これを違法性または責任性の阻却減軽の事由である点に求めねばならない」。そして、「その者の必要の程度を超えた加担が、相手方に対する教唆、従犯の型に該当する限り一応これを共犯とみるべきであり、ただそれらが共犯として可罰的であるかどうかは、その必要の程度を超えた加担行為について、さきに必要的加担行為について彼を不可罰的とした違法または責任の阻却減軽事由が、なお、妥当するかどうかを検討して決すべきである。必要的加担行為をして罰されないからといって、必要の程度を超えた教唆、幇助行為についても当然に処罰されえないとするようなことは断じて正当でない。前者が罰されないことには罰されないだけの相当の理由(適法性、責任性の欠陥)があるからで、同じ事情は後者についても当然に存在するということはできないからである」。
  以上の原則を前提として、つぎに、個々の事例が検討される。本章の問題設定との関連で注目されるのは、とりわけ風俗犯に関するつぎのような説明である(11)。「警察犯処罰令一条二号に『密売淫ヲ為シ又ハ其ノ媒合若ハ容止ヲ為シタル者』とされている犯罪」についてみると、「まず密売淫者の相手方である遊客が、相手の女を金品をもって誘惑して密売淫を承諾させた場合と、直接売淫者に対して働きかけるのでなく、むしろ、媒合者を教唆して自己の淫行の相手となるべき女を周旋させる場合とがあるであろう。また、後の場合については、ドイツの判例が終始それを共犯(教唆・従犯)として処罰していることは前にも述べたとおりであるが、わが国法の解釈としては、前後二つの場合ともこれを共犯として処罰すべきものと考える。また、刑法一七五条の猥褻の文書・図画その他の物の頒布・販売罪において、それらの物の頒布を受けまたは買い受けた者の処遇も同様でなければならない。−これらの場合における密売淫者、媒合容止者、猥褻文書の頒布販売者は、いずれもこの種の風俗を紊乱しあるいは公衆の健康を害する行為の絶えない源泉であって、その違法性(危険性)はそれらの者の相手方(遊客・買手)の反覆性がなく、積極性もない偶発的行為に較べ遙かに強大である。また適法行為の期待可能性も後者にあっては遙かに低く評価されているであろう。しかしこのような事情は、これらの者が消極的、受動的地位を去って積極的なる造意者として密売淫者、媒合容止者、販売者に働きかける場合には、もはや、これを認めることはできないのである。ここにいたれば、彼の地位は不可罰的な必要的加担者のそれでなく、むしろ刑法六五条一項の『身分ニ因リ構成ス可キ犯罪ニ加功シタル』非身分者のそれに準ずべきものとなるといわねばならないのである」(傍点筆者)。
  この佐伯博士の見解は、正犯者は「絶えない危険の源泉」であるというランゲの特徴づけを基本的に踏襲している点で彼の見解と一致するが、以下の諸点においては相違をみせている。第一に、「絶えない危険の源泉」であるという正犯者の特徴をその行為の違法性(危険性)において説明していることである。ランゲの提唱した「絶えない危険の源泉」の観点は、ここにいたって正犯「不法」の「質」を特徴づける要素となったのである。第二に、「絶えない危険の源泉」として現れる正犯として、わいせつ文書の販売者の他に、密売淫者、媒合容止者(媒介者)があげられていることである(12)。このような佐伯博士の見解は、すでに見たランゲ説への疑問に対する可能な解答の一つとして、肯定的に評価されよう。
  もっとも、ここにも、なお検討を要する問題が残されている。それは、「絶えない危険の源泉」として現れる正犯としてわいせつ文書の販売者の他に売春媒介者をあげるのであれば、さらに、たとえば債権者庇護罪の正犯である債務者も、「絶えない危険の源泉」としてとりあげることができるのではないかということである。佐伯博士の見解では、債権者庇護罪における債務者は、「絶えない危険の源泉」としてとらえられていない。そこでは、債権者の不処罰の根拠は、債権者には全債権者に対し公平に弁済をする義務を負う債務者の庇護行為と同じ可罰的違法性がないこと、および債権者には債務者の方から提供してきた弁済を拒絶せよとは期待しがたいことに求められている(13)。もちろん、このような説明は可能であるが、しかし、破産状態にある債務者を「絶えない危険(総債権者の利益を害する危険)の源泉」とみることもまた十分に可能である。というのも、債務者は、通常の方法では完全な債権の満足が得られない複数の債権者をくり返し引き寄せることのできる立場にあるからである。そうだとすれば、債権者庇護罪の場合も、わいせつ文書の販売者や売春媒介者と同じように、「絶えない危険の源泉」として正犯たる債務者を特徴づけ、そのような観点から債務者の行為に加担した債権者の不処罰を説明するほうが、理論的に一貫しているように思われる。
  そこで、最後に、債権者庇護罪も含めて、本章で扱われるべき犯罪の正犯不法の「質」を網羅的に分析し、それを一括して「増幅作用」(Multiplikatorwirkung)と特徴づけた、グロップの見解をみてみることにしよう。

  (3)  グロップの見解    グロップは、まず、「頒布」「販売」「行使」といった行為態様を記述する諸犯罪に着目し、これらの犯罪を「遠心的犯罪」(Zentrifugaldelikte)と名付ける(14)。そして、そのような犯罪に特有の正犯不法(法益侵害の類型的な危険性)は、正犯が危険な物を不特定の第三者に向けてくり返しばらまく可能性をもっていることにあるとする。つまり、「遠心的犯罪」を構成する不法の質的特徴は、「不特定の第三者との共働の反復可能性」(少なくとも潜在的な「増幅作用」)にあるというわけである(15)。これによると、たとえば、わいせつ文書販売罪において販売者だけが処罰の対象とされているのは、販売者にはくり返し不特定の第三者に対してわいせつ文書を販売する可能性、つまり潜在的な「増幅作用」があるからであり、反対に、わいせつ文書の購入者が正犯として処罰されていないのは、購入者の行為には通常そのような「増幅作用」がないからである、と説明されることになる。
  さらに、この潜在的な「増幅作用」は、ばらまかれる物自体には危険はないが、正犯が出来事の中心点となって犯罪遂行のために類型的に第三者をおびき寄せる行為態様を記述する諸犯罪にもみられる。グロップはこれを「求心的犯罪」(Zentripetaldelikte)と呼んでいる(16)。たとえば、割引法で許されている割引率の上限を超える割引率で生活用品を安く販売するような場合(17)である。そのほか、債権者庇護罪(ドイツ刑法二八三条c(18))、依頼者に対する背信行為(同三五六条(19))、職業禁止の違反(同一四五条c(20))なども、潜在的な「増幅作用」をともなった「求心的犯罪」とされるている。
  なるほど、右のグロップの分析には鋭いものがある。たしかに、対向関係にある一方についてのみ処罰規定が置かれている対向犯(片面的対向犯)には、頒布、販売、行使などの「取引行為」を記述する犯罪が少なくない。そして、取引の当事者のうち処罰規定が置かれているのは、不特定の第三者との共働の反復可能性を有している方の当事者である。つまり、類型的にみて、潜在的な「増幅作用」をもっている行為こそが、正犯行為として規定されているのである。この事実に着目し、本章で扱われるべき諸犯罪に共通する正犯不法の「質」を潜在的な「増幅作用」によって特徴づけたグロップの見解(21)は、たしかに的を得ているように思われる。
  しかも、このような見方は、ランゲによって提唱され佐伯博士に受け継がれた見解、すなわち、わいせつ文書販売罪における販売者は販売行為を反復するのが常であること(「絶えない危険の源泉」となること)にその可罰性の根拠があるとする見解と、基本的に視点を同じくするものである。三者の見解は、正犯不法の「質」を「絶えない危険の源泉」と呼ぶか、潜在的な「増幅作用」と呼ぶかの違いはあっても、内容的には、それを「不特定の第三者との共働の反復可能性」とみる点では共通しているのである。
  したがって、本章で扱われるべき諸犯罪の正犯不法の「質」は、さしあたり、法益侵害の類型的な危険性が「不特定の第三者との共働の反復可能性」にあること(潜在的な「増幅作用」)と理解しておいてよいであろう。以下では、このような不法を「増幅不法」と呼ぶことにして(22)、さっそく必要的関与行為の不処罰の根拠と範囲の検討にうつることにしよう。

(1)  Richard Lange, Die notwendige Teilnahme, 1940. ランゲの見解の概要については、Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 26ff.;Christoph Sowada, Die ]otwendige Teilnahmeals funktionales Privilegierungsmodell im Strafrecht, 1992, S. 46ff.;Osamu Magata, Die Entwicklung der Lehre von der notwendigen Teilnahme, Jura 1999, S. 247 を参照。ランゲの見解を詳しく紹介した9845語文献として、佐伯千仭「ランゲ『必要的共犯』」法学論叢四六巻二号(一九四二年)一四一頁以下、同「必要的共犯」同『共犯理論の源流』(一九八七年)二三七頁以下がある。
(2)  Lange, aaO (Anm. 1) S. 13ff.
(3)  Lange, aaO (Anm. 1) S. 15.
(4)  Lange, aaO (Anm. 1) S. 16.
(5)  Lange, aaO (Anm. 1) S. 16.
(6)  Lange, aaO (Anm. 1) S. 21f.
(7)  Lange, aaO (Anm. 1) S. 25f.
(8)  佐伯・前掲注(1)「ランゲ『必要的共犯』」一四一頁。
(9)  佐伯・前掲注(1)『共犯理論の源流』二四四頁以下参照。
(10)  佐伯・前掲注(1)『共犯理論の源流』二八六頁以下。佐伯説の概要とその位置づけについては、第一章第一節一(2)を参照。
(11)  佐伯・前掲注(1)『共犯理論の源流』二九五頁以下。
(12)  さらに、ランゲにおいては加担の程度を問わずすべて不可罰とされていた必要的加担者について、それが「消極的、受動的な地位を去って積極的なる造意者」となる場合は、もはや不可罰を導く違法性または有責性の欠如はみとめられず、共犯として処罰されうるとしたことも、佐伯説の特色といえる(第一章第一節一(2)参照)。もっとも、この点に対しては、さきに検討した「必要的共犯の理論」と同じ問題点が指摘されなければならない(本章第二節二参照)。
(13)  佐伯・前掲注(1)『共犯理論の源流』二九四頁。同様の説明を行うものとして、札幌地判昭和四一年七月二〇日下刑集八巻七号一〇二一頁、大阪地判昭和四九年五月三一日判例時報七五九号一一一頁、亀山継夫「破産犯罪に関する二、三の問題(その二)(2)」警察研究四〇巻三号(一九六九年)一一六頁。なお、大越義久『共犯論再考』(一九八九年)二〇八頁以下参照。
(14)  Gropp, aaO (Anm. 1) S. 207.
(15)  Gropp, aaO (Anm. 1) S. 207ff., 238.
(16)  Gropp, aaO (Anm. 1) S. 222.
(17)  Gropp, aaO (Anm. 1) S. 223f.
(18)  Gropp, aaO (Anm. 1) S. 229f.
(19)  Gropp, aaO (Anm. 1) S. 230f.
(20)  Gropp, aaO (Anm. 1) S. 231f.
(21)  グロップの研究の特徴は、その帰納的手法にある。すなわち、彼は、問題となりうる構成要件を刑法典、特別刑法、秩序違反法から網羅的に抽出し、正犯不法の分析を行い、そこに共通する正犯不法の質が「増幅作用」であることを明らかにしたのである。Gropp, aaO (Anm. 1) S. 121, 125ff., 206ff.
(22)  「増幅不法」という名称はグロップの用語(Multiplikatorunrecht)に依拠している。Gropp, aaO (Anm. 1) S. 135, 137, 214, 228, 229.

 

  三  不処罰の理論的根拠と範囲
  (1)  「増幅不法」による共犯処罰の限定とその範囲    これまでの検討から明らかになったことは、つぎの二点である。すなわち、共犯の成立は正犯不法の「質」によって限定されること(共犯が処罰されるためには共犯自身が「正犯不法と質的に合致した不法」を実現しなければならないこと)、および、本章で問題となる他者侵害的な片面的対向犯の正犯不法の「質」は、潜在的な「増幅作用」(出来事の中心である正犯が「不特定の第三者とくり返し共働する可能性」をもっていること)によって特徴づけられることである(増幅不法)。
  以上の前提から、つぎのことが結論づけられる。すわわち、本章で扱われるべき他者侵害的な片面的対向犯の場合、処罰規定を欠く必要的関与者が処罰されるためには、彼自身が、正犯不法と質的に合致した不法、つまり「増幅不法」を実現しなければならない、ということである。そして、ここから、正犯者によって提供された犯罪の機会を「利用」したにすぎない必要的関与者は不可罰であるという結論が導かれる。なぜなら、すでに存在する犯罪遂行の機会を「利用」しただけでは、「増幅不法を実現した」とはいえないからである。したがって、たとえば、すでに販売されている(あるいは販売される予定の)わいせつ文書を注文し、これを入手する行為は、形式的には教唆または幇助行為にあたるようにみえるけれども、不可罰になるのである。以下、このような不可罰の関与行為を、危険の中心(増幅不法)にではなく、その周辺に関与する行為という意味で、「周辺的な関与行為」と呼ぶことにしよう。これに対して、必要的関与者ではない任意の関与者が共犯(教唆犯、幇助犯)として可罰的とされるのは、そのような関与者は正犯の犯罪遂行の機会を「創出」する(増幅不法を実現する)からである。たとえば、倉庫の中に大量のわいせつ文書があるのを発見したAにそれを販売するようBが助言し、そのとおり当該わいせつ文書が販売された場合、Bがわいせつ文書販売罪の教唆犯として可罰的であることに疑いはないが、それは、BがAの犯罪遂行の機会を「創出」したということ、つまり、Bが正犯Aの不法と質的に合致する不法(増幅不法)を実現したということから説明できるのである(1)
  このように考えた場合、処罰規定のない必要的関与者の不処罰の範囲は、おのずと決まってくる。すなわち、正犯の犯罪遂行の機会を単に「利用」するにとどまる場合は、周辺的な関与者として不可罰になるが、正犯の犯罪遂行の機会を「創出」する場合は、増幅不法を実現したことになるから、可罰的であるということである。つまり、必要的関与者の可罰・不可罰の限界は、機会の「創出」と「利用」の間にあるのであって、必ずしも教唆と幇助の間にあるのでも、積極的関与と受動的関与(構成要件実現に必要不可欠の関与)との間にあるのでもない、ということである。たとえば、ある書店で販売されている、または販売される予定のわいせつ文書を自己に売るようそそのかす行為は、たとえそれが受動的な範囲をこえるもの(2)であったとしても、不可罰である。なぜなら、すでに販売され、または販売される予定のわいせつ文書を購入する行為は、わいせつ文書販売の機会の「利用」にとどまると解されるからである(3)。これに対して、その書店に置かれていない、しかも販売される予定もまったくないわいせつ文書を注文する行為は、ただちに不可罰であるとはいえない。そのような注文を受けて書店が注文どおりのわいせつ文書をはじめて調達することになったような場合は、注文者は当該わいせつ文書を販売する機会を新たに「創出」したと解されるので、可罰的である(4)

  (2)  不処罰の理論的根拠としての「比例原理」    以上のように、本章で扱われるべき諸犯罪の正犯不法(犯罪類型化された不法)の質が潜在的な「増幅作用」によって特徴づけられ(増幅不法)、この増幅不法を実現したかどうかが共犯の成否にとって決定的であるとすれば、つぎに、そもそもなぜ立法者は対向関係にある同じく他者侵害的な行為のうち潜在的な「増幅作用」をもつ行為のみを可罰的と評価して犯罪類型化し、他方(周辺的な関与行為)を犯罪類型化しなかったのかということが問われなければならない(5)。以下、この点について検討する。
  本章で問題としている他者侵害的な片面的対向犯の構造上の特徴は、一人の正犯がくり返し不特定の第三者と共働する可能性(潜在的な「増幅作用」)をもっていることである。たとえば、一〇〇〇冊のわいせつ文書の販売についてみると、一人の販売者(正犯)から一〇〇〇人の購入者(関与者)が発生しうるのである。ここで、すべての関与者を犯罪類型化して処罰することは、必ずしも適切なやり方とはいえないであろう。なぜなら、無数に発生しうる関与者のすべてに対して刑罰をもって対応したとしても、それにみあうだけの法益保護の効果は、必ずしも十分に期待できないからである(6)。右の例で、不法の「中心」(「増幅不法」の中心的な実現者)であるわいせつ文書一〇〇〇冊の販売者一人を販売罪の正犯として処罰することと、それに加えてさらに不法の「周辺」にいる一〇〇〇人のわいせつ文書の購入者をも「購入罪」の正犯として処罰することとの間に、法益保護の効果にどれほどの違いがあるのだろうか。むしろ、関与者のすべてを犯罪化することによって得られる法益保護の効果よりも、行為自由を制限し一〇〇〇人の犯罪者を作りだすことのデメリットのほうが大きいであろう。
  さらに、しばしばいわれるように、刑法はウルティマ・ラティオ(最後の手段)であるから、その使用が許されるのは、より穏やかな手段が他にない場合に限られなければならない。周辺的な関与行為の非犯罪類型化は、このことにも依拠すると解される(7)。たとえば、わいせつ文書の流通を阻止するためには、不法の「中心」である販売者のみを処罰するというより穏やかな手段があるのだから、不法の「周辺」にいる購入者までも処罰することは、刑法の最終手段性との関係でも問題になるのである。かくして、刑法の領域においては、可能なかぎり少ない犯罪化によって可能なかぎり多くの法益保護がなされるように刑法を運用することが要請される(8)。立法者が不法の「中心」(「増幅不法」の実現者)のみを犯罪類型化し、その「周辺」にいる関与者を犯罪類型化していないのは、この要請を受けたものと理解することができる。
  では、以上のことを説明するのにもっとも適した法原理は何か。それは、行為自由と法益保護の衡量を内在させている法原理でなければならない。このような要求をみたす法原理は、法治国家原則または憲法の基本権から導かれる「比例原理」(比例原則)である(9)。ここでいう「比例原理」とは、行為自由の制限はそれが法律目的の達成にとって最も適切かつ最も穏やかな手段である場合に限り許されるという意味である(10)。これによれば、たとえば、わいせつ文書の販売において販売者に加えて単なる購入者をも犯罪類型化して処罰することは、明らかに最も穏やかな手段の要請に反することになる。なぜなら、そこでの法律目的(健全な性的風俗の維持のために(11)わいせつ文書の流通を阻止すること)の達成のための手段としては、販売者のみを犯罪類型化するというより穏やかな手段があるからである(12)
  このようにして、周辺的な関与行為の非犯罪類型化、ひいてはその共犯としての不処罰は、「比例原理」によって基礎づけることができるのである。

  (3)  最高裁昭和四三年一二月二四日判決の意味    ところで、周知のように、最高裁も、「ある犯罪が成立するについて当然予想され、むしろそのために欠くことができない関与行為について、これを処罰する規定がない以上、これを、関与を受けた側の可罰的な行為の教唆もしくは幇助として処罰することは、原則として、法の意図しないところと解すべきである」として、形式的には教唆または幇助にあたる必要的関与行為について、不処罰となる余地を認めている(昭和四三年一二月二四日判決(13))。問題は、「原則として」とは具体的にどういう意味か、不処罰の実質的な根拠は何か、「ある犯罪が成立するについて当然予想され、むしろそのために欠くことができない関与行為について、これを処罰する規定がない以上」という部分はどのように理解されるべきか、にあるが、本稿でのこれまでの考察を前提にすれば、それは、つぎのように理解することができる。
  第二章で明らかにしたように、関与者が法益の主体である場合(「被害者」と呼ばれる者の関与(14))や、刑法が特定の者からの攻撃を法益の保護範囲から除外している場合(犯人による犯人蔵匿・証拠隠滅の教唆(15))は、他の法益・法規範を侵害しないかぎり、関与の程度を問わず、不可罰である(判例は後者については可罰的とするが)。また、本章で検討した他者侵害的な必要的関与行為(他人の利益や国家的・社会的利益を侵害する必要的関与行為)についても、それが周辺的な関与行為(正犯の犯罪遂行の機会の利用)にとどまるかぎり、不可罰である。このように、従来「必要的共犯」として、あるいはそれとの関連で論じられてきた関与形態は−形式的には共犯規定の網にかかるようにみえるけれども−多くの場合不可罰であって、可罰的な場合(他者侵害的な必要的関与行為のうち正犯の犯罪遂行の機会を創出する場合)は、まさに例外なのである。判例が「原則として」不可罰と述べたのは、このような意味に理解されるべきである。
  つぎに、不処罰の実質的根拠については、共犯の処罰根拠に関する「惹起説」を出発点にして考えることができる。「惹起説」とは、共犯自身が共犯固有の不法を実現しなければならず、かつ、その共犯不法は個々の構成要件から導かれる正犯不法と質的に合致した不法でなければならない、とする考え方である。これによれば、法益の主体(被害者)による関与や犯人蔵匿・証拠隠滅における犯人自身の関与は、正犯不法(「他人」の利益の侵害、「犯人以外の者の攻撃から保護されている」司法の侵害)と質的に合致した不法を実現しえないので、不可罰となる。また、他人の利益や国家的・社会的利益を侵害する片面的対向犯(他者侵害的な片面的対向犯)であっても、正犯不法と質的に合致した不法(本稿がこれまでに明らかにしたかぎりでは「増幅不法」)を実現しない関与行為(周辺的な関与行為)は不可罰である。このことは「比例原理」からの帰結でもある。判例は、形式的な「必要的共犯の理論」ないし「立法者意思説」(「犯罪成立の際に当然予想される関与行為なのに立法者があえて処罰規定を置かなかった」ことを根拠とする反対解釈)に依拠しているようにも読めるが(16)、そのように理解すべきではない。形式的な「必要的共犯の理論」(立法者意思説)は、前節で明らかにしたように、もはや支持しうるものではないからである(17)
  したがって、判例の、「ある犯罪が成立するについて当然予想され、むしろそのために欠くことができない関与行為について、これを処罰する規定がない」という部分は、不処罰の根拠ないし必要条件としてではなく、不処罰の関与行為を発見するための「形式的な手がかりの一つ」として理解すべきであろう(18)。つまり、「ある犯罪が成立するについて当然予想され、むしろそのために欠くことができない関与行為」を一応の「手がかり」として、問題となる犯罪の不法の特殊性を解明し、これによって必要的関与行為の不処罰を根拠づけ、あるいはその限界を論じるのである(19)(したがって「必要的共犯」の厳密な定義は必ずしも必要でない)。このように理解することによって、形式的な「必要的共犯の理論」のもつ問題性(不処罰の根拠の基盤の弱さ)を回避することができるとともに、厳密には「ある犯罪が成立するについて当然予想され、むしろそのために欠くことができない関与行為」とは必ずしもいいきれない関与形態(20)についても、判例の文言と矛盾することなく、「惹起説」および「比例原理」を一貫させて、不可罰と解することができるのである(21)

(1)  以上のような考え方については、とくに Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 206ff. を参照。
(2)  たとえば、「お前にはその値段では売りたくない」といわれて、「五万、いや一〇万円出すから売ってくれ」と食い下がるような場合である。
(3)  中山博士も、わいせつ文書の買主は単純に「被害者」とはいえないとしつつ、「結論的には、わいせつ文書の買受人は、自己への販売を通じてわいせつ文書を入手することが目的である限り、販売人が公衆の性的羞恥心の侵害の危険を理由に処罰されたとしても、その共犯として処罰されることはないというべきである。執拗性の程度というのも、自己に売らせるためであれば、犯罪の成否には関係がないものと思われる」(傍点筆者)と主張されている。中山研一「必要的共犯」中山研一・浅田和茂・松宮孝明『レヴィジオン刑法一共犯犯論』(一九九七年)一四六頁。本稿の試論は、このような主張に一定の理由づけを与えうるものと考える。もっとも、本稿によれば、つぎに本文で述べるように、自己に売らせるためであっても、同時に販売の機会をあらたに「創出」したと解される場合は、買受人も可罰的となりうる。
(4)  Vgl. Gropp, aaO (Anm. 1) S. 213. もっとも、書店に置かれていないわいせつ文書を注文する場合がすべて可罰的であるというわけではない。たとえば、書店の側に、顧客からの要望があればいつでも要望どおりのわいせつ文書を調達する用意ができているような場合は、すでに存在する販売の機会の「利用」として、不可罰と解すべきである。
(5)  同じく法益を侵害する行為であるにもかかわらず対向関係にある一方に処罰規定が置かれていない理由を、処罰に値する程の違法性(可罰的違法性)がないことに求める見解がある。たとえば、佐伯千仭「必要的共犯」同『共犯理論の源流』(一九八七年)二九四頁、亀山継夫「破産犯罪に関する二、三の問題(その二)(1)(2)」警察研究四〇巻二号(一九六九年)八〇頁、同三号(一九六九年)一〇九頁、一一〇頁、一一六頁。法益侵害性が低いとか義務違反性がないということがその理由とされている。しかし、法益侵害性が低く、あるいは義務違反性がなくても、他者侵害であることに変わりはない以上、(たとえば法定刑を軽くするなどして)可罰的と評価することも不可能ではない。それにもかかわらず、立法者はあえて不問に付したのであるから、さらに問われるべきは、立法者がそのように判断した、あるいは判断しなければならない理由である。可罰的違法性という言葉を借りるならば、なぜ立法者はその程度の違法性では可罰的違法性がないと評価したのか(しなければならないのか)ということである。
(6)  Vgl. Gropp, aaO (Anm. 1) S. 4.
(7)  Vgl. Gropp, aaO (Anm. 1) S. 211f.
(8)  Vgl. Gropp, aaO (Anm. 1) S. 212.
(9)  比例原理に着目して他者侵害的な片面的対向犯の不処罰を説明する見解として、Gropp, aaO (Anm. 1) S. 208ff.;ders., Strafrecht, Allgemeiner Teil, 1998, S. 343. 比例原理はもともとドイツ警察法において発展してきたものとされているが、最近のドイツでは、立法者をも拘束する一般的な法原理として承認されている。わが国でも、すでに田上穣治『警察法』(新版・一九八三年)七四頁において、「比例原則(Prinzip der Verhaltnisma¨ssigkeit)は、公共の福祉の必要と権利または自由の侵害が正当な比例を保つべきことであって、必ずしも警察にのみ適用されるものでなく、立法その他国権によって権利または自由を制限する場合に、広く適用される原則である」とされており、最近では、比例原理を意識的に導入しようとする動きが、従来の警察法、行政法以外の領域でも多くみられるようになってきている。また、比例原理の実定法上の根拠として、憲法一三条をあげる見解もでてきている。比例原理を扱ったわが国の比較的最近の文献として、高木光「比例原則の実定化ー『警察法』と憲法の関係についての覚書」芦部信喜先生古稀祝賀『現代立憲主義の展開・下』(一九九三年)二〇九頁、山下義昭「『比例原則』は法的コントロールの基準たりうるか−ドイツにおける『比例原則』論の検討を通して−(一)(二)(三・完)」福岡大学法学論叢三六巻一・二・三号(一九九一年)一三九頁、同三八巻二・三・四号(一九九四年)一八九頁、同三九巻二号(一九九五年)二四三頁、クラウス・シュテルン(小山剛訳)「過度の侵害禁止(比例原則)と衡量命令(一)(二・完)」名城法学四四巻二号(一九九四年)一五三頁、同三号(一九九五年)一二五頁、青柳幸一「基本権の侵害と比例原則」芦部信喜先生還暦記念『憲法訴訟と人権の理論』(一九八五年)五九九頁など。
(10)  比例原理の内容についての理解は必ずしも統一されていないが(この事情はドイツにおいても同様である)、一般的には、次のような内容をもつものと理解されている(広義の比例原理)。すなわち、@目的達成に役立つ手段であること(適合性)、A目的達成のために必要な手段であること(必要性)、B手段による侵害が目的たる利益と均衡を失していないこと(狭義の比例性)である。問題は、これらの部分原則の相互関係と具体的内容であるが、本稿は、これらの部分原則のうち@およびAに着目し、これを「最も適切かつ最も穏やかな手段であること」と理解する見解にしたがった。Vgl. Gropp, aaO (Anm. 1) S. 211. なお、Aの「必要性」を「最も穏やかな手段」を意味するものとして理解する見解は、手段の選択についての裁量をできるかぎり限定し、権利侵害を最小限度にとどめようとする立場から主張されているとされる。高木・前掲注(9)二二三頁以下参照。
(11)  団藤重光『刑法綱要各論』(第三版・一九九〇年)三一〇頁など。
(12)  Gropp, aaO (Anm. 1) S. 211 は、より具体的につぎのように説明している。「たとえば、Aが一〇〇〇冊の本を頒布しようとすれば、受領者に対する刑罰威嚇は、まず抽象的にはすべての潜在的な関係者に対して必要となり、具体的には、一〇〇〇冊の本が受領者に届きうることを阻止できなくても、極端な場合には一〇〇〇人の正犯を生みだすことになる。これに対して、頒布する行為者だけが犯罪化されるならば、一〇〇〇冊の本の送付から、同じ危険状態のもとで、一人の関与者のみの可罰性が生じる。この方が、行為自由に対する法の観点からみてより穏やかな方法であることは、より詳しい理由づけをまったく要しない。つまり、遠心的犯罪において周辺的な共働が可罰的であるとして類型化されていない場合、それは、比例性の一内容である最も穏やかな手段の原則に基づいているのである」。
(13)  最判昭和四三年一二月二四日刑集二二巻一三号一六二五頁。事案は、弁護士でない者に自己の法律事件の示談解決方を依頼し、報酬を支払った行為が、非弁活動を禁止する弁護士法七二条違反の罪の教唆に問われたというものである。第一審、二審はいずれも教唆犯の成立をみとめたが、最高裁はこれを無罪とした。本判決の評釈として、西原春夫「判批」判例タイムズ二三四号(一九六九年)八九頁、西村克彦「必要的共犯論の反省(一)(二・完)」判例時報六〇三号(一九七〇年)一二頁、同六〇五号(一九七〇年)七頁、神山敏雄「必要的共犯」平野龍一編『刑法の判例』(第二版・一九七三年)一六〇頁、中義勝「必要的共犯」平野龍一・松尾浩也編『刑法判例百選T総論』(第二版・一九八四年)一八八頁、北野通世「必要的共犯」松尾浩也・芝原9845爾・西田典之編『刑法判例百選T総論』(第四版・一九九七年)一九八頁など。サ
  なお、のちに最高裁は、いわゆる導入預金に関する最判昭和五一年三月一八日刑集三〇巻二号二一二頁において、「通常予想される行為に止まるもの」を不可罰としている。もっとも、この判例については、必要的共犯の問題として処理すべき事例ではないという見方もある。平野龍一「必要的共犯について」同『犯罪論の諸問題(上)』(一九八一年)一九八頁。さらに、大越義久『共犯論再考』(一九八九年)一〇二頁以下参照。
(14)  第二章第二節参照。
(15)  第二章第三節参照。
(16)  これが従来の一般的な理解と思われる。たとえば、大越・前掲注(13)二〇七頁、北野・前掲注(13)一九八頁、生田勝義「必要的共犯」別冊法学セミナー法学ガイド一〇刑法T(総論)(一九八七年)一七八頁、西田典之「必要的共犯」阿部純二・板倉宏・内田文昭・香川達夫・川端博・曽根威彦編『刑法基本講座・第四巻』(一九九二年)二六六頁。さらに、中山・前掲注(3)一四三頁参照。
(17)  もっとも、立法者の意思を、単なる形式的な反対解釈としてではなく、特定の者(法益の主体や犯人蔵匿・証拠隠滅における犯人)の攻撃からは法益を保護しようとしていないとか、「比例原理」を尊重して周辺的関与行為の犯罪化を避けようとしていると理解するならば、本稿のような考え方は、そのような意味での「立法者意思説」ということができるであろう。
(18)  必要的共犯概念のこのような理解については、Gropp, aaO (Anm. 1) S. 125ff., 343;Osamu Magata, Die Entwicklung der Lehre von der notwendigen Teilnahme, Jura 1999, S. 253 を参照。
(19)  このように考えた場合、本判例(前掲最判昭和四三年一二月二四日刑集二二巻一三号一六二五頁)の事案(非弁活動を禁止する弁護士法七二条違反の罪の教唆)は、つぎのように処理されることになる。まず、本罪の保護法益は何かが問題となる。本罪の保護法益は、弁護士の職業上の利益ではなく、弁護士でない者に事件の解決を依頼する者の法的生活であると解するならば、事件の解決を依頼する者は法益の主体(いわゆる「被害者」)であり、この者の攻撃から法益は保護されていないので、依頼者は、他の法規範に違反しないかぎり、関与の程度を問わず不可罰となる(第二章第二節一参照)。「被害者」の地位にあることを根拠に依頼者を不可罰とする見解として、平野・前掲注(13)一九七頁、北野・前掲注(13)一九九頁、内田文昭「判批」警察研究四四巻一〇号(一九七三年)一二八頁、中義勝『講述犯罪総論』(一九八〇年)二一八頁、大越義久『共犯の処罰根拠』(一九八一年)二三七頁。しかし、本罪の保護法益は依頼者の利益ではなく、弁護士の職業上の利益であると解することも可能である(このように解する見解として、神山・前掲注(13)一六四頁)。これを前提にすれば、依頼者の関与は被害者の関与ではなく、むしろ他人の利益を害する他者侵害的な関与ということになろう。もっとも、本罪については、「私利をはかってみだりに他人の法律事件に介入することを反復継続するような行為を取り締まれば足りるのであって、同条は、たまたま、縁故者が紛争解決に関与するとか、知人のため好意で弁護士を紹介するとか、社会生活上当然の相互扶助的協力をもって目すべき行為までも取り締まりの対象とするものではない」(最判昭和四六年七月一四日刑集二五巻五号六九〇頁)との理解が可能である。すなわち、本罪の不法の質は、潜在的な「増幅作用」によって特徴づけられると解される。したがって、この場合、依頼者の関与行為の可罰性は、「周辺的な関与行為か否か」によって判断されることになる。サ
  最高裁は、「当事者その他の関係人らの利益をそこね、法律生活の公正円滑な営みを妨げ、ひいては法律秩序を害する」ことを防止するのが本罪の目的であると解している(前記最判昭和四六年七月一四日刑集二五巻五号六九〇頁)。「法律秩序」が保護法益であるならば、たしかに依頼者は単純に「被害者」とはいえない。しかし、依頼者を含めた国民一般の利益から離れて「法律秩序」そのものを保護しているとは解されないので、依頼者はそのかぎりでは本罪の法益主体である。すなわち、依頼者は「一部被害者、一部加害者」ともいうべき地位にあるといえよう。このような前提に立つならば、依頼者の関与行為は単純な「被害者」と同じく、他の法規範に違反しないかぎり不可罰である(第一章第二節二参照)。
(20)  犯人による犯人蔵匿の教唆について、たとえば団藤重光『刑法綱要総論』(第三版・一九九〇年)四三三頁。このような関与形態については、関与者の「存在」は概念上必要であるが、関与者の「行為」は必要でないから、必要的共犯ではなく、したがって共犯として可罰的である、と説明される。しかし、このような説明はもはや維持しえないように思われる。というのも、関与者の「行為」は必要ではないが、「存在」は当然に必要であるから、関与者は不可罰である、とした下級審判例(確定)があらわれているからである(熊本地判平成六年三月一五日判例時報一五一四号一六九頁。これについてはのちにあらためて検討する)。このような判例を合理的に説明するためにも、「ある犯罪が成立するについて当然予想され、むしろそのために欠くことができない関与行為」であることは、不処罰の根拠ないし必要条件としてでなく、「不処罰の関与行為を発見するための一応の手がかり」として理解せざるをえないのである。
(21)  裏を返せば、個々の犯罪、あるいは一定の共通する性格をもった犯罪群の不法の特殊性を解明する「手がかり」になるという限度では、形式的な必要的共犯の概念には(その厳密な定義はいらないにせよ)なお一定の意味があるということである。わが国には、必要的共犯の概念は不要であるとする見解もみられるが、それが厳密な定義は不要ということではなく、概念そのものが不要であるという趣旨であるならば、行きすぎであろう。たしかに、「必要的共犯の理論」(立法者意思説)のように、必要的共犯の概念から直接的に一定の効果(可罰・不可罰)を導き、これによって問題の解決をはかろうとするのは、すでに述べたように、妥当でない。しかし、だからといって、ただちに必要的共犯の概念そのものが不要ということにはならないのである。


  四  個別的検討
  最後に、以上の考え方をもとにして、判例(裁判例)の存在するいくつかの事例に個別的検討を加えてみることにしよう(1)

  (1)  債権者庇護罪(破産法三七五条三号)    破産法三七五条三号は、破産の際に債務者が特定の債権者に対して優遇弁済を行うことを処罰しているが、優遇弁済を受けた債権者については処罰規定がない。そこで、破産法三七五条三号に違反する優遇弁済を債務者から受けた特定の債権者が、その共犯として処罰されうるかが問題となる(2)
  破産を目前にした債務者は、債権を無事に回収したい債権者たちを強く引き寄せることのできる立場にある。つまり、債権者庇護罪は、一人の正犯者(債務者)が複数の第三者(債権者)を任意に同一の法益侵害(総債権者の利益の侵害ないしその危険(3))に向けられた犯罪行為に巻き込むことが可能であるという構造をもっている。したがって、本罪の正犯不法の質的な特徴は、潜在的な「増幅作用」にあると解される(増幅不法(4))。このような理解によれば、庇護される特定の債権者の関与行為は、周辺的な関与行為(債務者の提供する債権の満足の機会を利用する行為)にとどまるかぎり、不可罰と解される。判例(下級審判例)も、理由づけは異なるが、結論的に、そのような機会の利用にとどまる関与行為は不可罰と解しているものと思われる(5)

  (2)  強制執行妨害罪(刑法九六条の二)    強制執行妨害罪において処罰の対象とされている行為は、強制執行を免れる目的での財産の隠匿、損壊、仮装譲渡、および仮装の債務の負担である。これらの行為のうち、仮装譲渡と仮装債務負担は、それぞれ相手方の行為が必要であると解する余地があるので、その相手方の関与行為について、それが必要的共犯として不可罰か、それとも任意的共犯として可罰的かが問題とされてきた。
  下級審の判例には、仮装債権者について、仮装債務者と仮装債権者はいわゆる必要的共犯(対向犯)の関係にはないから、当然に刑法総則の共犯規定は適用されるとして、これを処罰したものがある(6)。学説は、右の判例の立場に賛成するもの(7)と不処罰の余地を認める見解(8)とに分かれている。思うに、本罪は、「究極するところ債権者の債権保護をその主眼とする規定(9)」と解されること、一人の正犯者が強制執行を妨害するために不特定の第三者の中から任意に仮装債権者を仕立てあげ、これを同一の法益侵害に向けられた犯罪行為に巻き込むことが可能であるという構造をもっていることから、前に行った債権者庇護罪についての考察が、ここでもそのまま妥当する。したがって、仮装債権者の関与行為は原則として不可罰であり(周辺的関与行為の不処罰)、ただ、それが仮装債務者の犯罪(強制執行妨害)遂行の機会を創出したといえる場合のみ可罰的であると解される。仮装譲渡の相手方についても同様である。
  以上にように解するならば、さらに、仮装譲渡・仮装債務負担以外の「隠匿」「損壊」に関与した者も、単なる日常的な取引の当事者のような周辺的関与者にとどまるかぎり、不可罰と解すべきであろう。これらの者を仮装譲渡・仮装債務負担の相手方と区別してとくに不利益に扱うべき理由は存在しないからである(10)(11)

  (3)  出資法三条(浮貸し等の禁止)違反の罪    出資法(出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律)は、その三条(浮貸し等の禁止)において、「金融機関(銀行、信託会社、保険会社、信用金庫、信用金庫連合会、労働金庫、労働金庫連合会、農林中央金庫、商工組合中央金庫並びに信用協同組合及び農業協同組合、水産業協同組合その他の貯金の受入れを行う組合をいう。)の役員、職員その他の従業員は、その地位を利用し、自己又は当該金融機関以外の第三者の利益を図るため、金銭の貸付、金銭の貸借の媒介又は債務の保証をしてはならない」と規定し、八条一項で、これに違反した者について「三年以下の懲役若しくは三百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する」こととしている。この出資法三条(浮貸し等の禁止)違反の罪では、金銭貸付の際の相手方当事者、金銭貸借の媒介の際の金銭消費貸借契約の当事者である貸主および借主、債務保証の際の相手方当事者の関与は、本罪成立にとって当然に予想される必要的な関与であるにもかかわらず、これを処罰する規定を欠いている。また、本罪の保護法益は、当該金融機関の信用ないし一般預金者大衆の利益と解されている(12)。そこで、これらの関与者が本罪の他者侵害的な共犯として処罰されるかが問題となる。
  ところで、そもそも「浮貸し」が処罰されるのは、なぜであろうか。その理由は、一般に、つぎのことに求められている。すなわち、本罪の規制の対象は金融機関一般の役職員その他の従業員(以下「役職員」とする)ではなく、受信業務を行う金融機関(以下「金融機関」とする)のそれである。金融機関の業務は、他人の金銭を預かり、それを運営管理することであるが、それは当該金融機関に対する一般預金者大衆の信頼を最大の前提条件とする。したがって、金融機関の役職員は預金の運営管理を公正に行う義務を負うのであって、当該金融機関に対する一般預金者大衆の信用を損ねるような行為を行ってはならない。もし金融機関の役職員が当該金融機関の業務の遂行としてでなく、その地位を利用したサイドビジネスとして融資等を行うと、それによって、本来その業務が公正に運営されるべき公共性を有する金融機関に対する一般預金者大衆の信頼が損なわれ、ひいては金銭を預ける者一般に損害を生じさせることになるおそれがある。そこで、このようなサイドビジネスを行うことを禁止し、これを処罰することにした、と説明されている(13)
  では、本罪の処罰対象が特定の金融機関の役職員の行為に限定され(身分犯)、それ以外の関与者、とりわけ「浮貸し」の成立にとって必要不可欠な借主等の行為を処罰の対象としなかった理由は何であろうか。ひとつは、これらの金融機関の役職員には一般預金者大衆の信用を損ねないように預金の運営管理を公正に行う義務があるが、それ以外の者にはそのような義務がないことに求められよう。もうひとつの理由は、「浮貸し」は役職員としての地位を利用したサイドビジネス、つまり不特定の者を相手とする反復可能性のある取引行為として行われるからこそ処罰に値するだけの違法性(危険性)があるが、「浮貸し」の相手方となる行為は通常は一回きりで反復可能性がないがゆえに処罰に値しないと立法者が判断した、ということに求めることができるであろう。つまり、本罪は、身分犯としての側面もあるが、それと同時に、潜在的な「増幅作用」を正犯不法の質的特徴とする犯罪でもあるということである。したがって、ここでも、「周辺的な関与行為の不処罰」の考え方が妥当する。判例も、融資の媒介を受けた融資の当事者には原則として本罪の共犯は成立しないとしている(14)

  (4)  児童福祉法三四条一項六号違反の罪(児童に淫行をさせる罪)    児童福祉法三四条一項六号は、児童(一八歳に満たない者)の福祉を害する行為として「児童に淫行をさせる行為」を禁止し、これに違反した者を十年以下の懲役または五〇万円以下の罰金に処するとしているが(同法六〇条一項)、淫行をした児童やその相手方となった者については、処罰規定が置かれていない。このうち、淫行をする児童は、本罪の被害者(法益の主体)なので、本罪の共犯として処罰されることはない(15)。問題は、その相手方の関与行為の可罰性である。
  まず、児童による淫行の相手方となる行為が、「児童に淫行をさせる行為」に含まれるか否かを検討しなければならない。判例および一部の学説は、「させる」は児童に対する使役の動詞にすぎず、文言上、それ自体で児童の淫行の相手方の範囲を限定したものと解釈するのは困難であること、児童の健全な育成保護という児童福祉法の趣旨からすれば、自らが淫行の相手方となった場合にこれを処罰しないとする合理的理由はないこと、などを理由として、自ら淫行の相手方となる行為も「児童に淫行をさせる行為」に含まれるとしている(16)。しかし、このような解釈は妥当でないように思われる。「淫行をさせる行為」とは、「児童に働きかけて第三者との淫行を実行させる営利的または常習的な行為(17)」(営利的・常習的な「仲介行為」)に限定されると解すべきである。なぜなら、そうでないと、「淫行をする行為」が青少年保護育成条例でせいぜい一年程度の懲役でしかないのに、「淫行をさせる行為」は児童福祉法で最高一〇年もの懲役が予定されていることが説明できないからである(18)。「淫行をさせる」と「淫行をする」とは概念上明確に区別されるべきであり、児童による淫行の相手方となる行為(「淫行をする」行為)は「児童に淫行をさせる行為」にはあたらず、児童福祉法三四条一項六号違反の罪の正犯としては処罰されえないものと解すべきである(19)
  つぎに、児童による淫行の相手方が第三者に仲介行為を依頼した場合に、依頼者が仲介者の共犯(教唆犯・幇助犯)として処罰されうるかが問題となる。下級審判例には、これを教唆犯として処罰したものがあるが(20)、これも妥当でないように思われる。右にみたように、本罪の正犯行為は、「営利的・常習的な仲介行為」に限定されるとみるべきであるが、そうだとすれば、本罪の正犯不法の質は潜在的な「増幅作用」(不特定の第三者との共働の反復可能性)によって特徴づけられると解される(増幅不法)。よって、本罪についても、「周辺的関与行為の不処罰」の考え方が妥当する。そして、正犯行為を「営利的・常習的な仲介行為」と解するならば、児童による淫行の相手方は共犯としても不可罰となる。というのも、仲介行為が営利的・常習的になされるということは、仲介の機会はすでに存在しているということにほかならず、したがって、仲介を依頼した淫行の相手方はそのような仲介の機会を利用したにすぎない不可罰の周辺的関与者と解されるからである。
  もっとも、児童による淫行の相手方が同時に仲介者(営利的・常習的な仲介行為を行う者)でもある場合は、話は別である。というのも、仲介者が自ら相手方となる場合には、その仲介行為が同時に第三者に対する仲介行為にあたる場合も含まれうるからである。このような場合は、単純に児童による淫行の相手方となる場合とは、事情は異なるとみるべきであろう。すなわち、仲介者がもっぱら自己との淫行のためだけに淫行の相手となる児童を探す場合は不可罰であるが、自ら淫行の相手方となる仲介者が同時に第三者に対しても淫行の機会を提供するような場合は、本罪の正犯として可罰的となる余地があると解されォュ08(21)(22)ォュ08。もっとも、その仲介行為が「営利的・常習的な仲介行為」といえることが前提である。

  (5)  軽油引取税不納付の罪(地方税法七〇〇条の二八)    最後に、軽油引取税不納付の罪の手助けになることを知りながら軽油を安く購入する行為が、本罪の共犯として処罰されるかについて検討したい。というのも、熊本地判平成六年三月一五日判例時報一五一四号一六九頁が、この問題について、注目すべき判断を下したからである。
  本判決は、軽油引取税の徴税の仕組み(23)を利用してその脱税を敢行した脱税犯行グループから、このような犯行の意図を知りつつ通常よりも安い値段で軽油を購入した被告人の行為が、右犯行グループの実行した軽油引取税不納付罪の共犯(共同正犯または幇助)にあたるとして起訴された事案に対し、@被告人は「単なる取引当事者」としての地位にとどまること、および、A犯行グループとこのような地位にある被告人は「必要的共犯類似の関係」にあり「必要的共犯の理論」が「類推」されることを根拠に、被告人は共同正犯はおろか幇助犯にもならないとしたものである(確定)。
  本判決についての評釈は今のところあまり見あたらないが、唯一、「日常的な取引活動は、たまたま相手方の犯行を促進することが認識されたとしても、それだけではまだ、共犯にはならない」という「日常取引(中立的行為)と共犯」の観点から、本判決を肯定的に評価しようとする見解があるのが注目される(24)。もっとも、本件については、このような観点に依拠せずに、本稿で展開した「周辺的な関与行為の不処罰」の考え方によって、被告人の不処罰を説明することも可能である。
  判決理由によると、本判決のいう「必要的共犯類似の関係」とは、つぎのような認識にもとづいている。すなわち、本来の不可罰的な必要的共犯は関与者の「行為」を必要とする。しかし、犯罪の成立に関与者の「行為」は必要でなくても、その「存在」が必要不可欠である場合には、必要的共犯類似の関与者として不可罰と解する余地がある、との認識である。そして、本件については、「不納入罪の実行行為それ自体は、単独で行えるわけであるから、本罪は厳密には本来の必要的共犯ではないと解されるけれども、軽油の引渡しによって特別徴収義務者に生ずる徴収義務及び納入義務違反の罪であるから、やはり引取人即ち買主の存在を前提とした犯罪であるし、そもそもこの軽油引取税という税は、元来軽油の引取人の側に課税される税であり、税法上引取人が納税義務者とされているわけであるから、その点を考えても、この不納入罪は軽油の引取人即ち買主の存在を不可欠のものとしているというべき」であり、さらに、犯行グループの犯行態様については「その一連の脱税計画の全体を本罪の共同実行と観念して実行共同正犯の成立を認めるべきであるところ、こうした態様による本罪の敢行は決して特異なものではなく、むしろ現実に刑事処分の対象として重視されるのはこの種の計画的な脱税行為であるであることにも注目すべき」であり、「このような犯行態様の場合には、軽油を購入する相手方の存在は、まさしくこの意味での実行行為の成立自体に必要不可欠なわけである」として、単なる買主は売主たる特別徴収義務者の共同正犯または教唆・幇助犯として処罰されるべきでない、としたのである。もっとも、買主の地位にある関与者がすべて不可罰とされているわけではなく、たとえば犯行に消極的だった者に執拗に働きかけて犯行の決意をさせるなど、通常以上の強い教唆行為をした場合は可罰的であるとされている。しかし、本件被告人については、単なる軽油の買主にすぎず、そのような強い教唆行為を行ったとは認められないから、結論的に、「必要的共犯の理論の類推」から、不可罰とされているわけである。
  このようにみてくると、本判決は、A「必要的共犯の理論の類推」をベースにしつつ、そこに@「単なる『買主』という特殊な地位に立つこと」を加味することによって、被告人の不処罰を導いたものと理解することができる。そして、Aの部分は、本稿が否定してきた「必要的共犯の理論」を前提としているようにみえるけれども、@とあわせてこれを実質的にみるならば、本稿の「周辺的関与行為の不処罰」の考え方と同一の観点に立つものとみることができる。というのも、検察官が論告で軽油の購入者が処罰された事例を取りあげたことに対して、本判決は、その事案における購入者は「いわば一連の脱税取引の企画実行の中心的存在とみなされたものであって、単純な軽油の購入者に過ぎない本件被告人の事案とは、本質的に異なると言うべきである」として、検察官の主張をしりぞけているからである。そこには、犯罪遂行(不法)の中心的存在ではない周辺的な関与者(単なる「買い手」という機会の「利用」にとどまる関与者)は不可罰と解すべきであるという、「周辺的関与行為の不処罰」の考え方と共通の思考が現れているように思われる。
  もちろん、軽油引取税不納付罪は、軽油の売買でなく、軽油引取税の特別徴収義務者が軽油引取税を納入しないことを処罰するものであるから、本罪の正犯不法を「増幅不法」(不特定の第三者との共働の反復可能性を質的特徴とする不法)とみることは難しい。したがって、本罪は、厳密には、本章がこれまでに取り上げてきた頒布・販売その他の取引行為を行為態様として記述する諸犯罪とは異なる。しかし、本判決でも述べられているように、本罪は、軽油の売買がなければ軽油引取税の特別徴収義務も発生しないという意味では、不特定の第三者との共働(軽油の売買)があってはじめて成立しうる犯罪である。この点において、本罪は、取引行為を記述する犯罪(潜在的な「増幅作用」を不法の質的特徴とする犯罪)に類似する性格をもっているのである。本判決のいう「必要的共犯類似の関係」とは、実質的にはこのことを指しているとみることができるであろう。そのかぎりで、本罪についても、「比例原理」を基礎とする「周辺的な関与行為の不処罰」の考え方は妥当するとみなしてよい。このような観点からみるならば、本判決は、「周辺的関与行為の不処罰」の考え方がわが国の実務において妥当していることを示す恰好の素材ということができるであろう。

(1)  他者侵害的な片面的対向犯は、特別刑法をも視野に入れると、相当な数にのぼることが予想される。以下で検討するもののほかにも、たとえば、外国原盤商業用レコードの無断複製物の頒布(著作権法一二一条の二)、児童ポルノの頒布(児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律七条)、事業外貸付の罪(農業協同組合法九九条、消費生活協同組合法九八条など)、名義貸し禁止違反の罪(宅地建物取引業法一三条、七九条三号、古物営業法九条、三一条三号、質屋営業法六条、三〇条、道路運送法三三条、九六条二号など)、弁護士の汚職(弁護士法二六条、七六条)などがある。これらの犯罪についての個別的検討はここでは割愛せざるをえないが、結論だけ述べれば、これらの犯罪においても、機会の利用にとどまる周辺的な関与行為は不処罰であると解される。
(2)  この問題を扱った主な文献として、佐伯千仭『共犯理論の源流』(一九八七年)二九四頁、亀山継夫「破産犯罪に関する二、三の問題(その二)(1)(2)」警察研究四〇巻二号(一九六九年)七一頁、同三号(一九六九年)一〇七頁、同「破産法」伊藤栄樹・小野慶二・荘子9845雄編『注釈特別刑法・第五巻・経済法編T』(一九八六年)七〇一頁、臼井滋夫「特別刑法犯と共犯」伊藤栄樹・小野慶二・荘子9845雄編『注釈特別刑法・第一巻・総論編』(一九八五年)四八五頁。裁判例として、札幌地判昭和四一年七月二〇日下刑集八巻七号一〇二一頁、大阪地判昭和四九年五月三一日判例時報七五九号一一一頁など。
(3)  亀山・前掲注(2)「破産法」七〇七頁。
(4)  たしかに、本罪の場合、犯罪に巻き込まれる第三者は任意の第三者ではなく、債権者の範囲内の第三者にかぎられる。しかし、不特定(複数の債権者のうちどの債権者が選ばれるかは不特定である)の第三者との共働の反復「可能性」を内容とする「増幅不法」にとって、同種の犯罪行為が具体的にどのぐらいの回数で可能であるかは重要でない。この点については、Walter Gropp, Deliktstypen mit Sonderbeteiligung, 1992, S. 229 を参照。
(5)  前掲大阪地判昭和四九年五月三一日判例時報七五九号一一一頁参照。本判決は、「債権者の行為も違法でないとはいえないが、それは全債権者に対し公平に弁済をなす義務を負う債務者の場合と同視できない」こと、「責任の面でも債務者の提供してきた担保、代物弁済等を拒否することまで通常の債権者に期待するのは困難である」ことから、債権者の「通常予想される関与行為」は不可罰であると述べているが、本判決で実際に不可罰とされた債権者の行為は、具体的にみれば、まさに債務者から提供された弁済受領の機会を利用する行為であった。
(6)  東京高判昭和四九年五月二八日判例時報七五七号一二四頁。本判決の評釈として、亀山継夫「いわゆる必要的共犯理論について」研修三一九号(一九七五年)七一頁。
(7)  亀山・前掲注(6)七六頁(仮装債務負担は対向犯的性質をもつ行為であるが同罪の規定の趣旨から相手方は不可罰ではない)、江家義男『増補刑法各論』(一九六三年)二九頁、柏木千秋『刑法各論(上)』(一九六〇年)八九頁、大塚仁『刑法概説(各論)』(第三版・一九九六年)五八〇頁、内田文昭『刑法各論』(第三版・一九九六年)六三二頁、中森喜彦『刑法各論』(第二版・一九九六年)三〇五頁(仮装の譲渡・債務負担の相手方は法益侵害行為を共同にするのであるから共犯と見るべきである)、西田典之『刑法各論』(一九九九年)四一二頁。
(8)  藤木英雄『刑法講義各論』(一九七六年)三一頁(本罪は必要的共犯の関係にある者の一方のみを罰する規定であるので、少なくとも、債務者の通常の依頼に応じて仮装譲渡の相手方、仮装債権者となっただけの場合には、処罰の対象としない法意と解すべきであろう)、大谷實『刑法講義各論』(第四版補訂版・一九九八年)五三七頁(これら二つの犯罪類型は、相手方が存在して初めて犯罪が成立する必要的共犯と解すべきであるから、相手方について処罰規定を欠く現行刑法のもとでは、債務者の依頼に応じて引き受けたような通常の態様の場合には共犯にはならないと解すべきである)、前田雅英『刑法各論講義』(第二版・一九九五年)四九九頁(仮装譲渡と仮装の債務を負担する行為は、必要的共犯なので、通常の態様でその相手方となった加担者は共犯として処罰されることはない)。
(9)  最判昭和三五年六月二四日刑集一四巻八号一一〇三頁。
(10)  Gropp, aaO (Anm. 4) S. 324 も、自己に強制執行のさし迫った際に債権者の満足を妨害する目的でその財産の構成部分を「処分」または「除去」する行為を処罰するドイツ刑法の強制執行妨害罪(ドイツ刑法二八八条)について、それらの行為の際の取引の相手方は周辺的な関与者であるかぎり不可罰であるとしている。
(11)  このように解するならば、詐欺破産罪(破産法三七四条)において仮装譲渡・不利益処分等の相手方となった者の関与行為も、周辺的なそれであるがぎり、不可罰となろう。すなわち、詐欺破産の際の仮装譲渡等は三七四条一号の「隠匿」にあたるとされ、詐欺破産罪の処罰対象とされている。そして、詐欺破産罪は強制執行妨害罪と罪質を同じくするものと解されている(亀山・前掲注(6)七六頁。なお、西田・前掲注(7)四一〇頁)。そうだとすれば、強制執行妨害罪で仮装譲渡の相手方が不可罰とされる以上、詐欺破産罪においても、仮装譲渡の相手方は不可罰であると解するのが一貫した解釈であろう。そして、「隠匿」の一態様である仮装譲渡の相手方が不可罰であるならば、さらに、他の態様による取引の相手方(たとえば不利益処分の相手方として財産を譲り受けた者)も、強制執行妨害罪におけるのと同じく、単なる日常的な取引行為の相手方のような周辺的な関与者である場合は、不可罰と解すべきであろう。なぜなら、ここでも、仮装譲渡の相手方だけを特別扱いする理由はないからである。これに対し、亀山・前掲注(6)七六頁においては、本稿とは反対に、詐欺破産罪で仮装譲渡の相手方は処罰されるという前提から、罪質を同じくする強制執行妨害罪における仮装譲渡の相手方を不可罰とするのは不均衡であると主張されている。しかし、この前提自体必ずしも自明のことではないのだから、このように処罰する方向で両者の均衡を保つ必然性はない。
(12)  上嶌一高「浮貸し等の罪」西田典之編『金融業務と刑事法』(一九九七年)一一三頁参照。
(13)  山口裕之「出資法三条(浮貸し等の禁止)違反の罪」金融法務事情一二七五号(一九九一年)一七頁以下、岩原紳作「浮貸しの罪の要件(上)」金融法務事情一四二九号(一九九五年)八頁以下参照。
(14)  東京地判平成六年一〇月一七日判例時報一五七四号三三頁。本判決は、被告人が住友銀行大塚支店長Xと共謀の上、有価証券の売買等を営業目的とするA商事の実質的経営者であるBから金融の斡旋方を依頼されたことから、Xにおいてその支店長の地位を利用して、被告人、XおよびA商事等の利益を図るため、同支店の顧客であるCに対し、A商事に対する金銭の貸付方を勧誘し、さらにCを同社代表取締役ら同社関係者に紹介するなどして、金銭消費貸借契約を成立させ、もって金銭貸借の媒介をし、さらに、前記大塚支店長Xおよび住友銀行青葉台支店長Yと共謀の上、Bから金融の斡旋方を依頼されたことから、XおよびYにおいてそれぞれその支店長の地位を利用し、被告人、X、YおよびA商事等の利益を図るため、青葉支店の顧客であるDに対し、A商事に対する金銭の貸付方を勧誘し、さらにDを同社代表取締役ら同社関係者に紹介するなどして、金銭消費貸借契約を成立させ、もって金銭貸借の媒介をするなどした、という公訴事実に対して、つぎのように述べて、被告人を無罪とした。「本罪に該当する融資の媒介が行われた場合において、媒介を受けた融資の当事者に本罪の共同正犯が成立しないことは、本罪の処罰対象が融資の媒介という行為それ自体であることから明らかというべきであり、また、本罪が成立する場合には、融資を受けることを欲する者が融資の媒介を依頼することが当然に予想されるにもかかわらず、右の行為を処罰する規定を欠いていることからすると、これを本罪の教唆あるいは幇助として処罰することも、原則として法の予定しないところと解される」。「そして、融資の媒介という概念自体が、『他人の間に立って』その他人の間に金銭消費貸借契約が成立するように尽力することを意味することからすれば、融資の当事者だけでなく、融資の一方当事者との関係、融資に際しての行動の状況及び関係者の認識等に照らして、いずれか一方の当事者の代理人ないしこれに準じる者等当事者側の立場にあったと認められる者については、融資の媒介をした金融機関の役職員との間に共同正犯を含む本罪の共犯は成立しないと解するのが相当である」。本件において、被告人は、実質的な借主であるBの「代理人ないしこれに準じる立場にあり、借主側の一員であったといわざるを得ない」から、被告人には、「本件融資媒介について、本罪の共同正犯を含む共犯は成立しないと解される」(この点については本判決で確定)。
  本稿の立場から、本判決を検討しておこう。この判決には、共犯論にかかわる重要な論点が二つ含まれている。ひとつは、融資の媒介を受けた当事者が共犯として処罰されるかという問題(通常の「必要的共犯」の問題)であり、もうひとつは、(不可罰と解される)媒介を受けた融資の当事者に対する関与(本件被告人の関与はこれである)が共犯として処罰されるかという問題(「必要的共犯への関与」の問題)である。後者の問題については、あとで「第三者的共犯」として章を改めて検討する予定であるので(第四章参照)、ここでは、本章の射程に含まれる前者の問題についてのみ触れておく。さて、すでに明らかにしたように、本罪についても「周辺的な関与行為の不処罰」の考え方が妥当する。したがって、媒介を受けた融資の当事者は、その関与行為が周辺的な関与行為(融資の媒介の機会を利用するにすぎない行為)にとどまるかぎり、不可罰と解される。右判決は、かの最高裁昭和四三年一二月二四日判決(刑集二二巻一三号一六二五頁)を引用していることもあり、たしかに、形式的な「必要的共犯の理論」ないし「立法者意思説」に依拠しているようにも読める。しかし、前に行った右最高裁判決に関する検討の中で述べたように、そのような読み方は妥当ではない。本件判決の「本罪が成立する場合には、融資を受けることを欲する者が融資の媒介を依頼することが当然に予想されるにもかかわらず、右の行為を処罰する規定を欠いていることからすると」という部分も、媒介を受けた融資の当事者の不処罰の根拠ないし必要条件としてではなく、「(周辺的な関与行為の不処罰の原則から)不処罰となりうる関与行為を発見するための一応の手がかり」として理解されるべきである。
(15)  もっとも、淫行をした児童の関与行為が同時に他の児童の淫行の「仲介」にあたる場合は、このかぎりではない。なお、被害者(法益の主体)の関与行為の不処罰については、第二章第二節を参照。
(16)  中学校の教師であった被告人が、教え子の女子生徒に電動バイブレーターを与えてその操作方法を教え、被告人のいるところで自慰行為をさせたという事案に対し、最高裁は、「児童に淫行をさせる罪」の成立をみとめている。最決平成一〇年一一月二日刑集五二巻八号五〇五頁。同決定の原審である東京高判平成八年一〇月三〇日判例時報一五九六号一二〇頁も、「『児童に淫行させる行為』は文理上は、淫行をさせる行為をした者が児童をして行為者以外の第三者と淫行をさせる行為と行為者が児童をして行為者自身と淫行させる行為の両者を含むと読むことができる。児童福祉法の基本理念や同法三四条一項六号の趣旨目的に照らせば、同号にいう淫行の相手方が行為者以外の第三者であるか、それとも行為者であるかは、児童の心身に与える有害性という点で、本質的な差異をもたらすべき事項とは考えられない」として、被告人に本罪の成立をみとめている。その他の下級審判例として、東京家判平成一〇年四月二一日家裁月報五〇巻一〇号一五六頁(児童福祉法三四条一項六号は、児童の福祉保護を直接の目的とするもので、児童に対して事実上の影響力を行使してみずから淫行の相手方として淫行をさせた者は、直接児童の福祉を阻害する者であり、規定の文言上も、淫行の相手方が除かれると考える根拠は見当たらない、といわなければならない)、東京高判昭和五八年九月二二日判例時報一一〇一号一二三頁(児童福祉法違反の場合には、自ら淫行の相手方となる者であっても、児童に淫行させる行為の正犯資格を付与するに何ら障害は存しない)など。このような結論を支持する見解として、小泉祐康「児童福祉法」研修二五二号(一九六九年)一〇五頁、亀山継夫「児童に淫行をさせる罪(その二)・完」研修三四七号(一九七七年)六一頁、六二頁、北島敬介『福祉犯罪−解釈と実務』(一九七九年)六九頁、中森喜彦「判批」同志社法学三三巻四号(一九八一年)一〇一頁、本田守弘「判批」研修五七九号(一九九六年)二二頁、山口幹夫「判批」警察公論五二巻二号(一九九七年)一一八頁、鈴木彰雄「判批」判例時報一六四〇号(一九九八年)二四一頁(判例評論四七四号六三頁)、松本裕「判批」警察公論五四巻二号(一九九九年)一三四頁、黒川弘務「判批」研修六〇九号(一九九九年)一六頁、同「判批」警察学論集五二巻六号(一九九九年)一七五頁など。
  なお、本罪と児童買春等の罪(児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律四条以下)との関係について、西田典之・鎮目征樹「児童の性的保護−児童買春・児童ポルノ処罰法の成立を契機に」法学教室二二八号(一九九九年)三七頁、木村光江「児童買春等処罰法」ジュリスト一一六六号(一九九九年)六七頁参照。
(17)  大山弘・松宮孝明「判批」法学セミナー五一五号(一九九七年)七五頁。
(18)  大山・松宮・前掲注(17)七五頁。なお、東京高判平成八年一〇月三〇日判例時報一五九六号一二〇頁は、法定刑のバランスを説明するために、「淫行させた」といえるためには、「淫行をする行為に包摂される程度を越え、児童に対し、事実上の影響力を及ぼして淫行するように働きかけ、その結果児童をして淫行するに至らせることが必要である」との見解を示しているが、このような限定は無意味であろう。というのも、大山・松宮・前掲注(17)七五頁で指摘されているように、「児童に対し、事実上の影響力を及ぼして淫行するように働きかけ、その結果児童をして淫行するに至らせること」は「淫行する」行為に含まれないとはいえないし、仮にこれが「働きかける行為と児童の淫行との間に因果関係が必要である」という趣旨だとしても、そもそも児童と「淫行する」行為の場合は淫行の相手方の行為がなければこれを相手とする児童の淫行があり得ない以上、「淫行する」行為は児童の淫行に対してつねに因果関係を有することになるからである。
(19)  同様の結論をとる裁判例として、福岡家裁小倉支判昭和三五年三月一八日家裁月報一二巻七号一四七頁、札幌家判昭和四一年九月二〇日家裁月報一九巻八号一六八頁、東京高判昭和五〇年三月一〇日家裁月報二七巻一二号七六頁、高知家判昭和五〇年八月一三日家裁月報二八巻三号一一一頁など。学説として、大山・松宮・前掲注(17)七五頁、西田・前掲注(7)八二頁、内田文昭「判批」研修三八四号(一九八〇年)六頁、澤新・長島裕「児童福祉法」伊藤榮樹・小野慶二・荘子9845雄編『注釈特別刑法・第八巻・医事・薬事法・風俗関係法編』(一九九〇年)七九〇頁など。
(20)  名古屋高判昭和五四年六月四日判例時報九五五号一三六頁、東京高判昭和五八年九月二二日判例時報一一〇一号一二三頁、神戸家判昭和六〇年五月九日家裁月報三七巻一二号七七頁など。
(21)  Vgl. Gropp, aaO (Anm. 4) S. 322.
(22)  下級審判例には、児童に淫行させることを共謀した者が自ら当該児童の淫行の相手方となった場合にも本罪の共同正犯が成立するとしたものがある(東京家判平成九年七月一一日・公刊物未登載)。本判決の評釈として、吉田統宏「判批」警察学論集五〇巻一〇号(一九九七年)一九七頁。
(23)  軽油引取税は、都道府県および政令指定都市の道路経費にあてるため、都道府県が軽油の流通過程(軽油が消費者の手に渡るまでの間の一定の流通段階)において課す一種の流通税で、軽油の「引取」(民法の「引渡」に対応する概念)を課税客体とするものである。軽油引取税については、川俣芳郎「軽油引取税(1)(2)」税経通信四二巻三号(一九八七年)四二頁、同四号(一九八七年)三七頁などを参照。
(24)  松宮孝明『刑法総論講義』(第二版・一九九九年)二六四頁、同「共犯の因果性」法学教室二〇二号(一九九七年)四一頁。「日常取引(中立的行為)と共犯」の問題は、最近ドイツでさかんに議論されている。代表的な文献として、Heribert Schumann, Strafrechtliches Handlungsunrecht und das Prinzip der Selbstverantwortung der Anderen, 1986, S. 54ff.;Wolfgang Frisch, Tatbestandsma¨βsiges Verhalten und Zurechnung des Erfolgs, 1988, S. 248ff.;Claus Roxin, Zum Strafgrund der Teilnahme, in:Festschrift fu¨r Stree und Wessels, 1993, S. 378ff.;ders., in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 19ff.;Gu¨nther Jakobs, Akzessorieta¨t. Zu den Voraussetzungen gemeinsamer Organisation, GA 1996, S. 253ff.;Marcus Wohlleben, Beihilfe durch a¨uβserlich neutrale Handlungen, 1996;Brigitte Tag, Beihilfe durch neutrales Verhalten, JR 1997, S. 49ff.;Thomas Weigend, Grenzen strafbarer Beihilfe, in:西原春夫先生古稀祝賀論文集・第五巻(一九九八年)一九〇頁以下。なお、シューマンとロクシンの見解については、斉藤誠二「共犯の処罰の根拠についての管見」下村康正先生古稀祝賀『刑事法学の新動向・上巻』(一九九五年)一頁以下、ヤコブスの見解については、松宮孝明・豊田兼彦「ギュンター・ヤコブス『従属性−共同組織化の前提条件について−』」立命館法学二五三号(一九九七年)一九六頁以下を参照。この問題は、わが国では今のところほとんど議論されていないが、共犯(とりわけ幇助)の因果性や共犯の処罰根拠と関連する重要問題であると思われる。しかし、本稿はこの問題を直接のテーマとするものではないので、その検討は今後の課題としておきたい。


第四節  小      括

  本章では、「必要的共犯」とよばれている問題のうち、共犯の処罰根拠に関する学説である「惹起説」によってもこれまで十分には不処罰が説明されてこなかった、他人の利益や社会的な法益を侵害する「他者侵害的な片面的対向犯」について検討が行われた。本章を締めくくるにあたって、その内容をここでもう一度確認しておこう。
  前章(第二章)で検討した諸犯罪、すなわち、必要的関与者が被害者(法益主体)である犯罪、および刑法が特定の者(犯人)からの攻撃を(期待不可能性などの理由により)法益の保護範囲から除外している犯罪(犯人蔵匿罪・証拠隠滅罪)については、構成要件該当結果(「他人の利益」の侵害、「犯人以外の者の攻撃から保護されている司法作用」の侵害)の惹起を共犯の処罰根拠とする「惹起説」から、被害者や犯人の関与の不処罰を説明することができた。しかし、本章で扱われた諸犯罪、たとえばわいせつ文書販売罪、債権者庇護罪、児童に淫行をさせる罪などにおいては、わいせつ文書の買主、庇護される債権者、淫行の相手方などの必要的関与者はそれぞれ社会的な法益や他人の利益を侵害するので、これまでのように「構成要件該当結果の惹起」を問題にするだけでは、それらの者の関与行為の不処罰は十分に説明できない。
  そこで、ドイツの判例・通説は、「構成要件実現にとって必要不可欠な関与行為は不可罰である」とする「必要的共犯の理論」を用いた。それは、債権者庇護罪において債権者が優遇弁済を単に受領したにすぎない場合を不可罰とするために、ドイツのライヒ裁判所の判例をきっかけに生成したもので、まさに本章が扱った「他者侵害的な必要的共犯」の不処罰を説明するための理論であった。そこでは、構成要件の実現にとって必要不可欠な関与行為は不可罰であるが、その範囲をこえる関与行為は共犯として可罰的であるとされ、その理論的な根拠は、「立法者は対向犯において双方の関与行為を可罰的と宣言する場合はつねにこれを明文で規定するのであり(たとえば賄賂罪)、その反対の結論として、構成要件上必要最小限度の関与行為は明らかに不可罰である」(ロクシン)という反対解釈に求められていた。
  しかし、この理論は、不処罰の範囲、不処罰の理論的根拠に決定的な問題を抱えていた。そこには、不処罰の範囲がどうしても不明確なものとならざるをえず、また反対解釈(立法者意思)を不処罰の根拠とすることについては「循環に陥る」という、無視しえない問題があったのである。そして、このことは、ドイツの理論をモデルにしたわが国の「必要的共犯の理論」(立法者意思説)にもあてはまるのである。
  そこで、本章は、ふたたび「惹起説」を出発点として、あらたな解決の方法はないか探ってみることにした。まず、「惹起説」とは、共犯者自身が「正犯不法と質的に合致した不法」を実現しなければならないとする理論であり、共犯の処罰は、問題となる各則構成要件の解釈から明らかとなる正犯不法の「質」によって限定されるということを確認した。そして、正犯不法の「質」には、「他人の死、傷害」といった「構成要件該当結果の他人性」以外のものもありうるのではないかと予想し、本章で扱われるべき諸犯罪の正犯不法の「質」を解明する作業を行った。その結果、それらの犯罪の正犯不法の「質」は、潜在的な「増幅作用」(不特定の第三者との共働の反復可能性)によって特徴づけられることが明らかにされた(増幅不法)。
  そして、以上のことから、つぎの結論が導かれた。すなわち、本章で扱われるべき他者侵害的な必要的関与行為については、それが正犯の犯罪遂行の機会の単なる「利用」にとどまるかぎり、不可罰であるということである。なぜなら、機会の単なる「利用」にとどまる「周辺的な関与行為」によっては、正犯不法と質的に合致した不法(増幅不法)は実現されないからである。これに対して、正犯の犯罪遂行の機会を「創出」した場合は、増幅不法を実現したことになるので、可罰的である。不処罰の範囲、すなわち可罰・不可罰の限界は、教唆と幇助の間にあるのでも、積極的関与と消極的・受動的関与(構成要件上必要最小限度の関与)の間にあるのでもなく、正犯の犯罪遂行の機会の「創出」と「利用」の間にあるということになる。
  さらに、本章は、正犯不法の質的な特徴が潜在的な「増幅作用」である根拠、つまり、立法者が対向関係にある同じく他者侵害的な行為のうち潜在的な「増幅作用」をもつ行為のみを可罰的と評価して犯罪類型化し、他方の「周辺的な関与行為」を犯罪類型化しなかった理由を、「比例原理」(行為自由の制限はそれが法律目的達成にとって最も適切かつ最も穏やかな手段である場合に限り許されるとする原理)に求めた。「周辺的な関与行為」の非犯罪類型化、さらにはその共犯としての不可罰性は、より根本的には、法治国家原則ないし憲法の基本権から導かれる「比例原理」によって基礎づけられるということである。
  では、以上のように考えた場合、わが国の判例の「ある犯罪が成立するについて当然予想され、むしろそのために欠くことができない関与行為について、これを処罰する規定がない以上、これを、関与を受けた側の可罰的な行為の教唆もしくは幇助として処罰することは、原則として、法の意図しないところと解すべきである」という部分は、どのように理解されるべきであろうか。本章は、「ある犯罪が成立するについて当然予想され、むしろそのために欠くことができない関与行為について、これを処罰する規定がない」という部分は、不処罰の根拠ないし必要条件としてではなく、不処罰の関与行為(とりわけ他者侵害的な不処罰の関与行為)を発見するための「形式的な手がかりの一つ」として理解すべきであるとした(したがって「必要的共犯」の厳密な定義は必ずしも必要でないということになる)。そうすれば、「必要的共犯の理論」のもつ問題性を回避することができるし、さらに、厳密には「ある犯罪が成立するについて当然予想され、むしろそのために欠くことができない関与行為」とはいえない関与形態(犯人による犯人蔵匿・証拠隠滅の教唆、軽油引取税不納付の手助けとなることを知りながら軽油を安く購入する行為など)についても、判例のこの部分の文言と矛盾することなく、「惹起説」および「比例原理」を一貫させて、不可罰と解することができるからである。
  以上の考察をふまえて、最後に、わが国の判例で問題となったいくつかの事例を個別的に検討した。さしあたり本章では、債権者庇護罪(破産法三七五 条三号)における債権者、強制執行妨害罪(刑法九六条の二)における仮装譲渡・仮装債務負担の相手方、浮貸し等の禁止違反の罪(出資法三条、八条一項)における金銭貸付・債務保証の相手方または融資の媒介の相手方、児童に淫行をさせる罪(児童福祉法三四条一項六号、六〇条一項)における児童による淫行の相手方、および軽油引取税不納付の罪(地方税法 七〇〇条の二八)における軽油販売の相手方である買主について、それらの者の関与行為が不可罰とされる根拠および範囲は、「周辺的関与行為の不処罰」の考え方によって説明できることを明らかにした。
  本章での検討内容の概要とその結論は以上のとおりである。これで、一般に「必要的共犯(片面的対向犯)」と呼ばれている関与形態については、ひととおりの検討が終わったことになる。本稿のこれまでの考察によれば、「必要的共犯(片面的対向犯)」という用語の下で議論されてきた犯罪は、大別して、二つの類型に分けることができる。ひとつは、法益保護の欠如により特定の者の関与行為が不可罰とされる犯罪であり(第二章)、もうひとつは、周辺的な関与行為が不可罰とされる犯罪である(第三章(1))。これらについては、いずれも「共犯が成立するためには共犯自身が正犯不法と質的に合致した不法を実現しなければならない」とする「惹起説」を基礎に、前者については「構成要件該当結果の他人性」という正犯不法の質から、後者については「増幅不法」から(2)、必要的関与行為の不処罰の根拠と範囲が導かれたのである(3)
  しかし、本稿には、もうひとつ検討すべき問題が残されている。必要的共犯(対向犯)に対する第三者の関与(第三者的共犯)の問題である。このような関与形態は、本章でも簡単に触れたように、実際にわが国の判例の中にあらわれている(4)。にもかかわらず、これまでわが国の学説はこれを正面から取りあげてこなかった。問題性すら十分に意識されていない、といったほうがよいかもしれない。次章では、これまでの考察をふまえて、この「第三者的共犯」の問題について検討することにしよう。

(1)  両者は必ずしも排他的な関係にあるわけではない。両者にまたがる犯罪もある。たとえば、児童に淫行をさせる罪は、淫行をする児童の不処罰に着目すれば第二章に位置づけられるが、淫行の相手方となった者の不処罰に着目すれば第三章に分類されることになる。
(2)  もちろん、これ以外にも正犯不法の質的特徴がありうることを排除する趣旨ではない。また、軽油引取税不納付罪における軽油の購入者の不処罰が示すように、正犯不法そのものは「増幅不法」でなくても、正犯不法の前提であるという意味でそれと不可分一体の関係にある取引行為については、「周辺的な関与行為の不処罰」は妥当する。
(3)  ここで、不処罰の根拠の体系的地位について言及しておこう。まず、被害者の関与について、わが国には、「違法性が阻却される」と説明する見解がある。たとえば大越教授は、「猥褻文書販売罪の買い手、弁護士法七二条違反の罪の依頼者の場合には、相手方の行為が違法であっても、被害者の地位に基づいて相対的に違法性が阻却されるので、不可罰になる」と説明される。大越義久『共犯の処罰根拠』(一九八一年)二六〇頁。しかし、被害者の関与は、本稿によれば、共犯の処罰根拠である「構成要件該当結果の惹起」を欠く(被害者自身は構成要件該当結果である「他人の死」や「他人の傷害」を実現できない)のであるから、違法阻却以前に、すでに「共犯の類型」に該当しないものと解される。犯人による犯人蔵匿・証拠隠滅の教唆についても同様である。Vgl. Claus Roxin, in:LK, 11. Aufl., 1993, Vor § 26 Rdn. 38f.;Stefan Seel, Begu¨nstigung und Strafvereitelung durch Vorta¨ter und Vortatteilnehmer, 1999, S. 52ff. また、周辺的な関与行為も、共犯の処罰根拠である「正犯不法と質的に合致した不法(増幅不法)の実現」を欠く行為であるから、はじめから「共犯の類型」に該当しないものと解される。
(4)  東京地判平成六年一〇月一七日判例時報一五七四号三三頁(本章第三節四(3)参照)。

 本稿は、平成一一年度(一九九九年度)文部省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。

[補追]
  脱稿後、林幹人『刑法各論』(一九九九年)に接した。林教授は、前号(二六四号)で検討した犯人による自己蔵匿の教唆について、期待可能性の欠如を理由にこれを不可罰とされているが、その際、「法益侵害性(司法作用を害する程度)は、他人を利用した場合の方が、犯人一人で行った場合に比して類型的に高まる」とする前田教授の見解(前田雅英『刑法各論講義』(第二版・一九九五年)五一二頁)に対して、「しかし、たとえば、捜査機関にすでに知られた友人に対して蔵匿を教唆したり、身代わり犯人を出頭させることを教唆したりしたために、足が付くというような場合もあるから、一概にそのようにいうことはできない」(四六〇頁)と指摘されているのが注目される。