立命館法学  一九九九年五号(二六七号)


◇研究ノート◇
憲法院と政治部門の相互作用に関する議論の現況
−オリビエ・シュラメックとアレック・ストーンの所論を中心に−



蛯    原    健    介




目    次
一  は じ め に
二  政府活動に対する憲法院判例の影響
−オリビエ・シュラメック論文の紹介
三  立憲政治−アレック・ストーン論文の紹介
四  検    討

一  は じ め に


  近年、エクス・マルセイユ第三大学教授ルイ・ファヴォルー(Louis Favoreu)をはじめとするいわゆる「エクサンプロヴァンス学派」(L’e´cole d’Aix−en−Provence(1))を中心に、フランスにおける憲法院研究ならびに憲法裁判研究の顕著な発展がみられる。その最近の傾向としては、@合憲解釈のアプローチをはじめとする憲法院のコントロール技術に関する研究の進展(2)、A憲法解釈に関する議論の展開(3)、B個別的な判例分析の蓄積、C平等原理、個人の自由、財産権などといった各論領域における本格的研究の出現(4)、D民事法・刑事法にかかわる憲法院判例研究の進展(5)などが指摘される。そしてまた、憲法院と政治部門の関係、あるいは、憲法院と裁判機関の関係の問題も、憲法院判例の蓄積とそれにともなう相互作用の活発化を背景として、最近学界の関心を集めつつあるテーマのひとつといえよう。
  フランスにおいて、憲法院と政治部門・裁判機関の相互作用を取り扱った業績は決して少なくないが、そのなかでもとくにギヨーム・ドラゴ(Guillaume Drago)の著書『憲法院判決の実現』(L’execution des decisions du Conseil constitutionnel, Economica, 1991)が注目される。ジャック・ロベール(Jacques Robert)元憲法院判事が「実に見事なテーズ」(une bien belle the`se(6))と絶賛したこの研究書は、憲法院と政治部門・裁判機関の相互作用を「対抗関係」(relations conflictuelles)という視角からとらえるのではなく、法律作成過程における憲法院と政治部門の「協働関係」(relations de collaboration)、法適用過程における憲法院と裁判機関の「協働関係」という概念を提示し、相互作用の実態について実証的かつ体系的に分析するとともに、それらの相互作用を通じた憲法の具体化を提唱するものである(7)
  憲法院と政治部門・裁判機関の相互作用のあり方に関心を向けるドラゴのアプローチは、その後の研究動向に少なからぬ影響を及ぼすこととなる。たとえば、Louis Favoreu et Thierry Renoux, Le contentieux constitutionnel des actes administratifs, Sirey, 1992;Joe¨l Andriantsimbazovina, L’autorite des decisions de justice constitutionnelles et europeennes sur le juge administratif franccdais, LGDJ, 1998 では、憲法院と行政裁判所の相互作用(8)が分析され、また、Nicolas Molfessis, Le Conseil constitutionnel et le droit prive, LGDJ, 1997 では、憲法院と司法裁判所の相互作用が取りあげられており、いずれもドラゴの提示した分析枠組を取り入れ、あるいはそれを発展させたものとして位置づけることができよう。
  また、ドラゴが主催者のひとりとなったコロック『憲法院判例の正当性』(一九九六年)においては、憲法院判例の起源、憲法院と民主主義をめぐる問題とともに、相互作用の問題が取りあげられており、憲法院判例が政治部門や裁判機関にいかなる影響を与えたか、という観点からの考察がおこなわれている。最近公表されたコロックの報告集 Guillaume Drago, Bastien Francois et Nicolas Molfessis (dir.), La legitimite de la jurisprudence du Conseil constitutionnel, Economica, 1999 をみてみると、その内容は以下のとおりである。
  序文(Georges Vedel)
    第一部  憲法院判例の生成源および着想源
  憲法院判例の着想源(Philippe Jestaz)
  私法−憲法院判例の源泉(Nicolas Molfessis)
  憲法院判例における私法(Georges Rouhette)
  憲法院判例における労働法(Thierry Revet)
  憲法院による行政法の統合(Franck Moderne)
  公法および私法の学説の影響−政治学者の観点から(Bastien Francois)
    第二部  憲法院判例の承認と影響
  政府活動に対する憲法院判例の影響(Olivier Schrameck)
  立憲政治(Alec Stone Sweet)
  私法における憲法院判例(Georges Rouhette)
  民事訴訟と憲法(Bernard Beignier)
  破棄院における憲法的論拠(Yves Capron)
  フィクション−憲法院判例なき刑法(Jacques−Henri Robert)
  合憲解釈の影響(Thierry Di Manno)
  憲法院は権限裁判所として認められるうるのか?(Thierry S. Renoux)
    第三部  憲法院・「法治国家」・民主主義
  憲法院判例の必要性(Philippe Malaurie)
  憲法院は本当に人権を保護するのか?(Yves Poirmeur)
  憲法院判例と代表民主制(Marie−Joe¨lle Redor)
  憲法判例−いかなる「民主主義的必要性」なのか?(Dominique Rousseau)
  Dominique Rousseau の分析に関する若干の指摘(Michel Troper)
    第四部  総括と結論
  総括(Louis Favoreu)
  結論(Francois Terre´)
  以上が報告集『憲法院判例の正当性』に収められている諸論文である。本書には、憲法学者のみならず、私法学者、政治学者、さらには弁護士も寄稿しており、多角的な検討がおこなわれている。そこでは、憲法院判例の根拠は確実なものなのか、憲法院判例はあらゆる法分野に影響を及ぼしているのか、法体系が憲法院判決に起因する憲法的衝撃を受けていることは明らかなのか、憲法判例はフランスの法秩序の機能や民主主義にとって不可欠であるのか、といった問題が取り扱われており、いずれの論文も、憲法院をめぐる問題状況を理解するにあたり、きわめて示唆的である。最近、第五共和国憲法四〇周年、憲法院四〇周年に際して、いくつかの論文集が公刊されているが、本書は、そのなかでも最も重要な文献の一つといえよう。
  ところで、本書のなかで、憲法院と政治部門・裁判機関との相互作用の問題は、主に第二部で扱われている。憲法院と政治部門の関係は、Olivier Schrameck, Alec Stone Sweet, Thierry Di Manno の論文で検討され、また、憲法院と裁判機関の関係は、Georges Rouhette, Bernard Beignier, Yves Capron, Jacques−Henri Robert, Thierry S. Renoux の論文で取りあげられている。
  本稿では、残念ながら本書に収められたすべての論文について詳しく紹介する余裕はない。そこで、とくに憲法院と政治部門の関係について興味深い分析をおこなう Olivier Schrameck と Alec Stone Sweet の二論文を中心に、相互作用の問題をめぐる最近の学説の動向を紹介し、議論の特徴を解明する手がかりとしたい(なお、本稿でこれらの論文を引用・参照する場合、ページ数のみ記載する。また、本稿中、一段下げてある部分は論文の要約であり、〔  〕内は引用者が補完した部分である)。

(1)  「エクサンプロヴァンス学派」(L’e´cole d’Aix−en−Provence)という表現は、Guillaume Drago, Contentieux constitutionnel francdais, PUF, 1998, p. 10 のほか、ルイ・ファヴォルー『憲法裁判所』(山元一訳)敬文堂(一九九九年)一六〇頁でも用いられている。
(2)  Thierry Di Manno, Le juge constitutionnel et la technique des decisions interpretatives en France et en Italie, Economica, 1997;Alexandre Viala, Les reserves d’interpretation dans la jurisprudence du Conseil constitutionnel, LGDJ, 1999 など。なお、合憲解釈の技術については、蛯原健介「憲法院判例における合憲解釈と政治部門の対応(一−二・完)」立命館法学二五九号−二六〇号を参照。
(3)  Michel Troper, Pour une theorie juridique de l’Etat, PUF, 1994;Yann Aguila, Le Conseil constitutionnel et la philosophie du droit, LGDJ, 1994 など。フランスにおける憲法解釈論の動向につき、詳しくは、山元一「フランスにおける憲法解釈論の現況」比較憲法史研究会編『憲法の歴史と比較』日本評論社(一九九八年)三九二頁以下などを参照。
(4)  Ferdinand Me´lin−Soucramanien, Le principe d’egalite dans la jurisprudence du Conseil constitutionnel, Economica, 1997;Pierre Cambot, La protection constitutionnelle de la liberte individuelle en France et en Espagne, Economica, 1998;He´le`ne Pauliat, Le droit de propriete dans la jurisprudence du Conseil constitutionnel et du Conseil d’Etat, Tome I−II, PUF, 1994 など。なお、平等原理をめぐる最近の理論状況については、糠塚康江「国家像の変容と平等原則」関東学院法学八巻一号を参照。
(5)  Marc Frangi, Constitution et droit prive, Economica, 1992;La Cour de Cassation et la Constitution de la Republique, PUAM, 1995;Nicolas Molfessis, Le Conseil constitutionnel et le droit prive, LGDJ, 1997 など。
(6)  Bulletin bibliographique, RDP, 1991, p. 1773.
(7)  このようなドラゴの見解については、蛯原健介「法律による憲法の具体化と合憲性審査(四・完)」立命館法学二五五号一九六頁以下を参照。
(8)  憲法院と行政裁判所の相互作用については、蛯原健介「フランス行政裁判における憲法院判例の影響(一−二・完)」立命館法学二六三号−二六四号を参照。


二  政府活動に対する憲法院判例の影響
−オリビエ・シュラメック論文の紹介


  オリビエ・シュラメックの論文「政府活動に対する憲法院判例の影響」(L’influence de la jurisprudence du Conseil constitutionnel sur l’action gouvernementale)は、憲法院判例が政府活動にいかなる影響を及ぼしているのかについて、憲法院事務総長(secre´taire ge´ne´ral du Conseil constitutionnel)の立場から分析したものである。わずか一〇頁程度の短い論文とはいえ、従来、論じられることが少なかった政府の対応、とくに政府事務総局(secre´tariat ge´ne´ral du gouvernement)における対応の実態が描き出されており、注目に値する。なお、政府事務総局とは、首相付で設置される事務組織であり、その目的は、政府活動の総体の指揮、すなわち、法律・行政立法の起草における政府活動の集約、閣議およびその他の会議体の事務局、公文書作成業務の指揮において首相を補佐することにある、とされる(9)
1  序    論
  まず、シュラメックは、政府活動に対する憲法院判例の影響を検討するにあたり、憲法院の予防的コントロールの性格ゆえに、この問題が適切に論じられてこなかったことを指摘する。すなわち、予防的コントロールの原則からすれば、違憲とされた法律の適用は予防される一方、合憲判決が出された場合には、政府は合憲性に関する懸念や不安から解放されることとなり、政府活動への影響は存在しないように思われるが、実際には、政府の懸念は、暗部に隠されているのであり、その懸念こそ、フランスの法秩序の変化についての全体像を把握するためにも重要な問題である、とみるのである(一〇七頁)。
  そのうえで、シュラメックは、問題の対象をつぎのように限定している。
  まず、政府活動に課される法的拘束の一環をなすものとして、政府が抱く「合憲性に関する懸念」(pre´occupations de constitutionnalite´)に着目すべきである(一〇八頁)。
  「合憲性に関する懸念」は、法律制定作業の場面で集中的にみられる。たしかに、憲法院によるコントロールの主たる対象となる法律に関心が集まるということは、論理的であるように思われる。アレック・ストーン氏のように、議会の立法活動に対する憲法院判例の影響について関心を差し向けることもできる。しかし、法律制定作業以外にも命令制定などの場面で「合憲性に関する懸念」がみられるのであり、そこでは、コンセイユ・デタが重要な役割を果たすこととなる。政府は、コンセイユ・デタのコントロールの下で、命令制定などの行政活動の適法性に留意するのであり、また、コンセイユ・デタには法案準備段階での警告および助言の役割も与えられているからである(一〇八頁)。
  最後に指摘しなければならないのは、憲法判例が政府活動の全領域をくまなくカバーするものではないことである。適用される規範の性格、法改正の頻度、または提訴の危険性次第で、憲法判例の蓄積内容には差異がみられる。たとえば、外国人の権利や予算法にかかわる憲法判例は豊富に存在し、影響力も強いように思われるが、一部の公的活動や民事法の領域についていえば、かならずしも憲法の直接的影響が及ぼされているわけではない(一〇八頁)。
  以下、本論文では、最初に政府活動のなかで憲法判例への配慮がみられた事例が取りあげられ、そのとき政府に課された問題の諸相が概略的に紹介される。つぎに、その問題の解決に際し、憲法院事務総長の果たす役割が論じられる。そして最後に、憲法判例がよりよく配慮されるようになるためには、いかなる改善が必要であるかが問題とされるのである。
2  憲法判例への配慮にもとづき政府活動に課される問題の諸相
  ここでシュラメックは、憲法院判例への配慮が、政府活動のなかでどのように現れているのかを紹介している。いかなる形態の政府活動であっても憲法判例に適合しなければならない、と考えるシュラメックは、デクレ、大臣アレテおよび共同大臣アレテを含む、各種の指令や通達のなかで、憲法判例への配慮がみられるという(一〇九頁)。ここではとりわけ、デクレの制定、政府における法案作成作業、議会審議における法案修正などの場面で、政府事務総局がいかに憲法判例に配慮しているかという問題が取り扱われている。
  憲法三七条二項の手続にしたがいデクレが制定される場合、デクレの発案権は関係省庁にあり、関係省庁は、デクレの要約文書を政府事務総局に送付する。これに応じて、政府事務総局は、そのデクレに関係する過去のL型判決〔憲法三七条二項の手続による法律事項・命令事項の判断に関する憲法院判決〕だけではなく、法律と命令の権限に関する一般的な憲法院判例も考慮して、憲法院が承認するかどうかを検討する。政府事務総局は、デクレの草案を提出するよう各省に求めるとともに、命令にゆだねられる範囲は具体的であるか、提出文書のなかで目的や背景が詳細かつ明確に説明されているか、関連する判例に言及されているか、などについて確認する。そして、このような手順は細部まで尊重されているのである(一〇九ー一一〇頁)。
  しかし、最初に強調したように、「合憲性に関する懸念」は、法案作成の場面で集中的にみられる。首相から各大臣および各大臣補佐に対して出された一九九五年五月一九日の通達は、法案作成に関する明確な指示を含むものである。その通達のなかで、首相は、各大臣に、憲法および憲法院判例の厳格な尊重を要請している。その内容は、以下のとおりである(一一〇頁)。
  作成中の法案に含まれる憲法適合性の問題を注意深く検討すること。あらかじめ政府事務総局に問題を付託し、政府事務総局にも検討を求めること。コンセイユ・デタが法案を綿密に審査することができるような立法準備作業のスケジュールを決めること。すなわち、政府事務総局からコンセイユ・デタへの法案移送は、緊急の場合を除いて、少なくとも閣議四週間前におこなうこと。そして、法案作成中に生じた合憲性に関する問題をためらうことなくコンセイユ・デタに伝えることである(一一〇頁)。
  この通達のなかで生々しい懸念が表明されているとはいえ、合憲性コントロールを前提とした懸念であることに変わりはない。いずれにしても、ここではコンセイユ・デタの立場が決定的であり、政府がそれを無視するのはまれである。憲法院もまた、コンセイユ・デタの立場に最大限配慮している(一一〇頁)。
  これに対して、議会において法案が修正される場合には、政府は過酷な状況におかれる。なぜなら、議会では、コンセイユ・デタの審査なしに法案修正がおこなわれるのであり、そこで修正された規定が憲法院によって違憲とされることも少なくないからである。また、政府事務総局は、違憲の批判に十分対処できるわけではない。すなわち、前掲通達は、合憲性の問題を提起する可能性のある修正案を政府事務総局に通知することを命じているが、実際には、内閣は、議会審議における妥協の過程に巻き込まれるのであり、そこではそもそも自分の立場を擁護するために合憲性の問題に言及するにすぎない。議会審議に目を配り、政府事務総局に対して警告を発するスタッフがおかれているものの、人数の少なさや責任の重さゆえに、かれらの任務の遂行はきわめて困難である。さらに、議会は、法案の危険性を指摘されても、立法化を断念しないことがある。その結果、政府事務総局は、違憲の疑いの大きい規定を憲法院の前で擁護せざるをえなくなるのである(一一〇ー一一一頁)。
  政府は、議会審議の際に、緊急の要請により、違憲の疑いのある修正法案を認容することもある。最近の事例としては、一九九六年七月二三日判決において違憲とされた、インターネットに関する法律の規定をあげることができる(一一一頁)。
  政府は、みずからが関与しなかった議員提出法案に対処しなければならないこともある。たとえば、政府は、学校内のスカーフ着用禁止をめざした議員提出法案について、生徒の良心・表現の自由に反し、違憲の危険性があることを強調することによって、立法化を防ごうとしたのである(一一一ー一一二頁)。
  最後に、憲法院が、大統領、国民議会および元老院の選挙に関して意見を述べる場合がある。この意見は、未公表の段階で共和国大統領および首相に伝えられるのであり、かれらは、かならずそれを考慮に入れるのである(一一二頁)。
  以上のことから、政府事務総局の任務、つまり、憲法に照らして法案を監視する役割の重要性が明らかになる。政府事務総局は、可決された法律を擁護する任務のほか、専門的な助言任務を引き受け、首相官房(cabinet du Premier ministre)や各省庁からの要請に応じて、頻繁に「合憲性の調査文書」(notes de constitutionnalite´)を作成するのである。その文書の多くは、首相官房から求められた日常的な問題に関するものであるが、各省庁が各省間の話し合いでの立場を強化しようとして、直接的に要請してくる場合もある。政府事務総局は、このような任務を遂行するにあたり、憲法院における対話者を求めているのである(一一二頁)。
  このように、シュラメックは、政府事務総局が、政府における法案作成過程のみならず、デクレの起草過程や法案の議会審議過程を含むさまざまな場面で、法規範の合憲性に留意し、問題の解決に取り組んでいることを明らかにしようとする。しかし、かれ自身が的確に指摘するように、その配慮は「合憲性コントロールを前提とした懸念」の域を出ておらず、また、とくに議会における法案審議の段階では、政府事務総局の活動にもおのずから限界があるものと考えられる。もっとも、シュラメックは、かならずしもそのような配慮の意義を軽視しているわけではなく、政府活動における配慮の実態が限定的であり部分的であることを明らかにしようとしたにすぎないといえよう。
3  憲法院事務総長の活動様式
  つぎに、シュラメックは、かれ自身の経験もふまえ、政府事務総局の対話者となる憲法院事務総長の役割の重要性を指摘するとともに、その権限行使における留意点や権限の限界も明確に示している。
  憲法院事務総長は、政府事務総長などからの質問電話をたびたび受ける。政府提出法案が完全に合憲になるよう協力する憲法院の任務にかんがみれば、憲法院事務総長は、注意深く耳を傾けることを要請されるように思われる。情報を提供したにもかかわらず、立法過程の最後の段階で憲法院によって違憲とされることだけにはならないように、これまでの判例にもとづいて政府に教示することが重要である(一一二ー一一三頁)。
  そのような態度が推奨されるものの、憲法院事務総長には、憲法院の立場を表明する権限がないという問題がある。憲法院事務総長は、憲法院を拘束できないのであり、個人的見解を強調しないよう留意しなければならず、憲法院の解釈を考慮に入れ、憲法院判例から得られた知識を用いるにとどまらなければならない。また、憲法院事務総長は、唯一制度的に認められた政府の諮問機関であるコンセイユ・デタの役割を侵害してはならない(一一三頁)。
  したがって、憲法院事務総長は、形式と手続の点で慎重を期して行動しなければならない。第一に、憲法院事務総長は、対話者である政府事務総局が、政府活動の総括・調整に際し、中心的役割を担うことに留意しなければならない。したがって、憲法院事務総長は、官房や部局の責任者から直接質問を受けた場合に、その回答を政府事務総局に知らせる必要がある。その際、この回答が各省間の議論のなかで利用される危険を避けることが重要である。第二に、憲法院事務総長は、法令に定められた権限を越え、文書の形式で情報を提供することはできない。第三に、憲法院事務総長は、政府内の審議に直接参加することを控えなければならないが、例外的に、憲法院の見解の聴取を目的とする各省会議などには公式に参加することができる(一一三ー一一四頁)。
  以上のことから、憲法院事務総長の業務の難しさが把握される。憲法院事務総長が、質問に対して沈黙するのではなく、あえて有益な情報を提供しようとするのは、憲法院の透明性を意識してのことである。もっとも、その場合には、誠実さ、限界の明晰さ、そして慎重なやり取りが要請されるのである(一一四頁)。
  ここでシュラメックは、憲法院事務総長の果たすべき役割に関して、政府に対する情報提供の重要性を強調する一方で、その役割に過度に期待するのではなく、一定の限界を示し、きわめて慎重な見方をとっている。かれの立場からすれば、憲法院事務総長のみならず、そのもとで事務作業等々に従事するスタッフにも、おそらく同じことがいえるものと思われる。
4  憲法判例がよりよく配慮されるために
  シュラメックは、政府活動に対する憲法判例の影響の現状、政府に情報を提供する憲法院事務総長の活動様式に関するさまざまな問題を検討したうえで、以下では、政府活動のなかで憲法院の判例がもっと配慮されるようになるためには、いかなる方策がとられるべきかを論じている。すなわち、「法治国家」(Etat de droit)を完成させるために、憲法院はどのような努力をしているか、また、政府側はいかなる努力をすべきか、について述べるのである。
  憲法院は、その判例が容易に入手されるよう努力している。憲法院は、公式判決集や五年ごとの目録(tables quinquennales)を作成することによって、判決を十分に周知させているほか、学説の主張者との個人的な信頼関係や交流を維持している。この点で、憲法院による最近の二つの自主的行動が指摘される。第一に、私が担当している定期的な時評欄は、入念な評釈を通じて、判例上の新たな成果について関心を喚起することを目的としたものである。第二に、憲法院は、その活動の様相を定期的に明解かつ明確に描き出すため、『憲法院雑誌』(Cahiers du Conseil constitutionnel)を創刊し、半年ごとに発行している(一一四頁)。
  しかし、憲法院だけでは、「法治国家」を完成させることはできない。政府活動の合憲性を監視する任務は、行政各部の合意のもとに、強化され体系化されなければならない。ところが、執行活動の責任者の手引書となる「官報に掲載されるテクストの準備、署名ならびに公表についての細則、および首相に課される特別な手続の実施に関する」一九九三年一月二日の通達(Circulaire du 2 janvier 1993 relative aux re`gles d’e´laboration, de signature et de publication des textes au Journal officiel et a` la mise en oeuvre de proce´dures particulie`res incombant au Premier ministre)のなかには、法規範の合憲性に関する勧告や考慮の要請はまったくみられない〔本通達は、各大臣および各大臣補佐に対して出されたものであり、官報掲載テクストの質的向上、およびテクストが容易に理解されることを目的としている〕。このような問題点は、今後、改善されるべきである(一一五頁)。
  ところで、議会審議の際に、議論中の規定の合憲性を確認するための新たな手続を設けることは必要であろうか。たとえば、リュシェール教授は、憲法四一条の規定から着想を得て、「可決前」提訴手続を提唱している。しかし、それには、憲法院の合憲性の分析を狂わせるとともに、議会審議の中断と遅延を招くなどの問題点があり、危険をともなうものといえる。また、議会審議の際に、政府がコンセイユ・デタから合憲性に関する意見を聴取するといった制度の創設にも同様の問題点がある(一一五頁)。
  このように、シュラメックは、憲法院が広報活動を通じて憲法判例の周知に努めていることを評価しつつも、それだけでは十分ではないと考え、政府側がより積極的に憲法判例に配慮することの必要性を強調するのである。もっとも、かれは、議会審議中に法案の合憲性を審査する制度を導入することについては消極的である。安易な制度改革がかならずしも「法治国家」の完成に結びつくものではない、というシュラメックの理解には、注目しておく必要があろう。
  なお、シュラメックが直接言及しているわけではないが、憲法院による憲法判例の周知という点では、憲法院のホームページの充実を指摘しておきたい(http://www.conseil−constitu tionnel.fr/)。これによって、ほぼリアルタイムで判決の全文、提訴趣意書、提訴された法律の規定、判決中言及された法令・判例、判例評釈の一覧などを入手することができ、憲法院の判例を検討するにあたりきわめて有益である。
5  結    論
  最後に、シュラメックは、政府活動に対する憲法院判例の影響につき、以下のような結論をみちびいている。
  問題は、最初にみたよりも複雑である。たしかに、憲法判例は、政府活動を拘束しており、その影響の過小性を指摘することは、不適切であるように思われる。しかし、各々の憲法院判決が完全に執行されることと、政府の政策のアクター全員にまで完全に憲法判例が浸透することとの間には、隔たりがある(一一五ー一一六頁)。
  憲法判例には、継続性や確実性があり、まさしく「党派的な思惑を打ち砕く含蓄のある参照物」ではある。しかし、「合憲性の反応」(re´flexe de constitutionnalite´)といわれる憲法適合性への配慮は、ごく最近になってみられるようになったにすぎない(一一六頁)。
  そのような反応を活発にするためには、主意主義的ではあるが実用主義的なアプローチが採用されるべきであろう。その歩みのなかで、政府は、より継続的かつ根源的に「法治国家」を根拠づけることになるであろう(一一六頁)。
  結局、シュラメックは、政府活動のなかで憲法院の判例が配慮されることの必要性を認識し、そこで政府事務総局や憲法院事務総長が果たす役割の重要性を認めつつも、現時点で、憲法院判例があらゆる政府活動にも多大な影響を及ぼしているとは考えていない。そのような意味で、政府活動に対する憲法院判例の影響が限定的であり部分的なものにすぎないことが十分に自覚されている。それゆえ、憲法院判例の影響が各方面で増大しつつあることを強調しようとする論者にあっては、シュラメックの論文は若干期待はずれのものとして映るかもしれない。しかし、まさしくそうであるからこそ、シュラメックにおいて、憲法院判例の影響に関する客観的かつ的確な分析と評価が可能であったといえるのではなかろうか。

(9)  中村紘一・新倉修・今関源成監訳『フランス法律用語辞典』三省堂(一九九六年)二七一頁(原著は、Raymond Guillien et Jean Vincent (e´d.), Lexique de termes juridiques, e e´d., Dalloz, 1993)。なお、政府事務総局については、村上順「中央行政機構」奥島孝康・中村紘一編『フランスの政治』早稲田大学出版部(一九九三年)七二頁以下、下條美智彦『フランスの行政』早稲田大学出版部(一九九六年)一五頁以下も参照。

三  立憲政治−アレック・ストーン論文の紹介


  アレック・ストーンの論文「立憲政治」(La politique constitutionnelle)は、ドイツとの比較をふまえつつ、フランスにおける憲法院と立法者の相互作用を理論的に分析したものである。ストーンは、すでに『フランスにおける政策形成の裁判化−比較的展望における憲法院』(The Birth of Judicial Politics in France:The Constitutional Council in Comparative Perspective, Oxford University Press, 1992)と題する著書において、国有化法(一九八二年)、新聞集中排除法(一九八四年)などの事例を素材として、憲法院と政治部門の相互作用を論じていたが、ここに紹介する論文では、その研究にもとづいて、フランスにおける相互作用の実態がモデル化され、新たな視角からこの問題が検討されている。なお、ストーンは、現在カリフォルニア大学アーバイン校教授の職にあり政治学を講じている。
1  序    論
  序論では、本論文の目的と前提について述べられる。すなわち、公共政策形成と憲法規範の明確化をめぐる立法者と憲法裁判官との相互作用として展開されている「立憲政治」が分析の対象とされること、また現在では、その相互作用を通じて立法者と憲法裁判官の役割が変容しつつあることが指摘されている。そしてストーンは、考察の前提として、伝統的な三権分立的思考とは異なるプロセス概念を用いること、憲法裁判官は自発的に立法過程に関与するのではなく、防御的に行動するにすぎないことを確認している。
  本論文の目的は、「立憲政治」のメカニズム、つまり公共政策の形成および憲法規範自体の明確化をめぐる立法者と憲法裁判官との相互作用を考察することにある。ヨーロッパで活発にみられるこの相互作用は、政策決定過程における立法と裁判の両局面を変化させ、相互浸透を促進している。そこでは、憲法裁判官は、テクストに反対し、法律の修正を迫ることによって、立法者のように行動する一方で、立法者は、法律の合憲性について議論し、評価することによって、裁判官のように行動するのである(一一七頁)。
  本論文では、簡単な立憲政治モデルを提示し、フランスとドイツの事例を用いてそれを説明するが、その前に、誤解を防ぐために、以下の点を確認しておきたい。第一に、本論文では、立憲政治モデルが「政治」と「法」の伝統的概念とは相容れないことを自覚しつつ、議会審議過程や憲法判断プロセスといったプロセス概念を用いることとする。それは、このプロセスのなかで立法者と裁判官がいかに行動し、いかなる相互作用がみられるかを検討するためである。第二に、本論文では、憲法裁判官がたえず法制定にかかわっていることを主張するが、それは、憲法裁判官が立法者になることを望んだり、自発的に立法活動を行使することを前提とするものではない。ここでは、裁判官が判決を通じて政治的選択を強制しようとする事実よりも、むしろ裁判官が権限侵害の非難から身を守るために最大限の努力をし、防御的に行動するという原則に注目することにしたい(一一七ー一一八頁)。
  以下、ストーンは、「立憲政治モデル」を説明し、それにつづいて、フランスとドイツの事例を列挙しながらモデルを検証することによって、現代ヨーロッパにおいては、立法者と憲法裁判所との間に活発な相互作用がみられ、伝統的な権力分立の枠を超えた密接な相互関係が展開されていることを明らかにしようとするのである。
2  立憲政治モデル
  ここでは、「立憲政治モデル」の説明がこころみられる。説明に際して、ストーンは、四つの段階からなる循環型のシェーマを提示している。そのシェーマは、さらに「合憲性コントロールの政治化(politisation)」ブロック(第二段階・第三段階)と「立法作業の裁判化(juridicisation)」ブロック(第四段階・第一段階)に二分されている。
  立憲政治モデルは、四つの段階を循環する。図式の右側(第二段階および第三段階)は「合憲性コントロールの政治化」ブロックであり、図式の左側(第四段階および第一段階)は「立法作業の裁判化」ブロックである。ここでいう「政治化」とは、法律のテクストに反対し、修正する権限を憲法裁判官にゆだねること、またこの権限委任の結果を意味する。他方で、「裁判化」とは、憲法裁判官によって憲法解釈が生み出されること、また立法者によってこの解釈が受け入れられることを意味する(一一八頁)。
  裁判化、つまり将来の立法に対する憲法裁判所判決の影響は、フィードバック効果から生じる。立憲政治モデルを形づくるプロセスの流れは、裁判化そのものによって繰り返され、再生産されるのであり、そのような繰り返しが、その後の政治化、その後の裁判所による関与、さらにまた、その後の裁判化を促進する(一一八ー一一九頁)。

立憲政治モデルの循環運動は、マクロレベルにおける制度的・社会的構造とミクロレベルにおける個々のアクターの戦略的行動との関係から生まれる。マクロレベルを構成するのは、立法作業を拘束し組織化する憲法規範、そしてミクロレベルのアクターの相互作用から生まれる行動様式である。また、ミクロレベルを構成するのは、個々の目標を追求し、マクロレベルの拘束に服しながら、立法過程や憲法判断プロセスのなかで決定に参加する個人(政府、議会および憲法裁判所の構成員など)である。立憲政治モデルは、個々の利益の追求にもとづく行動が、いかにして反復運動を引き起こすことになるのか、また、マクロレベルでの拘束が形成されることで、いかにしてそのような行動が組織化されるのか、を明らかにするものである(一一九頁)。ここに掲げた図は、「立憲政治モデル」を説明するために、ストーンが提示したシェーマである。以下、かれは、「合憲性コントロールの政治化」と「立法作業の裁判化」という二つの大きな流れを中心に、「立憲政治モデル」を構成する四つ段階について各々説明を加えていくのである。
(出典)・Alec Stone Sweet, La politique constitutionnelle,in Guillaume Drago, Bastien Francois et Nicolas Molfessis (dir.), La legitimite de la jurisprudence du Conseil constitutionnel, Economica, 1999, p.119.


  (1)  第一段階 −憲法と立法機関
  第一段階は、《憲法↓立法者》という過程として説明される。ここでは、立法者が、憲法裁判所によって法律が違憲とされる脅威を意識し、憲法裁判所の判断を予想しながら、憲法規範を考慮に入れた立法活動をおこなうこと、またそれによって、憲法裁判官が事実上の立法権を行使しうることが指摘されている。
  議会主権のイデオロギーの後退や違憲審査制の創設を背景として、立法者が、憲法の規範性や憲法の基本権規定を意識するようになり、その結果、審査で無効とされる脅威は、立法過程全体にまで及んでいる。ところで、そのような脅威が及ぼされるのは、憲法裁判所の審査で違憲とされた法律が無効になる、と政府や議会が考えるときである。このような場合、政府・議会としては、憲法裁判官が憲法に反する法律を無効とするのを予想し、将来における提訴の可能性を予想するのが得策である。そして、このような予想にもとづき、立法者がその行動を変化させ、法案が修正されるのであれば、それは、裁判所が、間接的で抑止的な影響を及ぼし、ある種の立法権を行使したことを意味する。しかし、循環プロセスの最初の段階では、議論中の法案について裁判所がまだ判断を示していない以上、立法者が、憲法上の拘束の内容を正確に知ることは困難であるといえる(一一九ー一二〇頁)。
  ところで、立法者は、基本権の性格や内容について、各自の立場からさまざまに理解しており、各政党が、相反する基本権をめぐって独自の解釈を押しつけようとすることも少なくない。立法者は、基本権がいかに理解されるべきかを明確にし、一定の方向へ憲法を発展させようとするのである。その場合、憲法は議員にとっての拘束にとどまらないといえる(一二〇頁)。
  このように、ストーンは、考慮に入れるべき憲法判例が存在しない場合であっても、立法者が憲法裁判所の判断を予想して法案修正などの行動をとるのであれば、憲法裁判官が事実上の立法権を行使したものとみなすのである。また、制定される法律に関連する憲法判例がすでに存在する場合は、立法者に対する影響はさらに大きくなると考えられるが、この点については、立憲政治モデルを一巡した後、(5)で論じられている。なお、ここでは、憲法規範ないし憲法判例が、立法者の「拘束」にとどまらず、より積極的な意味をもつものとして理解されている点に留意しておきたい。かれの指摘は、憲法が何らかの具体的な立法措置をみちびく創造的規範であることに注意を喚起するものといえる。
  (2)  第二段階 −立法者から憲法裁判所へ
  第二段階は、《立法者↓憲法裁判所》という過程であり、ここでは立法者、とくに野党議員が憲法裁判所に提訴する行動が問題となる。ストーンは、抽象的コントロール制度のもとでは、議会多数派の意図を阻止しようとする野党議員の戦略的行動として、憲法裁判所への提訴が積極的に活用されることを説明している。
  立法過程は、必然的に合憲性コントロールに直面する。とりわけ、抽象的合憲性コントロールは、議会で法律が可決されれば直ちに、それが審署される前に、立法者の提訴によって開始されることから、立法過程との結びつきは直接的である(一二一頁)。
  ヨーロッパでは、憲法裁判所の役割は、合憲性コントロールのプロセスに着手する個々の議員の助力にかかっている。かれらは、提訴によって自分の目標が達成される場合、また、憲法裁判所の活動によるデメリットよりも期待される利益の方が上回る場合に、憲法裁判所に提訴するのである(一二一頁)。
  議会反対派は、立法過程を引き延ばそうとして、合憲性コントロールを活用し、憲法裁判所の活動に政治的役割を与えることが予想される。実際、立法過程の新たなプロセスとして、抽象的コントロールを利用することは可能であり、その際、憲法裁判所は、提訴された法律を最終的に推敲することとなる。すなわち、憲法裁判所は、提訴された法律を審査し、違憲とみなされる法律の規定を直ちに無効とするのである(一二一頁)。
  合憲性コントロールを支配する準則は、議会の決定を支配する準則とは大きく異なっており、この相違が野党議員の関心を引くこととなる。紛争が憲法問題になると、立法者をとりまく戦略的環境が一変する。そこでは、提訴は議会反対派の利益となり、将来の立法に対する政府・多数派の影響力が弱められる。政府・多数派は、守勢におかれ、阻止することもコントロールすることもできないプロセスへの参加を余儀なくされるのである(一二一頁)。
  議会反対派は、提訴によって莫大な短期的利益を得る可能性がある。反対派は、法律の違憲性を説明し、提訴趣意書を作成するだけでよく、基本権規定が豊富に存在するので、党派的闘争を法的紛争に変えるのは容易である。もっとも、提訴の長期的なデメリットも存在するのであり、野党が政権党になった場合、自分自身が張り巡らした拘束に縛られることになりかねない。しかし、実際には、短期的な利益への魅力は、長期的な配慮に勝っており、政治家は、政権にあるときは、憲法裁判所の権力増大を批判し、野党になったときは、多数派を困らせる合憲性コントロールを活用するのである(一二一ー一二二頁)。
  このように、ストーンは、野党議員によるメリットとデメリットの判断の結果として法律が憲法裁判所に提訴されると理解するのであるが、このような見方は、ジャック・ムニエ(Jacques Meunier)の著書『憲法院の権力』(Le pouvoir du Conseil constitutionnel)にもみられるところである。ムニエは、フランスの憲法裁判においては、法律が提訴されるかどうかは提訴権者の判断に依存することを指摘し、提訴権者が実際に提訴するのは、判決にともなうコスト(cou^t)よりも判決から得られるメリット(avantage)の方が上回ると判断される場合に限られる、というのである(10)。かくして、提訴権者の行動を功利的観点にもとづいて理解しようとする点では、ストーンとムニエの理論に共通性がみられるといえよう。
  (3)  第三段階−正当性の危機
  第三段階は、《憲法裁判所↓憲法裁判所判決》という過程である。ここでは、憲法裁判所が判決を下す場合に、正当性の維持と紛争解決の間でジレンマに陥ることが指摘され、また、そのジレンマを克服するために、憲法裁判所がいかなる戦術を用いているかが述べられている。
  合憲性コントロールの政治化は、解決困難な問題を憲法裁判官に投げかける。すなわち、憲法裁判所の政治的正当性は外見上の中立性によって担保されているにもかかわらず、憲法裁判所は、敗者を決定し、紛争解決に寄与する際に、中立性を損なうおそれがある。このジレンマを前にして、憲法裁判所は、合憲性コントロールの政治的正当性を維持、強化しながらも、法律の合憲性に関する紛争を解決しようと苦慮するのである(一二二頁)。
  このジレンマから脱するために、憲法裁判所は、二つの戦術を用いる。第一に、憲法裁判所は、あたかも憲法規範によって権限が与えられ、それに拘束されるかのごとく、憲法規範にもとづいてその行動を擁護する。また第二に、憲法裁判所は、判決に対する政治的反応を予想し、勝者と敗者を明確にせずに済む紛争解決方法〔たとえば後述する合憲解釈の技術など〕を用いて、判決に対する拒絶反応を弱めようとする。憲法裁判所は、きわめて政治的な紛争が持ち込まれた場合、議会反対派と政府の部分的勝利をみちびく解決策、複雑な憲法的論証、さらには問題解決のための準則を打ち出すことになる(一二二ー一二三頁)。
  ストーンが指摘する二つの戦術、すなわち、@憲法規範にもとづいて判決を正当化する戦術、そしてA敗者による批判を免れうるような紛争解決方法の選択という戦術は、憲法裁判所が宿命的に直面するジレンマを克服し、正当性を確保するために不可欠のものである。しかし、換言すれば、判決に対する批判を避けるために、憲法裁判所が、敗者側にも十分配慮して判決を下さなければならないという事実は、その置かれている立場の弱さを物語るものといえよう。
  (4)  第四段階−憲法判断プロセスと規範創造
  第四段階は、《憲法裁判所判決↓憲法》という過程、すなわち、憲法裁判所が、法律の合憲性について判断を下す際に、憲法の意味内容を決定するプロセスであり、ストーンはこれを「憲法判断プロセス」(processus de de´cision constitutionnelle)と称している。ここでは、「憲法判断プロセス」における憲法裁判所判決の二つの機能、つまり、法的紛争解決機能と憲法創造機能について述べられている。
  第一に、憲法裁判所は、法律が審署可能か否かを決定し、その条件を決定することによって、法的紛争を解決する〔法的紛争解決機能〕。立法過程に対する判決の影響は、憲法裁判所が法律の合憲性に関する現実の法的紛争を解決するという点では回顧的(re´trospectif)であり、また、判決によって法律が承認され、修正され、無効にされるという点では直接的である(一二三頁)。
  第二に、憲法裁判所は、どうして法律の規定が合憲であるのか、違憲であるのかを説明することによって判決を正当化しながら、憲法を構成または再構成する〔憲法創造機能〕。そこでは、憲法裁判所は、立法作業の指導準則を明確化し、修正し、さらには、同種の紛争の解決方法を立法者に指示することがある。そのとき、判決の影響は、将来の立法作業に影響を及ぼすだけに、将来的(prospectif)であり間接的である(一二三頁)。
  憲法裁判所判決の憲法創造機能に関していえば、ここでも、憲法裁判所が直面するジレンマの帰結として、正当性の問題が生じるおそれがある。なぜなら、憲法裁判所が憲法を創造する前に紛争が発生した場合、立法者は、あらかじめ紛争の指導準則を確認することができないからである。憲法裁判官は、この問題を決して恒久的に解決することはできない。憲法裁判官にとっては、憲法上の準則と立法との照合として、また、たんなる審議記録として憲法判断を示すのが得策であるが、それでも、将来の立法過程に影響が及ぼされることになる(一二三ー一二四頁)。
  このように、憲法裁判所判決には、法的紛争解決機能と憲法創造機能という二つの機能が存在するとされるのであるが、とくに、将来の立法作業に影響を及ぼすものとして憲法創造機能の重要性が強調されている。しかし、ストーンが指摘するように、その憲法創造機能が、ふたたび憲法裁判所の正当性を問題にすることにも、十分留意しておく必要があろう。
  (5)  第一段階(再度)−立法過程の裁判化
  以上、四つの段階を経て、ふたたび第一段階に戻ることになる。ストーンは、法案の合憲性に関する政治的紛争の発生、議会反対派による憲法裁判所への提訴、憲法裁判所による紛争解決と憲法上の指導準則の明確化、といった各段階の循環を通じて、立法者に対する憲法規範による拘束が強化され、憲法院の権力が強大になることを指摘している。
  ここまでみてきたことから、法律の作成、憲法判断プロセスおよび憲法の構築が密接な関係にあることが明らかになる。すなわち、法案の合憲性に関する政治的紛争が議会で発生すると、つぎに、議会反対派はこれを憲法裁判所に提訴し、さらに憲法裁判所は紛争を解決し、そこでは、立法過程を指導する憲法上の準則が明確化され、修正されることになる。第一段階の出発点に戻るとき、最初とは状況が異なっており、立法者は、憲法規範の内容について、何らかの知識を習得しているのである(一二四頁)。
  このような憲法上の準則の作成作業は、議会反対派が、憲法裁判所への提訴を利用する価値があると考え、かつ、立法者が、憲法裁判所の判決について、自分を拘束し、先例としての価値を有するとみなす場合に、将来の立法過程や憲法判断に強い教育的効果またはフィードバック効果をもたらす(一二四頁)。
  モデルの図式が循環するごとに、公共政策の領域ではこのような影響が強められ、新たに関係する領域に影響が及ぶことも期待される。また、立法者を拘束する憲法上の義務が徐々に増加し、憲法裁判所における将来の憲法判断を予想する立法者の関心もその能力も向上する。そして、憲法上の準則の発展にあわせて立法者が自分の行動を調整するにつれて、立法者に対する憲法裁判所の権力は強大になるのである(一二四ー一二五頁)。
  ところで、憲法裁判所の権力という点でいえば、《他からの働きかけがなければBがしないであろうことを、AがBにおこなわせることができるとき、AはBに対して権力を有する》というダールの古典的定式は、立法者による予見を考慮して、つぎのように修正する余地がある。すなわち、《B(政府および議会多数派)がA(憲法裁判所)の関心を予想し、結果としてその行動を修正するとき、AはBに対して権力を有する》。裁判化は、一面では、このような間接的で抑止的な権力が発展してきた歴史である。しかしまた、裁判化は、立法者が合憲性コントロールの行動規範、憲法の文法および語彙を、政治制度の論理および活動目録に取り入れるプロセスでもある(一二五頁)。
  このような四つの段階の循環運動を本質とする「立憲政治モデル」は、とくにフランスにおける憲法院と政治部門の相互作用の実態にそくしてモデル化されたものと推測される。しかし、ストーンは、フランスだけでなく、ドイツおける憲法裁判所と立法者の関係についてもこのモデルを適用することが可能であると考え、以下では、フランスとドイツの事例を取りあげながら、「立憲政治モデル」の妥当性を証明している。なお、ストーンの「立憲政治モデル」については、若干の問題点や限界も指摘されているが、この点については後述することにしたい。
3  フランスおよびドイツにおける立憲政治
  ここでは、フランスとドイツの事例を中心に、「立憲政治モデル」に照らして、立法過程と憲法判断プロセスの相互関係が検討され、密接な関係が存在することが明らかにされる。
  (1)  憲法判断プロセスの政治化
  ストーンは、フランスおよびドイツにおける憲法判断プロセスの政治化を論じるにあたり、フランスでもドイツでも憲法裁判所への提訴が政府・与党に対する対抗手段として利用されていることを指摘している。
  一般的に、論議を呼ぶ法律ほど、議会反対派によって憲法裁判所に提訴される傾向がみられるといえる。この点で決定要因となるのは、執行権が立法過程をどの程度支配しているかということである。執行権の支配が弱い国では、激しい論議を呼ぶ法案は、立法過程のなかで修正されたり、阻止されることが多い。たとえば、ドイツでは、連立内閣の不可避性、連邦議会における委員会の相対的に自律した権限、そして連邦参議院の拒否権ゆえに、大胆な改革は排除される傾向にあり、それゆえ、連邦憲法裁判所は、立法府の野心に対抗するいくつかの手段のうちのひとつにすぎない。ところが、フランスでは、執行権が立法過程をほぼ絶対的に支配しており、憲法院は、議会少数派がもつ唯一の対抗手段となることが少なくない。したがって、フランスにおける抽象的コントロールの提訴数は、ドイツよりも多くなることが予想されよう(一二六頁)。
  当初、フランスの一九五八年憲法に規定された法律の合憲性コントロールは、きわめて限定的なものであった。しかし、一九七一年の「結社の自由」判決、および議会反対派に提訴権を拡大した一九七四年の憲法改正によって、フランスにおける合憲性コントロールの性格が根本的に変化した結果、その政治的利用が可能になった。一九八一年以降では、可決された法律の約三〇%がコントロールの対象になっており、反対派による提訴、それによるコントロールの政治化が日常的になっている(一二六頁)。
  ドイツ連邦憲法裁判所が扱う事件の大部分は、具体的コントロールおよび個人提訴によるものであることから、フランスの場合と比較すれば、ドイツの立法過程における抽象的コントロールの重要性は少ないように思われるかもしれない。ドイツにおける抽象的コントロールの件数はフランスの四分の一以下にすぎないが、かといって、立法作業に対するドイツの憲法裁判所の影響が、フランスの場合よりも小さいとはいえない。なぜなら、第一に、抽象的コントロールの脅威は、フランスの場合以上に、ドイツの政治を根本的に変化させることがあり、その脅威ゆえに、相対立する諸政党の妥協が促され、論争の的となる立法の改革が断念されるからである。また第二に、具体的コントロールと個人申立は、立法の改正に起因する場合が少なくないからでもある(一二七ー一二八頁)。
  ここでは、提訴以外の対抗手段がほとんど存在しないフランスにおいて、一九七四年の提訴権者拡大以降、野党が積極的に提訴するようになったことが論じられている。また同時に、具体的コントロールの比重が大きいドイツにおいても、フランス以上に抽象的コントロールの脅威が立法過程に及ぼされているという興味深い指摘もみられる。
  つづいて、ストーンは、憲法裁判所の判断が立法に及ぼす直接的な影響について、ドイツやフランスの具体的事例をあげながら詳細に検討している。
  憲法裁判所が、違憲を理由に法律の規定を無効にするとき、立法に対する影響は直接的であり、ネガティヴである。フランスでは、一九八一年以来、憲法院によって法律の規定が無効とされた事例が、申立件数全体の半数以上におよんでいる。またドイツでも、抽象的コントロールに限ってみれば、連邦憲法裁判所判決の過半数は、無効の結論にいたっている(一二八頁)。
  憲法裁判所は、拒否権を行使するだけにとどまらず、無効とされた規定が憲法に照らしていかに訂正されるべきか、について指示することも少なくない。憲法裁判所は、訂正方法を政府および多数派に示すことによって、その判決の政治的影響を弱めようとするのである(一二八頁)。
  その例として、SPD・FDP連立政権による中絶自由化の試みを無効としたドイツ連邦憲法裁判所の一九七五年判決をあげることができる。問題の法律は、妊婦が助言を受けた後、妊娠三か月以内の中絶を不処罰とするものであったが、野党議員などによって連邦憲法裁判所に提訴された。連邦憲法裁判所は、国家には胎児を含む人間の生命を保護する義務があり、中絶が明白に不処罰とされてはならない、と明言したのにつづいて、憲法を侵害することなく、いかにして政策目標が達成されるか、について多数派に教示した。つまり、連邦憲法裁判所は、妊婦が助言を受け、かつ、優生学的理由、医学的理由、犯罪学的理由または困難な社会状態により中絶が正当化される場合には、不処罰とすることができると宣言したのである。したがって、多数派は、改革を断念するか、それとも、新たな法律を作成して連邦憲法裁判所が提案した政策を受け入れるか、の選択を迫られることとなった(一二九頁)。
  もうひとつの例として、一九八二年に、フランス憲法院が国有化法を無効とした事例がある。議会反対派が、所有権の不可侵性を明言した一七八九年宣言一七条に対する違反を理由として国有化法を提訴したところ、憲法院は、国有化政策は憲法上の原理に含まれると明言する一方で、同法の規定する補償制度は一七八九年宣言一七条の憲法的要請を充足しておらず違憲であると判断し、さらに、新たな補償制度を構想することによって、実施すべき補償金の支払様式を詳細に明示した。したがって、フランス政府および議会多数派は、ドイツにおける中絶の事例と類似する状況に直面したのである(一二九ー一三〇頁)。
  無効判決の大部分をなす「一部無効」判決が出された場合、憲法裁判所は、違憲とされた規定の審署を阻止するものの、それ以外の規定の審署は可能である。しかし、違憲部分を削除してしまうと当初の目標が達成されなくなることもある。その例として、ロベール・エルサン(Robert Hersant)の新聞支配の解体をねらった新聞集中排除法の意図が憲法院に阻止された事例(一九八四年)があげられる。この法律は、新聞の多元性を憲法原理として確立するとともに、新聞グループの全国市場占有率の上限を一五%に制限しようとするものであった。しかし、憲法院は、多元主義を憲法原理として認めたものの、本件法律の定める新たな上限は将来の状況に対してのみ適用されるのであり、エルサン・グループは法律の直接適用範囲から除外される、とした。その他の部分について審署は可能であったが、政府は本来の目標を実現させることができなくなり、結果として、エルサンの支配は強化され、市場占有率は一九八六年には三〇%以上に達したといわれる(一三〇頁)。
  一部無効判決は、立法者を拘束する各法分野の「憲法化」(constitutionnalisation)をもたらす。その典型は刑法の「憲法化」であり、仏独両国の憲法裁判所は、刑法改正にあたって、デュー・プロセス、不遡及原則、法律の前の平等などの規準を明示し、これらに反する刑法改正を幾度も拒否した。その結果、立法者は、これらの規準を維持し、発展させることを余儀なくされたのである(一三一頁)。
  さらに、憲法裁判所は、法律を無効にすることなくコントロールする技術を発展させた。たとえば、ドイツ連邦憲法裁判所は、違憲としながらも、立法者による法改正を可能にするために、一定期間に限って法律が有効であると宣言することがある。また、ドイツとフランスの憲法裁判所は、合憲解釈の技術を用いている(一三一頁)。
  ストーンが述べているように、憲法裁判所は、たんに違憲判決を下すだけでなく、合憲となるための修正方法を指示したり、合憲解釈の技術を用いて憲法に適合する法適用を求めたりすることがある。そのような手法は、政府・与党による判決に対する批判を弱める効果をもたらす可能性があろう。他方で、新聞集中排除法の事例のように、部分的な違憲判決であっても、政府・多数派の意図がほぼ全面的に妨げられる場合もたしかに存在する。また、一部無効判決を通じて、立法者が考慮すべき憲法原理が次々と確立されていくことも「憲法判断プロセス」の重要な直接的帰結といえよう。
  (2)  憲法判断プロセスと裁判化
  つぎに、立法に及ぼされる「憲法判断プロセス」の間接的影響が問題とされる。かれのいう間接的影響とは、立法者が憲法規範や憲法判例を意識しながら立法活動をおこなうようになる現象、すなわち、「立法作業の裁判化」現象を意味するものと考えられるが、そのような現象が生じる要因として、@立法化される法律に関係する憲法判例の存在、A政治目的で合憲性コントロールを利用するアクターの存在という二点があげられている。ストーンは、とりわけ後者の要因を重視しており、野党が、政府・与党において憲法判例が尊重されているか否かを確認し、憲法裁判所に提訴するとして脅迫しながら、立法過程における憲法判例の影響力を強化させることを指摘している(一三一ー一三二頁)。そして、かれは、フランスでもドイツでも、立法過程のさまざまな場面で間接的影響が確認されることを明らかにしようとするのである。
  間接的効果は、立法過程の各段階でみられる。政府における法案作成段階では、仏独両国において、提訴され違憲無効とされる危険を評価する専門家によって、法案が審査されることが知られている。政府は、憲法に配慮しながら、法案を修正したり、削除するのである。また議会審議では、憲法論議が公然と展開されており、多くの政党は、法学教授などによる憲法に関する助言を活用して、法案の攻撃・防禦方法を練り上げるのである(一三二頁)。
  フランスでは、野党が、憲法のテクスト、学説および憲法院判例を引き合いに出して、政府提出法案に対する不受理の申立をおこなう場合がある。また、野党は、法案審議中に、憲法に立脚した論拠を準備しており、政府・多数派に対して修正案の受け入れを迫り、それを強制するために、憲法院に提訴するとして脅迫することもある。実際、一九八一年以来、議会における憲法論議への応答として、多くの法案が修正された。たとえば、一九八二年の地方分権法や一九八四年の新聞集中排除法等々である(一三二ー一三三頁)。
  ドイツでも同じ現象がみられる。コマース(Kommers)が述べているように、政府や政治家は、連邦憲法裁判所に政治的紛争が移送されるのをおそれており、憲法裁判所で完敗する危険を冒すよりも、交渉によって紛争を解決することを選ぶ〔D.P. Kommers, The Federal Constitutional Court in the German Political System, Comparative Political Studies, 26, 1994〕。また、国会の委員会は、憲法問題を議論し、連邦憲法裁判所の判決を予想するために、憲法裁判官経験者などの専門家をしばしば招いている。委員会審議は非公開であるが、論議を呼んだ重要な改革では、多くの場合、憲法に照らして緻密な審議がおこなわれ、重要な修正がおこなわれたことが知られている(一三三ー一三四頁)。
  このような間接的影響を及ぼしうる「憲法判断プロセス」は、法改正に向けた「修正プロセス」(processus de re´vision correctrice)の起点にもなるという。ストーンは、判決後、立法者が憲法裁判所の修正要求を忠実に受け入れて立法化をおこなった事例をいくつか紹介している。
  憲法判断は、立法過程の最終段階であるだけでなく、修正プロセスの出発点となることがある。このプロセスでは、法律の審署を確実にするために、無効とされたテクストが憲法判例に照らして書き直される。憲法裁判所の法的選択が明確である場合、また、政府が判決にしたがっているかについて議会反対派が積極的に確認する場合には、修正の方向は、きわめて明白である(一三四頁)。
  たとえば、フランス憲法院が、一九八二年の国有化法判決に際し、いかにして憲法上妥当な補償制度をつくるべきかを政府に説明した後、新たな法案のなかでその指示内容がほぼ逐語的に繰り返された事例がある。また、ドイツでは、中絶に関する一九七五年の判決が修正プロセスの出発点となった。つまり、政府は、連邦憲法裁判所の判決を逐語的に繰り返した新たな法案を作成し、判決を尊重しようとしたのである(一三四頁)。
  ドイツには、具体的コントロールと個人提訴制度が存在するが、これも同様である。たとえば、一九六九年に、ニーダーザクセン州は、大学評議会における正教授の権限縮小をめざして立法作業を進めていた連邦政府の法案に依拠して、州法を可決したが、教授三九八人がこれを連邦憲法裁判所に提訴した。連邦憲法裁判所は、州法を無効とするとともに、大学評議会では正教授に卓越した地位が割り当てられるべきとする原理を定めた。そこで、連邦議会では、憲法適合性に関する論争が展開されることとなり、右派野党が、判決に明言された原理に政府がしたがわない場合には連邦憲法裁判所に提訴するとして脅迫するなか、憲法判例を繰り返した連邦法律が可決されたのである(一三五頁)。
  以上のように、ストーンにおいては、「憲法判断プロセス」は、立法者にさまざまな影響を及ぼし、「立法作業の裁判化」をもたらすものとみなされ、さらには、法改正に向けた「修正プロセス」の出発点として位置づけられている。ストーンの理解にしたがえば、「憲法判断プロセス」に起因する「立法作業の裁判化」の結果、現在では、フランスやドイツの立法者が、憲法規範や憲法判例を無視して立法活動をおこなうことは不可能になっているといえよう。
  (3)  立法者と憲法判断プロセス
  ここでは、立法者が憲法規範を積極的に考慮し、その具体化に取り組もうとした事例が紹介されている。しかし、以下の事例に示されるように、立法者が保護しようとする憲法原理と憲法裁判所が保護しようとする憲法原理が相互に矛盾し衝突する場合、あるいは、立法者による保護の程度が不十分な場合も存在するのである。
  憲法裁判所は、判決を通じて立法が直接的・間接的に修正される場合に、立法者として行動する。また、政府・議会は、憲法裁判所と立法者の相互作用が活発化して以来、裁判官のように法的論拠を用いて自分の決定を擁護するようになった。とくに立法者が、基本権を完全に保護し、対抗する他の利益と可能な限り調整しようと配慮して判断するとき、そのことは明確である(一三五頁)。
  国会議員が基本権を判断する能力は、憲法裁判所よりも劣っているわけではない。ある措置の合憲性について審議するとき、議会と憲法裁判所は、同じことをし、同じことばを使い、同じ規範素材を用いて作業する。また、議会多数派と憲法裁判所の憲法解釈方法が相違する事実は、議会が誤っていることに原因があるのではなく、法案の合憲性に関する説得的で穏当な点が他方よりも多いことを示すものである(一三五ー一三六頁)。
  その例として、フランスにおける積極的差別措置の事例があげられる。左派政府は、女性の政治参加を奨励しようとして、一方の性が市町村議会選挙の選挙人名簿の七五%を超えることを禁じた法案を可決させたが、これは右派によって憲法院に提訴された。憲法院は、法律の前の平等な取扱を定めた一七八九年宣言六条に照らして、その規定を無効としたのである。他方で憲法院は、多数派が一九四六年憲法前文一項から導出した、議会は女性に男性と同じ権利を保障しなければならないという憲法原理を無視していた(一三六頁)。
  この事例をみてみると、憲法裁判所が多数者の圧制に対する盾になると考えるのは無意味である。左派議員は、従来無視されてきた憲法規定を援用して、過小代表されている市民の権利を向上させようとし、これに対して憲法院は、議会反対派が提示した平等原理の解釈にもとづいて、左派の企図を阻止したのである。また、憲法裁判所が議員の行為をコントロールしなければ、保護されるべき基本権が議員に無視されるような事例は例外的である。憲法裁判所は、議会審議のなかで形成された政治的選択の「範囲」(e´ventail)にもとづいて、適切に権利を保護する立法を選択せざるをえないのである。他方で、立法者は、基本権の保護・強化に努めるのと同様に、自発的に妥協点を探ることも少なくない(一三六ー一三七頁)。
  この問題に関して、ドイツにおける中絶に関する一九九三年の判決をあげることができる。一九九二年六月に連邦議会で可決された中絶自由化法は、「自己の人格を自由に発展させる」女性の権利を保護するために、妊婦が助言を受けた後、妊娠一二週以内の中絶を合法とする一方で、胎児の憲法上の権利を保護するため、一二週以後の中絶には原則として刑事罰を科すこととし、さらに、就学前児童ための保育・扶助施設の利用を促進する規定を盛り込んでいた。連邦憲法裁判所は、右派議員などの提訴にもとづいてこの法律を審査し、胎児の生命を保護する国家の義務にかんがみ、妊娠三か月以内でも中絶を合法化することはできないとしながらも、もし出産が「重大で異常な負担」をともなうのであれば、中絶は認容される、とした。また、連邦憲法裁判所は、妊婦に対する助言について詳細な指示を出すとともに、立法者が生活困窮家族のための保育所・託児所の増加を促進することを求め、さらに、中絶には保険の適用が認められてはならないとした。結局、立法者は、当初とは異なる妥協を強いられ、修正をおこなうなかで連邦憲法裁判所の示した修正案を取り入れることとなったのである(一三七ー一三八頁)。
  ストーンは、これらの事例から、立法者が、憲法規範や憲法判例に照らして、憲法原理の調整をはかりながら、それを積極的に具体化しようと努めていることを明らかにしている。また、他方で、憲法裁判所が、法律を無効としたり、判決のなかで修正案を示すことによって、あたかも立法者のように行動することも説明しているのである。
4  結    論
  以上のように、ストーンは、フランスとドイツにおける憲法裁判所と立法者の相互関係の実態を分析したうえで、そこから得られた結論として、つぎのように述べている。
  結論として、立法過程と憲法判断プロセスが密接に絡み合っていることが明らかとなる。この結論にしたがえば、権力分立の伝統的シェーマの妥当性は疑わしい。そのシェーマによって、いかにして法律が作成され、憲法が進化するかを明らかにすることは不可能である。むしろ、憲法裁判所は、法律の合憲性コントロールを専門とする議会と解すべきであり、また、立法者は、合憲性審査に関する初審裁判所として行動するといえる。権力分立のイデオロギーは、公権力の正当性を基礎づける点では有効であるものの、立法過程と憲法判断の相互的効果を無視し、過小評価していることから、合憲性コントロールの政治的正当性を議論するのに有益とはいえない(一三八頁)。
  ここでストーンは、フランスとドイツにおける相互作用の実態をふまえつつ、憲法裁判所の「立法機関化」および立法者の「憲法裁判機関化」を指摘しており、伝統的な権力分立の枠組みに照らして両者の関係を論ずるのはもはや妥当ではないというのである。そして最後に、かれは、憲法裁判官の正当性の問題にかかわって三点ほど言及している。
  第一に、ストーンは、内容が不明確な憲法の基本権規定がいかようにも解釈される危険を指摘し、基本権規定の明確化を求めていたケルゼンの主張〔Hans Kelsen, La garantie juridictionnelle de la Constitution, RDP, 1928, pp. 239 et s.〕に着想を得ながら、憲法裁判官が基本権を利用して合憲性コントロールをおこなうのであれば、立法者に取って代わることになる、と主張している。そしてそこでは、憲法判断プロセスの正当性が基本権の正当性と密接に関連すると考えられているのである。もっとも、ストーンは、現在のヨーロッパの状況を考えれば、基本権の裁判的保障なくして、政治システムは最善のものとはなりえず、また、立法者だけが基本権の法的保護を決定するわけではないと述べており、憲法裁判所の「立法機関化」を肯定的に受け入れている(一三九頁)。
  第二に、憲法裁判所の「立法機関化」を認めたうえで、ストーンは、新たな形で正当性の問題が提起されることを指摘している。すなわち、憲法裁判所が伝統的な意味での司法機関ではないこと、憲法制定者が憲法裁判所の政治的性格を認め、憲法裁判所によって立法作業が妨げられるのを認めていたことにかんがみれば、憲法裁判所が司法機関として活動しているか、立法活動をおこなっているか、という形で合憲性コントロールの正当性を問題にするのは適切ではない。むしろ、憲法裁判官が政府や議会よりも適切に基本権を保護するか否かという問題が重視されるべき、というのである(一三九ー一四〇頁)。
  第三に、ストーンは、合憲性コントロールの正当性が、立憲政治の実践を通して構築され、立法者が憲法裁判所の作り出す憲法的言説を立法的言説に取り入れるプロセスを通して構築されることを主張している(一四〇頁)。
  以上がストーン論文の概要である。かれの分析によれば、現在では、フランスやドイツにおける憲法裁判所と立法者の関係が伝統的な権力分立の枠組を超えるものであることは明白である。したがって、ストーンにおいては、フランス憲法院は「政治的機関」なのか、それとも「裁判機関」なのかという古典的な論争に与するのではなく、むしろ憲法裁判所の「立法機関化」と立法者の「憲法裁判機関化」を認め、両者の「相互浸透」を認めたうえで、どちらがより適切に基本権を保護しているか、という点が問題とされるのである。

(10)  Jacques Meunier, Le pouvoir du Conseil constitutionnel, Bruylant-LGDJ, 1994, pp. 215 et s. このムニエの著書については、山元一「書評ジャック・ムニエ『憲法院の権力−戦略的分析試論』」法政理論三〇巻一号四七頁以下を参照。

四  検    討


  以上、オリビエ・シュラメックとアレック・ストーンの論文を紹介したが、ここでは、かれらの議論の特徴を整理しておきたい。
  まず、シュラメック論文は、政府事務総局がいかに法案の合憲性に配慮しているか、あるいは、そのためにいかに苦慮しているか、という現実を憲法院事務総長の立場から明らかにしようとしたものである。また、政府に情報を提供する側としての憲法院事務総長の役割についても、みずからの経験をふまえて、その役割の重要性と守るべき限界が論じられている。もっとも、かれは、憲法院が政府活動に及ぼしている影響を過大視することには消極的であり、現時点ではその影響が部分的で限定的なものにすぎないことを強調している。この点では、政府事務総局が憲法院判例を考慮しながら法案を準備する事実を重視し、憲法院判例の広範な影響をみいだそうとするギヨーム・ドラゴの見解(11)と対照をなすといえよう。
  しかしながら、政府が憲法院判例をどのように受けとめ、いかなる配慮をおこなっているのかについては、これまで十分に明らかにされてきたとはいいがたく、このような形であれ、その実態が明らかにされることには一定の意義が認められる。政府と憲法院の相互関係を把握するうえで、このようなシュラメックの論文は、きわめて貴重であるといえよう。
  他方で、ストーン論文は、独自の「立憲政治モデル」を提示し、公共政策の形成および憲法規範の明確化をめぐる立法者と政治部門の相互作用を理論的に分析するものである。すでにみたように、ストーンの提示する「立憲政治モデル」は、@憲法↓A立法者↓B憲法院↓C憲法院判決↓@憲法・・という循環運動の形態で描かれている。そして、ABのプロセスは「合憲性コントロールの政治化」、すなわち、法律に反対したり、解釈によって法律を修正する権限が憲法裁判官にゆだねられることを意味し、C@のプロセスは「立法作業の裁判化」、すなわち、憲法裁判官によって憲法解釈が生み出され、それが立法者に受け入れられることを意味するものとされる。かれは、フランスにおける国有化法(一九八二年)、ドイツにおける中絶法(一九七五年)などの事例を列挙し、「立憲政治モデル」に照らして、憲法裁判所と立法者の相互作用を解明することによって、現在のフランスやドイツでは、立法者における憲法裁判所的行動、および憲法裁判所における立法者的行動が確認されることを指摘するのである。なお、ストーンにおける相互作用の理解は、ドラゴのいう憲法の具体化を志向する憲法院と政治部門の「協働関係」という視角に比較的類似しているということができよう。
  ところで、このようなストーンのモデルに対する批判もみられる。たとえば、バスチアン・フランソワ(Bastien Francois)は、「憲法院と第五共和制」(Le Conseil constitutionnel et la Cinquie`me Re´publique)と題する論文において、ストーンの「立憲政治モデル」を詳細に紹介したうえで、以下のように三つの問題点を指摘している。
「まず、立憲政治モデルにおいては、立法過程に直接参加しないものの、このモデルのはたらきに欠くことのできない一連のアクターが無視されている。たとえば、法学教授がそうである・・。
  つぎに、ストーンが、反復プロセスの潜在的効果を分析するとき、かれは、おそらく法がもたない『力』(force)をそれに与えており、法律偏重主義(juridisme)の形式から脱けきれていない。ストーンにおいて、立憲政治のプロセスは、立法者の憲法上の『義務』と憲法院の権力を同時に増大させる傾向にある。この二つについては、議論の余地がある。一方では、憲法院『判例』は、新たな拘束をもたらすことにはならず、むしろ、あらためて政治の場をつくり、政治的競争の新たな材料を提供し、政治的闘争のための新奇な(それゆえきわめて危険な)武器を提供する、と主張することができる。他方で、憲法院が獲得した権力について疑うことができる。実際には、反復プロセスが機能するほど、憲法院は、ますます過去の判決に拘束され、(とくに憲法問題の専門家からの)批判を浴び、これまでうまく押しつけてきた裁定者としてのイメージを維持することを余儀なくされ、したがって、憲法院の自由裁量は、ますます少なくなるのである。
  第三に、この反復プロセスには限界が存在するのではないか、と疑うことができる。現在では、ドイツ連邦憲法裁判所に対する批判の動きは、法学者や政治家の所業にとどまらず、一般個人もかかわっており(たとえば、教室における十字架の設置は信仰および良心の自由を侵害するとした判決に対して数万人がデモをした)、そのことが示すのは、いずれにしても、一部の人が希求している魅惑的な『立憲民主主義』(de´mocratie constitutionnelle)にはほど遠く、憲法裁判所の法的正当性は、つねに選挙に由来する政治的正当性に直面して揺れ動いている、ということである(12)」。
  以上、やや長々とフランソワの批判を紹介した。かれは、@立法過程に参加しないアクターが無視されていること、A憲法院判例は立法者を拘束するものではなく、反対に、立法者に新たな活動の「場」、「材料」および「武器」を提供するものであり、また、反復プロセスの進行とともに、憲法院の自由裁量が少なくなること、Bドイツにおける連邦憲法裁判所批判とそれによる正当性の危機を理由にして、ストーンの「立憲政治モデル」を批判するのである。
  まず、@の批判についていえば、外見上「立憲政治モデル」に含まれるのは立法者と憲法院であり、それ以外のアクターは考慮されていないようにも思われる。しかし、ストーンは、ドイツにおいても、フランスにおいても、法案作成および議会審議に際して、法学教授の助言が活用されている点を指摘しており、その役割を完全に無視しているとはいえないであろう。なお、立法過程外のアクターの役割を重視する立場としては、国会議員をはじめ、法学教授、労働組合や利益団体、さらにはジャーナリストなどさまざまなアクターによる「一般意思の競合的表明体制」(un re´gime d’e´nonciation concurrentiel de la volonte´ ge´ne´rale)あるいは「諸規範の競合的表明体制」(un re´gime d’e´nonciation concurrentiel des normes)という概念を提示するドミニク・ルソー(Dominique Rousseau)の見解が興味深い(13)
  また、Aの批判については、憲法院判例によって立法者に新たな活動の「場」、「材料」および「武器」が提供されること、反復プロセスの進行とともに、憲法院の自由裁量が少なくなることは認められるとしても、このことだけから、憲法院判例は立法者を拘束するものではない、という結論をみちびきうるのか疑問である。
  最後に、Bの批判は、直接フランスにあてはまることではない。しかし、ドイツでは、一九九五年の「十字架判決」に象徴されるように、連邦憲法裁判所と政治部門や社会との緊張関係が顕在化し、連邦憲法裁判所が激しい批判を浴びていることは事実である(14)。フランソワは、そのようなドイツの状況に照らして「立憲政治モデル」に限界が存することを主張するのである。
  以上のように、@Aの批判に対してストーンのモデルを擁護することは可能であるが、Bの批判は、たしかに「立憲政治モデル」の限界を明らかにするものといえる。ストーンは、憲法院判決がつねに政治部門に受け入れられることを前提としているが、最近のドイツのように、政治部門や社会との緊張関係が生じる可能性は否定できない。とくに、フランスでも、一九九三年の移民規制法判決に対して政治部門が反発し、激しい緊張関係が生じた事実(15)が存在する以上、この問題を無視することはできないはずである。このような憲法院と政治部門の相互作用についての楽観的な見方は、ストーンのみならず、ドラゴやファヴォルーなどにもしばしば見受けられるところである。
  また、ストーンは、憲法院と立法者の関係だけを分析の対象としているが、とりわけ合憲解釈を含む判決が下された場合には、立法者が憲法院の解釈をどのように受け入れるのかという問題以上に、法適用にあたる行政機関や裁判機関が憲法院の解釈をどれほど尊重するかという問題の方が重要である。そうすると、憲法院と立法者の関係だけに目を向けた「立憲政治モデル」では、憲法具体化過程の一部分しか取り扱うことができず、かならずしも憲法具体化の実態にそくしたものとはいえない、という問題点も指摘されよう。
  しかし、このような問題点が存在するにもかかわらず、ストーン論文は、フランスやドイツにおける相互作用の実態分析にもとづき、一定のモデルを提示し、新たな視角から相互作用の問題を検討するこころみとして注目すべきものである。かれが提唱した「立憲政治モデル」は、今後、学界の関心を集め、多くの論者によって取りあげられることが予想される。いずれにしても、この論文は、憲法院と政治部門の相互作用を考察するためにも、また、公権力のなかで憲法院が占めている位置やその役割、さらには憲法院判例が公権力に及ぼす影響を明らかにするためにも、きわめて貴重な示唆を提供するものといえよう。
  不十分ながら憲法院と政治部門の相互作用に関する最近の議論を紹介し、検討をこころみたが、最後に、一点だけ指摘しておきたい。シュラメック論文、ストーン論文のいずれにおいても、いかなる場合に政治部門が憲法院判例をより尊重する傾向がみられるのか、また、いかなる場合に憲法院判例が軽視される傾向がみられるのか、という点については、明確な言及をみいだすことはできない。前述のように、とりわけストーン論文においては、つねに「立憲政治モデル」が適切に機能するものとして論じられているが、詳細な分析を進めていくと、問題となる憲法価値の内容次第で、よりよく機能する場合もあれば、反対に機能不全に陥る場合も存在するのではないか、という疑問が残る。たとえば、表現の自由の問題と財産権の問題の両方について、政治部門の態度がまったく同じであるということができるのであろうか。このような問題は、いまだ手つかずであるという印象を受けざるをえない。今後、この点をふまえた検討がおこなわれることになれば、憲法院と政治部門の相互作用に関する議論は、きわめて内容豊かなものとなろう。

(11)  Guillaume Drago, L’execution des decisions du Conseil constitutionnel, Economica, 1991, pp. 199 et s. 蛯原健介「法律による憲法の具体化と合憲性審査(四・完)」立命館法学二五五号二〇〇頁以下を参照。
(12)  Bastien Francois, Le Conseil constitutionnel et la Cinquie`me Re´publique, Revue francdaise de science politique, 1997, pp. 401 et s. バスチアン・フランソワの見解については、山元一・前掲論文五六頁以下を参照。
(13)  Dominique Rousseau, Droit du contentieux constitutionnel, e´dition, Montchrestien, 1995, pp. 417 et s;du me^me, L’activite´ re´cente du Conseil constitutionnel, RDP, 1989, p. 54. ドミニク・ルソーの見解については、蛯原健介・前掲論文(三)立命館法学二五四号九八頁以下を参照。
(14)  この点につき、服部高宏「法と政治の力学と憲法裁判」井上達夫・嶋津格・松浦好治編『法の臨界T・法的思考の再定位』東京大学出版会(一九九九年)一〇三頁以下を参照。
(15)  移民規制法判決(C.C. 93-325 DC des 12 et 13 aou^t 1993)をめぐる問題につき、水鳥能伸「フランスにおける亡命権論議の一考察(一・二)」広島法学一八巻四号・一九巻一号、林瑞枝「一九九三年度フランスにおける移民関係法令の変更とその意義について(一−六・完)」時の法令一四六七号・一四六九号・一五七一号・一四七三号・一四七七号・一四七九号、植野妙実子「フランス憲法における『庇護権』の改正」高柳先男編『ヨーロッパ新秩序と民族問題』中央大学出版部(一九九八年)、さらに蛯原健介・前掲論文(二)立命館法学二五三号一〇八頁以下を参照。

  本稿は、平成一一(一九九九)年度文部省科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。