立命館法学  一九九九年五号(二六七号)


◇資  料◇
世話手続における鑑定


ヴォルフ・クレフェルト

佐  上  善  和(訳)





    目    次
一  序    論
  1  役割矛盾と研究の未展開
  2  世話の医学的および精神社会的な実務論
二  包括的な監護か、市民としての死か?
  1  目的設定における矛盾
  2  社会にとって無用な者の社会的排除
  3  介護不足と過剰な抑圧
  4  利益を擁護し、権利を主張する
三  参加型の鑑定人
  1  客観的鑑定人の終焉?
  2  人を診断するということ
  3  診断の完全性
  4  必要性原則と治療に関心をもって関与する専門家の任務
四  協    働
  1  鑑定人の参加型関与−司法の失態?
  2  裁判官席あるいは円卓テーブルでのチームワーク
  3  事実の解明のための指標
五  世話の必要性調査のための指針
  訳者の後書き


一  序    論


1  役割矛盾と研究の未展開
  ゲルハルト・ハウプトマンの演劇の中で、禁治産を受けた者が〈市民として死〉と表現されている。同じような意味で、ある法解釈学者は、〈老人および病人に対する社会的隔離と分離の必要性〉の影響と述べ、ある社会学者はこのために必要とされる精神鑑定を〈身分降格儀式〉と名づけている(1)。疑いなく、ある人の法的行動の自由および自己決定権へのきわめて重要な侵害が問題となっている。すなわち、その個人生活およびその社会的活動を展開するうえで、彼はこれから先広範囲にわたって、多かれ少なかれ善意の親族あるいは官僚的に振舞う役所に依存しなければならない(2)。人間の重要なメルクマール−人格的自由とプライバシー−は、多かれ少なかれ彼から奪われる。そしてこれは彼が同胞から烙印を押されるものなのである。
  この差別的な〈市民としての死〉という匂いを伴なう性格は、過去において多くの医師が後見裁判所における鑑定人としての協力を拒ませようとする原因であった。患者の幸福にのみ仕えるという医師の職業上の自己理解に従えば、鑑定活動は医師の〈本来〉の活動には属しないと考えられた。鑑定活動は彼らからほとんど評価されず、また患者との医療関係のない裁判医に割り振られた。裁判医達は、〈訴訟の進行や結末に全く関心がなく、また訴訟関係者の運命についての個人的な同情によって全く影響されない〉客観的な鑑定人の役割を喜んで引き受けたのである(3)。しかしながらこの鑑定人たちは、通常決してそのように無関心ではなかった。彼らはしばしばそれどころか積極的な関与をしていた。すなわち職業柄公共の福祉に理解を示す多くの裁判医にとって、鑑定は事件本人に対する一種の〈断罪判決(4)〉であった−いかに説教めいた論証や、またまったく見当違いの見解がここに示されていることか(5)。禁治産法の文脈での彼らの積極的な関与は、社会的な必要に応じるものであったし、後に示されるように、決してこの法制度の目的に関する支配的見解と矛盾するものではなかった。
  この間に舞台は大きく変化した。禁治産を受ける者および監護に服する者の鑑定は、専門医になるための継続的教育の枠組みの中で予定されている、鑑定書作成実習の履修を証明しようとする若い病院勤務医の活動領域になっている。彼らは精神内科的かつ精神病理学的にきわめて精密に精神医学的な診断を行い、鑑定対象となった者の〈精神状態(6)〉を説明すべき民事訴訟法上の義務を果たした。本来はとくに評価されない司法的活動のアイデンティティの一端は、鑑定の末尾に定式的に〈第\\条の要件が存在する〉と記載することに示されている。鑑定人の活動とヒポクラテス的な医師の役割との調和の問題性は、おそらく、現代の精神医学の教科書で〈保護措置〉が重要であると説明されているがゆえに、顕在化していない。そこでは、強制のもとでの治療が正当化される措置が理解されている。そのようにして彼らは、苦しみに満ちた侵害が不可避であることを確信していた中世の宝石研磨士のような意思の強さをもって、彼らにとってたいていは患者でない被検査者にとびかかり、彼らを後見人ないし監護人の保護下に置くことを推奨している。今日の形態での禁治産に関する法は、当時の精神科医の標準であるといってもよい学説の影響の下に成立した(7)ものであるとはいえ、医学としての精神医学は今日に至るまで、民事法上の世話措置に関する鑑定について一貫した、また上述の矛盾から解放された任務観を展開させてきたわけではない(8)。大学の精神医学は、大学病院での治療がしばしばもはや不可能になった慢性の病人や障害者の介護問題に手を焼いてきた。個別ケースの評価に関する経験的に基礎づけられた基準は得られることがなかった。その限りでは鑑定は決して〈学問的〉とはいえない−むしろ地方の慣行および時によってはさらに鑑定人の人格およびその経験に関係する(9)全くの偶然の結果にすぎないように思われる。後見裁判所の問題設定にとって精神科医の診断の証言価値は非常に小さい(10)とはいえ、禁治産に関して公刊されたモデル鑑定書(11)は、鑑定人の任務を類症鑑別上の議論の技法に収束させている。診断上の観点に関する鑑定人の新たな方向付けについてのメンデ(12)の要求は、実務ではほとんど共感を得ていない。まさにこの不充分な状況にかんがみて、新たな世話法の準備段階において、社会教育学者および心理学者の鑑定活動の可能性が議論された(13)。しかしこれによってもなお、鑑定任務についての十分な質を備えた議論状態は提示されなかった。
2  世話の医学上および精神社会的実務論
  以下の考察は、行動科学的な基礎を前提としている。それは世話制度の医学および精神社会的な実務論、すなわち医学的ないし精神社会的側面で(14)後見裁判所によき助言を行う理論である。それゆえ私は、可能な限り、法律上の概念を議論するのではなく、これに対応する適切な行動理論のための精神社会的ないし医学的準拠枠組みの手がかりを展開させるように努めたい。(世話の)〈必要性〉あるいは〈行為能力〉といった法律概念は、医学的ないし精神社会的に取り扱う方法の明確さを必要とし、そうすることによってはじめて法律概念は、医師、ケースワーカーおよびそれ以外の者が自らの職業的な立場から利用できるものとなるのである。
  本稿の目的は、鑑定人の役割に関するこれまでとは異なる理解を獲得することにある。被検査者に対して、医師の積極的な関与を思いとどまらせていた、従来優勢であった〈客観的鑑定人〉の観念に対して、新しい理解は、鑑定人に被鑑定人に対して彼の〈本来の〉、すなわち医師ないし治療者としての役割を認め、かつそれに応じて問題となっている裁判所の裁判がもたらす具体的な帰結をも鑑定の内容に加えるべきであるとするものである。後見および監護は、すでにこれまで精神科医および障害者や高齢者介護の実務家にとっては道具的な意味を持っていた。すなわち後見および監護は、その都度実際上の目的を追求するのであるが、常に医療上・介護上の動機とは一致せず、また時として法的にも疑問を生み出さざるを得ないものである。将来、治療者として理解される鑑定人によって、法的措置の道具化という実務の傾向を、法律など専門的に理解可能でそれゆえ反省可能な基礎に据えつける可能性が開かれよう。このことはまず第一に、これまで実践されそれゆえ将来も世話法の実務で現実的となりうる後見および監護の目的との突き合わせを前提とする。そこで第二章において、社会史的な意義を含めて追求されてきた目標がスケッチされる。第三章では、医療とかかわりを持たない〈客観的〉鑑定人という観念の非実用性が解き明かされ、これに続いて第四章では法的判断を下す裁判所との協働について述べられる。
  自らが世話にかかわる蓋然性は、とりわけ高齢者にあっては心筋梗塞、あるいは学者やマスコミがたびたび取り上げているその他の病気ないし障害よりもずっと高い。鑑定人の任務に関する理解、職務に特殊に必要となる経験と専門的な能力水準の問題は、これまでと異なって学際的な関心対象とならざるを得ないのである。

二  包括的な監護か、市民としての死か?


1  目的設定における矛盾
  後見が開始されることによって、該当者にとって良いことになるのか悪いことになるのかは争われている。ある者は、後見は〈援助を必要とする人のための監護の包括的な形式〉と定式化している(15)。紛れもなく抜け目のない患者も、社会扶助の獲得が重要であるときは、監護や後見を実際上決して受けたりしないだろう(16)と別の者は述べている。すなわち、それは法的に誤った方向への展開なのであり(17)、〈援助というラベルのもとに〉〈精神病者に対する隔離傾向〉を隠そうとしている(18)、という。最近の精神医学の教科書は、一方では〈保護措置〉等々といい、他方では〈適用には極めて控え目〉で〈ほとんど利用しない〉とし、あるいは〈きわめて重大な危険のある場合〉にのみ忠告する、というようにこの矛盾を説明していない。この矛盾は、争いなく差別的な効果を〈世話〉という新たな表現で解決されうる、主要には用語上の問題と見ることで無視されている。そして教科書で推奨されていた抑制が将来的には放棄され、保護を必要とする精神障害者に親切を尽くすことが求められているようにみえる(19)世話の制度が、頻繁に利用されることが想定されている。禁治産を保護措置とだけ捉えることが正しくないこと、しかも新しい世話法の枠組みの中でも、アプリオリに事件本人の幸福として措置を理解することが適切でないこと、すなわち社会史的に証明可能な意味付けが法律の後継制度にとっても重要であることは、以下に説明されるとおりである。
2  社会にとって無用な者の社会的排除
  後見制度は、それと結合した見方に関していえば、さまざまな関係を考慮してはじめて適切に理解できる。その本来の、法制史的に証明できる目的設定は、疑いなく専ら監護的な性格であった。重篤な精神障害によって法的に行為能力をもたない者のために、親族、同族あるいはさらに公権がこれに代わって行動すべきものとされた。当該の者には、通例、権利は認められていなかった(20)
  前世紀になってはじめて、後見人の選任に先だって、当該の者を原則として行為能力がない、あるいは制限的にしか有しないと宣言し、彼から権利を奪う(21)という社会的必要性が明らかにされた。ドイツ帝国議会の禁治産法の審理においては、その理由として法的取引の安全の必要性があげられていた(22)。しかしこの理由は表面的なものにすぎないことが明らかになる。それは、監護という本来の意図と並んで、禁治産の法制度の展開にとって全く別の社会史的に重要な動機が決定的であったことを隠している。
  一七世紀以来発展を遂げてきたヨーロッパの精神医学の歴史的起源は、周知のように監護的な配慮という意図に見られるのではなく、市民の行為は合理的・理性的な国家的な利益に適合して規制されるという、当時台頭しはじめた理性的な市民の要求に見られることは明らかである。こうした行動態様を伴なう社会的有用性という理性の基準からはみ出す白痴および狂人、アルコール中毒、物乞いおよび反社会的分子は、もはや神の恩寵を受けた社会生活の構成員としては許容されなかった。彼らには社会および国家の特別の権力関係からの除外という国家的制裁が課せられた(23)。〈危険な〉精神病者に対する裁判上の〈白痴宣告〉が登場した。他方、フランス民法の〈禁治産宣告〉およびドイツ民法の禁治産宣告の制度によって、同様の無害化の目標が白痴、狂人および精神病質者に対して追求されたのである。これについては若干の制約がなされなければならないが、ドイツ民法の禁治産法の成立に際しては、さまざまな社会的かつ観念的な思想の傾向が時として交錯していた(25)という指摘を挙げておこう(26)
  事件本人の幸福としての禁治産は、事件本人がこの措置のためにではなく、この措置に対して戦える民事訴訟法による争訟的裁判手続を必要としないはずである。監護の歴史においては、むしろ各人は十分な弁明なしに福祉を享有できてよいという配慮が常に優位している。むしろ、然るべき市民はこの手続のおかげで〈市民としての死〉の制裁から守られているといえよう。家族や国家の利益を考慮して、禁治産は、当時道徳的な範疇では非難されたが、援助を必要とする病気だとは理解されていなかったアルコール中毒に対する威嚇手段として投入された(27)。立法経過の中で民法第六条の要件を、法的には行為能力があるとされていた者にも拡張しようと考えたことは(28)、立法者が法的に行為能力をもたない者の監護としての後見の本来の意図から、すでに離れていたことの証拠である。
  民法の施行後、なお手続法に表現されていた私的領域の保護という自由主義的理念は、間もなく〈解体〉された。後見は〈社会的かつ学問的進歩〉という当時の精神から〈自らを規律することができない、あるいはそのようなものと診断された(30)〉私的領域への社会政策的に動機付けられた介入の道具になったのである。〈監護〉とは治療ないし教育を意味するべく、〈教育不可能な者〉および〈治療不可能な者〉のためには、禁治産の制度を超えて拘束がなされなければならないとされた(31)。ミュンヘンの区裁判所のある裁判官はかつて、禁治産は誰のために予定されるべきかとして、次のように述べた。すなわち「仕事嫌い、浮浪者、徘徊、乞食の常習、常習的犯罪、不良等によって役に立つ生活形式を見出したと信じる者、それゆえ働いて社会への適合をするよりは、他人の犠牲での生活を優先させる社会の敵に禁治産は適用されるべきである(32)」と。判例も禁治産に当時の社会的傾向、すなわち事件本人の社会的に消極的な評価を反映させている(33)。最後に、後見は犯罪防止にも役立てるべきだとも主張されていた(34)のである。
  このような理解に対応して、鑑定人も事件本人の社会的な劣等さを確定することにその機能を見出していた。それは当時の進歩思想に対応した社会的有用性に関する人の評価であった。鑑定書の中で常に繰り返される〈自制を欠き意志薄弱な精神病質者〉、〈幼稚な人格構造〉、〈生存競争に耐え得ない〉といった定式は、手続の目的が何であるかを示していた。それは援助を要する病状を示すのではなく、良き市民として評価できない行動に関して、これを除外するための証拠を示していた−こうした鑑定にあっては、実際上まさに降格の儀式が問題だったのである(35)
  このような鑑定の状況に対して、新しい世話法は監護の目的に関して疑いのない明確性をもたらしたと反論できるかもしれない。それにもかかわらず、後見に代わる新しい制度が個々のケースで社会的な除外の必要性のために用いられる傾向に配慮しておく必要がある。障害者との社会的な関わりは、依然としてこのような隔離の必要性(36)と無縁ではない。個々のケースでは今後も、嫌われ者の親族あるいは制度的に拘束された者にお灸をすえ、烙印を押そうとするために〈後見〉のもとに置こうと試みられることもありうる(37)。鑑定人および裁判官は、世話制度の濫用を認識するために、こうした社会的文脈の理解についていっそう敏感でなけければならない。
3  介護不足と過剰な抑圧
  加齢による障害者、慢性的な精神病者および精神障害者の施設においては、後見および障害者監護の目的のもう一つ別の理解が観察される。法的には若干の異論があるとはいえ、それは差し当たり重要な社会的現実を意味し、そして、この法的制度との関わりにつき一種の行為観念として制度の日常実務を規定している。この理解によると、介護と治療の枠内で必要と思われる強制およびその他の基本権侵害を正当化することにのみその目的があり、事情によってはルーティン的に施設によって用いられる道具が問題なのである。管轄権のある区裁判所の実務が、それぞれ異なる要件と結びついているという限りでではあるが、二つの制度の間に差異が認められる。施設の内部で日常的に用いられる〈フォーマルな司法的防護措置〉という用語は、司法の役割が周辺的で結局のところ、施設の固有の実務では標準的だとはみなされないことを明らかにしている。
  後見および監護法のこの道具化は、その介護の課題にとって質的にも量的にも不充分にしか整えられていないし、所与の条件のもとではその機能を放棄することができないと思われる施設の実務の観点から理解される。ある州立病院の院長は、後見制度を批判して次のように述べている。すなわち、「後見制度によって長期入院患者、幼稚症患者のように扱われ、一人前に扱われない患者を生み出している。彼らは問題なく、合理的に管理され介護されている(38)」と。入院中の患者の治療やリハビリテーションに〈格別の援助〉は提供されないとはいえ(39)、〈入院ないし施設滞在の延長を実用的なものにすること(40)〉が重要であるという。このようにしてフォーマルには正当化され、今日もたいていは隠された形で(41)実践されている強制およびその他の基本権侵害は、この課題の克服(42)を考慮すると質的にも量的にも不充分な施設の状況の結果なのである。
  このようにして後見および強制監護は、機能的に必要な〈惨めな、人間の尊厳のない状態(43)〉の要素であることが分かる。事件本人は〈他の者の手中に陥って権利もなくどうすることもできない〉のである(44)。オーストリアの後見法および収容法改革の学問的指導者は、この構造的関係を明らかにしている。すなわち国家的に承認された権力関係を伴なう医師の診療契約を拡大することから、過剰な抑圧と介護不足という、二つの傾向が生じるという。介護の不足は、さしあたってまず当該の人々の自己表現能力、組織能力および論争能力がそれ自体として小さいことと関係している。社会的な資源の配分に際しても、したがってその存在がほとんど認識されない。後見といった法的侵害によって社会的な行動能力がさらにいっそう制限されている。この著者は、過剰な抑圧として、明白な、シンボル的な、あるいは構造的な権力をあらゆる形態を含めて理解している。まず、強制は制度的な文脈に照らせば治療上正当でありうるが、その濫用がそれによって簡単に隠蔽される。とくに濫用傾向は、不充分だとの刻印を押された制度的必要性と対決する基本的な世話の必要性を抑圧するために、介護の不足の結果として生み出されるという(45)
  この法制度のもう一つ別の機能は、病院外の介護で観察できる。とりわけ病院での経験の未熟な職員は、彼らの治療の努力が実を結ばないとき、退院よりは後見や監護を提案する傾向がある。病院ができないことは民法上選任された世話人がするべきだ、というのである。その具体的な行動の可能性を問うことなく、障害者の介護に関するまさに非現実的な期待がそれと結びついている。しかしながら、個々のケースでは後見人や監護人は事実上は順応援助(〈世話付きの宿泊〉)と訪問による健康援助が区別されないような方法で世話活動に携わっており、そして本来それは外来の神経科ないし療養教育上のサービスに必要な働きなのである。このような世話の目的は、民法上の代理(46)にあるのではなく、病院外でのリハビリテーション治療の可能性の欠けているところを補うことにある(47)。この実務も介護の不足という状況のもとでは、当分変ることはないだろう。鑑定人は将来、こうした介護の必要が世話措置を正当化するか常に問われることになる。
4  利益を擁護し、権利を主張する
  過去二〇年間に社会学および法律学の議論は、民法上の世話の目標を本来の理解に引き戻している。従来のリハビリテーションに敵対的な実務を論証することで、その隔離機能に対抗している。事件本人の人としての幸福が中心に置かれ、法的行為能力に対する構成的な侵害は個々人の監護の必要性に段階的に対応するべきだとされている。社会的な世話の給付の提供および、以前は個人の財産についてであったが、今日ではたいてい社会法によって保障されている社会保障の任務は、もはや世話人の任務には属しない(48)。世話の目的に関する新たな理解の理論的な基礎は、とりわけペリカンとフォルスターによって築かれた。それによれば、世話はその取り扱いにおいて烙印を押し、隔離し、差別化する傾向に対する一種の制度化された監視である。世話は人格権を保護し、必要に応じた介護を保障すべきである(49)。そして世話人は、その精神的障害によって自らの事務を十分に処理することのできない者の意思と利益の代理人となるのである(50)
  新しい世話法は、この観念にしたがって形成されている。世話を授権する〈必要性〉および被世話人の〈幸福〉が、中心的となる原則である。もちろん医学上および精神社会的な介護の日常において、この理解が具体的な姿を獲得できるか否かはなお明らかではない。上述の介護の分野における日常的な経過への法の規範的効力は過大評価されてはならない(51)。広範な社会政策的支持が、はじめて世話人の適切な自己理解につきこの理解に力を付与することができるのである。
  世話人はもはや介護施設や役所の執行援助者といったものではなく、これらに対して被世話人の必要性を認識させることになる。強制措置が正当化される場合にのみ世話人が思い起こされるのに代わって、予定されている治療措置に関する医師法上の要請にしたがって情報を与え、これをその同意にかからしめるものとするのである。彼は、固有の社会的な世話サービスを有する介護ネットワークの欠如の中で、これを穴埋めするものであってはならないのであって、必要な場合には被世話人の社会的な権利を訴えなければならない。消費者権と理解される患者の利益は施設の担い手に認識されなければならない。このような理解は、将来において世話の数を非常に増大させることを多くの鑑定人にためらわせるだろう。オーストリアにおいては、このように理解された〈世話制度〉に対する精神科医からの若干の異論が生じている(52)

三  参加型の鑑定人


1  〈客観的〉鑑定人の終焉?
  世話は、すでに述べたように、本人に対し多面的な意義を有し、彼のその後の生活に深刻な影響を与える。鑑定人は、こうしたありうべき結果に向き合うべきであろうか。あるいは、鑑定人は他の申立人に雇われ法的判断に責任を負う必要がないとして、全く無関心でいられるだろうか。そうして鑑定人は、被検査者に距離を置いた専門的な観察の中で、彼の個人的な運命を−純粋に職業的に見て−委託の解決にとって瑣末なことと考えることができるのであろうか。
  鑑定人と事件本人(被検査者)との関係は、長い間反省されなかった。ヒポクラテス的な医師理解を基礎とする〈客観的〉鑑定人の理論が支配していたのである。それは〈同情や反感〉にとらわれずに、〈被検査者を研究対象〉として自然科学的な距離を置いて観察し、〈訴訟の進行〉に、それゆえ本人に対する鑑定の結果についても〈完全に無関心〉でなければならないとするものである(53)。〈完全な客観性が要求される(54)〉というのである。被検査者の人物およびその幸福に対して距離を置くことは、鑑定人の専門性のメルクマールとして今日も通用している(55)
  しかしながら、司法精神医学的活動のパラダイムとしての〈客観的鑑定人〉のコンセプトは、人間の認識および人の診断に関する非現実的な考え方に立脚している。それは被検査者の人としての幸福のために設定された裁判所の裁判にとっては、非機能的であり、後見裁判所と精神障害者ないし高齢者の援助に専門的に精通した実務家との協調に必要な展開にとっては非生産的に作用する。
  〈客観的鑑定人〉のパラダイムは克服されなければならない。それは課題にとってより適切な理解によって代替されなければならない。そしてその中に、被検査者に対する態度、どのように裁判所と協働するかという別の能力が含まれていなければならない。その中心となる観点は次のとおりである。
・被検査者の人としての幸福に対する鑑定人の関心
・鑑定活動から生じる法的判断のありうべき結果に対する明示的かつ反省的な(共同)責任
・医学的ないし精神社会的な障害者あるいは高齢者の援助における実務経験を通じて現実の展開状況に適合して発揮される鑑定人の能力
2  人を診断するということ
  客観的鑑定人の理想像は、自然科学上の客観性および医師がその客体、すなわち病気に対する感情に左右されないという、前世紀の中頃に医学において登場したパラダイムから導かれる鑑定人の立場を意味している。観察対象の担い手、すなわち病人の感情的な言明は、診断されるべき病理学上の問題にとっては全く重要でない表面的な現象にすぎないとされる。同様にして、医師の感情は存在しないか、あるいは仕事にとっては障害となるとみなされる。しかしながら、このような自然科学性の理解は、すでに物理学においてすらもはや無制限には主張されていない。現代の物理学も、現実は決して〈客観的〉には把握できないこと、そして我々は解釈に依拠してイメージを取り出しているにすぎない(56)とされている。そして観察が、観察対象への感情を原則として排除できない介入であることは、不特定性関連に関するハイゼンベルクの定式の出発点であった。
  現代の医学理論は、この〈自然科学的客観性〉を原則的に拒否している。〈中立的な観察者の観念はメルヘンであることが明らかになっている。実際に中立的な観察者は何も観察していない(57)〉といわれるのである。客観性と中立性は、人との交際およびその観察にとっては非現実的な目標である。なぜなら、我々の認識および観察されたことの記述は、我々のその時々の基本的な仮定に依存しているからである。我々の理論が、我々が見て記述するものを規定しているのである(58)。我々の意図が、我々が観察するもの、またどのようにそれを観察するかを規定する。医師活動を体系的に反省する熟練した臨床医は、我々の現象の記述はそれを自己の使用のために整え(59)、観察されたものを自分の関心にそって取り扱うことができるようにするための道具であるという、ヴィトゲンシュタインの定式を援用している。人間の解釈は、主体ー客体シェーマには押し込められない。それは相互作用的な出来事であり、その出来事の中で相互の重要な部分で情緒的かつ感情的な理解と誤解が生じるのであり、そしてそれは鑑定人の生産的な働きにとって不可欠でもあるのである。鑑定人も彼が以前に体験した人間関係の経験を、被検査者に無意識に転用する(60)という一般的な人間的特性から自由ではない。それゆえ、鑑定人は被検査者と同様に、検査の過程で同情と反感を体験するのである。しかしながら、鑑定人はこの事実を古びた理論を援用して無視してはならないし、またこの〈客観性〉に従っていると感じる鑑定人が非難されるのと同様に(61)、無意識な感情に盲目的に従ってもならないのである.鑑定人は、むしろその被検査者との関係を反省すること、およびこれをその任務の遂行に利用することを学ぶべきである。被検査者と鑑定人のこの局面は、一方では〈客観的〉であると信じた鑑定人の重要な誤りのもとであったし、他方ではそれは経験を積みふさわしい教育を受けた者によって、検査される者の診断について特別な方法で利用されるものでもある(62)
3  診断の完全性
  被検査者が鑑定人に、検査の過程でその記憶から浮かんできたことを何をどこまで語るか、被検査者が問題をどのように理解してそれに応じるか、また彼が鑑定人との対話の中でどのような会話上の積極性を示すかは、鑑定人とその被検査者との関係の質に依存する。鑑定人を信用しない被検査者は、鑑定人にほとんど語らないし、鑑定人がその困難について援助を約束し対話を促進させる機会を与えるなど彼が信用を置く鑑定人に対するのとは、全く異なった内容を伝える。一定の社会的領域の問題や障害者問題に対する鑑定人の特別の経験も、結果にとって重要である。とりわけ痴呆の障害を有する高齢者は、鑑定人に対する瞬間的な態度およびその当面の状況の解釈によって、閉鎖的となったり不安におののいたり、あるいはあらゆる精神上の問題を精力的にかなりの成功を収めて隠そうとすることがある。そのようにして多くの精神病理学的所見は、高齢者のなお存在する精神的能力の表現であるよりは、診断状況の表現にとどまっている(63)
  我々の意図、および我々の関心の態様が、何をどのように理解するかという我々の認識を規定する。そして−ほとんどがそれを行う重要性をもたない精神医学的診断の還元主義に対する意識的なアンチテーゼとして−認識の完全性と呼ばれるものもこれに依存する。遠くを見つめる者は目前の渕を見落とす。その認識は不完全である。状況に適合した行為のための、まさに重要な事実が見落とされ、問題が把握されないか、あるいは捉え損ねる。障害をもつ高齢者の鑑定の診断は、元来手続の目標であるもの、すなわち本人の人としての幸福に対する無関心から、診断が目前の裁判にとって重要な事実の認識だけで終わっているために、しばしば不完全なのである。
  二人の者が同じ事実を観察する場合に、一人は若干のことで確定に満足するが、他方はこの結果に不満足でその観察結果に強い関心を持ち、さらに事実を探知することをやめないで、それによってひっとすると別の理解に到達するかもしれない。以前、医学においては診断は、治療の前に完結可能な認識プロセスであるという考え方にもとづいていた。医師の診断は、すでに示したように(65)、本来は決して完結することのないプロセスである。そのプロセスは、医師が事後の努力につき動機を見出さなくなったとき、はじめて停止する。診断がより早い段階で、あるいはより遅い段階で終結するか、すなわち診断の範囲は、それゆえ患者とその幸福に関する治療上の関心の問題でもある(66)
4  必要性原則と治療に関心をもって関与する専門家の任務
  世話が法律による必要性原則にしたがうことが必要であると考える裁判所は、世話に代わる代替的な解決を知っていなければならない。しかしここで裁判所は、障害者あるいは高齢者問題を解決することに習熟している鑑定人とその専門能力に頼らなければならない。このような解決は、秋に熟した果実が落ちてくるように、空から降ってくるものではない。それを発見することは、当該の病人や障害者のために関わっている医師、ソーシャルワーカーあるいは心理学者等と緊密に関係する、まさに創造的な活動なのである。これは専門的な援助者の職業上の自己理解、すなわち彼らを創造的たらしめ、そして彼らにより良い解決をもたらす職業役割の自己理解の発露なのである。この専門的な創造性は、この任務を援助者であるという職業上の自己理解と結合する鑑定人についてのみ見い出すことができる。鑑定人はその役割をここでも医療目的ないし治療目的、すなわち本人の幸福が重要であること、そして障害者ないし高齢者の問題について、彼らの本来の医療上ないし治療上の解決能力を発揮すべきであることを理解しなければならない。上述の観点は、世話事件における鑑定人が、患者等の医療や治療実務において獲得し、展開できる能力と経験とを用いなければならないという必要性を示している。さらにもう一つの帰結は、鑑定人がその任務や被検査者に対してとる立場は、原則的には彼らが自らの患者等に対して取っているそれと区別できないということである。世話事件における鑑定人として彼らに期待されるのは、主要には彼らによって習得された医師ないし治療者の援助者としての役割と調和するし、まさにそれが求められているのである。
  鑑定人は、〈医師および治療者であるという本来の役割を法廷でも発揮すべきである〉ということは、刑事訴訟の鑑定人の役割に関してはすでに要求されている(68)。しかしそこでは、常に公益と被告人との互いに対立する利益が問題である。これに対して〈世話〉が事実上、事件本人の援助として理解される限りでは、後見裁判所での鑑定制度には利害対立が目立たない。ここでは鑑定人は、社会給付の権利にも意見を明らかにすべき社会医療的鑑定人の立場にもある。そこでは今日、〈鑑定人と被鑑定人との間では、本来の医師・患者関係〉が求められているのである(69)

四  協    働


1  鑑定人の参加型関与−司法の失態?
  事件本人の幸福のために関与し、自ら医師ないし治療者等々と理解する鑑定人は、さしあたってその専門性に関して疑問が生じるという危険に遭遇する。磨かれた顕微鏡のように、彼は裁判所に解明されるべき事実関係について決定的に明確な姿を提示しなければならないし、学問的冷静さの姿勢が強くなればなるだけ、それだけいっそう彼が修正理由を生み出す心配は小さくなる。積極的に関与する鑑定人は、委託者である裁判所に対する不誠実という疑惑にも当面しなければならない。鑑定人が最後になって事件本人の弁護士または同盟者として登場するならば、裁判所はどのようにして彼を信頼できるだろうか。
  疑いもなく、鑑定任務の引受けは、これを委嘱する司法に対する義務を意味する。これには、たとえば正直義務(完全性という意味をも含む)、確定と評価の専門的な品位に関する信頼性も含まれる。しかしながら、積極的に関与する鑑定人に関する我々の要求は、鑑定業務におけるより大きな専門的財産という目標を有している。そして裁判所が正当に価値を置いている信頼性は、他の拘束を排除するものではない。もちろんそれは、それが矛盾をはらむところではとりわけ責任意識をもって相互に調整されなければならない。たとえば、医師は患者、病院の経営者さらに管轄ある社会給付主体に対して同時に義務を負っている。同様に弁護士は現行法、依頼者の利益およびその実務上の倫理規範とを一致させなければならない。しかし鑑定人にはこれができないと思われているのだろうか。
2  裁判官席あるいは円卓テーブルでのチームワーク
  司法の実務にとってより重要な問題は、世話の必要性原則に応じて積極的に関与する鑑定人によって提供される事実関係の著しい複雑性から生じる。精神医学上の病状診断の還元法−それは世話の必要性の結論を導き出せるものではない(70)−は、それが根拠づけのために手軽に利用可能な公式として利用される限りで、司法の日常業務の負担を軽減している。積極的に関与する鑑定人の複雑な診断は、長い間周知ではあったが、良き法律家のルーティンに慣れて見えなくなってしまっている問題点を浮かび上がらせる。すなわち、一体誰が判断するのか、という問題である。
  法律家と精神科医の鑑定人との本来のあるべき関係は、しばしば語られてきた。しかしながら、鑑定人が今や〈白衣の裁判官〉であり、〈舞台の主役〉であるか否か、あるいはたんに裁判官の〈補助者〉としてのみ行動するべきか否かの問いは、現実的に考察すれば正しい二者択一関係ではない。手続法的に明確なのは、疑いなく法的評価については裁判官の専属管轄であり、鑑定の末尾で法的定式を述べる多くの鑑定人にも結末は明らかではないのである。しかし、裁判官の補助者という議論形態は、それが問題の解決に何らかの寄与をするというよりは、裁判所の人間科学的な鑑定への事実上の依存を覆い隠している。
  法による社会生活の把握、とりわけ医学的ないし社会科学的な内容を有する法的概念を満たし、法的判断の事実上の結果を評価することは、常により複雑に説明される精神社会的諸関係に関しては、法律家の生活経験だけではもはや処理できなくなっている。〈専門家による法律上の議論の補助(71)〉の必要性が生じている。精神社会的な事実関係(たとえば生活態度と援助の必要性)に照準を合わせ、評価が不可避的な言明(たとえば〈病気〉ないし〈無能力〉)を必要とし、またたいてい非常に不特定な法律概念(〈その事務を処理できない〉、〈精神状態〉など)を基礎とするような問題提起にあっては、裁判所の独自の判断はもはや紙の上だけのものになる危険にさらされている。身寄りがなく、いつの間にか痴呆で多かれ少なかれ障害をもつ老婦人が、家事を十分に処理できないとして強制的に介護ホームに引き取られるべきか否かの問題は、大きなリスクを伴ないそして個々のケースの状況によって非常に様々に答えられるべき判断である。あるケースでは、管理が行き届かなくなり健康を損ねる危険があるかもしれないし、別のケースでは数週間以内に死亡するという高度の蓋然性によって強制移転が必要かもしれない。ここでは、唯一責任のある裁判所という擬制は現実を無視したものである.裁判所の裁判について事実上二人が負う責任には、裁判所が法の権威であり、鑑定人はそれぞれの専門分野の権威である(72)という定式がむしろふさわしい。バイオリン奏者も指揮者も、一方が他方の補助者であると主張できないのと同様である。結果については、一方が他方を代替するのではなく、それぞれがその部分について責任を負うのである。
  権限領域のしばしばそのようにして行われてきた確定よりは、医師、ソーシャルワーカーあるいは病院の心理学の専門家等を、彼らが本来のものであるようにさせる方が有益である。そうすると、鑑定人については、その本来の職業役割が認められなかったために、よりよい法律家のように振舞おうとする必要性が減少するだろう。そして次の一歩は、シュラー・シュプリンゴールム(73)がかつてこれを要求したように、裁判所の裁判で本来問題となっている人々に、すべての関係者が協働して取り組むということであろう。おそらく、法的判断がチームワークに準じた形でなされる円卓テーブルの考え方が、本人の幸福を促進させる舞台を提供するであろう。チーム作業は、個人の責任を排除しない。裁判所は、その判断を常に法的文脈の中で理解すべきである。しかし、同時にこの判断は鑑定人を通じて医学的ないし精神社会的な準拠枠組みに依拠して行われるべきであろう。
3  事実解明のための指標
  世話の必要性原則がこれを求め、また積極的に関与する鑑定人が生み出すように、診断の高度の複雑性は、司法の日常業務の現実的な条件を無視してはならない。判断を下すことができるために、コミュニケーションをしやすくするための行動手順および取り決めが必要になる。精神科医の病状診断がもはや社会的な事実関係の複雑性を減少させるための必要的な基礎でないとすれば、意思疎通のために別の取り決めが作り出されなければならない。以下においては、世話の必要性が検討される場合に、鑑定人及び裁判所の手助けとなりうる指標を提供することにする。これは世話法の法律上の必要性原則を、医学ないし精神社会的に操作可能なものとする一つの試みである。
  まず、基本的な前提は、常に障害者(慢性の精神病者は障害者と同視される)の問題が重要であること、すなわち、人格的発展を求める権利、可能な限り通常の社会的関連の中での生活に関与する権利および健康上の損傷との関係で身体の不可侵を求める権利が脅かされうる人々が重要であるということである。この観点のもとでは、世話の申立ては、誰が申し立てるかにかかわらず、障害者およびその社会的関連の中で生活する人にとって、人間的かつ社会的問題の徴候である。その際、事件本人がその権利を脅かされあるいは制限されているとみていることもあり、あるいは他の者が事件本人の権利を侵害することを自らの利益のために、あるいは主観的には監護の意図からこれを求めているかもしれない。申立ては、裁判所および問題の解決に寄与するべき助言者への叫びであるが、それぞれの関係者は、これを別のものと解釈しあるいは別の問題にすりかえてしまうこともある。この場合、裁判所は常に、管轄権のある名宛人とは思えない。しかし、これが排除できないところでは、すべての関係者が本人の自治への侵害を可能な限り小さくする解決のために協力しなければならない。
  事実関係の解明は、まず第一に、常に個々的にのみ把握されるべき障害者像について、リハビリ診断に関する周知のシェーマ(74)にそって行われる(第一段階)。ここでは障害を指標とした、その限りでは一面的な診断が優位している。第二段階では、事件本人あるいは他の者にとって既知のまた従来知られていなかった能力、並びに日常生活を送るための社会的(親族)及び物的なリソースが重要である。ここでは同時に、生活環境に関する様々な困難、負担および危険−たとえば債務、住居を失うおそれ、介護の可能性がないこと等々−が探知されなければならない。第三段階では、障害者およびその社会的環境の自助能力を越えて、どの程度専門家が行動する必要があるか、また障害者の自治への介入なしにどの程度問題が十分に解決できるか、が明らかにされなければならない。このことは、状況に応じて債務者相談の援助、弁護士の案内あるいは介護サービスの委託といった包括的なリハビリ計画となりうる。ここで満足な解決が発見できないときは、第四段階において第三段階の計画に世話を組み込むことが検討される。もちろん個々のケースにおいて、第三段階における不満足な結果から、なお世話の必要性が導かれるとはいえない場合がある。人間の生活は、すべての問題が解決されるといったものではない。世話は、人間の生活が苦悩と痛みを伴なうものであるという事実から目を反らすためのものであってはならない。
  この小稿は、新しい世話の法制度が鑑定人の積極的な関与を媒介として、障害者および高齢者援助から、障害者の権利と利益の擁護に際しての事実上の支持の道具へと展開させるという目的をもって、若干の試論を提供したにすぎない。

五  世話の必要性を調査のための指針


第一段階  どの程度障害が存在するか。個々の障害像の記述
一・一  健康上の損傷像(impairments)
  通常存在する肉体的、知的、精神的組織ないし機能の損傷および喪失
一・二  損傷に起因する機能障害(disabilities)
  たとえば、歩行障害、目が見えないこと、欲動障害、記憶能力の障害、対人的関係能力の障害、変質または慢性的な苦痛による社会的接触の制限
一・三  社会的分野における制約(handicaps)
  一・三・一  居住分野
    睡眠、体の手入れ、性生活等プライバシーの権利
  一・三・二  労働分野
    実質的な安全、自己実現等
  一・三・三  自由時間分野
    社会的コミュニケーションの必要、活動等々
第二段階  障害の克服可能性および危殆
二・一  本人の人格、生活経験および生活記録から明らかになる、これまで利用されあるいは利用されなかった障害者の可能性と能力
二・二  本人の社会的ネットワークおよび本人のためのその機能性
二・三  必要性に対応する既存の物的保障、第三者に対する請求権および他人からの請求ないし権利侵害
第三段階  持続的な専門家の関与の必要性
  社会的な援助、あるいは介護サービスを求めることによる解決−人的援助、金銭または物の給付、リハビリないし介護の計画、資金問題の解決等々
第四段階  世話の助けによる解決

(原注)
(1)  Weinriefer, Die Entmu¨ndigung wegen Geisteskrankenheit und Geistesschwa¨che, 1987 からの引用による。vgl. Rasehorn, Theor. Prax. Soz. Arb. 1979, S. 268;AK−FamR−Huhn, § 1896;Wolf, Sozialwiss. Aspekte der `ehtodik psychiatrischer Gerichtsgutachten, Vortragsmanuskript, Iserlohn, 1988.
(2)  これが本人によってそのように体験されていることは、Joester und Kewitz, Dipl. Arb. Psychol. Bochum 1985 が証明している。
(3)  Bumke, Gerichtl. Psychiatrie, in:Aschaffenburg, Handbuch der Psychiatrie, 1912, S. 6;Langelu¨ddeke, Gerichtl. Psychiatrie, 1950.
(4)  Rasch, NStZ 1982, 177.
(5)  その当時優勢であった司法精神医学者の禁治産に関する鑑定書を掲げておこう。「精神薄弱は、学校で習得する知識および一般的知識領域での欠落によって特徴づけられる。多くの正しい解答は、一部はNが以前の知能テストから経験を収集したことから導かれる。関連性に関する徹底的な調査は愚鈍であることを直ちに証明する。テストが簡単な対象領域に関し、そして着想の豊かさ、結合能力および概念形成を展開させ、抽象的なことを把握させ、そして定義させることにあるときは、その無能はいっそう広範囲に及ぶ。Nはなお十分と把握される倫理的・道徳的観念を扱うことができるとはいえ、その行為をどのように証明するかという感覚を欠いている。抑制なく、また傍若無人に彼は再び犯罪者となった。近い内にこれからの成長が認められるとか、〈調教効果〉が期待できる、といった見込みは存在しない」。
(6)  民事訴訟法第六五五条(現在は削除されている。訳者注)における委嘱事項である。
(7)  Weinriefer, a. a. O. Fn. 1, S. 26ff.;Entwurf−Betreuungsgestz, BT−Drucks. 11/4528, S. 45;Holzhauer, Gutachten zum 57. Dt. Juristentag, B. 21ff., 1988.
(8)  その証明は、多かれ少なかれほとんど説明されていない法的概念を再現させてきた精神医学の教科書での、ほとんど周辺的といってよい取り扱いである。刑事訴訟と異なり、後見裁判所での鑑定活動は、どちらかといえば若い世代の精神科医にとっては任務とされている。
(9)  世話措置の優越が、まず第一にそれに対応する鑑定人の意見であり、精神科医による推奨であるという経験を前提とすると、このことはそれだけで後見および監護制度における地域的差異および制度相互間の捉え方の差異があることを推測させる。
(10)  Crefeld, Recht & Psychiatrie 1986, S. 82.
(11)  Vliegen, in:Fritze/Viefhues (Hrsg.), Das a¨rztliche Gutachten, 1984.
(12)  Mende, in:Helmchen/Pietzcker (Hrsg.), Psychiatrie und Recht, 1983.
(13)  Bruder, Gutachten zum 57. Dt. Juristentag, C, S. 40;Zenz/von Eicken/ Ernst/ Hofmann, Vormundschaft und Pflegschaft fu¨r Vollja¨hrige, S. 24, 61ff.;Crefeld, Bla¨tter d. Wohlfahrtspflege 1984, S. 27;Schulte, in:Hellmann(Hrsg.), Beitra¨ge zur Reform des Vormundschafts− und Pflegschaftsrechts fu¨r Menschen mit geistiger Behinderung, S. 101, vgl. auch S. 141 a. a. O.
(14)  実務論の概念は、哲学的語用論から生まれ、そこでは成果を生み出す行為の理論と呼ばれている。Stachowiak, Pragmatik, Bd. I 1986, XXXI;同巻の Pszczolowiski, S. 333 も参照のこと。Fu¨rstenau, Zur Theorie psychoanalytischer Praxis 1979, S. 44 が、この概念を精神社会学的行為理論に導入した。
(15)  Informationsschrift der Sozialdienstes Katholischer Frauen;vgl. Hu¨lshoff, in:Jahrbuch der Caritas 1985 S. 288;Bienwald, Vormundschafts− und Pflegschaftsrecht in der sozialen Arbeit, 1982, S. 108.
(16)  Gephart, Niedersa¨chs. A¨rtzblatt 1986, S. 30;vgl. Joester/Kewitz, Dipl. Arb. Psychol. Bochum 1985.
(17)  Sto¨cker, Amtsvormund 1982, S. 719.
(18)  Koester, in:Jauwisch/Kulenkampf (Hrsg.), Benachteiligung psychisch Kranker und Behinderter, 1983, S. 66.
(19)  今日の西ドイツにおいては成年者の約〇・五%が後見ないし監護に服している。様々な重篤な精神障害の蔓延に関する疫学的調査を総合すると、人口の約五%に至るまでこうした措置の予備軍になると想定されている。
(20)  Sto¨ber, a. a. a. O a. O. Fn. 17;Weinriefer, . Fn. 1;Holzhauer, a. a. O. Fn. 7;vgl. auch Gesetzentwurf, a. a. O. Fn. 7.
(21)  S. Fn. 20.
(22)  Sto¨cker, a. a. a. O. Fn. 17;Weinriefer, Fn. 1.
(23)  Do¨rner, Bu¨rger und Irre, 1984.
(24)  Baur, Der Vollzug der Maβregeln, Inaug. Diss. Mu¨nster, 1988.
(25)  Peukert, in:Do¨rner, (Hrsg.), Die Unheilbaren, 1983.
(26)  Holzhauer, a. a. O. Fn. 7, B 19 は、禁治産によって法的取引を保護するとの立法者の意図に反対する法的根拠を指摘している。
(27)  Weinriefer, a. a. O. Fn. 1;Magis, Entmu¨ndigung, Vormundschaft und Gebrechlichkeitspflegschaft, Dipl. Arb. Psychol., Bonn, 1982
(28)  これはとりわけ精神科医の要請によって実現した。それによって制度の目的は全く不明確になった。なぜなら〈精神病〉と〈心神耗弱〉は精神医学によって定義できないが、他方で事務ということによって法的行為能力はその一部しか述べられない。そこで法的効果のみが要件を〈法的行為能力が欠けている者は精神病者である〉というように定めることになる。vgl. Weinriefer, a. a. O. Fn. 1.
(29)  Peukert, a. a. O. Fn. 26, S. 73.
(30)  Peukert, a. a. O. Fn. 26, S. 74.
(31)  Peukert, a. a. O. Fn. 26.
(32)  Naegele, Leipzig. Zschr. f. Deutsch. Recht 1925, S. 284. より包括的なカタログを当時の有名な精神科医であったアシャッフェンブルクが提供していた。Peukert, a. a. O. Fn. 26, S. 76;Magis, a. a. O. Fn. 27.
(33)  〈病的な素質によって性格形成にマイナスに影響し、欲動と激情が変質の表現として現れる場合、ここに精神病質的に由来する心神耗弱の徴候が認められるときは、法的観点からも異議を申し立てられない〉(ライヒスゲリヒト一九二四年二月一八日)。
(34)  Magis, a. a. O. Fn. 27.
(35)  指導的立場にあった鑑定者は、禁治産の根拠を次のようにいう。「その生活過程において、Nは多くの点で無能であった。彼は仕事上の義務を真摯に受けとめず、たびたび職場を変えている。彼はしばしば法律に違反し、禁固もよい方向には作用していない。それどころか最後には懲役刑に服し市民権を三年間にわたって剥奪された」。犯罪を犯すことは、彼が罰金をまだ支払っていないのにフォルクスワーゲンを購入した事実と同様に、自らの事務処理能力のなさとされている。さらに「彼がホモセクシュアルのために、婚姻上の義務を全くあるいは全く不充分にしか履行していないし、その他の事務処理もできないことが考慮されなければならない」。
(36)  Do¨rner, To¨tliches Mitleid, 1988, S. 84 は、逸脱者とその対処に有効な〈産業上の理性の論理と倫理〉について述べている。
(37)  二つの例を挙げておこう。自分の仕事に熱心に取り組む大酒飲みの手工業者は、その家族が彼のある売春婦との同棲に激高したために禁治産を宣告された。このケースで裁判所は、申立てがなされ事件はアルコール依存という形で要件が満たされ、それゆえ申立ては却下できないとした。後見人の任務は何もない。慢性的な精神障害のためにその同意を得て、すでに財産管理がなされていた若い婦人に対し、乱暴にも検察官が禁治産を申し立てた。その後婦人は、世話が行き届かない施設のために精神病になってしまった。
(38)  Koester, in:Landschaftsverband Rheinland(Hrsg.), 10. Psychiatertagung, 1974.
(39)  Erhardt, in:Remscheid/Schu¨ler−Springorum(Hrsg.), Jugendpsychiatrie und Recht, 1979.
(40)  Kulenkampff, (S. 84), in:Jaunisch/Kulenkampff, a. a. O. Fn. 18.
(41)  von Eicken/Ernst/Zenz, Fu¨rsorglicher Zwang, 1990.
(42)  Vgl. Untersuchungsausschuβ des Landtages Baden−Wu¨rtemberg, Spektrum der Psychiatrie und Nervenheilkunde, 1987, S. 239;Zenz, S. 88, a. a. O. Fn. 41;Lempp;in:Hellmann, a. a. O. Fn. 13.
(43)  Finzen und Scha¨dle−Deininger, Der Psychiatrie−Enquete, 1979, S. 51.
(44)  Herold−Weiss, in:Finzen, Hospitalisierungsscha¨den, 1974;vgl. auch Crefeld, Recht und Psychiatrie (Werkstattschriften zur Sozialpsychiatrie 35), 1983.
(45)  Pelikan, S. 352;Bundesministerium fu¨r Justiz/ Wien(Hrsg.), Rechtsfu¨rsorge fu¨r pyschisch Kranke und geistige Behinderte;vgl. von Eicken/ Ernst/ Zenz, a. a. O. Fn. 41.
(46)  本人はしばしば、その後見人の事実上の援助の内容をよく評価しており、この援助がなぜ後見人に必要であるかを正しく問うことができる。Joester/Krewitz, a. a. O. Fn. 16.
(47)  Empfehlungen der Expertenkommission der Bundesregirerung zur Reform der Versorgung im psychiatrischen Bereich, 1988.
(48)  Bericht der Sachversta¨ndigen−Kommission zur Lage der Psychiatrie, BT−Drucks. 7/4200;Schulte, in:Hellmann, a. a. O. Fn. 13;Pelikan/Forster, S. 188;Pelikan, S. 352;Forster, S. 365, alle in:Bundesministerium fu¨r Justiz/Wien (Hrsg.), a. a. O. Fn. 45;Mende, in:Bundesminister der Justiz/Bonn (Hrsg.), Gutachten zu einer Reform des Entmu¨ndigungsrechts, 1985.
(49)  Pelikan/Forster, a. a. O. Fn. 45, S. 187.
(50)  Schulte, a. a. O. Fn. 13.
(51)  後見法改革の当初の批判者は、適切にも現行法を遵守するだけでも不充分な状態の多くは存在しなくなるだろうと主張していた。
(52)  これについては、Forster/Pelikan (Hrsg.), Recht und Psychiatrie, Kriminalsoziolog. Bibliografie 1985, Heft 47/48 に様々な論考がある。
(53)  Bumke, a. a. O. Fn. 3. それによって措置の責任と裁判所の唯一の任務に対する帰結が説明される。
(54)  〈我々医師は援助することになれている\\鑑定人も援助すべきであるが、その相手は鑑定を受くべき者ではなくて、裁判官である\\〉Langelu¨ddeke, Gerichtl. Psychiatrie, 1950.
(55)  Wolff, a. a. O. Fn. 1, S. 12.
(56)  Uexku¨ll/Wesiack Theorie der Humanmedizin, 1988, S. 29.
(57)  Uexku¨ll/Wesiack, a. a. O. Fn. S. 50.
(58)  Uexku¨ll/Wesiack, a. a. O. Fn. S. 25.
(59)  Uexku¨ll und Pauli, Meducus 1989, 11;Uexku¨ll/Wesiack, a. a. O. Fn. S. 56, S. 50.
(60)  この深層心理学的現象は転用と呼ばれている。Cohn, Von der Psychoanalyse zur themenzentrierten Interaktion, 1975, S. 33.
(61)  Heinz, Fehlerquellen forensisch−psychiatrischer Gutachten, 1982;Pfa¨fflin, Vorurteilsstruktur und Ideologie psychiatrischer Gutachten u¨ber Sexualstrafta¨ter, 1978.
(62)  Wesiack, Grundzu¨ge der psychosomatischen Medizin, 1984, S. 62. これはもちろん患者に対する実務と無関係には可能でない体系的な認識トレーニングを必要とする。
(63)  直近の親族がいなかったので、ある老人ホームに入居していた八五歳になる、以前実業家であった老人にとって自らの財産の管理が重荷になった。そこで善意の助言にしたがって、遠縁の親族をその財産管理人にするように申し立てた。裁判所はルーティンワーク的に行為能力の検査を命じた。裁判医は、老人が診断上の質問に答えることができず、日時を言えないしその財産問題にも全く無関心であると診断した。〈脳硬化症〉という診断にもとづいて、たしかに障害はあるが精神的にはなお判断能力のある老人に強制監護が命じられた。鑑定人は、検査の状況が老人に緊張を強いたことを無視していた。老人は、最初から招かれざる訪問とその場違いな質問に怒っており、また若者とは異なり、しかもホームへの依存をも考慮して、閉鎖的な対応をしたのである。
(64)  Do¨rner/Plog, Irren ist menschlich, 1986, S. 48.
(65)  Wesiack, a. a. O. Fn. 62.
(66)  あるケースがこのことを明らかにする。ある婦人が後見裁判所の指示にもとづいて、彼女が介護している精神障害のある娘の禁治産を申し立てた。障害者は生活をしていくために必要な課題を処理するのは無理で、親の援助を必要としているという確定は困難ではなかった。望ましい証明をすると過剰といえる後見を命じるのはためらわれた。後見人として予定されている母親は、後見人となることによって障害者の発育に不利な立場をとらされる。この障害者のための異議は、なぜ後見がそれほどまでに重要であるかという検討を迫るものである。ちなみに、禁治産申立はこれをしないと一八歳になっていた娘への児童手当が給付されないという、誤った情報によってなされていたことが明らかになった。
(67)  これについて一つの例を挙げておこう。七五歳の単身の婦人は、物忘れがひどくなってもはや自分で身の回りの世話をすることができないことが、近所の人にも目立つようになっていた。福祉事務所が彼女のために関与するという試みは、他人を住居に入れさせることになるという婦人の怒りに満ちた不信によって失敗した−福祉事務所の職員が入れ替わり立ち代りやってきたが、閉ざされたドアの前で立ち尽くすだけであった。婦人の介護状況は世話を必要とはさせていたが、施設入居を伴なう強制監護はためらわれた。この事件を扱った社会精神医療サービスは、以前の婚姻住居の方がよいと感じていた彼女を、そこで介護しようと試みた。結局最後に、痴呆症の障害のある老人の扱いに慣れている職員は、監護は住居の鍵を保管するだけで十分だという解決に到達した。福祉事務所が高齢者に相応しく配慮するだけでよかったのである。
(68)  Schu¨ler−Springorum, in:Hippius (Hrsg.), Ausblicke auf die Psychiatrie, 1984.
(69)  Fritze/ Viefhues, a. a. O. Fn. 11. 社会医学上の鑑定に関する包括的な助言書のこの編集者は、さらに〈援助の意思は鑑定人にもなければならない〉ことを要求している。鑑定人は〈保険会社の助言者であるだけでなく、被保険者の医学的な助言者の機能をも果たす〉べきだという。
(70)  Crefeld, Recht & Psychiatrie, 1986, S. 82;ders. O¨ff. Gesundh.−Wes. 1987.
(71)  Roscher, Rechtsverwirklichung durch soziale Arbeit, in:Brennpunkte Sozialer Arbeit−Sozialrecht, 1986.
(72)  Kaufmann, JZ 1985, 1065(これについては、カウフマン・上田健二訳「刑事裁判官の医学鑑定人依存性の問題」刑法雑誌二七巻三号(一九八六年)六八一頁がある。訳者注)。
(73)  Schu¨ler−Spingorum, a. a. O. Fn. 68.
(74)  BAG fu¨r Rehabilitation (Hrsg.), Die Rehabilitation Behinderter, 1984.

訳者の後書き
  ここに翻訳したのは、ボルフ・クレフェルト(Wolf Crefeld)教授の「世話手続における鑑定」Der Sachversta¨ndige im Betreuungsverfahren (Familie und Recht 1990, S. 272ff.) である。この翻訳については、訳者がドイツ滞在中に著者から許可を得た。
  世話事件における鑑定人の役割については、法学者からも、従来の鑑定人からその役割が大きく変化したことが指摘されている(たとえば、Diederichsen, Die Vera¨nderung der Rolle des psychiatrischen Sachversta¨ndigen durch das Betreuungsgesetz, in:Festschrift fu¨r W. Henckel (1995), S. 125f.)。民事訴訟における鑑定人が、裁判官の補助者か、助言者かという議論は、すでに以前からなされているが、世話法における鑑定人の役割は、従前の禁治産宣告手続、強制監護およびいわゆる民法上の収容手続について判例が蓄積してきた内容を、いっそう展開させているのであって、世話の必要性に関する鑑定のほか、学説によっては二〇項目以上にわたって必要とされている。鑑定対象も、たとえば世話の開始要件については単なる医学的内容のみならず、事件本人の具体的な生活、社会的側面に及ぶものとされている。開始要件全体を医師に鑑定させ、それを裁判官がさらに検討するという構造に変更されたとされているのである。そのほか審理期日における立会いなどにも鑑定人の役割は認められている。
  ここには、禁治産および強制監護の時代における鑑定実務を克服しようとする立法者の意図が明確に示されている。精神医学の立場から鑑定人のあり方の議論をリードしているのが、現在 Evangelische Fachhochschule Rheinland/Westfalen のクレフェルト教授である。すでに旧法の時代から、鑑定人たる精神科医らに対し、鑑定内容自体の改善、客観的立場の鑑定人から積極的に事件本人と関わる立場へのパラダイム転換を強調している。ここに翻訳した以外にも、すでに旧法下において Begutachtung im Entmu¨ndigungsverfahren, R & P, 1986, S. 82f. を発表し、その後も Was mu¨ssen Sozialarbeit und Medizin zu einer besseren Anwendungspraxis des Betreuungsrechts beitragen?, BtPrax 1993, S. 4f;Bedarf es einer Ehtik des Sachversta¨ndigen? Eine Pla¨doyer, den {bjektiven durch den a¨rztlich engagierten Sachversta¨ndigen zu ersetzen, R & P, 1994, S. 102ff. などがある。
  この論文の翻訳を思い立ったのは、ここでの提案が法学者のみならず(たとえば Bienwald, Betreuungsrecht, 3. Aufl. (1999), § 68b FGG, Rdn. 26)、近時の司法精神医学の教科書にも基本的に採用され(たとえば、Venzlaff/Foerster (Hrsg), Psychiatrische Begutachtung, 2. Aufl. (1994), S. 603ff.;Ro¨sler (Hrsg), Psychopathologie, (1995), S. 344ff.)、さらには多くの論文においても援用されているからである。もちろん、現在においても、鑑定人に頼らず裁判官が事件本人の直接の審問を行えば、鑑定はたいていは不要になるのだという実務家の見解もある(たとえば、Coeppicus, Handhabung und Reform des Betreuungsgesetzes, (1995), S. 37ff.)。こうした状況の中で、本論文の結論だけを紹介するよりは、全体を翻訳した方が趣旨を伝えやすいと考えたからに他ならない。もっともここで展開されている、裁判官、鑑定人、ソーシャルワーカーなどのチームワークが具体的にどのように形成されるのか、その具体的な内容はここにはまだ示されていない。これを論じる前に、まず鑑定人がどのような役割を果たすべきなのか、その意義を確認する必要があるわけである。
  わが国でも、成年後見制度の発足にともない、鑑定制度の充実が望まれるほか、法律家と精神科医との議論がなされ、この制度にお互いにどのように関わっていくかの共通認識が形成される必要があると思われる。ドイツにおける禁治産・監護制度時代の鑑定と、成年後見法下における鑑定が、実際にどのように変化したのか。クレフェルト教授は、「世話事件における鑑定人の機能は依然として問題があり不満足な状態にある」と訳者宛の手紙の中で記している。これらについては別に研究論文として公表する予定である。この翻訳は、その作業の中で生まれたものである。この翻訳が、成年後見法下における鑑定、さらにはその手続をめぐる議論の一つのきっかけになれば幸いである。