立命館法学  一九九九年六号(二六八号)


消滅時効と損害論
 - じん肺訴訟を中心に -

松 本 克 美





一  は じ め に
二  長崎じん肺訴訟最高裁判決(異質損害段階的発生説)の検討
三  秩父じん肺訴訟第一審判決(死亡時別途起算点説)の検討
四  私見(死亡時説)の展開
五  お わ り に




一  は  じ  め  に


  本稿は、損害賠償請求権の消滅時効と損害論の関係を、とりわけ、じん肺訴訟における安全配慮義務違反に基づく債務不履行を理由とした損害賠償請求権に焦点をあてて検討する。なぜじん肺訴訟を検討の中心に据えるのか。いうまでもなく、じん肺症は我が国における最大の職業病である(1)。今なお、全国で炭坑や鉱山、トンネル工事などでの粉塵作業にかかわった結果じん肺症に罹患したとして使用者の安全配慮義務違反を理由とした損害賠償請求を求める訴訟が全国で数十件提訴されている(2)。それに加えて、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効が問題となる事例のほとんどがじん肺訴訟であり(3)、しかも、この問題をより一般化すれば、潜在的進行的被害に対する損害賠償請求権の時効論にとって極めて重大な理論的課題を提起しているのである。
  ところで債務不履行に基づく損害賠償請求権は、一般の債権の消滅時効期間(一〇年間。民法一六七条一項)と起算点に服すると考えられている。従って、その時効起算点は民法一六六条一項の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」の解釈によって決められる。かつての判例・通説は、債務不履行に基づく損害賠償請求権は、本来の債務の履行請求権が転化したものであり、法的には両者は同一物と評価できるから、債務不履行を理由とする損害賠償請求権の消滅時効の起算点は、本来の債務の履行請求権を行使しうる時であるとする、いわゆる「債務の同一性の法理」を起算点解釈にあたり適用してきた(4)
  しかし、とりわけ本稿で検討対象とするじん肺訴訟における安全配慮義務違反事件において、この「債務の同一性の法理」の適用の是非が激しく争われた結果、後述のように現在の判例は、安全配慮義務違反に基づく債務不履行を理由とした損害賠償請求権の消滅時効の起算点論にはこの法理を適用せずに、安全配慮義務違反の結果たる損害が発生したことをもって起算点とすることを明確にし、学説もこれを支持している(5)。安全配慮義務違反があっても、それによる損害が発生して初めて損害賠償請求権が法律上成立し、その行使が可能となるのであるから、この結論は極めて妥当といえるだろう(6)
  ところで、次の問題は、じん肺症のような潜在的進行的損害で、かつ、いつどのように、どこまで症状が進行するかわからないような場合には、損害発生のいつの時点をもって損害賠償請求権を行使し得る時と解すべきかである。この点について、かつての下級審判決では、じん肺法で規定されたじん肺罹患者の健康管理の行政上の区分である管理区分をひとつの基準として、最初の行政上の管理区分の決定の通知を受けた時とする説(7)や、反対に各人にとって最後の管理区分の決定の通知を受けた時とする説(8)、或いは管理区分の中では最も重い管理区分四の決定の通知を受けた時とする説(9)などに分かれていた。この中で、最高裁は一九九四年に至り、後述の長崎じん肺訴訟上告審判決において「最終の行政上の決定を受けた時」とする起算点論を明らかにし、これで判例上は一つの決着がついたかにみえた。
  しかし、仮に「最終の行政上の決定を受けた時」のみが起算点だとすると、例えば、最終の行政上の決定を受けた時から一〇年以上を経て死亡した被災者の遺族が、死亡に基づく損害賠償請求権を行使しようとすると、既に損害賠償請求権が時効により消滅しているということになりかねない。この点で注目すべきなのが、昨年四月に出された秩父じん肺訴訟第一審判決である。そこでは、最終の行政上の決定を受けた時に加えて、死亡の時が別途起算点になることを明らかにした(死亡時別途起算点説)。しかし、この説にもなお問題がある。なぜなら、最終の行政上の決定を受けてから、一〇年以上を経てなお生存する被災者の損害賠償請求権は、被災者が死亡しない限り消滅時効にかかっていて権利を行使できないという背理が生ずるからである。
  本稿では、こうした長崎じん肺訴訟最高裁判決や秩父じん肺訴訟判決の意義と限界を検討しながら、従来から提唱してきた私見の死亡時説(死亡するまでは時効が進行しないという見解)への批判に対する反論もしながら、問題の根源が時効論との関連での損害論(後述する最高裁判決の「異質損害段階的発生説」)にあることを示したい。

二  長崎じん肺訴訟最高裁判決(異質損害段階的発生説)の検討


  じん肺症における安全配慮義務違反を理由とした損害賠償請求権の消滅時効の起算点については、判例・学説上種々の解釈論が展開されてきたが(10)、現在の判例の到達点を示すのが、長崎じん肺訴訟最高裁判決である(最判一九九四・二・二二民集四八・二・四四一(11))。
  意    義
  (1)  退職時説を否定した点    この判決の意義は二つある。ひとつは、退職時説を否定した点である。すなわち、従来の下級審の判決の中には、前述の「債務の同一性の法理」を根拠に、本来の安全配慮義務の履行を請求しうる時、すなわち遅くとも退職時が、安全配慮義務違反を理由とした債務不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点だとする見解を示すものがあった(13)。しかし、退職時説によれば、退職後、一〇年以上を経てじん肺症が顕在化した場合には、その時点で初めて損害賠償請求権が成立したはずなのに、その賠償請求権が既に時効消滅しているという背理が生ずる。最高裁判決がこのような退職時説を明確に否定したことの意義は大きい。なお、同じく最高裁第三小法廷は、同日の長崎じん肺第二事件に対する上告審判決(最判(三)一九九四・二・二二労判六四六・一二)で、退職時説の前提となる債務の同一性の法理がこのような事件に適用できないことを次のように明言している(14)
(2)  「契約上の基本的な債務の不履行に基づく損害賠償債務は、本来の債務と同一性を有するから、その消滅時効は、本来の債務の履行を請求し得る時から進行するものと解すべきであるが(最高裁昭和三三年(オ)第五九九号同三五年一一月一日第三小法廷判決・民集一四巻一三号二七八一頁参照)、安全配慮義務違反に基づく損害賠償債務は、安全配慮義務と同一性を有するものではない。けだし、安全配慮義務は、特定の法律関係の付随義務として一方が相手方に対して負う信義則上の義務であって、この付随義務の不履行による損害賠償請求権は、付随義務を履行しなかった結果により積極的に生じた損害についての賠償請求権であり、付随義務履行請求権の変形物ないし代替物であるとはいえないからである。そうすると、雇用契約上の付随義務としての安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償債務が、安全配慮義務と同一性を有することを前提として、右損害賠償請求権の消滅時効は被用者が退職した時から進行するという上告人の主張は、前提を欠き、失当である。」(傍線引用者)
  (2)  最初の行政上の決定時説を否定した点    前記最高裁判決の第二の意義は、本件原審である長崎じん肺訴訟控訴審判決がとった「最初の行政上の決定時」説を否定した点にある。但し、後述するように最高裁判決の「最も重い行政上の決定時」説は結論的には本件一審判決の結論と同じであるが、その論理は異なっている。
  後掲のように、原判決が「各人にとって最も重い行政上の決定を受けた日」を起算点としたのに対して、本件控訴審判決は、「最初の行政上の決定を受けた日」とする全く逆の判断を示した。次に述べる最高裁の異質損害段階的発生説との相違及び一審と二審の判断の分岐点の検討の便宜のために、多少長くなるが、それぞれの判旨を引用しておこう。
@  長崎じん肺訴訟一審判決(長崎地裁佐世保支判一九八五・三・二五判時一一五二・四四(15))
「・・しかしながら、本件損害賠償請求権は債務関係上の損害賠償請求権であるので民法一六六条、一六七条の適用を受けるものと解すべきである。それゆえ、権利行使の可能な時をもって時効の起算点とすべきである。すなわち、それは権利行使をするにつき法律上の障害がなくなった時と解すべきところ、本件にそくして言えば損害が発生したことを債権者において認識し又はその可能性がある時と解することができる。
  ところで損害が発生しこれと牽連一体をなす損害で、当時すでに予見することが可能なものについては、その範囲にある損害について権利行使が可能であるので時効が進行するものというべきであり、このことは損害が発生し、拡大する場合も右の範囲内に含まれる限り同様であると解すべきである。
  これを本件についてみるに、《証拠略》を総合すると、原告ら元従業員がじん肺に罹患したことを確定的に認識するに至ったのは、じん肺(けい肺)に関する行政上の決定(旧じん肺法上の健康管理区分決定、新じん肺法上のじん肺管理区分の決定)を知った時であり、かつ、少なくとも各人にとって最も重い各行政上の決定を知った時にはすでにじん肺(けい肺)についての知見が原告ら元従業員間にも普及し、じん肺(けい肺)に罹患すれば死に至るかもしれないとの認識があり、又、その認識が可能であったことが認められる。したがって、原告ら元従業員が口頭弁論終結日から遡ってみて各人にとって最も重い行政上の決定を受けた日、すなわち最終行政決定の日をもって死亡を含む損害について予見可能であったとみるべきであり、右各行政決定の日又はその通知書の日付のいずれか遅い日をもって一〇年の時効の起算日とすべきである。」
A  長崎じん肺訴訟二審判決(福岡高裁一九八九・三・三一判時一三一一・三六(16))
2「・・しかしながら、本件損害賠償請求権も契約上の債権であるから、民法一六七条により一〇年の消滅時効期間に服し、また、右時効の起算点は、同法一六六条の適用を受け、『権利ヲ行使スルコトヲ得ル時』から進行するものと解すべきである。そして、右の『権利ヲ行使スルコトヲ得ル時』とは、権利を行使するにつき法律上の障害がなく、さらに権利の性質上その権利行使を現実に期待することができる時と解すべきところ、これを本件に即していえば、安全配慮義務違反による損害が発生した時、すなわち、第一審原告ら元従業員のじん肺罹患の症状が現実化、顕在化した時(発症の時)に本件損害賠償請求権が成立し、この時から消滅時効が進行するものと解するのが相当である。けだし、権利を行使するにつき法律上の障害がなくとも、権利の性質上その権利行使を現実に期待することができない状態のもとで消滅時効が進行するものとすれば、前記のとおり権利行使の機会が全くないまま時効消滅する場合も生じ、相当でないから、本件損害賠償請求権が雇用契約上の信義則に由来する権利であることに鑑み、殊に粉じん暴露から通常、数年から一〇年ないし二〇年の長期の潜伏期間を経てじん肺の症状が発現するという本件のような場合では、じん肺罹患の症状が現実に発現し、顕在化した時に安全配慮義務不履行による健康被害の結果(損害)が発生したものというべく、したがって、右時点において初めて、第一審被告による過去の安全配慮義務不履行の存在が客観的に認識可能となり、本件損害賠償請求権の行使を現実に期待することができるからである。
  もっとも、じん肺症状の発現の仕方は一様ではなく、時間的経過を経て多様な症状を呈する進行性疾患ではあるが、前示のじん肺症状の発現、顕在化した時とは、当時の医学的知見のもとで、じん肺の右所見の診断が可能な程度の症状が発現し、かつ、じん肺に罹患したことが客観的に確認されたというべく、これを本件に即していえば、第一審原告ら元従業員がじん肺(けい肺)に関する最初の行政上の決定(けい特法ないしけい臨措置法上の症度決定、旧じん肺法上の健康管理区分決定、改正じん肺法上のじん肺管理区分の決定)を受けた日とするのが相当であるから、その翌日をもって一〇年の消滅時効の起算日とすべきである。」
  (3)  両判決の検討と最高裁判決の意義    両判決とも、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権については、損害の発生がなければ損害賠償請求権の法律上の行使ができず、従って、損害の発生が時効進行の前提となることを明らかにする。その点で両判決とも退職日説を否定している。しかもその場合の損害が被害者の身体内で潜在的に発生していたとしても、およそその損害の発生を認識可能でなければ被災者は損害賠償請求権を行使し得ないわけだから、その損害の顕在化ないし認識可能性を起算点に含めている。
  そのうえで、両判決が異なる結論を提示したのは何故であろうか。一審判決は、その後に拡大する損害も含めて時効が進行するためには、その拡大する損害についても予見が可能であることを要すとし、その後に拡大する損害の予見可能性について「確定的に認識」するに至ったのは、「少なくとも各人にとって最も重い各行政上の決定を知った時」としている。これに対して、二審判決ではじん肺症の進行度合いについては考慮せず、最初のじん肺症の顕在化の時点を問題にし、「前示のじん肺症状の発現、顕在化した時とは、当時の医学的知見のもとで、じん肺の右所見の診断が可能な程度の症状が発現し、かつ、じん肺に罹患したことが客観的に確認された」時、すなわち最初の行政上の決定を受けた日としている。
  一審判決の示す一般的判断枠組みである「権利行使をするにつき法律上の障害がなくなった時と解すべきところ、本件にそくして言えば損害が発生したことを債権者において認識し又はその可能性がある時」を前提にすれば、二審判決のように最初に損害が顕在化したとき、すなわち最初の行政上の決定を受けた日を起算点とすることも論理的には可能である。むしろ最初の損害が顕在化したときではなくて、何故に最も重い行政上の決定を受けた時が起算点となるのかについて、一審判決はなお論理の明快さを欠いていたとも言える。
  にもかかわらず、私見によれば、二審判決の最初の行政上の決定時説には二重の誤りがある。第一に、前提として、損害賠償請求権の権利を行使することを得るときとはいつかという問題である。損害の一部が顕在化したとしても、その後に拡大する損害が客観的に予見不可能であれば、その後に拡大した損害についての賠償請求権は最初の損害の顕在化の時点では行使できないはずである。不法行為に基づく損害賠償請求権について、後遺症の場合は、最初に予見可能であった後遺症についてのみ時効が進行し、その後に予見可能となった後遺症については、予見できた時点から別途時効が進行するという判例(17)も、この意味で妥当である。従って、一審判決が損害の拡大についての予見可能性を問題にするのもこの限りでは首肯できる。つまり、時効起算点としての権利行使可能性は、一般的に権利行使が可能であったかどうかという次元ではなくて、時効消滅が問題となっている当該損害賠償請求権の対象となるその具体的損害についての権利行使可能性を問題にしなければならない(個別具体説(18))。この点で、二審判決が最初の損害の顕在化をもって、およそその後に拡大するか、拡大しないかわからない損害についての賠償請求権全体について時効が進行すると解しているのなら、まずこの点が問題となろう。
  第二に、二審判決には、じん肺症の病像について、すなわち、本件の損害の特質についての無理解ないし誤解があるのではないかという点である。じん肺症の特徴は、進行性被害であり、かつ、その進行が客観的に予見できない点にある。実態調査によっても、最も重いじん肺管理区分四の行政決定を受けてもその時点から死亡に至るまで六ヶ月以内の者もいれば、三〇年以上の者もいるのが現実である(19)。二審判決によれば、例えば管理区分二の決定通知を受けてから一〇年以上を経てじん肺症により死亡した場合に、死亡という損害についての賠償請求権を遺族が行使しようとしても、既に当該損害賠償請求権は時効消滅していることになる。このことを合理的に説明しようとすれば、最初の行政上の決定を受けた時点で死亡に至る損害であることの予見が可能であったことを前提にせざるを得ない。しかし、最初の管理区分の行政決定の時点でその後の被害の進行を予測して、それを前提とした損害賠償請求権を行使することなど不可能を強いるものである。
  もしじん肺症が一般的に死に至るかもしれない職業病であることを根拠にして、最初の行政上の決定を受けた時点で死亡を予見した損害賠償請求権の行使が法律上可能であったと解するのならば、およそじん肺症に罹患したことが明らかになった被災者は、その時点で、死亡を含む損害の賠償請求権を予め行使できなければ矛盾である。しかし、二審判決は、時効消滅していないとして賠償を認容した原告を、その受けているじん肺症の管理区分の重さにより四段階にランク付けしていて、一二〇〇万円から三〇〇万円の損害額を認容しているのである(20)。まさに時効論と損害論の矛盾をここに見て取ることができる。本判決以外にも、死亡する以前に、死亡を含めた損害についての賠償額を認定した判決は少なくとも公刊裁判集にみる限り一件もない(21)
  その意味で本件原審のような「最初の行政決定時説」は最高裁判決のいうように「じん肺という疾病の実態に反するもの」であり、この点を明らかにした点に長崎じん肺最高裁判決の大きな意義がある。
  次に項をあらためて、最高裁判決の論理を検討してみよう。それはすなわち、最高裁判決の論理の限界を明らかにすることに帰着する。
2  最高裁判決の論理
  損害が発生したときが損害賠償請求権が法律上行使可能になった時であるという命題と、しかしながら、最初の行政上の決定の通知を受けた時にはその後のじん肺症の進行度合いについては予見不可能であるという特殊性を調整するために、長崎じん肺訴訟一審判決がとった法的構成は、後遺症に関する不法行為に基づく損害賠償請求権の時効起算点論、すなわち、拡大損害の予見可能性という論理であった。しかし、損害の認識について被害者側の現実の認識を必要とすると解されている(22)民法七二四条前段の場合と異なり、原則として時効の進行には事実上の障害を含まないとする法律上の障害論を前提にした解釈論が展開される民法一六六条一項の権利行使可能性の解釈論に、権利者の現実の予見可能性を前提にすることは、理論的にもなお検討の余地を残す(23)
  損害の発生時が権利行使可能時としつつ、その後に客観的に予見できない損害については時効を進行させない論理として、最高裁が提示したのが「異質損害段階的発生説」と筆者が呼んでいる論理である。次に判旨を引用しよう。
(2)「すなわち、前示事実関係によれば、じん肺は、肺内に粉じんが存在する限り進行するが、それは肺内の粉じんの量に対応する進行であるという特異な進行性の疾患であって、しかも、その症状が管理二又は管理三に相当する症状にとどまっているようにみえる者もあれば、最も重い管理四に相当する症状まで進行した者もあり、また、進行する場合であっても、じん肺の所見がある旨の最初の行政上の決定を受けてからより重い決定を受けるまでに、数年しか経過しなかった者もあれば、二〇年以上が経過した者もあるなど、その進行の有無、程度、速度も、患者によって多様であることが明らかである。そうすると、例えば、管理二、管理三、管理四と順次行政上の決定を受けた場合には、事後的にみると一個の損害賠償請求権の範囲が量的に拡大したにすぎないようにみえるものの、このような過程の中の特定の時点の病状をとらえるならば、その病状が今後どの程度まで進行するのかはもとより、進行しているのか、固定しているのかすらも、現在の医学では確定することができないのであって、管理二の行政上の決定を受けた時点で、管理三又は管理四に相当する病状に基づく各損害の賠償を求めることはもとより不可能である。以上のようなじん肺の病変の特質にかんがみると、管理二、管理三、管理四の各行政上の決定に相当する病状に基づく各損害には、質的に異なるものがあるといわざるを得ず、したがって、重い決定に相当する病状に基づく損害は、その決定を受けた時に発生し、その時点からその損害賠償請求権を行使することが法律上可能となるものというべきであり、最初の軽い行政上の決定を受けた時点で、その後の重い決定に相当する症状に基づく損害を含む全損害が発生していたとみることは、じん肺という疾病の実態に反するものとして是認し得ない。これを要するに、雇用者の安全配慮義務違反によりじん肺に罹患したことを理由とする損害賠償請求権の消滅時効は、最終の行政上の決定を受けた時から進行するものと解するのが相当である。」
  以上のように最高裁はじん肺症の病像の特徴から、最初の行政上の決定時説を明確に否定すると共に、民法七二四条後段との違いを意識し、一審判決のように損害の予見可能性という法的構成はとらずに、「管理二、管理三、管理四の各行政上の決定に相当する症状に基づく各損害には、質的に異なるものがあるといわざるを得ず、したがって、重い決定に相当する症状に基づく損害は、その決定を受けた時に発生し、その時点からその損害賠償請求権を行使することが法律上可能となる」という「異質損害段階的発生説」ともいうべき議論を展開した。
3  残された課題
  しかし、ここで次のような問題が生ずることになる。
  (1)  時効期間経過後の管理区分に相当する損害の評価
@  最高裁判決の時効論と損害論
  第一に、問題となるのは、仮に最高裁判決の論理を前提とした場合に、例えば管理区分三に相当する行政上の決定を受けてから一〇年を経て管理区分四の決定を受け、それから一〇年以内に提訴した場合に、その損害額はどのように評価するのかという点である。管理区分三に相当する損害については時効消滅したとして、管理区分四に相当する損害から前者を控除するのか、そうでないのか。最高裁判決自身は、本件におけるじん肺被害の甚大性や被告は「元従業員の雇用者としてその健康管理・じん肺罹患の予防につき深甚の配慮をなすべき立場にあったことを勘案」して、原審の慰謝料認定額は「低きに失し、著しく不相当」であり、「社会通念により相当として容認され得る範囲を超えるもの」としているのであるから、上記のような時効消滅部分の控除をすれば、ますます認容額は低まるはずであるから、これを否定しているとも推測される(24)。いずれにしても、この点は最高裁判決自体からは一義的に明確ではないのである。
A  長崎じん肺訴訟差戻審判決(福岡高裁一九九五・九・八判時一五四八・三五)
  そして、この点がまさに争点とされたのが、長崎じん肺訴訟の前記最高裁判決を受けての差戻審である。差戻審判決は、次のように述べて結論として時効消滅部分の損害控除という考えを否定した。
「なお、第一審被告は、消滅時効の起算点を右のように解する場合には、管理区分二もしくは三の行政上の決定を受けたのち一〇年以上経過後に本訴を提起した第一審原告らについては、時効消滅したその行政上の決定に相応する損害が控除されるべきである旨主張する。
  しかし、右に述べたじん肺の病変の特質にかんがみると、特定の患者が順次管理二、管理三、管理四の各行政上の決定を受けた場合においても、右各決定に相当する病状に基づく各損害は一個の損害賠償請求権の範囲が量的に拡大したものということはできず、質的に異なる損害であって、重い決定に基づく損害はその決定を受けた時に従前の軽い決定に基づく損害とは別個に発生すると解すべきである。したがって、第一審被告の右主張は採用できない。」
  要するに、各管理区分の決定に相当する症状に基づく損害は量的に拡大したものではなく、それぞれ異質に別個発生するのだから、同質の損害として控除できないというわけである。このような控除否定論は、北海道石炭じん肺訴訟第一審判決(札幌地判一九九九・五・二八判タ一〇一四・六三)でも支持されている。また、長崎伊王島じん肺訴訟第一審判決(長崎地判一九九四・一二・一三判時一五二七・二一(25))では、「各行政上の決定に相当する病状に基づく各損害が質的に異なると解すべき趣旨からすると、後に受けた重い行政上の決定に相当する病状に基づく損害のうち、先に受けた決定に相当する病状に基づく損害と金額的に重なる部分につき、それを先に受けた決定に相当する病状に基づく損害であるとして彼批区別することは相当ではなく」として、やはり控除を否定している。
  以上のように時効消滅した、以前の管理区分に基づく損害の控除を否定するのであれば、最終管理区分から一〇年以内に提訴すれば時効は消滅しないというだけでよく、わざわざ途中の管理区分に基づく症状に相当する損害の消滅時効が進行するかのように前提する必要もないのではなかろうか(26)。なお、この点につき、後掲の秩父じん肺訴訟判決は興味深い判示をしているので、別途検討する。
  (2)  権利行使ができない時点での時効の進行
  更に問題となるのが、最高裁判決の論理によればそもそも権利行使出来ない時点で時効が進行するのではないかという疑問である。例えば最も重い行政上の決定の通知を受けてから一〇年を過ぎて死亡した場合にはどうなるのかである。最高裁判決によれば、既に最も重い行政上の決定の通知を受けてから一〇年を過ぎているので、死亡についての損害賠償請求権の時効が完成したことになり、つまり、死亡という損害が発生した時点で始めから権利行使ができないことになるのであろうか。それとも、管理区分ごとに異質の損害が発生するというのなら、死亡はまた別の異質の損害として、別途、起算点となるのであろうか。
  最高裁判決自身は、最も重い行政上の管理区分の決定を受けてから一〇年以上を経て提訴している原告については、その請求権が時効消滅しているとする原審判断は「前記説示に照らして是認することができ」としているので、少なくともこの九四年判決の時点で管理区分四と死亡が異質な損害であると意識はしていないことは推測できる。しかし、上告理由での原告らの主張は、原審の最初の行政上の決定時説批判に集中し、最初の行政上の決定を受けた時に後の全損害についての賠償請求権の時効が進行するのはおかしいとの点を強調し、またいつを時効起算点とすべきかという点については、遠州じん肺訴訟判決(27)で判示された弁護士による訴訟説明会時説に重点を置いていて、最高裁の示すことになる異質損害段階発生論を前提に死亡が別途起算点になることを主張していないので、この点は判例としても、最高裁判決以後に残された課題と評価できるのではないか(28)。この点でも注目されるのが三で検討する秩父じん肺訴訟判決である。
  (3)  管理区分の決定通知がなく死亡した場合の時効の進行
  また第二の論点ともかかわるが、最高裁判決のように各人にとって最も重い行政上の決定の通知を受けた時が時効起算点となるとすると、例えば、一度も管理区分の通知を受ける間もなく、死亡した場合には、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点は、いつになるのか。最高裁判決の論理では、行政上の通知がなかったのだから、時効は永遠に進行しないのだろうか。
  実はこの点で注目すべきなのが、前述の長崎伊王島じん肺訴訟第一審判決である。ここでは、一度もじん肺症の管理区分の決定を得ることなく死亡した原告につき、時効の起算点を死亡時とし、その理由を死亡のときに損害が確定したからだとしている。
「ところで、亡A(じん肺罹患により死亡した元被用者−筆者注)は、その死亡に至るまで、改正じん肺法等に基づく行政上の決定を受けたことがなく、じん肺に罹患した事実を認め難かったものであるが、このような罹患者についても、じん肺症状の重症度に基づく損害を確定し得る場合には、これに相当する損害について損害賠償の請求をすることが可能であるから、その時点から消滅時効が進行するというべきであるところ、右罹患者が死亡した場合、遅くとも右死亡時には、右罹患者がじん肺罹患により被った損害も確定するのであり、右時点を消滅時効の起算点と解するのが相当である。」
  このように損害が確定する時点が時効起算点だとすれば、後述のようにどのように症状が進行するかわからないじん肺症の特徴に鑑みて、一般にじん肺症の場合には、死亡時まで時効が進行しないと解するのが論理的なのではなかろうか(死亡時説)。ともあれ、本判決は、最高裁の論理を前提としても、死亡時を起算点と解さざるを得ない場合があることを示している。

三  秩父じん肺訴訟第一審判決(死亡時別途起算点説)の検討


  前述のような最高裁判決の問題点を浮き彫りにしたものとして評価できるのが、昨年四月に出された秩父じん肺訴訟判決である(浦和地裁熊谷支判一九九九・四・二七判時一六九四・一四)。秩父じん肺訴訟判決は、最高裁の異質損害段階的発生説に依拠しつつ、「各管理区分に相当する病状に基づく損害あるいは死亡による損害につき、それぞれ、各管理区分決定の時あるいは死亡の時から時効が進行する」として、行政上の管理区分と別に死亡時が時効起算点となることを明らかにした点で意義がある。また、その上で時効論と損害論との関係についても興味深い判示をしている。
1  死亡時別途起算点説の展開
  (1)  判    旨
  まず、その判旨を引用しておこう。
「・・じん肺に罹患した患者の症状が進行し、より重い行政上の決定を受けた場合やじん肺が原因で死亡した場合においても、重い決定に相当する症状に基づく損害や死亡に基づく損害が最初の行政上の決定を受けた時点で発生していたということはできない。その理由は、前記のじん肺の特殊性等からして、次のようなことが指摘できるからである。」
  次にじん肺の特徴として各人によって進行の度合いや症状が種々で、「その進行の有無、程度及び速度を医学的に確定することはできない」ことを指摘し、次のように結論づける。
「したがって、管理二の行政上の決定を受けた時点において、管理三又は管理四に相当する症状に基づく損害や死亡に基づく損害の賠償を求めることはもとより不可能であり、また、管理四の行政上の決定を受けた時点において、死亡に基づく損害の賠償を求めることも不可能である。
  このようなじん肺の病変の特殊性等に鑑みると、管理二、管理三、管理四の各行政上の決定に相当する病状に基づく各損害及びその後の死亡に基づく損害には、質的に異なるものがあるといわざるを得ない。
  よって、重い決定に相当する症状に基づく損害あるいは死亡に基づく損害は、その決定を受けた時あるいは死亡の時に発生し、その時点からその損害賠償請求権を行使することが法律上可能となるものというべきであり、最初の軽い行政上の決定を受けた時点において、その後の重い決定に相当する病状に基づく全損害が発生したとみることや、最終の行政上の決定を受けた時点において、死亡に相当する損害が発生したとみることは、じん肺という病状の実態に反するものとして、是認することはできない。」
  とくに、管理区分四と死亡とを異質の損害とする点について、次のように敷衍している。
「・・これを管理四の決定についてみると、管理四の行政上の決定を受けたことによる損害には、管理三から管理四までの経過の中で既に発生した具体的な精神的損害と、管理四という最も重い段階に位置付けられたことにより将来の死までの経過が抽象的に予測されることによる精神的苦痛とをその内容としているから、この両者を併せた精神的苦痛は高度なものといわざるを得ず、これまでの裁判例でも相当高額な慰謝料が認められてきたところである。しかし、右の損害のうち、後者の損害は、あくまでも抽象的に予測される将来の経過(具体的な経過が様々であることは前記のとおりである。)に対するものであって、管理四の行政上の決定を受けた者がその後に死亡した場合にその者が受けた具体的な死亡までの精神的苦痛による損害とは別個の損害なのである。
  ・・以上によれば、管理二ないし管理四の行政上の決定に相当する病状に基づく損害には質的に異なるものがあるということについての理由と同じ理由により、じん肺による死亡に基づく損害は管理四の行政上の決定に相当する病状に基づく損害とは質的に異なるものがあるといわざるを得ないのである。」
  (2)  死亡時別途起算点説の意義と限界
@  意義    最高裁判決のような異質損害段階的発生説に立つならば、行政上の管理区分とは別にじん肺を理由に死亡した場合には、死亡というまた別の異質の損害が発生したと考えて、その時点を別途時効起算点とすることが論理的に考えられるわけで(29)、秩父じん肺訴訟判決はこの点を明らかにした点に意義がある。もし最高裁判決の論理を肯定しつつ、死亡時別途起算点説を否定するならば、なぜ死亡の場合には異質な損害として別途独自に起算点と解しないのかをむしろ積極的に基礎づける必要があろう。
  この点で問題となるのが、行政上の決定と死亡との性質の違い論である。死亡という自然的事実を時効起算点にするならば、そもそも各症状ごとにその症状に対応した損害の賠償請求権の時効が進行すると解すことはできないのであろうか。なぜ行政上の管理区分を権利を行使することを得るときの基準として、時効起算点にするのであろうか。
A  行政上の管理区分と時効起算点    ところで行政上の管理区分を時効起算点とすることについては、じん肺訴訟の被告からも批判が出されているところであった。もちろん、その含意は時効起算点を早める点にあるのであって、行政上の管理区分の通知を受けなくてもじん肺症の症状が顕在化すれば権利行使は可能であり、時効は進行するという主張である。
  これに対して、なぜ行政上の管理区分を時効起算点にするのかを説明するのが、前掲の最初の行政上の決定時説にたつ長崎じん肺訴訟第二審判決である。そこでは次のように論じている。
「ところで、第一審被告は、消滅時効の起算日は、行政上の決定の有無にかかわらず第一審原告ら元従業員につき初めてじん肺(けい肺)の有所見の診断がなされたときとすべきである旨の主張もするけれども、右行政上の決定は、後記のとおり、じん肺審査医が公定の診断方法により診断、診査した結果に基づき、行政機関が慎重に検討した上でなされる決定であって、その手続及び内容ともに統一性と公正の担保された信頼性の高い公的判断であるから、客観性、画一性の要請される時効制度の趣旨に鑑み、右行政上の決定により、じん肺に罹患したことが客観的に確認されたものとして、右決定の日を消滅時効の起算点に措定するのが相当である。」
  ここでは、行政上の管理区分の決定が、「信頼性の高い公的判断」であることが「客観性、画一性の要請される時効制度の趣旨」からして妥当な基準となることが判示されている。だとすれば、問題は、時効制度の要請からして、客観的に損害の発生を確認できることが重要だということになる。
  この点で注目されるのが、最高裁判決以後に出された次の筑豊じん肺訴訟第一審判決である(福岡地裁飯塚支判一九九五・七・二〇判時一五四三・三)。ここでは、前掲最高裁判決を引用して、最終の行政上の決定を受けた時を時効起算点としつつも、「なお管理二の行政決定を受けたじん肺罹患者がその後管理三、四の決定を受けることなく死亡したときでも、じん肺の症状がより重症度へ進行したことが確定し得る場合には、より重症度の病状に基づく損害の賠償請求をすることが可能であり、右損害が確定した時点から消滅時効が進行するというべきである」として、管理区分二の決定を受け、それから管理三、管理四の決定を受けることなく死亡したじん肺患者の時効起算点について、管理区分二のときを時効起算点とするのではなく、その後管理区分四相当の症状であることの労災保険診断を受けた時点をもって時効起算点とし、それからいまだ一〇年を経ていない原告には消滅時効が完成していないとしている。
  結局、最高裁判決がいう異質損害段階的発生説も、症状の進行度合いに応じて損害が発生するという点に核心を置くならば、行政上の管理区分の決定に固執する必要はないのであって、当該損害賠償請求権の前提となる具体的損害が客観的に確定した時点をもって時効起算点とすれば足りるのである。だとすれば、死亡時をもって別途起算点とすることも何ら背理ではないのである。
  秩父じん肺訴訟判決はこの点に関連して、行政上の管理区分とは別に死亡時をもって時効起算点とすることにつき次のように判示する。
「なお、右のように解することについては、管理二ないし管理四の段階付けが行政上の決定という法的なものであるのに対し、死亡という段階付けは自然的事実であり、その性質が異なるとの批判があるかもしれない。しかしながら、それは、現在の医学においては、じん肺について、死亡以外の段階付けを自然的事実として行い得ないからにすぎない。すなわち、前記のとおり、管理区分の決定は、あくまでもじん肺罹患の予防、罹患後の進行阻止や療養あるいは労災上の補償の支給等といった行政上の措置のためになされるものであって、元々発生している損害を質的に区分するためになされているわけではない。じん肺が医学的にもその進行状況が確定しにくい進行性の疾患であることから、民事上の損害賠償にあたってもその区分が利用されているにすぎないのであって、医学的に可能であれば、本来は具体的な自然的事実としての病状による段階付けが行われるべきなのである。したがって、右の性質の違いをもって、死亡を損害発生の新たな段階付けとすることができない理由とはなし得ない。」
B  問題点    ところで秩父じん肺訴訟判決のような死亡時別途起算点説によれば、管理区分四の決定通知を受けてから一一年目に提訴し、かつ、提訴時点で生存していた場合には、損害賠償請求権は時効により消滅することになる。つまり、死亡時別途起算点説によれば、管理区分四の決定通知から一〇年経過後の損害については、生存者は権利行使ができないうちにその権利が時効消滅してしまったという矛盾が生ずる。長期の被害に苦しむ被害者に、死亡すれば死亡に基づく損害の権利が行使できるとするのが果たして妥当な法解釈であろうか(30)。秩父じん肺訴訟判決のように、死亡に基づく損害は死亡時に具体的に発生し、死亡時から死亡に関する損害賠償請求権の行使が法律上可能となるとするならば、管理区分四から一一年目の損害は、その時点で具体的に発生している損害だから、その時点でその損害についての損害賠償請求権の行使が法律上可能となったはずではないか(なおこの点は後述する)。
  さて、もう一つの問題点である損害論についてはどうか。
2  時効消滅した損害の控除論
  前述したように、最高裁判決の異質損害段階発生論を前提とした場合に、時効が進行して完成した前の管理区分に相当する損害については、その賠償請求権が時効消滅したとして、賠償額から控除すべきなのかについて、最高裁自身は事件を破棄差し戻ししたこともあって、明確な結論を示していなかった。
  その後下級審では、長崎じん肺訴訟での差戻審を含めて損害控除否定論に立つものが三件出されている。これに対して、秩父じん肺訴訟判決は、管理区分四の決定を受けてから一〇年以上を経て死亡し、死亡から一〇年以内に遺族が提訴した被災者AB二名につき、「管理四の行政上の決定に相当する病状に基づく損害はそれぞれ時効によって消滅している」とし、損害額の認定において、「本件訴訟に現れた一切の諸事情を総合考慮する」として、「管理区分四までの損害賠償請求権が時効消滅した者」の慰謝料額を一八〇〇万円とし、それ以外の「管理区分四の者」には二〇〇〇万円の慰謝料額を認容し、前者を二〇〇万円減額している。これは、時効消滅した損害を減額する趣旨と推測される。
  ところで、本判決は消滅時効が完成していないで死亡した者の損害額を二三一〇万円とし、管理区分四の者の損害額が二〇〇〇万円としているので、仮にこれを単純に比較した場合には、死亡した者で、かつ管理区分四までの損害が時効消滅している者の損害は、その差額である三一〇万円になるはずである。本判決がそのような単純な計算をしなかった理由は、次のように判示されている。
  前記ABの慰謝料額については、「他の患者原告らの各慰謝料額と、じん肺罹患から死亡までの全経過の中で、管理四の行政上の決定を受けてから死亡時までの具体的経過の中で受ける精神的苦痛が最も大きなものであると推察されることなどを総合考慮し、これを一八〇〇万円とするのが相当である」としている。
  しかし、これはいかにも技巧的な解釈である。長い間じん肺被害に苦しんできた者ほど、損害額が減額されることは、どう考えても不合理である。先にかかげた長崎じん肺訴訟差戻審判決はこの不合理を意識して、時効消滅した損害の控除を、異質な損害だから控除できないという理由でこれを否定した。しかし、管理区分三の通知を受けた時点と管理区分四の通知を受けた時点の損害が異質であるのなら、管理区分四の通知を受けた時点と、例えばそれから一一年を経た段階での損害もまた異質な損害であって、後者の異質の損害についての権利行使可能性はその時点で初めて生じたのではなかろうか。つまり、損害の異質性を強調するのなら、行政上の管理区分に固執すること自体に必然性がなく、また、時効消滅した損害を控除しないのであれば、ますます、途中の時点で時効を進行させる意味がなくなる。秩父じん肺訴訟判決のように、行政上の管理区分とは別に死亡時を別途起算点とするならば、ますますこのような矛盾が生ずる。つまり、管理区分四から一〇年を経ずに死亡した者の遺族が死亡に基づく損害賠償請求をした場合と、管理区分四から一〇年を経て死亡し、それから一〇年以内に遺族が提訴した場合の損害賠償額が同じであるならば、途中の管理区分四の時点で時効が進行することにどのような意味があるのかがますます不明となる。そこで秩父じん肺訴訟判決は同じ死亡に基づく損害の認定でありながら、後者を若干減額し、しかも被害に長期に苦しんだ者の賠償額を死亡と管理区分四との差額の三一〇万円にするのはあまりに忍びないので、「管理四の行政上の決定を受けてから死亡時までの具体的経過の中で受ける精神的苦痛が最も大きなもの」という理屈をつけたのであろう。
  こうした判決における法的構成への努力は敬意を表するに値する。しかし判決がこのように技巧を凝らさねばならないその根本的原因は、それが前提とする最高裁の異質損害段階的発生説というあまりに技巧的な法的構成にある。ひとつボタンをかけまちがえば、いつまでも間違ったところにボタンをかける努力を続けることになる。全てのボタンを外して、原点に戻ってこの問題を検討しなければ、じん肺訴訟の時効起算点論は、際限なく技巧的解釈に突き進むことになり、まさに常識はずれの判決が量産されることになってしまう。
  原点に戻った法解釈とは何か。それは当該権利の行使が可能な時から時効が進行するという時効起算点の大原則(民法一六六条一項)に立ち返って、この問題を考えることに他ならない。私見によれば、その原則を忠実に反映した法的構成こそ、死亡時説に他ならない。

四  私    見(死亡時説)の展開


1  死 亡 時 説
  私見は、前述のように、民法一六六条一項の権利行使可能性の判断は、何らかの損害賠償請求ができたか否かという一般的抽象的次元ではなく、まさにその消滅時効の完成が訴訟で問題となっている当該損害についてのその損害賠償請求権の行使可能性についての判断、すなわち権利行使可能性の個別具体的次元でなされねばならないと解する。(「個別具体説(31)」)。
  結局、秩父じん肺訴訟判決のような死亡時別途起算点説においても生ずる根本的な問題、権利行使ができないうちにその権利が時効消滅するという問題の根源は、行政上の管理区分や死亡の時点で質的に異なった損害が段階的に生ずるとする異質損害段階的発生説に由来する。しかし、じん肺のような進行性被害の場合には、異質の損害が段階的に発生するのではなく、被害の固定していない段階では、損害賠償請求権の前提となる損害が不確実なのだから、提訴段階で顕在化した損害については賠償請求が可能だとしても、その後で進行するかもしれないし進行しないかもしれない、その意味で客観的な予見可能性のない損害についての損害賠償請求権の行使が法律上可能であったとはいえないはずである。結局、提訴時点で把握可能な損害はその時点で生じたとみるのが論理的である。
  この見地からすれば、提訴時点での進行被害はその時点でのみ客観的に顕在化したことになるので、提訴時点で初めてその時点の損害についての賠償請求権を法律上行使可能となった時と解すことになる。すなわち、結果的には、それ以上じん肺症の進行による損害の拡大があり得ない死亡時までは当該提訴の対象となる具体的な損害賠償請求権の消滅時効は進行しないという死亡時説が妥当ということになる(32)
  そしてこのように解することこそが、権利行使可能性の要素を中核とした時効の存在理由論(権利行使ができないうちに、時効を進行させるべきでない)とも整合性を保つことになる(33)
  この点に関して、鉱業法一一五条が鉱業被害にかかわる損害賠償請求権の消滅時効の起算点について、「進行中の損害については、その進行のやんだ時から起算する」と規定している趣旨や、不法行為に関する七二四条前段の事例において、後遺症については症状が進行するまでは時効は進行しないという判決(名古屋高判昭五五・三・三一判時九七七・四一等)や、同条後段に関して進行性被害の場合には、「当該複数の障害がすべて出現・顕在化し、かつ、いずれの障害も当該障害自体としては進行拡大が止まり、固定化したと認められる時点」とする栗山クロム訴訟判決(札幌地判昭六一・三・一九判時一一九七・一頁(34))も、損害が客観的に認識可能でなければ権利行使をなし得ず、従って時効が進行し得ないという論理を含む限りで、一六六条の解釈としても参照し得よう(35)
2  被告=使用者の法的地位の不安定
  なおじん肺被害について死亡時説をとる場合には、被害者が生存中は消滅時効が進行しないことになり、使用者は法的不安定な地位になるとの反論も考えられる(36)。しかし、被害者が、当該損害についての損害賠償請求権が行使できないうちに、消滅時効を進行させねばならないほど、使用者の法的地位の不安定を考慮すべきなのだろうか。既に別稿の時効の存在理由論の検討でも述べたように(37)、使用者としてはこのような法的不安定な地位から逃れるためには、自ら率先して賠償義務を果たせばよいのであり、また、このような進行性被害をもたらしたのは使用者の安全配慮義務違反の結果なのであって、被害者に責任はないのである。結局、死亡時まで時効が進行しないことの不利益は、使用者が当然負担すべき不利益ではなかろうか。
3  時効制度の画一的運用
  なお、従来の判決が時効の起算点につき行政上の管理区分にこだわる理由としては、時効制度の画一的運用の点からして、管理区分が客観的な指標として利用しやすいことがあるのかもしれない(38)。しかし、前述のように提訴対象となる損害は提訴段階でのみ客観的に把握可能となり、その賠償請求権を法律上行使し得ると解すならば、時効制度の画一的運用の名のもとに、権利行使ができないうちに被害者の権利を消滅させることになり、問題である。そのような時効制度の解釈は、まさに時効制度を正義と公平に反した、あまりに加害者保護の制度に堕すことになるのではないか。
4  損害論との関連
  また、行政上の管理区分を起算点とすることは、損害論との関連で要請されるのであろうか。例えば、管理区分ごとに損害賠償額をランク付けして認容する場合、そこから逆に、管理区分四に相当する損害の賠償請求権が法律上行使可能となったのは、管理区分四の決定通知を受けたときだと解することにつながるのであろうか。
  この点については、仮に管理区分ごとにランク付けして賠償額を認容するとしても、それは便宜的な区分であって、管理区分四の通知を受けた段階での損害と、例えば、それから一〇年以上更にじん肺症に苦しんだという損害の評価は違うのが当然であるのを、訴訟技術的にいわば後者の拡大した損害の部分を切り下げて(一部一律請求的に)評価している点に注意を払うべきである。つまり、損害の実態としては、両時点の損害は質的に異なるはずである。しかもこのような損害評価は使用者に有利な評価である。つまり、管理区分四から一〇年を経た損害についても、管理区分四の決定通知を受けてすぐの損害も同じく管理区分四と評価することは、使用者に有利にいわばおまけをしているのであって、その上、時効起算点をこのような使用者におまけした損害評価にあわせて解釈することは、被害者にとってまさに二重の不利益をもたらすものに他ならない。
  従って、仮に、管理区分四から一〇年を経た損害につき、これを便宜的に管理区分四に相当する損害として一律に評価するとしても、時効の起算点解釈としては、権利行使可能時を起算点とするという原則にもどって、一部一律請求的に切り下げられた損害ではなく、提訴対象となる実態的な損害が客観化した時点、すなわち提訴時点を起算点と解すべきである。

五  お  わ  り  に


  結論を要約しよう。本稿ではじん肺訴訟を中心に、安全配慮義務違反に基づく債務不履行を理由とした消滅時効と損害論の関係を検討した。この問題につき、一つの転機をもたらした最高裁九四年判決はそれまでの退職日説や最初の行政上の決定時説など、およそ権利行使が客観的に不可能ないし極めて困難な時を時効起算点とする説を否定した点では大きな意義を有する。しかし、その極めて技巧的な法的構成である異質損害段階的発生説ともいうべき見解は、権利行使ができないうちに時効が進行する余地を残し、また、途中で時効進行し、時効が完成する損害を控除すべきか否かという問題を引き起こすことになり、また、それへの対処が、異質な損害だから控除できないとか、消滅した損害から、死亡までの損害が最大であるなどの、ますます技巧的な法解釈論を展開せざる状況をもたらしている。
  今やこのようなボタンのかけちがいは根本的に改めるべきで、権利の消滅時効の進行は、権利を行使することを得る時からという原点(民法一六六条一項)に立ち戻って解釈すべきである。とくにじん肺症のように将来どのように進行するかわからない症状に対する損害賠償請求権は、それ以上損害が進行しようのない死亡の時点までは時効は進行せず、それ以前は当該損害賠償請求権行使時点での損害賠償はその時点で権利行使可能になったと解して、結局死亡までは時効は進行しないと解するのが最も妥当な解釈である。
  これが本稿の結論である。
  終わりに残された課題を二点指摘して稿を閉じたい。
  一つは、損害論と時効の援用制限論との関連である。じん肺訴訟においては、死亡時から時効が進行するとしても、死亡から一〇年以上を経て提訴した原告の損害賠償請求権は常に時効により消滅したと解して良いかはなお慎重な吟味を要する。私見によれば、じん肺訴訟における使用者側の時効の援用は、時効の援用が信義に反し、権利の濫用にあたる典型的な事例と考えるからである。この点は既に幾つかの論稿で検討したが(39)、時効の援用制限論は損害論ともかかわる問題である。すなわち、じん肺症の病像の特殊性が、そもそも損害の認識を被災者に困難にさせ、しかもその損害の認識の困難が、被告使用者の安全配慮義務違反の結果である。すなわち、じん肺に関する安全衛生教育の不十分が、じん肺症が使用者が万全の措置を尽くして防止すべき職業病であり、いったん罹患したら死に至るかもしれない疾病であることの認識を持たせない。こうした損害の特徴との関連で時効の援用制限の要件、判断基準を整理することも理論的に重要な課題である。
  第二に、本稿で検討しなかった不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効と損害論との関係である。そもそも、損害賠償請求権の消滅時効と損害論の関係については、従来は、とくに不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効、中でも民法七二四条前段の「損害及ヒ加害者ヲ知リタル時」との関係で論じられることが多かった(40)。その中では、継続的不法行為における損害賠償請求権の消滅時効の問題を契機に、単純な一回的損害の発生ではない場合の消滅時効の起算点論としてこの問題が論じられ、損害類型に応じた起算点論の展開が図られるようになってきている。この点につき、筆者としては、従来余り論じられることのなかったが、しかし、現実には訴訟になってきている、建築後相当年数を経て欠陥が判明した欠陥住宅被害や、PTSD(Post−traumatic stress Disorder=心的外傷後ストレス障害)などの損害論との関連で時効論・除斥期間論を別稿で検討したいと考えている。
  本稿はこうした筆者の時効論と損害論研究のささやかな一里塚である。
  ともあれ、本稿が我が国最大の職業病であるじん肺症に関して、現在全国で数十件提訴されているじん肺訴訟にとっても、何がしかの理論的寄与ができれば幸いである。
(二〇〇〇年二月九日脱稿)

(1)  一九九七年のじん肺健康診断有所見者数は、一万六七四三人である(中央労働災害防止協会・安全衛生年鑑・平成一〇年度版』一八〇頁)。
(2)  我が国のじん肺訴訟についての近時の論稿として、「特集・じん肺訴訟」法と民主主義三四六号(二〇〇〇年)参照。なお本稿は、本特集で筆者が執筆した「じん肺事件における時効問題」を更に詳細に展開したものであり、併せて参照していただければ幸いである。
(3)  筆者はかつて安全配慮義務と時効の問題について検討を加えて、安全配慮義務という法的構成の出現の大きな背景に時効問題があることを明らかにした(拙稿「時効規範と安全配慮義務−時効論の新たな胎動−」神奈川法学二五巻二号一頁以下、一九八九年)。この論稿は筆者の時効論研究の原点である。その要約的論稿として、同名論文・私法五二号一四一頁以下(一九九〇年)。
(4)  債務の同一性の法理については、前注(3)拙稿・神奈川法学二五巻二号四九頁以下。最高裁は最近、農地の売買契約上の債務不履行(二重譲渡による履行不能)に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点につき、債務の同一性の法理を適用して次のように判示している(最判(二)一九九八・四・二四判示一六六一号六六頁)。「契約に基づく債務について不履行があったことによる損害賠償請求権は、本来の履行請求権の拡張ないし内容の変更であって、本来の履行請求権と法的に同一性を有すると見ることができるから、債務者の責めに帰すべき債務の履行不能によって生ずる損害賠償請求権の消滅時効は、本来の債務の履行を請求し得る時からその進行を開始するものと解するのが相当である。」本判決の評釈として、佐々木典子・民商一二〇巻六号一〇七一頁以下(一九九九年)、高橋眞判評四八五号二三頁以下(一九九九年)、難波譲治・『私法判例リマークス二〇号・二〇〇〇(上)』一八頁以下(二〇〇〇年)など。
(5)  後掲の長崎じん肺訴訟最高裁判決参照。筆者は、この最高裁判決以前に損害発生時を起算点とすべきと主張し、しかも損害の発生は法律上の障害論の枠内の問題であることを強調してきた(前注3・拙稿・神奈川法学二五巻二号六一頁以下)。前田達明は、そもそも「債務不履行に基づく損害賠償請求権は、民法四一五条の構成要件に該当する事実の発生によって当然に発生する法定債権である。したがって、本来的債権(それは殆ど契約によるであろう)とは別の債権であるというべきではなかろうか」として、債務の同一性の法理自体を否定し、とくに退職時説によれば、「退職後一五年目に死亡し、その原因が安全配慮義務違反であったことが判明したとき、その死亡についての賠償請求のチャンスがまったく失われてしまい、不当であろう」として、「民法四一五条の要件事実(したがって、死亡という事実)が全て発生した時から消滅時効が進行するというべきであろう」とする(前田達明「安全配慮義務違反と消滅時効」判タ五〇二号九頁、一九八三年)。私見の死亡時説にも通じる見解である。また牛山は、「債務不履行の事実が、例えば履行期を途過したというように当該債務の内容自体から認識できる(認識しなかったとしたら債権者の過失を認めうる)事例とは異なり、債務不履行の結果としての損害の発生によってはじめて債務不履行を知りうるる事例では、事物の性質上、損害の認識又は認識可能性を欠いている場合に時効を進行させることは、権利行使の機会を原理的に奪うことになるから承認されるべきではない。」として退職日説を批判する(牛山積「じん肺訴訟と時効論−日本の現状」法時六一巻一三号四号、一九八九年)。その他、債務の同一性の法理を適用して退職日を時効起算点とすることを批判する見解として、新美育文「判批」法時五五巻九号一四四頁(一九八三年)、松久三四彦「判批」判評三二三号(判時一一七〇号)二〇〇頁(一九八三年)など。逆に退職日説をとるのは、少数説である(星野雅紀「安全配慮義務と消滅時効」判タ四九五号二八頁、一九八三年、山口和男「安全配慮義務違反に基づく損害賠償債権の消滅時効」『現代民事裁判の課題7』二二五頁、一九八九年)。損害の客観的認識可能性を法律上の障害に含める見解として、高橋眞「判批」『私法判例リマークス(2)〈一九九一(上)〔平成二年度判例評論〕』五五頁(一九九一年)など。
(6)  拙稿「判批」ジュリスト一〇六七号一二八頁(一九九五年)。
(7)  後掲の長崎じん肺訴訟控訴審判決。
(8)  後掲の長崎じん肺訴訟第一審判決。
(9)  前橋東レじん肺訴訟判決(前橋地判一九八五・一一・一二判時一一七二号一一八頁)、長野石綿じん肺訴訟判決(長野地判一九八六・六・二七判時一一九八号三頁)、鳥取じん肺訴訟判決(鳥取地判一九八七・七・三〇判タ六四六号二五〇頁)など。
(10)  じん肺訴訟における時効論を総括的に検討した論稿として、牛山積「じん肺訴訟と時効論−日本の現状」法時六一巻一三号四五頁以下(一九八九年)、神戸秀彦「じん肺訴訟の消滅時効論の損害論的検討−常磐じん肺訴訟第一陣判決の検討を通して」行政社会論集三三巻四号一九八頁以下(一九九一年)、柳澤旭「職業病と損害賠償−長崎じん肺訴訟判決を契機として」『現代の生存権−法理と制度』四〇七頁以下(一九八六年)、石松勉「長崎じん肺訴訟における時効論をめぐって」岡山商科大学法学論叢四号一二一頁以下(一九九六年)、拙稿「時効とじん肺−転期を画す常磐じん肺訴訟第一審判決−」判タ七三一号五六頁以下(一九九〇年)など。なお筆者がじん肺訴訟を含む労災・職業病に関する損害賠償請求権の消滅時効の裁判例を分析したものとして、「損害賠償請求権の消滅時効」『労働判例大系9(労働災害・職業病(2)損害賠償』二九九頁以下(労働旬報社、一九九二年)。
(11)  本判決の判例評釈として、井上薫・判タ八四四号三八頁以下(一九九四年)、岡本友子・法律のひろば四七巻一〇号四九頁以下(一九九四年)、西村健一郎・労判六五五号六頁以下(一九九四年)、松久三四彦・『判例セレクト'94(月刊法学教室一七四号別冊付録)』二一頁(一九九五年)、高橋眞・判評四三三(判時一五一五号)・二一八頁以下(一九九五年)、松村弓彦・NBL五七〇号六八頁以下(一九九五年)、柳澤旭・法時六七巻七号九二頁以下(一九九五年)、藤岡康宏・『平成六年度重要判例解説(ジュリスト臨時増刊一〇六八号)』六五頁以下(一九九五年)、新美育文・『私法判例リマークス(11)〈一九九五(下)〉』三二頁以下(一九九五年)、松本久・『平成六年度主要民事判例解説(判例タイムズ臨時増刊八八二号)』六〇頁以下(一九九五年)、前田達明・民商一一三巻一号七〇頁以下(一九九五年)、岩村正彦・ジュリ一〇八二号一八九頁以下(一九九六年)、久保野恵美子・法協一一二巻一二号一七七四頁以下(一九九五年)、平井一雄『民法判例百選(1)総則・物権〈第四版〉』九八頁以下(一九九六年)、倉吉敬・法曹時報四八巻一二号一六九頁以下(一九九六年)、前注(6)拙稿など。十数本に上る判例評釈の数は、この判決の理論的・実践的重要性を如実に物語っていよう。
(13)  昭和電極じん肺訴訟判決(神戸地裁尼崎支判一九七九・一〇・二五判時九四三号一二頁)。その他じん肺訴訟以外で、自衛隊X線業務死亡事件判決(東京地判一九七九・三・二九判時九五四号五六頁、その控訴審判決たる東京高判一九八三・二・二四判時一〇七三・七九頁)など。
(14)  なお履行不能に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点論につき、債務の同一性の法理を適用することを明言した前掲最判九八年(前注4参照)との関連で、佐々木は、長崎じん肺訴訟最高裁判決にふれ、「この判決に関しては、両債務の同一性の否定が、塵肺症という発症及び症状の進行の特殊性に因るものか、それとも、安全配慮義務一般に妥当するのかという検討を要する。」とするが(前注4・佐々木一〇七八頁注8)、私見によれば長崎じん肺訴訟判決最高裁判決の論理は債務の同一性の法理の適用を否定する点では、じん肺訴訟に限らず安全配慮義務一般に妥当すると考える(前注6・拙稿ジュリ一〇六七号一二八頁)。本文にかかげた長崎じん肺訴訟第二事件最高裁判決もこのことを明示していると言える。
(15)  本判決の判例評釈として、河西龍太郎・岩城9845治・労旬一一二四号四頁以下(一九八五年)、松久三四彦・判評三二三号(判時一一七〇号)三四頁以下(一九八六年)。
(16)  本判決の判例評釈として、三代川俊一郎・平成元年度主要民事判例解説(判タ臨時増刊七三五号)四〇頁以下(一九九〇年)、拙稿・ジュリ九四二号九八頁以下(一九八九年)。
(17)  最判一九六七・七・一八民集二一巻六号一五五九頁。
(18)  私見の個別具体説については、拙稿「判批」判評四三三号(判時一五一八号)一九八頁以下(一九九五年)参照。
(19)  全国じん肺患者同盟編『現代じん肺二〇年のあゆみ』一一五頁。
(20)  死者を含む管理区分四該当者につき一二〇〇万円、管理区分四該当者のうち鑑定により軽度障害と判定された者につき一〇〇〇万円、管理区分三該当者につき六〇〇万円、管理区分二該当者につき三〇〇万円とする。なお、原告は管理区分の重さにかかわらず一律に三〇〇〇万円の賠償額を請求している。一審判決では、死亡を含む管理区分四該当者につき二三〇〇万円、管理区分三該当者につき一八〇〇万円、管理区分二該当者につき一〇〇〇万円であったのであり、原告らの被害認定に厳しい二審判決の立場を浮き彫りにしている。なお、本文で述べるように二審判決の認容額は、最高裁判決により、「低きに失し、著しく不相当」とされ、この点も破棄差戻の対象とされ、差戻審では一審判決と同額が認容されている。
(21)  じん肺症が死に至る病であることは慰謝料算定の考慮要素とされることはあっても、そのことと実際に死亡した場合の損害額とは別の筈である。この点を明確に指摘するのが、後掲の秩父じん肺訴訟判決である。
(22)  澤井裕『テキストブック事務管理・不当利得・不法行為[第二版]』二六〇頁(有斐閣、一九九六年)、吉村良一『不法行為法』一五七頁(有斐閣、一九九五年)。
(23)  なお損害の主観的な予見可能性を債務不履行に基づく損害賠償請求権の時効起算点に含めるとすると、時効期間との関連で民法七二四条前段が三年間の時効期間を定めていることとの権衡問題も生ずることになる。この点につき、前注3・拙稿・神奈川法学二五巻二号六一頁以下。
(24)  前注6・拙稿・ジュリ一〇六七号一三〇頁。
(25)  本判決の評釈として、飯塚和之・判タ八七八号四五頁以下(一九九五年)。
(26)  なお、神戸秀彦は、じん肺訴訟の原告が主張する包括一律請求の理念との関連で「損害を総体として把握し、完全救済・原状回復に足る損害が賠償されるべきであるとすれば、その時点での『損害』は、純粋の『過去の損害に対する賠償分』(A)とともに、『今後の被害者(や遺族)の生活を補償するための賠償分』(その時点での将来の損害に対する賠償分)(B)の両者を含む」という視点から、仮にAの部分が分割して賠償されても、Bの部分の損害は消滅せず、Aの部分の損害として蓄積していくから、「本判決を含めた、何らかの管理区分決定を時効の起算点とする考え方は、どの段階の区分決定のものにせよ、場合によっては、過去と将来の間の損害の継続性、ないし累積・進行性を切断することになる」として、異質損害段階的発生説を批判する(前注10・行政学論集三三巻四号二一五頁以下)。示唆に富む見解である。
(27)  静岡地判一九八六・六・三〇判時一一九六号二〇頁。本判決の判例評釈として、徳本鎮・判評三三七号(判例時報一二一八号)三七頁以下(一九八七年)。なお弁護士による説明時を起算点とすることを支持する見解として、前注11・岡本友子・法律のひろば一九九四年一〇月号五四頁。私見は、損害の健在化以外の権利行使可能性の要素は、時効起算点論ではなく、時効進行論ないし時効の援用制限論において考慮すべきであると考えている(時効起算点論、進行論、援用制限論の三位一体的把握。前注3の拙稿参照)
(28)  柳澤旭は、最高裁判決が「さらに重い行政決定を受けたとき、最重症の管理四あるいは死亡の時点で別訴が可能であるとみる論理なのか否かなお問題は残ると思われる。」とする(前注11・法時六七巻二号九五頁)。
(29)  筆者の他にこの点を肯定する論者として、石松勉は、最高裁判決の論理を「賠償請求可能な程度の『損害の発生の「認識」が客観的に可能となった』」「時に初めて損害は発生し、したがってまた当該損害賠償請求権もこの時に成立した」とする論理と捉え、「損害の発生が現実化、顕在化した時点として比較的容易に判定可能な客観的事実として、『行政上の決定』に加えて『死亡』が重要な意義を有する」と指摘する(前注10・石松勉一五五頁)。
(30)  前注3の拙稿ではこの点を強調した(法と民主主義三四六号参照)。
(31)  前注18参照。
(32)  死亡時説を支持するものとして、前注11・新美育文『私法判例リマークス・一九九五〈下〉』三五頁は次のように指摘する。「進行性のじん肺が死亡へと収斂し、そのことが予見できるとしても、死亡しなければ死亡についての損害賠償請求権が発生しないのであるから、最終の行政上の決定があったことをもって損害の発生があったとすることは問題があろう。不確定あるいは流動的な損害については、それが確定して初めて全損害についての賠償請求権が発生するのであるから、その時点、じん肺の場合には死亡の時を『損害発生の時』と考えるべきであろう。」として私見を「支持したい」とする。その他、前注25の飯塚も私見の死亡時説につき「筆者もこれを支持するものである」とする(判タ八七八号四八頁)。
「゙50」(33)  なお時効の存在理由論における権利行使可能性の位置づけについては、拙稿「消滅時効・除斥期間と権利行使可能性」立命館法学二六一号九八頁以下(一九九九年)で検討した。
(34)  学説として同旨を述べるものとして、内池慶四郎「継続的不法行為による損害賠償請求権の時効起算点」法学研究四八巻・一一号・五二頁(一九七五年。同『不法行為責任の消滅時効』成文堂、一九九三年所収)、藤岡康宏「不法行為による損害賠償請求権の消滅時効」北大法学二七巻二号三三頁。
(35)  前注16・拙稿ジュリ九四二号九九頁参照。なお、井上薫は、鉱業法一一五条のような「特則がないのに『進行をやんだ時』とする解釈は採りえない」として、「じん肺患者を救済することの必要性、企業の利潤追求の行き過ぎ(労働安全衛生上の支出を冗費ととらえる)を論ずるなら、じん肺法に前記鉱業法一一五条二項のような特別の規定を設けるほかなく、これを解釈論の中で実現するのはその限界を超えている」とする(前注11・判タ八四四号三九頁、四三頁)。しかし、鉱業法一一五条を「特則」とみるかどうかは、解釈論の分岐点であって、私見は権利を行使し得るときから時効が進行するという大原則を進行性被害の場合に適用した場合の一般規定と解する。
(36)  前注5の牛山は死亡時説については、「交通事故の後遺症の発現するまでの通常の期間とじん肺管理区分の仮に管理二の行政上の決定を受けたときから死亡するまでの期間との差の大きさを考慮すると、支持するには躊躇を覚える。」とする(法時六一巻一三号五〇頁)。「躊躇」の理由の一つに、このような使用者の法的地位の不安定があるとすれば、本文で述べたようにこれは使用者が当然負担すべき不利益なのだから、躊躇には及ばない。「検討課題としておきたい」と牛山はいうが、一〇年を経てなお同教授の躊躇は続いているだろうか。
(37)  前注33参照。
(38)  西村健一郎は、最高裁判決の最終の行政決定時説を支持して次のようにいう。「消滅時効制度を意義のある制度として維持するべきであるとの立場に立つ以上、被災者の主観的な事情によって左右されない損害発生に関する客観的・画一的基準を求めざるを得ないと思われるが、その場合でもじん肺のように損害が固定せず拡大・進行していくような疾病の場合には、客観的な基準としての最終の行政上の決定に消滅時効の開始を関わらせることは合理性があるといえるであろう。」(前注11・労判六五五号一二頁)。しかし、本文で述べたように、客観的に権利行使ができない損害についての損害賠償請求権の消滅時効を先取り的に進行させる法解釈こそ、消滅時効制度を権利者から不当に権利を剥奪し、あまりに加害者に有利な制度に堕するものではなかろうか。また、「客観的・画一的基準」の名の下に行政上の決定を起算点とすることは、「権利を行使することを得る時」より時効が進行するという消滅時効制度の大原則(民法一六六条一項)を揺るがす法解釈であり、「合理性」もないとするのが筆者の見解である。
(39)  前注3・神奈川法学二五巻二号一五二頁以下、私法五二号一四六頁、前注16・ジュリ九四二号一〇〇頁以下。
(40)  この点については、注34にかかげた文献等参照。