【注1】端木賜の字は多く子貢とするが、子贛とすべき旨が錢大昕『十駕齊養新録』卷2「子贛」に見え、「説文、贛賜也、貢獻也。兩字音同義別。子貢名賜、字當从贛」と説かれている。しかし小論では引用文の多くが「子貢」に作っており、混亂を避けるために通行の「子貢」を用いることとする。

【注2】子貢研究論文としては以下の諸篇がある。佐藤一郎「論語における子貢の研究―古代哲學の成立と商業的思惟―」(「北海道大學文學部紀要」14 第1分册、1965年)、渡邊卓「弟子(八)―孔子説話の思想史的研究 その九―」(「山梨大學教育學部研究報告」18、1968年。のち1973年、創文社『古代中國哲學の研究』所收)、木村英一「子貢について」(「福井博士頌壽記念、東洋文化論集」1969年。のち1981年、創文社『中國哲學の探求』所收)、高橋均「仲尼弟子列傳について」(「東京教育大學文學部紀要・國文學漢文學論叢」第15輯、1970年)、「孔子集團について」(「鹿兒島大學教育學部研究紀要・人文社會科學篇」第24卷、1973年)俣野太郎「論語にみえる諸弟子の記述 第二(上)(中)(下)―顔淵と子貢―」(大東文化大學東洋研究所「東洋研究」71・73・77號、1984〜86年)これらの中で高橋均氏の2論文以外は『論語』『左傳』によって子貢を論じている。

【注3】前掲木村英一「子貢について」は「子貢の國際外交場裏における活躍については、史記の弟子傳子貢の條にも若干の記述があるが、その記事には後人の構成らしいところがあって、そのまま信用することはできない」として『左傳』の記事により子貢の傳記研究を展開される。

【注4】『史記評林』に見える何孟春、楊愼、茅坤、李光縉の評語、崔適『史記探源』、施之勉『史記會注考證訂補』(1976年、臺湾、華岡出版)などは皆『史記』子貢遊説記事を史實ではなく後人の僞託、攙入とする。『史記』の註釋以外でも王安石「子貢」(『臨川集』卷64)、劉恕『通鑑外紀』卷9、蘇轍『古史』卷32、崔述『洙泗考信餘録』卷1などは註釋家と同樣の批判を展開している。

【注5】梁玉繩『史記志疑』卷28の子貢遊説記事に關する考證は以下の通り。「陳氏憚高・國・鮑・晏、何以欲移兵伐魯。子貢使齊在哀十五年魯與齊平之後、爲成叛故、何得強相牽引。伍子胥死于戰艾陵後、是時尚未賜屬鏤、何云子胥以諫死。左傳呉獲國書等五人、何云獲七將軍。黄池之會距戰艾陵二年、何言呉王不歸以兵臨晉。會盟爭長、呉先于晉、何云晉敗呉師。會黄池歸與越平、在哀十三年、越滅呉在哀二十二年、何云會黄池歸與越戰不勝見殺。越滅呉稱霸、在孔子卒後七年、何云子貢之出孔子使之。五國之事會、與子貢無干、何云子貢存魯亂齊破呉彊晉霸越。自哀八年齊伐魯至二十二年呉滅越、首尾十五歳、何云十年。傾人之邦、以存宗國、何以爲孔子。縱横捭闔、不顧義理、何以爲子貢。即其所言、了無一實、而津津道之。子胥傳亦有句踐用子貢之謀、率衆助呉等語、豈不誕哉。墨子非儒下篇謂孔子怒晏子沮尼谿之封于景公、適齊欲伐魯、乃遣子貢之齊勸田常伐呉、教高鮑毋得害田常之亂、遂勸越伐呉、三年之内、齊呉破國。其爲六國時之妄談可見、孔鮒詰墨辨之矣。或曰、弟子傳皆短簡不繁、獨子貢傳榛蕪不休、疑是後人闌入、非史本文也」

【注6】氏の引用する『韓非子』『説苑』の文は次の部分である。「齊將攻魯、魯使子貢説之。齊人曰、子言非不辯也。吾所欲者土地也。非斯言所謂也。遂擧兵伐魯…子貢辯智而魯削。以是言之、夫仁義辯智、非所以持國也」(『韓非子』五蠹篇)「齊攻魯、子貢見哀公請求救於呉。公曰、奚先君寶之用。子貢曰、使呉責吾寶而與我師、是不可恃也」(『説苑』奉使篇)なお、韓非子五蠹篇の文は後に本文第三章でも引用する。

【注7】底本は『史記會注考證』とし、分段は中華書局標點本による。段落番号下の見出しは筆者が假に附した。

【注8】記事の前の原文は「子貢問曰、富而無驕、貧而無諂、何如。孔子曰、可也。不如貧而樂道、富而好禮」である。この文は言うまでもなく『論語』學而篇の「子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如。子曰、可也。未若貧而樂道、富而好禮者也。子貢曰、詩云、如切如磋、如琢如磨。其斯之謂與。子曰、賜也、始可與言詩已矣。告諸往而知來者也」に基づく文であり、子貢が遊説に出掛ける子貢遊説記事とは明らかに區別されよう。

【注9】底本は「其地狹以泄」と作るが、『越絶書』内傳陳成恆が「池狹而淺」とし、『呉越春秋』夫差内傳が「其池狹以淺」とするのにより、「其池狹以淺」と改める。この校訂については既に王念孫が『讀書雜誌』卷三之四で論じている。

【注10】底本は「地廣以深」と作るが、『越絶書』内傳陳成恆・『呉越春秋』夫差内傳ともに「池廣以深」としており、「池廣以深」と改める。また【注9】で擧げた王念孫『讀書雜誌』卷三之四を參照されたい。

【注11】この時のことは『論語』憲問篇にも以下のように記されている。「陳成子殺簡公。孔子沐浴而朝、告於哀公曰、陳恆殺其君、請伐之。公曰、告夫二三子。孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也。君曰、告夫二三子者、之二三子告、不可。孔子曰、以吾從大夫之後、不敢不告也」

【注12】杜預集解によると以前の盟とは哀公7年の鄶での盟を指す。哀公が鄶の盟をあたため直すことを望まなかった理由を、楊伯峻『春秋左傳注(修訂本)』(1981年、中華書局)は「鄶盟、呉徴百牢、且召季康子、故哀公及季氏皆不欲」としている。なお『左傳』哀公7年に鄶で結ばれた盟の記事は、本文次の段で抄録する。

【注13】前掲の楊伯峻『春秋左傳注(修訂本)』は叔孫州仇が呉王に返事ができなかった理由を「君賜臣劍、是欲其死、疑古無受劍鈹之禮、故叔孫不知所對」としている。

【注14】「鈇」を司馬貞の索隱は「斧也」とするが、『史記會註考證』は「鈇字上、當有鈇名以與屈盧歩光相對、不則鈇字衍文」と言う。

【注15】また『史記』呉太伯世家にも「越王滅呉、誅太宰嚭、以爲不忠、而歸」とある。

【注16】この結びの文の後ろは「子貢好廢擧、與時轉貨貲。喜揚人之美、不能匿人之過。常相魯衞、家累千金、卒終于齊」と結びの文とは繋がらない記述となるため、子貢遊説記事の範圍を本文の通りに定めた。

【注17】底本とした孫詒讓『墨子間詁』は「孔丘」を「孔某」と作るが、これは畢沅校注が「某字舊作孔子諱、今改」として、改めた「某」字に從っているためである。そこで本來の「孔子諱」即ち「孔丘」に戻した。

【注18】ここまでの部分は『晏子春秋』外篇にもほぼ同樣の文が見える。

【注19】會稽に越王勾踐を許すよう勸めたことは、『左傳』哀公元年に「呉王夫差敗越于夫椒、報檇李也。遂入越。越子以甲楯五千保于會稽、使大夫種因呉大宰嚭以行成。呉子將許之」とある。また、『左傳』定公四年に「伯州犂之孫嚭爲呉大宰以謀楚」と大宰嚭が當時の呉王闔閭の大宰になったとあり、以後大宰として呉の内政及び外交に深く攜わり夫差に重用されたらしい。詳しくは『左傳』、『史記』呉太伯世家・越王句踐世家・伍子胥列傳などに見える。

【注20】呉滅亡の2年後の哀公24年の『左傳』に「閏月、公如越、得大子適郢、將妻公而多與之地。公孫有山使告于季孫。季孫懼、使因大宰嚭而納賂焉、乃止」とあり、大宰嚭は魯の季孫氏からの貨賂を越の大子に渡す役を務めている。この文から大宰嚭は呉の滅亡後、越に逃れたかの印象を受ける。しかし既に小論四章で述べたように、『史記』越王句踐世家や呉太伯世家では呉の滅亡に際し大宰嚭は誅殺されたことになっており、大宰嚭が呉の滅亡後越に逃れたのか否か、眞僞は不明である。

【注21】本文第二章第7段で引用した『左傳』哀公13年の黄池の會の記事の後、呉王一行が宋を攻めようとした條に大宰嚭の名が次のように見えている。「王欲伐宋、殺其丈夫而囚其婦人。大宰嚭曰、可勝也、而弗能居也。乃歸」

【注22】『論語』での子貢と大宰嚭の對話は子罕篇に見える。「太宰問於子貢曰、夫子聖者與。何其多能也。子貢曰、固天縱之將聖、又多能也。子聞之曰、太宰知我者乎。吾少也賤。故多能鄙事。君子多乎哉、不多也」この太宰を陸徳明釋文では「鄭云、是呉太宰嚭」としている。

【注23】原文は「不苦其已也、且其無傷也」であり、陳奇猷『呂氏春秋校釋』(1984年、學林出版社)に「禮記檀弓下『毋乃已疏乎』、鄭注『已猶甚也』。此『已』字亦當訓甚。『不苦其已也』猶言不苦其甚也。……『且其無傷也』、謂疥癬之病無傷於生命」とあるのに從い訓じた。

【注24】」は高誘注に「獸三歳曰也」とある。