【注1】『漢書』揚雄傳上の題注に「師古曰、自長楊賦以後分爲下卷」とあり、上下卷に分けたのは顏師古であることが判る。

【注2】古くは『藝文類聚』卷26(人部10・言志)が「漢楊雄自敍曰、雄爲人簡易佚宕、默而好深湛之思、清淨無爲、少嗜慾、不汲汲於富貴、不戚戚於貧賤、不修廉隅以儌名當世。無擔石之儲、晏如也。自有大度、非聖哲之書不好也、非其意、雖富貴不事也」と揚雄傳を自序として引用しており、『隋書』儒林傳(劉炫)には「乃自爲贊曰、通人司馬相如・揚子雲・馬季長・鄭康成等、皆自敍風徽、傳芳來葉」との語があり、『文選』李善注(卷53、李康・運命論、不如楊雄仲舒之闃其門也)にも「楊雄自序曰、雄家代素貧、嗜酒、人希至其門」と揚雄傳の贊を自序として引用している。『史通』序傳では「至馬遷、又徴三閭之故事、放文園之近作、模楷二家、勒成一卷。於是揚雄遵其舊轍、班固酌其餘波、自敍之篇、實煩於代。雖屬辭有異、而茲體無易」と司馬遷・屈原・司馬相如とともに揚雄・班固も自序を作したとあり、同書の雜説・上(諸漢史)にも「馬卿爲自敍傳、具在其集中。子長因録斯篇、即爲列傳。班氏仍舊、曾無改奪。尋固於馬揚傳末、皆云遷雄之自敍如此、至於相如篇下、獨無此言」とあることから劉知幾は揚雄の自序が『漢書』に採録されていると考えていたことが判る。

【注3】宋・呉仁傑『兩漢刊誤補遺』卷10(楊氏)、段玉裁『經韻樓集』卷5(書漢書楊雄傳後)、王念孫『讀書雜志』卷四之三(揚雄傳)、汪榮寶『法言義疏』卷1(法言疏)、徐復觀『(増訂)兩漢思想史』卷2(揚雄論究、1漢書揚雄傳及其若干問題、1976年、臺灣・學生書局)など。なお、揚雄の姓が「揚」であるか「楊」であるかについて結論はでていないように思われる。小論では比較的多く用いられている「揚」に從うが、それは『漢書』の底本を中華書局の標點本とするからでもある。ただし他書の引用はその限りではない。

【注4】『藝文類聚』卷26(人部10・言志)、【注2】參照。

【注5】張溥『漢魏六朝百三名家集』所收「揚侍郎集」は「自序傳」として揚雄傳の冐頭から「法言文多不著、獨著其目」までを收めるが、揚雄自序に引用されている辭賦や文、『法言』13篇の序を省いている。

【注6】段玉裁『經韻樓集』卷5(書漢書楊雄傳後)に「漢書楊雄傳贊曰『雄之自序云爾』、自是總上一篇之辭。師古恐人疑爲結法言序目之辭、故注之曰『法言目之前、皆是雄本自序之文也』。傳首序世系、師古注曰『雄之自序譜諜蓋爲疏謬』。是師古以傳皆録雄自序甚明顯。鄭仲師注周禮遂人職曰『楊子雲有田一廛』、仲師卒於建初八年、於時漢書初成、仲師未必見、實用自序語。漢書記雄之年壽卒葬、皆於贊中補載、而不繋諸傳、與他傳體例不同、則傳文爲録雄自序、不増改一字無疑。唐初自序已無單行之本、師古特就贊首一語顯之」とある。

【注7】楊樹達『漢書窺管』卷9(楊雄傳第57下・雄之自序云爾)に「樹達按、李詳云、法言序目亦雄自序原文。自序本放史公而作、史記自序入史記諸篇序目、故雄亦效之。顏謂法言目之前爲雄自序、非也」とある。

【注8】徐復觀『(増訂)兩漢思想史』卷2(揚雄論究、1 漢書揚雄傳及其若干問題、1976年、臺灣・學生書局、439頁)に「漢書八十七上下的揚雄傳、在『贊曰』以前、都是採用揚雄的自序。這是了解揚雄的基本材料」とある。

【注9】錢鍾書『管錐編 第1册』(史記會註考證、49 司馬相如列傳、1979年、北京・中華書局、357・8頁)に「漢書・司馬遷傳『遷之自序云爾』、顏師古註『自此以前、皆其自敍之辭也、自此以後、乃班氏作傳語耳』。揚雄傳贊曰『雄之自序云爾』、師古註謂此傳録取雄自敍爲之、觀贊備述雄之行事、以補傳所缺載、則『班氏傳語』、別見贊中、師古非臆測也。兩傳均特書『自序云爾』、因全録馬・揚原文、未加裁割挪移」とある。

【注10】張岱年「揚雄」(『中國古代著名哲學家評傳 續編1』所收、1982年、齊魯書社、313頁)に「據『漢書・揚雄傳』引揚雄所作『自序』、揚雄的祖先揚季、『官至廬江太守』、後來避仇遷居山之南的郫縣(今四川省郫縣)、『有田一壥、有宅一區、世世以農桑爲業』、揚雄是揚季的五世孫」とある。

【注11】陳福濱『揚雄』(1993年、臺灣・東大圖書公司、世界哲學家叢書、2頁)に「據『漢書・揚雄傳』引揚雄所作『自序』、揚雄五世祖揚季『官至廬江太守』、漢元鼎年間因避仇而遷居山之南的郫縣(今四川省郫縣)、『有田一壥、有宅一區、世世以農桑爲業』、從揚季到揚雄、五世惟傳一子」とある。

【注12】張震澤『揚雄集校注』(1993年、上海古籍出版社、中國古典文學叢書、405〜422頁)に、「揚雄自序」の題で傳の冐頭から「贊曰、雄之自序云爾」までを收録して校注を加えるが、「反離騷」「甘泉の賦」などの辭賦や文の引用は略す。また「顧班氏以序爲傳、亦間下己語、刪之則有傷文義、姑倶存之、加方括弧以爲別」として、「畔牢愁・廣騷文多、不載、獨載反離騷」「法言文多、不著、獨著其目」「贊曰、雄之自序云爾」の三文に括弧を加えている。

【注13】狩野直喜「楊雄と法言」(『支那學文藪』所收、1972年、みすず書房、167頁)に「本傳は楊雄の自敍を其儘採録して居る」とある。

【注14】御手洗勝「楊雄の處世觀」(宮崎大學學藝學部研究時報1−1、1955年、57頁)に「『漢書』楊雄傳に採録せられた、楊雄の自序によると、彼の高祖父は、楚・漢交爭の際、廬江の太守となった、と述べられているから、當時は相當の資産家であったと見てよい」とあり、同氏「楊雄と太玄──作者の傳統」(支那學研究(廣島)第18號、1957年、24頁)でも班固を論じて「のみならず、その本傳の敍述の仕方をみても、全く楊雄の著作の自序をそのまま導入し、13篇の『法言』の目録を煩をいとわず羅列しているのは、その司馬遷傳以外には見られない手法であって、彼が楊雄を如何に高く評價していたか、想像に難くない」とある。

【注15】鈴木由次郎『太玄經』(1972年、明徳出版社、中國古典新書、26頁)に「後漢の班固は、漢書の中に揚雄の傳を立てて、その論贊の初に『雄の自序に云ふ』として、その揚雄傳は揚雄の自序を本にして記述したものであることを明らかにし、またその中に『雄の歿してより今に至る四十餘年』と述べているから、漢書揚雄傳の記述は揚雄の死後さほど年代も經っていないので、大體信用できるものと思われる」とある。

【注16】岡村繁「揚雄の文學・儒學とその立場」((九州大)中國文學論集 4、1974年、22頁)に「……また同じく揚雄の『自序』にもこの際の事に觸れて、『孝成帝の時、客に雄の文の相如に似たるを薦むる者あり……』とあり、また「その理由について、彼は『自序』に次のごとくいう。『雄以爲えらく、賦なるものは、將に以て諷せんとするや、必ず類を推して言い、麗靡の辭を極め、閎侈鉅衍し、人をして加うる能わざらしむるを競うなり』」と傳の文を引用されている(同、26頁)。

【注17】小竹武夫『漢書 上卷』(1977年、筑摩書房)に附された橋川時雄氏の解説に「詩賦文學の巨匠揚雄は『漢書』の本傳に用いられた彼の自敍傳で、『章句を爲さず、訓詁するのみ』と自家の學問文學にたいするありかたを述べている」と言い(590頁)、また「列傳第五十七『揚雄傳』は、ほぼ雄の自敍傳を引用して記傳し、卷末の贊でその後の事蹟を記して、『雄の沒してより今に至る四十餘年、その『法言』は大いに行なわれて、『玄』は終に顯われず、然も篇籍つぶさに存す』としめくくる」と言われる(612頁)。

【注18】汪榮寶『法言義疏』卷1(法言疏)に「漢書藝文志『揚雄所序三十八篇』入儒家。班自注云『太玄十九、法言十三、樂四、箴二』、則法言在漢世乃與太玄・樂・箴同爲一書、初不別出單行。此子雲所自爲詮次、以成一家之言者、故謂之揚雄所序。序者、次也。其自序一篇、當在此三十八篇之末、爲楊書之總序。漢書揚雄列傳即全録此序爲之、故贊首云『雄之自序云爾』、與司馬遷列傳篇末『遷之自序云爾』文同。遷傳乃全録史記自序、則此傳亦全録楊書自序可知。惟傳末『法言文多不著、獨著其目』以下云云、乃班氏所増益。故顏師古注云『自法言目之前、皆是雄本自序之文也』蓋自序既爲楊書三十八篇之總序、則法言十三即在本書、何有更著其目於序末之理。故師古所謂『自法言目之前』者、決非兼包法言目而言、而自謂法言目在外也」とある。

【注19】『文選』李善注(卷53、李康・運命論、不如楊雄仲舒之闃其門也)、【注2】參照。

【注20】高木友之助「法言の研究──その著作の動機について」(中央大學文學部紀要35、1964年、54頁)に「漢書揚雄傳の贊に引かれている彼の自序によれば、彼は自分の著作について次のように説明している」として、贊の文が引かれている。

【注21】王利器「『漢書』材料來源考」(『文史』21輯、1984年、北京・中華書局、14頁)に「『漢書・揚雄傳贊』、「雄之自序云爾。」師古注、「自『法言』目之前、皆是雄本『自序』之文也。」據此、則『揚雄傳』班氏即據雄『自序』爲之。『隋書・劉炫傳』炫自爲贊云、「通儒司馬相如・揚子雲・馬季長・鄭康成等、皆自敍風徽、傳芳來葉。」今考『文選』李蕭遠『運命論』注引雄『自序』、「雄家代素貧、嗜酒、人希至其門。」今此文見『揚雄傳贊』中、則班氏贊亦據雄『自序』爲之也」とある。

【注22】町田三郎「揚雄について(一)」(『秦漢思想史の研究』所收、1985年、創文社、305頁)では「揚雄の自序にも『孝成帝のとき、客に雄の文の相如に似たるを薦むる者あり』(本傳)とあって客すなわち揚壯の推輓があったのだと考えられる」と傳の文が自序とされ、同氏「揚雄について(二)」(同書、335頁)では「本傳はさらに雄の自序を掲げていう。『雄、病を以て免ぜらる。復び召されて大夫となる。家貧しくして、酒を耆む。人希にその門に至る。時に好事者あり。酒肴を載せて從いて游學す。而して鉅鹿の侯芭、常に雄に從いて居り、その太玄・法言を受く』と」の如く贊の文を自序とされている。

【注23】『史通』雜説・上(諸漢史)に見える。【注2】參照。

【注24】錢大昕『廿二史考異』(卷8、揚雄傳・贊曰、雄之自序云爾)は「予謂自『雄之自序云爾』以下、至篇終、皆傳文、非贊也。司馬遷傳亦稱『遷之自序云爾』、然後別述遷事、以終其篇、與此正同。遷有贊而雄無贊者、篇中載桓譚及諸儒之言、褒貶已見、不必別爲贊也。此『贊曰』二字、後人妄説、非班史本文」と言い、王先謙『漢書補注』もこの論を引いている。

【注25】汪榮寶『法言義疏』卷1(法言疏)に見える。【注18】參照。

【注26】錢鍾書『管錐編 第1册』(史記會註考證、49 司馬相如列傳、1979年、北京・中華書局、357・8頁)に見える。【注9】參照

【注27】楊樹達『漢書窺管』卷9(楊雄傳第57下・雄之自序云爾)に見える。【注7】參照。

【注28】揚雄自序の範圍はほぼ定められたが、『漢書』は揚雄自序をそのまま採録しているのか、字句の異同はないのかという問題がある。そのことに關して小竹武夫前掲書に附された橋川時雄氏の解説に次のようにある。「ところで揚雄の自敍傳はそのまま引用されてはいない。多少の字句の削略が加えられ、平易で分りやすい語體で物語られるところもあるが、『漢書』の文章はおしなべて今のいわゆる文語體句調に近く、修辭の工夫が加えられている。『漢書』の記傳は『史記』の列傳のうち漢代の人物の傳を多く踏襲し、補傳を加えるが、その場合にも字句を整えて修辭している。そのため、原資料や『史記』とのあいだに、歴史解釋上の微妙な異同を覺えさせられることが少なくはない」(612頁)。小論も橋川氏同樣「修辭の工夫が加えられている」と思うが、それは『史記』太史公自序と『漢書』司馬遷傳の異同と同じ位で、内容が變化しない程度と考える。

【注29】揚雄が『史記』を讀んでいたことは、『法言』重黎篇に「或問周官。曰立事。左氏。曰品藻。太史遷。曰實録」とあり、また同書君子篇に「淮南説之用、不如太史公之用也。太史公、聖人將有取焉。淮南鮮取焉爾。必也儒乎。乍出乍入、淮南也。文麗用寡、長卿也。多愛不忍、子長也。仲尼多愛、愛義也。子長多愛、愛奇也」とあることで判る。

【注30】自序に「江流に投じた」とある江流は、『漢書』地理志上(蜀郡)に「山在西徼外、江水所出、東南至江都入海」とある江水を指す。

【注31】「反離騷」に「靈氛に違ひて從はず、反って身を江皋に湛む」「夫れ聖哲の遭ひたるは、固より時命の有する所なり」という表現が、第3段で言う意圖を表していよう。

【注32】試算によると第3段の字數は157字、「反離騷」は671字であり、「反離騷」は第3段の約4、3倍になる。

【注33】「甘泉の賦」に「鬼魅も自ら還る能はず、長途に半ばして下り顛つ」「方に征僑と偓佺と雖も、猶ほ仿佛として其れ夢の若し」とあるのは、「人力の爲す所に非ず、黨いは鬼神のみ可なりと曰ふ(第5段)」ほどの華美を表しており、「玉女を屏け、宓妃を卻く」と寵愛を諷諫する句はそのままの形で「甘泉の賦」に記されている。

【注34】「河東賦」の結びに「既に軔を平盈に發つに、誰か路遠くして從ふ能はざると謂ふ」とあるのが、夢見るより行動すべきことを勸めていよう。

【注35】「校獵賦」は第7段に「後世復た前好を修め、折中するに泉臺を以てせざらんことを恐る」と言うように、奢侈の程度をわきまえていないことを諷諭するのだが、「校獵賦」の中で「章華を非とし靈臺を是とす」とあるべき奢侈の程度を示すことで諷諭を試みている。

【注36】「長楊賦」では「農をして耰を輟めず、工をして機より下らざらしむ」と農民が耕作を止めることなく生きられる、太平で理想的なさまを描いている。

【注37】試算によると「反離騷」「甘泉の賦」「河東の賦」「校獵の賦」「長楊の賦」「解」の字數は6187字で、第3段から第9段までは976字である。

【注38】『隋書』儒林傳(劉炫)と『史通』序傳は司馬相如に自敍があったとし(【注2】參照)、『史通』雜説・上(諸漢史)は「馬卿爲自敍傳、具在其集中。子長因録斯篇、即爲列傳」と『史記』司馬相如傳がこの自敍であると言う。だが『史記』司馬相如傳を相如の自敍と考えるのは、『史通』雜説・上だけであるうえ、司馬相如傳には相如死後の記録が含まれているなど不審な點もあるので、結論はしばらく保留としたい。

【注39】『文選』卷44「巴蜀に喩す檄」の題注に『漢書』として引かれ、同じ卷44「蜀の父老を難ずる文」も題注に『漢書』から引かれるが、卷48の「封禪の文」は『史記』が題注に引かれている。

【注40】13篇のうち淵騫篇の序は『法言音義』に「柳宗元曰、按漢書淵騫自有序、文語俗近不類、蓋後人増之、或班固所作」とあることによって、揚雄のものかどうか疑われているが、今はおいておく。

【注41】試算によると「反離騷」「甘泉の賦」「河東の賦」「校獵の賦」「長楊の賦」「解」「解難」「法言の目」の字數は6974字で83.7%を占め、揚雄自序から以上の作品を除外した字數は1357字で16、2%である。ちなみに贊は708字である。

【注42】この文は餘論に擧げた揚雄傳贊の第12段に見える。

【注43】『漢書知意』は『推十書』という叢書所收で、『太史公書知意』『後漢書知意』『三國志知意』とともに『四史知意』と名付けられている。1931年の刊本に據ったが、原文は以下の通りである。「自序而載文、欲使文與事相比附、使讀者知其撰述之本事本旨也。子雲最得意在玄與法言。故録其最、録以明己一生精力所注。班用其文以表其學、又述逸事以補自序之闕、録桓譚語以作斷。東漢初學者皆祖劉向・揚雄、桓・班固同派也。」

【注44】章學誠『文史通義』詩教下にも以下のような意見が見える。「馬・班二史、於相如・揚雄諸家之著賦、倶詳著於列傳。……蓋爲後世文苑之權輿、而文苑必致文采之實蹟、以視范史而下、標文苑而止敍文人行略者、爲遠勝也。然而漢廷之賦、實非苟作。長篇録入於全傳、足見其人之極思、殆與賈硫董策、爲用爲不同、而同主於以文傳人也。」章學誠は『史記』『漢書』が司馬相如・揚雄傳に辭賦を多く載せることを「其の人の極思を見るに足り」「文を以て人に傳ふる」と評價しているが、ここでは揚雄傳を班固によるものとし、揚雄が自序に自作の辭賦を採録したとは考えられていない。

【注45】章學誠『文史通義』詩教下。【注44】參照。

【注46】司馬遷は『史記』太史公自序に「俟後世聖人君子」と言い、班固は『漢書』敍傳上(答賓戲賦序)に「專篤志於博學、以著述爲業」と述べており、自分が著述した作品によって評價を求める著述家の姿が窺える。

【注47】『論衡』自紀篇は「王充者、會稽上虞人也。字仲任。其先本魏郡元城一姓孫」と傳のように始まりながら、「又傷僞書俗文多不實誠、故爲論衡之書。夫賢聖歿而大義分、蹉愽殊趨、各自開門、通人觀覽、不能訂詮……論衡者、論之平也。口則務在明言、筆則務在露文」と『論衡』の執筆意圖を説き、序文の役割も擔っている。

【注48】なお揚雄傳の表現が陶淵明の「五柳先生傳」に多く影響を與えていることが、川合康三『中國の自傳文學』(1996年、創文社、中國學藝叢書、82頁〜89頁)に論じられているので參照されたい。

【注49】段玉裁『經韻樓集』卷5(書漢書楊雄傳後)に見える。【注6】參照。

【注50】錢大昕『廿二史考異』(卷8、揚雄傳・贊曰、雄之自序云爾)に見える。【注24】參照。