【注1】 『文苑英華』卷九四五は宋版を佚する。影明版は「銘曰」の2字が多いが、靜嘉堂文庫所藏明鈔本はこの2字がなく、紹興本と同樣に凡て549字から成る。

【注2】 「歴史語言研究所集刊」第九本。また『岑仲勉史學論文集』(1990年 北京 中華書局)所收。

【注3】 以下、白居易の詩文は那波本に據って卷次を示し、花房英樹氏『白氏文集の批判的研究』が定める作品番號を附記した。また引用に際しては特に斷らない限り那波本を底本とした。そして影印金澤文庫本、『管見抄』、蓬左文庫所藏那波本、尊經閣文庫所藏天海舊藏那波本、影印紹興本、平岡武夫・今井清校定『白氏文集』をもって參訂したが、校勘の結果を明記しないこともある。

【注4】 引用は『管見抄』に據る。ただし「觴詠」の「觴」字を「獨」に作るのを那波本・紹興本に從い改めた。『管見抄』は「獨」字の右傍に「觸」と校注を加えるが、これは恐らく「觴」字の筆誤であろう。なお那波本・紹興本・馬元調本には「大和三年」の「大和」二字、「斯二樂也」の「二」字がない。前者の場合、大意に問題はないが、後者の異同は無視できない。紹興本に據る顧學頡氏校點『白居易集』や馬元調本に據る朱金城氏『白居易集箋校』は、「斯樂也」の前に句點を打ち、この三字を下文に屬せしめる。立野春節訓點本は「斯」字の下に「ノ」と假名を附し、川合康三氏「白居易閑適詩攷」(本文前掲論文)は「斯の樂や、實に云々」と訓じ、やはり下に續ける。しかし、それでは下文の「茲又以重吾樂也」の「又」が意味をなさない。前文の「一樂」にさらにまた重ねる「吾が樂しみ」が「實本之於省分知足」以下の事柄であるからには、「一樂」に重ね加わる「樂」がその前になければならない。それが在洛の作詩をいう「自大和三年春」から「蓋亦發中而形外耳」までを指すことは明らかであるから、その結句には「二樂」とあるべきだ。すなわちこの句は「斯二樂也」に作る『管見抄』が正しく、上文に屬せしめて解するのがよい。

【注5】 白居易墓前の碑については拙稿「李商隱の『白公墓碑銘』」(1997年2月20日「學林」第26號 中國藝文研究會)の注2を參照されたい。

【注6】 「狂言綺語」の「狂言」を諸本「放言」に作る。今『管見抄』に從った。尊經閣文庫の天海舊藏那波本の書き入れ(卷61末に梶原性全の識語の移録あり)にも「狂言」とする本の存在が示されている。「狂言綺語」は佛教で説く十惡のうちの妄語(僞り)と綺語(戲れ言)に相當する。なお花房英樹氏『白居易研究』(1971年 世界思想社)の第三章に「『狂言綺語』の自覺」という一節がある。

【注7】 開成5年春の「臥疾來早晩」詩(卷68・3436)に「酒甕全く醭(かび)を生じ、歌筵半ば塵に委ぬ」という。ただし全面的に酒を斷ったわけではないことは今井氏前掲論文に言及されている。なお埋田重夫氏「白居易の詠病詩の考察」(1987年6月「中國詩文論叢」第6集)に白居易の病氣と飮酒の關連が論じられている。

【注8】 子桑戸・孟子反・子琴張の三人は莫逆の友であった。子桑戸が亡くなると、他の二人は埋葬せずに琴を鼓して歌うなどしていた。子貢が孔子の命を承けて弔問からもどってなした報告の言葉に、「彼は何人なる者ぞや。修行有ること无くして、其の形骸を外にし、尸に臨んで歌ひ、顏色變ぜず。以て之に命くる无し」とある。成玄英の疏は「其の形骸を外にす」を「形骸を忘外し、生死を混同す」と解釋している。また白居易の元和5年(810)の「和答詩十首」の序(卷2・0100)にも「語は相勉めて方寸を保ち、形骸を外にするに過ぎざるのみ」と用いられている。

【注9】
 樊素と白居易との關わりは橘英範氏「白居易と樊素」(1994年12月「廣島大學文學部紀要」54卷)に詳しい。

【注10】 『管見抄』に據る。ただし「善」字は『管見抄』が「若」に作るのを那波本・紹興本に從い改めた。

【注11】 朱金城氏『白居易集箋校』は「宋本・那波本作『二百三十五言』、馬本作『二百五十五言』、倶誤」といい、盧文弨『群書拾補』の校勘に從い「二百三十四言」にしている。なるほど宋本・那波本の「不能忘情吟」本文の字數は234字であるが、『管見抄』は諸本と少しく文字の異同があって236字から成る。ただし序では「二百三十五言」に作る。

【注12】 入谷仙介氏「白居易と女性たち」(1993年4月「中國文化論叢」2號)は「白居易は自分の餘命が長くないことを悟り、若い樊素が、眄眄のように、自分に義理立てをして、その身を埋もれさせることになることを恐れ、家産整理に事寄せて彼女を解放し、家から出したものに違いない」と論ずる。なお「眄眄」とは白居易「燕子樓」(卷15・0860〜62)に詠われた、主人の死後も操を守って舊居を離れず小樓に侘び住まいした妓女をいう。

【注13】 『莊子』大宗師に、死を迎えようとする莫逆の友、子來を見舞った子犁が「偉なるかな造化。又た將に奚くにか汝を以て爲さんとする。將に奚くにか汝を以て適かしめんとする。汝を以て鼠の肝と爲さんか。汝を以て蟲の臂と爲さんか」といったとある。

【注14】 「題詩屏風絶句」の序(卷17・1046)にも「鬱鬱として相念ひ、多く吟詠を以て自ら解く」という。

【注15】 『唐會要』卷91・内外官料錢の貞元4年(788)の條に從えば、當時、白居易は太子少傅であったので、月俸は一百貫文(十萬錢)を受けていた。

【注16】 尊經閣文庫所藏天海本の那波本には文末の「開成五年三月日記」の「月日」の間の右傍に「十五」の2字が補記されている。これに據れば兩「幀記」は同日の作となる。

【注17】 なお「今壽過耳順、幸無病苦、……此一樂也」という部分では、「病苦」の「病」字に「憂」と注するのみである。これでは風疾以降しばしば老病を訴える實情と合致しないようだ。しかし「病中詩」に見られるごとく佛教や老莊を心の支えとして老病を乘り越え、「樂天は命を知りて了に憂ひ無し」という意識が白居易には強かったので、ここの文意を改めることがなかったのであろう。

【注18】 岡山大學池田家文庫所藏那波本にも同樣の校語が上層に書き入れられているが、いささか譌脱があり、「此所以爲樂二也、大凡詩之作也、功(當作切)扚(當作於)理者、其詞(下空五格)適於意者、其韻逸、(脱質近俗逸四字)近狂然則苟決吾心、苟樂吾道、俗狂之誚、安敢逃之、意(當作噫)猶罪丘(脱知丘二字)皆以春秋耳、(逗點は原本のまま)」と記す。なお、この本には篇末「甲寅歳」の「甲」字の上に墨圈を加え、上層に「開成五年冬樂天謹(天海本・蓬左本作自)序」「或本作此九ケ字」の書き入れも見られる外、蓬左本とほぼ同じ校語が録されている。

【注19】
 白居易の「墓誌」がありふれた墓誌銘であったことは、川合康三氏『中國の自傳文學』に「ふつうの墓誌銘としての性格は、當人の名前、家系、家族、官歴についての記述がかたちを備えていること。しかしそれら墓誌銘として要求される要素はすべて最小限の記載だけで、特徴は死に對する心の態度が念入りに書かれていることで、それは一般の自撰墓誌が備える特徴である」と指摘されている。また中砂明徳氏「唐代の墓葬と墓誌」によれば、「唐全般を通じて言うと1,000字を越えるものはやはり少數派であって、普通は500〜600字程度である」とのことなので、549字からなる白居易の「墓誌」は篇幅の上でも普通であった。

【注20】 この場面より前に「墓誌」には姪孫(正しくは姪−おい−)の阿新(白居易の兄幼文の次子景受)の名が見えるが、臨終に登場させた姪は恐らくこの者ではなく、白居易が晩年にわが子のように目をかけ、後に75卷の文集をも託した弟行簡の子龜郎を指すであろう。

【注21】
 70の年齡は、後人が白居易の實際の卒年に合わせて改めたようだが、どうもこれは、もと「近」に作っていたのを「過」に改めたものと思われる。なお『文苑英華』は「過」に作り、下に「一作登」の校注を附す(靜嘉堂文庫所藏明鈔本同じ)。

【注22】
 『册府元龜』卷907・總録部・薄葬にも彼の遺誡は「吾生何益於人、無請諡號、無受軍府賵贈、葬以布車一乘、無或加飾、無用鼓吹、銘誌能敍事者則爲之、無擇高位」と記されている。冒頭の句は反語表現を取るが、もとより文意に『舊唐書』との違いはない。なお『新唐書』令狐楚傳は「吾生無益於時、無請諡、勿求鼓吹、以布車一乘葬、銘誌無擇高位」と刪修する。