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第二章 『文選』編纂の實態

四、昭明太子の「總集」(詩文集)編纂實態
(四) 王侯太子の文學集團と文學觀の形成

梁代は時代の風潮として文學偏重の傾向が非常に強かったので、武帝は諸王の文學的素養を涵養すべく、それぞれ幼い時から側近に有力文人を配し、指導・教育に當たらせていた。

例えば、簡文帝蕭綱の場合は、武帝自らがわざわざ宰相周捨に斡旋を依頼し、徐摛を目付役兼教育掛として選用している。

摛幼而好學、及長、遍覧經史。屬文好爲新變、不拘舊體。起家太學博士、遷左衞司馬。會晉安王綱出戌石頭。高祖謂周捨曰、爲我求一人、文學倶長兼有行者、欲令與晉安遊處。捨曰、臣外弟徐摛、形質陋小、若不勝衣、而堪此選。高祖曰、必有仲宣之才、亦不簡其容貌。以摛爲侍讀。後王出鎭江州、仍補雲麾府記室參軍、又轉平西府中記室。王移鎭京口、復隨府轉爲安北中録事參軍、帶郯令、以母憂去職。王爲丹陽尹、起摛爲秣陵令。普通四年、王出鎭襄陽、摛固求隨府西上、遷晉安王諮議参軍。大通初、王總戎北伐、以摛兼寧蠻府長史、參贊戎政、教命軍書、多自摛出。王入爲皇太子、轉家令、兼掌管記、尋帶領直。(『梁書』 徐摛傳)
摛幼くして學を好み、長ずるに及び、遍く經史を覽る。文を屬り好んで新變を爲し、舊體に拘はらず。太學博士に起家し、左衞司馬に遷る。會たま晉安王綱、出でて石頭に戌す。高祖、周捨に謂ひて曰く、我が爲に一人の、文學倶に長じ兼ねて行有る者を求め、晉安の遊處に與にせしめんと欲すと。捨曰く、臣の外弟徐摛、形質陋小にして、衣に勝えざるが若くなるも、此の選に堪へんと。高祖曰く、必ず仲宣の才有らば、亦た其の容貌を簡ばず。摛を以て侍讀と爲す。後、王出でて江州に鎭せしとき、仍ほ雲麾府記室參軍に補せられ、又た平西府中記室に轉ず。王、鎭を京口に移せしとき、復た府に隨ひて轉じ安北中録事參軍、帶郯令と爲り、母の憂を以て職を去る。王の丹陽尹爲りしとき、摛を起して秣陵令と爲す。普通四年、王出でて襄陽を鎭せしとき、摛固く府に隨ひて西上せんことを求め、晉安王の諮議參軍に遷る。大通の初、王、總戎して北伐し、摛を以て寧蠻府の長史を兼ねしめ、戎政に參贊せしむ。教命軍書、多く摛より出づ。王入りて皇太子と爲りしとき、家令に轉じ、兼ねて管記を掌る、尋いで領直を帶す。

勿論、このような目付役兼教育掛は一人とは限らず、徐摛の外にも、庾肩吾という有力文人を擧用し、これに當てている。

肩吾字子愼。八歳能賦詩、特爲兄於陵所友愛。初爲晉安王國常侍、仍遷王宣惠府行參軍、自是毎王徙鎭、肩吾常隨府。歴王府中郎、雲麾參軍、並兼記室參軍。中大通三年、王爲皇太子、兼東宮通事舍人、除安西湘東王録事參軍、俄以本官領荊州大中正。累遷中録事諮議參軍、太子率更令、中庶子。
初太宗在藩、雅好文章士、時肩吾與東海徐摛・呉郡陸杲・彭城劉遵・劉孝儀・儀弟孝威、同被賞。及居東宮、又開文コ省、置學士、肩吾子信・摛子陵・呉郡張長公・北地傅弘・東海鮑至等充其選。
(『梁書』巻四十九文學 庾肩吾傳)
肩吾、字は子愼。八歳にして能く詩を賦し、特に兄の於陵の友愛するところと爲る。初め晉安王國常侍と爲り、仍ほ王の宣惠府行參軍に遷る。是より王の鎭を徙す毎に、肩吾常に府に隨ふ。王府の中郎、雲麾參軍を歴、並びに記室參軍を兼ぬ。中大通三年、王、皇太子と爲りしとき、東宮通事舍人を兼ぬ。安西湘東王録事參軍に除せられ、俄に本官以て荊州大中正を領す。中録事諮議參軍、太子率更令、中庶子を累遷す。
初め、太宗藩に在りしとき、雅に文章の士を好む。時に肩吾と東海の徐摛・呉郡の陸杲・彭城の劉遵・劉孝儀・儀弟の孝威と、同に賞せらる。東宮に居るに及び、又た文コ省を開き、學士を置く。肩吾の子の信・摛の子の陵・呉郡の張長公・北地の傅弘・東海の鮑至等其の選に充てらる。

その結果、なお幼い晉安王は、これら當時既に有力な文人であった、目付役兼教育掛の徐摛・庾肩吾などに指導教化され、その強い影響を受けて自らの文學觀を形成していったことは言うまでもない。それは『梁書』の徐摛傳・庾肩吾傳の記載及び簡文帝の著述を見れば明白なことである。

摛文體既別、春坊盡學之、「宮體」之號、自斯而起。高祖聞之怒、召摛加讓、及見、應對明敏、辭義可觀、高祖意釋。因問五經大義、次問歴代史及百家雜説、末論釋教。摛商較縱横、應答如響、高祖甚加歎異、更被親狎、寵遇日隆。(『梁書』 徐摛傳)
摛の文體既に別にして、春坊盡く之を學び、「宮體」の號、斯よりして起る。高祖之を聞きて怒り、摛を召して加讓す。見ふに及び、應對明敏にして、辭義觀る可し、高祖意釋く。因て五經大義を問ひ、次いで歴代史及び百家雜説を問ひ、末に釋教を論ず。摛、商較縱横にして、應答如響くが如し。高祖甚だ歎異を加へ、更に親狎され、寵遇日々に隆し。

ここで武帝が東宮を中心として流行していた軟弱な文學風潮に腹を立て、矯正しようと試みた際、直接太子蕭綱を呼ばず、徐摛を召喚して叱責を加えている。これは徐摛がこの東宮の詩風に對して多大の責任を負っていたことを意味している。太子蕭綱はあくまでも徐摛の教化によって「新變」を好み、創作するようになっていったのである。

『梁書』庾肩吾傳には、

齊永明中、文士王融・謝朓・沈約文章始用四聲、以爲新變、至是轉拘聲韻、彌尚麗靡、復踰於往時。時太子與湘東王書論之。
齊の永明中、文士王融・謝朓・沈約の文章始めて四聲を用ひ、以て新變を爲す。是に至り轉た聲韻に拘り、彌いよ麗靡を尚び、復た往時を踰ゆ。時に太子、湘東王に書を與へ之を論ず。

として、太子蕭綱の「湘東王に與えるの書」が記載されているが、そこには明らかに聲韻に拘り、麗靡を尚ぶ徐摛・庾肩吾の見解を強く支持擁護する論が展開されている。

現存する簡文帝(晉安王)の詩文を見ても、この聲韻に拘わり、麗靡を尚ぶ「新變」の作風ばかりが目立っている。結局のところ、簡文帝は、幼い頃より主として徐摛・庾肩吾の教化を受け、その影響下に彼らと殆ど同じ傾向の文學觀を形成していったものと考えられる。その結果、簡文帝は『法寶聯璧』などの自集團の「總集」(文集)編纂に際しても、安心して彼らに委任できたのである。

昭明太子においても事情は同じである。「時に昭明尚ほ幼く、未だ臣僚と相接せず。高祖敕し、太子洗馬の王錫・祕書郎の張纉は、親表の英華、朝中の髦俊なり、以て師友として之に事ふべし。」(『梁書』巻二十一 王錫傳)という記述を見ても分かるように、武帝は晉安王と同樣、昭明太子に對しても、幼少時から側近に優れた人物を置いて熱心に教育している。天監初には文壇のみならず政界の重鎭でもあった沈約や范雲までも東宮職に就けている。

しかし、この時期は昭明太子がなお幼児で、彼らと直接接見することもできなかった。それ故あまり直接彼らの影響を受けることはなかったと思われる。天監五年には新たに「東宮」が建てられ、六歳になった昭明太子はようやく「東宮」に住むようになったが、なお殆んど永福省に留まることの方が多く、とても東宮の臣僚たちに親しく接見する状態にはなかった。

五年六月庚戌、始出居東宮。太子性仁孝、自出宮、恒思戀不樂。高祖知之、毎五日一朝、多便留永福省、或五日三日乃還宮。
五年六月庚戌、始めて出でて東宮居る。太子性仁孝にして、宮を出でしより、恒に思戀して樂しまず。高祖之を知り、毎に五日一朝、多く永福省に便留せしめ、或ひは五日三日にして乃ち宮に還る。

七歳の頃も、徐勉傳に「(天監六年)領太子中庶子、侍東宮。昭明太子尚幼、敕知宮事、太子禮之甚重、毎事詢謀。」とあるように、なお幼い太子は東宮事をすべて徐勉に委任しているほどであったので、自らの意志で臣僚たちと親しく學問や文學について語れるまでに成長していたとは言い難い。

辛うじてそれが可能な状態になるのは、いくら早く見積もっても、天監七、八年、太子八、九歳のころからであろう。天監七年には「納妃」、八年には壽安殿に於いて孝經を講じ、盡く大義に通じ、講畢りて、親しく國學に臨んで釋奠している。この頃、太子の側近に配されていたのは、太子洗馬劉孝綽・太子中舍人王筠・太子中舍人到洽・太子庶子陸・太子家令殷鈞などである。

その後、天監十一年頃には、南史に「(王錫)十二にして國子生と爲り、十四にしてC茂に擧げられ、祕書郎に除せられ、再び太子洗馬に遷る。時に昭明太子尚ほ幼し。武帝、錫と祕書郎の張纉に敕して宮に入らしめ、日數を限らず。太子と游狎し、情は師友を兼ぬ。又た陸・張率・謝擧・王規・王筠・劉孝綽・到洽・張緬に敕して學士と爲す。十人盡く一時の選なり。」(『南史』巻二十三 王錫傳)と記されている通り、所謂「十學士」が東宮に配置されている【注9】

これらの學士・文人の多くは、その後も昭明太子の側近として重要な地位を占めており、少年期の太子になにがしかの影響を與えたものと思われる。『梁書』などの記述を見ると、この中、劉孝綽・王筠・陸・到洽などが比較的長く東宮職として仕え、太子に深く禮遇されていた。またこの四人の側近中でも、沈約・任ムなどといった文壇の重鎭に高く評價され、當時最も世評の高かった「後進文人」の劉孝綽と王筠の二人が殊に太子の厚い信任を得ていた。この二人の文學觀が約二十歳下の幼い太子に強い影響を與えたことは言うまでもない。就中、劉孝綽は自ら「居れば陪し出づれば從ひ、逝きて將に二紀ならんとす」(昭明太子集序)と述べていることからも明白なように、免職や地方官に出ていた時期はあったものの、東宮建府以來、殆んど二十年近く太子に陪從し、太子の強い信頼を得、太子の文集編纂の折には、一手にこれを委任され、序文を書いているほどであった。

◎敕權知司徒右長史事、遷太府卿、太子僕、復掌東常管記。時昭明太子好士愛文。孝綽與陳郡殷藝、呉郡陸、琅邪王筠、彭城到洽等、同見賓禮。太子起樂賢堂、乃使畫工先圖孝綽焉。太子文章繁富。羣才咸欲撰録、太子獨使孝綽集而序之。遷員外散騎常侍、兼廷尉卿、頃之即眞。(『梁書』 劉孝綽傳)
◎累遷太子洗馬、中舍人、並掌東宮管記。昭明太子愛文學士、常與筠及劉孝綽、陸、到洽、殷藝等遊宴玄圃。太子獨執筠袖撫孝綽肩而曰、所謂左把浮丘袖、右拍洪崖肩。其見重如此。
(『梁書』 王筠傳)
◎敕ありて司徒右司長史事を權知し、太府卿、太子僕に遷り、復た東常管記を掌る。時に昭明太子、士を好み文を愛す。孝綽は、陳郡の殷藝、呉郡の陸、琅邪の王筠、彭城の到洽等と、同じく賓禮さる。太子、樂賢堂を起こし、乃ち畫工をして先ず孝綽を圖かしむ。太子、文章繁富なり。羣才咸な撰録せんことを欲す、太子獨り孝綽をして之を集めて序せしむ。員外散騎常侍に遷り、廷尉卿を兼ね、頃之して即眞す。
◎太子洗馬、中舍人を累遷し、並びに東宮管記を掌る。昭明太子、文學の士を愛し、常に筠及び劉孝綽、陸、到洽、殷藝等と玄圃に遊宴す。太子獨り筠の袖を執り孝綽の肩を撫して曰く、謂ふ所の左に浮丘の袖を把り、右に洪崖の肩を拍つなりと。其の重ぜらること此くの如し。

昭明太子はこれほど堅く信頼していた劉孝綽に幼少時より教化を受けていたのであるから、自らの文學觀を形成するに際しても當然最も強い影響をうけたであろうことは想像に難くない。實際、「答湘東王求文集及詩苑英華書」に見られる太子の文學觀は、劉孝綽の「昭明太子集序」に見られる文學觀と比較してみても、表現に多少の異なるところはあれ、内容的には殆んど變わるところがない。

◎夫文典而則累野、麗而亦傷浮。能麗而不浮、典而不野、文筆彬彬、有君子之致。(「答湘東王求文集及詩苑英華書」)
◎能使典而不野、遠而不放、麗而不淫、約而不儉、獨善衆美、斯文在斯。
(昭明太子序)
◎夫れ文は典なれば則ち野に累ひ、麗なれば亦た浮に傷ふ。能く麗にして浮ならず、典にして野ならず、文筆彬彬として、君子の致有り。
◎能く典にして野ならず、遠にして放ならざらしめ、麗にして淫ならず、約にして儉ならざらしむれば、獨り衆美を善くす、斯文は斯に在り。

その上、『顔氏家訓』によると、太子は既に劉孝綽に下命して『詩苑』を編纂させているのであるから、『文選』の編纂に際しても、安心して劉孝綽に委任する素地ができていたと言えよう。日僧遍照金剛が『文鏡祕府論』中において、初唐元兢の『古今詩人秀句』の序文と推定される記事を抄録して、

或曰、晩代銓文者多矣。至如梁昭明太子蕭統與劉孝綽等選集文選、自謂畢乎天地、懸諸日月。然於取捨、非無舛謬。(南巻 集論)
或ひと曰く、晩代の文を銓ぶ者多し。至如梁の昭明太子蕭統、劉孝綽等と文選を選集し、自ら謂ふ天地に畢へ、懸諸を日月に懸くと。然れども取捨に於いて、舛謬無きに非ず。

の如く記しているのは、昭明太子が下命して、實質的には劉孝綽が中心になって編纂したという事情を説明したものである可能性が強い。

中國側の資料としては、南宋・王應麟『玉海』巻五十四藝文に載せる『中興書目』の原註には、『文選』は昭明太子が何遜・劉孝綽と選集したものと記されている【注10】

いずれにせよ、これらの記事は『文選』編纂が蕭統一人の力によってなされたのではなく、少なくとも劉孝綽が編纂過程において重要な役割を果たしていたことを強く示唆している。それ故、劉孝綽の存在を無視して『文選』の實態を究明することは、もともと非常に無理なことであったのである。

勿論、昭明太子が實質的編纂において無關係ということはあり得ないが、太子を教化したのは劉孝綽と王筠なのであるから、むしろ劉孝綽と王筠とを中心にして、『文選』の選録基準を究明した方がより有効な方法であったのではなかろうか。

既に見て來たように、梁代においては「總集」の編纂は、集團の聲望を高めるべく、當時の最も有力な文人を中心にして行われるのが普通であった。昭明太子集團だけは特に例外的であったわけではなく、劉孝綽以下の有力文人が側近として幼少時から太子に陪從し、教育に努めているのであるから、當然この条件を踏まえて「總集」編纂の實態究明をすべきであろう。この點の配慮を缺き、ひたすら昭明太子の文學觀ばかりに固執し過ぎてきた從來の究明法は、この際きっぱりと轉換を圖るべきである。


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