新しい世紀の『文選』研究の問題


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『文選』(我が国では「もんぜん」と読んでいます)は中国の梁王朝(502〜557)に皇太子の昭明太子によって編纂されたと言われる詞華集です。この『文選』は編纂当時はそんなに評価は高くなかったのですが、100年ほど経ってから、評価が高くなり、士大夫の間で非常に流行するようになりました。これは恐らく科挙試験に詩文の創作が課された後、『文選』がその指南書となっていったからだと推定されます。つまり『文選』は科挙受験者の答案を作る際に参考とすべき模範的詩文集であると認定されたことに主たる原因があるようです。以後、宋代になりますと、その傾向は増長され、巷間においては「文選爛して、秀才半ばす」(『老學庵筆記』)と言われるまでになり、『文選』をマスターすると、科挙試験に半分合格したようなものだと喧伝されていたようです。その後、異民族王朝の元代などには相当衰退した時期がありましたが、大体、多少の衰退は存在したものの、士大夫の間ではずっと『文選』は愛読され続けてきました。だから、唐以前の詩文集としては、唯一『文選』だけが大体そのままの形で伝わってきたのです。その意味でたいへん貴重な文献資料と言えましょう。

唐初には曹憲によって『文選』の「音義」を教授する講義が行われ、「文選學」と呼ばれる『文選』を専門に教授・研究する学問も始まり、発展展開しつつ、現代まで途絶えることなく継続しています。

しかし、約1400年あまりの長い歴史がありながら、『文選』にはなお未解決の不思議なことや疑問が多くあります。文献によると、編者は昭明太子と明記されていますが、梁王朝の「総集」は文献にその名が明記されていても、その人が実際の編纂者であることは希有であります。殊にそれが皇帝・皇太子・諸王の場合は殆どが側近の有力文人が実質的編者であります。だから、誰が主として『文選』を編纂したのかということは大いなる疑問であります。しかし、それについて詳細に究明することは全くなされてきませんでした。

また『文選』に収録されている詩文はすべて模範的秀作とみられてきましたが、虚心に読んでみますと、必ずしも模範とはなり得ないような詩文がかなり選録されています。これはどのような原因でそうなっているのか?これも全く等閑にされ、検討の対象にもなっていません。

さらに『文選』の評価が約100年ほど後の玄宗皇帝の時に急に評価が高くなった事象についても不思議なことだと言われています。しかし、この理由に関してもなんら分析・検討された形跡すらありません。

それは詩文創作の指南書としては、『文選』に収録されている個々の作品の「音義」(読み方と意味)が正しく理解できれば、それで必要十分条件を満たしていたからであります。古来の読者は『文選』に収録されている詩文の「音」と「義」が分かれば、それで満足していたのであります。だから、誰が実質的編者であろうと、いかなる編纂方針で選録されているかなどという穿鑿は必要なかったようです。

しかし、『文選』はあくまで一編の詞華集でありますから、『文選』の本質を究明するためには、当然詞華集としての『文選』全体像を明確にする必要があります。編纂の理念を知ることも是非必要なことです。そのためには編者の特定や編纂時期などを究明することも必須の事案となります。これらの問題を総合的に分析検討して詞華集としての『文選』の実像を究明してゆこうという試みが「新文選學」なのであります。いまや、新しき『文選』研究の時であります。
志ある若者よ!私の提唱する「新文選學」―この新しい『文選』研究に情熱をもって取り組んでみましょう。

以下のようなことも長年等閑にされてきたのです。こんな事例がなお沢山あるのです。一度調査してみませんか。高度な知的遊戯として面白いですよ。

例えば任昉の「劉先生夫人墓誌」は決して「墓誌」の模範と言えるような作品ではありません。しかし、『文選』はこの「劉先生夫人墓誌」という一篇だけを「墓誌」の代表作として選び収録しています。模範的名文を収録してあるという古来の観点から見ると、甚だ不可解な選録であると言わざるを得ません。だから、これまで文選の研究者もこのような「墓誌」がどうして選録されているのだろうかとたいへん訝ってきました。
実は、この選録の裏には、種々の複雑な事情が絡んでいるのです。



2

 

文体別に選録されている中で、わずか一編のみの撰録というのも既に異例でありますが、普通、「墓誌」という文體は、呉均の『齊春秋』によりますと「其の人の世系・名字・爵里・行治・壽言・卒葬の日月と、其の子孫の大略とを記し、石に勒して蓋を加ヘ、墓中に埋めて、以て異時陵谷の變遷を防ぐ」ものであり、形式的には先ず序に當る無韻の文があり、その後に「辭曰」として、押韻された銘辭が續いているものであります。ところが、この「劉先生失人墓誌」は、世系・名字等を記した序の文がなく、いきなり押韻された銘辭から始まる極めて異例のものであるのです。それ故、『文選』の編者が「墓誌」の一典型として、この作品を採録したとは考え難いのです。(採録時に「序」に當る部分が省略されたとしても、「墓誌」の文體の規準から外れる異例の省略を行っているのですから、事情は變りません。)異例の、僅か九十六字の「劉先生夫人墓誌」が「墓誌」の代表作としで採録された理由は、表現形式よりも、やはり内容に關わるものでありましょう。
そこで、先ずそれを檢討するために、次に全文を掲げておきます。

既稱莱婦、亦曰鴻妻。復有令徳、一與之齊。實佐君子、簪稾杖黎。欣欣負載、在冀之畦。居室有行、亟聞義讓。稟訓丹陽、弘風丞相。籍甚二門、風流遠尚。肇允才淑、閫徳斯諒。蕪没鄭郷、寂寛楊冢。參差孔樹、毫末成拱、暫啓荒埏、長扃幽隴。夫貴妻尊、匪爵而重。(『文選』巻五十九)
既に莱婦と稱し、亦鴻妻と曰ふ。復た令徳有り。一に之と齊し。實に君子を佐け、稾を簪にし、藜を杖とす。欣欣として負載し、冀の畦に在り。居室有行にも、亟しば義讓聞こゆ。訓を丹陽に稟け、風を丞相に弘む。籍甚なる二門、風流遠く尚し。肇め允に才淑、閫徳斯に諒なり。鄭郷に蕪没浸し、楊冢に寂寛せり。參差たる孔樹、毫末拱を成す。暫く荒埏を啓き、長ヘに幽隴に扃す。夫貴く妻尊きは、爵に匪ずして重んぜらる。
劉先生夫人王氏は、古ヘの賢婦老莱子の婦や梁鴻の妻の如き美徳を備え、脱俗的賢人の夫劉巘を助け、稾の簪、藜の杖といった質素な身なりで、薪を負ひ、田の畦で食事を用意するなどしてかいがいしく働いた。夫人はまた謙讓の譽れ高く、夫婦はそれぞれ、劉、王兩家の良き傳統を繼承し、名聲を高め、超俗の氣風にあふれていた。夫人王氏は元來、貞淑であったが、やがてより立派な婦徳を兼備するに至った。劉先生が先に逝き、何年か後れて夫人も亡くなり、遺體は合葬された。二人とも爵祿ではなく、その人柄によつて非常に尊敬されたという。

以上が大體の内容であります。ここに言う劉先生とは、「儒學は當時に冠たり。京師の士子貴遊は、席を下りて業を受けざる莫し」(『南齊書』巻三十九、劉巘傳)と稱された劉巘のことであり、夫人王氏とは、王法施の女のことであります。

ところで、この「墓誌」に述べられた合葬の事などは、次に述べる『南齊書』の記事と内容的に全く齟齬しており、當時既に問題となっていた事件であるようです。恐らくそこにこの「劉先生夫人墓誌」が『文選』に採録された理由が潛在していると思われます。

『南齊書』劉巘傳によりますと、夫人の王氏は、自らの非禮な行爲が原因で、義母孔氏の不興を買ったため、至孝の劉巘より家を出されたと明記されています。

母孔氏甚嚴明、謂親戚曰、阿稱便是今曾子。阿稱、巘小名也。年四十餘、未有婚對。建元中、太祖與司徒褚淵爲巘娶王氏女。王氏椓壁挂履。土落孔氏牀上、孔氏不悦、巘即出其妻。(巻三十九)
母の孔氏、甚だ嚴明、親戚に謂ひて曰く、阿稱は便ち是れ今の曾子。阿稱とは、巘の小名なり。年四十餘にして、未だ婚對有らず。建元中、太祖、司徒褚淵と巘の爲に王氏の女を娶る。王氏、壁に椓して履を挂く。土、孔氏の牀上に落ち、孔氏、悦こばず、巘即ち其の妻を出だす。

このような記事が梁代に作られた『南齊書』に記載されているところから見ますと、齊・梁代に於ては、夫人王氏離縁説は、實際に相當廣く流布していたもようであります。

一方、任昉の「劉先生夫人墓誌」に、ことさら合葬の事などを記述していますのは、これによって『南齊書』に記されているこの惡い風評を排し、劉巘と夫人王氏の名譽を恢復する目的があってのことでありましょう。

合葬、離縁兩説の眞僞については、清朝「文選學家」の梁章鉅は、『文選旁證』に於いて「向の注に、巘は平生其の妻と道義相得て、終身志を改めざるなりと。而るに齊志は、王氏出ださると言ふ。今、此の誌は乃ち合葬の文なり。疑ふらくは、齊志に誤り有らん」と記し、「齊志」の誤傳のように推論しています。しかし、『南齊書』より二百年以上經過した後の五臣注(呂向注)の記載を根據に『南齊書』の記事を否定するというのは、いかに『文選』の考證の書として夙に評價の高い『文選旁證』とは言え、いかにも亂暴で粗雜な推論に過ぎ、全く措信できないと言わざるを得ません。この眞僞問題は『南齊書』と「劉先生夫人墓誌」の立脚點及びそれぞれの撰者(蕭子顯、任昉)の劉巘夫妻に對する親疏關係などを愼重に檢討した上で結論を出さねばならない問題であります。ただ、任昉の「劉先生夫人墓誌」には、當然備わっているべき世系・名字・卒葬の日月をすら記されていないところを見ると、これは葬送時創作の石に勒して墓中に埋められた「墓誌」ではなく、後に王夫人の離縁という惡い風聞が流布した事に對して、「墓誌」の形式を借りて書かれたものである可能性が強いので、『文選旁證』とは逆にむしろこの「墓誌」の合葬説に疑問があるように思われます。



3

 

いずれにせよ、『文選』の編者は、前述の如く、文體上から言っても異例であり、修辭上から見ても特に優れているとも見えない「劉先生夫人墓誌」をわざわざ採録しているのでありますから、この問題に關聯して、『南齊書』に明記されている離縁説に反對し、「劉先生失人墓誌」の合葬説を支持する立場をとっていた事は確實であります。

そこで更に『文選』の編者が何故任昉の合葬説に與し、「墓誌」としての體裁も具備していない「劉先生夫人墓誌」を採録したのかという問題に論究して行く必要があります。そこで、次に『文選』の編者と劉巘及び王夫人との關係を檢討していくことにします。

『南齊書』本傳(巻三十九)によると、劉巘は若い頃より篤學の人で、博く五經に通曉し、常に數十人の學徒を聚め、熱心に教授しました。學徒達も劉巘を非常に敬愛し、彭城より會稽への任地變更の際には、「學徒の之に從ふ者轉た衆し」という如く、多くの者がつき從って行ったと言います。巘は姿こそ細く小さかったけれども、當時の儒學の冠冕とされ、「京師の士子貴遊は、席を下りて業を受けざる莫し」と言われる程に尊敬されていました。この多くの學徒の中に彭城の劉繪がおり、巘の晩年、病臥の際、竟陵王子良の命により、范縝とともに包厨の人をひきつれて巘の宅ヘ行き、齊食の世話などをしています。殊に病臥の際でありますので、竟陵王は特に氣を配って、劉巘の信頼する、近親者を選び、派遣したでありましょう。それ故、劉繪、范縝の二人は、劉巘の最も信頼を寄せる弟子たちであったと言えましょう。

竟陵王子良親往脩謁。七年、表世祖爲巘立館、以揚烈橋故主第給之、生徒皆賀。巘曰、室美爲人災、此華宇豈吾宅邪。幸可詔作講堂、猶恐見害也。未及徙居、將遇病、子良遣從巘學者彭城劉繪、遣從陽范縝將厨於巘宅營齊。及卒、門人受學並弔服臨送。時年五十六。(『南齊書』巻三十九劉巘傳)
竟陵王子良親しく往きて謁を脩す。七年、世祖に巘の爲に館を立てんことを表し、揚烈橋の故の主第を以て之に給す。生徒皆賀す。巘曰く、室の美しきは人災を爲す、此の華宇は、豈に吾が宅ならんや。幸に詔ありて講堂と作す可くも、猶ほ恐らくは害を見ん。未だ居を徙すに及ばざるに、將に病に遇はんとす。子良、巘に從ひて學ぶ者の彭城の劉繪・從陽の范縝を遣はし厨を巘宅に將いて齊を營ましむ。卒するに及び、門人受學並びに弔服して臨送す。時に年、五十六。

この彭城の劉繪は、初唐の元兢の『古今詩人秀句』に『文選』の編者の一人であると特定されている劉孝綽の父なのであります。父の敬愛した劉巘先生に對し、子の孝綽が親しみを感じ、尊敬の念を抱くようになるのは極く自然なことでありましょう。劉巘の卒年は、永明七年(489)でありますから、既に八歳になつていた孝綽は、あるいは父に伴なわれて劉巘に會い、自ら畏敬の念を抱いたのかもしれません。『梁書』に「孝綽幼くして聡敏、七歳にして能く文を屬す。舅の齊の中書郎王融深く之を異とし、常に與に同載して親友に適き、號して神童と曰ふ。」(巻三十三、劉孝綽傳)と記されている程早熟の劉孝綽であれば、その可能性は十分考えられます。たとえ、會わなかったにせよ、父劉繪から話を聽いて、尊敬の念を持っていたことは確かでありましょう。

また一方、劉孝綽は、劉先生夫人王氏(王法施の女)とも關聯が深いようであります。

孝綽の伯父劉悛の婦は、『南齊書』に「悛の婦の弟王法顯」(巻三十七、劉悛傳)とあるところから見て、明らかに琅邪の王氏であり、父劉繪の妻、つまり孝綽の母も、『梁書』に「舅の齊の中書郎王融」(巻三十三、劉孝綽傳)とあることからみて、やはり琅邪の王氏の出身でありました。また孝綽の妹の一人は、「其の三妹、琅邪の王叔英、呉郡の張嵊、東海の徐悱に適く」(同前)と言う如く、琅邪の王叔英に嫁しています。つまり、彭城の劉氏と琅邪の王氏は、齊梁代に於て如上の幾組かの婚姻を結び、強い連帶關係を保持していたのであります。それ故、劉孝綽にとっては、王氏が失態を演じ、家を出されたという風聞が『南齊書』に記載されるというだけで、十分に不愉快なことであるのに、まして、それが父の敬愛する劉巘先生の夫人王氏のことであってみれば、一層腹立たしく、到底容認できないことと感じられたでありましょう。
そこで、劉孝綽は、超俗的な夫劉巘をよく助け、聲名をあげた夫人王氏の婦徳を稱揚し、最後に合葬されたことを述べた任昉の「劉先生夫人墓誌」に注目し、『文選』編纂の際、「墓誌」の體裁を具備していないにも拘わらず、わざわざこれを採録し、『南齊書』の記事を却け、劉巘及び夫人王氏の名譽恢復を願ったのであります。劉巘に後嗣がなかったことから考え、あるいは、劉繪が親しい同黨の任昉に依頼して、この墓誌を作ってもらったのかも知れません。

以上の如き事情によつて、文體としての形式を完備していない「劉先生夫人墓誌」が「墓誌」の代表的作品として唯一『文選』に採録されたのであります。

『文選』にはこのような裏事情をもった選録もかなり存在しているのです。

この『文選』は我が国にも早くから輸入され、諸種の記録によると、奈良時代に既に渡来し、平安朝貴族の間でたいへん流行したと言われています。『菅家文章』に「北堂にて文選竟宴あり、各々史句を詠む」とあるように、各所でしきりに「文選の饗宴」が行われ、盛んに詩文が作られていたと言います。その饗宴の場で作られた詩文は『本朝文粋』『菅家文章』『江吏部集』などに収められています。当時、漢字を用いて読み書きしなかった女性までもがこの『文選』は読んでいたのでしょう、清少納言は『枕草子』中に「文は文集、文選、博士の申し文」と記しています。『文選』は我が国においても、どうしてこんなに流行したのでしょうか。『文選』に収載されている詩文のどこが平安貴族の心を捉えたのか、不思議なことです。我が国における『文選』受容の歴史もまた興味深い問題であります。
一度、ともに調査分析してみようではありませんか。



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