文選李善注の性質

 


一、「李善註文選」の成立當時の情況

二、李善註文選の性質
三、「李善註文選」の實像究明の現状

あらゆる評價は當時の政治的、經濟的、社會的な情況及び各自の意向・性質などに強く影響支配されることは免れ難く、絶對的に客觀的な評價というものは存在し難い。勿論、傑出した哲人や偉人が一定の規準を創り上げ、世俗の人々を導くことは必要不可缺な面もあり、偶像化や神聖化が必ずしも意義のないことではない。しかし、學問が「眞」「善」「美」を追究するものである以上、やはり作り上げられた結果である偶像を顯彰する方向ばかりではなく、先ず本來の姿である實像はどのようなものであったかを明確にした後、それが如何なる目的の下に、どのような過程を經て偶像として形成されていったかを解明することが非常に重要である。

例えば、唐初、太宗李世民は王羲之を愛好崇拜するあまり、『晉書』の改修を命じ、自ら論贊を表して、「書聖」王羲之を作り上げた。また所在不明だった、眞贋の紛らわしい蘭亭序帖を發掘入手し、褚遂良に鑑定評價させ上、彼の『右軍書目』に著録させて第一の「名品」に仕立て上げた。玄宗朝には劉餗『隋唐嘉話』・何延之『蘭亭記』などといった傳奇物語が創作され、「書聖」王羲之が「神助」を得て書き上げたこの「神品」は太宗とともに昭陵に埋葬されたとまことしやかに宣傳された。その結果、ますます神秘性を帶びてきた「蘭亭帖」は模本までもが珍重され、寶物となっていった。宋代には遂に王羲之と蘭亭序に關する一大事典の如き『蘭亭考』なるものまでもが編纂され、確實に偶像化され、神聖化されていった。太宗李世民の王羲之を賞揚する意向は見事に成功し、王羲之と蘭亭序帖は絶對的なものに昇華され、神格化されたのである。

その結果、現代に至るまで「書聖」王羲之は偶像化されたまま、その實像は全く見失われてしまい、「神品」蘭亭序帖は眞贋不明の状態のまま、絶對的な傑作として書道界に君臨し續けている。また『文選』の序部に採録されていなかった「蘭亭序文」までもが後世、一般には殆ど何ら疑念を挾まれることなく、無批判に「眞寳」と認定され、『古文眞寶』に收録された後は、すっかり不朽の名文と認定されてしまっている。

このような偶像化を見過ごしてしまうと、遂には例えば『晉書』王羲之傳の「我卒當以樂死」は、「私は結局快樂の中で死ぬのだろうな」という不可解な解釋のままに何の疑問も抱かれることなく放置され、「眞意」を追究する姿勢をすらすっかり忘却してしまう結果に終わるのである。これは前後の文脈から見て、當然「私は最後はきっと藥で死ぬだろうな」と解釋すべきものである。

『晉書』と同じ唐初に上表された李善の『文選註』六十卷も紛れもなく最も優れた注釋書と認定できるものであるが、これも初めから決して詞華集『文選』にとっての「盡善盡美」の注釋ではなかった。「獨善」の如き、過大に誇張された評價は宋朝以降に徐々に釀成されて行ったものである。現代に至っては「文選學は李善學である」とまで極論する者さえ出現するほどに絶對視され、偶像化されて來ている。唐初に上表、獻呈された際はもちろんのこと、唐王朝を通じても、李善の『文選注』が現在の評價ほど高く評價されていたという形蹟は全く見受けられない。むしろその缺點を補充するような試みがなされた痕蹟さえ見られるくらいである。

このように絶對視され、偶像化されたままの状態を見過ごしてしまうと、「書聖」王羲之や蘭亭序帖がそうであるように、「李善註文選」の實態、實像が全く見失われてしまう虞があるのみならず、ひいては文選學全體の研究を誤った方向に導く危險性すらある。そこで小論は現存の「李善註文選」を稍しく丁寧に檢討分析することを通じて、制作當初の實態及び實像の究明に努め、「李善註文選」の成立過程及び位相を明確にしたい。

 

一、「李善註文選」の成立當時の情況

李善の『文選注』の上表された時期は、『文選』に付されている「上文選注表」には「顯慶三年九月十七日」と明記され、『唐會要』(卷三十六)には「顯慶六年正月二十七日」と記されている。本來は自らが明記した「上文選注表」の日付を措信すべきところであるが、單行の「李善註文選」は宋代にいったん散逸した後、「六臣註文選」などから李善註のみを抽出して復元した可能性があると認定されているからには、その表記に必ずしも全幅の信憑性を寄せるわけにはいかない。

單行の「李善註文選」が散逸してしまった原因についてはいずれ複合的な事象が存在したと考えられるが、少なくとも當時の社會においては「李善註文選」が「獨善」の如き高い評價を受けておらず、むしろ補足が必要であると見られていたことが一因であることは明白である。それ故、いま遽に李善の『文選注』の上表時期を正確に特定することは甚だ困難であるが、いずれにしてもその初次の上表時期が高宗李治の顯慶年間であると見て間違いはなかろう。そこで、先ずは唐初の貞觀から顯慶年間までの書籍制作事情を中心に檢討し、廣く李善の生育した當時の政治・社會的環境を見ておくことにする。

太宗李世民の貞觀年間とそれに續く高宗・武則天治世の時期には、唐王室が中國全土を掌握支配するために、古來漢民族の尊重してきた傳統を繼承するという形式を採用しつつ、自らの政権基盤を安定強化すべく、新しい規準を創成しなければならない必然性が存在していた。太宗李世民は玄武門で兄の皇太子を殺し、父である高祖李淵に迫って讓位させたのであるから、いくら軍事力が強大で、武力で全土を制壓し得た實力者とは言え、父子兄弟間の道徳規準及び禪讓という傳統的に正統な帝位繼承形式に照合すると、彼は決して中國の皇帝として適格者とは認められず、即位當初ははなはだ居心地の惡い、不安定な位置にあったと言わざるを得ない。

また顯慶の頃の實質的な支配者である武則天にしても、もともと太宗の一側室であった武氏が還俗して高宗の九嬪である昭儀に入り込み、強引に太穆皇后竇氏を廢して皇后となり、やがて皇帝に即位した女性であるから、政治的權力はともかく倫理的にはとても中國の傳統に適合した正統な皇后・皇帝であると主張できるような要素は殆どなく、甚だ不安定な權力基盤の上に存在していたのである。それ故、この二人の強力な支配者はその政治力と經濟力を驅使して、自分が政治的にも倫理的にも漢民族の正統な文化傳統を繼承育成するに相應しい皇帝であることを認定させ、政權基盤を盤石のものにしようと企て、側近の高官や有力文人に命じて一連の文化事業を企畫立案させ、短期間に強引に實施實行に移させた。

その結果、この時期に蒐集された文獻・書籍は眞僞の紛らわしいものが多い上、修改訂された『五經正義』・『五代史』(『梁書』『陳書』『北齊書』『北周書』『隋書』)・『隋書經籍志』や『晉書』等にしても、強引な自己の立場からの曲筆があるのみならず、前後相矛盾する記述も多數存在し、「二十四史」中で最も杜撰な正史と断定され、後世の多數の人々から強い指彈を受けている。

例えば、『隋書經籍志』は治世に有益なものは著録するが有害なものは排除するという方針から『顔氏家訓』や『經典釋文』などを著録せず、各卷に著録されている卷數と合計卷數は殆ど合致していないし、重複して著録されている書籍も多數見受けられる杜撰なところが目立つ。『晉書』にしても、たとえば李重傳に「重議之、見百官志」と記しておきながら、「百官志」そのものがない上、代わりとなる「職官志」にも「李重の議」はどこにも見あたらない。司馬彪傳に「語在郊祀志」と記しているにも拘わらず、「郊祀志」がなく、代わりにおかれている「禮志」にも「司馬彪の語」は全く存在しない。こういった齟齬矛盾が多數存在しているだけではなく、同じ唐王朝の史官である劉知幾の撰した『史通』においてさえ「皇家の晉史を撰するや、多く此の書に取り、遂に康王の妄言を採り、孝標の正説に違ふ。此の書の事を以てするは、奚んぞ其れ厚顔ならんや。」(卷十七 雑説中)などと強烈に批判されているほどである。

これは複數の文人が分擔して仕事に當たっていたことや編集方針が不統一であったことに加えて、文獻資料が散逸していたり、その内容が政權の方針と齟齬しているような場合には、強引にその部分だけを加筆或いは曲筆して改修し、短期間にうちに強行に完成させた爲に派生したことである。

上述のような政治・社會上の複雑な事情があったので、當時は政権の安定や自派或いは自己の立場を有利に導くために、多數の玉石混淆の文獻・書籍が陸續と亂脈に発掘されたり、作り出されたりしていたのである。また、實際に文獻・書籍の創作が複數の文人によってなされた場合でも、『藝文類聚』・『晉書』・『隋書經籍志』のように、その受詔者や代表者の名のみが記されるということがごく一般的であったので、實際の撰者を特定することさえ甚だ困難なのである。また、例えば『太宗實録』に見られるように、一度、完成したものでも、權力者の意向に合わなければ、再び別人によって改修訂された同種の別物が作られるということもしばしば行われている。

こうした風潮の續く時期に生育し、許淹や公孫羅等とともに江淮間で同郷の老師曹憲から「文選學」の教授を受けてきた李善が高宗の顯慶年間に『文選注』六十卷を上表し、獻呈したのである。それ故、師弟間或いは父子間の注釋の授受や混淆及び上表された後の改修訂の可能性は十分想定され得る情況にあったと言える。

實際、唐末の李匡乂『資暇録』に、

李續之雅宜殷勤也。代傳數本李氏文選。有初注成者、覆注者、有三注四注者。當初旋被傳寫之。其絶筆之本、兼釋音訓義、注解甚多。余家幸而有焉。嘗將數本並校、不唯注之贍略有異、至於科段、互相不同、無似余家之本該備也。(『資暇集』卷上「非五臣」)
(李續之は雅宜殷勤なり。代々李氏文選を傳ふ。初注の成る者、覆注の者有り、三注四注の者有り。當初旋に之を傳寫するを被る。其の絶筆の本、釋音訓義を兼ね、注解甚だ多し。余が家、幸にして焉れ有り。嘗て數本を將て並校するに、唯だ注の贍略異なる有るのみならず、科段に至るも、互に相同じならず、余が家の本の該備たるに似たる無きなり。)

と記されているように、李善の『文選注』も初注のものから四注のものまで數種のものが出囘り、當初はこれらが傳寫されていた。そしてその「絶筆」本は確かに釋音訓義を兼ね備え、注解も甚だ多いものに完成されていたという。自家にあったその「絶筆」本と他の「數本」とを対校してみると、注の分量の多寡のみならず、「科段」にさえ異同があったということであるから、唐初の書籍撰録の情況と同じく、「初注本」から「絶筆本」までには相當の増補改修があったと認められる。

また、『新唐書』李邕傳には次のように具體的な増補改修の情況が記されている。

邕少知名。始善注文選、釋事而忘意。書成以問邕。邕不敢對。善詰之。邕意欲有所更。善曰、試為我補益之。邕附事見義。善以其不可奪。故兩書並行(卷二百二 李邕傳)
(邕少くして名を知らる。始め善、文選に注し、事を釋きて意を忘る。書成り以て邕に問ふ。邕敢て對へず。善、之を詰る。邕、意更むる所有らんと欲す。善曰く、試に我が為に之を補益せよと。邕、事に附きて義を見はす。善、其の奪ふ可からざるを以ふ。故に兩書並びに行はる。)

この記事から見ると、當初、李善の「書成」した『文選注』は「事を釋いて意を忘れている」傾向のものであったが、李邕がそれに「事に附きて義を見はした」注釋を増補した。李善がその増補を許容した結果、世間には「李善初成注本」と「李邕増補注本」の「兩書」が「李善文選注」として廣く流布したということになる。

このことに關して、『四庫全書總目提要』は、『資暇録』の撰者である唐末の李匡乂は李善と時代が近いのであるから、上述の記事には當然必ず徴證があろう。しかし、『新唐書』の方は好んで「小説」を採用する傾向にある上、なお詳考もないのであるから、その記事には信憑性がない。やはり『資暇録』の記述の通り、「善書の定本」にはもともと「事義兼釋」が備わっていたのであり、李邕は増補改修には全く關係していないと判定するのが妥當であろうと主張している。

是善書定本。本亊義兼釋、不由於邕。匡乂唐人、時代相近、其言當必有徴。知新唐書喜采小説、未詳考也。(四庫提要 總集類 文選)
(是れ善書の定本は、本より亊義兼釋、邕に由らず。匡乂は唐人、時代相近し。其の言當に必ず徴有らん。新唐書の喜んで小説を采り、未だ詳考せざるを知る也。)

確かに歴史的事實として顯慶年間には李邕はまだ生まれていないから、「書成」の時期が顯慶三年の上表の時期であるのなら、「書成りて以て邕に問ふ」という事態はあり得ない。しかし、李匡乂の『資暇録』は、決して「初注成者」から既に「釋音訓義」を兼備していたとは明記していないし、また李邕の改訂にも全く言及していない。だから、『資暇録』の記事のみを根據に『新唐書』の記事を否定する『四庫提要』の説は甚だ早計に過ぎる。『資暇録』の「嘗て數本を將て並校するに、唯だ注の贍略異なる有るのみならず、科段に至るも、互に相同じならず、余が家の本の該備たるに似たる無きなり。」という記述は、むしろ確かに「初注本」から「四注本」の間に大幅な増補改訂が爲されたことを示唆していると言えよう。『四庫提要』の撰者は少なくとも『資暇録』の記事を曲解している。恐らく既に偶像化していた『李善註文選』の名聲に眩惑され、無意識の内に李善の評價を下げるような『新唐書』の記事は忌避せざるを得なかったのであろう。

『新唐書』の李邕増補説は或いは後人の創作した逸話である可能性も存在するものの、決して一概に李邕の才を賞贊するために捏造されたものであると簡單に片づけてよいものではない。「李善註文選」の「初次成書」から「絶筆」にいたるまでの期間は、上述のように書籍の發掘・創作・改修が亂脈に行われていた時期である上、それを裏付けるような『資暇録』の記事と『新唐書』の記事が存在しているのである以上、少なくともに「兩書並びに行はる」(二種類の李善『文選注』が同時に流布していた)ということは事實として信憑性が高いと言えよう。蔣黻氏が唐鈔本の題記に「此れ(唐鈔本)は、崇賢(李善)の初次表上の本たりて、今本は、北海(李邕)補益の本たるを知る」と述べるように截然と區別できるものではないだろうが、少なくとも「李善註文選」は「初注本」から「四注本」まで何年にも渡って増補改修がなされ、最後に「絶筆本」に至っていると認定できよう。

それ故、李善の生卒が特定できない現在、李邕による増補をも單に妄言と決めつけるわけにはいかない。今本の「李善註文選」に關しては、今のところ、劉師培氏の「或いは李邕の増す所、或いは亦他注の竄入する所」(劉氏「敦煌新出唐寫本提要」)が存在するというのが穩當な見解と言えよう。近年多く報告されている「胡刻本」と「唐鈔本」・「集注本」の比較檢討の結果を見ても、初次の「上表本」から今本の「胡刻本」に至るまでの間には、種々の「李善註文選」が存在した事は確實である。また、これらの幾種かの異なる「李善註文選」を李善が單獨で増補改訂したものと判定している研究者は一人もいない。やはり、今本の「李善註文選」は李邕の増補を初めとして、他注の竄入もあって形成されていると見るのが妥當であろう。




二、李善註文選の性質

文選崇拜者である清朝の學者阮元は「楊州隋文選樓記」に於いて下記のように曹憲に起こった「文選學」は魏模・公孫羅等に傳えられ、各自がそれぞれ皆「文選注」を撰した後、李善に至って集大成された。それ故、曹憲・魏模・公孫羅等の「文選注」は半ば「李善註文選」中に存していると推測している。

元謂。古人古文・小學與詞賦同源共流。漢之相如・子雲無不深通古文雅訓。至隋時、曹憲在江淮間、其道大明。馬揚之學傳於文選。故曹憲既精雅訓又精選學、傳於一郡。公孫羅等、皆有選注。至李善、集其成。然則曹魏公孫之注、半存李善注中矣。(『揅經室二集』卷二)
 (元謂ふ。古人の古文・小學は詞賦と源を同じくし、流れを共にす。漢の相如・子雲は深く古文の雅訓に通ぜざる無し。隋の時に至りて、曹憲、江淮の間に在り、其の道大いに明らかなり。馬揚の學、文選に傳へらる。故に曹憲、既に雅訓に精しく、又選學に精し。一郡に傳へ、公孫羅等、皆、選注有り。李善に至りて其の成を集む。然らば則ち曹・魏・公孫の注、半ば李善注の中に存す。)

この阮元の推測は、『舊唐書』に「曹憲は揚州江都の人なり。(中略)撰する所の文選音義、甚だ當時の重んずる所と爲る。初め江淮の間、文選學を爲す者、之を憲に本づく。又た許淹・李善・公孫羅有り、復た相繼ぎて文選を以て教授す。是れ由り其の學、大いに代に興る。」(卷一百八十九上、「儒學」上 曹憲傳)、「父の善、嘗て文選を同郡人の曹憲より受く。」(卷一百九十中「文苑」中 李邕傳)と明記されている通り、元來、李善は紛れもなく曹憲より「文選學」を授受繼承した高弟である。それ故、自然に師説の影響を受け、その結晶である『文選音義』を繼承發展させるべく努めたであろうから、それを自身の「文選注」に取り込んでいると見ることは至極當然のことである。遺存する諸史料の記事すべてが曹憲に起こった「文選學」は李善によって集大成されたという事實を指し示している以上、このことについては何ら疑義を差し挟む餘地はない。しかし、「曹・魏・公孫の注、半ば李善注の中に存す」という阮元の見解となると、宏観的視點に立脚すれば、誠に妥當な推定と認めざるを得ないものの、實際には今本の「李善註文選」中にその痕跡があるか否かを調査分析する微觀的、實證的な檢討がなされていないので、甚だ疑問を呈する向きがある。

近年刊行され、「文選李善注」研究の集大成と評された富永一登著『文選李善注の研究』に於いては、遺存する各種「李善註文選」に曹憲・許淹・公孫羅の名を表記して採録されている事例を綿密に調査檢討した後、上記の阮元の推測を否定し、「現存する資料から見るかぎり、そのような痕跡は全く認められない。李善の注は、舊來の訓詁、音注とは違う新たな『文選學』を創出しているのである」という新見解を提出されている。

この新見解は、遺存する各種「李善註文選」の表記を可能な限り綿密に調査分析し、「李善注文選」の實像を演繹歸納するといった實證的な究明法によって提出されているものだけに一見非常に信憑性が高いように見える。しかし、遺存する事例があまりにも少量である場合はむしろ歪曲された實像を導き出す虞も存在するのである。この新見解の場合も「これら十三例から見るかぎり、曹憲の『文選音義』も蕭該の『文選音』と同様に、音注を中心にした注釋書だったようである」と結論されていることから分かるように、ごく少數の限られた事例から歸納された見解である。誤った實像を描き出す危險性を避け、正確な結論を演繹歸納してくるためには、「曹憲」という表示のある十三例だけを綿密に分析檢討する微觀的究明法のみに依據するのではなく、撰録當時の社會情況や各自の人的關係・學問の繼承關係などといった宏觀的究明法をも是非採用する必要があろう。

老師曹憲の『文選音義』は十卷とかなりの分量があるにも拘わらず、遺存する例が僅か十三例と絶對的に分量が少ない上、氏の推定通り十三例すべてが『文選音決』に引かれたものであれば、「音決」という性質上、その撰者が曹憲の『文選音義』から引用するに際して、意識的に「琵、曹、歩兮反。」(集注本卷九「呉都賦」の注)のように「音」部分のみを採録し、「義」の部分を省略した可能性が相當高い。それ故、いくら「文選注」に遺存している十三例がすべて「澄、曹、直耕反。」(集注本卷九「呉都賦」の注)のような「音」部分のみを採録したものであっても、これを根據に直ちに曹憲の『文選音義』は「音」だけに重點がおかれた注釋書であると判定し、さらには李善の注は、舊來の訓詁、音注とは違う新たな「文選學」を創出していると斷定するのは早計であろう。

曹憲の『文選音義』は遺存していないので、その注釋の方法は分明ではないが、曹憲傳に「太宗又た嘗て書を讀みて難字有り。字書の闕く所の者なり。録して以て憲に問ふ。憲皆之が音訓及び引證を爲して明白なり。太宗甚だ之を竒とす。」(『舊唐書』儒学傳)と記述されているのを見る限り、曹憲は音訓を釋するに際して、確かな根據となる文獻を引證していたものと認定される。李善は恐らく老師のこの方法を繼承發展させ、「諸引の文證、皆先を舉げて以て後を明らかにし、以て作者必ず祖述する所有るを示すなり。」(文選卷一「兩都賦序」注)「諸釋義、或いは後を引いて以て前を明らかにし、臣の任、敢て專らにせざるを示す。」(同前)という注釋方法を形成していったものと思われる。「李善註文選」には、確かに「曹憲文選音義」と明記して引用したものこそ遺存していないものの、その引用の傾向には下記のように老師曹憲の影響の痕跡が如實に見受けられる。

曹憲は『舊唐書』に「憲又た諸家の文字の書に精しく、漢代の杜林・衛宏自り後、古文泯絶す。憲に由り此の學復た興る。(中略)憲又た張揖の撰する所の博雅に訓注し、分けて十卷と爲す、煬帝令して祕閣に藏す。」(『舊唐書』曹憲傳)と述べている通り、文字學に精通し、特に張揖の『廣雅』(隋の文帝楊廣の諱を避け『博雅』と記されている場合もある)には訓注まで施し、彼自身も『博雅』十卷を撰録しているほどであるから、ことさら張揖の字説に傾倒するところがあったと言える。それ故、曹憲の『文選音義』には當然の歸結として張揖の字説である『廣雅』から多數採用していたものと推定できる。

いま「李善註文選」を見てみると、殊に「廣雅曰」の引用が非常に多く、六百九十囘以上にも及んでいる上、漢書に收録されている「子虚賦」や「上林賦」の注に於いては、表題の所に舊注として特に名前を別記されている郭璞注(「子虚賦」46囘「上林賦」160囘の引用)を除いては、「張揖曰」の引用が抜群に多く、「子虚賦」で48囘、「上林賦」で84囘にも及ぶ。これは「司馬彪曰」のそれぞれ13囘・39囘、「文穎曰」の6囘・10囘、「韋昭曰」の4囘・9囘、「如淳曰」の3囘・10囘、「晉灼曰」の5囘・6囘、「應劭曰」の4囘・6囘、「服虔曰」の7囘・2囘、「孟康曰」の1囘・7囘、「蘇林曰」の4囘・1囘の引用に比べると非常に多く、いかに張揖の説が重視尊重され、多用されているかということが明確に分かる。この現象は明らかに李善が張揖から曹憲に續く學統を繼承している痕跡であり、「李善註文選」はこれを發展させて創り上げたものであることを示唆している。

そこで次ぎに實際に今本の「李善註文選」に多數引用されている「張揖曰」や「廣雅曰」の具體的事例を調査檢討し、このことを檢證してみることにする。

胡刻本「李善註文選」の司馬長卿「子虚賦」中にある「榜人歌」の注は下記のように記されている。

榜人歌 張楫曰、榜、船也。月令曰、命榜人。榜人、船長也。主唱聲而歌者也。善曰、榜、方孟切。(卷七 司馬長卿「子虚賦」)
(張楫曰く、榜は船なり。月令に曰く、榜人に命ずと。榜人は船長なり。唱聲を主りて歌ふ者なりと。善曰く、榜は方孟の切と)

ここにおいて、張揖は「榜人歌」を注釋するに當たって、先ず「榜」の字義を訓釋した後、月令にある「命榜人」という典據を引證し、「榜人、船長也。主唱聲而歌者也」と注釋している。張揖の注釋がいつもこのような形式を採っていたと言えないまでも、典據を引證して注釋するという形式が張揖によって既に採用されていたことは明白な事實である。或いは「月令」以下は張揖注でないと疑念を抱く向きもあるかもしれないが、次の「李善註文選」が示す通り、張揖注は間違いなく「榜、船也」のみでなく、「月令曰」から「歌者也」までをも含んでいる。

人理行艫、輶軒命歸僕。 張揖子虚賦注曰、月令曰、命榜人。榜人、船長也。(卷二十 謝宣遠「王撫軍庾西陽別作」)
(張揖の子虚賦の注に曰く、月令に曰く、榜人に命ずと。榜人は船長なりと。)

なお曹子建「朔風詩」(卷二十九)の「愧無榜人」の注では単に「張揖漢書注云、榜人、船長也。」と記され、張景陽「七命」の「榜人奏采菱之歌」の注では「子虚賦曰、榜人歌。張揖曰、船長也。」と記されているところを見ると、「李善註文選」は繁雑となることを避けるため、當該箇所に必要な部分のみを適宜切り取って記すという方法を採用していることが分かる。それ故、「張揖曰」として字義の典據が明示されていない場合でも、必ずしももともと典據が引證されていなかったとは斷定することはできないだろう。上述の『文選音決』が曹憲の『文選音義』から「音」のみを採録しているのもこれに類するものである可能性もある。

「張揖曰」という表示で「榜人」に對する注釋の如く、典據を引證して注釋している事例には以下のようなものがある。

(1)歴倒景而絶飛梁兮、浮蠛蠓而撇天。 張揖曰、陵陽子明經曰、倒景、氣去地四千里、其景皆倒在下。如淳郊祀志注曰、在日月之上、日月返從下照、故其景倒。又曰、絶、度也。服虔曰、浮、高貌也。晉灼曰、飛梁、浮道之橋也。善曰、孫炎爾雅曰、蠛蠓、蟲、小於蚊。張揖三蒼注曰、撇、拂也。蠓、莫孔反。撇、匹列反。(卷七 楊子雲「甘泉賦」)
(2)其石則赤玉玫瑰、琳a昆吾。 張揖曰、琳、珠也。a者、石之次玉者。昆吾、山名也。出美金。尸子曰、昆吾之金。晉灼曰、玫瑰、火齊珠也。郭璞曰、琳、玉名。(卷七 司馬長卿「子虚賦」)
(3)乘遺風、射游騏。 張揖曰、遺風、千里馬也。呂氏春秋曰、遺風之乘。爾雅曰、雟、如馬、一角。不角者騏。雟、音攜。(同前)
(4)靈圄燕於間館。 張揖曰、靈圄仙之號也。楚辭曰、坐靈圄而來謁。間、讀曰閑。(卷八 司馬長卿「上林賦」)
(5)過乎泱渀之埜。 張揖曰、山海經所謂大荒之野。如淳曰、大貌也。泱、烏朗切。(同前)
(6)拂翳鳥。 張揖曰、山海經曰、九疑之山有五采之鳥、名曰翳鳥。(同前)
(7)消搖乎襄羊、降集乎北紘。 司馬彪曰、消搖、逍遙也。張揖曰、淮南子云、八澤之外、乃有八紘。北方之紘曰委羽。郭璞曰、襄羊、猶彷徉也。(同前)
(8)巴渝宋蔡、淮南干遮。 郭璞曰、巴西閬中有渝水、獠居其上、皆剛勇好舞。初高祖募取以平三秦、後使樂府習之、因名巴渝舞也。張揖曰、樂記曰、宋音燕女溺志。蔡人謳員三人、淮南鼓員四人。干遮、曲名。(同前)
(9)沙棠櫟櫧。 張揖曰、沙棠、状如棠、黄華赤實。其味如李、無核。呂氏春秋曰、果之美者、沙棠之實。櫧、似柃、葉冬不落。應劭曰、櫟、採木也。櫧、音諸。柃、音零。採、音采。(同前)
(10)地可墾闢、悉爲農郊、以贍萌隸。 張揖曰、邑外謂之郊。郊、田也。詩曰、税于農郊。韋昭曰、萌、民也。司馬彪曰、隸、小臣也。善曰、爾雅曰、命、告也。蒼頡篇曰、墾、耕也。小雅曰、贍、足也。(同前)
(11)載雲、揜羣雅。 張揖曰、畢也。前有九流雲畢之車。掩、捕也。詩小雅之材七十四人、大雅之材三十一人。故曰羣雅也。善曰、先用雲渥以獵獸、今載之於車而捕羣雅之士也。(同前)
(12)幼孤為奴虜、係縲號泣。 張揖曰、為人所係。戰國策曰、韓・魏父子老弱。係虜於道路。(司馬長卿「難蜀父老」)

上記の張揖の注釋では、それぞれ(1)の「倒景」に對しては「陵陽子明經に曰く、倒景は、氣、地を去ること四千里にして、其の景、皆、倒しまとなり下に在りと」、(2)の「琳a昆吾」には「琳は珠なり。aなる者は、石の玉に次ぐ者なり。昆吾は、山の名なり。美金を出だす。尸子に曰く、昆吾の金なりと」、(3)の「乘遺風」に對しては「遺風は千里の馬なり。呂氏春秋に曰く、遺風の乘なりと」、(4)の「靈圄」には「靈圄は仙の號なり。楚辭に曰く、靈圄に坐して來謁すと」、(6)の「翳鳥」には「山海經に曰く、九疑の山に五采の鳥有り、名づけて翳鳥と曰ふと」、(7)の「消搖」「北紘」に對しては「淮南子に云ふ、八澤の外に、乃ち八紘有り。北方の紘を委羽と曰ふと」、(8)の「淮南干遮」には「樂記に曰く、宋音燕女、志を溺れさす。蔡人は謳員三人、淮南は鼓員四人なりと。干遮は、曲名なり」、(9)の「沙棠櫟櫧」に對しては「沙棠は、状は棠の如し、黄華にして赤實なり。其の味は李の如くして、核無し。呂氏春秋に曰く、果の美なる者、沙棠の實。櫧は柃に似、葉は冬も落ちずと」、(10)の「農郊」には「邑の外を之を郊と謂ふ。郊は田なり。詩に曰く、農郊に税すと」、(12)の「係縲號泣」には「人の係する所為り。戰國策に曰く、韓・魏父子老弱にして、道路に係虜さると」の如く、典據となる文句を明示して注釋している。

これらの注釋法は「子虚賦」「上林賦」に付されている他の舊注には見られない注釋の方法である。ただ、「漢書」中の「子虚賦」「上林賦」にある顔師古注にもこの傾向は見られるが、顔師古は李善と同時代の人であるから、彼の注釋は舊注とは言えない。それ故、これは張揖の注釋の特質あると判定して間違いなかろう。下記の事例を見ても分かるように、このような張揖の注釋法は、現存の胡刻本『文選』の李善注と比較してみても、引用文の分量・内容に多少の相違はあるものの、「引證」による注釋という基本線に於いては大きな相違はない。李善注はこの典據による注釋の方法をより徹底させ、擴大發展させたものであることは確實であろう。

奉春建策、留侯演成。 漢書曰、高祖西都洛陽、戍卒婁敬求見、説上曰、陛下都洛不便、不如入關、據秦之固。上問張良、良因勸上。是日車駕西都長安、拜婁敬為奉春君、賜姓劉氏。又曰、封張良為留侯也。蒼頡篇曰、演、引也。 天人合應、以發皇明、乃眷西顧、寔惟作京。 天謂五星也。人謂婁敬也。皇謂高祖也。四子講徳論曰、天人並應。毛詩曰、乃眷西顧、此惟與宅。(卷一 班孟堅「西都賦」)

李善の老師である曹憲は『舊唐書』『新唐書』に明記されている通り、この張揖の學統を繼承し、「泯絶」していた「漢學」を復興させたのである。殊に張揖の『廣雅』には注釋を施し、自ら『博雅』を撰しているほどに傾倒していた。だから、曹憲の『文選音義』は、當然、張揖の『廣雅』や「漢書注」を繼承發展させたものであったと推定することができる。江淮の間にあって、その曹憲から「文選學」の傳授を受け、曹憲の學統を繼承發展させた高弟たちが他でもない許淹・公孫羅・魏模や李善などである。彼らはそれぞれに自ら『文選』を講じ、『文選音』・『文選音義』や『文選注』を撰した。その中で李善の『文選注』だけが遺存し、そこに非常に多數の『廣雅』や「張揖曰」が採録されているのである。これはとりもなおさず張揖から曹憲へ繼承してきた「傳統」のものであり、直接には曹憲の『文選音義』の痕跡であると見て差し支えなかろう。

李善の文選注は、「初注成」本から「絶筆」本までかなりの増補改修があったと推定されるが、現存の胡刻本「文選注」には確かに上述の現象が遺存しているのであるから、その實像は、元來、曹憲の「文選學」を繼承し、彼の典據の引證による注釋法を徹底して發展させたものであると斷言できよう。つまり、それは曹憲に始まる江淮間の「文選學」を集大成したものである。 




三、「李善註文選」の實像究明の現状

文選李善注は實は伏悛連氏が『敦煌賦校注』序において「江淮間爲選學故郷、曹憲弟子除李善外、公孫羅・魏模皆『選』注、唐人去古未遠、家法之學尚存、同爲一家者流、可同歸一家代表之名下。所以後人讀公孫・魏模之注、歸輯李善注之中、也是有可能的」と推定されている通り、曹憲とその弟子達の「文選注」を李善の名の下に集大成したものである。ところが、偶像化、絶對化した李善の過大な評價に眩惑された所爲であろうか、當時の社會的環境や人的な繼承關係の實態を檢討する宏觀的な究明法を等閑に付したまま、現存の現象だけを分析する微觀的な究明法だけに依據し、遂に李善の注は舊來の訓詁、音注とは違う新たな「文選學」を創出していると斷定されるまでになっている。

富永一登氏の『文選李善注の研究』では、この傾向は更に擴大されて、李善その人の評價にまで及び、「李善はただの博學だけではなく、典故や造語を巧みに使う駢文創作の才も兼ね備えていた」人物であると絶贊されている。李善の駢文創作の才の顯彰は既に高歩瀛氏の『文選李注義疏』において「至新傳書簏號、殊不足信。善文不多見、即以此表觀之、閎括瑰麗。較之四傑・崔・李諸家、殊無愧色。則所謂不能屬辭者、殊不待辨。」の如く記されている。

しかし、兩者とも「上文選注表」の文章を評して、それぞれ「閎括瑰麗なり」とか、「『莊子』『漢書』『淮南子』などの典故を踏まえた李善の造語と思われる言葉は、彼の駢文創作の才を十分に示している」と述べるに止まり、その文がどうして初唐の四傑や崔融・李嶠に較べても、殊に「愧色」が無いといえるのか、また典故を踏まえた李善の造語がどうして駢文創作の才を十分に示していると言えるのかという説明は一切なされていない。これでは主觀的な印象批評や好惡による批評と大差はない。兩者ともに李善注を愛好する研究者であるようなので、餘計に多角的・総合的な方面から李善の屬辭(駢文創作)の才を解説し、愼重に結論を出すべきである。それを等閑にしたまま、自己の印象だけに依據して李善が優秀な創作能力を有していたと斷定してしまうようでは、かえって李善の實像を歪めてしまいことになり、一方的な「李善注」の絶對化に荷担することに繋がりかねない。

そもそも李善は、『新唐書』李邕傳に「父の善は、雅行有り。古今を淹貫するも、辭を屬る能はず。故に人、書簏と號す」と明記され、且つ實際に「上文選注表」以外、一篇の文章も遺存していない。息子の李邕にはきちんと傳記が立てられ、自作の詩文や別集も著録されているにも拘わらず、李善には列傳が立てられず、別集は全く著録されていないのである。李善は『舊唐書』『新唐書』ともに學者の傳記が記載されている「儒學傳」に曹憲傳の附載として記載されており、もともと「文藝傳」中の人ではなかったのである。「文藝傳」には詩文でも有名な李邕の父として附載されているに過ぎない。管見の及ぶ限りでは、現存の文獻においては李善の生育した唐初に彼の文才を高く評價する逸事・逸話が全く見當たらず、その痕跡すら存在していない。また、「李善注」を高く評價した李匡乂(『資暇録』)や蘇軾を始めとして、誰人も『新唐書』の「古今を淹貫するも、辭を屬る能はず。故に人、書簏と號す」という記載について否定したり、論評したりするものは存在していない。つまり、唐代以後、李善を「書簏と號す」ことを否定する文獻資料は皆無なのである。

それにも拘わらず、高歩瀛氏は「上文選注表」を「閎括瑰麗なり。之を四傑・崔・李の諸家と較ぶるも、殊に愧ずる色無し」と評し、「謂ふ所の辭を屬る能はざるは、殊に辨を待たず」と主張するのは、自身が過大に「李善注」を評價する餘り、「上表文」が歴代の評價を覆す程の名文に見えたのであろう。富永氏も吉川幸次郎氏の「李善が『文選』に對して書いた注釋は、(中略)『文選』のもっとも権威ある注釋であること、以後千何年か、今に至るまで不動の地位をゆるがせにない。あるいは文學書の注釋として、中國第一の名著であるかも知れない。先生(杜甫)は、單に『文選』の本文三十卷ばかりでなく、『李善注』六十卷をも、暗記していたというのは、むりな豫想でないと、私は信ずる」(『杜甫I』の「あとがき」)という李善注への高い評價を支持し、『文選』は李善注とともに、杜甫の文學の最も重要な榮養源であったと記されているところを見ると、「李善注」を最高無缺のものとして信じきっておられるように見える。殆ど「上文選注表」に使用されている言葉の典據を解説し、和譯するのみで、「李善はただの博學だけではなく、典故や造語を巧みに使う駢文創作の才も兼ね備えていた」と判定されている。そうした判定を下された裏には、やはり純粋に「李善注」は最高無缺のものとむやみに信じきる觀點が潛在しているように見える。そうでなければ、兩者は「上文選注表」に對する自己の印象だけを頼りに、こうも容易に「書簏と號す」という評判を覆し、李善の屬辭の才を認定できるわけはない。

上述のような李善に對するむやみに高い評價は、自然、「李善注」の實像の究明にも影響を及ぼし、李善注文選の眞相の解明を阻害している側面がある。

例えば富永氏は「板本李善注に見える顔師古」(『文選李善注の研究』 第四章、『文選』李善注の特質)に於いて「板本李善注に見える五十二例の顔師古注と、板本李善注の顔師古注による錯亂について檢討した結果」として「李善は『漢書』顔師古注を一切引用しておらず、現在の板本李善注に見える顔師古注は、後人が増添したもの」(同書275頁)と結論されている。しかし、この檢討結果は、どうやら氏が顔師古は「他人の説を多數剽竊」(同書282頁)するような倫理的に問題の人物であったのに對して、李善は「嚴正を旨とする」(同書283頁)謹嚴な人物であると認め、無意識の中に先入主として既に李善は「顔師古注を使用するに堪えられなかったのではないかと想像」(同前)されていた結果導き出されたものではないかと危惧される一面がある。

實際、「板本李善注に見える五十二例の顔師古注」の檢討は、李善は嚴正な人物で、あくまでも首尾一貫した原理原則で「文選」を注釋しているという信念から、例えば下記の如く、「李善注の義例から考えて不自然」とか「引用順が李善注の體例に沿っていない」などといった理由で、李善注の「義例」に反するものは直ちに「後人が付加した可能性が大きい」と斷じ、それはもともとの「李善注」にはなく、すべて後に増補竄入したものであると判定されている。

○2b3
(正文)椓而爲弋、
(李注)服虔曰、、山名也。孟康曰、在池陽北。顏師古曰、、即今謂嵳峩也。善曰、説文曰、弋、也。
(漢書)師古曰、、即今謂嵳峩也。在京師之北。
李善は、「正文の一句に對する引文はただ一條に止まるを原則とする」のであって、この場合服虔と孟康の注を挙げれば、「」に對する注としては十分であり、顔師古注は必ずしも必要でなく、後人が付加した可能性が大きい。
○2b5
(正文)帥軍阹、錫戎獲胡。
(李注)漢書音義曰、、聚也。顏監曰、、足蹴也。善曰、錫戎獲胡、言以禽獸錫戎、令胡自獲之。胡、戎一也。變文耳。。方言曰、、蹴蹋也。
(漢書)師古曰、、足也。
」に對して三個も引證するのは、李善注の義例から考えて不自然であり、正文の意味から考えても音義の方が適當で、顔師古は後人によって付加されたものと思われる。また、善曰の後にある十五字は、顔師古の注文であり、六臣本(「善曰」を最初に置き、「善曰、漢書音義曰、……。顏監曰、……。方言曰、……。」)から、李善注を抽出する際に誤ったものと思われる。
(『文選』李善注の研究 250・251頁)

しかし、富永氏の規準として用いている「義例」なるものは必ずしも措信できるものばかりではない。例えば、「正文の一句に對する引文はただ一條に止まるを原則とする」(斯波六郎氏の説)と述べられているけれども、下記のような「正文の一句に對する引文が二條」ある實例が多數存在することから見て、これが實際に李善注の「義例」かどうかは甚だ疑問である。

(1)蘺蕪、諸柘巴苴。 張揖曰、江蘺、香草也。蕪、蔪芷也、似蛇床而香。諸柘、甘柘也。郭璞曰、江蘺、似水薺。文穎曰、巴苴、草名、一名巴蕉。善曰、苴、子余切。(司馬長卿「子虚賦」)
(2)不若大王終日馳騁、曾不下輿。割輪焠、自以為娯。 韋昭曰、焠、謂割鮮焠輪也。郭璞曰、焠、染也。善曰、、音臠。焠、七内切。(同前)
(3)揜以緑宦A被以江蘺。 張揖曰、掩、覆也。緑、王芻也。宦A薫草也。郭璞山海經曰、宦A香草、蘭屬也。 糅以蕪、雜以留夷。 張揖曰、留夷、新夷也。善曰、王逸楚辭注曰、留夷、香草。(司馬長卿「上林賦」)
(4)格蝦蛤、鋋猛氏。 孟康曰、蝦蛤、猛氏、皆獸名。郭璞曰、今蜀中有獸、状如熊而小、毛淺有光澤、名猛氏。蝦、音遐。蛤、音閤。善曰、説文曰、鋋、小矛也、市延切。(同前)

大體割合として多くを占める用法が原則とされているようであるが、「文選注」成書の過程が複雜で、自身による増補改訂も存在したのであるから、當時の撰書事情からして前後違った表現や矛盾するところがあっても、直ちにそれが李善の注ではないと特定することは難しい。初注本から絶筆本までには李善自身による増補改修がなされたという數種類の傳本があるということを考慮に入れたなら、そう單純に「義例」を歸納できるものではない。また、もし現存の李善注文選に存する顔師古注がすべて後人が増添したものとすれば、「子虚賦」・「上林賦」などに多く存する顔師古注は何故増添されなかったのであろうか。こうした疑問に答え得て始めて顔師古注と李善注の關係が明確になるであろう。

私は顔師古注がもともと李善注になく、すべて後人の増補竄入したものであるか否かという問題は文選注の實像究明にとって非常に重要な命題であると思う。それ故、富永氏の結論を基礎に据えて、十分に調査檢討し、是非とも早く究明したいと願っている。しかし、なお調査は不十分であるので、拙速に結論を出さず、稿を改めて論じることにしたい。

なお、始めは各卷に於ける引用詩文の表記の相違に着目し、これを手だてとして「李善註文選」の實像を究明して行く豫定であったが、これに先んじて、より廣い觀點から文選李善注の性質を概觀しておく必要があったので、これを論じている内に、既に紙幅がなくなってしまった。そこで最後に當初豫定したものの概略だけを述べておく。

『文選』の「李善注」では引用作品は原則的には「枚乘七發曰」・「司馬相如弔二世曰」・「蘇武答李陵詩曰」・「楊雄蜀都賦曰」・「曹植責躬詩曰」とか「陸機青青河畔草詩曰」・「潘岳關中記曰」のように「諱」で表記している。しかし、「枚叔上書諫呉王曰」・「司馬長卿難蜀父老曰」・「蘇子卿詩曰」・「楊子雲羽獵賦曰」・「曹子建求親表曰」とか「陸士衡贈弟詩曰」・「潘岳哀永逝曰」のように「字」で表記されているものもある。賦の部では、第十六卷を除き、基本的には「字」による表記は見當たらず、詩の部ではどの卷にも「字」による表記がかなり存在している。文の部ではすべての卷にあることはあるが、どの卷も數量は比較的少ない。この現象が何を表しているのか、稿を改めて檢討して行くことにする。




インデックスへ