【注1】第三、四册は、表紙に書き加えられた册次が誤って前後している。今これを訂正した。

【注2】北京圖書館所藏手稿本の影印による。その自序にも「編次之爲四十卷」という。ところが『雕菰集(一名雕菰樓集)』卷六の「里堂道聽録序」(文選樓叢書本による)や子の焦廷琥「先府君事略」(京キ大學人文科學研究所所藏清光緒二年刊本『焦氏遺書』所收)阮元「通儒揚州焦君傳」(『揅經室二集』卷四・『雕菰集』)には「五十卷」と記されている。手稿本卷四十の後には殘餘の數條が附録されており、また卷十・十一は二種の目録があって、一方は標題のみで文がない(なお卷五首には缺葉もある)。卷一から卷四の目録には刪削を示す符號をもつ標題もある。こうしたところを見ると、四十卷本をもとに刪訂増補して定本とするつもりであったのかもしれない。

【注3】『隨園詩話』正編十六卷は乾55年(1790)に梓行せられている。なお家藏本『隨園詩話』の補遺には卷十に丁巳(袁枚卒年の嘉慶2年、1797)の記事を收めながら、「乾髏p子(57年、1792)春刊/隨園詩話補遺/小倉山房藏版」と刻した封面を有する。

【注4】「刻詩品序」は、焦循が門人子弟の要望もあって、嘉慶4年3月に『詩品』を上梓するに至った際の一篇である。光緒2年刊『焦氏遺書』には、この序文を冠して『詩品』が附刻せられている。

【注5】この「司空圖二十四詩品」がなぜ袁枚「隨園詩話」に附せられたのか理解に苦しむ。袁枚の『續詩品』との關連があるように思われるが、本書には『續詩品』を載せないので、その附録とはいえない。なお陳尚君・汪湧豪兩氏が「二十四詩品」の撰者についての共同研究を行い、1994年8月に陳氏が「司空圖『二十四詩品』辨僞」を著わし(1997年10月、中國社會科學出版社、『唐代文學叢考』所收)、同年11月に新昌で開催された中國唐代文學學會第七屆年會曁國際學術討論會において、陳氏がその概要を發表されて以來(筆者もこの學會に參加し反響の大きさを目の當たりにした)、「二十四詩品」の撰者をめぐって盛んな議論が續いている。