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(講演)京都の支那學と私

白川 静 

 

I

本日は御暑いところを御出で頂きまして、會員の方には久しぶりに御會いする方もたくさんおられる。大變うれしく存じております。實は今日は別に學術講演という話ではなくて、中國藝文研究會の臨時大會をやるから挨拶に出て來いという御話であったんであります。だから大體御挨拶だけで濟ませるつもりでありますが、何分にも長い間のことでありますから、いろいろな御話をすることになるかというように思います。

私は今年(平成12年)4月で90歳になりました。もうそろそろ年貢の納め時であろうと、この邊りで仕事の收束をはかっておく方がよかろうというふうに考えまして、大體この年度で刊行が終わるようにしたいというので、昨年(平成11年)の10月から著作集の刊行を始めました。ちょうど第9回まで發行を終わりました。本來ならば今年の10月で刊行が終わるはずでありますけれども、いくらか延びるというようなこともあるかもしれんと思うのであります。

それからまた90年を迎えますので、この機會にかねて「私の履歴書」というのを日經新聞から書けということでございましたので、それも濟ませておきたいと思って、昨年の暮れに30回連載で、「私の履歴書」という若干の思い出を書きました。それから最近10年間の對談などをそれと合わせまして『回思九十年』(平凡社)という、これも思い出のようなものでございますが、それを出しました。「回思」という言葉は大變耳障りで、あまり聞き慣れんという御葉書を頂いたことがあるんであります。普通ならば「回想」というのではないか、という御葉書を頂いたことがある。回想というのは何か映畫の題みたいで華やかさがありますし、中國の古典には實はない言葉なのであります。しかし回思という言葉は唐宋の詩によく出て參ります。それでちょっと耳障りかもしれないけれども、『回思九十年』という題にして、いわば今までの思い出のようなことを出しておきました。

大體御讀み頂いた方が多いかと思うんでありますけれども、今日はそれに書かなかったような、書き漏らしたような、或いは文章として書くのでなしに、それ以前のこととして私の經歴の上にあったというようなことについて、いくらか御話をしたいと、思い出のようなことになるんでありますけれども、そういうふうなことにことよせて、御話をしたいと思うんであります。

私が京都に、立命館の夜間專門部の國漢科というのに入學するために京都へ參りましたのは、昭和6年の頃でございました。それから何しろ働きながら學校へ行くわけでありますから、若干の學費を準備しておきませんと、卒業まで續きませんのでね、約1年半ほどいくらか用意をしまして、昭和8年に立命館の專門部の夜間の國漢科へ入學をしたわけであります。その頃には私はいくらかの關係の書物は讀んでおりましたけれども、東洋學の状況がどういうものであるかというようなことは、あんまり詳しくは知らなかったんです。

しかし學校へ入りまして、いろいろ同級の方なんかにも聞いたり、また先生の御仕事なんぞを見ておりまして、京都の支那學というものが、世界に冠たる高い水準のものであるということを知った。これは大變良い所へ來た、というふうに私は思いました。それでそれの機關誌であるところの『支那學』という雜誌を買い集めまして、そこには京都大學の研究者の方々、精鋭の方々が書かれた論文がたくさん集められておるわけであります。そういうものを讀んで、支那學というものになるべく近づきたいというふうに思いました。

京都大學には當時内藤湖南先生がおられた。狩野直喜先生がおられた。その教室で學ばれた方には、きら星のごとくに俊秀の方がおられて、私の恩師の橋本循先生もその御一人であった。青木正兒先生、本田蔭軒(成之)先生、そういうふうな方々が皆活躍をなさっておって、私は橋本先生を通じて、そういう方々のいろんな活躍を、いろいろ御聞かせ頂いた。そしてまた雜誌論文なんかも讀んだ。内藤先生は私が入學しました翌年にもう亡くなってしまわれて、私はその謦咳に接する機會はありませんでした。しかし先生の學問が大變魅力的であって、この先生の學問を何とかですね、うかがいたいというふうな氣持ちを持っておりました。

それから狩野先生は當時まだお元氣で、講演をなさることもございまして、北白川の研究所で私はその講演を御聞きしたことがあります。背の低い方でありましたけれども、非常にいわば元氣の滿ちた方で、大變いい調子の講義をなさって、私は深い感銘を受けたことがあります。その人となりについてもいろいろ御聞きしましたんですが、その後大戰が起こりまして、パリが陷落した時には、モーニングに喪章を付けて日佛會館に弔問に出掛けられた、というような、そういう方であります。なかなか京都大學のそういう支那學の先生には立派な人物がおられた。

それで私は内藤先生の謦咳に接することはできなかったけれども、その2、3年後に中學に職を得まして、若干の收入を得ることができるようになりましたので、何とか内藤先生のそういうふうな氣分に接したいというようなことがありまして、内藤先生の頌壽記念の論文集というのが當時出ておりました。それに先生が署名をしておられた。私は實はその署名が欲しくてその書物を買いました。定價10圓で、古本でも10圓でありました。當時の10圓というのは、今物價は約4、5000倍になっておると思いますから、相當の價格であります。私は中學で65圓を得ておったんでありますけれども、その10圓を割いてその書物を買いました。今も大事に持っております。それから先生の著作を引き續いて讀む、というふうに、なるべくその全容、學問の體系に接したい、というような氣持ちで注意を拂っておった。

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