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(講演)京都の支那學と私

白川 静 

 

IV

全て學問の體系をうかがいながら、それによって自分を養っていく、それによってそれをさらに發展、展開させていく、というのが後の學者の仕事でなければならんわけであります。それで私のことになりますけれども、著作集が12卷、恐らく今年(平成12年)の10月、或いは11月には完了するかと思うんでありますけれども、私は實はそれ以外にまだ、著作集に入れなかったものがいろいろございます。それは金文についての講義をしました『金文通釋』という書物、これは4、500頁の書物にしまして9册ございます。それから『説文新義』、今この『説文』の文字のことをちょっと申しましたけれども、こういうものを『説文』全體に通じて試みた『説文新義』という書物がございます。これはやはり400頁前後、440〜450頁あるかと思いますが、そういう書物8册にまとめてございます。それから甲骨金文の資料集として出しましたものが5册、それをもう少し後に出ました新しい資料を補うて9册ぐらいになるかと思う。

それからまた初期の論文は活字に組めませんので、全部私が手書きにしたり、謄寫版にしたりしまして、出しましたものが2册あるんでございます。こういうふうなものも實は後の研究者の方々のために殘したい。今申しましただけでも『甲骨金文學論叢』2册、『説文新義』が8册で合計10册、『金文通釋』はもう1册足しますから20册、それから資料集が9册、29册あるのであります。これは月刊にしましても3年ぐらいかかるんです。なおそれ以外に字書が3册と東洋文庫が3册、それから簡單な隨筆集ですけれども『回思九十年』、そういうものを合わせますと48册になる。幸いにして命長らえてもう少し仕事をすることができれば、ちょうど50ぐらいに、易の數、大衍の數五十と申しますから、50ぐらいにして、揃えて21世紀に殘したいというふうに考えております。

ただこういう中國のことをやりますのはね、外からは物好きでやるように思われるかもしれんのですけれども、私自身にとってはそうではない。やはり日本が東洋という、中國それから朝鮮半島、臺灣なども含めて、東洋という一つの文化的理念の中に包攝されるような地域の文化の中に、我々がおるんです。だから我々の文化を考える場合には、そういう東洋という、我々をちょうど包み覆うておる所の、その全體の中に位置するものとして、我々自身を考えなければならん。いろんな面でそういうことが言える。

たとえば今申しました「史」、「まつり」というものが王事という政治、「まつりごと」というふうになる。國語で言いましても「まつり」が「まつりごと」になる。國語の「まつり」というのは本當は「待つ」という意味の言葉の再活用語ですね。「待つ」というのは何を待つかというと、神靈が現れるのを待つのです。中國の場合にはそれを「顯(た)つ」という。これが現れる、「顯」という字です。「顯」という字のこれは玉です。玉にこういう糸飾りなんかを、我が國でいえば垂(しで)ですね。垂を垂らして、これで神樣を呼ぶんです。こういう玉とか、垂というものは神聖なもので、こういうもので神樣を御呼びすると、神樣は常に自在に遊行しておりますからね、招かれることを知っておいでになる。それを謹んで拜んで御迎えをするという、これが「顯」という字です。幽顯というような言い方をしますがね。隱れたる神が顯(あらわ)れてくる。顯(た)つ。その顯ち顯れるのを待つんです。そしてそれをまつる。そういうまつりを、神々の顯れる所で、これを迎えて御祭りをする。それで祭祀權を掌握するということが、その地域を支配するということになる。

たとえば三輪山ならば三輪山には三輪の神がおる。この三輪山の祭祀權を掌握すれば、その三輪信仰を持つ所の三輪族全體を支配することができる、というふうになるんです。これが「まつりごと」です。つまり祭りを施行するということが「まつりごと」になる。それはこの「史」という形で行うこのまつりが、地方へ出て、聖域のそういう聖所に赴いて、そこでまつりを實行することによって、その地域の支配權を掌握すると、王事つまり「まつりごと」になるというふうにね。言葉の上でも、漢字の場合と日本語の場合とは密に重なるんです。そういうふうなところがあって、初めて漢字が日本語に使われる。もしこういうふうなことがなければ、漢字が日本語として使われる、その訓、日本語に直してね、そのまま使うというようなことは、恐らく不可能であったでありましょう。そういうふうに日本語における基本的な語彙の意味構造と、漢字における基本的な意味構造とが相通うことが非常に多い。

なぜ通うことが多いかと言えば、それはそういうふうに神に對する觀念、こういう觀念が全く同じであったからであります。これはイラン、或いはギリシア、ローマに施してそのまま適用できるというものではありません。東洋獨自のものです。そういう所に東洋の文化というものが發生し、そしてそれが三千數百年にわたって傳えられてきておる。今私がここに書きました卜辭は約3200年昔のものです。その3200年前の資料を、私は日本語で讀むことができるんです。どこの世界に行っても、このような關係を持つ文字というものはあり得ない。そういう關係が成立するということはね。これは古代における東アジアの文化圏というものが同一の基礎體驗をもつ、同一の原初的な宗教、信仰というようなものをもって、そこで生活をしてきた。そういうものがそのまま今日受け繼がれてきている。お互いに各自の展開はしておりますけれども、しかし基本的に最も重要な點における類同性というものがある。そのうえに東洋の文化がある。東洋の傳統がある。こういうふうに私は思うのです。

だからおよそ學問の形態の中で、いろんな分野はあると思いますけれども、私は日本の文化、日本人の精神構造というようなものから考えて、この漢字文化ほど重要なものはない。アメリカやイギリスのことをやる、ヨーロッパのことをやる、それぞれもちろん學問として重要なことであり、こういう今日のような國際的な情況においては、あらゆる分野の研究が必要です。こんなこともやっとるというような分野の研究でもね、やはり國家として民族として、その文化を維持し、發展する上に必要でないものはありません。しかし特に重要なものは、やはり私はこの東洋的な理念というものによって結ばれておるそれぞれの文化であると思う。だから東洋學というものは、今日において、特に日本の今のような國情のもとにおいては、大變重要である。

今日本は、これはあまり大っぴらには言えませんけれども、事實上占領下にあり、屬國であります。日本が獨立國であるなんて思うておるのは、事實の誤認も甚だしい。これは屬國です。戰前それから戰後の状態というようなものを、私はいろいろ見ておるわけでありますけれども、春秋の筆法で言えば、これを「附庸」と言う。「附庸」と言えばちょっとわからん言葉でしょうけれども、主權國に對する屬國という意味であります。これはもうすでに50數年續いておる。恐らく日本人がこのまま默っておれば、100年も200年も續くでありましょう。そのうちに日本は一つの州になるのではないかというふうに私は思う。本來東洋に屬すべきものが、とんでもない植民地國家の一分子になる、ということになりかねんのです。これは本當になりかねんのですよ。今のうちにね、異論を唱えておく必要があると私は思う。そういう意味で、中國ともっと親しくすべきである。東洋を恢復すべきである。

内藤先生のいろんな文章を讀んでおりますとね、日清戰爭の時の文章があるんですがね、大變面白いんです。日本は西洋の力を借りて強くなった。西洋の黴菌を手に入れた。この西洋の黴菌で中國の腐敗した黴菌を撃ち殺すというのが今度の戰爭である。しかしこの黴菌を中國に殘したならば、これは日本はヨーロッパと一緒ではないか、という議論であります。恐らく内藤先生はその後の滿州事變の後にも、そういう考えを僕は持っておられただろうと思う。不幸にして先生は昭和九年に亡くなってしまいました。ただ滿州國はすでに成立しておった。そして羅振玉なんかがね、國家の樞要の地位を占めておりましたから、先生は舊交を温めておそらく默っておられたんであろうと思うけれども、先生の論文の中には「滿州族は現存しない」という論文があるんです。五族共和というのは嘘八百であるということになりますね。おそらく先生はそういう正論をもっておられたであろうと思う。

私はときどき書物を通じて、全集を通じて内藤先生に御目に掛かる。ああ先生はそういう御考えであったのか、というふうにね。私はそのように思う。また4、50年の後、私の書物をひもといて、そのように思ってくださる方がおられるかどうか。私は時事論を述べておりません。ただしかし東洋に對する思いは、内藤先生と同じであります。大國である中國をね、撃ち滅ぼすなんというあほなことを考えるな、ということを先生は言うておられる。中國は從來日本にとっては宗主國であった。宗主國として立てていっていいのではないか、背伸びする必要はないと言うておられるんです。

私は先生が今おられたならばね、もちろんおられるはずはないんですけれども、もしあの大戰にまでおられ、大戰後にまでおられたならば、どのような議論をなさるのであろうか、ということを時々全集をひもときながらね、うかごうておる。全集というものは非常に面白いものですよ。私は時々そういう調子で賀茂眞淵氏にも御會いすることができるし、宣長さんにも御聞きすることができる。宣長さんの時代には、世界はもう眞ん丸で、地動説というようなものは、世界の常識になっておった。もうすでに地動説の書物は日本でずっと行われておるのにね。宣長は地動説を採らんのです。地球は瓢箪の形をしておる。日本はその瓢箪の入り口の所に位置しておる。このゆえに萬國は日本に慕いよらざるを得ないのである、というようなことを書いておるのです。宣長先生何を仰っておるのだ。時々僕はそういう本を出してはね、對話を試みるのだ。大變面白い。

大變くだらんことを申しましたけれども、實は私が京都へ來まして、京都學派に接し、そして内藤湖南先生の學風に接し、その學問に接し、私自らがどのように啓發され、また今日においてもどのように先生と對話をしておるのか、そういうふうなことを御話をして、大變座談的なことでございましたけれども、本日の御話を終わらせて頂きます。