蘆北先生遺事 白川 静 |
VI
私は先生の門下であるが、その学問の継承者ではない。学問の継承ということは、その学術を味得し、体得し、その上にそれを継承発展させられる力を備えて、はじめてなしうることであるが、そのことは天稟を同じうする人にしてなしうることで、当面の門下にその人をうることは、師としてもまた容易でないことが多い。古人がしばしば知己を後世に俟つとするのは、おそらくそのためであろう。ただ受業の門下として、先生の学術に近づき、それを学ぼうとする努力を怠るべきではないから、私はつとめて先生の文章に接し、その学術を考え、その真髄をえたいと思った。先生は、自らはその学問や方法について、直接に語られることは殆んどなかった。すべて師承のことは、「視て識るべし」という方針をとられていたように思う。先生の初期の文章には、いくつかの流れがあるように思う。「帰震川について」「方望渓について」のような評伝的なもの、「桃の伝説について」のような民俗学的な主題のもの、また「後漢中葉後の世相の一面について」「漢魏の際に於ける時代思想」のように、社会思想史的な側面から、文学の存在性格を考えようとされたものなどが、それである。当時わが国の文学研究においても、方法論的な試みとしてそのようなことが模索されていた時代であり、先生も自分自身の方法を考えられていたようである。
先生の中国文学の骨骼をなすものは、「支那文学と隠遁思想」「支那文学と頽敗思想」「支那文学と山水思想」など、昭和六年から九年末にかけて、『立命館学叢』『立命館文学』に発表された諸篇であろう。それは社会史的・精神史的に、それぞれの文学の本質に迫ろうとされたものであった。中国の学術は士大夫のものであるが、その文学は、いわば士大夫的矜持の挫折から生まれてくる。しかしその挫折は、決して敗北ではなくて、むしろその挫折によって、毀誉を超えた自由な精神の世界が、そこに樹立される。そのような視点から、士大夫の社会に成立した文学の本質を考えようとされたのであろう。
法文学部文学科として、文学科が創設された記念論文集に「王維の生涯の一面」を発表されたが、その前後数年にわたって、王維に関する論考数篇を発表されている。敬虔な仏教信者として、乱世に生き、清浄無垢の生涯を送ったこの高人の、精神的嚮往を求めることが、これらの諸篇を貫いて、先生の意図されるところであった。清の王漁洋が『唐賢三昧集』を撰して、詩を取ること四百四十首、作者二十四人を数えるが、そのうち王維の詩を取ることが最も多い。その詩には神韻ありといわれ、『三昧集』に附した門人王立極の後序に、「其の神を得て其の形を遺れ、其の韻を留めて其の迹を忘れ、聲色臭味の尋ぬべく、語言文字の求むべきに非ざる」ものを取ったという。それがいわゆる神韻の詩である。高人王維のそのような詩趣の境涯こそ、先生が自ら契会するところを求めて逍遥され、最後に到達された中国詩文の極致であった。
先生は晩年、王漁洋の詩の訳注を出された。『三昧集』において、あれほど王維に傾倒してやまなかった王漁洋の詩を、先生が読み解かれるとすれば、これほどその人をえた書はないであろう。神韻は奇絶を尊ぶものではない。才を以て迫りうるものではない。才を恃むものには、三昧の境は無縁に近い。吉川幸次郎氏の秋柳詩、高橋和巳君の訳注においては、特にその感が深い。
先生はその書に、数年を費やされた。大学院の講義にこられるときにも、その往還の途中で、詩意を按じておられることが多かったのであろう。共同研究室で休憩をとられるとき、「君、ここをどう思う」といって、すらすらとその詩を書きしるされた。先生はおそらくいくたびもその詩を諷誦されて、詩意のあるところを翫索されていたのであろう。そのようなことが、数回にも及んだ。
先生の『王漁洋』は、青木迷陽博士の『李白』とともに、集英杜の『漢詩大系』に収められている。昭和四十年刊、先生はときに七十五歳であった。青木先生は『李白』の稿成るや、自ら装幀を加えたその成稿を残して出講されたまま、急逝された。しかし先生は、『王漁洋』刊行ののち、なお二十数年にわたって、王維のような詩画一味の世界に遊び、悠々としてその天寿を尽くされた。
思うにその学問がそのままその生活であり、その生活がそのまま往昔の高人と、その精神的嚮往をともにし、その文雅の世界にあるということは、まこと稀有のことというべきではないかと思う。
先生とともに、『支那学』創刊時の中堅であった青木迷陽博士・本田蔭軒博士もまた、学術に卓出される方であり、また文雅の人であった。私はこの両先生に親炙することをえなかったけれども、青木先生には、本学に出講せられるときに、いつも共同研究室にお迎えして、そのお話にも接することができた。特に先生が、大学院の講義を終えて倒れられた三十九年十二月二日、その属絋のときに居合わせる縁をもった。
本田蔭軒先生には大学で受講し、私の卒業論文の審査・指導を受けた。個人的に接するということはなかったが、先生は郭沫若の著作なども読んでおられ、私の甲骨・金文を扱った免倒なものを、よくお読み下さったようである。
橋本先生とこの両先生とは、また無二の親友であられたようである。先生からときどき、そのお話をお聞きしたが、ただ私は、この諸先生が寛いで歓談される場に居合わせたことは、一度もない。青木・本田両先生は名だたる酒豪であり、酒については多くの逸話をもつ人である。橋本先生は数杯にして微醺、大下戸の私よりいささかお強いという程度である。三先生みな詩書画をよくし、狷介の風もまた相近い。三先生の会飲歓談のさまは、おそらく虎渓の三笑のように、図柄としても興趣の深いものがあったであろう。私は不幸にして、一度もその機をえなかった。もしその至福をえた人があるならば、ぜひともその好話柄を世に伝えてほしいものである。