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CIIS報告 その1

1月から5月にかけて、半期の交換留学がいよいよスタートした。1月21日、サンフランシスコに着いた翌日、慣れない景色の中、バスを乗り継ぎ、迷子になりながら、何とかCIISに辿りついた。雑居ビルのような建物で、これが大学院なのかと心配になった。はじめに、臨時で留学生担当をしている人に会った。彼女には、ビザの書類の件で散々困らされたので、嫌な人ではないかと心配していたが、会ってみるといい人だったので、ホッとした。

しかし落ち着く暇もなく、「あなたの選んだ授業がこれからあるわよ~」と、教室に連れて行かれてしまった。私は心の準備が何も出来ていないのに、いきなり3時間の授業に出るハメに。内容は全く聞き取れないし、何を言っているか、よくわからない。ノートには、3時間で2つの単語しか書き留められなかった。ぐったり疲れて3階にあるCIISの小さなカフェに行くと、日本人らしき男性を見つけたけれど、学生達と楽しそうに話していた。私はひとりぼっちで席に座り、私ってよそ者だなあと、居心地が悪かった。

しかしこういう時、天使がやってくる。博士課程の日本人学生Hさんが、留学生担当者から(?)私が困っていることをメールで知ったらしく、私を探してくれていた。彼女には、どのクラスを取ればよいのか相談した。たまたま彼女と私は同じ分野に興味があったこともあり、細かい情報まで聞くことが出来た。もちろん日本語で!(…後から考えても、この時のクラスの選択が留学生活を決定づけた最大の要因だったことは間違いない)私は自分の興味にピッタリ合う授業を選択することが出来た。立命の先生には、哲学系は授業が難しいからやめておく方が無難だと言われたけれど、結局当初の申込を訂正して私が取ったのは、ほとんどがPCC(philosophy,cosmology and conscious)(哲学・宇宙・意識)コースの授業だった。他にも、音楽やヒーリングの集中講義や、占星学の学外授業も取った。私は聴講生だから単位は貰えないけれど、実質18単位の授業を取っていたことになる。Hさんは、「一年分の量だよ」と笑っていた。

…宇宙の力、元型とアート、女性的霊性とサウンドヒーリング、輝かしい実りとしてのアート論、元型的占星学、声のサウンドヒーリング、ドラムサークル、黒人霊歌の霊性、ヨガ… (日本語で上手く訳せないが、このような内容の授業を私は取っていた)

Hさんには、住む所の相談もした。彼女は、PCCのメーリングリストに、私がルームメイトを探していると知らせてくれた。その後間もなく、PCCの学生で年齢は50代女性、カップルセラピストをしているHの家に行くことになった。一緒に住む人や環境が留学生活を左右するのは、昨年夏の2ヶ月のカナダ生活でわかっていたことだけれど、Hのおかげで私のサンフランシスコ生活が素晴らしいものになったことは、言うまでもない。日本人Hさんは、PCCの学生だったので、私達は毎週授業で顔を合わせることになった。そしてHさんは、春から立命に交換留学に行く(つまり私と逆)と言った。日本で生まれた私達は、ものすごい偶然が重なって、こうしてCIISで出会ったのだった。

CIIS報告 その2

CIISの授業の様子がアメリカの一般的なものかどうかはわからないけれど、幾つか私にとって印象的だったことを書いてみようと思う。

まず学生の年齢。私の周りは30代後半以降の学生がとても多く、かなり年齢層は高かった。応用人間の学生もそうだけれど、仕事や創作活動などで既に活躍している人達・成功している人達が、自らを高め、世界に役に立てるようにと熱心に学んでいた。仕事をしながら、半年は働いて半年は授業を取ってなど、何年かかけて、自分のペースで修了していく人もいた。

授業はだいたい3時間が普通で、時々休憩が入る。3時間あれば、まとまったものが学べるので、これ位は必要だと感じた。クラスの人数は、10人位のものから40人以上のクラスまで、色々あった。

学生は授業中も自由に振る舞っていて、椅子で足を組んだり、床のカーペットにクッションを敷いて座ったり、寝転がったり(これはかなりビックリ)、ストレッチ体操をしていたり…、また、飲食も自由なので、ランチやおやつを食べたりしながら授業に参加していた。けれども一番印象的だったのは、誰かが発言するたびに必ず、全ての学生達が発言者の顔を見て、話を聞いていることだった。話し手の顔や身振りも全て含めて発言内容だ、と言わんばかりの行動に思えた。

教室は、日本に比べて暗い。教室だけでなく、店や看板、駅なんかも暗い。日本がいかに明る過ぎるのかを思い知る。日本の学校も、もう少し照明を暗くしたら、集中して勉強が出来るのかも知れない。

基本的に先生は、ゆっくり話してくれるのだが、発言する学生はとても早口だった。何を言っているか、皆目見当がつかないことも多かった。(発言の場合、突然話題が変わっていたりするので…)

他に面白いところでは、時々自分の友人を連れてきて授業にゲスト参加させたり、赤ちゃんや犬を連れてくる人もいた。また、ケーキを焼いて持ってきたり、庭のハーブを持ってきて皆に配ったりする人もいた。プレゼンテーション(発表)の日には、お菓子やスナック、フルーツやジュースやワインなんかを持ち寄って、皆で食べたりした。

さて、私自身の話しに戻そう。初めは授業の英語がさっぱり聞き取れず、これから大丈夫かなあと心配していた。しかし全部の詳細がわからなくても、次第に自分に必要な内容はちゃんと聞き取れるようになっていった。私は英語を英語で考えられないので、必ず頭の中で日本語を介していた。ノートも全て日本語で取っていた。英語のエッセンスを、自分の今後に必要な、私に適した言葉にして、ノートに書いた。4ヶ月半で、3冊の大学ノートが真っ黒になった。自分の言いたいことを上手な英語で発言する力はなかったけれど、発言したくて我慢出来ない時は、時々発言した。クラスメートは真面目に私の発言を聞いてくれて、後で「いい意見だったわ!」など個人的に感想を言ってくれる人もいた。(こういうことを普段から沢山言い合っているのが、とても素晴らしいと思う)しかし、言葉よりももっと大きな説得力・メッセージ力があったのは、「音楽」つまり歌や演奏だった。

CIIS報告 その3

私の思っていたアメリカのイメージ…銃社会、治安が悪い、マクドナルド…!昨年カナダに行った時、アメリカのテレビドラマを見ていて「アメリカって何て怖い国なんやろ、カナダは安全で幸せ~」と思っていた。ところが実際サンフランシスコに来て驚いたのは、想像以上に安全だということだった。もちろんアメリカにいるという自覚や気の引き締めは必要だけれど。

サンフランシスコの町は坂が多い。地図で見ていてもわからないので、「ありゃまあ」っということが何度かあった。ものすごく急な斜面で、1ブロック歩くのにも苦労する場合も。バスの路線を駆使すればたいていのところに行けるが、路線図に慣れるには少し時間がかかった。観光名物のケーブルカーは、観光客とそばに住んでいる人以外、日常生活ではまず乗らない。バークレーやオークランドのあるイーストベイ地域とサンフランシスコを結んでいるバートという電車もある。

サンフランシスコは年中涼しい、と聞くけれど、実際私が感じたのは、年中寒い、だった。冬はもちろん寒いし、晴れて暑い日も日陰は寒い。昼間あんなに暑くても、夜は寒い。でも寒いよりつらかったのは、風がキツイこと。霧(特に夜霧)で怖い思いをしたことも何度かあった。八重桜と紅葉とレモンとサボテンが同じ時に見られるのは、日本から見ると不思議な光景だった。

サンフランシスコはレストランが多い。アメリカの中でもサンフランシスコは食事が美味しい地域だそうだが、日本食&寿司レストラン、中華料理やタイ料理の店があちこちにあった。ハンバーガーショップは、沢山あるけれど、マクドナルドは少なかった。これはとても意外だった。日本の方がよほどマクドナルドだらけだ。

もうひとつ意外だったこと、それは人種だった。 サンフランシスコは白人が多い。続いてチャイニーズ、ヒスパニック。コリアンも結構いる。ブラックアメリカンは少なくて、一部の地域(ジャパンタウンの南)にかたまって住んでいる。日本人も割とよく見かけた。アメリカは色々な面で、地域によって事情が違うようだ。カリフォルニア州以外はどんな感じなのだろう。

CIIS報告 その4

日本でとても大きな地震があったと、住んでいる家の人から突然教えて貰い、テレビをつけた。アメリカでも日本の地震と津波は大きく報道されていた。それを見て、私は呆然となった。数時間、自分が何をしていたか覚えていない。何故かわからないが、自分が日本を離れていることに罪悪感を持った。CIISに行くと、何人もの人が私に、日本の地震と津波についてお見舞いの言葉をかけてくれた。その度に、まるで自分が日本を代表しているような、「孤独」を感じていた。

当時私の周りのCIISの学生や先生は、原発の放射能汚染を、私から見ると異常なほど恐れていた。日本の人々は、きっと冷静な反応をしているに違いないと、私は確信していた。それに比べると、アメリカにそのうち放射能がやってくる、健康に被害がある、ガンのリスクが上がる…とあたふたしていた。そして連日メーリングリストに、いつアメリカに放射能が来るか、何を食べれば放射能が身体から排出されやすいか、海藻がいいらしいよ等など、そんな情報ばかりがやたらに流れていた。日本人学生として、これは正直辛かった。

私は大変な事故であることは承知していたが、原発事故は原爆ではない。原爆に比べれば、今すぐに膨大な人間の命が失われる訳ではない。話には聞いていたが、アメリカ人は原爆の悲惨さを知らないのだろうと思った。そして深いところで実は負い目を感じているのではないかとさえ思われた。これは私とHさん(便りその1参照)が話していて辿りついた考えなので、個人的な感想だが…。

さて私が感じていた「孤独」だが、CIISの日本人学生やサンフランシスコ周辺にいる日本人の方々の中にも、同様の危機を感じていた人がいた。それを互いに乗り越えていくために、小さな会が立ち上げられた。何度か数人で集まる機会があったが、CIISの学生やカウンセラー・セラピストの人が多く、カフェで集まったり、CIISの部屋で集まったり、かに鍋パーティーをしたりした。普段は英語ばかり話している人達が、この時ばかりは日本語で、思う存分言いたいことを言ったり、他愛ないことで騒いで笑ったり、情報交換したりした。日本とのそして日本人との「つながり」を取り戻し、私達は次第に元気になった。私も自分が日本にいる時よりも、日本を強く意識していたが、これは思い返すと、とてもよい経験だったと思う。

CIIS報告 その5

一週間の春休み、一人でシャスタ山へ出かけた。電車で行ったのだが、雪で夜行列車は2時間来ないし、到着は6時間遅れた。降りた小さな駅には、無人の小屋があるだけで、あとは一面大雪だった。運悪く日曜日でシャスタ行きのバスは1本も無く、タクシーは存在しなかった。町の小さな警察兼消防署で途方に暮れていたら、親切なスタッフのおじさん(お兄さん?)が自家用車を取りに帰ってくれて、シャスタまで送ってくれた。(このご恩は忘れません!!)その後シャスタのグロッサリーストアで偶然日本人の方々に会い、彼らの車に同乗させて貰えることになった。宿も変更して日本人の経営するB&Bに泊まり、沢山の日本人旅行者と出会った。震災直後にアメリカで出会った日本人の彼らからは、運命的とも言える貴重な影響があった。

シャスタ山はアメリカ カリフォルニア州北部にある霊山で、富士山と繋がっていると言われている。アトランティスの伝説もあり、ネイティブアメリカンにとってスピリチュアルな場所だ。私自身も特別な波動を感じ取った。雪は浄化の力を持つ。雪のシャスタに行くことができて、本当によかった。

シャスタから帰って数週間後、ミュアウッズ国立公園に行った。私の住んでいた家のHeとSが、ドライブに連れて行ってあげると言うので、私がリクエストした場所だった。サンフランシスコから車で1時間、セコイアの一種である巨木・レッドウッズの森が、太古からの姿を留めている。昔、カリフォルニア周辺にはレッドウッズの森が広がっていたが、人間が開発してしまい、今はこのミュアウッズ国立公園にしか残っていない。100年前サンフランシスコ大地震の時には、家々を建て直すために沢山のレッドウッズが伐採されたそうだ。また、スターウォーズに出てくるエンドアという惑星は、このミュアウッズがモデルになったと聞いた。森を歩いていると、何度か不思議な感覚に襲われた。

このレッドウッズ、とにかく太くて高い。何百年・何千年と生きる。もちろん生命力はものすごく強い。古いタイプの木なので、3つの方法で繁殖するらしい。種、根っこ(タケノコみたいに)、そして木に出来るコブからも新芽が出る。とにかく山火事が起きても、死に絶えない逞しさを持っている。しかし天災には打ち勝てても、人間の伐採には勝てなかった。レッドウッズも苦笑いしているだろう。

CIIS報告 その6

私はCIISの学生Heの家に部屋を借りていた。彼女は50歳代で現役のカップルセラピスト。私が授業を取っていたPCC(哲学・宇宙・意識)コースに所属していたが、私がいた学期の間は授業を取らずに仕事に専念していた。

家にはパートナーのSも住んでいた。彼は自営業の傍ら、アマチュアジャズバンドのサキソホン奏者をしていた。家にはピアノはもちろん様々な楽器があった。私は音楽療法士でアマオケのトランペット奏者、日常生活は音楽漬けだったので、毎日ピアノが弾けて楽器が吹ける環境は、とても有り難かった。Sのジャズバンドに何度かトランペットで参加させて貰い、彼と共に演奏したことも、よい思い出になった。Sは地域密着で小さなヨガ・ダンス・音楽の教室もやっていたので、何度かそこで気功体操の教室にも参加した。

Heは猫を1匹、Sは猫2匹、犬1匹を飼っていた。日本では私も猫を2匹飼っているので、動物のいる生活はかなり有り難かった。もちろん毎日ニャンコ・ワンコとコミュニケーションを取るのが日課になった。

2月のある朝、キッチンに行くと、テーブルに丸いチョコレートケーキとバースデーカードが置いてあった。その日は私の誕生日。HeとSからだった。嬉しくて涙がポロポロと落ちた。

4月には、ミュアウッズへ連れて行って貰った御礼に、二人に手巻き寿司をご馳走した。寿司の食材は日系スーパーで簡単に手に入った。二人共お寿司は大好きだったが、サーモン、ウナギ、アボカド、マグロ以外はあまり好みに合わないようだった。イカは、味がない…と複雑な表情をしていて可笑しかった。自分で手巻きするのが面白かったようで、その日は3人でお腹いっぱい食べた。

サンフランシスコバスという名前なのかどうかわからないのだが、彼らの家の裏庭には、梅樽で出来た五右衛門風呂のような循環式の露天風呂があった。裸で入るので、交代で庭に降りて入った。♪い~い湯だな、アハハン♪…時々このお風呂に入れたので、私は星空の下、温泉気分で日本を懐かしむことが出来た。

CIIS報告 その7

CIISの授業では、日本の文化や考え方について話題に上ることもあった。私も何度か授業で、日本の文化や考え方について意見を言うことがあったが、皆さんとても興味深そうに聞いていたし、日本文化に詳しい人もいた。「以前日本に行った時に、何とかクツという水の音を聞いたが名前を忘れた」と言う学生がいたので、私が「水琴窟でしょうか?」と答えると、「そうそう、それ!」と思い出す場面もあった。

CIISでは私が日本の歌をうたう機会が何度かあった。放課後にあった学生のパフォーマンス会では、ピアノを弾きながら、「祇園小唄」と「炭坑節」をうたった。「炭坑節」では、皆さんに日本式で手拍子を叩いて貰った。授業では「赤とんぼ」と「浜辺の歌」などをうたった。うたった後には必ず意味を聞かれた。西洋の考え方では、まず言葉で意味を捉えることが優先するようだ。「浜辺の歌」(1~3番)の歌詞を表面的な意味だけ直訳して伝えた時には、先生が直ぐに「哀しみが背景にある」と言い当てた。さすが、作家が本職の先生だなあと驚いた。「赤とんぼ」をうたった時には、ある学生に「medium」と言われた。私の歌と声が「媒介だ」という意味なのか「霊媒だ」という意味なのか、どっち??と思ったが、まあどっちでもいいか、とも思った。

歌ではないが、ドラムサークルの授業では、先生が東日本風の太鼓のリズムを、そして私が西日本風の太鼓のリズムを叩き、即興で大きな集団をまとめることもあった。その先生は日本通で、激しく活動した後の沈静の時間に、私にピアノを任せてくれた。皆さんが自由にカーペットに寝そべって目を閉じている中、私は直感的に沖縄のポピュラーソング「花」と「涙そうそう」をアレンジして弾いた。何故沖縄を選んだかはわからないが、後で確かめたら、先生の意図していたことと沖縄が持つ意味合いに、一致する部分があって驚いた。

授業の一環で観客を招いての発表会を開いた時には、「故郷(ふるさと)」をうたった。自分の解釈で歌詞を英語にして、朗読してからうたった。後で数人から、「涙が出たわ…」と感想を貰った。

ちょうど震災・津波のすぐ後だったので、日本の文化を取り上げることや歌を聞くことで、追悼したい、祈りたいという気持ちが強かったことも影響していたと思うが、皆さん本当に日本を親しみを感じ、痛みを共にしてくれているのが伝わってきた。しかしCIIS全体では、日本や東洋の話題というだけで、単にエキゾチックでクールだと考えている人もいるように思えた。少し意地悪な言い方かもしれないが、日本では殊更目新しくないような内容の研究でも、CIISでは通用してしまうようなところがあるんじゃないかと感じたのも正直な感想だった。

CIIS報告 その8

4月に入り、日本の地震と津波の被害に対して、何か私に出来ることはないだろうか…と考え始めた。ある日、思い立って、トランペットと花瓶を持って、近所のゴールデンゲートパークに出かけた。紙には、私が留学生で来月帰国すること、日本の地震津波被害への募金をお願いしたいことを書いた。公園内に場所を探して、ケースに紙を貼り付け、ドネーションポットの花瓶を前に置き、楽器を出して構えた。…最初の一音を出すのが怖くて、息が吸えなかった。今まで道端で演奏するなんて、やったことがなかったからだ。音楽を聞きに来てくれた人に対して演奏するよりも、ずっとずっと怖く感じられた。まるで自分の正体が丸裸のまま晒されるように思われた。でも…震災の被害にあった方々のことを思い浮かべて、勇気を振り絞った。夢中だった。夢中で、ほとんど休みなく、日本の唱歌と流行歌を吹き続けた。

サンフランシスコの人々に、日本の地震のことを思い出して貰いたかった。4月に入ってからは、ニュースにも取り上げられなくなっていて、次第に関心が薄れていたように感じられた。もちろん具体的な援助は有り難い。しかし一番力になることは、人々の気持ち、覚えていてくれること、心に留めてくれることだと思った。

週末の4日間、計8時間、募金活動を続けた。時々日本の人が「頑張ってください」と声をかけてくれることもあった。集まった募金は合計600ドル…人から見れば大金ではないかも知れない。しかし私にとっては、サンフランシスコの人々の心がこもった、美しい、掛け替えのないお金だった。

当初は日本赤十字社に募金するつもりだったが、帰国してからは考えが変わった。一刻も早く、このお金を役立てたかった。都庁に勤める知人に尋ね、被害が甚大で、最も復興が遅れている岩手県のある町に直接募金することに決めた。サンフランシスコで集めた、お金という形の「心」は、きっと伝わっていると信じている。

CIIS報告 その9

CIISは私にとって、絶好の場所にあった。コンサートホールとオペラハウスに徒歩数分で行ける距離にあったからだ。これは私にとって、素晴らしい環境だった。サンフランシスコにいる間、相当な回数オーケストラのコンサートに行き、バレエも2回見た。バレエの演目は「ジゼル」と「コッペリア」、いずれも素晴らしい踊りだった。特にジゼルは、非常に高難度。後半は死んでウィリー(憑りついて男を殺す恐い妖精)になったジゼルを表現するのだが、足音を立てずに、体重を感じさせないように踊る様子に感嘆した。演技としては、明るい町娘→怒り狂って死ぬ→恋人の裏切りを許す清らかで健気な妖精、を演じ分けなければならない。これを踊りで表現するのだから、たいしたものだ。

コンサートで一番心に残ったことは「君が代」だった。サンフランシスコ響には二人の日本人女性(バイオリン)が所属している。彼女達が、定期演奏会の始まる時に舞台に立ち、日本の地震津波被害への募金を呼びかけた。そして指揮者がタクトを降ろすと、「君が代」が演奏された。…思わず涙が出た。今まで君が代を聞いて泣いたことはなかったので、自分でもビックリした。地震のあと、自分ひとりで頑張って気丈に振る舞っていたせいかも知れない。その張り詰めた気持ちが、君が代を聞いてフッと緩んでしまったようだった。ああ、私はやっぱり日本人なんだ。日本が大好きなんだ。大切なんだ。日本の痛みは自分の痛みと同じなんだ。…アメリカにいるからこそ、こんな気持ちに気がついた。

そういえば公園で演奏した時(CIIS便りその8参照)、「君が代」は一度も吹かなかった。「君が代」を吹こうという考えも全く浮かばなかった。きっと「君が代」は私の中で影になっている存在なのだろう。

私はコンサートホールに「君が代」が流れた時、起立しなかった。出来なかった。もしこれがアメリカ国歌ならば、アメリカ人はたった一人でも、きっと立ち上がるだろう。実際イスラエルフィルのコンサートでは、アメリカ国歌とイスラエル国歌が演奏され、それぞれ自分の帰属する国の国歌では立ち上がる姿が見られた。もちろん私はどちらの国歌も座っていた。しかし君が代でも座っていた。私がいかに日本人気質であるかも、明らかになったことだった。

CIIS報告 その10

CIIS便りも、これが最終回になります。

アメリカに留学するまで、私は特にアメリカが好きだとか、アメリカに行きたいと思ったことはなかった。しかし留学を終えて、私はアメリカ(…と言っても具体的にはサンフランシスコのことだけど…)の人達がとても好きになった。アメリカ政府、となると苦しいが、それは自分の国でも同じような感じでもあるから、人々と政府は分けて考えてもいいかなと思う。アメリカ人には彼らなりの考え方やスタイルや、思いやりがあった。相手を尊重し、自分を尊重し、ノーサンキューをさっぱりと尊重する。私はアメリカ留学で、アメリカ人を相手にして嫌な思いをしたことは一度もなかった。

英語がほとんどわからなかった私だったが、この4ヶ月半の講義で、2冊ちょっとの大学ノートは真っ黒になっていた。ノートには自分の言葉で書き留めたかったから、ほとんど全部日本語だけれど、パラパラとめくってみると、よく頑張ったなあ…と思った。(ノート取るのにいちいち訳していたと思うと、自分でも大変そうなことしてたんやなあ、と思う)

CIISには、私が大切に思っていることを、同じように大切に思い、自分の実践や生き方にそれらを用いている仲間が沢山いた。私は今まで、そういったことを、どちらかというと隠していた。でもこれからの人生は…、堂々と「私はこういうことを大切に思ってやっています!」と宣言してやって行こうと心に決めた。

最後に、私がアメリカの留学エージェントに向けて書いた、留学の成果についての短い文章の一部を記して、この留学記を閉じることにしたい。

「科学とか非科学とかいうような、ある特定の考え方に固執する必要はないうことが、私は大切なことだと思う」

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