立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2025.01.03
「今日は何の日」1月 立命館大学が参加した箱根駅伝
恒例で1月2日・3日に行われる箱根駅伝(正式名称は「東京箱根間往復大学駅伝競走」)は今では正月の風物詩となっています。
箱根駅伝は関東学生陸上競技連盟加盟大学のうち、前年大会でシード権を獲得した上位10校と、10月の予選会を通過した10校、および関東学生連合を加えた合計21チームが出場します。関東学生連合チームは予選会を通過しなかった大学の記録上位者から(各校1人)選ばれます。「関東の大学だけかぁ」と見ない方もおられるかも知れません。
ところで、京都の立命館大学がかつて、箱根駅伝に参加した年があったことを知っていますか。1964年の「東京オリンピック」の年、箱根駅伝は40回記念大会で、「関西学生駅伝」三連覇の立命館大学と福岡大学の2大学が西日本から招待されたものです。当時はテレビ中継が行われていませんでした。本学は選手10人中5人が1年生でしたが、学生達は奮闘し、総合11位と健闘しました(日野雅之『たった一度の箱根駅伝―東洋オリンピックの年、立命館大学が走った―』大成出版社2012年)。この時の選手の写真はこの本から引用しました。
なお、2024年の第100回大会は記念大会とされ、関東以外の大学にも門戸を広げることになり、立命館大学も予選会に参加しましたが、34位の成績となり、23校という本戦出場枠には至りませんでした。主将の北辻選手(経済学部4回生)は、「挑戦してよかった」とチーム一丸で挑んだ約8カ月間を振り返り、山崎選手も「実力のなさを痛感したが、この経験を糧に、より成長していきたい」と悔しさをにじませながらも、今後に向けて前を向きました。(「『挑戦してよかった』第100回箱根駅伝予選会、立命大34位」、立命館大学ホームページTOPICS2023.10.17)
2025.01.01
「今日は何の日」1月 明けましておめでとうございます
日本のお正月は、もともとは、祖先に感謝し、先祖の霊を祀るもので、その後、五穀豊穣の神様をお迎えし、その年の豊作を祈るようになったといわれています。6世紀半ばには、すでに存在していたということです。また少なくとも平安時代後期には、「お年賀」の挨拶が始まっていたとされています。現在のように門松やしめ飾り、鏡餅などの正月飾りが庶民の間でも行われるようになったのは江戸時代中期からで、おせち料理が食べられるようになったのもこの頃です。さらに初詣として神社に参拝するようになったのは明治時代以降で、都市部から始まった新しい慣習でした。(イニシオフーズ株式会社『百花』より)
お正月について、名誉総長の末川博先生は次のように述べています。
「一九六五年、昭和も四十年となった。終戦までの二十年と戦後の二十年と、まさに昭和も半々に分けることができるようになったわけである。そして、その前半と後半とのあいだには、日本民族がかつて経験したことのない敗戦による降伏という大きな断層があって、あらゆる面で急激な変転が生じている。まず、新年を迎えてお互いに『おめでとう』といいかわす言葉に変りはないが、その意味は、だいぶん変わってきている。正月にはなぜおめでとうというのか。何とか年を越すことができてよかったとか、生きながらえてお互いに結構だったとかいうような気持を表わすのでもあろうが、戦前のこどもたちにはトシを一つとるというよろこびが大きかった。」(「正月と戦後二十年」1965年1月1日『京都新聞』、末川博『京洛閑話』、『末川博随想全集』第8巻、栗田出版会1972年より)
戦前は一般的に、生まれた日が1歳で正月の度に1歳年をとる「数え年」でした。1950年の「年齢のとなえ方に関する法律」により、従来のならわしが改められ、生まれた日が0歳で、その日を起点に1歳ずつ年をとる「満年齢」となっています。
「ところで各家庭に大切な歳神様をお迎えするお正月なので、昔からお正月にやってはいけないこととして伝えられてきたことがあります。
〇炊事場などの火や水を使ってはいけない(神様の食事される場所であるため)
〇掃き掃除などをしてはいない(神様を掃いてしまうため)
〇風呂に入ってはいけない(福の神様も流してしまうため)
〇包丁など切れるものを使わない(良い縁も切ってしまうため)
〇1万円札など大きなお金は使わない(散財する年になってしまうため)」(イニシオフーズ株式会社『百花』より)
「だからおせち料理は予めつくっておくのか」といまさらながら感心しました。
2024.12.25
「今日は何の日」12月 クリスマスは日本でいつ頃始まったのでしょうか?
名誉総長の末川博先生が1960年2月12日の『京都新聞』に掲載したエッセイ「節分とクリスマス」で、「クリスマスというのは、日本に昔からあったわけではなくて、戦前にはこれほど盛んではなかったのが、今日こんなににぎやかになったのはどうしたことであろうか。」「まことに大きな包容力とずぶとい度胸を持っているのが、日本人の特色とでもいうべきであろうか。」と述べています(末川博『京洛閑話』、『末川博随想全集』第八巻、栗田出版会1972年より)。
ところで日本ではいつ頃「クリスマス」が始まったのでしょうか?「1900年に横浜で創業した「明治屋」がクリスマス飾りや関連商品を販売したから」、「1910年に不二家の創業者である藤井林右衛門がクリスマスケーキを販売したから」等の説があります。正岡子規は1892年に「臘八(ろうはち)のあとにかしましくりすます」(臘八とは12月8日のお釈迦様が悟りを開いて仏となった日)、1896年に「八人の子どもむつましクリスマス」と俳句を読んでいます。1900年にはトナカイではなくロバを連れた「北國の老爺三太九郎」という物語が教文館から発行されています。
1900年といえば、立命館大学の前身、京都法政学校が発足した年ですが、この頃には
クリスマスが認知されつつあったということなのでしょう。ところで立命館大学では2022年12月25日に行った「りつくり2022 ~光のサンタと氷の時計台〜」が、新型コロナウイルス禍の影響で希薄となった学生同士や教職員、地域社会とのつながりの活性化を目的として、衣笠キャンパスを舞台とした初の参加型クリスマスイベントとして、存心館へのプロジェクトマッピングや各種企画が行われて話題になりました。
一切の武力攻撃、暴力、差別、環境破壊の無い世界を願って、メリークリスマス!