立命館あの日あの時

<懐かしの立命館>1着の古い制服からたどる戦時中の付属学校の歴史

  • 2016年08月25日更新
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現在の立命館中学校・高等学校の前身となる私立清和普通学校は、1905(明治38)年、大学と同じ地広小路に誕生した。111年の校史のなかで北大路、深草、長岡京へと移転が行われてきた。現在の長岡京キャンパスには学園展示コーナーが新設されていて、そこに戦中戦後の立命館に関わる深い歴史が沁み込んでいる1着の古い制服が展示されている。キャンパスが新しくなり、だれひとり戦争を知らなくなった学校で、戦争を語り継ぐ貴重な語り部資料である。

《長岡京キャンパス学園展示コーナー その1


(1)制服との出会い

この制服の話は今から16年前、滋賀県草津市から通う一人の立命館の男子高校生が、古着屋で偶然に見つけて購入したことから始まる。古着を広げると、かなり小柄で、今の中学1年生ほどの背丈の大きさだったが、古着には「立命」の文字がはいったボタンが着いていて、紛れもない戦前の制服であった(1)。戦時中には国防色と呼ばれ、色褪せたカーキ色の制服はいたる箇所が擦り切れ、継ぎ接ぎだらけであったが、かえってそれが戦争を生き抜いてきた逞しさを感じさせてくれていた。

(2)持ち主との再会

この古着は、当時、学園創立100周年の取り組みを行っていた高校生徒会に届けられた。幸いにも制服の裏には持ち主であろう人物の氏名、住所、血液型、勤務先(戦時中は、勤労動員と言って、旧制中学校の多くの生徒たちが授業を中断されて勤労動員に借り出されていた)が書き込まれていた。生徒会の役員たちは、戦時中にその制服をきた先輩が立命館の生徒として過ごした青春時代を想像し、学園創立100周年の記念の年に母校へ戻ってきた制服に不思議な縁を感じ、どうしても持ち主の先輩を探し出したいと思ったのであった。

生徒会長(1988年に男女共学となってからで二人目の女子会長)を中心に調査に乗り出した。まず、同窓会である清和会名簿を探すと、同じ苗字で名前の字が異なる人物が一人見つかった。しかし、住所は不明のまま。次に、戦後50年以上が過ぎているので、住人も建物も変わっていて無理だろうと思いながらも、制服に記入されていた住所地へ向かった。高齢の方なら知っておられるかもしれないと尋ねていると、その持ち主をご存知だという方に出会えたのであった。

制服の持ち主は、1947(昭和22)年の立命館工業学校卒業で、その後は京都市内で時計・貴金属店を経営されていた。自分の制服と半世紀ぶりに対面された驚きと、50歳以上も年下の後輩たちとの不思議な出会いに感動され、当時の厳しく苦しかった時代を懐古しながらも、男女共学となって移転した大きく発展している母校の様子を熱心に尋ねられたのであった。

 

(3)立命館工業学校

制服の主が立命館工業学校に入学したのは1944(昭和19)年であった。それより以前から戦争が続くなか、国内で軍需生産のための技術者が大量に必要とされるようになると、商業学校への志願者が減少し、中学校や工業学校への志願者が増大していた。1929(昭和4)年に中学校と同じ場所に開校していた立命館商業学校(夜間は1937年開校)は昼夜の二部制で1,500名もの生徒が在籍していたが、戦争が続いてくると、政府は1943年に男子商業学校の改廃を発表した。そのため全国450校のうち約6割が工業学校となり、立命館でもその情勢をうけて、1943(昭和18)年に生徒募集を停止し、昼間は立命館第三中学校に、夜間は工業学校へと変わっていた。1944年はその開校1年目の年であった。学校は、等持院に開校されていた立命館専門学校工学科(当時は衣笠と呼ばずに等持院と呼んでいた)の諸施設を夜間に活用するというもので、機械科と土木科で各学年定員100名で修業年限は4年であった1943年までの商業学校夜間部の在校生12年生たちは、翌年そのまま工業学校の23年生編入となった。

こうした強引な開校には次のような設立理由があった。「教育に関する戦時非常措置方策に基づき商業学校夜間部の生徒募集を中止し、これによって生じる余剰の人的物的資源と大学専門部(昼間授業)の諸施設を活用して工業学校を設立し、もって国家の要請に応えんとす」(2)るためであった。戦局がますます悪化するなか、立命館が時局の要請に応じる形で工業学校が設立されたのであった。

 

(4)当時の付属校

この当時の立命館には北大路室町(現在の立命館小学校所在地)を中心として、いくつもの付属校が存在していた。(3)

① 立命館第一中学校。1905年清和普通学校創立以来、1906年私立清和中学校、1913年私立立命館中学、1919年立命館中学、1928年立命館中学校と校名を変更してきたが創立からの伝統の流れをもつ。1942(昭和17)年に第一中学校となった。

  立命館第三中学校。立命館商業学校は、既述のように1943(昭和18)年に生徒募集を停止し、4月新たに開校したのが第三中学校であった。昼間の商業学校生徒が編入された。

③ 立命館第四中学校。1937(昭和12)年に勤労青少年にも広く門戸を開くため考査料と入学金を免除する形で立命館夜間中学校と立命館商業学校夜間部が開校されていた。もともと家計的にも就学が厳しかった生徒が多かったため、戦争が激しくなってくると中退者が多くなってきた。「中等学校令」(4)に従い、夜間中学校を廃止して1943(昭和18)年4月に第四中学校とした。

④ これらに加え、上賀茂には立命館第二中学校(神山)があった。

これらの4つの中学校をあわせると生徒数は3,718名となっていた。当時の立命館全体の生徒学生数は9,313名(兵休者1,367名を含む)であったので、これに工業学校を加えれば、中等学校だけで全体の4割弱を占めていたことになる。


1946年の立命館第一中学校卒業アルバムから》

《北大路校舎の正門右側に掲げられた1枚に5つもの校名が書かれた門標》


(5)制服・制帽

戦局が進んでくると、学園では服装の面にも戦時色を濃くしていった。大学では「黒色、紺色の詰襟服を陸軍将校型に変え、帽子も角帽を廃止して将校型の丸帽に改めた。これらは「東亜共栄圏確立への邁進の今日、好んで欧米を模するに及ばず」という理由からであった(5)。立命館中学校や立命館商業学校でも、1940(昭和15)年には陸軍幼年学校型に変更され、学生帽も戦闘帽(旧日本軍が用いた略式の軍帽の略称)へと変えられ、すべてカーキ色へと統一された。制服の生地は、初めは木綿や小倉(綿織物の一種で、太糸で厚地に織ったもの)などの生地のしっかりした物で丈夫であったが、戦争が激化してくると天然の繊維がなくなり、スフ(略称で、正式名はステープル・ファイバー。くず綿や木材を原料とする非常に弱い繊維)という生地で作られるようになった。そのため、半年も着ていると袖口をはじめあちこちがぼろぼろに破れてしまうほどであった。色、型、素材と国民はみんな辛抱しなければならなかった時代であった。


《制服》

 

(6)戦時中の学校生活

当時を生徒として過ごした卒業生たちは、次のように語っていた(一部要約)。

≪ア≫1939(昭和14)年4月、あこがれの鉄筋校舎(北大路学舎で昭和13年完成だからまだピカピカの校舎だった)に入学したのである。
 我々は、昭和1812月に繰り上げ卒業をしたのであるが、修学旅行とてなく卒業パーティーもクラス毎に、握り飯と簡単なおつまみで勿論酒もなく、ただ恩師への感謝と恐らく皆と最後の別れとなるかもしれない宴としたものである。
(6) 


≪イ≫私が中学生として北大路学舎に通学することになったのは、太平洋戦争も末期の昭和201945)年の4月でした。当時は通学手段としてほとんどの生徒が市電を利用していましたが、「歩け、歩け」の時代で、登校の際、烏丸線を利用する生徒はすべて、烏丸今出川で下車、北大路まで徒歩と決められていましたので、私は数人の学友達と共に徒歩で通学する毎日でした。当時の校内での行動は、軍隊の兵営生活的な規律ですることが定められ、例えば朝礼の際には、全校生徒は直立不動の姿勢で整列し、先生の訓示等を聞いている時は「鼻の先に蜂が止まっても動くな」と教え込まれました。

    中学1年生の時の担任は英語の先生で、「This  is  a  pen」で授業が始まりました。英語は敵性語と呼ばれ世の中から抹殺されていた時代でしたが、まことに不思議であったと、後になって思っています。(7)

 

《昭和18年第一中学校1年生の愛宕神社参拝遠足》

(7)勤労動員

1944(昭和19)年に、政府は「勤労即教育」と規定(8)して、中等学校以上の学校に勤労動員を強いてきた。立命館の中学校にも各地への指示がなされ、兵庫県播磨造船所や舞鶴の第三海軍火薬廠、京都市内の工場、京都府下の各地の農村への耕作作業などで動員されていった。展示されている古着の制服の内側には「勤務先 壽十條工場」と記されていたので、この持ち主も1年生にして勤労動員されたのであった。壽十條工場での「学徒出動工場視察報告」(9)によれば、この工場での作業は「砲弾及び魚雷の部品作成に関する旋盤及び仕上げ」と記載されていた。生徒たちはかなり責任のある仕事を任されていたことになる。

翌年3月、政府は閣議決定(10)で「全学徒を食料増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其の他直接決戦に緊要なる業務に総動員」し、その目的を達成するとために41日から一ヵ年間、原則として全学校の授業を停止し、生徒たちに勤労作業だけを行わせることにしたのであった。

当時の勤労動員の思い出を卒業生たちは、次のように語っていた。

 

≪ウ≫一番強烈な思い出は、今でも時々夢に見る学徒動員による播磨造船での苦しい一年間でした。当時、播磨地獄と酷評されていましたが、今思えばB29の本土侵入の空路となりながら爆撃の被害を受けずに済んだことは、名古屋や舞鶴で多数の犠牲者を出した他校の人たちに比べれば幸運でした。(11)

 

≪エ≫戦争の始まった翌年の昭和174月、あの美しかった桜並木を通って、立命館第二中学校に入学した。周囲は緑に囲まれ桜の花の咲く頃は一段と美しく、作業の時間には桜の木の手入れをしたものである。しかし、敗色濃き昭和197月私達は一機一艦をより多く、早く戦場へ送ってくれのスローガンで勉学を捨て、お国のためにと学校を後に兵庫県相生市の播磨造船所へと行った。これが学徒動員である。
(12)

 

≪オ≫私は昭和19年に入学した。第二次世界大戦の末期で3年生以上は学徒工場動員で不在、我々12年生は農繁期に戦時召集で男手のない農家へ農作業の手伝いに駆り出されたが、食糧難の当時、昼食に白米を腹一杯に食べられたのと、帰りにさつまいもやじゃがいもを土産に貰ったのが嬉しかったのを覚えています。五条通や堀川通の家屋を被爆による火災の類焼を防ぐために拡幅する目的で撤去する作業に動員され、家屋の支柱や床柱に綱引き用のロープをくくりつけ、クラス全員で引っ張って倒壊させ、その倒壊した材木から各自がバールで釘を抜き取り、武器製造の材料(鉄)とするため集めたりもしました。(13)

 

(8)未来を見つめ、平和を願う制服

この制服の持ち主が入学したのは、創立者中川小十郎の亡くなった1944年。卒業のときには末川博学長によって平和と民主主義が全国へ呼びかけられていた。卒業生が前年は42名、翌年は51名だが、この学年は28名しかいなかった。これだけでは言い切れないが、最も困難な時代の学年であったと想像される。その持ち主が卒業して来年で70年となる。傷みはてた古い制服は、その姿をもって平和の尊さを教え、「未来を信じ、未来に生きる」生徒たちを毎日見守ってくれているのである。

 

《長岡京キャンパス学園展示コーナー その2》

 

                     2016825

                      立命館 史資料センター

                       調査研究員   西田 俊博

 

(1)  昭和15年、大学では陸軍将校型に変え、中学、商業学校の生徒も陸軍幼年学校型に準じたものに決定された。「立命館創立五十年史」p506

(2) 「立命館百年史 資料編一」p1541  703 工業学校設置、商業学校夜間部廃止

      「立命館工業学校設立理由」

(3) 「立命館百年史 通史一」第四節付属学校の戦時体制 p750以降より要約

(4) 昭和18120日勅令 第三十六號 中等學校令 第六條

(5) 「立命館創立五十年史」p506 

(6) 清和会報第13号 K.Y氏(昭和1812月商業卒)平成55月発行

(7) 清和会報第16  T.H氏(昭和263月高校卒) 平成86月発行

(8)  1944118日 閣議決定「緊急学徒勤労動員方策要綱」で規定 

(9) 「立命館百年史 資料編一」p1555  706 立命館中学校学徒動員出動工場視察報告

     生徒出動工場視察報告

(10)  1945318日 閣議決定「決戦教育措置要綱」 

(11) 清和会報第15  S.I氏 昭和20年二中卒  平成76月発行

(12) 清和会報第2  K.S氏  昭和22年二中卒 昭和566月発行

       (13) 清和会報第16  K.S氏 昭和24年二中卒 平成86月発行 

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