<私の故郷のこと>




挙母は豊田なのか


 愛知県は尾張(名古屋)と三河との二つに大きく分かれています。私はその一方の西三河に位置する 現在の豊田市に生まれました。

 それにしても、豊田市といえばトヨタ自動車を思い起こす人が多いでしょう。実際、私の実家のあ る豊田市土橋(つちはし)町は、日本で最初の乗用車専門工場、トヨタ自動車の「元町工場」(1959年 設置)の南側に面し、国道をはじめ工場と工場を直結する産業用道路が縦横に伸び、またトヨタ関連に 働く人たちの住宅などが建ち並んでいます。

 しかしながら、私が幼少の頃、1950年代の土橋地域は、一面の水田と野菜畑、そして集落の南側を 流れる逢妻川をはじめ川にはいろいろな水棲動物、木立の茂みには小鳥や昆虫が生息し、春になれば 燕が飛来し、夏には蝉しぐれがきこえ、夜のとばりがおりれば蛍が舞う、のどかな農村でした。今で はその面影は田畑は残存しているものの消えました。

 この今とはまったく異なった景観が物語っているように、もともとこの地はその名も「豊田」では なかったのです。明治用水(1880年完成)や枝下(しだれ)用水(1894年完成)が造られ、田畑があらた に開墾され、いろいろな農産物を生産し、また、市の中心部を流れる矢作川の船運により養蚕の繭の 集散地が設けられ、製糸業でも盛えた、「愛知県西加茂郡挙母町」もしくは「愛知県挙母市」であり ました。この「挙母」は「ころも」と読みます。

 挙母の由来と土橋地域のこと

 この地名「挙母」にかかわる記述を調べてみますと、古くは712年に編まれた『古事記』に遡るとい われます。そこには垂仁天皇の皇子の一人、大中津日子命(おおなかつひこのみこと)について、「 大中津日子命者、【山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國之三野別、吉備之石无別(い わなしのわけ)、許呂母之別(ころものわけ)、高巣鹿之別飛鳥君、牟禮之別等祖也。】」との記述 があり、その中に「許呂母之別」すなわち「領主」の名として万葉仮名の音仮名で出ているのが最初 と思われます。10世紀前半にまとめられた『和名類聚抄』には、参河国賀茂郡の郷の一つ「挙母(古 呂毛)」と記されています。また、『経衡集』(1072年)などの和歌集に名勝の地として「衣の里」 として読まれました。

 鎌倉時代以降、この地を長く治めたのは、鎌倉幕府評定衆・室町幕府奉公衆として幕府内でも権勢 のあった中条氏です。中条氏は、この地の地頭となり、この領地内の金谷(かなや)に居城を建設、 郷の地名をとって「金谷城」、別名「衣城」と呼びました(1308年)。けれども、この中条氏は、1561 年に織田氏に攻め滅ぼされ、この地は徳川氏の支配下のとなり、1604年武蔵国の出身の三宅康貞が入 封しました。三宅氏は戦乱で荒廃した金谷城を捨て、北へ1qの地に陣屋を構えました。現在、その 辺りは元城町と呼ばれていますが、ここを矢作川の水運と街道の交錯する交通の拠点にすべく町割を おこないました。一時期、この地は幕府領となり、三河代官・鳥山氏の支配下となりました。ついで、 この地に入封した本多氏はこの城を「挙母城」に名を改めました(1681年)。しばらくして本多氏は 転封、1749年、これを受け継いだ内藤政苗は、城の大改修に着手しました。けれども、前記の三河で 最も大きな河川「矢作川」の度重なる氾濫に悩まされ、ついに西方の小高い「樹木台(童子山)」へ 城を移しました。この樹木台の城は七国の山々が眺められるということから別名「七州城」とも呼ば れました。

 私が通った童子山小学校は、その挙母城の城跡にありました。私は毎日、電車で土橋駅から一駅 「上挙母(うわごろも)」駅まで乗り、そこから歩いて通いました。なお、この童子山小学校は、そ れ以前は中<なか>小学校といい、後述の市名変更にともなって、1959年に改名されたものです。

 この電車は通称「名鉄」電車です。この名鉄は、1894年の創業時は愛知馬車鉄道、1896年名古屋電気鉄道 (名古屋以西)に社名を変更して事業を始め、周辺の鉄道を合併して名岐鉄道に名称を変更しました。その後 1935年に名古屋以東の路線等を保有していた愛知電気鉄道(1910年設立)と合併して、名古屋鉄道株式会社が 設立しました。私が利用していたのは三河線の電車ですが、それは1912年設立された三河鉄道、その鉄道会社が 1941年前記の名古屋鉄道に吸収・合併されて、現在に到っていますが、その合併劇が物語っているように、かつて 三河線と名古屋鉄道の本線とは別々の軌道で、今日のように知立駅で相互に乗り入れてはいなかったのです。 なお、土橋駅開業は1920年です。

 さて、明治時代を迎え、挙母藩は1871年の廃藩置県で挙母県になり、同年秋、三河の国の諸藩の県は 額田県に一括され、さらに名古屋県と合併し、「愛知県」下の一つの地域となりました。そして、1878年 の郡区町村編成法によりかつての挙母藩の挙母村に西加茂郡の役所を置いた。その後、挙母村は1892年 町制をしき「挙母町」、さらに1906年その挙母町は周辺の村々「逢妻村」の一部(後述)、「根川村」 (下市場、金谷、下林、長興寺など)などを吸収合併し、第二次大戦後の1951年、挙母市へと転じまし た。

 なお、前記の実家のある土橋地域は、江戸期挙母藩下ではなかったようです。かつての地割りによれば 西尾藩や一色清三郎領等の領地であったとの記録を見たことがあります。土橋地域にある法雲寺(16世紀中頃創建) の住職も過去帳の記述から、徳川にかかる松平氏の臣下であると言っていました。私の名字、兵藤姓が この土橋地域に限られていたのも、そのせいでしょうか。土橋の伝統的な姓は「須藤」「須賀」「兵藤」で、 土橋に入植し居ついたのでしょう。それはともかくとしても、江戸期、土橋村と称した土橋地域は1889年、 本地村、千足村などと併合し、前記の「逢妻村」(西加茂郡と碧海郡にまたがる逢妻(あいづま)川に沿った村) となりました。そして、1906年、挙母町の下に併合されました。

 ともかく「挙母」は許呂母、古呂毛、衣、さらには挙呂母、去呂毛、来藻とも書かれたといいます。 その地名は、少なくとも一千年有余の歴史をもった、由緒のある地なのであります。今も秋には、起源は 江戸・寛永年間といわれる、あでやかに飾られた山車を曳く挙母祭りが挙母神社で催されます。ちなみに この地の方言は三河弁です。

 トヨタ自動車の進出、そして戦時へ

 ところで、「豊田市」への市名変更にまで到った出発点は、どこにあるかと申しますと、それは1938年 に発しているといえましょう。

 かねてより自動車業界に参入しようとしていた、西三河南部の刈谷に工場を構える豊田自動織機製 作所が、挙母町議会の「優良工場誘致委員会」の誘致政策に誘われ、町の南部に広がる「論地ヶ原」( 挙母町大字下市場字前山、現在の豊田市トヨタ町)と呼ばれる荒野60万坪を工場用地として買収した ことに始まります。この豊田自動織機製作所は、あの日本初の動力織機(1897年)や自動織機(1902 年)を発明、製造した豊田佐吉の設立した会社です。この会社が政府の保護(自動車製造事業法1936 年公布)をいただいて、その自動車部(1933年発足)を分離独立、1938年その地にトヨタ自動車工 業株式会社(創設1937年)「挙母工場」を誕生させたのでした。今日とは状況は異なって当時は軍事色 一色、そしていまだ日本の自動車工業は若く端緒についたばかりでありました。それは今様にいえば ベンチャー企業だったともいえましょう。

 ちなみに前記のトヨタ・元町工場の建設地20万坪は、もとは農地であったところもありますが、戦 時中、三菱重工業航空機製作部門/名古屋航空機製作所分工場「挙母工場」(東海飛行機の軍需接収) や「衣が原飛行場」があった国有地でした。子ども心に覚えていますが、その辺り一面は空襲によっ て破壊されたのでしょう、元町工場が建設されるまでは、一面コンクリートの瓦礫でした。私が幼少 の頃は、この他にもこうした戦時中の工場の残骸があちらこちらにありました。この三菱の航空機工 場跡地はひときわ大きなものでした。たしか土橋駅には大きくはなかったが貨物車両の操車場があり、 またレールは外されていたものの、引込み線の盛り土がその工場跡地へと伸びていました。

 当時の三菱の航空機製作部門は、機体関係6製作所、発動機関係11製作所、名古屋を中心に東は静 岡から西は熊本まで工場、事業所を散在させ、徴用工、学徒動員、女子挺身隊、軍隊派遣による約20 万人の従事者をかかえ、生産高はわが国全体の機体重量換算で40%、発動機の馬力換算で50%を占め るものだったといいます。終戦までに零戦、100式司偵ほか、航空機18,000機、航空機エンジン52,000 基を製作したと記されています。この航空機部門は1945年GHQから軍需生産禁止命令を受け、役割 を終えました(『三菱重工業名古屋航空機製作所25年史』)。

 なお、ともにトヨタ・グループの自動車部品製造企業である愛知工業と新川工業は合併して現・ア イシン精機を設立しますが、前記の軍需接取された東海飛行機は、愛知工業の前身で、トヨタ自動車 が軍部からの軍用航空機生産の要請を受けて、1943年に川崎航空機と共同出資して設立した官設民営 の会社です。そのもともとの工場は刈谷なのですが、陸軍省の命で同年、土橋にその挙母工場を建設 することになったのです。ところが、前述の中部軍管区管轄下の三菱重工業・名古屋発動機製作所が、 折からの東南海大地震による破壊と度重なる米軍の空襲によって、その生産能力を3分の1以下に低下 させることになってしまいました。そこでその代替工場として東海飛行機の挙母工場に白羽の矢が立ち、 その第22製作所として接取・転用されることになったのです。

 このようにトヨタ自動車が創設させた工場は戦時中は軍需接取となりましたが、トヨタ自動車自体 も国家総動員法にもとづく工場管理、陸軍軍需監督官令にもとづく監督、さらには軍需会社の指定を 受け、軍需大臣の管轄下に入り、トヨタの挙母工場は「護国第20工場」の指定通称名で呼ばれまし た。

 工場誘致条例と市名変更

 戦後になって、挙母町は1951年に市制を施行し、「挙母市」となりました。

 市は1954年「工場誘致奨励条例」を施行、周辺の高岡・上郷・猿投町においても工場誘致奨励条例 が制定され、進出工場には奨励金と工場立地のための敷地の斡旋がおこなわれました。この条例の適 用を受けた企業は、のべ57工場、企業数で46事業所、奨励金交付総額は約19億3千万円にのぼ ったといわれています。

 そして、トヨタ自動車も戦後、民需転換、こうした保護政策とモータリゼーションの進展にともな い事業を急速に拡大させました。こうしてトヨタ自動車の企業「城下町」として挙母の町が行政的に 改変される事態を迎えたのでした。

 やがて奇しくも前述の元町工場ができた同じ年の1959年、その社名にちなんだ「豊田市」へ、本社 工場が置かれている地はトヨタ町へとその名称が変更されたのでした。その際、推進する市長や議会 への反対運動も少なくなかったと伝えられています。

 やがて豊田市が周辺の町村を合併吸収するのに並行して、トヨタ自動車、その関連部品企業はあい ついで新工場を建設、そして自動車部品や完成車を効率的に運ぶための産業道路でそれらの工場は結 ばれたのでした。JITによるトヨタの業績のよさは、こうした地域行政を通じたインフラ整備がなくて はできなかったとも言ってもよいでしょう。

 トヨタ自動車がこの地に進出することになったのには、前記の挙母町議会に設置された「優良工場 誘致委員会」の誘致政策によりますが、実にこの地は以来大転換をこうむることになりました。

 今日、この地は一企業の名にちなんだ市名「豊田市」になって50年経ちました。『トヨタ自動車20年史』 には「挙母という町の名まえにしても、コロモと読める方は、あまりありません。全国の難読地名の栄を、 いつもになっているようです。このなじみの薄い挙母に・・・機械工業の花ともいうべき自動車工業が生まれ ることになった」と、「豊田」がやって来て、この地は脚光を浴びるようになり、市名を変えて分り易くなり、 知名度も高くなったと評しています。けれども「挙母」の地名は前述のように一千年有余にわたる歴史 をもっていること、そしてまたそこには今日とは異なった、人々の生活の営みが重ねられてきたことを忘れて はいけないでしょう。

 さて、中学校は地元の朝日ヶ丘中学校、高校は県立刈谷高校にお世話になりました。 刈谷は前記のトヨタ自動織機のあるところですが、1995年に撤去解体され今はその姿(高さ250mの鉄塔8基) を見ることはできませんが、対外通信施設「日本無線電信(株)依佐美送信所」がありました。この施設は、 第二次世界大戦中、旧日本海軍の使用するところとなり、戦後は米海軍が使用したこともありました。

 科学技術史から現代技術論まで

 科学や技術の社会的問題に興味をもちはじめたのは学生時代でした。時代は「高度経済成長」 のツケというべき公害が広く社会的に問題となり、また大学はその学問のあり方、大学運営のあり方 を問われ、屋台骨を揺らがせていた、「大学紛争」が全国の大学に吹きすさんでいた頃でありました。 そうした中で時代が提起する課題を考えてみようと、科学論・技術論を学ぶ会に参加する機会を得ました。

 卒業後、これらの科学や技術の問題を歴史的事実の上で考察・検証することの重要性を知りました。 テーマとしては、科学実験の技術的基礎、その生産技術との関連、あるいは第二次世界大戦期にアメリカで 展開されたマンハッタン原爆開発計画の開発過程、その中での科学者の対応・処遇・あり方、等々を取り上げました。

 現在は、これらのテーマに加えて、現代日本における技術革新の展開、企業経営における技術、 日本の科学技術政策が抱える問題へと関心を広げています。


 参考/関連サイトの紹介

  愛知県地名変遷/豊田市
 「江戸三百藩」 //挙母藩
 「愛知県の城」ページの 「三河の城」のページ参照//衣城(金谷城)/

  09 Photo-Rail/ナゾの三角線:名古屋鉄道本線・三河線知立駅
  刈谷市ホームページ//「三河弁を覚えてみりん!」
  刈谷市みどころ//無線の鉄塔



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