浅羽:いわゆる「テニュア(終身雇用資格)」、任期の定めのない大学教員になるまでの過程は、人によって実に多様です。お一人おひとり、これまで歩んできた道のりをご紹介ください。
無職の期間を経ることなく、現職に就くことができた
川村:修士課程に進学後、最初の指導教授は小林誠先生でした。ゼミは厳しく、毎回先生や先輩からガンガン質問攻めにあいました。それを防御するために、相当勉強しました。
修士2回生の時に小林先生が他大学へ移られることになり、指導教授が龍澤邦彦先生に代わりましたが、研究テーマは一貫して、「国際社会における共和主義の規範性」でした。共和主義という思想が国際関係においてどのような規範的役割を担ってきたのかについて研究しました。修士課程では、古代ギリシャの思想まで遡り、「共和主義」の定義を自分のものにすることに費やしました。博士課程では、それに加えて方法論も勉強しました。ニクラス・ルーマンが提唱した社会の分析方法であるオートポイエーティック・システム理論を学び、博士課程3回生が終わる頃、博士論文を書き終えました。そこで一旦「満期退学」となり、博士学位の授与の後で遡及的に3回生の3月修了ということになりました。
浅羽:「満退」ですね。
川村:そうです。その後8月までの契約で、国際関係学部で非常勤講師をさせていただきながら、本採用を目指してさまざまな大学に応募しました。その中で、同じゼミの先輩にあたる佐藤さんから「公募が出ているらしい」と教えてもらったのが、龍谷大学のアフラシア多文化社会研究センターでした。運良く採用していただき、9月から博士研究員として同センターに移りました。同時期に東洋大学からも面接通知を受け取り、模擬講義と面接を経て採用が決まり、今年の4月から勤務しています。
浅羽:ただの一度も履歴書に空白期間がない、と。「入院」から「退院」までが非常にスムーズだったのですね。就職活動においてJREC-IN(研究者人材データベース)は利用しましたか。
川村:博士学位取得後は利用していましたが、佐藤さんのような先輩方や先生方に公募が出ていることを教えていただき、応募したものもあります。
佐藤:研究会などに参加してネットワークを広げておくと、情報交換できます。そこからチャンスが生まれることは多いですね。
多くの幸運に恵まれて、まさに「奇跡」でした
中根:私は博士課程進学後、カンボジアのユニセフでインターンとして働いたり、2年間休学してインドのデリー大学に籍を置いてフィールド調査をしたり…。在籍期間は長かったけれど、結局、博士論文を書かずに満期退学しました。
その後、立命館のボランティアセンター(現:サービスラーニングセンター)でサービスラーニングのカリキュラム設計や運営に携わる仕事に就き、いくつか非常勤講師の仕事もいただきながら、2年間専門契約職員として働きました。そうしたら運の良いことに、その部署で教員を採用するという話がもちあがり、恐る恐る応募してみたんです。そして、まさに棚からぼた餅的に任期制教員として採用されました。
それを機に、任期制とはいえ教員にまでしてもらったのに博士論文を書かないままにしておくのは、先生や家族、そして何よりインドのフィールド関係者など、これまでお世話になった方々に申し訳なく思えて、博士論文を書こうと思い立ちました。教員としての仕事は次々と降ってくるし、論文は進まないし、ほとほと疲れ果てましたがなんとか博士学位を取得しました。その後、専任に向けた就職活動を開始し、初めて呼ばれた面接で思いもよらず採用通知を受け取り、去年の9月から龍谷大学国際文化学部の一員に加えていただいたというわけです。
浅羽:誰とつながっているかによって、チャンスが広がったり、逆に、いつまでも同じところに留まったままだったりするのは、この業界の特徴かもしれません。
その時々の出会いで「拾ってもらった」
佐藤:僕自身は博士課程では、退職された安斎先生に代わって小林誠先生に指導を受け、博士論文の最終審査では足立研幾先生に大変お世話になりました。同じ研究室で、数年先輩だった井出さんや松村博行さん(現・岡山理科大学総合情報学部講師)には、当時、一緒に飲みながらいろいろなことを教えていただきましたね。博士論文とは、あるいは非常勤講師とはと、あれこれ聞いたことで、自分の進路を具体的にイメージすることができるようになりました。
博士課程3回生の時、小林先生の紹介で、龍谷大学国際文化学部の非常勤講師を始めました。そのとき、同大学のアフラシア平和開発研究センター(現:アフラシア多文化社会研究センター)で博士研究員を募集していることを知り、応募したところ、運良く「拾って」いただきました。さらにその後、アフラシアで共同研究メンバーだった先生に「拾って」いただき、京都大学の東南アジア研究所へ。2年間の任期が切れる頃、またもや運良く今の大学に「拾って」もらったというのが実感です。もちろん、すべて公募でしたが、今思えば、さまざまなネットワークに助けられたということを、強く思います。
浅羽:「拾って」いただいたという言葉が印象的です。人と人とがつながって、仕事が回ってくる。一つでも途切れたらその役割は他の人のところへ行ってしまっていたかもしれません。
佐藤:つくづくネットワークは大切だなと思います。研究の能力は同じでも、研究する環境や出会う人によって就職率は大きく変わります。ポストをつかむ人はたいてい研究会などに積極的に参加していますよ。
浅羽:私たちはまだまだ微力ですが、現役の大学院生、これから研究者を目指す人に対してリソースフルでありたいですね。
数年間はほとんど無職の状態が続きました
井出:私はオーバードクター(OD)の1年目で博士号を取得したものの、縁あって国際日本文化研究センターに職を得るまでの数年間は、ほとんど無職といっていい状態でした。JREC-INのサイトも毎日のように閲覧していましたが、なかなか採用されず、不採用通知の封筒ばかりが何十通も増えていきました。そんな辛い時期を経て、ようやく「拾って」いただいたのが、前任地の九州産業大学商学部でした。その後、近畿大学で採用していただき、現在に至ります。
浅羽:「入院」「満退」など先ほどから次々と出てくる業界用語は、研究業界の極めて大事な特徴の一つといえます。こうした「ジャーゴン」を覚えて、活用できるようになった頃、博士学位を取得し、仕事にも就けるという気がします。
研究分野が募集要件にぴったりだった
中戸:僕は、博士課程に進学したものの、当初は、博士論文を書く気はあまりありませんでした。OD2年目に入ると、指導教員の朝日先生が心配されて、「君が博士論文を書いたら採用したいという大阪の私立大学がある」と声をかけてくださったんです。当時、僕は生意気にも(笑)、一度は「就職のために論文は書きません」とお断りしたのですが、しばらくして考えを変えました。研究に区切りを付けるために書こうと思いなおしたのです。
それから博士論文を書いて提出しました。その後、朝日先生に「論文書きましたが…」と尋ねたら、あっさりと「あの話なくなったよ」と(笑)。当時の僕を叱咤するための方便だったのか、今となってはわかりませんが、結果として感謝しております(笑)。
博士論文を提出したちょうど同じ頃に、宇都宮大学国際学部が日米関係論と国際関係を専門とする教員を募集していました。私の研究分野とぴったりだったので、「これは自分を呼んでいる」と応募。採用にあたっては、共同でプロジェクトをやっていた縁で、あるお世話になっていた先生が照会を受けたと聞きました。やはり人でつながっているんだなと私も感じますね。
浅羽:「拾って」いただき、ネットワークに入ることで生き残っていく。そういう業界だということが皆さんのお話に如実に表れていますね。
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