記憶の奥の奉天 
 森田拳次

今年も又八月十五日がやってきた。例年のようにその日の古い記憶をたぐりよせると、ラジオから聞こえてくる玉音放送に泣き崩れる大人達の姿、それをとまどいながら見つめる幼い自分にたどり着く。日本が負けたとは聞かされたものの、子供のことゆえさしたる危機感もなく、そっと家を抜け出して眺めた日本人街は不気味な程に静まり返っていた。その何時間後のことだろうか。次の記憶は、日本の敗戦を喜ぶ中国人で賑わう奉天の大通りである。

ゆっくりと進む馬車の荷台には数人の縛られた日本兵が乗せられていて鞭や棒切れで殴られていた。鞭がしなるたび、見物している中国人のどよめきと拍手があたりを揺るがせるのだった。同様な命の危機が、自分を含む満州在住の日本人のすぐそこまで迫っていようとは、その時六歳の私はむろん知る由もなかった。

(八月十五日を6歳、中国奉天で迎えました)



からっぽの空 
 花村えい子

戦争は終りました。日本は負けました。校庭に整列して聴く校長先生のことばをどこか遠く聴いていた。皆泣いていた。

どうして涙がでるのかわからない。戦争ってなんだったのかわからない。空はきのうも今日も変わりはしない。

ふっとゼリー菓子の美しい色がよぎった。とっくに生活のむこうに姿を消したお菓子だ。一度、ほんのすこし、学校で配られた。白いごはんはなく、いもやカボチャが主食だった。甘いものなど見ることさえなかった。ゼリーは宝石みたいだった。家に戻ると母に預けた。病気で寝たきりの祖母の枕元に母は広げた。たった六、七個の、小さな貴重なゼリー。幼い弟妹がわっと寄った。

祖母の口にひとつくらいは入ったろうか。わたしは自分では口にしなかった。もうないのかい?

祖母は小さな声で訴えた。もうないの それっきり。返事は声に出せなかった。

しばらくして 終戦を待たずに祖母は逝った。食べさせてあげたかった。手に入るものなら 食べさせてあげたかった。戦争の終った日 わたしはそのことばかり 考えていた。

 (八月十五日を14歳、埼玉県川越市で迎えました)

 

 






ひまわりが“殺された”八月十五日  石子順

一九四五年八月十五日、中国東北地方の長春、そのころの満州国新京市。僕たちが住んでいる集合住宅の住人の中で、ただ一人残っていた初老男性に赤紙がきて出征することになっていた。母を含めて近所の母親たちは、そのおじさんの送別会を、みんな集まってやりましょうと決めた。それぞれが食べ物を持ち寄って、二階の一つの部屋に集まった。十二時から天皇陛下の玉音放送があるから、それを聞いてお昼にしようということになったらしい。

征するおじさんがカーキ色の協和服を着て左に軍刀をおいて座った。いよいよ玉音放送が始まった。遠く海を越えてくるせいか、雑音がまざって聞きとりにくいとぎれとぎれの言葉は何をいっていのかわからない。と、突然、おじさんが泣き始めた。え? とうと、おばさんたちもしゃくりはじめた。「どうしたの?」母に小声で聞くと「戦争が終わったのよ日本が負けたのよ」と涙声でいった。

を空かせたまま部屋の外に出た。太陽がいつものとおり輝いていて、道路は人気もなく静まりかえっている。階段の踊り場から下を見ていたら、出征するはずだったおじさんが出てきた。手に軍刀を持って階段をそのままおりていった小さな門のわきの小さな庭に、僕たちが植えたひまわりが何本か立っている。大きな花を元気に咲かせている。

と、おじさんは軍刀を抜いた光ったあっと思ったらひまわりの花に斬りつけた。花びらが飛び散った。刀を幹にたたきつけた。ゆらりと揺れて倒れた。人のように倒れた。一本、二本、三本と、倒れた。花びらが地面にいっぱい散らばった。黄色い血のように散らばった。空はあくまでも青く、明るかったが、青ぐさい匂いがした。殺された ひまわりが無残だった。恐ろしかった。大日本帝国が戦争に負けた、という思いが全身をつらぬいた本に帰りつくまでの八年にわたる長い日々がこうして始まった。

  (八月十五日を10歳、中国旧満州で迎えました)