物心のついたときから、両親が聴く音楽はすべて洋楽だったという記憶があります。自然と私も洋楽が好きになり、上手に歌いたいと思うようになりました。小学生の頃、ラジカセで音楽を聴きながら発音を真似、必死でメロディを覚えたことがあります。意味を理解するよりも、好きな音楽を上手に歌うという点に重きをおいていました。この趣味が私の英語好きの原点であったと今、振り返って思います。
中学1年生の時、高円宮杯全日本英語弁論大会の地方大会にクラス代表として選ばれました。県大会を1位通過して臨んだ初めての全国大会では、緊張もあり力及ばず入賞をすることができませんでした。
この悔しさをバネに高校では、ESS部に入部しました。授業以外でもネイティブの先生との交流を積極的に行い、先生の友人を紹介してもらうなど、英語を使う機会を自ら進んで作りました。英語の会話力に関しては、興味から自然に身についたものと感じています。高校1年生で出場した、関西学院大学チャーチル杯争奪西日本高校生英語弁論大会では、周囲は全員帰国子女であったにもかかわらず優勝を勝ち取ることができました。
高校3年間では、様々な英語弁論大会に出場し、近畿大会優勝、滋賀県大会優勝、独協大学杯特別賞受賞という成績を修めました。
立命館大学へは、特技を生かしてAO入試で入学。ただ、入学当初は色々な目標があったものの、1、2回生の頃は殆ど英語に触れない生活をしてしまい、これまで培ってきた英会話力が急激に落ちてしまいました。このままでいいのかと自問自答していた2回生後期に「平和学」のプログラムを受講し、アメリカで2ヶ月間ホームスティをしました。現地では、15年前にベトナムからアメリカへ脱出した、いわゆる『ボートピープル』と呼ばれる女性からその体験談と苦悩の日々について話を聞く機会がありました。この経験から難民問題について興味を抱き、日米における難民受入実態の格差について調べてみようと考え出しました。また、このテーマについて調べたことを英語弁論大会で発表したいという気持ちが盛り上がり、3回生の11月に立命館大学で開催される末川杯争奪全日本学生英語弁論大会への出場を決めました。主に、世界中の難民に対して日本の受入が少ないのはなぜかという点を切り口に、日本の法制度や経済問題、インフラ事情について、ゼミの教授のアドバイスや参考図書を基に論文を作成しました。
当日は、久しぶりの壇上に緊張はしましたが、思い切りスピーチができ、2位受賞をすることができました。
これで、私の大学での英語弁論活動は終了かと考えていたときに、12月に東京大学で開催される安田講堂杯の英語弁論大会についての情報を得ました。第一次がテープ審査であり、あまり期待せずに応募したところ、合格通知を頂き、プレゼンテーションへの切符を手にしました。しかし、この安田講堂杯は学生に限らず、社会人でも留学生でも参加することができ、一切の年齢や国籍を問われない大会でした。発音に自信があるだけでは、社会人との競争では全く歯が立たないのではないかという不安があり、公の場で恥をかきたくないという思いから、大会の1週間前まで出場辞退を考えていました。
そんな私を励まし、背中を押してくれたのは、大学生活を共に歩んできた友人とずっと見守ってくれていた家族でした。「自分が自信を持って調べたことを自分の知っている言葉や単語をすべて使って表現したらいい。他人と比べる必要は全くないよ。」こんなチャンスは2度とないかもしれない、という思いから、大学生活の集大成にと出場を決意しました。
当日は、緊張したものの論文に対しての自信をもっていたため、今までの人生で最高の出来だったと思います。「入賞しなかったとしても学生生活最後の弁論がこの安田講堂杯でよかった!」と達成感に満ちていた時でした。審査員の方から「使っている単語は単純だが、自信をもって話しているので、論文作成に関して十分に調べたというバックグランドが見えてよかった。」との講評を頂き、初めての全国優勝を果たすことができました。
振り返ると、他の学生とのキャリアの違いや帰国子女に拘っていた頃もありましたが、私の英語好きが向上心の源であったと思います。
将来は、英会話力を生かして外資系で働きたいと考えています。ただ、私のスピーチを聞いて、笑ってくれたり、泣いてくれたり、感動してくれたり…、仕事においても、誰かの人生にスパイスを与えられる業務につきたいと考えています。
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