アジア・マップ Vol.02 | バングラデシュ
バングラデシュ農村における飲料水問題
(立教大学 異文化コミュニケーション学部 兼任講師/日本学術振興会 特別研究員(PD)
/立命館大学国際関係学部 授業担当講師)
バングラデシュは、ガンジス川、ブラフマプトラ川、メグナ川の河口に位置し、地域にもよるが雨季の降雨も多いことから水が豊富な国である。飲料水に関しては、人口の約98%が、「基本的な飲み水(供給サービス)」(自宅から往復30分以内で利用可能な改善された水源)の供給を受けている1。しかし、「安全に管理された飲み水」(自宅にあり、必要な時に入手でき、排泄物や化学物質によって汚染されていない改善された水源)に限定すれば、バングラデシュで利用可能な人口は約59%に低下する2とともに、利用可能な水源と水質は国内の地域によって大きな差がある。なお、バングラデシュでは、1971年の独立以前から飲料水問題の解決に向けた取り組みが行われてきた。アクターとしては、同国政府機関や他国の政府系援助機関、国際援助機関、非政府組織(Non-governmental Organization: NGO)、社会的企業、そして個人が含まれる。以下では、バングラデシュ農村における飲料水問題を課題別に捕捉するとともに、近年に実施されている取り組みについて筆者の調査地である同国南西部農村の事例を紹介する。
地下水砒素汚染
バングラデシュは最大の地下水砒素汚染国であり、2019年時点で約2,750万人が砒素汚染の危険に曝されている3。この原因には、バングラデシュでは人口の約86%が井戸から飲料水を得ている4ことが挙げられる。バングラデシュと国境を接するインドの西ベンガル州では、1987年に砒素中毒患者が発見され、バングラデシュでも1993年に北西部のチャパイ・ナワブガンジ県で最初の砒素中毒患者が発見された。このため、チョットグラム丘陵地帯を除く全土で井戸の水質調査が行われ、当時において設置された井戸のうち25%がバングラデシュの飲料水基準(0.05 mg/L)を、42%で世界保健機関(World Health Organization: WHO)の飲料水基準(0.01 mg/L)を超過していることが明らかとなった5。
以上のように、バングラデシュで井戸が普及している要因としては、伝統的に飲料水源として利用されてきた池が細菌などにより汚染されており、多くの死者が発生していたこと6が挙げられる。このため、バングラデシュでは安全な飲料水を供給する目的とした井戸の掘削が英領期より実施されてきた。また、このような取り組みは、パキスタン期やその後の独立後も継続的にバングラデシュ政府機関、国際援助機関、NGOによって行われた7。しかし、バングラデシュでは安全な飲料水供給を目指した取り組みが、別の飲料水問題を引き起こし、それが現在に至るまで残存しているのである。
表流水汚染
先述のように、バングラデシュでは井戸の掘削が行われてきたが、現在においても表流水汚染は同国における深刻な飲料水問題の原因のひとつとして残存している。この結果、バングラデシュでは、下痢による死亡率は10万人当たり7.5人であり8、その他の水系感染症(赤痢、腸チフス、コレラなど)も特に農村部では発生が確認できる。
このような水系感染症の原因としては、バングラデシュでは人口の約40%が大腸菌に汚染された飲料水を利用していること9が挙げられる。先述のように、バングラデシュでは伝統的に池が飲料水源として利用されてきた。しかし、この池は飲料水以外にも、洗濯、沐浴、養魚など多目的に利用されているため、飲料水としては適さない水質となっている場合が多い10。また、トイレが飲料水源である池の近くに設置されていることも、表流水汚染の原因のひとつとされている11。
また、バングラデシュは災害常襲地に位置する国であり、特に毎年襲来するサイクロンは同国沿岸部地域の飲料水供給に深刻な影響を及ぼしている。これは、サイクロンにより洪水が生じることで飲料水源が汚染されるためである。
沿岸部地域における塩害
バングラデシュ沿岸部地域では、地下水砒素汚染や表流水汚染に加えて、地下水や表流水における塩害が極めて深刻である12。この背景には、バングラデシュ沿岸部地域に常習するサイクロンにより生じる高潮13や、同地域で盛んに実施されているエビなどの養殖業の影響14がある。このような塩害については、塩分の過剰摂取による人体への悪影響が指摘されている15。
なお、バングラデシュの飲料水問題では地下水砒素汚染への注目度は高い傾向にあり、学術研究や政府レベルの政策も数多く実施されてきたが、沿岸部地域の塩害についてはこれら両方において限定的であった16。この背景には、バングラデシュ沿岸部地域が経済的に周辺化される傾向にあったことから、開発の対象としての優先度が低くなっている可能性が考えられる。
しかし、近年では環境問題などへの関心の高まりから、バングラデシュ沿岸部地域の塩害についての注目が集まり始めている。したがって、今後においては学術研究や開発援助の実施がなされ、塩害に対応した給水施設の設置や住民のエンパワーメントが行われることが期待される。
近年におけるバングラデシュ南西部農村での飲料水供給の取り組みの傾向
以下では、筆者の調査地であるバングラデシュ南西沿岸部農村を事例とし、近年においてどのような飲料水供給の取り組みが行われているのか、またそれらの成果や課題にはどのようなものがあるのかについて概説する。
バングラデシュ南西部農村では、近年において商業的手法を導入した飲料水供給が盛んに実施されるようになっている。例えば、NGOや社会的企業が雨水を貯水するためのタンクを寄付ではなく販売によって提供している(写真1、写真2)。雨水は基本的に汚染物質を含まない水源であり、適切に採水および貯水がなされれば安全な飲料水を供給することができる17。WHOと国際連合児童基金による「水と衛生共同モニタリング・プログラム」においても、雨水は「改善された水源」としてその普及が推奨されている18。雨水貯水タンクに加えて、水中の水分子以外のすべてを除去できる逆浸透膜を用いて地下水を濾過し販売する事例も近年において増加している19。このような水の販売店はNGOや個人によって経営されており(写真3、写真4)、これらの店では購入世帯への水の宅配サービスが実施され、多くの村人が利用するようになっている(写真5)20。
確かに、一定の金額を支払って財やサービスを購入する行為は、それらに対するオーナーシップの醸成に寄与するとされている。実際に、社会的企業が提供した雨水貯水タンクではオーナーシップが醸成され、適切に維持管理や利用がなされている事例もある21。また、逆浸透膜を用いて濾過した地下水の販売に関しては、宅配によって水が得られるため、水汲みを行わなくて良いという肉体的・精神的負担の軽減や利便性から利用する住民が増加しているのではないかと考えられる。
しかし、飲料水供給における商業的手法の導入には、貧困層の排除という側面が存在することを軽視してはならない。実際に、NGOから雨水を貯水するタンクを購入できているのは、基本的には中間層以上であった22。また、社会的企業についても、購入世帯は非購入世帯に比べて所得や教育水準が高い傾向にあった23。
したがって、今後のバングラデシュ農村における飲料水供給を考える際には、アクセスにおける不平等や住民の利用可能性について考慮する必要がある。これは、「Leave No One Behind」という理念を掲げる持続可能な開発目標の達成や、今後に採択される新たな開発目標を考える際にも重要な視点である。
1World Health Organization and United Nations Children’s Fund. Data Bangladesh. https://washdata.org/data/household#!/bgd. (Access date January 6, 2025).
2同上。
3UNICEF Bangladesh. 2021. Bangladesh MICS 2019 Water Quality Thematic Report. Dhaka: United Nations Children’s Fund, Bangladesh.
4Bangladesh Bureau of Statistics. 2022. Population & Housing Census 2022: Preliminary Report. Dhaka: Bangladesh Bureau of Statistics, Government of the People’s Republic of Bangladesh.
5British Geological Survey and Department of Public Health Engineering. 2001. Arsenic Contamination of Groundwater in Bangladesh. Keyworth: British Geological Survey.
6UNICEF Bangladesh. 2000. Arsenic Mitigation in Bangladesh. Dhaka: United Nations Children’s Fund, Bangladesh.
7同上。
8World Health Organization. 2021. World Water Day 2021: Speech by Dr Bardan Jung Rana, WHO Representative to Bangladesh. https://www.who.int/bangladesh/news/detail/22-03-2021-world-water-day-2021. (Access date January 6, 2025).
9UNICEF Bangladesh. 2021. 上掲報告書。
10酒井彰、髙橋邦夫、坂本麻衣子、2011、「バングラデシュ農村地域における安全な水供給と衛生改善による生活環境改善計画の策定に関する研究」、『地域学研究』、第41号、第3巻、811-825頁。
11吉田勲、原田昌佳、2005、「バングラデシュ農村における生活用水の調査研究」、『鳥取大学農学部研究報告』、第57巻、3-8頁。
12Bangladesh Water Development Board. 2021. Long Term Monitoring, Research and Analysis of Bangladesh Coastal Zone (Sustainable Polders Adapted to Coastal Dynamics). Bangladesh Water Development Board, Ministry of Water Resource, Government of the People’s Republic of Bangladesh.
13Tsai, C., Hoque, M. A., Vineis, P., Ahmed, K. M., and Butler, A. P. (2024). “Salinisation of Drinking Water Ponds and Groundwater in Coastal Bangladesh Linked to Tropical Cyclones.” Scientific Reports. Vol. 14. No. 1. pp. 5211-5211.
14Haque, A. K. M. M., Jahan, S., and Azad, M. A. K. 2010. “Shrimp Culture Impact on the Surface and Ground Water of Bangladesh.” Iranian Journal of Earth Science. No. 2. pp. 125-132.
15Khan, A. E., Ireson, A., Kovats, S., Mojumder, S. K., Khusru, A., Rahman, A., and Vineis, P. 2011. “Drinking Water Salinity and Maternal Health in Coastal Bangladesh: Implications of Climate Change.” Environmental Health Perspectives. Vol. 119. No. 9. pp. 1,328-1,332.
16山田翔太、2023、『バングラデシュの飲料水問題と開発援助―地域研究の視点による分析と提言―』、英明企画編集。
17World Health Organization. 2000. Towards an Assessment of the Socioeconomic Impact of Arsenic Poisoning in Bangladesh. Geneva: World Health Organization.
18World Health Organization and United Nations Children's Fund. 2017. Progress on Drinking Water, Sanitation and Hygiene: 2017 Update and SDF Baselines. Geneva: World Health Organization.
19山田翔太、2024、「バングラデシュ南西沿岸部の飲料水供給における逆浸透膜を用いた給水施設の増加―NGOの取り組みの変化と個人によるビジネス機会の拡大―」、『ボランティア学研究』、第24号、33-46頁。
20同上。
21村瀬誠、2015、「バングラデシュの飲み水の危機を救う持続可能な天水活用の推進」、『水利科学』、第59巻、第3号、36-52頁。
22山田翔太、2024、前掲書。
23山田翔太、2017、「バングラデシュにおける社会的企業による飲料水問題の解決―Skywater Bangladesh (SB) Ltd.を事例に―」、『立命館国際関係論集』、第16巻、85-107頁。
書誌情報
山田翔太《総説》「バングラデシュ農村における飲料水問題」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, BD.1.02(2025年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/bangladesh/country