アジア・マップ Vol.02 | 日本

《総説》日本という国
成人してから日本語を学び始める経験と成果

クルソン・デビッド (立命館大学言語教育情報研究科・教授)

 イギリスで単一言語の家庭で育ちました。12歳の時、初めて海外旅行を経験しました。家族とともにドーバー海峡を渡り、フェリーでフランスに半日滞在しただけの遠足の様でした。そこで、アイスクリームの屋台を見つけ、初めてフランス語を使ってアイスクリームを買いました。この経験が自信となり、その後も外国語を学び続ける意欲を高めました。10代の間、そして大学でもフランス語を学び、フランスへ一年間留学をしました。しかし、大学を卒業してから突然、新しい言語を学びたいという気持ちが湧き上がりました。

 1991年に、日本への渡航の機会が訪れました。新潟県佐渡市で、外国語指導助手(ALT)としての仕事に就いたためです。その時、私は日本語を一言も知りませんでした。しかし、幸運にも、私が働いていた学校の先生方がとても親切で、少しずつ日本の教育理念に慣れていきました。そして、高校生に英語を教えることを楽しむようになりました。今でも、30年以上前の新潟の生徒と連絡を取り合っています。ALTとしての最終日には、同僚に見送られました(写真1)。今でも、佐渡市で知り合った同僚の一人とは非常に親しい友人関係が続いています。

写真1

写真1. 1994年、佐渡高等学校の親切な同僚たち。

 当時は、まだ日本語をうまく話せなかったことに苦悶しましたが、彼らの親切さと温かさのおかげで、日本に対して強い絆を感じ、この素晴らしい国に引き続き住むことを決意しました。

 幸運にも、新潟県に3年間住むうちに少しずつ新しい言語に慣れていきました。そのため、正式に日本語を勉強する必要があると感じ、1994年に日本学の修士課程に進むためにイギリスに戻ることを決めました。当時の日本では政治的な不安定さがあり、私の修士課程指導教員は日本政治の専門家でした。これに大いに興味を持ち、卒業論文のテーマにすることを決めました。

 幸運にも、コースの半分は大阪外国語大学(後に大阪大学に変更)で行われました。大阪では、Gさんという素晴らしいご一家にホームステイすることができました。特に、ホストマザーは、私に多くの日本語を教えるために尽力してくれました。彼女は棚から分厚い紙の辞書を取り出し、新しい単語の例文を読み上げて、私が学ぶべき言葉を教えてくれました。彼女も政治に興味があり、私の研究に協力して、大阪の摂津市長である森山氏を紹介してくれました。

 森山さんは写真2に写っています。私は当時の日本の政治状況に関する質問リストを入念に準備し、Gさんがそれを日本語に翻訳するのを手伝ってくれました。もちろん、当時は日本語を話すことだけでなく、読むことにも自信がありませんでした。インタビューの際、森山市長の回答を録音し、Gさんがその内容を文字起こししてくれました。この日本語を使った経験は、私に大きな自信を与え、日本語学習を続ける意欲を高めました。

写真2

写真2. 森山摂津市長とのインタビュー中、左側に写っているのは下司さんです。

 このインタビューの写真を論文に掲載し、その上には森山市長のコメントを引用した文章を置きました。このように日本語を実際に使うことで、私は自信を持ち、日本語を効果的に使えるという確信を得ました。

 卒業論文のデータ収集の一環として、日本の政治状況に関する日本国民の意見を調査するため、日本語でアンケートを配布しました。そのために、毎日大阪駅に行き、通りすがりの人々にアンケートに記入してもらうようお願いしました。

 この修士課程を修了した後、幸運にも新潟県の大学で英語を教える仕事に就くことができました。少しずつ、日本語を日常言語として学び使うことに自信が持てるようになりました。また、新潟で妻と結婚できたことは大変恵まれていました。妻は常に私の日本語学習を支えてくれ、そのおかげで積極的に学び続ける自信を得ることができました。

 年月が経つにつれ、その地域で友人や新しい知り合いのネットワークを築くことができました。このネットワークの一部として、2008年に新潟と横浜でG8サミットが開催された際、地元の外国人住民の声を集めるために新聞記者が我が家を訪問しました。私は新潟外国籍委員会のメンバーだったことから、イギリス代表として選ばれました。記者が来る前に、私たちはイギリスの伝統的な料理であるシェパーズパイを準備しました。

 私は記者の質問に日本語で答え、このパイ料理を一緒に頂きました。自分と家族の写真が新潟日報の一面に掲載されたときは非常に驚きました(写真3)。この出来事は、私にとって貴重な経験となり、日本社会との一体感を感じるきっかけとなりました。言語学習の心理学において、統合感は進歩を促す非常に重要な要素となることがあります。私はこの点で非常に恵まれていました。

写真3

写真3. 新潟県の新聞の一面に掲載された私と家族です。

 さらに、私は新潟県の公安委員会の最初の外国籍メンバーに選ばれました。日本での外国人としての生活に関する私の見解を警察に対して日本語でプレゼンテーションするよう依頼されました。新潟県庁で行われたそのプレゼンテーションには、数百人の警察官が出席しました。非常に緊張しましたが、前述のような経験が自信を育ててくれるものであり、今では達成感を持って振り返っています。

 さらに驚いたことに、プレゼンテーション終了後、NHKのニュース記者が私に近づいてきて、いくつか質問されました。そのときも驚きましたが、できる限り正しい日本語で話そうと努めました。もちろん、完璧には話せませんでしたが、この経験もまた、日本社会への所属感を高めるきっかけとなり、日本語を上達させる上で非常に重要な役割を果たしました。

 過去10年間、私は立命館大学の言語教育情報研究科で院生指導に当たっています。多くの日本語の会議に出席する必要があり、これもまた私の日本語能力の向上に役立っています。私は、英語教育や日本語教育を学ぶ院生に指導も行っています。日本での大きな成果の一つは、院生に対して英語だけでなく日本語でも研究指導を行えるようになったことです。初めて日本語で院生の研究を指導したときは、非常に躊躇し、緊張しました。しかし、その戸惑いの中でも一つのテーマを掘り下げることで、研究指導の達成感と強い充実感を得ることができました。

写真4

写真4では、日本語教育コースを卒業した学生の隣に私が立っています。

 結論として、私は20代前半に日本にたどり着いたことを非常に幸運に思っています。言語学の理論によれば、20代に達した後に新しい言語を学ぶのは、十分に上手に学ぶには遅すぎると言われていますが、近年ではこの見解の有効性は当初考えられていたよりも低いことが示されています。実際には、決意と動機があれば、新しい言語をうまく学び、それを使って新しい社会に深く関与し、新しい国で強い充実感と帰属意識を感じることが可能です。

 私は日本で「生まれ変わった」ことをとても嬉しく思っています。もちろん、私の日本語は完璧とは言えません。しかし、非母国語のアクセントで別の言語を話すことは、その言語のコミュニケーション機能が果たされていれば問題ではありません。これらは、私が今最も納得している言語学の考え方です。今後も、学生たちが英語学習に対して前向きな視点を持てるように、私のキャリアの残りの期間、最善を尽くして指導を続けていきたいと思います。

書誌情報
クルソン・デビッド《総説》日本という国「成人してから日本語を学び始める経験と成果」『アジア・マップ:アジア・日本研究Webマガジン』Vol.2, JP.1.03(2024年00月00日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol02/japan/country/